重要な意思決定
19873月

いすゞと北米現地生産の合弁会社を設立(IF提携)

背景

日米貿易摩擦と円高が迫った北米現地生産という選択肢

1980年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、日本政府によって自動車の対米輸出台数が制限・管理される状況となった。加えて1985年のプラザ合意を契機に円高ドル安が急速に進行し、日本で生産した乗用車を北米に輸出する際の採算が大幅に悪化した。輸出台数の規制と為替の逆風という二重の制約は、北米市場で事業を展開する日本の自動車メーカーに対して現地生産への移行を事実上強いるものであった。

トヨタ・日産・ホンダといった大手完成車メーカーは、北米における販売網と販売台数をすでに確保しており、現地生産の採算ラインとされる年産20万台を単独で達成できる見通しがあった。しかし中堅メーカーの富士重工にとって、北米での年間販売台数は20万台に遠く及ばず、単独での現地生産は投資規模に見合わない状況にあった。現地生産を行わなければ北米市場での存続が困難になる一方、単独で進出すれば採算割れのリスクを抱えるという板挟みに直面していた。

同様の課題を抱えていたのがいすゞ自動車であった。いすゞも北米での販売規模が限られており、単独で量産工場を建設・運営する体力に乏しかった。富士重工の大株主は日産、いすゞの大株主はGMであったが、日産は富士重工の北米進出を積極的に支援する姿勢をとらず、GMも北米の労使問題に直面して余裕がなかった。系列の親会社から支援を得られないという共通の制約が、異なる企業グループに属する両社を結びつける契機となった。

決断

系列を超えた合弁で北米工場を新設しIF提携を開始

1986年、富士重工の田島社長といすゞ自動車は、北米に共同で乗用車量産工場を新設し現地生産を行うことを発表した。両社はそれぞれ単独では年産20万台の販売量を確保できないため、協業によって生産台数を積み上げ、量産効果により現地生産の採算を成立させることを意図した。富士重工といすゞの頭文字をとって「IF提携」と名づけられたこの協業は、乗用車市場の下位メーカー同士が系列を超えて手を組んだ類例のない取り組みとして注目を集めた。

合弁会社「スバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)」を設立し、出資比率は富士重工が51%、いすゞが49%とした。工場はインディアナ州ラフィエットに建設され、設備投資額は2社合計で800億円を計画した。生産車種は富士重工の4WDレオーネ(年産6万台)と、いすゞのファスター・ビッグホーン(合計年産6万台)であり、当初は年産12万台の体制から開始し、将来的に24万台への拡大を見込んだ。

工場は計画通り1989年11月に竣工し、北米における現地生産が始まった。損益分岐点は年産15万台と見込まれていたため、当初の12万台体制では採算に乗らないことが織り込まれていた。富士重工にとっては、短期的な収益よりも北米市場に生産拠点を確保すること自体が戦略的な優先事項であり、段階的に生産台数を引き上げて採算化を目指す計画であった。

結果

北米生産拠点の確保と2002年の協業解消という帰結

IF提携は富士重工にとって、単独では実現し得なかった北米生産拠点の獲得という成果をもたらした。インディアナ州の工場は、後に富士重工が北米市場で販売を拡大する際の生産基盤として機能することになる。大手メーカーのように自前で大規模工場を建設する余力がない中堅メーカーが、協業というスキームを通じて北米現地生産の切符を手にした判断であった。

一方で、IF提携は当初の想定通りには進まなかった。工場稼働直後に米国の景気が冷え込み、富士重工・いすゞの両社とも北米での販売が低迷した。年産15万台の損益分岐点を超えられない状態が続き、SIAの赤字が富士重工の連結業績を圧迫する局面が生じた。異なる車種・異なる販売網を持つ2社が1つの工場を共有する運営は、生産計画の調整において難しさを伴うものでもあった。

最終的に2002年12月、富士重工といすゞは北米現地生産の協業を解消した。提携から15年が経過する中で、両社の北米戦略は異なる方向に発展しており、共同生産を続ける合理性が薄れていた。しかし、この提携を通じて富士重工が手にしたインディアナ州の生産拠点は、協業解消後もSUBARU単独の北米工場として稼働を継続し、後の北米販売拡大を支える中核的な資産となった。