歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1911年11月、欧米からの輸入医薬品が市場を握る明治末期に、市野瀬潜が京都で個人商店「京都新薬堂」を開いた。輸入された薬を医家や薬種商へ卸す事業で成り立ち、帝国大学を擁する学術都市・京都の立地が、のちの研究志向の土壌になった。1919年10月、内貴清兵衛らと法人化して日本新薬へ改め、壬生に本社と工場を構えたが、扱う薬の多くはなお海外からの輸入に依っていた。
決断輸入卸という出自を断ったのが、自社研究による医薬の国産化だった。1926年から回虫駆除薬サントニンを含む薬用植物を探し、京都・壬生で見出した「みぶよもぎ」から1929年に結晶を抽出、1940年に国産サントニンを世に出して、海外の薬を流す商店から自ら薬を創る製薬会社へ転じた。この成功が研究開発を会社の中心に据え、戦後に京都・大阪・東京で得た上場資金を、研究施設へ順に投じる経営につながった。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1919年に輸入卸の京都新薬堂を法人化して日本新薬としたのか
- A 京都新薬堂が扱った薬の多くが高価な輸入品で、その筆頭が回虫駆除薬サントニンだったからである。市野瀬潜は輸入特効薬の国産化を見据え、海外の薬を医家や薬種商へ流す商店から自ら薬を創る製薬会社へ向かうため、1919年10月に内貴清兵衛らと法人化して日本新薬とした。帝国大学を擁する学術都市・京都の立地が、輸入卸から研究志向の製薬業へ転じる土壌になった。
- Q なぜ1926年から薬用植物を探し1940年に国産サントニンを発売したのか
- A サントニンの原料はロシアが種苗の国外持ち出しを禁じて独占し、日本は高価な輸入に頼っていたため、国産化が急務だったからである。1926年から薬用植物を探し、欧州産の品種を京都・壬生で育てて1929年に花蕾からサントニン結晶2.4gを抽出、これを「みぶよもぎ」と命名した。10年近い栽培と製造の確立を経て1940年に国産サントニンを発売し、輸入卸の商店から自社研究で薬を創る製薬会社へ転じた。
- Q なぜ2020年代に核酸医薬ビルテプソを自社で各国市場へ届ける体制を築いたのか
- A 希少疾患の核酸医薬を他社へ託さず自社で各国へ届けるためである。デュシェンヌ型筋ジストロフィー治療薬「ビルテプソ」は国立精神・神経医療研究センターと共同創製したエクソン53スキップ薬で、2020年の米国FDA承認後、米子会社NS Pharmaが単独で販売する同社初の海外自社販売となった。中井亨社長のもと2021年に中国子会社を設け、2022年4月にプライムへ移り、販売網を各国市場へ組み立てている。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1911年〜1948年 京都新薬堂からサントニン国産化まで
輸入販売の個人商店から法人化への踏み出し
1911年11月、市野瀬潜が京都で個人商店「京都新薬堂」を創業した[1]。明治末期から大正初期にかけて、欧米から輸入される医薬品の卸販売を主な事業として始まり、京都という古都ながら学術都市の立地が、後年の研究開発志向につながった。この個人企業を前身に、1919年10月、市野瀬潜と内貴清兵衛らが資本金50万円の株式会社として改組設立し、社名を日本新薬株式会社へ改めた[2][3][4][5]。輸入商社から国産製薬会社へ生まれ変わるための法人格を整え、京都市下京区壬生下溝町に本社・工場を構えた[6]。翌1920年5月には壬生の本社事務所と工場で皮膚薬ピチロール、催眠薬ブロバリンなどの製造を始め、輸入医薬品を卸す商店から自社で薬を製造する医薬品メーカーへ転じていった[7]。
1926年4月から、回虫駆除薬サントニン含有の新植物の探索が始まった[8]。1929年8月、自社は新植物の花蕾から国産サントニン結晶2.4gを抽出することに成功し、その新植物を「みぶよもぎ」と命名した[9][10]。1934年5月、京都市西大路八条に西大路工場を設置し、1935年2月には薬用植物研究のため山科研究圃場(現山科植物資料館)を整備した[11][12]。輸入依存の事業構造から、自社研究で国産化を目指す方向へ方針を変える時期で、薬用植物の栽培から成分抽出までを日本新薬で担う体制を構築している。
国産サントニン発売と戦時期の生産拡張
1940年5月、1926年の探索開始から実に15年に及ぶ研究の末に、国産サントニンを発売した[13][14]。輸入依存から脱却した自社製造の回虫駆除薬として量産販売を開始し、日本新薬の事業基盤を確立する画期となった。同年9月に大阪支店(現関西支店)を設置し、1944年10月にはサントニン現地生産のため札幌工場を設置している[15][16]。戦時期の医薬品需要拡大と国産化政策のなかで、京都本社・大阪支店・札幌工場の三拠点体制を整え、医療用医薬品メーカーとしての地位を得た。
戦時期の生産拡張は、戦後の事業基盤の礎となった。1948年に商店の医薬品製造部門と医薬硝子資材部門を分離して株式会社化する小野薬品工業と異なり、日本新薬は早期に株式会社化を済ませた優位性を活かし、戦後の混乱期にも事業の連続性を保った。1944年10月設置の札幌工場は後の1990年9月に閉鎖されるが、戦時期に整えた複数拠点の生産体制が、戦後の医薬品需要拡大に応える基盤となった[17]。
1949年〜2001年 京都・大阪・東京の三市場上場と多角化
三市場上場と機能食品事業への進出
1949年6月、戦後復興期に京都証券取引所に株式上場した[18]。1956年3月、大阪証券取引所に株式上場し、1962年9月には東京証券取引所にも上場した[19][20]。京都・大阪・東京の三市場上場を13年で完了し、全国市場での資金調達基盤が整った[21]。京都を本拠としつつ、関西から全国へ事業を広げる足場が証券市場面で揃った時期である。
1960年8月、黒石製薬株式会社(現連結子会社シオエ製薬株式会社)と提携し、医薬品事業の補完関係を整えた[22]。1961年5月、食品事業へ進出し、スパイス工場を建設して粉末香辛料「スパイス・ケンダ」を発売した[23]。第1号製品で機能食品事業を立ち上げ、医薬品単一事業から多角化への重要な転換点となった。1962年4月に新研究所(現創薬研究所3号館)、1962年7月にローヤル・モーターズ株式会社(現連結子会社日本新薬アドバンス株式会社)の設立と、研究開発と関連事業の拡張が連続している[24]。
研究開発投資の本格化と海外展開の開始
1964年7月、東日本の医薬品生産拠点として小田原工場を設置した[25]。1966年12月、食品専門工場として盛岡工場を設置し、1970年10月には食品技術研究所(現食品開発研究所)を設置している[26][27]。1970年代以降は研究開発投資が本格化し、1982年3月の中央研究所本館(現創薬研究所1号館)、1994年4月の西部創薬研究所2号館、1997年6月のつくば市東部創薬研究所と、1982年から1997年にかけて研究施設の拡張が続いた[28][29][30]。
1991年4月、デュッセルドルフ事務所を開設した[31]。1997年10月にニューヨーク事務所を開設し、1999年7月にNS Pharma, Inc.として現地法人化した[32][33]。米国・欧州への足場づくりが90年代に始まり、後年の核酸医薬「ビルテプソ」のFDA承認とグローバル展開を支える基盤となった。研究開発拠点と海外現地法人を積み上げていく経営手法が、日本新薬の伝統的な事業運営として定着した。
2002年〜2026年 核酸医薬と希少疾患領域への集中
小田原総合製剤工場への集約と新規モダリティの開始
2001年2月、小田原工場敷地内に新製剤棟を設置し、医薬品製剤の生産機能を小田原工場に集約化した[34]。同年、小田原総合製剤工場と改称し、医薬品製剤の一貫生産体制と高生理活性物質対応の隔離設備を備えた[35]。2006年4月にラプラスファルマ株式会社を連結子会社として設立(2009年10月解散)、2011年12月に北京事務所を開設(2023年1月閉鎖)するなど、子会社・海外拠点の構築・撤退を試行しながら、研究開発の重点領域を絞り込む時期だった[36][37]。
2016年3月、本社敷地内に治験原薬製造棟を設置した[38]。2017年7月、小田原総合製剤工場敷地内に高生理活性固形製剤棟を設置するなど、新規モダリティ(核酸医薬・希少疾患用医薬)の製造体制への投資を本格化した[39]。研究開発投資の蓄積が、核酸医薬「ビルテプソ」(デュシェンヌ型筋ジストロフィー治療薬)の米国FDA承認(2020年)として結実し、グローバル創薬企業への足場が整った[40]。
中国市場進出とプライム市場移行
2021年9月、中国現地法人 北京艾努愛世医薬科技有限公司を設立した[41]。同年11月、中国現地法人 天津艾努愛世医薬有限公司を設立し、中国市場での生産・販売体制を構築している[42]。2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場へ移行した[43]。2023年1月、北京事務所の事業を中国子会社へ移管し、NS Pharma, Inc.がマサチューセッツ州ケンブリッジに新オフィスを開設するなど、グローバル研究開発体制の刷新が進んだ[44][45]。
2025年3月期は売上高1,602億円・営業利益354億円・親会社株主に帰属する当期純利益325億円と過去最高水準を更新した。中井亨社長のもと、核酸医薬「ビルテプソ」のグローバル展開と泌尿器・血液腫瘍領域の強化を主軸に据える経営方針が継承されている[46]。1911年の京都新薬堂創業から114年、サントニン国産化(1940年)と核酸医薬グローバル展開(2020年)の2回の事業構造変革を経て、医薬・機能食品の両輪と海外展開の三本柱が、次の100年への布石として整っている[47]。