市野瀬潜は、輸入新薬を医師へ直に説いて回る職能を先に身につけ、それを元手に独立した人物である。明治末年の京都では、薬舗と称しても和漢薬や家伝薬を扱う店が大半で、蛤貝に詰めた膏薬や丸薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった。そのなかで市野瀬は薬種商である織田自然堂の支配人として、補血滋養剤ヘマトパンなど当時としては目新しい新薬を任され、関東から九州まで自ら回って医家を訪ねた。1910年には常用新薬の定価表を全国の病院と開業医家へ無料で配り、求めに応じて見本を提供している。薬の効能を医師へ直接説く職種が日本の薬業に根づきはじめたのは、ようやく明治の末から大正の初めにかけてのことだった。1911年、市野瀬はヘマトパンの商標を自らの名義へ移したうえで、京都新薬堂を開いた。
京都新薬堂が製造業へ移ったのは、第一次大戦で輸入医薬品が途絶えたときだった。大戦の末期には医薬品の欠乏が国民の医療に支障をきたし、国産医薬品を求める声が高まっていた。市野瀬潜は京都財界の有力者から支援を得て、1919年10月、個人経営だった京都新薬堂を資本金50万円の株式会社へ改組した。払い込みは4分の1にとどまっており、手元の資金が潤沢だったわけではない。翌1920年5月には京都の壬生に本社事務所と工場を構え、皮膚薬ピチロールと催眠剤ブロバリンの製造を始めた。輸入品を取り次いで売る側から、自らつくって売る側へ回ったのである。
ところが製造へ回った直後に、参入の前提が崩れた。1920年の戦後恐慌で情勢は一変し、勢いを盛り返した輸入医薬品との競争が重なって、日本新薬は苦境に立たされた。輸入が止まるから国産が要るという条件は、講和とともに消えたのである。それでも研究は手放さず、科学的な基礎に立脚した新薬を順次提供することで、この局面に対処した。1920年春から続く慢性不況のなかで、会社は「堅実漸進」を経営の方針に据えた。競争の焦点を規模の拡張ではなく、他社が持たない製品を時間をかけて育てる側へ移したことになる。
日本新薬が狙いを定めたのは、駆虫薬サントニンだった。サントニンはソ連の独占品で、原料となるアルテミシア・シナは国外へ持ち出すことが禁じられていた。一方の日本は寄生虫王国と呼ばれるほどで、蛔虫の感染は都市にも農村にも広がっており、需要は国内にあるのに供給源は他国が握っている状態だった。日本新薬が最初に調べ尽くした日本産のヨモギ60余種には、サントニンは少しも含まれておらず、外国のヨモギを何種か取り寄せて育てる試みもみな失敗した。
ロンドンで出ていた薬業雑誌を1926年11月に調べていた取締役技師長の高田桂が、ドイツのチューリンゲン地方でアルテミシア・シナが栽培されているとの記事を見つけ、社外から突破口が開けた。記事は市野瀬潜の手で、スウェーデンで外交官を務めていた親戚の出納功に送られ、現地での調査と種子の入手が頼まれた。苦労の末に出納がストックホルムの種苗店で入手した種子は2グラム、約3000粒で、1927年3月5日に市野瀬の手元へ届いた。これを播いて育ったのは60本ほどで、秋まで残ったのは30株ほどにとどまった。1929年8月23日、研究部長の伏見新造らが乾草2.68キログラムから3.5グラムの物質を抽出し、市野瀬が自ら試服して黄色く見える視界からサントニンだと確かめた。壬生の地に根を下ろしたヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと名づけられた。
確認できても、増やせなければ薬にはならない。内地ではミブヨモギの種子がほとんど採れず、増殖は芽分けと挿木に頼るほかなかった。サントニンは花蕾にもっとも多く含まれ、その含有量は0.2から1.5パーセント、しかも開花すれば花も葉も茎も含量を失うため、収穫の時期を外せない。日本新薬は会社の裏畑から始めて、1931年には西院の山の内に畑地を借り、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培に入った。1932年、市野瀬潜は国が事業として取り上げるなら種苗をすべて政府へ寄贈してよいと申し出たが、内務省の技師は私企業のほうが事業の責任遂行に適していると答えている。翌年には栽培研究奨励金の交付が決まり、第1回として2000円を受け取った。原料の栽培そのものを自ら抱え込む道は、このとき定まった。
研究を製品へ変えたのは、抽出を工場の規模で回せる装置だった。1938年3月、本社工場にあった抽出精製の設備はすべて分工場へ移された。翌1939年3月には分工場で工業的中規模のタンク式連続抽出機が完成し、一日およそ130キログラムの原料を仕込んでサントニンの結晶を約300グラム得られるようになり、同年7月には抽出法の特許を取得している。そして1940年5月10日、日本新薬は国産サントニンを初めて発売した。最初の販売量は100キログラム、当初から公定価格が決められ、1キログラム当たり620円だった。原草の探索に着手してから14年が経っていた。
ただしタンク式は仕込みと粕出しが手動で、人手を多く要し、有機溶剤の損失も比較的多かった。日本新薬は大豆油や糠油、カフェイン、除虫菊など類似した工業の抽出装置を見学して回ったが、いずれも原料が違うために参考にならなかった。転用できたのは理化学研究所で研究中だった自動糠油抽出機で、浸出を三段式から四段式へ改良してもらう条件をつけ、1939年6月に買入契約を結んだ。この理研式連続抽出機は1940年12月、分工場から改称した西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に要する人手を5、6人まで減らした。もっとも良質な鋼鉄の不足から付属品に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月である。
陸軍衛生材料本廠は1943年11月5日、有機溶剤はもう供給を約束できないとして、別の抽出法を研究して早急に設備を整えるよう求めてきた。専務の森下弘らは他社のコカ葉やカフェインの工場を見て回り、水浸法で大量に抽出する研究を始め、1944年10月には原料産地の北海道に札幌工場を新たに建てた。だが食糧が足りないなかでミブヨモギの畑は次々と食用作物に切り替えられ、サントニンはほぼ生産できない状態のまま終戦を迎えたのであり、戦争は溶剤に続いて畑も奪った。1946年、市野瀬潜は会長に退き、森下弘が社長に就いた。森下は翌1947年1月から新しい機構を発足させ、人事課と総務部を設けて、創業者の個人経営の色を残す組織を近代経営の軌道へ乗せた。
戦後の日本新薬を立て直したのは、国の保健政策だった。終戦直後の食糧事情と衛生環境の悪化を背景に、全国の蛔虫感染率は1949年の62.9パーセントを最高として、前後の年も60パーセント前後の高率で推移していた。厚生省は1948年11月8日に駆虫対策五カ年計画を発表したが、その中身は駆虫剤の供給を増やす対策そのものだった。蛔虫駆除薬の主役であるサントニンを国内で唯一つくっていた日本新薬は、この計画に対応して独自の増産五カ年計画を立て、原草ミブヨモギからサントニンまで一貫した増産を進めた。1949年6月には京都証券取引所へ株式を上場し、増産に必要な資金を市場から取れる形にしている。国の政策目標と自社の主力製品が正面から重なる、まれな局面だった。
増産の成果は、競争相手を呼び込むことでもあった。1951年8月28日にサントニンの配給統制が解かれ、全製品にわたって自由競争の時代が始まった。競争優位の源泉が原草を握ることにある以上、争点もまた畑にあった。アメリカ向けの輸出も、同じ年から三菱商事を通じて始まっていた。ところが1952年、日本新薬がミブヨモギを在来種から山科二号へ替えるため在来種の買い取りをやめると告げると、その前後から原草が横流しされ始め、翌年から1954年にかけては岐阜・富山・東京の同業者が北海道にブローカーを差し向け、日本新薬を上回る値でミブヨモギを買い集めたり新しい製法特許を出願したりして、その独占を突き崩そうとする出来事が続いた。
サントニンは駆虫剤としての使命を果たし、その結果として自らの市場を消した。蛔虫感染率が下がるにつれて売れ行きは落ち、減退が始まったのは1954年9月期ごろである。年間の売上高は1953年の10億7800万円から1958年には8億1100万円へ、2億6600万円、およそ25パーセント減った。減少分はほぼすべてサントニンによるもので、同じ期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、88.7パーセント落ちている。次の柱に育つはずの神経痛・リウマチ治療剤アミピロは発売したばかりで、主力の交代には間に合わなかった。病気そのものを減らした製品は、減らした分だけ自社の収益を削るという構造を、日本新薬はここで正面から引き受けることになった。
穴を埋める手は、大型製品を一本立てることではなく、中規模の製品を並べることだった。1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は、主なものだけで20余り、細かいものを合わせると56品目に達した。熟眠剤イソミタール、心臓薬コルフィリン、神経痛治療剤アミピロと、成人病に関わる薬が順に並んでいる。生産の側も作り替えた。1954年3月、西大路工場の敷地内に総合工場が完成する。当初は注射薬工場の改善から出た話だったが、競争の激化を前に試験・製剤・包装の生産ラインを一新する構想へ膨らみ、予算約4400万円の鉄筋コンクリート5階建てとして建てられた。1957年2月には本社と壬生工場もこの敷地へ移り、開発から製造までが一か所にまとまった。
食品への進出は、失った設備と技術の行き先を探した結果だった。1961年5月にスパイス工場を建て、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売する。パプリカやナッツメグなど18種類の単品と、取引先ごとに調合したミックスを揃えたこの製品は、当時興隆期にあったハム・ソーセージ業界、とりわけ全盛だった魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた。次の一手は、サントニンの需要減少で低操業に陥っていた札幌工場に向かった。1964年11月から、北海道産の玉葱を原料に、抽出と濃縮という得意の技術を生かした玉葱エキスの試験製造を始めたのである。サントニン工場用に払い下げを受けていた盛岡の用地も1965年に食品工場への転用が許され、1966年12月に食品専門の盛岡工場が竣工した。
医薬品の側では、他社と正面から競合しない領域を選ぶ方針が固まった。1962年4月に新研究所を設け、脳卒中治療剤チトマックや前立腺肥大症治療剤エビプロスタットのように、大手が手を付けにくい適応の製品を続けて開発した。1968年3月末の時点で、半期に1億円を超える主力品は11品目に達している。1本の大型製品が全体を支える形は、ここで完全に崩れた。伝え方も合わせて変えた。1968年3月からは全国紙の朝刊で企業広告を始め、当初の企業紹介から、成人病関連の製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ予防の健康情報を届ける形へ切り替えている。単一製品の会社という像を、成人病を扱う会社という像へ置き直す作業だった。
1970年代に入ると、競争の焦点は製品から製造管理の水準へ移った。国が医薬品の製造管理および品質管理の基準を完全実施する期限は1979年4月だったが、日本新薬はこれに先んじて工場の作り替えに入った。1974年5月に京都工場のGMP化工事を起こし、翌月には小田原工場の北第二工場を基準に準じて起工している。清潔度に応じた区画で工程間の汚染を防ぎ、中央秤量室に二重チェックの仕組みを置き、製造記録の様式を整えて完全に保管する体制まで作り込んだ。一連の工事に投じた金額は6億2800万円にのぼった。旧来の工場を基準へ適合させたモデルとして、完成当初は同業他社の見学者が相次いだ。
規制は製造の現場だけでなく、開発の原価構造そのものを押し上げた。新薬の承認基準が厳格になるにつれて安全性試験の項目が増え、動物試験の比重も大きくなって、試験の件数は1970年以降に急増した。1978年4月には医薬品の薬効再評価が実施され、すでに売っている薬についても効果を証明し直す必要が生じた。翌1979年9月7日には薬事法の一部改正と薬害救済制度の創設が重なっている。工場の外では公害への対応も求められ、1970年7月に公害防止対策委員会を置いて全社的な取り組みを始めた。開発費も設備投資も、売るための支出から売り続けるための支出へ性格を変えていった。
自前で起こす薬だけでは、規制の強化に見合う開発の速度を保てなかった。1971年にはイタリアの製薬会社から導入した血圧降下剤アンダノールと、フランスの製薬会社から導入した胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを相次いで発売している。原草の探索から始めた国産主義は、海外からの導入を組み合わせる形へ広がった。売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期には346億円へ伸び、経常利益も20億円から45億円になった。単一の大型製品が消えてから四半世紀をかけて、日本新薬は複数の製品と複数の事業で伸びる会社へ作り替えられていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1911〜1948年原料生産からの垂直統合 | 京都新薬堂を創設 | ★ | ||
| 日本新薬に商号変更 | ★ | |||
| 東京出張所設置 | ★ | |||
| みぶよもぎ花蕾から国産サントニン結晶を抽出 | ★ | |||
| 西大路工場を新設 | ★ | |||
| 薬用植物研究のため山科研究圃場を設置 | ★ | |||
| 国産サントニンの発売 | ★★ | |||
| 大阪支店を開設 | ★ | |||
| サントニン現地生産のため札幌工場を新設 | ★ | |||
| 1949〜1981年単一製品依存からの多角化 | 京都証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 西大路工場内に総合工場を新設 | ★ | |||
| 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 本社・壬生工場を西大路工場敷地内に移転 | ★ | |||
| 黒石製薬と提携 | ★ | |||
| 食品事業に参入。スパイス工場を新設し粉末香辛料「スパイス・ケンダ」発売 | ★★ | |||
| 新研究所を新設 | ★ | |||
| 東日本の医薬品生産拠点として小田原工場を新設 | ★ | |||
| 食品専門工場として盛岡工場を新設 | ★ | |||
| 食品技術研究所を新設 | ★ | |||
| タジマ食品工業へ資本参加 | ★ | |||
| 1982〜2007年創薬研究所の整備と米国拠点の設置、小田原総合製剤工場への生産集約 | 中央研究所本館設置 | ★ | ||
| 千歳クリエートパーク設置 | ★ | |||
| 東京支社を開設 | ★ | |||
| 西部創薬研究所2号館設置 | ★ | |||
| 東部創薬研究所を新設 | ★ | |||
| ニューヨーク事務所開設 | ★ | |||
| 医薬品製剤の生産機能を小田原工場に集約化し小田原総合製剤工場に商号変更 | ★★ | |||
| 初山一登 | NS Pharma, Inc.をニュージャージー州へ移転 | ★ | ||
| 初山一登 | ラプラスファルマを設立 | ★ | ||
| 2008〜2026年セレキシパグのアクテリオンへの導出と核酸医薬ビルテプソの米国自社販売 | 前川重信 | 日本を除く全世界の開発販売権を他社へ委ねるという選択 2008年2月29日、日本新薬が自社で創製した肺動脈性肺高血圧症治療剤NS-304(セレキシパグ)について、日本を除く全世界の開発・販売をスイスのアクテリオンに委ねる基本契約を締結したと発表した経営判断。同年4月に正式なライセンス契約を締結し、日本国内は両社の共同開発・共同販売とした。 詳細を読む | ★★★ | |
| 前川重信 | 北京事務所開設 | ★ | ||
| 前川重信 | 本社敷地内に治験原薬製造棟を設置 | ★ | ||
| 前川重信 | 小田原総合製剤工場敷地内に高生理活性固形製剤棟設置 | ★ | ||
| 前川重信 | 第六次中期経営計画による注力領域の難病・希少疾患、泌尿器・血液内科への絞り込み 2019年5月14日、日本新薬が第六次5ヵ年中期経営計画(2019〜2023年度)を開示し、泌尿器科・血液内科・難病/希少疾患・婦人科へ自社創薬の資源を配分する方針を掲げた経営判断。低分子のNS-304と核酸医薬のNS-065/NCNP-01を生んだ創薬基盤に、遺伝子治療などの新しいモダリティを加えるとした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 前川重信 | 注力領域を泌尿器科・血液内科・難病/希少疾患・婦人科に設定 | ★ | ||
| 前川重信 | 国産初のアンチセンス核酸医薬の承認取得と、提携に頼らない自社販売 2020年3月にデュシェンヌ型筋ジストロフィー治療剤"ビルテプソ"が国内で承認され、同年8月12日に米食品医薬品局の迅速承認を得た。日本新薬は情報収集の拠点であった米国子会社NS Pharmaを販売会社へ作り替え、8月19日から米国で自社販売を開始した。同社にとって初めての海外自社販売品目となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 前川重信 | NS Pharmaによる米国自社販売を開始 | ★★ | ||
| 中井亨 | 北京艾努愛世医薬科技有限公司を設立 | ★ | ||
| 中井亨 | 天津艾努愛世医薬有限公司を設立 | ★ | ||
| 中井亨 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 中井亨 | NS Pharma, Inc.が新オフィスを開設 | ★ |
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事実根拠:出所(日本新薬)