日本新薬 の歴史

更新:

創業 1911年
創業者 市野瀬潜
創業地 京都府京都市
創業 1911年11月、市野瀬潜氏が京都で個人商店"京都新薬堂"を創業し、欧米から輸入
1911年11月、市野瀬潜氏が京都で個人商店"京都新薬堂"を創業し、欧米から輸入される医薬品の卸売を始めた。扱った薬の筆頭は高価な輸入品の回虫駆除薬サントニンで、その国産化を見据えて1919年10月、内貴清兵衛氏らと資本金50万円の株式会社へ改組し、社名を日本新薬へ改めた。京都市下京区壬生下溝町に本社と工場を構え、翌1920年5月から皮膚薬ピチロールと催眠薬ブロバリンの製造を開始している。原料植物の種苗はロシアが国外持ち出しを禁じており、1926年に始めた探索が国産サントニンの発売に至るのは、みぶよもぎの命名を経た1940年5月だった。
決断 日本だけを手元に残す売り方を、2020年にやめた。1926年から15年かけてサン
日本だけを手元に残す売り方を、2020年にやめた。1926年から15年かけてサントニンを国産化した会社だが、創った薬を海外で自ら売る組織は長く持たなかった。2008年2月にセレキシパグの日本を除く全世界の開発販売権をアクテリオンへ導出し、マイルストーンとロイヤルティで開発費を回収する形を選んでいる。国内中堅の販売網では欧米の専門医へ自力で届かないという判断だった。2020年8月、核酸医薬ビルテプソの米国承認を取得して自社販売を始め、1999年に現地法人化したNS Pharmaを販売会社へ作り替えた。患者数が限られる希少疾患ほど届け先が専門の医療機関と患者団体に集まるため、少人数の営業でも自ら届けられる。この読みが、導出しか選べなかった条件を変えた。
現況 1961年に始めた食品事業は、売上の13%を占めて利益をほとんど生まない。202
1961年に始めた食品事業は、売上の13%を占めて利益をほとんど生まない。2026年3月期の売上高1,707億円のうち医薬品が1,484億円・セグメント利益333億円、機能食品は222億円・8億円である。全社の営業利益は354億円、当期純利益297億円だった。2019年5月の第六次中期経営計画で注力領域を絞り込んで以降、自社創薬の対象は難病・希少疾患と泌尿器・血液内科に限られ、2021年に設けた中国子会社と米NS Pharmaが海外の窓口となっている。人員も医薬品1,852名に対し機能食品は174名にとどまり、配分の偏りがそのまま利益の偏りを生んでいる。
競合 海外の営業組織を、買収ではなく駐在事務所から育てた。塩野義製薬が米サイエル・ファ
海外の営業組織を、買収ではなく駐在事務所から育てた。塩野義製薬が米サイエル・ファーマをTOBで完全子会社化したのは2008年で、約14億ドルを投じて生活習慣病の医師を回る営業組織を得ながら、4年後にはHIV治療薬を自ら売る道を閉じている。日本新薬は1991年のデュッセルドルフ事務所、1997年のニューヨーク事務所を経て1999年にNS Pharmaを置き、20年かけて販売会社へ変えた。売上1,707億円は塩野義製薬の3分の1にとどまるが、デュシェンヌ型筋ジストロフィーを診る施設は米国でも限られ、少人数で回れる。患者数の少なさが、中堅の営業規模でも自社販売を成り立たせている。
長期業績の推移 1949〜2026年
日本新薬:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

第1章 1911年〜 原料生産からの垂直統合ミブヨモギ栽培による輸入サントニンの代替

1911年〜京都新薬堂の開業と日本新薬への改組

市野瀬潜は、輸入新薬を医師へ直に説いて回る職能を先に身につけ、それを元手に独立した人物である。明治末年の京都では、薬舗と称しても和漢薬や家伝薬を扱う店が大半で、蛤貝に詰めた膏薬や丸薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった。そのなかで市野瀬は薬種商である織田自然堂の支配人として、補血滋養剤ヘマトパンなど当時としては目新しい新薬を任され、関東から九州まで自ら回って医家を訪ねた。1910年には常用新薬の定価表を全国の病院と開業医家へ無料で配り、求めに応じて見本を提供している。薬の効能を医師へ直接説く職種が日本の薬業に根づきはじめたのは、ようやく明治の末から大正の初めにかけてのことだった。1911年、市野瀬はヘマトパンの商標を自らの名義へ移したうえで、京都新薬堂を開いた

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [1]市野瀬潜は織田自然堂の支配人を務めたのち、京都新薬堂を個人経営した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)序章 京都新薬堂の発足
    • [2]明治末年の薬業界は和漢薬・家伝薬を扱う薬舗が大部分で、膏薬・丸薬・散薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった
    • [3]市野瀬潜は織田自然堂の支配人として、ヘマトパンを主体に関東・中部・北陸・近畿・九州各地を自ら回った
    • [4]明治43年に常用新薬の定価表を発行し、全国の病院・開業医家へ無料配布して求めに応じ試供見本を提供した
    • [5]医薬品の宣伝を担うプロパの活動が本格化したのは明治末年から大正初年にかけてである
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [6]明治44年9月7日にヘマトパンの商標が市野瀬潜へ譲渡され、同年に京都新薬堂が創設された

京都新薬堂が製造業へ移ったのは、第一次大戦で輸入医薬品が途絶えたときだった。大戦の末期には医薬品の欠乏が国民の医療に支障をきたし、国産医薬品を求める声が高まっていた。市野瀬潜は京都財界の有力者から支援を得て、1919年10月、個人経営だった京都新薬堂を資本金50万円の株式会社へ改組した。払い込みは4分の1にとどまっており、手元の資金が潤沢だったわけではない。翌1920年5月には京都の壬生に本社事務所と工場を構え、皮膚薬ピチロールと催眠剤ブロバリンの製造を始めた。輸入品を取り次いで売る側から、自らつくって売る側へ回ったのである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [7]欧州大戦の末期に医薬品の欠乏が著しく、国産医薬品を求める声が高まった
    • [8]医薬品の欠乏が国民の医療に大きな支障を来たしていた
    • [9]1919年10月、京都財界の有力者の支援を得て京都新薬堂を改組し、資本金50万円の日本新薬株式会社を設立した
    • [10]設立時の資本金50万円は4分の1払込だった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [11]1920年5月に京都壬生へ本社事務所と工場を設け、皮膚薬ピチロール・催眠薬ブロバリンなどの製造を始めた

ところが製造へ回った直後に、参入の前提が崩れた。1920年の戦後恐慌で情勢は一変し、勢いを盛り返した輸入医薬品との競争が重なって、日本新薬は苦境に立たされた。輸入が止まるから国産が要るという条件は、講和とともに消えたのである。それでも研究は手放さず、科学的な基礎に立脚した新薬を順次提供することで、この局面に対処した。1920年春から続く慢性不況のなかで、会社は「堅実漸進」を経営の方針に据えた競争の焦点を規模の拡張ではなく、他社が持たない製品を時間をかけて育てる側へ移したことになる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [12]1920年の戦後パニックにより、戦後の不況と再び勢力を盛り返した輸入医薬品の競争で苦境に立たされた
    • [13]苦境のなかでも研究を続け、科学的な基礎に立脚した新薬を漸次提供して対処した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [14]1920年春から始まった慢性不況のもとで「堅実漸進」を経営方針に掲げた
参考文献[1]-[14]
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [1]市野瀬潜は織田自然堂の支配人を務めたのち、京都新薬堂を個人経営した
    • [11]1920年5月に京都壬生へ本社事務所と工場を設け、皮膚薬ピチロール・催眠薬ブロバリンなどの製造を始めた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)序章 京都新薬堂の発足
    • [2]明治末年の薬業界は和漢薬・家伝薬を扱う薬舗が大部分で、膏薬・丸薬・散薬を店頭と行商で売る売薬が全盛だった
    • [3]市野瀬潜は織田自然堂の支配人として、ヘマトパンを主体に関東・中部・北陸・近畿・九州各地を自ら回った
    • [4]明治43年に常用新薬の定価表を発行し、全国の病院・開業医家へ無料配布して求めに応じ試供見本を提供した
    • [5]医薬品の宣伝を担うプロパの活動が本格化したのは明治末年から大正初年にかけてである
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [6]明治44年9月7日にヘマトパンの商標が市野瀬潜へ譲渡され、同年に京都新薬堂が創設された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [7]欧州大戦の末期に医薬品の欠乏が著しく、国産医薬品を求める声が高まった
    • [8]医薬品の欠乏が国民の医療に大きな支障を来たしていた
    • [9]1919年10月、京都財界の有力者の支援を得て京都新薬堂を改組し、資本金50万円の日本新薬株式会社を設立した
    • [10]設立時の資本金50万円は4分の1払込だった
    • [12]1920年の戦後パニックにより、戦後の不況と再び勢力を盛り返した輸入医薬品の競争で苦境に立たされた
    • [13]苦境のなかでも研究を続け、科学的な基礎に立脚した新薬を漸次提供して対処した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [14]1920年春から始まった慢性不況のもとで「堅実漸進」を経営方針に掲げた

1926年〜ミブヨモギの発見と国産サントニンの確認

日本新薬が狙いを定めたのは、駆虫薬サントニンだった。サントニンはソ連の独占品で、原料となるアルテミシア・シナは国外へ持ち出すことが禁じられていた。一方の日本は寄生虫王国と呼ばれるほどで、蛔虫の感染は都市にも農村にも広がっており、需要は国内にあるのに供給源は他国が握っている状態だった。日本新薬が最初に調べ尽くした日本産のヨモギ60余種には、サントニンは少しも含まれておらず、外国のヨモギを何種か取り寄せて育てる試みもみな失敗した

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [15]1927年に虫下しサントニンの国産化を企てた
    • [16]サントニンはソ連が独占し、その原料植物の国外持出しは禁止されていた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [17]古来わが国は寄生虫王国といわれ、都市・農村を問わず蛔虫の感染が広がっていた
    • [18]日本産のヨモギ60余種をことごとく調べたが、サントニンは全く含有していなかった
    • [19]外国産のヨモギをいくつか取り寄せて栽培を試みたが、いずれも失敗に終わった

ロンドンで出ていた薬業雑誌を1926年11月に調べていた取締役技師長の高田桂が、ドイツのチューリンゲン地方でアルテミシア・シナが栽培されているとの記事を見つけ、社外から突破口が開けた。記事は市野瀬潜の手で、スウェーデンで外交官を務めていた親戚の出納功に送られ、現地での調査と種子の入手が頼まれた。苦労の末に出納がストックホルムの種苗店で入手した種子は2グラム、約3000粒で、1927年3月5日に市野瀬の手元へ届いた。これを播いて育ったのは60本ほどで、秋まで残ったのは30株ほどにとどまった。1929年8月23日、研究部長の伏見新造らが乾草2.68キログラムから3.5グラムの物質を抽出し、市野瀬が自ら試服して黄色く見える視界からサントニンだと確かめた。壬生の地に根を下ろしたヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと名づけられた

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [20]1926年11月、取締役技師長の高田桂がロンドン発行の雑誌でドイツのチューリンゲン地方におけるアルテミシア・シナ栽培の記事を見付けた
    • [21]市野瀬潜は、スウェーデン駐在の外交官で親戚の出納功へ調査と種子の入手方を依頼した
    • [22]出納功がストックホルム市内の種苗店で入手した種子2グラム・約3000粒が1927年3月5日に市野瀬潜の手もとへ届いた
    • [23]会社の裏畑に播いた種から60本ばかりが生育し、秋まで生長をつづけたものは30株ほどであった
    • [24]1929年8月23日、伏見新造と土江好景が乾草2.68キログラムから3.5グラムのサントニン様物質を抽出し、市野瀬潜が試服して確認した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [25]壬生の地に根を下ろして生育したヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと命名された

確認できても、増やせなければ薬にはならない。内地ではミブヨモギの種子がほとんど採れず、増殖は芽分けと挿木に頼るほかなかった。サントニンは花蕾にもっとも多く含まれ、その含有量は0.2から1.5パーセント、しかも開花すれば花も葉も茎も含量を失うため、収穫の時期を外せない。日本新薬は会社の裏畑から始めて、1931年には西院の山の内に畑地を借り、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培に入った。1932年、市野瀬潜は国が事業として取り上げるなら種苗をすべて政府へ寄贈してよいと申し出たが、内務省の技師は私企業のほうが事業の責任遂行に適していると答えている。翌年には栽培研究奨励金の交付が決まり、第1回として2000円を受け取った。原料の栽培そのものを自ら抱え込む道は、このとき定まった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [26]内地では種子がほとんど採種できず、ミブヨモギの増殖は芽分けと挿木によるほかなかった
    • [27]サントニンの含量は花蕾にもっとも多く0.2〜1.5パーセント、開花すれば花葉茎とも消失するため収穫時期の選定が重要だった
    • [28]1931年5月に西院山の内赤山町へ畑地一反歩を借り入れ、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培を開始した
    • [29]1932年、市野瀬潜がミブヨモギの官業化に際し種苗のすべてを政府へ寄贈してよいと申し出たのに対し、内務省の松尾仁技師は私企業の方が事業の責任遂行に適していると言明した
    • [30]1933年6月9日に内務省でミブヨモギ栽培研究奨励金の下付が決定され、7月12日に第1回分2000円を受領した
参考文献[15]-[30]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [15]1927年に虫下しサントニンの国産化を企てた
    • [16]サントニンはソ連が独占し、その原料植物の国外持出しは禁止されていた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
    • [17]古来わが国は寄生虫王国といわれ、都市・農村を問わず蛔虫の感染が広がっていた
    • [18]日本産のヨモギ60余種をことごとく調べたが、サントニンは全く含有していなかった
    • [19]外国産のヨモギをいくつか取り寄せて栽培を試みたが、いずれも失敗に終わった
    • [20]1926年11月、取締役技師長の高田桂がロンドン発行の雑誌でドイツのチューリンゲン地方におけるアルテミシア・シナ栽培の記事を見付けた
    • [21]市野瀬潜は、スウェーデン駐在の外交官で親戚の出納功へ調査と種子の入手方を依頼した
    • [22]出納功がストックホルム市内の種苗店で入手した種子2グラム・約3000粒が1927年3月5日に市野瀬潜の手もとへ届いた
    • [23]会社の裏畑に播いた種から60本ばかりが生育し、秋まで生長をつづけたものは30株ほどであった
    • [24]1929年8月23日、伏見新造と土江好景が乾草2.68キログラムから3.5グラムのサントニン様物質を抽出し、市野瀬潜が試服して確認した
    • [26]内地では種子がほとんど採種できず、ミブヨモギの増殖は芽分けと挿木によるほかなかった
    • [27]サントニンの含量は花蕾にもっとも多く0.2〜1.5パーセント、開花すれば花葉茎とも消失するため収穫時期の選定が重要だった
    • [28]1931年5月に西院山の内赤山町へ畑地一反歩を借り入れ、専任の農夫を雇って品種改良と淘汰栽培を開始した
    • [29]1932年、市野瀬潜がミブヨモギの官業化に際し種苗のすべてを政府へ寄贈してよいと申し出たのに対し、内務省の松尾仁技師は私企業の方が事業の責任遂行に適していると言明した
    • [30]1933年6月9日に内務省でミブヨモギ栽培研究奨励金の下付が決定され、7月12日に第1回分2000円を受領した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [25]壬生の地に根を下ろして生育したヨモギ属であることから、この植物はミブヨモギと命名された

1937年〜西大路工場の抽出設備と戦時下の増産

研究を製品へ変えたのは、抽出を工場の規模で回せる装置だった。1938年3月、本社工場にあった抽出精製の設備はすべて分工場へ移された。翌1939年3月には分工場で工業的中規模のタンク式連続抽出機が完成し、一日およそ130キログラムの原料を仕込んでサントニンの結晶を約300グラム得られるようになり、同年7月には抽出法の特許を取得している。そして1940年5月10日、日本新薬は国産サントニンを初めて発売した。最初の販売量は100キログラム、当初から公定価格が決められ、1キログラム当たり620円だった。原草の探索に着手してから14年が経っていた

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [31]1938年3月、本社工場にあった抽出精製設備をすべて分工場へ移設した
    • [32]1939年3月に分工場でタンク式連続抽出機が完成し、一日約130キログラムの原料からサントニンの結晶約300グラムの製造を可能とし、同年7月5日に特許第130933号を取得した
    • [34]最初の販売量は100キログラムで、公定価格は1キログラム当たり620円だった
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [33]1940年5月に国産サントニンを発売した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [35]サントニンの国産化には1926年から15年間の研究を要した

ただしタンク式は仕込みと粕出しが手動で、人手を多く要し、有機溶剤の損失も比較的多かった。日本新薬は大豆油や糠油、カフェイン、除虫菊など類似した工業の抽出装置を見学して回ったが、いずれも原料が違うために参考にならなかった。転用できたのは理化学研究所で研究中だった自動糠油抽出機で、浸出を三段式から四段式へ改良してもらう条件をつけ、1939年6月に買入契約を結んだ。この理研式連続抽出機は1940年12月、分工場から改称した西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に要する人手を5、6人まで減らした。もっとも良質な鋼鉄の不足から付属品に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月である

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [36]タンク式連続抽出機は仕込み・粕出しがバッチ式手動で人手を多く要し、有機溶剤のロスも比較的多い欠点があった
    • [37]大豆油・糠油・カフェイン・エフェドリン・除虫菊など類似工業の抽出装置を見学したが、原料が違うため参考にならなかった
    • [38]理化学研究所で研究中の自動糠油抽出機を浸出三段式から四段式へ改良する条件で、1939年6月に買入契約を結んだ
    • [39]理研式連続抽出機は1940年12月1日に西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に人手は5、6人で足りた
    • [40]良質鋼鉄の不足で付属類に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月だった

陸軍衛生材料本廠は1943年11月5日、有機溶剤はもう供給を約束できないとして、別の抽出法を研究して早急に設備を整えるよう求めてきた。専務の森下弘らは他社のコカ葉やカフェインの工場を見て回り、水浸法で大量に抽出する研究を始め、1944年10月には原料産地の北海道に札幌工場を新たに建てた。だが食糧が足りないなかでミブヨモギの畑は次々と食用作物に切り替えられ、サントニンはほぼ生産できない状態のまま終戦を迎えたのであり、戦争は溶剤に続いて畑も奪った。1946年、市野瀬潜は会長に退き、森下弘が社長に就いた。森下は翌1947年1月から新しい機構を発足させ、人事課と総務部を設けて、創業者の個人経営の色を残す組織を近代経営の軌道へ乗せた

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [41]1943年11月5日、陸軍衛生材料本廠が有機溶剤の供給は保証できないとして、代わる抽出法を研究し速やかに設備を完成せよと催促した
    • [42]森下弘専務と石正研究部長が他社のコカ葉・カフェインの水浸法工場を調査し、水浸法による大量抽出法の研究に着手した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [43]1944年10月、サントニンの現地生産のため札幌工場を新設した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [44]ミブヨモギの栽培は食糧不足に伴い食用作物へ転換され、サントニンの生産はほとんど不可能に近い状態で終戦を迎えた
    • [45]1946年、市野瀬潜に代わり森下弘が社長に就任した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)四章 戦後復興へ立ち上がる
    • [46]1946年12月28日に機構改革を発表し、1947年1月1日から人事課の新設・総務部の設置を含む新機構を発足させて近代経営への軌道を敷いた
参考文献[31]-[46]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
    • [31]1938年3月、本社工場にあった抽出精製設備をすべて分工場へ移設した
    • [32]1939年3月に分工場でタンク式連続抽出機が完成し、一日約130キログラムの原料からサントニンの結晶約300グラムの製造を可能とし、同年7月5日に特許第130933号を取得した
    • [34]最初の販売量は100キログラムで、公定価格は1キログラム当たり620円だった
    • [36]タンク式連続抽出機は仕込み・粕出しがバッチ式手動で人手を多く要し、有機溶剤のロスも比較的多い欠点があった
    • [37]大豆油・糠油・カフェイン・エフェドリン・除虫菊など類似工業の抽出装置を見学したが、原料が違うため参考にならなかった
    • [38]理化学研究所で研究中の自動糠油抽出機を浸出三段式から四段式へ改良する条件で、1939年6月に買入契約を結んだ
    • [39]理研式連続抽出機は1940年12月1日に西大路工場へ据え付けられ、一日2トンの原料処理に人手は5、6人で足りた
    • [40]良質鋼鉄の不足で付属類に代用品が使われ、順調な運転に入ったのは1941年9月だった
    • [41]1943年11月5日、陸軍衛生材料本廠が有機溶剤の供給は保証できないとして、代わる抽出法を研究し速やかに設備を完成せよと催促した
    • [42]森下弘専務と石正研究部長が他社のコカ葉・カフェインの水浸法工場を調査し、水浸法による大量抽出法の研究に着手した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [33]1940年5月に国産サントニンを発売した
    • [43]1944年10月、サントニンの現地生産のため札幌工場を新設した
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [35]サントニンの国産化には1926年から15年間の研究を要した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
    • [44]ミブヨモギの栽培は食糧不足に伴い食用作物へ転換され、サントニンの生産はほとんど不可能に近い状態で終戦を迎えた
    • [45]1946年、市野瀬潜に代わり森下弘が社長に就任した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)四章 戦後復興へ立ち上がる
    • [46]1946年12月28日に機構改革を発表し、1947年1月1日から人事課の新設・総務部の設置を含む新機構を発足させて近代経営への軌道を敷いた

第2章 1949年〜 単一製品依存からの多角化蛔虫感染率の低下によるサントニン依存からの脱却

1949年〜駆虫対策五カ年計画とサントニンの増産

戦後の日本新薬を立て直したのは、国の保健政策だった。終戦直後の食糧事情と衛生環境の悪化を背景に、全国の蛔虫感染率は1949年の62.9パーセントを最高として、前後の年も60パーセント前後の高率で推移していた。厚生省は1948年11月8日に駆虫対策五カ年計画を発表したが、その中身は駆虫剤の供給を増やす対策そのものだった。蛔虫駆除薬の主役であるサントニンを国内で唯一つくっていた日本新薬は、この計画に対応して独自の増産五カ年計画を立て、原草ミブヨモギからサントニンまで一貫した増産を進めた。1949年6月には京都証券取引所へ株式を上場し、増産に必要な資金を市場から取れる形にしている。国の政策目標と自社の主力製品が正面から重なる、まれな局面だった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [47]1940年代後半の全国蛔虫感染率は厚生省調べで1949年の62.9パーセントを最高とし、他の年も60パーセント前後の高率を示した
    • [48]1948年11月8日に厚生省が発表した駆虫対策五カ年計画は、駆虫剤の供給増加対策そのものだった
    • [49]サントニンの国内唯一のメーカーだった日本新薬は、厚生省の駆虫対策五カ年計画に対応して独自にサントニン増産五カ年計画を策定し、原草ミブヨモギからサントニンへ一貫した増産対策を推進した
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [50]1949年6月に京都証券取引所へ株式を上場した

増産の成果は、競争相手を呼び込むことでもあった。1951年8月28日にサントニンの配給統制が解かれ、全製品にわたって自由競争の時代が始まった。競争優位の源泉が原草を握ることにある以上、争点もまた畑にあった。アメリカ向けの輸出も、同じ年から三菱商事を通じて始まっていた。ところが1952年、日本新薬がミブヨモギを在来種から山科二号へ替えるため在来種の買い取りをやめると告げると、その前後から原草が横流しされ始め、翌年から1954年にかけては岐阜・富山・東京の同業者が北海道にブローカーを差し向け、日本新薬を上回る値でミブヨモギを買い集めたり新しい製法特許を出願したりして、その独占を突き崩そうとする出来事が続いた

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [51]1951年8月28日に主力製品サントニンの配給統制が解除され、全製品にわたって自由競争時代を迎えた
    • [52]1951年に三菱商事を通じてサントニンをアメリカ向けに初輸出し、以後の輸出入業務は主に三菱商事へ依頼することになった
    • [53]1952年にミブヨモギの栽培を在来種から山科二号へ切り替えるため在来種の購入打ち切りを栽培農家へ通告したところ、その前後から原草の横流し傾向が現れた
    • [54]1953年から1954年にかけて、岐阜・富山・東京の同業が北海道へブローカーを進出させ、日本新薬より高値でミブヨモギを買い入れたり新たな製法特許を申請したりして独占を崩しにかかる特許侵害事件が相次いだ

サントニンは駆虫剤としての使命を果たし、その結果として自らの市場を消した。蛔虫感染率が下がるにつれて売れ行きは落ち、減退が始まったのは1954年9月期ごろである。年間の売上高は1953年の10億7800万円から1958年には8億1100万円へ、2億6600万円、およそ25パーセント減った。減少分はほぼすべてサントニンによるもので、同じ期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、88.7パーセント落ちている。次の柱に育つはずの神経痛・リウマチ治療剤アミピロは発売したばかりで、主力の交代には間に合わなかった。病気そのものを減らした製品は、減らした分だけ自社の収益を削るという構造を、日本新薬はここで正面から引き受けることになった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [55]国産サントニンは駆虫剤本来の使命を達成して蛔虫感染率を減少させたが、基幹製品であっただけに売上減の業績への影響は甚大だった
    • [56]サントニンの売れ行き減退が始まったのは1954年9月期ごろだった
    • [57]年間売上高は1953年の10億7800万円から1958年の8億1100万円へ、2億6600万円・約25パーセント減少した
    • [58]同期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、7億8200万円・88.7パーセント減少した
    • [59]次代の大型製品に育つ神経痛・リウマチ治療剤アミピロは1954年9月期には発売したばかりで育成過渡期にあり、基幹製品の交代に時間的なずれが生じた
参考文献[47]-[59]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [47]1940年代後半の全国蛔虫感染率は厚生省調べで1949年の62.9パーセントを最高とし、他の年も60パーセント前後の高率を示した
    • [48]1948年11月8日に厚生省が発表した駆虫対策五カ年計画は、駆虫剤の供給増加対策そのものだった
    • [49]サントニンの国内唯一のメーカーだった日本新薬は、厚生省の駆虫対策五カ年計画に対応して独自にサントニン増産五カ年計画を策定し、原草ミブヨモギからサントニンへ一貫した増産対策を推進した
    • [51]1951年8月28日に主力製品サントニンの配給統制が解除され、全製品にわたって自由競争時代を迎えた
    • [52]1951年に三菱商事を通じてサントニンをアメリカ向けに初輸出し、以後の輸出入業務は主に三菱商事へ依頼することになった
    • [53]1952年にミブヨモギの栽培を在来種から山科二号へ切り替えるため在来種の購入打ち切りを栽培農家へ通告したところ、その前後から原草の横流し傾向が現れた
    • [54]1953年から1954年にかけて、岐阜・富山・東京の同業が北海道へブローカーを進出させ、日本新薬より高値でミブヨモギを買い入れたり新たな製法特許を申請したりして独占を崩しにかかる特許侵害事件が相次いだ
    • [55]国産サントニンは駆虫剤本来の使命を達成して蛔虫感染率を減少させたが、基幹製品であっただけに売上減の業績への影響は甚大だった
    • [56]サントニンの売れ行き減退が始まったのは1954年9月期ごろだった
    • [57]年間売上高は1953年の10億7800万円から1958年の8億1100万円へ、2億6600万円・約25パーセント減少した
    • [58]同期間にサントニンの売上高は8億8200万円から9900万円へ、7億8200万円・88.7パーセント減少した
    • [59]次代の大型製品に育つ神経痛・リウマチ治療剤アミピロは1954年9月期には発売したばかりで育成過渡期にあり、基幹製品の交代に時間的なずれが生じた
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [50]1949年6月に京都証券取引所へ株式を上場した

1959年〜成人病領域への転換と食品事業への技術転用

穴を埋める手は、大型製品を一本立てることではなく、中規模の製品を並べることだった。1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は、主なものだけで20余り、細かいものを合わせると56品目に達した。熟眠剤イソミタール、心臓薬コルフィリン、神経痛治療剤アミピロと、成人病に関わる薬が順に並んでいる。生産の側も作り替えた。1954年3月、西大路工場の敷地内に総合工場が完成する。当初は注射薬工場の改善から出た話だったが、競争の激化を前に試験・製剤・包装の生産ラインを一新する構想へ膨らみ、予算約4400万円の鉄筋コンクリート5階建てとして建てられた。1957年2月には本社と壬生工場もこの敷地へ移り、開発から製造までが一か所にまとまった

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [60]1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は主なもので20余、その他を合わせると56品目にのぼった
    • [63]総合工場は注射薬工場の改善・新築から出発し、競争激化を受けて試験・製剤・包装部門の生産ライン一新へ構想が拡大した。予算は約4400万円、鉄筋コンクリート造り地上5階建て塔屋付きだった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [61]1950年のイソミタール(熟眠剤)、1953年のコルフィリン(心臓薬)、1954年のアミピロ(神経痛治療剤)などによりサントニンの需要衰退をカバーした
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [62]1954年3月に西大路工場内へ総合工場を新設した
    • [64]1957年2月に本社・壬生工場を西大路工場の敷地内へ移転した

食品への進出は、失った設備と技術の行き先を探した結果だった。1961年5月にスパイス工場を建て、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売する。パプリカやナッツメグなど18種類の単品と、取引先ごとに調合したミックスを揃えたこの製品は、当時興隆期にあったハム・ソーセージ業界、とりわけ全盛だった魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた。次の一手は、サントニンの需要減少で低操業に陥っていた札幌工場に向かった。1964年11月から、北海道産の玉葱を原料に、抽出と濃縮という得意の技術を生かした玉葱エキスの試験製造を始めたのである。サントニン工場用に払い下げを受けていた盛岡の用地も1965年に食品工場への転用が許され、1966年12月に食品専門の盛岡工場が竣工した

  • 有価証券報告書(沿革)
    • [65]1961年5月にスパイス工場を新設し、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売して食品事業へ参入した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
    • [66]スパイス・ケンダはパプリカ・ナッツメグ・タイムなど18種類の単品とユーザーごとの調合品からなり、発売当時に全盛を迎えていた魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた
    • [67]サントニンの需要減少で低操業を余儀なくされていた札幌工場において、北海道産玉葱を原料に抽出・濃縮技術を生かした玉葱搾汁の濃縮エキスの試験製造を1964年11月から開始した
    • [68]サントニン工場用として払い下げを受けた盛岡工場用地は1965年11月に食品工場への転用が許可され、1966年12月3日に食品専門工場として盛岡工場が竣工した

医薬品の側では、他社と正面から競合しない領域を選ぶ方針が固まった。1962年4月に新研究所を設け、脳卒中治療剤チトマックや前立腺肥大症治療剤エビプロスタットのように、大手が手を付けにくい適応の製品を続けて開発した。1968年3月末の時点で、半期に1億円を超える主力品は11品目に達している。1本の大型製品が全体を支える形は、ここで完全に崩れた。伝え方も合わせて変えた。1968年3月からは全国紙の朝刊で企業広告を始め、当初の企業紹介から、成人病関連の製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ予防の健康情報を届ける形へ切り替えている単一製品の会社という像を、成人病を扱う会社という像へ置き直す作業だった。

  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [69]1962年4月に新研究所を新設し、チトマック(脳卒中治療剤)、アポプレクタール、サーカネッテン、エビプロスタット(前立腺肥大症治療剤)など他メーカーと競合しない医薬品を開発した
    • [70]1968年3月末現在で半期1億円を越す主力品は11品目に達していた
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
    • [71]1968年3月から全国紙の朝刊全国版と京都新聞で全5段の企業広告を開始し、当初の企業紹介シリーズから、成人病関連製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ成人病予防の健康情報を提供する形へ切り替えた
参考文献[60]-[71]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
    • [60]1952年から1958年までの7年間に発売した新製品は主なもので20余、その他を合わせると56品目にのぼった
    • [63]総合工場は注射薬工場の改善・新築から出発し、競争激化を受けて試験・製剤・包装部門の生産ライン一新へ構想が拡大した。予算は約4400万円、鉄筋コンクリート造り地上5階建て塔屋付きだった
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
    • [61]1950年のイソミタール(熟眠剤)、1953年のコルフィリン(心臓薬)、1954年のアミピロ(神経痛治療剤)などによりサントニンの需要衰退をカバーした
    • [69]1962年4月に新研究所を新設し、チトマック(脳卒中治療剤)、アポプレクタール、サーカネッテン、エビプロスタット(前立腺肥大症治療剤)など他メーカーと競合しない医薬品を開発した
    • [70]1968年3月末現在で半期1億円を越す主力品は11品目に達していた
  • 有価証券報告書(沿革)
    • [62]1954年3月に西大路工場内へ総合工場を新設した
    • [64]1957年2月に本社・壬生工場を西大路工場の敷地内へ移転した
    • [65]1961年5月にスパイス工場を新設し、粉末香辛料スパイス・ケンダを発売して食品事業へ参入した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
    • [66]スパイス・ケンダはパプリカ・ナッツメグ・タイムなど18種類の単品とユーザーごとの調合品からなり、発売当時に全盛を迎えていた魚肉ソーセージ業界に採用されて伸びた
    • [67]サントニンの需要減少で低操業を余儀なくされていた札幌工場において、北海道産玉葱を原料に抽出・濃縮技術を生かした玉葱搾汁の濃縮エキスの試験製造を1964年11月から開始した
    • [68]サントニン工場用として払い下げを受けた盛岡工場用地は1965年11月に食品工場への転用が許可され、1966年12月3日に食品専門工場として盛岡工場が竣工した
    • [71]1968年3月から全国紙の朝刊全国版と京都新聞で全5段の企業広告を開始し、当初の企業紹介シリーズから、成人病関連製品が多い立場を踏まえて40代から50代へ成人病予防の健康情報を提供する形へ切り替えた

1970年〜GMPへの先行実施と安全性規制への対応

1970年代に入ると、競争の焦点は製品から製造管理の水準へ移った。国が医薬品の製造管理および品質管理の基準を完全実施する期限は1979年4月だったが、日本新薬はこれに先んじて工場の作り替えに入った。1974年5月に京都工場のGMP化工事を起こし、翌月には小田原工場の北第二工場を基準に準じて起工している。清潔度に応じた区画で工程間の汚染を防ぎ、中央秤量室に二重チェックの仕組みを置き、製造記録の様式を整えて完全に保管する体制まで作り込んだ。一連の工事に投じた金額は6億2800万円にのぼった。旧来の工場を基準へ適合させたモデルとして、完成当初は同業他社の見学者が相次いだ

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [72]国と業界はGMPを1979年4月より完全実施の状態に置くこととしていた
    • [73]1974年5月11日に京都工場のGMP化工事を起工し、6月13日には小田原工場の北第二工場をGMPに準じて起工した
    • [74]GMP関連工事により、清潔度に即応した区画による内部交差汚染の防止、中央秤量室の設置と二重チェックシステムの確立、製造記録様式の整備と完全保管などを達成した
    • [75]一連のGMP関連工事に6億2800万円を投入した
    • [76]旧工場をGMP化したモデル工場として、完成当座は両工場に同業他社からの参考見学者が多かった

規制は製造の現場だけでなく、開発の原価構造そのものを押し上げた。新薬の承認基準が厳格になるにつれて安全性試験の項目が増え、動物試験の比重も大きくなって、試験の件数は1970年以降に急増した。1978年4月には医薬品の薬効再評価が実施され、すでに売っている薬についても効果を証明し直す必要が生じた。翌1979年9月7日には薬事法の一部改正と薬害救済制度の創設が重なっている。工場の外では公害への対応も求められ、1970年7月に公害防止対策委員会を置いて全社的な取り組みを始めた開発費も設備投資も、売るための支出から売り続けるための支出へ性格を変えていった。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [77]新薬承認基準の厳格化にともなう安全性試験項目の増加と動物試験の比重増大により、試験は1970年以降急増した
    • [80]1970年7月に公害防止対策委員会を設置し、工場の無公害化に向けた全社的な活動を開始した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)八章 良質の量的拡大をめざして
    • [78]1978年4月に医薬品の薬効再評価が実施された
    • [79]1979年9月7日に薬事法の一部改正および薬害救済制度の創設が行われた

自前で起こす薬だけでは、規制の強化に見合う開発の速度を保てなかった。1971年にはイタリアの製薬会社から導入した血圧降下剤アンダノールと、フランスの製薬会社から導入した胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを相次いで発売している。原草の探索から始めた国産主義は、海外からの導入を組み合わせる形へ広がった。売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期には346億円へ伸び、経常利益も20億円から45億円になった。単一の大型製品が消えてから四半世紀をかけて、日本新薬は複数の製品と複数の事業で伸びる会社へ作り替えられていた。

  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [81]1971年9月6日にイタリア・インベルニィデラベファ社との提携品である血圧降下剤アンダノールを、同年12月1日にフランス・ローンプーラン社との提携品である胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを発売した
  • 会社年鑑
    • [82]単体の売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期の346億円へ、経常利益は20億円から45億円へ増加した
参考文献[72]-[82]
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
    • [72]国と業界はGMPを1979年4月より完全実施の状態に置くこととしていた
    • [73]1974年5月11日に京都工場のGMP化工事を起工し、6月13日には小田原工場の北第二工場をGMPに準じて起工した
    • [74]GMP関連工事により、清潔度に即応した区画による内部交差汚染の防止、中央秤量室の設置と二重チェックシステムの確立、製造記録様式の整備と完全保管などを達成した
    • [75]一連のGMP関連工事に6億2800万円を投入した
    • [76]旧工場をGMP化したモデル工場として、完成当座は両工場に同業他社からの参考見学者が多かった
    • [77]新薬承認基準の厳格化にともなう安全性試験項目の増加と動物試験の比重増大により、試験は1970年以降急増した
    • [80]1970年7月に公害防止対策委員会を設置し、工場の無公害化に向けた全社的な活動を開始した
    • [81]1971年9月6日にイタリア・インベルニィデラベファ社との提携品である血圧降下剤アンダノールを、同年12月1日にフランス・ローンプーラン社との提携品である胆・膵、尿路痙縮緩解剤スパネートを発売した
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)八章 良質の量的拡大をめざして
    • [78]1978年4月に医薬品の薬効再評価が実施された
    • [79]1979年9月7日に薬事法の一部改正および薬害救済制度の創設が行われた
  • 会社年鑑
    • [82]単体の売上高は1971年3月期の110億円から1981年3月期の346億円へ、経常利益は20億円から45億円へ増加した

第3章 1982-2007 (気が向いたら執筆します!) 創薬研究所の整備と米国拠点の設置、小田原総合製剤工場への生産集約

第4章 2008-2026 (気が向いたら執筆します!) セレキシパグのアクテリオンへの導出と核酸医薬ビルテプソの米国自社販売

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1911〜2023年

日本新薬の沿革1911〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1911〜1948年原料生産からの垂直統合京都新薬堂を創設
日本新薬に商号変更
東京出張所設置
みぶよもぎ花蕾から国産サントニン結晶を抽出
西大路工場を新設
薬用植物研究のため山科研究圃場を設置
国産サントニンの発売★★
大阪支店を開設
サントニン現地生産のため札幌工場を新設
1949〜1981年単一製品依存からの多角化京都証券取引所に株式上場
西大路工場内に総合工場を新設
大阪証券取引所に株式上場
本社・壬生工場を西大路工場敷地内に移転
黒石製薬と提携
食品事業に参入。スパイス工場を新設し粉末香辛料「スパイス・ケンダ」発売★★
新研究所を新設
東日本の医薬品生産拠点として小田原工場を新設
食品専門工場として盛岡工場を新設
食品技術研究所を新設
タジマ食品工業へ資本参加
1982〜2007年創薬研究所の整備と米国拠点の設置、小田原総合製剤工場への生産集約中央研究所本館設置
千歳クリエートパーク設置
東京支社を開設
西部創薬研究所2号館設置
東部創薬研究所を新設
ニューヨーク事務所開設
医薬品製剤の生産機能を小田原工場に集約化し小田原総合製剤工場に商号変更★★
初山一登NS Pharma, Inc.をニュージャージー州へ移転
初山一登ラプラスファルマを設立
2008〜2026年セレキシパグのアクテリオンへの導出と核酸医薬ビルテプソの米国自社販売前川重信日本を除く全世界の開発販売権を他社へ委ねるという選択

2008年2月29日、日本新薬が自社で創製した肺動脈性肺高血圧症治療剤NS-304(セレキシパグ)について、日本を除く全世界の開発・販売をスイスのアクテリオンに委ねる基本契約を締結したと発表した経営判断。同年4月に正式なライセンス契約を締結し、日本国内は両社の共同開発・共同販売とした。

詳細を読む
★★★
前川重信北京事務所開設
前川重信本社敷地内に治験原薬製造棟を設置
前川重信小田原総合製剤工場敷地内に高生理活性固形製剤棟設置
前川重信第六次中期経営計画による注力領域の難病・希少疾患、泌尿器・血液内科への絞り込み

2019年5月14日、日本新薬が第六次5ヵ年中期経営計画(2019〜2023年度)を開示し、泌尿器科・血液内科・難病/希少疾患・婦人科へ自社創薬の資源を配分する方針を掲げた経営判断。低分子のNS-304と核酸医薬のNS-065/NCNP-01を生んだ創薬基盤に、遺伝子治療などの新しいモダリティを加えるとした。

詳細を読む
★★★
前川重信注力領域を泌尿器科・血液内科・難病/希少疾患・婦人科に設定
前川重信国産初のアンチセンス核酸医薬の承認取得と、提携に頼らない自社販売

2020年3月にデュシェンヌ型筋ジストロフィー治療剤"ビルテプソ"が国内で承認され、同年8月12日に米食品医薬品局の迅速承認を得た。日本新薬は情報収集の拠点であった米国子会社NS Pharmaを販売会社へ作り替え、8月19日から米国で自社販売を開始した。同社にとって初めての海外自社販売品目となった。

詳細を読む
★★★
前川重信NS Pharmaによる米国自社販売を開始★★
中井亨北京艾努愛世医薬科技有限公司を設立
中井亨天津艾努愛世医薬有限公司を設立
中井亨プライム市場に移行
中井亨NS Pharma, Inc.が新オフィスを開設
出典・参考 12件
出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)序章 京都新薬堂の発足
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)二章 新薬創出、基礎固めの時代
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)三章 戦時統制下の発展と苦渋
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)四章 戦後復興へ立ち上がる
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)五章 サントニンの栄光と衰退
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)六章 経営多角化施策の進展
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)七章 薬業界の転換期を迎えて
  • 『日本新薬六十年史』(日本新薬、1984年)八章 良質の量的拡大をめざして
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 24_医薬品「日本新薬」
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968年)3編 企業の歴史 企業「日本新薬」
  • 会社年鑑

免責事項およびポリシー