この会社の始まりは、技術を買い切れなかったところにある。三共は1911年からベークライトの試作を続けながら、米国ベークライトコーポレーションへ払うべきロイヤリティーを、利益が出ないという理由でほとんど払えずにいた。日米折半で会社を作る構想は流れ、資料の提供も打ち切られた。1932年に三共が98%を出資して日本ベークライトを分けたのは、伸びない部門を身軽にして立て直すためであり、独立というより切り離しに近い。資本金60万円で出発した会社が最初に選んだ手は、門外不出だった成形材料を外へ売ることだった。成形品まで自分で作る代わりに、300軒を超える成形業者へ材料を売り、その下請網の上に立つ。資本を持たない会社の戦い方が、ここで決まった。
戦前から戦後にかけて、この会社の親会社は二度替わった。石炭酸が軍需へ回る配給統制のもとで、日本ベークライトは原料を握る住友化学と折半出資の会社を作り、技術を無償で渡し、名古屋を境に市場を東西で分けた。戦時には飛行機用の強化木へ転じたが、割当7,360片に対して作れたのは1,672片で、残ったのは使われなかった工場だけだった。1948年に三共が経営権を放棄すると、その株を引き受けたのは住友化学の前身である。1955年の合併は、東西に分かれた二つの分身が一つに戻る手続きだった。フェノール樹脂はすでにユリア樹脂と塩化ビニル樹脂に生産量で抜かれており、単一の樹脂で食べていける時代は終わっていた。樹脂の品目を増やすほかに道はなかった。
日本ベークライトは1932年1月25日、三共のベークライト部門を分離独立させて設立された。ベークライトはアメリカのレオ・ベークランドが1907年に発明したフェノール樹脂の商品名で、三共は高峰譲吉が特許の実施許諾を受けて1911年から試作を始め、1914年に製造販売へ移っていた。設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち1万1,920株を三共が引き受け、社長は三共社長の塩原又策が兼ねた。分離の引き金は収益の乏しさにあり、1926年下期から1932年までのベークライト部の利益累計は4万160円にとどまって、投下資本400万円にほとんど報いていなかった。米国ベークライトコーポレーションとの1926年のロイヤリティー契約は、利益を支えていた積層板が対象外で、実質的な支払いのないまま数年が過ぎていた。
1932年9月、日本ベークライトは成形材料の外販を始めた。三共ベークライト部の時代、成形材料は例外なく自家用として生産され、門外不出とされていた。電気絶縁材料の需要が急に伸びても自社の成形能力では応じきれず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが現れ始めていた。外販に転じると東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が生まれ、フェノール樹脂の用途は食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へと広がった。成形品を自ら抱え込む代わりに、材料を売って下請の成形業者を育て、向島工場の成形部門を補う組織として使う形へ切り替えたことになる。営業は日本橋の三共ビル内に置いた販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日から本格的に始まった。仕入と経理は、1948年に三共が経営権を手放すまで親会社が担い続けた。
日本ベークライトが戦前に伸ばした需要先は、電話機と人絹の紡糸機という二つの大口だった。1923年の関東大震災で東京と横浜の間の電話施設が壊れ、逓信省が交換方式を手動式から自動式へ改めたことが、フェノール樹脂を電気通信機器へ入れる端緒になった。1932年9月には日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を、総額6,000円余で受注している。人絹の紡糸に使うスピニングポットでは、生産能力を年6,000個から年3万個へ引き上げた。1932年12月に人絹業界が3年間の操業短縮を打ち切ると注文が一挙に増え、紡糸速度の高速化に合わせて布片成形品から強度が2倍の積層品へ主力を移した。販売網は1936年7月の大阪出張所を皮切りに、金型を自社で持って下請工場へ貸し与える方式で広げた。
1938年8月24日、日本ベークライトは住友化学工業と折半出資で合成樹脂工業所を設立した。資本金100万円を両社が半数ずつ引き受けている。1937年の臨時資金調整法以降、主原料の石炭酸は配給制となり、国内の生産量が少ないうえ爆薬の原料でもあったため大部分が軍需へ回っていた。塩原が提携に応じたのは、原料の入手が有利になり、関西で検討していた分工場の設置にも合うからだった。住友化学の側は、新居浜の設備でホルマリンの原料となるメタノールを作れるようになったことを足場に、肥料専業から総合化学工業への展開を図っていた。覚書は、日本ベークライトの技術すべてを無償かつ無条件で新会社へ提供し、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を新会社が担うと定めた。社名に住友を冠さなかったのは、軍部が住友の進出を好まなかったためでもある。
1939年、日本ベークライトは陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる材料を求められ、飛行機用の強化木に乗り出した。大馬力の発動機に合わせて木製プロペラは金属製へ替わっていたが、ボーキサイトの入手難が樹脂を浸み込ませた木材への関心を呼んでいた。1941年3月には住友金属工業と組んで石炭酸樹脂を浸みこませた積層材プロペラの製造試験に入り、1943年に陸軍が半硬化方式、海軍が全硬化方式を採用した。かさばる原料を扱う作業は向島工場の面積に収まらず、亀有から宮野原まで工場を広げ、資本金も1943年からの三度の増資で500万円から1,700万円になった。しかし1943年12月からの割当7,360片に対し、生産実績は1,672片にとどまる。全硬化方式は正式採用の決定が出ないまま空襲の混乱が始まり、実用品は皆無に終わった。
1945年3月9日の東京大空襲で、向島工場は延べ坪の71%を焼き、成形部門が大きな打撃を受けた。戦前の石炭酸樹脂製品は全国生産の70%から80%を占めていたが、1948年度の実績は18.5%まで落ちている。1946年8月11日には会社経理応急措置法による特別経理会社に指定され、新旧勘定の分離を迫られた。1948年2月、過度経済力集中排除法の施行とともに三共は経営権を放棄する。1949年2月に850万円を増資して資本金を2,550万円とし、3月には東京と大阪の両証券取引所へ上場して売買が始まった。三共が手放した株の多くを引き受けて新しい大株主になったのは、住友化学工業の前身である日新化学工業と日本カーバイド工業の2社で、筆頭株主はここで入れ替わった。1949年9月末の株主数は744名である。
1955年3月1日、日本ベークライトと住友化工材工業が合併し、住友ベークライトが発足した。合併を促したのは主力であるフェノール樹脂の地位低下で、恒常的な原料高と製品安のなかで伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂、1952年には塩化ビニル樹脂にも抜かれていた。大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新を進めて品質で対抗できなくなる恐れがある一方、低級品では中小企業に価格で並べなかった。両社の大口出資者であり主原料の供給者でもある住友化学が合併を支援した。形式は日本ベークライトが住友化工材工業を吸収する合併だが、株式は1株につき1株を交付する1対1の対等合併で、資本金は両社を合算した2億2,000万円となった。規程類は大筋で住友化工材のものが踏襲され、初代社長には住友化学から来た原田珍重が就いた。
両社は同種の製品に別々の商標を付けていたため、1956年6月からは頭にスミを付けた名称にそろえ、成形材料はスミコン、積層品はスミライトとなった。こうした商標と設備の一本化が、合併の後に最初に手がけた仕事だった。組織の面では、1955年3月に定めた事務章程が前身2社の組織を単に寄せ集めた内容にとどまった。そこで2カ月後に技術部を新設し、工場単位で進めていた研究の管理を本社が一手に担う形にした。空襲を避けた疎開工場だった長野県の中野工場は、関連する大工場が周りになく立地に難があり、1957年10月に閉じて成形品を津、西尾、川崎の3工場へ分けた。1959年11月には尼崎工場で行っていた積層板の製造も向島工場へ移している。労働条件の差は段階的に詰められ、労働組合が連合会から単一の組合になったのは合併から5年半後の1960年9月である。
1962年、住友ベークライトは横浜市戸塚区に中央研究所を、静岡県藤枝市に静岡工場を開いた。研究は合併後も向島工場の建物を使い、各工場に研究課を置く形のままで、弾力的な運営を妨げていた。2月に発足した中央研究所は敷地31,053平方メートルで、研究を一元的に統轄し、必要な研究を経営の意志に従って進めることが設置の狙いだった。静岡工場の用地選定では、何を作るかを積み上げるのではなく経営陣が描く将来像から広さを決め、約30万平方メートルを取得した。尼崎の敷地の6倍半にあたる。製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸び、フェノール樹脂の構成比は35.8%から26.7%へ下がった。単一の樹脂に寄りかからない品揃えを作ることが、研究と用地の両方に形を与えていた。
1965年から1971年までの6年で、住友ベークライトの半期売上高は60億円から159億円へ3倍近くになった。しかし同じ期間の経常利益の伸びは7割強、当期利益は15%にとどまる。量を積んでも利益が増えない体質を、第2代社長の野口保固は数値目標で締めにかかった。従業員1人当り月50万円、人員は原則として増やさない、3カ年計画を毎年組み替える。この管理が効いた分だけ、次に来た不況は人や設備ではなく製品の中身を問うことになった。輸出の65%を1品目のソ連向け電線被覆材が占めていたように、当時の稼ぎ頭は安く大量に出る汎用品だったからである。
石油危機のあと、住友ベークライトが減らしたのは人だった。1972年度から1978年度の7年で売上高は約370億円から672億円になり、従業員は約3,460名から約2,640名へ800名以上減っている。西尾工場を閉じ、向島と京都も移転を決めた。だが同じ7年のあいだに、月産7tで始まった半導体封止材が、集積回路の生産額の増加に引かれて年ごとに桁を上げていた。1984年の宇都宮工場は、その材料のために建てた22年ぶりの新工場である。減量経営は縮んでいく話に見えて、実際には何を残すかを決める作業だった。残ったのは、フェノール樹脂の加工技術を電子部品の側へ寄せた製品群である。
1965年2月27日、原田珍重が会長に退き、野口保固が第2代社長に就いた。原田の10年で資本金は2億2,000万円から33億円、売上高は年18億円から125億円になっていたが、前年からの不況で樹脂業界は設備過剰と値崩れに直面していた。野口は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承という3つの方針を掲げ、同年7月の経営方針では経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則停止を打ち出した。事務用消耗品費や交際費など特定の経費を前期予算比で3割削る目標に対し、12月末までに約4割を削っている。同時に最重要の課題としたのが電気通信器材、すなわちエレクトロニクス部門への進出だった。日本電信電話公社が電子式自動交換機の開発を進め、住友ベークライトにも部品と材料の開発を求めていた。
1967年、野口社長は3カ年計画を毎年組み替えるローリング方式の中期経営計画を導入した。第1次計画は1967年の売上高170億円から1969年の240億円までを定め、生産性は1人当り月50万円、人員は増やさないと決めている。1967年の実績は168億円で目標に届かず、1人当り生産性も月45万円にとどまった。第2次計画のもと、1969年には売上高254億円と達成率97%まで戻し、生産性は月50万円を超えた。増員を認めない前提で売上目標を実現する手段が事務の機械化で、1966年7月にパンチカードシステムを導入して計算センターを設け、1967年12月には日本電気製の計算機を入れた。従来は何日もかかっていた製品別販売月報の作成が、印刷の完了まで45分に縮んだ。1969年12月期の売上高は136億8,111万円に達した。
1968年10月、中央研究所はエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として売り出した。半導体の封止は金属やセラミックによる気密封止が主流だったが、工程が多く管理上の問題が絶えなかった。トランスファー成形による低圧封入なら封入工程を自動化でき、電気特性のばらつきも小さく抑えられる。溶融シリカで寸法変化を小さくし、1970年には離型性を上げたEME-130シリーズを出した。ただし生産量は月産7t程度で始まり、1976年まで動かない。この時期に伸びたのはむしろ銅張積層板で、低温での打抜き性を改めたPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、市場の50%を占めた。住友ベークライトは電子式自動交換機向けのシールド層入り銅張板を1971年8月から供給し、この品目でほぼ独占的な地位を得た。
1971年8月、住友ベークライトは管理社員へ異例の非常事態宣言を発した。1970年度下期の売上高は180億円の目標を大きく下回る165億円、1971年度上期は154億円まで落ちている。電気機器、通信機、電線、鉄鋼の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がそろって減収となった。売上が減る一方で、人件費、減価償却費、金利といった固定費は増え続けている。8月15日のニクソン声明で円は1ドル360円から308円へ切り上がり、切上げ幅は16.88%となった。経費節減を訴えたが1971年度下期の経常利益は1億8,000万円まで落ち込み、配当は8分に下がる。当時の輸出はソ連向けの電線被覆用ビニルコンパウンドに偏り、1970年には1品目で全輸出額の65.3%を占めていた。
1975年12月期、住友ベークライトは売上高510億6,200万円と前年から18%減らし、経常損失3億5,600万円を出した。1973年10月の石油危機で石油化学業界が生産制限に入り、一時は原料調達の目処が立たなくなる。1974年半ばからは需要が止まり、減少幅は平均30%に達して各工場が操業短縮に追い込まれた。1974年12月に不況対策委員会を設け、1975年前半で約4億円を節減する対策を打ち出した。追い討ちをかけたのが塩化ビニルの安全性をめぐる騒動である。1975年9月にアメリカ食品医薬品局が硬質塩化ビニル樹脂の食品容器使用へ厳しい基準を提案すると、包装用ビニルシートの対米輸出は止まり、国内でもマーガリン容器用が360tから244tへ落ちた。代替のポリプロピレンのシート設備を1976年2月に尼崎工場へ据えた。
1972年度から1978年度までの7年間で、売上高は約370億円から672億円へ伸びた一方、従業員は約3,460名から約2,640名へ減った。1977年12月31日には西尾工場を閉じている。1943年に日本ベークライトの疎開工場として生まれ、1976年度の生産高は約24億円、従業員は210名余を数えたが、建物の老朽化が進みながら住居地域にあって全面建替えが認められず、法の許す範囲で建て替えても採算の合う規模にならなかった。生産していた成形品は津工場と協力各社へ移した。同じ1977年、住友グループ各社で構成する白水会へ正式に加入している。海外では1976年2月にインドネシアで合弁会社を設け、合板用接着剤と原料のホルマリンの現地生産に入った。出資比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字に転じた。
1979年3月、永松孝信が会長に退き、岡田英之が社長に就いた。石油が足りなくなるのは避けられず、石油化学製品に少しばかりの付加価値を上乗せして稼ぐやり方はいずれ通用しなくなる、という見立てが背景にあった。そうしたなかで同年4月に打ち出されたのが第6次中期経営計画である。目標は最終年度の1981年に経常利益約40億円、自己資本比率30%以上とされた。同じ年度の売上高のうち15%は新製品と改良品で賄う前提だった。挙がったのは高耐熱のフェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、銅張積層板、そして血液回路をはじめとする医療関連製品である。1980年の年頭には、減量経営で得た蓄えはもう尽きたとして、この年を第2次減量経営の時期とした。経常利益は1979年度に42億8,800万円、1980年度に46億2,900万円と目標を上回ったものの、1981年度には25億8,700万円まで下がり、44%の減益となった。
半導体封止材の生産能力は、1970年代の末から10年足らずで200倍を超える階段を上った。1968年に月産7tで始まったEMEは、1975年10月にフェノール硬化系のシリーズを完成させてから動き出し、1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びる。1979年後半に向島工場へ増産設備を入れて月産200t、1981年3月には九州ベークライト工業に月産250tの設備を立てた。九州を選んだのは、電話機需要の伸び悩みで同社の稼働率が上がらず、かつ九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる。1983年10月の第2期工事で九州の能力は月産600tとなり、全社で月産1,000tに達している。国内の集積回路の年間生産額が1976年の1,953億円から1981年の6,937億円へ増えた時期と重なる。
1984年11月30日、栃木県宇都宮市の清原工業団地に宇都宮工場が竣工した。静岡以来22年ぶりの新工場で、敷地5万平方メートル、EME製造ラインに約30億円を投じ、着工から約8カ月で立ち上げている。市街地に立地する既存の工場には新しい製品の設備を置く余地がなく、生産拠点を作り直す必要があった。これで封止材の生産能力は月産1,500tに増えた。1984年度の売上高は1,234億3,000万円、経常利益60億4,100万円と過去最高になり、設備投資額も106億3,100万円に達している。販売の足場も1980年の米国法人、1982年のシンガポール法人、1984年のオランダ法人と外へ伸ばし、1989年にはシンガポールに工場を構えた。フェノール樹脂の加工技術から出発した会社は、電子材料の供給者として立ち直った。
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|---|---|---|---|---|
| 1932〜1962年フェノール樹脂専業から多樹脂の素材企業への転換 | 三共からフェノール系合成樹脂事業を継承 | ★ | ||
| 日本ベークライトを設立 | ★★ | |||
| 株式上場 | ★ | |||
| 原田珍重 | 住友化工材工業との合併と、住友化学傘下での新会社の発足 1955年3月、国産フェノール樹脂の草分けである日本ベークライトと、住友化学と共同出資の合成樹脂工業所を源流とする住友化工材工業が合併し、社名を住友ベークライトへ改めた。両社はもともと住友化学工業の系列下にあり、合成樹脂の川下加工を担う会社を一本化する統合であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 原田珍重 | 中央研究所(基礎研究所)発足 | ★ | ||
| 原田珍重 | 静岡工場を新設 | ★ | ||
| 1963〜1989年二度の減量経営を経た半導体封止材への集中 | 岡田英之 | 宇都宮工場を新設 | ★ | |
| 岡田英之 | SumiDurez Singapore Pte. Ltd.に出資 | ★ | ||
| 岡田英之 | Sumitomo Bakelite Singapore Pte. Ltd.工場を新設 | ★ | ||
| 1990〜2010年秋田住友ベークの設立と中国進出、欧米フェノール樹脂事業の相次ぐ買収 | 岡田英之 | SNC Industrial Laminates Sdn. Bhd.を設立 | ★ | |
| 岡田英之 | 神戸基礎研究所を新設 | ★ | ||
| 円田直人 | エスエフシイと秋田地区3子会社(秋田ベークライト他)を合併し秋田住友ベークを設立 | ★ | ||
| 円田直人 | 蘇州住友電木有限公司を設立 | ★ | ||
| 円田直人 | 台湾住友培科股份有限公司を設立 | ★ | ||
| 守谷恒夫 | 米国 Occidental Chemical Corporation のフェノール樹脂事業を買収 | ★★ | ||
| 守谷恒夫 | Goodrich Corporationの電子材料研究部門を買収 | ★ | ||
| 守谷恒夫 | Fers Resins, S.A.U. ほか2社を買収 | ★ | ||
| 小川富太郎 | Vyncolit North America, Inc. と同 NV を買収 | ★ | ||
| 小川富太郎 | 南通住友電木有限公司を設立 | ★ | ||
| 2011〜2026年Vaupell買収と川澄化学工業の完全子会社化による医療機器事業の強化 | 林茂 | 基礎研究所と神戸基礎研究所を統合 | ★ | |
| 林茂 | 神戸事業所内に先進技術開発研究所を新設 | ★ | ||
| 林茂 | 川澄化学工業の子会社化と併せた医療機器・航空機部品事業の構築 2014年4月21日にH.I.G. Capital, LLCの関連会社と契約を締結し、同年6月12日に米Vaupell Holdingsの全株式を取得原価282億96百万円で取得して子会社とした経営判断。新規事業としての航空機内装部品事業への本格的な進出と医療機器事業の国際展開が理由である。2020年10月には川澄化学工業を270億38百万円で完全子会社とした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 藤原一彦 | 川澄化学工業と資本業務提携 | ★★ | ||
| 藤原一彦 | 川澄化学工業を持分法適用関連会社化 | ★ | ||
| 藤原一彦 | 関連会社の川澄化学工業を株式公開買付と株式売渡請求により完全子会社化 | ★ | ||
| 藤原一彦 | 医療機器事業を会社分割によりSBカワスミへ事業承継 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友ベークライト)