住友ベークライト の歴史

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創業 1932年
創業地 東京都品川区
創業 1932年1月、三共からフェノール系合成樹脂事業を分離独立させて日本ベークライト
1932年1月、三共からフェノール系合成樹脂事業を分離独立させて日本ベークライト株式会社が設立された。源流は、高峰譲吉が特許実施の許諾を受け、三共の品川工場で1911年にベークライトの試作を始めたことにある。1914年に製造販売へ移り、1919年には向島に工場を新設した。戦後の1949年3月に株式を上場して住友化学工業の傘下に入り、1955年3月に住友化工材工業と合併して社名を住友ベークライトへ改めた。原料と基礎化学を住友化学、川下の成形と加工を住友ベークライトが担う分業は、ここから始まっている。
決断 素材の性能ではなく、顧客の組立工場の隣に置いた工場で首位に立った。引き継いだフェ
素材の性能ではなく、顧客の組立工場の隣に置いた工場で首位に立った。引き継いだフェノール樹脂は製法が公開された汎用素材で、作るだけでは値崩れに巻き込まれる。1970年代以降はエポキシ樹脂封止材へ経営資源を集中し、1984年11月に宇都宮工場を量産拠点として開設した。封止材は1個あたりの単価が低く、輸送費と在庫負担を載せると採算が崩れる。そこで1989年にシンガポール、1995年に蘇州、1998年に台湾と、半導体の組立が集まる土地へ工場を並べた。同じ品質と短納期を後発が再現しにくい参入障壁を、立地そのものが作っている。
現況 三つの事業の売上が、ほぼ同じ大きさで並ぶ会社になった。2026年3月期の連結売上
三つの事業の売上が、ほぼ同じ大きさで並ぶ会社になった。2026年3月期の連結売上収益は3,198億円と過去最高を更新し、営業利益は354億円。内訳はクオリティオブライフ関連製品1,071億円、半導体関連材料1,063億円、高機能プラスチック1,054億円で、構成比はいずれも33%前後にとどまる。生成AI向けの先端パッケージングの需要が、半導体関連材料を前期の913億円から押し上げた。2014年の米Vaupellを買収した判断が、医療機器と航空機部品を三つめの領域として加えている。
競合 世界首位の製品を持ちながら、半導体へ売上を寄せなかった。2009年3月期は営業損
世界首位の製品を持ちながら、半導体へ売上を寄せなかった。2009年3月期は営業損益16億円・最終損益79億円の赤字で、首位でも半導体サイクルの底では赤字を避けられていない。この経験が事業の幅を広げる動機となり、買収の相手には医療機器と航空機部品が選ばれた。同じ後工程材料を扱うレゾナックホールディングスが日立化成を約9,600億円で買収し半導体・電子材料へ資金を寄せたのに対し、住友ベークライトの半導体関連材料は売上の33%にとどまる。首位の製品を3分の1に抑えたことが、需要の谷で損益を支える二つの売り先を残した。
長期業績の推移 1949〜2026年
住友ベークライト:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

第1章 1932年〜 フェノール樹脂専業から多樹脂の素材企業への転換

筆者考察y.sugiura, author

この会社の始まりは、技術を買い切れなかったところにある。三共は1911年からベークライトの試作を続けながら、米国ベークライトコーポレーションへ払うべきロイヤリティーを、利益が出ないという理由でほとんど払えずにいた。日米折半で会社を作る構想は流れ、資料の提供も打ち切られた。1932年に三共が98%を出資して日本ベークライトを分けたのは、伸びない部門を身軽にして立て直すためであり、独立というより切り離しに近い。資本金60万円で出発した会社が最初に選んだ手は、門外不出だった成形材料を外へ売ることだった。成形品まで自分で作る代わりに、300軒を超える成形業者へ材料を売り、その下請網の上に立つ。資本を持たない会社の戦い方が、ここで決まった。

戦前から戦後にかけて、この会社の親会社は二度替わった。石炭酸が軍需へ回る配給統制のもとで、日本ベークライトは原料を握る住友化学と折半出資の会社を作り、技術を無償で渡し、名古屋を境に市場を東西で分けた。戦時には飛行機用の強化木へ転じたが、割当7,360片に対して作れたのは1,672片で、残ったのは使われなかった工場だけだった。1948年に三共が経営権を放棄すると、その株を引き受けたのは住友化学の前身である。1955年の合併は、東西に分かれた二つの分身が一つに戻る手続きだった。フェノール樹脂はすでにユリア樹脂と塩化ビニル樹脂に生産量で抜かれており、単一の樹脂で食べていける時代は終わっていた。樹脂の品目を増やすほかに道はなかった。

合併後の売上高 1955年の新発足から1962年まで(億円)

18 55年 30 56年 38 57年 38 58年 60 59年 82 60年 96 61年 95 62年

1932年〜三共からの分社独立と、成形材料の外販が生んだ下請の成形網

日本ベークライトは1932年1月25日、三共のベークライト部門を分離独立させて設立された。ベークライトはアメリカのレオ・ベークランドが1907年に発明したフェノール樹脂の商品名で、三共は高峰譲吉が特許の実施許諾を受けて1911年から試作を始め、1914年に製造販売へ移っていた。設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち1万1,920株を三共が引き受け、社長は三共社長の塩原又策が兼ねた。分離の引き金は収益の乏しさにあり、1926年下期から1932年までのベークライト部の利益累計は4万160円にとどまって、投下資本400万円にほとんど報いていなかった。米国ベークライトコーポレーションとの1926年のロイヤリティー契約は、利益を支えていた積層板が対象外で、実質的な支払いのないまま数年が過ぎていた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [1]1932年1月25日に三共本社で創立総会を開き、1月29日に日本ベークライトの設立登記を行った
    • [4]設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち三共が1万1,920株を引き受け、取締役社長は三共社長の塩原又策が兼任した
    • [5]1926年下期から1932年までの三共ベークライト部の利益累計は4万160円で、三共の投下資本は400万円であった
    • [6]1926年1月11日にベークランドと三共代理人の間でロイヤリティー契約を結んだが、利益を支えていた積層板は契約対象外で、実質的な支払いがないまま数年が経過した
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [2]ベークライト(フェノール樹脂)はアメリカのレオ・ベークランド博士が1907年に発明した合成樹脂である
    • [3]高峰譲吉博士が特許権実施の許諾を受け、三共の品川工場で1911年に試作を開始し、1914年に製造販売を始めた

1932年9月、日本ベークライトは成形材料の外販を始めた。三共ベークライト部の時代、成形材料は例外なく自家用として生産され、門外不出とされていた。電気絶縁材料の需要が急に伸びても自社の成形能力では応じきれず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが現れ始めていた。外販に転じると東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が生まれ、フェノール樹脂の用途は食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へと広がった。成形品を自ら抱え込む代わりに、材料を売って下請の成形業者を育て、向島工場の成形部門を補う組織として使う形へ切り替えたことになる。営業は日本橋の三共ビル内に置いた販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日から本格的に始まった。仕入と経理は、1948年に三共が経営権を手放すまで親会社が担い続けた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [7]1932年9月に成形材料の外販を開始した
    • [8]成形材料はそれまで例外なく自家用として生産され、門外不出とされてきた
    • [9]三共ベークライト部は成形材料を外販せずすべて成形品として売る方針で、電気絶縁材料用の需要急増に対応できず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが登場していた
    • [10]成形材料の市販により東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が誕生し、石炭酸樹脂の用途が食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へ拡大した
    • [11]外販により下請成形業者を育成し、向島工場成形部門の補助機関として独自の組織を形成する方向へ転じた
    • [12]日本橋の三共ビル内の販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日を期して本格営業を開始した
    • [13]仕入および経理は親会社である三共が引き続き行ない、この関係は1948年に三共が経営権を放棄するまで続いた

日本ベークライトが戦前に伸ばした需要先は、電話機と人絹の紡糸機という二つの大口だった。1923年の関東大震災で東京と横浜の間の電話施設が壊れ、逓信省が交換方式を手動式から自動式へ改めたことが、フェノール樹脂を電気通信機器へ入れる端緒になった。1932年9月には日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を、総額6,000円余で受注している。人絹の紡糸に使うスピニングポットでは、生産能力を年6,000個から年3万個へ引き上げた。1932年12月に人絹業界が3年間の操業短縮を打ち切ると注文が一挙に増え、紡糸速度の高速化に合わせて布片成形品から強度が2倍の積層品へ主力を移した。販売網は1936年7月の大阪出張所を皮切りに、金型を自社で持って下請工場へ貸し与える方式で広げた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [14]戦前の主力は3号電話機向け成形品と人絹用スピニングポットで、スピニングポットは1950年代においても会社の一方の有力商品であり続けた
    • [15]1923年の関東大震災で東京-横浜間の電話施設が破壊され、逓信省が交換方式を手動式から自動式に改めたことが石炭酸樹脂の電気通信機器利用の端緒となった
    • [16]1932年9月に日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を価格総計6,000円余で受注した
    • [17]1931年度の人絹用スピニングポット使用数を7万4,000個と推定し、生産能力を年間6,000個から年間3万個へ引き上げた
    • [18]1932年12月に人絹業界が3年間の長期操短を打ち切って需要が増大し、紡糸速度が毎分4,000回転から1万回転へ高速化したため布片成形品から強度2倍の積層品へ主力を移した
    • [19]1936年7月に大阪出張所を発足させ、金型を所有して下請工場に貸与し成形品をつくる方法をとった
参考文献[1]-[19]
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [1]1932年1月25日に三共本社で創立総会を開き、1月29日に日本ベークライトの設立登記を行った
    • [4]設立時の資本金は60万円、総株数1万2,000株のうち三共が1万1,920株を引き受け、取締役社長は三共社長の塩原又策が兼任した
    • [5]1926年下期から1932年までの三共ベークライト部の利益累計は4万160円で、三共の投下資本は400万円であった
    • [6]1926年1月11日にベークランドと三共代理人の間でロイヤリティー契約を結んだが、利益を支えていた積層板は契約対象外で、実質的な支払いがないまま数年が経過した
    • [7]1932年9月に成形材料の外販を開始した
    • [8]成形材料はそれまで例外なく自家用として生産され、門外不出とされてきた
    • [9]三共ベークライト部は成形材料を外販せずすべて成形品として売る方針で、電気絶縁材料用の需要急増に対応できず、阪神地方を中心に成形材料メーカーが登場していた
    • [10]成形材料の市販により東京、大阪、神戸などに300軒以上の成形業者が誕生し、石炭酸樹脂の用途が食器、キャップ、文房具、事務用品、日用雑貨へ拡大した
    • [11]外販により下請成形業者を育成し、向島工場成形部門の補助機関として独自の組織を形成する方向へ転じた
    • [12]日本橋の三共ビル内の販売課と東京営業所を拠点に、1932年4月1日を期して本格営業を開始した
    • [13]仕入および経理は親会社である三共が引き続き行ない、この関係は1948年に三共が経営権を放棄するまで続いた
    • [14]戦前の主力は3号電話機向け成形品と人絹用スピニングポットで、スピニングポットは1950年代においても会社の一方の有力商品であり続けた
    • [15]1923年の関東大震災で東京-横浜間の電話施設が破壊され、逓信省が交換方式を手動式から自動式に改めたことが石炭酸樹脂の電気通信機器利用の端緒となった
    • [16]1932年9月に日本電気から3号自動式卓上電話機の成形品9種と金型16組を価格総計6,000円余で受注した
    • [17]1931年度の人絹用スピニングポット使用数を7万4,000個と推定し、生産能力を年間6,000個から年間3万個へ引き上げた
    • [18]1932年12月に人絹業界が3年間の長期操短を打ち切って需要が増大し、紡糸速度が毎分4,000回転から1万回転へ高速化したため布片成形品から強度2倍の積層品へ主力を移した
    • [19]1936年7月に大阪出張所を発足させ、金型を所有して下請工場に貸与し成形品をつくる方法をとった
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [2]ベークライト(フェノール樹脂)はアメリカのレオ・ベークランド博士が1907年に発明した合成樹脂である
    • [3]高峰譲吉博士が特許権実施の許諾を受け、三共の品川工場で1911年に試作を開始し、1914年に製造販売を始めた

1938年〜石炭酸の配給統制が招いた住友との折半出資と、戦後の経営権移行

1938年8月24日、日本ベークライトは住友化学工業と折半出資で合成樹脂工業所を設立した。資本金100万円を両社が半数ずつ引き受けている。1937年の臨時資金調整法以降、主原料の石炭酸は配給制となり、国内の生産量が少ないうえ爆薬の原料でもあったため大部分が軍需へ回っていた。塩原が提携に応じたのは、原料の入手が有利になり、関西で検討していた分工場の設置にも合うからだった住友化学の側は、新居浜の設備でホルマリンの原料となるメタノールを作れるようになったことを足場に、肥料専業から総合化学工業への展開を図っていた。覚書は、日本ベークライトの技術すべてを無償かつ無条件で新会社へ提供し、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を新会社が担うと定めた。社名に住友を冠さなかったのは、軍部が住友の進出を好まなかったためでもある

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [20]1938年8月24日の創立総会をもって、日本ベークライトと住友化学の共同出資で株式会社合成樹脂工業所を設立した
    • [21]合成樹脂工業所の資本総額は100万円で、1株50円の2万株に分けて日本ベークライトと住友化学が半数ずつ引き受けた
    • [22]統制経済への移行で主原料の石炭酸とホルマリンが配給制となり、国内の合成石炭酸は生産量が少なく爆薬原料でもあるため大部分が軍需方面にとられた
    • [23]塩原が提携に応じたのは原料入手が有利になることに加え、関西での販売増進に伴う分工場設置を検討していた時期だったためである
    • [24]大屋敦が合成樹脂進出を決意したのは新居浜製造所のアンモニア合成工場でホルマリン原料のメタノールを製造できるようになったためで、住友化学を肥料専門から総合化学工業へ展開させることをめざしていた
    • [25]1938年6月1日の覚書は、日本ベークライトが有するすべての技術を無償無条件で新会社に提供すること、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を合成樹脂工業所とすることを定めた
    • [26]社名に住友の商号を冠さなかったのは、まだその資格のない小規模な事業であったことと、軍部がこの分野への住友の進出を好まなかったことによる

1939年、日本ベークライトは陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる材料を求められ、飛行機用の強化木に乗り出した。大馬力の発動機に合わせて木製プロペラは金属製へ替わっていたが、ボーキサイトの入手難が樹脂を浸み込ませた木材への関心を呼んでいた。1941年3月には住友金属工業と組んで石炭酸樹脂を浸みこませた積層材プロペラの製造試験に入り、1943年に陸軍が半硬化方式、海軍が全硬化方式を採用した。かさばる原料を扱う作業は向島工場の面積に収まらず、亀有から宮野原まで工場を広げ、資本金も1943年からの三度の増資で500万円から1,700万円になった。しかし1943年12月からの割当7,360片に対し、生産実績は1,672片にとどまる。全硬化方式は正式採用の決定が出ないまま空襲の混乱が始まり、実用品は皆無に終わった

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [27]1939年に立川の陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる合成樹脂材料の研究依頼を受け、同年10月よりプロペラ素材・構造材料としての強化木の研究に着手した
    • [28]大馬力エンジン搭載の進行で木製プロペラはジュラルミン製に替わっていたが、1939年頃からボーキサイト入手難と低比重材質の要求で強化木への関心が高まった
    • [29]1941年3月に住友金属プロペラ製造所と提携して石炭酸樹脂浸漬硬化積層材製プロペラの製造試験に着手し、1943年に陸軍は半硬化積層材方式、海軍は全硬化積層材方式を採用した
    • [30]強化木の生産は向島工場の作業面積では足りず、亀有、墨田、大割野、宮野原、西尾、中野に工場を設けた
    • [31]資本金は1943年4月に300万円、1943年11月に500万円、1944年12月に400万円を増資し、500万円から1,700万円になった
    • [32]1943年12月から1945年2月までのプロペラ素材生産割当はシュワルツ式7,360片、モールド式100片で、生産実績は前者1,672片、後者52片であった
    • [33]全硬化積層材方式は正式採用の決定が出ぬまま空襲による混乱が始まり、実用品は皆無であった

1945年3月9日の東京大空襲で、向島工場は延べ坪の71%を焼き、成形部門が大きな打撃を受けた。戦前の石炭酸樹脂製品は全国生産の70%から80%を占めていたが、1948年度の実績は18.5%まで落ちている。1946年8月11日には会社経理応急措置法による特別経理会社に指定され、新旧勘定の分離を迫られた。1948年2月、過度経済力集中排除法の施行とともに三共は経営権を放棄する。1949年2月に850万円を増資して資本金を2,550万円とし、3月には東京と大阪の両証券取引所へ上場して売買が始まった三共が手放した株の多くを引き受けて新しい大株主になったのは、住友化学工業の前身である日新化学工業と日本カーバイド工業の2社で、筆頭株主はここで入れ替わった。1949年9月末の株主数は744名である

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [34]1945年3月9日の東京大空襲で向島工場の罹災率は建坪で62%、延坪で71%に達し、成形部門が大打撃を受けた
    • [35]戦前の石炭酸樹脂製品の生産量は全国の70〜80%を占めていたが、1948年度の実績では18.5%であった
    • [36]1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社の指定を受けた
    • [38]1948年2月の過度経済力集中排除法の施行とともに、三共は日本ベークライトに対する経営権を放棄した
    • [39]1949年2月21日に850万円の増資を行ない資本金を2,550万円とした
    • [41]三共が放出した日本ベークライト株の多くを肩代わりして新しい大株主となったのは日新化学工業(現・住友化学工業)と日本カーバイド工業の2社で、1949年に経営権は三共から住友に移った
  • 株式会社年鑑 1950年版
    • [37]1946年8月に特別経理会社に指定され、1949年7月末日付で決定整備計画変更申請書の認可を受けて新旧勘定を併合した
    • [42]1949年9月30日現在の株主数は744名、株式数は510千株であった
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1949年3月 株式上場
参考文献[20]-[42]
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [20]1938年8月24日の創立総会をもって、日本ベークライトと住友化学の共同出資で株式会社合成樹脂工業所を設立した
    • [21]合成樹脂工業所の資本総額は100万円で、1株50円の2万株に分けて日本ベークライトと住友化学が半数ずつ引き受けた
    • [22]統制経済への移行で主原料の石炭酸とホルマリンが配給制となり、国内の合成石炭酸は生産量が少なく爆薬原料でもあるため大部分が軍需方面にとられた
    • [23]塩原が提携に応じたのは原料入手が有利になることに加え、関西での販売増進に伴う分工場設置を検討していた時期だったためである
    • [24]大屋敦が合成樹脂進出を決意したのは新居浜製造所のアンモニア合成工場でホルマリン原料のメタノールを製造できるようになったためで、住友化学を肥料専門から総合化学工業へ展開させることをめざしていた
    • [25]1938年6月1日の覚書は、日本ベークライトが有するすべての技術を無償無条件で新会社に提供すること、販売は名古屋以東を日本ベークライト、以西を合成樹脂工業所とすることを定めた
    • [26]社名に住友の商号を冠さなかったのは、まだその資格のない小規模な事業であったことと、軍部がこの分野への住友の進出を好まなかったことによる
    • [27]1939年に立川の陸軍航空技術研究所からジュラルミンに代わる合成樹脂材料の研究依頼を受け、同年10月よりプロペラ素材・構造材料としての強化木の研究に着手した
    • [28]大馬力エンジン搭載の進行で木製プロペラはジュラルミン製に替わっていたが、1939年頃からボーキサイト入手難と低比重材質の要求で強化木への関心が高まった
    • [29]1941年3月に住友金属プロペラ製造所と提携して石炭酸樹脂浸漬硬化積層材製プロペラの製造試験に着手し、1943年に陸軍は半硬化積層材方式、海軍は全硬化積層材方式を採用した
    • [30]強化木の生産は向島工場の作業面積では足りず、亀有、墨田、大割野、宮野原、西尾、中野に工場を設けた
    • [31]資本金は1943年4月に300万円、1943年11月に500万円、1944年12月に400万円を増資し、500万円から1,700万円になった
    • [32]1943年12月から1945年2月までのプロペラ素材生産割当はシュワルツ式7,360片、モールド式100片で、生産実績は前者1,672片、後者52片であった
    • [33]全硬化積層材方式は正式採用の決定が出ぬまま空襲による混乱が始まり、実用品は皆無であった
    • [34]1945年3月9日の東京大空襲で向島工場の罹災率は建坪で62%、延坪で71%に達し、成形部門が大打撃を受けた
    • [35]戦前の石炭酸樹脂製品の生産量は全国の70〜80%を占めていたが、1948年度の実績では18.5%であった
    • [36]1946年8月11日に会社経理応急措置法による特別経理会社の指定を受けた
    • [38]1948年2月の過度経済力集中排除法の施行とともに、三共は日本ベークライトに対する経営権を放棄した
    • [39]1949年2月21日に850万円の増資を行ない資本金を2,550万円とした
    • [41]三共が放出した日本ベークライト株の多くを肩代わりして新しい大株主となったのは日新化学工業(現・住友化学工業)と日本カーバイド工業の2社で、1949年に経営権は三共から住友に移った
  • 株式会社年鑑 1950年版
    • [37]1946年8月に特別経理会社に指定され、1949年7月末日付で決定整備計画変更申請書の認可を受けて新旧勘定を併合した
    • [42]1949年9月30日現在の株主数は744名、株式数は510千株であった
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1949年3月 株式上場

1955年〜1対1の対等合併から、多樹脂を扱う素材企業への品目拡張

1955年3月1日、日本ベークライトと住友化工材工業が合併し、住友ベークライトが発足した。合併を促したのは主力であるフェノール樹脂の地位低下で、恒常的な原料高と製品安のなかで伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂、1952年には塩化ビニル樹脂にも抜かれていた。大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新を進めて品質で対抗できなくなる恐れがある一方、低級品では中小企業に価格で並べなかった。両社の大口出資者であり主原料の供給者でもある住友化学が合併を支援した。形式は日本ベークライトが住友化工材工業を吸収する合併だが、株式は1株につき1株を交付する1対1の対等合併で、資本金は両社を合算した2億2,000万円となった。規程類は大筋で住友化工材のものが踏襲され、初代社長には住友化学から来た原田珍重が就いた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [43]1955年2月1日に両社が合併し、2月28日の株主総会を経て3月1日に住友ベークライトとして正式発足した
    • [45]フェノール樹脂は恒常的な原料高・製品安で伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂に、1952年には塩化ビニル樹脂に抜かれた
    • [46]大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新と技術開発を進めており品質面で対抗できなくなる恐れがあり、低級品では中小企業の製品に価格競争力がなかった
    • [47]両社の大口出資会社であり主原料供給者でもある住友化学が合併を強力に支援した
    • [48]合併契約は日本ベークライトが存続して住友化工材を解散させ、額面株式200万株を住友化工材株主に1株につき1株の割合で交付すると定めた
    • [49]合併後の資本金は日本ベークライトの1億2,000万円と住友化工材の1億円を合算した2億2,000万円となった
    • [50]規程類は大筋において住友化工材のものがそのまま踏襲された
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1955年3月 日本ベークライト㈱と住友化工材工業㈱が合併して住友ベークライト㈱となる
  • 日本企業要覧 1961年版
    • [51]初代社長には住友化学工業から転じた原田珍重が就任した

両社は同種の製品に別々の商標を付けていたため、1956年6月からは頭にスミを付けた名称にそろえ、成形材料はスミコン、積層品はスミライトとなった。こうした商標と設備の一本化が、合併の後に最初に手がけた仕事だった。組織の面では、1955年3月に定めた事務章程が前身2社の組織を単に寄せ集めた内容にとどまった。そこで2カ月後に技術部を新設し、工場単位で進めていた研究の管理を本社が一手に担う形にした。空襲を避けた疎開工場だった長野県の中野工場は、関連する大工場が周りになく立地に難があり、1957年10月に閉じて成形品を津、西尾、川崎の3工場へ分けた。1959年11月には尼崎工場で行っていた積層板の製造も向島工場へ移している。労働条件の差は段階的に詰められ、労働組合が連合会から単一の組合になったのは合併から5年半後の1960年9月である

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [52]1956年6月11日から新製品名称の使用を開始し、成形材料はスミコン、積層品はスミライト、メラミン樹脂化粧板はデコラとした
    • [53]両社は同種製品に別商標を使っており、製品名称の統一が合併後の課題となった
    • [54]1955年3月1日制定の事務章程は旧2社の組織をそのまま合体させた程度だったため、5月25日の取締役会で一部改正した
    • [55]1955年5月25日の事務章程改正で技術部を設置し、従来各支店や工場が個別に実施していた研究管理を本社技術部門に一元化した
    • [56]中野工場は本質的に空爆を避けた疎開工場であり、周辺に関連大工場も存在せず立地条件がきわめて不利であった
    • [57]1957年10月31日に中野工場を閉鎖し、成形品製造は津、西尾、川崎の3工場体制となった
    • [58]1959年11月28日をもって尼崎工場の積層板製造を中止し、設備をすべて1960年初めに向島工場へ移管した
    • [59]労働組合連合会が単一労働組合となったのは1960年9月1日である

1962年、住友ベークライトは横浜市戸塚区に中央研究所を、静岡県藤枝市に静岡工場を開いた。研究は合併後も向島工場の建物を使い、各工場に研究課を置く形のままで、弾力的な運営を妨げていた。2月に発足した中央研究所は敷地31,053平方メートルで、研究を一元的に統轄し、必要な研究を経営の意志に従って進めることが設置の狙いだった。静岡工場の用地選定では、何を作るかを積み上げるのではなく経営陣が描く将来像から広さを決め、約30万平方メートルを取得した。尼崎の敷地の6倍半にあたる。製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸び、フェノール樹脂の構成比は35.8%から26.7%へ下がった単一の樹脂に寄りかからない品揃えを作ることが、研究と用地の両方に形を与えていた。

  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1962年1月 中央研究所(基礎研究所)発足
    • [61]1962年10月 静岡工場開設
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [62]合併後の研究部門は向島工場の建物を研究所として使い各工場に研究課を置く形態を残しており、業務の弾力的・有機的運営を妨げる要因となっていた
    • [63]中央研究所は1962年2月1日に発足し、敷地面積31,053平方メートル、建築延床面積9,293平方メートルであった
    • [64]原田社長は中央研究所の設置について、研究を一元的に統轄して会社の必要とする研究が経営の意志に従って迅速的確に行なわれることを願ってと述べた
    • [65]静岡工場の用地選定では、用地の広さは何の生産設備を置くかという積上げ方式でなくトップマネジメントが描く会社の将来の姿の構想によって決定すべきとされ、藤枝市高松地区の約30万平方メートルを購入した
    • [66]静岡工場の30万平方メートルは、1938年に着手した尼崎工場の敷地約4万6,000平方メートルの6倍半にあたる
    • [67]製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸びた
    • [68]品目別売上構成でフェノール樹脂は1955年に35.8%で第1位だったが、1964年には26.7%へ低下した
参考文献[43]-[68]
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [43]1955年2月1日に両社が合併し、2月28日の株主総会を経て3月1日に住友ベークライトとして正式発足した
    • [45]フェノール樹脂は恒常的な原料高・製品安で伸び悩み、生産量では1950年にユリア樹脂に、1952年には塩化ビニル樹脂に抜かれた
    • [46]大企業が資本力を背景に成形材料と積層品の設備更新と技術開発を進めており品質面で対抗できなくなる恐れがあり、低級品では中小企業の製品に価格競争力がなかった
    • [47]両社の大口出資会社であり主原料供給者でもある住友化学が合併を強力に支援した
    • [48]合併契約は日本ベークライトが存続して住友化工材を解散させ、額面株式200万株を住友化工材株主に1株につき1株の割合で交付すると定めた
    • [49]合併後の資本金は日本ベークライトの1億2,000万円と住友化工材の1億円を合算した2億2,000万円となった
    • [50]規程類は大筋において住友化工材のものがそのまま踏襲された
    • [52]1956年6月11日から新製品名称の使用を開始し、成形材料はスミコン、積層品はスミライト、メラミン樹脂化粧板はデコラとした
    • [53]両社は同種製品に別商標を使っており、製品名称の統一が合併後の課題となった
    • [54]1955年3月1日制定の事務章程は旧2社の組織をそのまま合体させた程度だったため、5月25日の取締役会で一部改正した
    • [55]1955年5月25日の事務章程改正で技術部を設置し、従来各支店や工場が個別に実施していた研究管理を本社技術部門に一元化した
    • [56]中野工場は本質的に空爆を避けた疎開工場であり、周辺に関連大工場も存在せず立地条件がきわめて不利であった
    • [57]1957年10月31日に中野工場を閉鎖し、成形品製造は津、西尾、川崎の3工場体制となった
    • [58]1959年11月28日をもって尼崎工場の積層板製造を中止し、設備をすべて1960年初めに向島工場へ移管した
    • [59]労働組合連合会が単一労働組合となったのは1960年9月1日である
    • [62]合併後の研究部門は向島工場の建物を研究所として使い各工場に研究課を置く形態を残しており、業務の弾力的・有機的運営を妨げる要因となっていた
    • [63]中央研究所は1962年2月1日に発足し、敷地面積31,053平方メートル、建築延床面積9,293平方メートルであった
    • [64]原田社長は中央研究所の設置について、研究を一元的に統轄して会社の必要とする研究が経営の意志に従って迅速的確に行なわれることを願ってと述べた
    • [65]静岡工場の用地選定では、用地の広さは何の生産設備を置くかという積上げ方式でなくトップマネジメントが描く会社の将来の姿の構想によって決定すべきとされ、藤枝市高松地区の約30万平方メートルを購入した
    • [66]静岡工場の30万平方メートルは、1938年に着手した尼崎工場の敷地約4万6,000平方メートルの6倍半にあたる
    • [67]製品売上高は1955年度の18億3,231万円から1964年度の124億1,388万円へ伸びた
    • [68]品目別売上構成でフェノール樹脂は1955年に35.8%で第1位だったが、1964年には26.7%へ低下した
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1955年3月 日本ベークライト㈱と住友化工材工業㈱が合併して住友ベークライト㈱となる
    • [60]1962年1月 中央研究所(基礎研究所)発足
    • [61]1962年10月 静岡工場開設
  • 日本企業要覧 1961年版
    • [51]初代社長には住友化学工業から転じた原田珍重が就任した

第2章 1963年〜 二度の減量経営を経た半導体封止材への集中

筆者考察y.sugiura, author

1965年から1971年までの6年で、住友ベークライトの半期売上高は60億円から159億円へ3倍近くになった。しかし同じ期間の経常利益の伸びは7割強、当期利益は15%にとどまる。量を積んでも利益が増えない体質を、第2代社長の野口保固は数値目標で締めにかかった。従業員1人当り月50万円、人員は原則として増やさない、3カ年計画を毎年組み替える。この管理が効いた分だけ、次に来た不況は人や設備ではなく製品の中身を問うことになった。輸出の65%を1品目のソ連向け電線被覆材が占めていたように、当時の稼ぎ頭は安く大量に出る汎用品だったからである。

石油危機のあと、住友ベークライトが減らしたのは人だった。1972年度から1978年度の7年で売上高は約370億円から672億円になり、従業員は約3,460名から約2,640名へ800名以上減っている。西尾工場を閉じ、向島と京都も移転を決めた。だが同じ7年のあいだに、月産7tで始まった半導体封止材が、集積回路の生産額の増加に引かれて年ごとに桁を上げていた。1984年の宇都宮工場は、その材料のために建てた22年ぶりの新工場である。減量経営は縮んでいく話に見えて、実際には何を残すかを決める作業だった。残ったのは、フェノール樹脂の加工技術を電子部品の側へ寄せた製品群である。

売上高の推移 1963年12月期から1984年12月期まで(億円)

101 63年 323 70年 511 75年 948 80年 1,234 84年

1965年〜中期経営計画による目標管理と、電電公社の要請が促した電子材料

1965年2月27日、原田珍重が会長に退き、野口保固が第2代社長に就いた。原田の10年で資本金は2億2,000万円から33億円、売上高は年18億円から125億円になっていたが、前年からの不況で樹脂業界は設備過剰と値崩れに直面していた。野口は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承という3つの方針を掲げ、同年7月の経営方針では経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則停止を打ち出した。事務用消耗品費や交際費など特定の経費を前期予算比で3割削る目標に対し、12月末までに約4割を削っている。同時に最重要の課題としたのが電気通信器材、すなわちエレクトロニクス部門への進出だった日本電信電話公社が電子式自動交換機の開発を進め、住友ベークライトにも部品と材料の開発を求めていた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [69]1965年2月27日の定時株主総会と取締役会で原田珍重が取締役会長となり、野口保固副社長が第2代代表取締役社長に就任した
    • [70]原田社長時代に資本金は2億2,000万円から33億円へ、売上高は年18億円から125億円へ拡大した
    • [71]1965年の不況で企業収益が戦後最低水準に落ち込み、当社業績も予断を許さない状況にあった
    • [72]野口新社長は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承の3基本方針を発表した
    • [73]1965年7月発表の経営方針は経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則的停止という減量経営を打ち出した
    • [74]事務用消耗品費、交際費、旅費交通費、通信費、図書費、広告宣伝費を前期予算比3割削減する目標に対し、1965年12月末で約4割の削減を達成した
    • [75]野口社長が最重要課題に掲げたのは電気通信器材事業部門すなわちエレクトロニクス部門への進出であった
    • [76]日本電信電話公社が電子式自動交換機(DEX)の開発を進め、当社にも部品・材料の開発を要請していた

1967年、野口社長は3カ年計画を毎年組み替えるローリング方式の中期経営計画を導入した。第1次計画は1967年の売上高170億円から1969年の240億円までを定め、生産性は1人当り月50万円、人員は増やさないと決めている。1967年の実績は168億円で目標に届かず、1人当り生産性も月45万円にとどまった。第2次計画のもと、1969年には売上高254億円と達成率97%まで戻し、生産性は月50万円を超えた。増員を認めない前提で売上目標を実現する手段が事務の機械化で、1966年7月にパンチカードシステムを導入して計算センターを設け、1967年12月には日本電気製の計算機を入れた。従来は何日もかかっていた製品別販売月報の作成が、印刷の完了まで45分に縮んだ。1969年12月期の売上高は136億8,111万円に達した

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [77]1967年に3カ年計画の見直しを毎年実施して各年度に新目標を示すローリング方式を採用した
    • [78]第1次中期経営計画の売上高目標は1967年170億円、1968年200億円、1969年240億円で、生産性目標は従業員1人当り月50万円、人員は原則として増員しないとされた
    • [79]1967年の実績は売上高168億円で目標未達、1人当り生産性も月45万円にとどまった
    • [80]1969年の実績は売上高254億円で達成率97%、生産性は月50万円を突破した
    • [81]1966年7月1日にパンチカードシステムを導入して計算センターが発足した
    • [82]1967年12月1日に計算センターへ日本電気製NEAC-2200モデル200を設置した
    • [83]製品別販売月報や原価計算用販売統計の作成は、従来の何日もかかる作業がコンピュータで印刷完了まで45分に短縮された
  • 日本企業要覧 1970年版
    • [84]1969年12月期の売上高は13,681,111千円、純利益は443,190千円であった

1968年10月、中央研究所はエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として売り出した。半導体の封止は金属やセラミックによる気密封止が主流だったが、工程が多く管理上の問題が絶えなかった。トランスファー成形による低圧封入なら封入工程を自動化でき、電気特性のばらつきも小さく抑えられる。溶融シリカで寸法変化を小さくし、1970年には離型性を上げたEME-130シリーズを出した。ただし生産量は月産7t程度で始まり、1976年まで動かない。この時期に伸びたのはむしろ銅張積層板で、低温での打抜き性を改めたPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、市場の50%を占めた。住友ベークライトは電子式自動交換機向けのシールド層入り銅張板を1971年8月から供給し、この品目でほぼ独占的な地位を得た

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [85]1968年10月にエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として上市した
    • [86]金属やセラミックによるハーメチック封止は多くの工程を必要とし工程管理上の問題が多発していた
    • [87]トランスファー成形による低圧封入は封入成形の自動化が可能で、バラツキの少ない高度な電気特性を保持できる利点があった
    • [88]溶融シリカの使用で寸法変化を小さくでき、1970年には硬化剤をアミン系に替えて離型性を向上させたEME-130シリーズを開発した
    • [89]EME-110、120、130シリーズは当初月産7t程度の数量で生産を開始し、1976年まで生産量に急激な変化はみられなかった
    • [90]低温打抜き性を改良したフェノール樹脂銅張積層板スミライトPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、シェア50%を占めた
    • [91]電子式自動交換機用シールド層入り銅張板ELC-4776は約2年の試作供試でほぼ独占的地歩を築き、1971年8月の向島工場の量産設備完成とともに供給を開始した
参考文献[69]-[91]
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [69]1965年2月27日の定時株主総会と取締役会で原田珍重が取締役会長となり、野口保固副社長が第2代代表取締役社長に就任した
    • [70]原田社長時代に資本金は2億2,000万円から33億円へ、売上高は年18億円から125億円へ拡大した
    • [71]1965年の不況で企業収益が戦後最低水準に落ち込み、当社業績も予断を許さない状況にあった
    • [72]野口新社長は事業採算性の尊重、新製品開発への傾注、輸出振興努力の継承の3基本方針を発表した
    • [73]1965年7月発表の経営方針は経費の節減、人員増加の抑制、新規設備投資の原則的停止という減量経営を打ち出した
    • [74]事務用消耗品費、交際費、旅費交通費、通信費、図書費、広告宣伝費を前期予算比3割削減する目標に対し、1965年12月末で約4割の削減を達成した
    • [75]野口社長が最重要課題に掲げたのは電気通信器材事業部門すなわちエレクトロニクス部門への進出であった
    • [76]日本電信電話公社が電子式自動交換機(DEX)の開発を進め、当社にも部品・材料の開発を要請していた
    • [77]1967年に3カ年計画の見直しを毎年実施して各年度に新目標を示すローリング方式を採用した
    • [78]第1次中期経営計画の売上高目標は1967年170億円、1968年200億円、1969年240億円で、生産性目標は従業員1人当り月50万円、人員は原則として増員しないとされた
    • [79]1967年の実績は売上高168億円で目標未達、1人当り生産性も月45万円にとどまった
    • [80]1969年の実績は売上高254億円で達成率97%、生産性は月50万円を突破した
    • [81]1966年7月1日にパンチカードシステムを導入して計算センターが発足した
    • [82]1967年12月1日に計算センターへ日本電気製NEAC-2200モデル200を設置した
    • [83]製品別販売月報や原価計算用販売統計の作成は、従来の何日もかかる作業がコンピュータで印刷完了まで45分に短縮された
    • [85]1968年10月にエポキシ樹脂低圧封入成形材料をスミコンEME-110として上市した
    • [86]金属やセラミックによるハーメチック封止は多くの工程を必要とし工程管理上の問題が多発していた
    • [87]トランスファー成形による低圧封入は封入成形の自動化が可能で、バラツキの少ない高度な電気特性を保持できる利点があった
    • [88]溶融シリカの使用で寸法変化を小さくでき、1970年には硬化剤をアミン系に替えて離型性を向上させたEME-130シリーズを開発した
    • [89]EME-110、120、130シリーズは当初月産7t程度の数量で生産を開始し、1976年まで生産量に急激な変化はみられなかった
    • [90]低温打抜き性を改良したフェノール樹脂銅張積層板スミライトPLC-2130は月産1万5,000平方メートル、シェア50%を占めた
    • [91]電子式自動交換機用シールド層入り銅張板ELC-4776は約2年の試作供試でほぼ独占的地歩を築き、1971年8月の向島工場の量産設備完成とともに供給を開始した
  • 日本企業要覧 1970年版
    • [84]1969年12月期の売上高は13,681,111千円、純利益は443,190千円であった

1971年〜ニクソン声明と石油危機が強いた、二度の減量経営

1971年8月、住友ベークライトは管理社員へ異例の非常事態宣言を発した。1970年度下期の売上高は180億円の目標を大きく下回る165億円、1971年度上期は154億円まで落ちている。電気機器、通信機、電線、鉄鋼の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がそろって減収となった。売上が減る一方で、人件費、減価償却費、金利といった固定費は増え続けている。8月15日のニクソン声明で円は1ドル360円から308円へ切り上がり、切上げ幅は16.88%となった。経費節減を訴えたが1971年度下期の経常利益は1億8,000万円まで落ち込み、配当は8分に下がる。当時の輸出はソ連向けの電線被覆用ビニルコンパウンドに偏り、1970年には1品目で全輸出額の65.3%を占めていた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [92]1971年8月に管理社員へ異例の非常事態宣言を発して経費節減を訴えた
    • [93]1970年度下期の売上高は180億円の目標を下回る165億円、1971年度上期は154億円まで減少した
    • [94]電気機器、通信機、電線、鉄鋼業界の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がいずれも大幅減収となった
    • [95]売上高が減少する一方で人件費、減価償却費、金利などの固定費は引き続き増加した
    • [96]1971年8月15日のニクソン声明を受けて円は1ドル360円から308円となり、切上げ幅は16.88%であった
    • [97]1971年度下期の経常利益は1億8,000万円に落ち込み、配当は8分となった
    • [98]ソ連向けビニルコンパウンドの輸出は1970年に31億2,758万円で、全輸出額の65.3%を占めた

1975年12月期、住友ベークライトは売上高510億6,200万円と前年から18%減らし、経常損失3億5,600万円を出した。1973年10月の石油危機で石油化学業界が生産制限に入り、一時は原料調達の目処が立たなくなる。1974年半ばからは需要が止まり、減少幅は平均30%に達して各工場が操業短縮に追い込まれた。1974年12月に不況対策委員会を設け、1975年前半で約4億円を節減する対策を打ち出した。追い討ちをかけたのが塩化ビニルの安全性をめぐる騒動である。1975年9月にアメリカ食品医薬品局が硬質塩化ビニル樹脂の食品容器使用へ厳しい基準を提案すると、包装用ビニルシートの対米輸出は止まり、国内でもマーガリン容器用が360tから244tへ落ちた。代替のポリプロピレンのシート設備を1976年2月に尼崎工場へ据えた

  • 日本企業要覧 1976年版
    • [99]1975年12月期の年間売上高は510億6,200万円で対前年比18%の減少、経常損失3億5,600万円、当期利益2億6,500万円であった
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [100]1975年度の年間売上高は前年度比18%減、経常損益は3億5,600万円の損失であった
    • [101]石油化学業界が原油供給量の大幅削減と価格暴騰でいち早く生産制限を実施したため、一時は原料調達の目処がつかない局面に立ち至った
    • [102]1974年6月頃から需要停滞があらわれ、平均30%、製品によっては50%まで減少して各工場とも操業短縮に追い込まれた
    • [103]1974年12月26日付で不況対策委員会が発足し、第1次不況対策として1975年1月から6月の期間に約4億円の節減を打ち出した
    • [104]1975年に塩ビモノマー騒動が起き、包装用ビニルシートの需要が落ち込んだ
    • [105]1975年9月3日のアメリカ食品医薬品局の基準提案を受けて包装用ビニルシートの対米輸出は9月から停止し、マーガリン容器用は1975年前半の360tから後半244tへ、粉乳缶用は213tから75tへ減少した
    • [106]代替品としてポリプロピレンに着目し、1976年2月14日に尼崎工場へ月産能力150tのPPシート製造設備を完成させた

1972年度から1978年度までの7年間で、売上高は約370億円から672億円へ伸びた一方、従業員は約3,460名から約2,640名へ減った。1977年12月31日には西尾工場を閉じている。1943年に日本ベークライトの疎開工場として生まれ、1976年度の生産高は約24億円、従業員は210名余を数えたが、建物の老朽化が進みながら住居地域にあって全面建替えが認められず、法の許す範囲で建て替えても採算の合う規模にならなかった。生産していた成形品は津工場と協力各社へ移した。同じ1977年、住友グループ各社で構成する白水会へ正式に加入している。海外では1976年2月にインドネシアで合弁会社を設け、合板用接着剤と原料のホルマリンの現地生産に入った。出資比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字に転じた

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [107]1972年度上期から1978年度下期までの7年間で年間売上高は約370億円から672億円に伸長した
    • [108]同じ7年間で従業員数は約3,460名から約2,640名に減少した
    • [109]1977年12月31日に西尾工場を閉鎖し、1943年の開設以来33年間の生産活動を終えた
    • [110]西尾工場の1976年度生産高は約24億円、従業員は210名余であった
    • [111]西尾工場は建家の老朽化が著しいが都市計画法の住居地域内にあり建築基準法上の全面建替えが許されず、法的許容範囲での建替えでは経営適正規模を得られなかった
    • [112]西尾工場で生産していた成形品は1977年中に津工場と西尾地区の協力各社などへ移管した
    • [113]1977年4月27日に住友グループ16社で構成されていた白水会への正式加入が決定した
    • [114]1976年2月4日にインドネシアで合弁会社P.T. Pamolite Adhesive Industryを設立し、ユリア・メラミン樹脂接着剤の製造と原料ホルマリンの自家生産を行った
    • [115]P.T. Pamolite Adhesive Industryは当社持株比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字基調に入った
参考文献[92]-[115]
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [92]1971年8月に管理社員へ異例の非常事態宣言を発して経費節減を訴えた
    • [93]1970年度下期の売上高は180億円の目標を下回る165億円、1971年度上期は154億円まで減少した
    • [94]電気機器、通信機、電線、鉄鋼業界の不振が響き、フェノール樹脂、塩化ビニル樹脂、精密成形品がいずれも大幅減収となった
    • [95]売上高が減少する一方で人件費、減価償却費、金利などの固定費は引き続き増加した
    • [96]1971年8月15日のニクソン声明を受けて円は1ドル360円から308円となり、切上げ幅は16.88%であった
    • [97]1971年度下期の経常利益は1億8,000万円に落ち込み、配当は8分となった
    • [98]ソ連向けビニルコンパウンドの輸出は1970年に31億2,758万円で、全輸出額の65.3%を占めた
    • [100]1975年度の年間売上高は前年度比18%減、経常損益は3億5,600万円の損失であった
    • [101]石油化学業界が原油供給量の大幅削減と価格暴騰でいち早く生産制限を実施したため、一時は原料調達の目処がつかない局面に立ち至った
    • [102]1974年6月頃から需要停滞があらわれ、平均30%、製品によっては50%まで減少して各工場とも操業短縮に追い込まれた
    • [103]1974年12月26日付で不況対策委員会が発足し、第1次不況対策として1975年1月から6月の期間に約4億円の節減を打ち出した
    • [104]1975年に塩ビモノマー騒動が起き、包装用ビニルシートの需要が落ち込んだ
    • [105]1975年9月3日のアメリカ食品医薬品局の基準提案を受けて包装用ビニルシートの対米輸出は9月から停止し、マーガリン容器用は1975年前半の360tから後半244tへ、粉乳缶用は213tから75tへ減少した
    • [106]代替品としてポリプロピレンに着目し、1976年2月14日に尼崎工場へ月産能力150tのPPシート製造設備を完成させた
    • [107]1972年度上期から1978年度下期までの7年間で年間売上高は約370億円から672億円に伸長した
    • [108]同じ7年間で従業員数は約3,460名から約2,640名に減少した
    • [109]1977年12月31日に西尾工場を閉鎖し、1943年の開設以来33年間の生産活動を終えた
    • [110]西尾工場の1976年度生産高は約24億円、従業員は210名余であった
    • [111]西尾工場は建家の老朽化が著しいが都市計画法の住居地域内にあり建築基準法上の全面建替えが許されず、法的許容範囲での建替えでは経営適正規模を得られなかった
    • [112]西尾工場で生産していた成形品は1977年中に津工場と西尾地区の協力各社などへ移管した
    • [113]1977年4月27日に住友グループ16社で構成されていた白水会への正式加入が決定した
    • [114]1976年2月4日にインドネシアで合弁会社P.T. Pamolite Adhesive Industryを設立し、ユリア・メラミン樹脂接着剤の製造と原料ホルマリンの自家生産を行った
    • [115]P.T. Pamolite Adhesive Industryは当社持株比率60%、総工費約220万ドルで、操業開始から2年で黒字基調に入った
  • 日本企業要覧 1976年版
    • [99]1975年12月期の年間売上高は510億6,200万円で対前年比18%の減少、経常損失3億5,600万円、当期利益2億6,500万円であった

1979年〜高付加価値へ寄せた第6次計画と、封止材への生産集中

1979年3月、永松孝信が会長に退き、岡田英之が社長に就いた。石油が足りなくなるのは避けられず、石油化学製品に少しばかりの付加価値を上乗せして稼ぐやり方はいずれ通用しなくなる、という見立てが背景にあった。そうしたなかで同年4月に打ち出されたのが第6次中期経営計画である。目標は最終年度の1981年に経常利益約40億円、自己資本比率30%以上とされた。同じ年度の売上高のうち15%は新製品と改良品で賄う前提だった。挙がったのは高耐熱のフェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、銅張積層板、そして血液回路をはじめとする医療関連製品である。1980年の年頭には、減量経営で得た蓄えはもう尽きたとして、この年を第2次減量経営の時期とした。経常利益は1979年度に42億8,800万円、1980年度に46億2,900万円と目標を上回ったものの、1981年度には25億8,700万円まで下がり、44%の減益となった

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [116]1979年3月29日の定時株主総会と取締役会で永松社長が退任して会長に就任し、岡田英之が社長に就任した
    • [117]石油化学製品を原料としてわずかな付加価値を加えて利益を得る構造では、石油不足が避けられない以上限界があるとの判断があった
    • [118]1979年4月策定の第6次中期経営計画は最終年度の経常利益を約40億円とし、自己資本比率30%以上の達成を見込んだ
    • [119]岡田社長は1979年5月14日の記者会見で最終年度の売上高に新製品・改良品を15%織り込んでいると述べ、高耐熱・難燃フェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、高性能銅張積層板、食品包装用複合シート、医療関連製品などを挙げた
    • [120]岡田社長は1980年の年頭に減量経営の過去の遺産はすでに使い果たしたと述べ、この年を第2次減量経営の時期と位置付けた
    • [121]経常利益は1978年度20億8,900万円、1979年度42億8,800万円、1980年度46億2,900万円と伸びたが、1981年度は売上高933億円、経常利益25億8,700万円と前期比44%の減益となった

半導体封止材の生産能力は、1970年代の末から10年足らずで200倍を超える階段を上った。1968年に月産7tで始まったEMEは、1975年10月にフェノール硬化系のシリーズを完成させてから動き出し、1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びる。1979年後半に向島工場へ増産設備を入れて月産200t、1981年3月には九州ベークライト工業に月産250tの設備を立てた。九州を選んだのは、電話機需要の伸び悩みで同社の稼働率が上がらず、かつ九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる。1983年10月の第2期工事で九州の能力は月産600tとなり、全社で月産1,000tに達している。国内の集積回路の年間生産額が1976年の1,953億円から1981年の6,937億円へ増えた時期と重なる

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [122]EMEの生産は当初月産7t程度で始まり、1984年11月の宇都宮工場完成で全社の生産能力は月産1,500tとなった
    • [123]1975年10月にフェノール硬化系のスミコンEME-155F、153Fシリーズを完成させた
    • [124]EMEの生産量は1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びた
    • [125]1979年後半に向島工場へ大型増産設備を設置して月産能力200tとし、九州ベークライト工業では1980年4月に月産250t設備の建設に着手して1981年3月6日に竣工した
    • [126]EME生産拠点に九州ベークライト工業を選んだのは、電話機需要の伸悩みで稼働率が上がらなかったことと、九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる
    • [127]1982年11月に始めた第2期工事が1983年10月8日に完成し、九州ベークライト工業の月産能力は250tから600tへ増えて向島工場を上回り、全社のEME生産能力は月産1,000tとなった
    • [128]日本の集積回路の年間生産額は1976年1,953億円、1978年2,823億円、1980年5,702億円、1981年6,937億円と推移した

1984年11月30日、栃木県宇都宮市の清原工業団地に宇都宮工場が竣工した。静岡以来22年ぶりの新工場で、敷地5万平方メートル、EME製造ラインに約30億円を投じ、着工から約8カ月で立ち上げている。市街地に立地する既存の工場には新しい製品の設備を置く余地がなく、生産拠点を作り直す必要があった。これで封止材の生産能力は月産1,500tに増えた。1984年度の売上高は1,234億3,000万円、経常利益60億4,100万円と過去最高になり、設備投資額も106億3,100万円に達している。販売の足場も1980年の米国法人、1982年のシンガポール法人、1984年のオランダ法人と外へ伸ばし、1989年にはシンガポールに工場を構えたフェノール樹脂の加工技術から出発した会社は、電子材料の供給者として立ち直った。

  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [129]1984年4月9日に第1期工事を起工し、11月30日に竣工式を行って11月1日付で宇都宮工場を設置した
    • [131]宇都宮市の清原工業団地に敷地5万平方メートルを取得し、建屋面積6,500平方メートルのEME製造ラインの工費は約30億円、工期は約8カ月であった
    • [132]市街地に立地するなどの理由で新たな展開の余地の少ない既存の各工場に代わる生産拠点づくりが不可欠であった
    • [133]1984年11月の宇都宮工場完成で全社のEME生産能力は月産1,000tから1,500tへ増強された
    • [134]1984年度の売上高は1,234億3,000万円で前期比15.9%増、経常利益60億4,100万円、当期利益28億3,500万円と過去最高の水準となった
    • [135]1984年度の設備投資総額は前期の2倍強の106億3,100万円であった
    • [136]1980年1月に米国にSumitomo Plastics America Inc.、1982年4月にSumitomo Bakelite Singapore PTE. Ltd.、1984年12月にオランダにSumitomo B.V.を設立した
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [130]1984年11月 宇都宮工場を新設
    • [137]1989年10月 Sumitomo Bakelite Singapore Pte. Ltd.工場を新設
参考文献[116]-[137]
  • 住友ベークライト社史(1986年)
    • [116]1979年3月29日の定時株主総会と取締役会で永松社長が退任して会長に就任し、岡田英之が社長に就任した
    • [117]石油化学製品を原料としてわずかな付加価値を加えて利益を得る構造では、石油不足が避けられない以上限界があるとの判断があった
    • [118]1979年4月策定の第6次中期経営計画は最終年度の経常利益を約40億円とし、自己資本比率30%以上の達成を見込んだ
    • [119]岡田社長は1979年5月14日の記者会見で最終年度の売上高に新製品・改良品を15%織り込んでいると述べ、高耐熱・難燃フェノール樹脂成形材料、エポキシ樹脂低圧封入成形材料、高性能銅張積層板、食品包装用複合シート、医療関連製品などを挙げた
    • [120]岡田社長は1980年の年頭に減量経営の過去の遺産はすでに使い果たしたと述べ、この年を第2次減量経営の時期と位置付けた
    • [121]経常利益は1978年度20億8,900万円、1979年度42億8,800万円、1980年度46億2,900万円と伸びたが、1981年度は売上高933億円、経常利益25億8,700万円と前期比44%の減益となった
    • [122]EMEの生産は当初月産7t程度で始まり、1984年11月の宇都宮工場完成で全社の生産能力は月産1,500tとなった
    • [123]1975年10月にフェノール硬化系のスミコンEME-155F、153Fシリーズを完成させた
    • [124]EMEの生産量は1976年度45t、1977年度80t、1978年度120tと伸びた
    • [125]1979年後半に向島工場へ大型増産設備を設置して月産能力200tとし、九州ベークライト工業では1980年4月に月産250t設備の建設に着手して1981年3月6日に竣工した
    • [126]EME生産拠点に九州ベークライト工業を選んだのは、電話機需要の伸悩みで稼働率が上がらなかったことと、九州が集積回路の一大生産拠点だったことによる
    • [127]1982年11月に始めた第2期工事が1983年10月8日に完成し、九州ベークライト工業の月産能力は250tから600tへ増えて向島工場を上回り、全社のEME生産能力は月産1,000tとなった
    • [128]日本の集積回路の年間生産額は1976年1,953億円、1978年2,823億円、1980年5,702億円、1981年6,937億円と推移した
    • [129]1984年4月9日に第1期工事を起工し、11月30日に竣工式を行って11月1日付で宇都宮工場を設置した
    • [131]宇都宮市の清原工業団地に敷地5万平方メートルを取得し、建屋面積6,500平方メートルのEME製造ラインの工費は約30億円、工期は約8カ月であった
    • [132]市街地に立地するなどの理由で新たな展開の余地の少ない既存の各工場に代わる生産拠点づくりが不可欠であった
    • [133]1984年11月の宇都宮工場完成で全社のEME生産能力は月産1,000tから1,500tへ増強された
    • [134]1984年度の売上高は1,234億3,000万円で前期比15.9%増、経常利益60億4,100万円、当期利益28億3,500万円と過去最高の水準となった
    • [135]1984年度の設備投資総額は前期の2倍強の106億3,100万円であった
    • [136]1980年1月に米国にSumitomo Plastics America Inc.、1982年4月にSumitomo Bakelite Singapore PTE. Ltd.、1984年12月にオランダにSumitomo B.V.を設立した
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
    • [130]1984年11月 宇都宮工場を新設
    • [137]1989年10月 Sumitomo Bakelite Singapore Pte. Ltd.工場を新設

第3章 1990-2010 (気が向いたら執筆します!) 秋田住友ベークの設立と中国進出、欧米フェノール樹脂事業の相次ぐ買収

第4章 2011-2026 (気が向いたら執筆します!) Vaupell買収と川澄化学工業の完全子会社化による医療機器事業の強化

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歴史年表 1932〜2021年

住友ベークライトの沿革1932〜2021年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1932〜1962年フェノール樹脂専業から多樹脂の素材企業への転換三共からフェノール系合成樹脂事業を継承
日本ベークライトを設立★★
株式上場
原田珍重住友化工材工業との合併と、住友化学傘下での新会社の発足

1955年3月、国産フェノール樹脂の草分けである日本ベークライトと、住友化学と共同出資の合成樹脂工業所を源流とする住友化工材工業が合併し、社名を住友ベークライトへ改めた。両社はもともと住友化学工業の系列下にあり、合成樹脂の川下加工を担う会社を一本化する統合であった。

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★★★
原田珍重中央研究所(基礎研究所)発足
原田珍重静岡工場を新設
1963〜1989年二度の減量経営を経た半導体封止材への集中岡田英之宇都宮工場を新設
岡田英之SumiDurez Singapore Pte. Ltd.に出資
岡田英之Sumitomo Bakelite Singapore Pte. Ltd.工場を新設
1990〜2010年秋田住友ベークの設立と中国進出、欧米フェノール樹脂事業の相次ぐ買収岡田英之SNC Industrial Laminates Sdn. Bhd.を設立
岡田英之神戸基礎研究所を新設
円田直人エスエフシイと秋田地区3子会社(秋田ベークライト他)を合併し秋田住友ベークを設立
円田直人蘇州住友電木有限公司を設立
円田直人台湾住友培科股份有限公司を設立
守谷恒夫米国 Occidental Chemical Corporation のフェノール樹脂事業を買収★★
守谷恒夫Goodrich Corporationの電子材料研究部門を買収
守谷恒夫Fers Resins, S.A.U. ほか2社を買収
小川富太郎Vyncolit North America, Inc. と同 NV を買収
小川富太郎南通住友電木有限公司を設立
2011〜2026年Vaupell買収と川澄化学工業の完全子会社化による医療機器事業の強化林茂基礎研究所と神戸基礎研究所を統合
林茂神戸事業所内に先進技術開発研究所を新設
林茂川澄化学工業の子会社化と併せた医療機器・航空機部品事業の構築

2014年4月21日にH.I.G. Capital, LLCの関連会社と契約を締結し、同年6月12日に米Vaupell Holdingsの全株式を取得原価282億96百万円で取得して子会社とした経営判断。新規事業としての航空機内装部品事業への本格的な進出と医療機器事業の国際展開が理由である。2020年10月には川澄化学工業を270億38百万円で完全子会社とした。

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★★★
藤原一彦川澄化学工業と資本業務提携★★
藤原一彦川澄化学工業を持分法適用関連会社化
藤原一彦関連会社の川澄化学工業を株式公開買付と株式売渡請求により完全子会社化
藤原一彦医療機器事業を会社分割によりSBカワスミへ事業承継★★
出典・参考 7件
出典・参考
  • 住友ベークライト 有価証券報告書 第134期(2025年3月期)【沿革】
  • 住友ベークライト社史(1986年)
  • 株式会社年鑑 1950年版
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
  • 日本企業要覧 1961年版
  • 日本企業要覧 1970年版
  • 日本企業要覧 1976年版

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