ピジョン の歴史

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創業 1957年
創業者 仲田祐一
創業地 神奈川県茅ヶ崎市
創業 1957年8月15日、仲田祐一氏が神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を
1957年8月15日、仲田祐一氏が神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した。前身は1948年創業の哺乳器メーカーで、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いが20万円から25万円にのぼる状態にあった。シベリア抑留を経て1947年7月に帰国し、大連に築いた資産を失っていた仲田は1951年に経営参加を持ちかけられ、20数種類の訴訟と2度の職務遂行停止命令を経て支配権を掌握した。哺乳器と乳首を作る同業は当時30社ほどあり、大半は地元の卸店の名で売る地域のガラス・ゴム業者だった。仲田は単品を競うのではなく調乳・洗浄・消毒まで一式を並べる品ぞろえを選び、1966年6月に商号をピジョンへ改めた。
決断 顧客の数が減る市場で、赤ちゃん一人あたりの売上を増やす方を選んだ。出生数は第二次
顧客の数が減る市場で、赤ちゃん一人あたりの売上を増やす方を選んだ。出生数は第二次ベビーブーム期の209万人を頂点に減り続け、1993年には118万5,000人ほどになった。ピジョンの哺乳器シェアは1971年の93%から1989年に71.8%へ下がり、1971年に45%を持っていた紙おむつは1978年のプロクター・アンド・ギャンブル参入でほとんど失われている。1986年8月に母親約200人のモニター集団を組織し、1988年9月の中長期商品戦略で耐久品の哺乳器から消耗品と隣接領域へ品目を入れ替える方針を決めた。ウエットティッシュのおしりナップは参入から1年かからず先行2社を抜き、1995年1月期にはスキンケア用品92億円が授乳関連用品66億円を上回った。母数が4割減るあいだに売上が倍増したのは、一人が使う品目を増やしたからである。
現況 中国とシンガポールで売上の47%、セグメント利益の75%を出している。2025年
中国とシンガポールで売上の47%、セグメント利益の75%を出している。2025年12月期の連結売上高は1,091億円、営業利益は131億円だった。事業別では中国が売上411億円・利益105億円で最も大きく、日本は売上364億円に対し利益26億円にとどまる。米州・欧州を担うランシノは売上219億円・利益15億円、シンガポールは売上98億円・利益21億円である。中国の比重は2002年4月の中国進出と国家衛生部と共同の母乳育児相談室の開設から積み上がったもので、値下げでも広告でもなく病産院での指導を通じて作られた。2023年には出生数の減少と地場ブランドの台頭、処理水の海洋放出に伴う買い控えで中国売上が前年同期比43%減となり、中国事業の位置づけを高成長から安定成長へ改めて、成長投資の中心を米州・欧州へ移した。
競合 哺乳器と乳首で9割を保った会社が、隣の品目では首位を取れなかった。1971年のシ
哺乳器と乳首で9割を保った会社が、隣の品目では首位を取れなかった。1971年のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%だったが、1989年時点のベビー石けんは牛乳石鹸の33.2%に対し33.0%、母乳パッドはピップフジモトの50.6%に対し37.8%で、いずれも2位に置かれた。日本で最初に紙おむつを売り出しながら、1978年に参入したプロクター・アンド・ギャンブルと、パンツ型紙おむつで市場を広げたユニ・チャームに市場を明け渡している。育児用品の外へ出た保育でも、2004年4月に国立病院機構の院内保育園113か所を一括受託して首位に立ったが、2018年3月末で契約が満了した。品ぞろえで広げた領域はどれも首位を取れず、2026年からの成長戦略は創業の哺乳器へ戻っている。
長期業績の推移 1950〜2025年
ピジョン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年1月期2025年12月期

第1章 1957年〜 引揚げ者が引き受けた哺乳器メーカーと国内シェア9割の独占(1957〜1973)

1957年〜シベリア抑留から帰った男が引き受けた月商23万円の会社

ピジョンの前身は1948年に創業した哺乳器メーカーであり、当時としては目新しいアメリカ式の哺乳ビンを作っていた。ただし経営は成り立っておらず、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いが20万円から25万円にのぼる状態だった。仲田祐一氏がこの会社への経営参加を持ちかけられたのは1951年で、内情を知ったときにはすでに引き返せないところまで足を踏み入れていた。前任者との争いは訴訟が20数種類にのぼり、仲田祐一氏自身も裁判所から職務遂行停止命令を2回受けた。支配権を掌握したのは1955年前後で、そのうえで1957年8月15日、神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した。

  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
    • [1]ピジョンは1948年(昭和23年)の創業。アメリカ式の哺乳ビンを製造していた
    • [2]経営参加当時、月商23万円に対し月給の支払いが20〜25万円だった
    • [3]仲田祐一氏がピジョンへ経営参加したのは1951年(昭和26年)
    • [4]前任者との訴訟は20数種類、職務遂行停止命令を2回受けた
    • [5]支配権の掌握は1955年(昭和30年)前後
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1957年8月15日 神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立

仲田祐一氏は1910年6月23日に新潟県直江津市で生まれ、1926年に県立直江津農商学校を出て神戸の近藤忠商店に入った。室内装飾品の製造販売を扱う店で、1935年まで勤めて室内装飾と家具の知識を身につけた。1945年ごろの時点では、大陸での土地売買によって10万坪を超える農園の持ち主となっていた。これに先立ち、大連の幾久屋百貨店では家具・内装飾部の主任を務めている。戦局が悪くなると新潟の資産まで処分して大連へ移していたため、敗戦で全てを失った。1945年5月には現地で召集され、ソ満国境ムーリンの部隊に入ったが、そのとき一緒に召集された13名で生還したのは2名だけだった。ソ連軍の捕虜となってシベリアへ送られ、日本の土を再び踏んだのは1947年7月である。

  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
    • [7]仲田祐一氏は1910年(明治43年)6月23日に新潟県直江津市で生まれた
    • [8]1926年(大正15年)直江津農商学校を卒業し神戸の近藤忠商店へ入店、1935年まで勤務
    • [9]神戸の近藤忠商店はテーブル掛け・カーテンなどの室内装飾品の製造販売を行う店で、仲田祐一氏は昭和10年(1935年)まで勤め、室内装飾と家具についての専門的な知識を身につけた
    • [10]大連での土地取引により1945年ごろには10万坪を超える農園を所有していた
    • [11]大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任を務めた
    • [12]戦局が熾烈になると新潟にもっていた資産を整理して大連へ移しており、これは結果として大失敗で、終戦で内地に帰ったときはまったくの無一物になった
    • [13]1945年5月に現地召集。同期の召集兵13名のうち生還は2名
    • [14]シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)7月に帰国

仲田祐一氏が引き受けた市場は、小さな作り手が多数ひしめく状態にあった。哺乳器と乳首を作って売っていたメーカーは30社ほどあったが、全国ブランドとして売っていたのはピジョンを含む数社にすぎず、大半は地域のガラス製造業者やゴム製造業者が地元の卸店の名前で売る商品だった。この構造の中で仲田祐一氏が差をつける手段としたのは、一品ごとの作り分けではなく品ぞろえだった。軸は哺乳器である。そこに調乳・洗浄・消毒の用品を一通り加え、授乳に要る道具をまとめて供給する形をとった。乳幼児の発達の段階に応じて、ミルクの量や出る速さの違いで選べる商品をそろえたのも、同じ時期のことである

  • 証券 1995年9月号
    • [15]当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度
    • [16]設立当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度で、そのうちナショナルブランドとして販売していたのは同社を含む数社のみだった
    • [17]ナショナルブランドとして販売していたのはピジョンを含む数社のみ、大半は地域のガラス・ゴム製造メーカーによる地域卸店ブランドだった
    • [18]授乳関連用品をトータルに取り扱うことにより、同業他社との商品性による差別化を図った
    • [19]哺乳器に関連する調乳・洗浄・消毒用品まで商品展開し、授乳関連用品をトータルに扱うことで同業他社と差別化した
    • [20]乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品をラインナップした
参考文献[1]-[20]
    • [1]ピジョンは1948年(昭和23年)の創業。アメリカ式の哺乳ビンを製造していた
    • [2]経営参加当時、月商23万円に対し月給の支払いが20〜25万円だった
    • [3]仲田祐一氏がピジョンへ経営参加したのは1951年(昭和26年)
    • [4]前任者との訴訟は20数種類、職務遂行停止命令を2回受けた
    • [5]支配権の掌握は1955年(昭和30年)前後
    • [7]仲田祐一氏は1910年(明治43年)6月23日に新潟県直江津市で生まれた
    • [8]1926年(大正15年)直江津農商学校を卒業し神戸の近藤忠商店へ入店、1935年まで勤務
    • [9]神戸の近藤忠商店はテーブル掛け・カーテンなどの室内装飾品の製造販売を行う店で、仲田祐一氏は昭和10年(1935年)まで勤め、室内装飾と家具についての専門的な知識を身につけた
    • [10]大連での土地取引により1945年ごろには10万坪を超える農園を所有していた
    • [11]大連の幾久屋百貨店で家具・内装飾部の主任を務めた
    • [12]戦局が熾烈になると新潟にもっていた資産を整理して大連へ移しており、これは結果として大失敗で、終戦で内地に帰ったときはまったくの無一物になった
    • [13]1945年5月に現地召集。同期の召集兵13名のうち生還は2名
    • [14]シベリア抑留を経て1947年(昭和22年)7月に帰国
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1957年8月15日 神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立
    • [15]当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度
    • [16]設立当時、哺乳器・乳首の製造販売を行っていたメーカーは30社程度で、そのうちナショナルブランドとして販売していたのは同社を含む数社のみだった
    • [17]ナショナルブランドとして販売していたのはピジョンを含む数社のみ、大半は地域のガラス・ゴム製造メーカーによる地域卸店ブランドだった
    • [18]授乳関連用品をトータルに取り扱うことにより、同業他社との商品性による差別化を図った
    • [19]哺乳器に関連する調乳・洗浄・消毒用品まで商品展開し、授乳関連用品をトータルに扱うことで同業他社と差別化した
    • [20]乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品をラインナップした

1967年〜病・産院への普及活動とJIS規格の取得による全国ブランド化

品ぞろえと並ぶもう一方の手立ては、母親が最初に育児を教わる場所を押さえることだった。乳業メーカーと組んで病院・産院に商品を持ち込み、マタニティ雑誌・ベビー雑誌やテレビの広告と合わせて、育児に携わる人への知名度を上げていった。規格の面でも足場を確立しており、ピジョンの"キャップ式哺乳器"の規格は1967年にJIS規格へ認定された。営業拠点も増やし、1958年の東京出張所を皮切りに、1963年に大阪、1964年に福岡、1965年に名古屋と札幌、1967年に広島、1968年に仙台と、全国主要7都市へ広げた

  • 証券 1995年9月号
    • [21]乳業メーカーとのタイアップにより、育児の原点である病・産院への商品普及活動を進めた
    • [22]乳業メーカーとのタイアップにより病・産院への商品普及活動を行い、マタニティ・ベビー雑誌やテレビでの広告宣伝を積極的に進めた
    • [23]「キャップ式哺乳器」の規格が1967年(昭和42年)にJIS規格に認定された
    • [26]昭和40年代後半には哺乳器・乳首市場で80%の占有率を得るとともに営業拠点を全国主要7都市に展開した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1958年3月 東京出張所(現・東日本支店)を開設
    • [25]1963年1月 大阪出張所、1964年9月 福岡出張所、1965年7月 名古屋出張所、1965年8月 札幌出張所、1967年4月 広島出張所、1968年6月 仙台出張所を開設

実用新案は300種類に達し、哺乳器・調乳器具・離乳用品・育児用品・洗浄消毒器具の大半に仲田祐一社長の発想が盛り込まれていた。商品の設計自体、社長本人の手になるものだった。逸話としては、新潟へ墓参りに帰ったとき持った醤油ビンをもとに、乳児向けのジュースのみ器を考え出したという話が伝わる。乳房と乳首の研究は実地で数年に及び、その対象は千人近くになったとされる。これを取り上げた"週刊文春"の見出しは"オッパイ社長奮戦す"だった。求められているのはどんな商品か、いくらなら売れるか、利益はどれほど出るか、将来性はあるか、という順で商品化を判断すると仲田祐一社長は語った。

  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
    • [27]実用新案は300種類にのぼり、主要製品のほとんどに仲田社長のアイデアが盛り込まれている
    • [28]同社が売り出している主要製品のほとんどすべてに仲田社長のアイデアが盛り込まれており、その成果は実用新案という形で300種類にのぼっている
    • [29]主要製品は哺乳器、調乳器具、離乳用品、育児用品、洗浄消毒器具
    • [30]新潟へ墓参に帰ったとき手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した
    • [31]乳房と乳首の実地研究の対象は千人に近いとされ、『週刊文春』が「オッパイ社長奮戦す」として紹介した
    • [32]商品開発は①どういう商品が要求されているか②どのくらいの金額なら売れるか③利益がどのくらい出るか④将来性があるか、の順で作られると仲田社長は述べた
参考文献[21]-[32]
    • [21]乳業メーカーとのタイアップにより、育児の原点である病・産院への商品普及活動を進めた
    • [22]乳業メーカーとのタイアップにより病・産院への商品普及活動を行い、マタニティ・ベビー雑誌やテレビでの広告宣伝を積極的に進めた
    • [23]「キャップ式哺乳器」の規格が1967年(昭和42年)にJIS規格に認定された
    • [26]昭和40年代後半には哺乳器・乳首市場で80%の占有率を得るとともに営業拠点を全国主要7都市に展開した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1958年3月 東京出張所(現・東日本支店)を開設
    • [25]1963年1月 大阪出張所、1964年9月 福岡出張所、1965年7月 名古屋出張所、1965年8月 札幌出張所、1967年4月 広島出張所、1968年6月 仙台出張所を開設
    • [27]実用新案は300種類にのぼり、主要製品のほとんどに仲田社長のアイデアが盛り込まれている
    • [28]同社が売り出している主要製品のほとんどすべてに仲田社長のアイデアが盛り込まれており、その成果は実用新案という形で300種類にのぼっている
    • [29]主要製品は哺乳器、調乳器具、離乳用品、育児用品、洗浄消毒器具
    • [30]新潟へ墓参に帰ったとき手にした醤油ビンから乳児用のジュースのみ器を考案した
    • [31]乳房と乳首の実地研究の対象は千人に近いとされ、『週刊文春』が「オッパイ社長奮戦す」として紹介した
    • [32]商品開発は①どういう商品が要求されているか②どのくらいの金額なら売れるか③利益がどのくらい出るか④将来性があるか、の順で作られると仲田社長は述べた

1970年〜第二次ベビーブーム下で哺乳器シェア93%に達した独占状態

人工栄養で子どもを育てる家庭が増えるにつれ、ピジョンの名は母親たちの間で広く通じる商標となった。1960年代後半から1970年代初めには、特殊調整粉乳の広がりと第二次ベビーブームが同社の品ぞろえとかみ合った。売上高は1965年に9億円だったものが、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円と増え、1970年には30億円となって、6年間で3倍強に膨らんだ。1971年時点のシェアは哺乳器が93%、おしゃぶりが80%、洗浄消毒器具が72%、紙おむつが45%に上った。哺乳器だけで見ればアメリカの3社に続く世界第4位で、ヨーロッパには比べうるメーカーがないとされた。

  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
    • [33]さいきんのお母さん方は人工栄養で赤ちゃんを育てることが多いから、ピジョンという名前は大変に有名なブランドとなっている
    • [35]売上高は1965年9億円、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円、1970年30億円と推移した
    • [36]売上高は昭和45年(1970年)に30億円に達し、6年間で3倍強の売上増をみせた
    • [37]1971年時点のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%、紙おむつ45%
    • [38]哺乳器ではアメリカの3社に次ぐ世界第4位で、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらないとされた
  • 証券 1995年9月号
    • [34]昭和40年代後半の特殊調整粉乳の流行と第二次ベビーブームが同社の取り組みと相まって市場地位を確立させた

火事で供給が途絶えれば世間に迷惑をかける、と仲田祐一社長は語った。この考えから、主力の哺乳器は1か所にまとめず、東と西に振り分けて蓄える方針がとられた。千葉県の市川工場裏に建坪約3,000坪の倉庫を建てる計画は1971年末の時点で持っていたが、それでも在庫を集中させはしなかった。東京都から多年の研究活動をたたえられ表彰を受けたのは1970年10月10日である。従業員は300名を上回り、社員持株制度と、社員を海外へ送って学ばせる研修制度も取り入れた。商号は1966年6月にピジョン株式会社へ改めており、哺乳器本舗という創業時の看板からは離れていた。

  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
    • [39]万一火事にでもなって供給ができなくなったら大変世の中に迷惑をかけることになる、というのが倉庫を東西に分ける理由だと仲田社長は答えた
    • [40]主力製品の哺乳器は1か所に置かず東西に分けて倉庫の両側に置く方針だった。火災で供給が止まると世の中に迷惑をかけるためと仲田社長は説明した
    • [41]1971年末に千葉県の市川工場の裏へ建坪約3,000坪の倉庫を建設する予定だった
    • [42]1970年10月10日、多年の研究活動により東京都から表彰を受けた
    • [43]従業員は300名を超えていた。社員持株制度と社員の海外派遣による研修制度を導入した
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1966年6月 商号をピジョン株式会社に変更

もっとも、この独占には条件が付いていた。育児用品の分野に有力企業が入ってこなかったのは、ピジョンが強かったことに加えて、その規模の市場に大手が目をつけていなかったからでもある。売上が30億円から40億円、50億円へと上がれば、事情は変わりうる。社内に目を向けると、重役の大半が血縁者で占められていた。外に対しては、独占的な地位の支えだった実用新案もいずれ期限が来れば公開を避けられず、資本の自由化が進めば海外の有力企業が日本に入ってくることも予想された。会社を動かしてきた力は、おもに仲田祐一社長その人から出ていた。それゆえ、後をどう継ぐかが最大の課題として残った。

  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
    • [45]従来は育児用品の分野に有力な企業が入ってこなかった。ピジョンが強力であったことと、それほど強力な企業がこの分野に目をつけなかったからである
    • [46]育児用品分野に有力企業が参入しなかったのは、ピジョンが強力だったことと、有力企業がこの分野に目をつけなかったことによる
    • [47]売上が30億円から40億円、50億円へ上がれば有力企業がこの分野に目をつける可能性が指摘された
    • [48]重役のほとんどが血族で固められている点が懸念材料として挙げられた
    • [49]独占的地位を守る実用新案も一定の時間が来れば公開せざるをえず、資本自由化により海外の有力企業の日本進出も予想された
    • [50]これまでのエネルギーが主として仲田社長個人によるものであるだけに、ポスト・ナカタが問題だと指摘された
参考文献[33]-[50]
    • [33]さいきんのお母さん方は人工栄養で赤ちゃんを育てることが多いから、ピジョンという名前は大変に有名なブランドとなっている
    • [35]売上高は1965年9億円、1966年11億円、1967年16億円、1968年20億円、1969年23億円、1970年30億円と推移した
    • [36]売上高は昭和45年(1970年)に30億円に達し、6年間で3倍強の売上増をみせた
    • [37]1971年時点のシェアは哺乳器93%、おしゃぶり80%、洗浄消毒器具72%、紙おむつ45%
    • [38]哺乳器ではアメリカの3社に次ぐ世界第4位で、ヨーロッパに肩を並べるメーカーは見当たらないとされた
    • [39]万一火事にでもなって供給ができなくなったら大変世の中に迷惑をかけることになる、というのが倉庫を東西に分ける理由だと仲田社長は答えた
    • [40]主力製品の哺乳器は1か所に置かず東西に分けて倉庫の両側に置く方針だった。火災で供給が止まると世の中に迷惑をかけるためと仲田社長は説明した
    • [41]1971年末に千葉県の市川工場の裏へ建坪約3,000坪の倉庫を建設する予定だった
    • [42]1970年10月10日、多年の研究活動により東京都から表彰を受けた
    • [43]従業員は300名を超えていた。社員持株制度と社員の海外派遣による研修制度を導入した
    • [45]従来は育児用品の分野に有力な企業が入ってこなかった。ピジョンが強力であったことと、それほど強力な企業がこの分野に目をつけなかったからである
    • [46]育児用品分野に有力企業が参入しなかったのは、ピジョンが強力だったことと、有力企業がこの分野に目をつけなかったことによる
    • [47]売上が30億円から40億円、50億円へ上がれば有力企業がこの分野に目をつける可能性が指摘された
    • [48]重役のほとんどが血族で固められている点が懸念材料として挙げられた
    • [49]独占的地位を守る実用新案も一定の時間が来れば公開せざるをえず、資本自由化により海外の有力企業の日本進出も予想された
    • [50]これまでのエネルギーが主として仲田社長個人によるものであるだけに、ポスト・ナカタが問題だと指摘された
    • [34]昭和40年代後半の特殊調整粉乳の流行と第二次ベビーブームが同社の取り組みと相まって市場地位を確立させた
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1966年6月 商号をピジョン株式会社に変更

第2章 1974-2001 (気が向いたら執筆します!) シンガポール進出と仲田洋一の新分野攻略、店頭登録と常総研究所、タイ工場と東証一部

第3章 2002-2016 (気が向いたら執筆します!) 中国進出と米ランシノー買収、院内保育の一括受託とインド・トルコへの展開

第4章 2017-2026 (気が向いたら執筆します!) インドネシア子会社化とPIGEON AMERICA、中国事業の転換とピジョン真中の売却

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歴史年表 1957〜2025年

ピジョンの沿革1957〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1957〜1973年引揚げ者が引き受けた哺乳器メーカーと国内シェア9割の独占(1957〜1973)破綻状態の哺乳器メーカーへの経営参加と支配権の掌握、株式会社ピジョン哺乳器本舗の設立

1951年に経営参加した哺乳器メーカーで前任者と争い、訴訟20数種類と2度の職務遂行停止命令を経て1955年前後に支配権を掌握したうえで、1957年8月15日に神奈川県茅ヶ崎市へ株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した経営判断。シベリア抑留から1947年に帰国した仲田祐一氏が主導した。

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★★★
本社を東京都千代田区へ移転
東京出張所(現・東日本支店)を開設
大阪出張所(現・西日本支店)を開設
福岡出張所(現・福岡支店)を開設
名古屋出張所(現・中部支店)を開設
札幌出張所を開設
商号をピジョンへ変更★★
広島出張所を開設
仙台出張所を開設
1974〜2001年シンガポール進出と仲田洋一の新分野攻略、店頭登録と常総研究所、タイ工場と東証一部シンガポールに PIGEON SINGAPORE を設立★★
仲田洋一氏が社長に就任★★
ピジョンホームプロダクツを設立
日本証券業協会東京地区協会に株式を店頭登録
哺乳器専業からの品目入れ替えと、育児用品の総合メーカーへの転換

出生数が1974年の209万人を頂点に減り始めたのに対し、ピジョンが哺乳器と乳首の専業から離乳用品・スキンケア用品・ベビーフード・介護用品へ品目を入れ替え、育児用品の総合メーカーへ移した経営判断。1983年に社長へ就任した仲田洋一氏が、先代からの不文律を外して新規分野の攻略を進めた。

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★★★
茨城県稲敷郡に筑波事業所を新設
タイに THAI PIGEON を設立
茨城県筑波郡に常総研究所(現・中央研究所)を新設
常総研究所内に託児所「ピジョンランド」を開設
東京証券取引所市場第二部に株式を上場
フクヨー茨城の株式を取得
茨城県常陸太田市に常陸太田物流センターを新設
タイに PIGEON INDUSTRIES(THAILAND) を設立
東京証券取引所市場第一部に指定
兵庫県神崎郡に神崎物流センターを新設
ピジョンキッズワールド(現・ピジョンハーツ)を設立
ナカタコーポレーションと合併
ピジョン真中を設立
2002〜2016年中国進出と米ランシノー買収、院内保育の一括受託とインド・トルコへの展開国家衛生部と組んだ現地での育児支援拠点づくりと、海外売上高比率5割への移行

出生数が減る国内で次の収益源が定まらないなか、ピジョンが2002年4月に上海へ進出し、2009年に中国国家衛生部と共同で全土の主要病院に母乳育児相談室を開設して、価格でも広告でもない経路で中国にブランドを作った経営判断。海外売上高比率は2015年1月期に53%へ達した。

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★★★
ピー・エイチ・ピー兵庫の株式を株式交換で取得
介護用品の多比良(現・ピジョンタヒラ)を子会社化★★
院内託児の一括請負による新規事業の柱づくりと、14年後の撤退

2004年4月、ピジョンが独立行政法人へ移行した国立病院機構の院内保育施設の運営を一括受託し、育児用品に次ぐ事業として保育へ本格参入した経営判断。従前の保育士600人余りを転籍で引き受けての参入であり、一括受託は2018年3月の契約満了まで14年続いた。

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米国の LANSINOH LABORATORIES を子会社化★★★
大越昭夫中国に PIGEON MANUFACTURING(SHANGHAI) を設立
大越昭夫本社を東京都中央区へ移転
大越昭夫中国に PIGEON INDUSTRIES(CHANGZHOU) を設立
大越昭夫インドに PIGEON INDIA を設立
大越昭夫トルコに LANSINOH の医療機器会社を設立
大越昭夫マレーシアの PIGEON MALAYSIA(TRADING) 株式を取得
大越昭夫LANSINOH が HealthQuest の全株式を取得
大越昭夫LANSINOH が HealthQuest を吸収合併
大越昭夫DOUBLEHEART を設立
山下茂ピジョンウィルと合併
山下茂ブラジルに LANSINOH の子会社を設立
山下茂ベルギーに LANSINOH の販売会社を設立
山下茂上海に LANSINOH の販売会社を設立
2017〜2026年インドネシア子会社化とPIGEON AMERICA、中国事業の転換とピジョン真中の売却山下茂インドネシアの PT PIGEON INDONESIA を子会社化
北澤憲政PT PIGEON BABY LAB INDONESIA の株式を取得
北澤憲政ブラジルの LANSINOH 子会社の全株式を譲渡
北澤憲政PHP茨城をピジョンマニュファクチャリング茨城に商号変更
北澤憲政PHP兵庫をピジョンマニュファクチャリング兵庫に商号変更
北澤憲政香港に LANSINOH の販売会社を設立
北澤憲政英国に LANSINOH の販売会社を設立
北澤憲政米国に PIGEON AMERICA を設立
北澤憲政フランスに LANSINOH の販売会社を設立
北澤憲政東京証券取引所プライム市場へ移行
北澤憲政成長市場としての位置づけ引き下げと、米州・欧州への成長投資の集中

連結営業利益が2019年1月期の196億円から2023年12月期の107億円へほぼ半減するなか、ピジョンが2023年2月の第8次中期経営計画で中国事業を"高成長"から"安定成長"へ置き直し、哺乳器・乳首とベビースキンケアへ商品を絞って収益を立て直し、2026年2月の第9次中期経営計画で成長の中心を米州・欧州へ移した経営判断。

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北澤憲政ケニアに PIGEON BABY LAB KENYA を設立
北澤憲政ピジョン真中の全株式を譲渡
北澤憲政香港に PIGEON HONG KONG を設立
矢野亮札幌・仙台・広島の3営業所を閉鎖
出典・参考 3件
出典・参考
  • ピジョン 有価証券報告書【沿革】
  • 近代中小企業 1971年5月号(杉岡碩夫)
  • 証券 1995年9月号

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