ライオン の歴史

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創業 1891年
創業者 小林富次郎
創業地 東京都神田
創業 1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸で小林富次郎商店を創業した
1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸で小林富次郎商店を創業した。石鹸と燐寸の原料を商いながら、小石川の工場で化粧石鹸を作った。1896年7月に粉ハミガキを"獅子印ライオン歯磨"として売り出す。1912年に二代目が他社商品の特約販売権をすべて返上して歯磨専業へ移り、1918年9月に株式会社小林商店、1919年8月にライオン石鹼を設けて、口腔ケアと家庭用洗剤を別法人で育てた。1949年2月に小林商店をライオン歯磨へ改め、同年5月に東京証券取引所へ上場している。ただし戦後の製品開発は後手に回り、チューブ入り歯磨もクロロフィル配合も競合に先を越された。
決断 売上の目標を掲げるたびに、採算を落としてきた。1980年1月にライオン歯磨とライ
売上の目標を掲げるたびに、採算を落としてきた。1980年1月にライオン歯磨とライオン油脂を対等合併させた。1983年には創業100周年の1991年へ向けて売上高5,000億円・経常利益200億円を掲げたが、目標達成のための営業が利益率を下げ、1990年12月期の営業利益は5億7,100万円と売上高比0.2%まで沈んだ。1989年には育毛剤のデータねつ造が発覚して生産中止と回収に至った。1988年に計画そのものを放棄し、品目数を1989年10月の576から1990年12月の489へ減らして芳香剤を38品目から14品目にすると、一桁だったシェアが10%を超えた。品目を減らすほどシェアが上がるという結果が、量を追う計画の否定になった。
現況 海外は売上の4割に近づいたが、事業利益では4分の1にとどまる。2025年12月期
海外は売上の4割に近づいたが、事業利益では4分の1にとどまる。2025年12月期の外部顧客への売上高4,220億円は一般用消費財2,237億円・海外1,581億円・産業用品393億円で、セグメントの事業利益は一般用消費財216億円・海外81億円・産業用品28億円、全社調整後で307億円となる。国内の一般用消費財が8.4%の事業利益率を保つのに対し、海外は4.6%にとどまる。2024年には量を追わない経営へ転換し、非注力ブランドを譲渡してSKUを減らし、2025年12月には国内のジャパンリテールイノベーションを資生堂へ譲渡した。数を減らして単価を上げる整理は、伸びている海外ではなく利益率の高い国内から始まっている。
競合 花王が問屋を外した流通で、ライオンは問屋の内側へ入った。1964年に花王が全国約
花王が問屋を外した流通で、ライオンは問屋の内側へ入った。1964年に花王全国約110社の販売会社網を築いて小売と直接結ぶと、反発した全国約300の問屋のなかにライオン油脂は自社の製品部を置かせ、専門に売らせる体制を構築した。石鹸から洗剤へ正面から移った花王に対し、ライオン油脂は1956年に食器・青果物用という競合しない用途から入り、1971年には売上488億2,000万円と花王577億800万円の差を88億円まで縮めている。しかし1987年3月の超コンパクト洗剤"アタック"では、1984年に社内で同等品が提案されながら数十億円の設備投資を見送り、追随品の発売は1年後になった。流通の間隙で縮めた差は、設備を決められなかった1年で開いた。
長期業績の推移 1949〜2025年
ライオン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2005年12月期2025年12月期

第1章 1891年〜 小林富次郎商店の創業と歯磨専業化への転換

1891年〜石鹸原料商から「ライオン歯磨」へ

1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸の店舗(小林富次郎商店)にて、石鹸・燐寸(マッチ)の原料と石鹸の製造販売を開始した。社史は創業日を10月30日、創業地を柳原河岸22号地と特定するもっともこれは順調な船出ではない。富次郎は1877年の上京から数えて14年、上海での石鹸事業も香港支店もことごとく失敗し、石巻のマッチ軸木事業では洪水で1年分の原木を流して沿川に被害を出し、自殺を決意して北上川の橋上に佇むところまで追い詰められていた40歳の再起は甥の石鹸工場の一隅から始まっている。当初は石鹸・マッチなどの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造、"高評"石鹸・"牛乳"石鹸などのブランドで発売した。

  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は初代小林富次郎
    • [2]創業地は東京・神田柳原河岸(小林富次郎商店)
    • [3]1891年10月 初代小林富次郎が神田柳原河岸の店舗(小林富次郎商店)にて石鹸・燐寸の原料と石鹸の製造販売を開始(ライオン創業)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [4]社史は創業日を明治24年10月30日、創業地を神田柳原河岸22号地(現・千代田区東神田2丁目の美倉橋付近)と明記
    • [5]初代富次郎は1877年の上京から1891年までの14年間、上海での石鹸事業・鳴行社香港支店・石巻のマッチ軸木事業をことごとく失敗し、北上川の大洪水では原木流失の責を負って自殺を決意した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]創業当初は石鹸・マッチの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造し「高評」石鹸・「牛乳」石鹸などのブランドで発売

1896年7月、初めて良質粉ハミガキの製造を開始し、これを"獅子印ライオン歯磨"と名づけた。歯磨に手を伸ばした理由は明快で、石鹸は季節で売上が振れるうえ、問屋筋から競合の"ダイヤモンド歯磨"が月3000円を売ると聞いたからである。歯磨粉を売り出した当時は鹿印・象印など獣の名前を商品名に冠するのが流行しており、獅子は歯牙が強くて純白であることが歯磨の商品イメージに合致するとして採用された。社史はこの命名を、知人の北山牧師の"ライオンなら牙も丈夫だ"という一言に帰している。"ライオン"のブランドはこの粉ハミガキから始まり、強くて頼もしいライオンのイメージを商品名・社名に冠する戦略は、創業以来130年余にわたって維持された。

  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1896年7月 良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と命名(「ライオン」ブランドの起点)
    • [11]「ライオン」の社名・商品名は獅子(百獣の王)のイメージに由来し創業以来維持(130年余は解釈表現)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [8]歯磨参入の動機は石鹸の季節変動と、競合「ダイヤモンド歯磨」(平尾賛平)が月3000円売れるという問屋筋の情報
    • [10]「ライオン」の商標は知人の北山牧師の「ライオンなら牙も丈夫だし歯磨の商標としてうってつけ」という意見により1896年3月に登録
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [9]「獅子印ライオン歯磨」の命名理由は、獣の名前を商品名に冠するのが流行し、獅子は歯牙が強くて純白で歯磨の商品イメージに合致したため

発売してすぐ"都新聞"と"万朝報"に広告を出したが、売れ行きは伸びなかった。品物を用意しただけでは売れないのである。富次郎は不振の原因を品質に求め、広告が効くのは品物が良いときに限るという宣伝の考え方をここから得た。1898年には、宣伝広告は商品を育てる肥料だと信じて、それまで大都市に限られていた楽隊広告を地方にまで送り出し、行く先々で特約店を募った。9店にすぎなかった特約店は、1902年頃には170店余りに増えている。1900年には大病で床に就いたのを機に社会奉仕を志し、米カーク商会にならって慈善券付きの歯磨を発売した慈善券の仕組みは二代目にも受け継がれ、1920年までの20年間続いて、寄付の総額は33万6554円50銭7厘にのぼった。回収された小袋が販売数に満たないときは差額も自社で負担して寄付したという

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [12]発売直後の広告失敗から「広告の効果はよい商品があって初めて威力を発揮する」という宣伝観を得た
    • [13]1898年に楽隊広告を地方へ展開し、訪問先で特約店を勧誘して特約店を9店から1902年頃には170店余へ拡大
    • [14]1900年、病床での決意により米カーク商会の事例を参考に慈善券付歯磨を発売
    • [15]慈善券付歯磨は1900年9月から1920年まで20年続き、寄付総額33万6554円50銭7厘。回収小袋が販売数に満たない差額も自社負担で寄付した
参考文献[1]-[15]
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は初代小林富次郎
    • [2]創業地は東京・神田柳原河岸(小林富次郎商店)
    • [3]1891年10月 初代小林富次郎が神田柳原河岸の店舗(小林富次郎商店)にて石鹸・燐寸の原料と石鹸の製造販売を開始(ライオン創業)
    • [7]1896年7月 良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と命名(「ライオン」ブランドの起点)
    • [11]「ライオン」の社名・商品名は獅子(百獣の王)のイメージに由来し創業以来維持(130年余は解釈表現)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [4]社史は創業日を明治24年10月30日、創業地を神田柳原河岸22号地(現・千代田区東神田2丁目の美倉橋付近)と明記
    • [5]初代富次郎は1877年の上京から1891年までの14年間、上海での石鹸事業・鳴行社香港支店・石巻のマッチ軸木事業をことごとく失敗し、北上川の大洪水では原木流失の責を負って自殺を決意した
    • [8]歯磨参入の動機は石鹸の季節変動と、競合「ダイヤモンド歯磨」(平尾賛平)が月3000円売れるという問屋筋の情報
    • [10]「ライオン」の商標は知人の北山牧師の「ライオンなら牙も丈夫だし歯磨の商標としてうってつけ」という意見により1896年3月に登録
    • [12]発売直後の広告失敗から「広告の効果はよい商品があって初めて威力を発揮する」という宣伝観を得た
    • [13]1898年に楽隊広告を地方へ展開し、訪問先で特約店を勧誘して特約店を9店から1902年頃には170店余へ拡大
    • [14]1900年、病床での決意により米カーク商会の事例を参考に慈善券付歯磨を発売
    • [15]慈善券付歯磨は1900年9月から1920年まで20年続き、寄付総額33万6554円50銭7厘。回収小袋が販売数に満たない差額も自社負担で寄付した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]創業当初は石鹸・マッチの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造し「高評」石鹸・「牛乳」石鹸などのブランドで発売
    • [9]「獅子印ライオン歯磨」の命名理由は、獣の名前を商品名に冠するのが流行し、獅子は歯牙が強くて純白で歯磨の商品イメージに合致したため

1910年〜歯磨専業化と歯磨・石鹸二系列の分立

石鹸では、欧米を見て回った初代が、半端な規模では事業として立ち行かないと見て自社製造をやめる判断をすでに下していた。1910年に初代小林富次郎氏が亡くなると、二代目が富次郎の名を継いで事業を引き受け、1912年、最初の政策決定として"歯磨専業化"を打ち出したそれは創業以来扱ってきた他社製品の特約販売権をすべて返す決断で、目先の利益を手放すことでもあったが、権利だけを抱えていては取引先の信頼に背くと考えたのである1916年にはライオン歯磨化学研究所を設け、輸入品と張り合える品質を自前の研究で確かめる体制を整えている。事業を絞り込む方針は、こうして二代にわたって貫かれた。

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [16]初代富次郎は欧米視察で「中途半端な規模ではこの事業は成り立たない」と判断し「高評石鹸」の製造中止を決めた
    • [18]二代富次郎が襲名後最初に決めた政策は1912年の「歯磨専業化」
    • [19]専業化は創業以来取り次いできた他社商品の特約販売権をすべて返上することを伴った
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [17]1910年に初代小林富次郎が没し、二代目が富次郎を襲名して事業を継いだ
    • [20]1916年 ライオン歯磨化学研究所を開設

1918年9月、小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立した(資本金100万円、二代目小林富次郎氏が初代社長に就任)。1919年8月には合資会社ライオン石鹼工場を株式会社に改め、ライオン石鹼株式会社が生まれた。これがのちのライオン油脂株式会社の源流で、もう一方がライオン歯磨株式会社の源流となった。創業者・小林富次郎氏が興した歯磨(口腔ケア)と石鹸(家庭用洗剤)の2つの系列は、こうして大正初期に別々の法人として並び立つ体制になった。ただし形だけ会社を分けたのではなく、両社は各自の専門分野で研究から生産、販売までの機能をすべて備え、互いに完全に独立していたこの分かれた体制は、60年後に合併するまで続いている。

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [21]1918年9月 株式会社小林商店を資本金100万円で発足し、二代目小林富次郎が初代社長に就任
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1919年8月 合資会社ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼株式会社を設立(後のライオン油脂の母体)
    • [23]1918年9月 小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立(後のライオン歯磨の母体)
    • [24]歯磨(口腔ケア)系列と石鹸(家庭用洗剤)系列の2系統が別法人として並立する体制が大正初期に確立
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [25]㈱小林商店とライオン石鹸㈱は各専業分野で研究・生産・販売の全機能を持つ完全に分離独立した会社となった

1923年の関東大震災では東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ、罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開した。大阪分工場の建設は社長・二代富次郎の即断で、震災2カ月足らずの10月27日に出荷を再開し、罹災工場のなかで生産再開第1号となっている。1929年には資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地に"ライオン会"を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた。この"ライオン会"は、利益が薄いという特約店の不満から生まれた値段協定会にさかのぼり、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例である。1935年12月、二代富次郎は63歳で相談役に退き、副社長の小林喜一氏が36歳で社長に就任した

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [26]1923年の関東大震災で東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開
    • [28]1929年 資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地に「ライオン会」を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [27]大阪分工場は社長・二代富次郎の決断で建設され、震災2カ月足らずの1923年10月27日に出荷を再開し罹災工場中の生産再開第1号となった
    • [29]「ライオン会」は「ライオン歯磨は利益が薄い」という不満から生まれた値段協定会を起源とし、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例
    • [30]1935年12月 二代富次郎(63歳)が相談役に退き副社長・小林喜一(36歳)が社長就任、同時に大阪支店長・山崎麻吉が常務に抜擢され生え抜き役員が誕生
参考文献[16]-[30]
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [16]初代富次郎は欧米視察で「中途半端な規模ではこの事業は成り立たない」と判断し「高評石鹸」の製造中止を決めた
    • [18]二代富次郎が襲名後最初に決めた政策は1912年の「歯磨専業化」
    • [19]専業化は創業以来取り次いできた他社商品の特約販売権をすべて返上することを伴った
    • [25]㈱小林商店とライオン石鹸㈱は各専業分野で研究・生産・販売の全機能を持つ完全に分離独立した会社となった
    • [27]大阪分工場は社長・二代富次郎の決断で建設され、震災2カ月足らずの1923年10月27日に出荷を再開し罹災工場中の生産再開第1号となった
    • [29]「ライオン会」は「ライオン歯磨は利益が薄い」という不満から生まれた値段協定会を起源とし、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例
    • [30]1935年12月 二代富次郎(63歳)が相談役に退き副社長・小林喜一(36歳)が社長就任、同時に大阪支店長・山崎麻吉が常務に抜擢され生え抜き役員が誕生
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [17]1910年に初代小林富次郎が没し、二代目が富次郎を襲名して事業を継いだ
    • [20]1916年 ライオン歯磨化学研究所を開設
    • [21]1918年9月 株式会社小林商店を資本金100万円で発足し、二代目小林富次郎が初代社長に就任
    • [26]1923年の関東大震災で東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開
    • [28]1929年 資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地に「ライオン会」を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1919年8月 合資会社ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼株式会社を設立(後のライオン油脂の母体)
    • [23]1918年9月 小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立(後のライオン歯磨の母体)
    • [24]歯磨(口腔ケア)系列と石鹸(家庭用洗剤)系列の2系統が別法人として並立する体制が大正初期に確立

1933年〜戦時統制下の生産と戦後のゼロからの再出発

石鹸側のライオン石鹸株式会社は、1933年11月に江戸川区平井へ工場を建設し、中国・満州・南方諸地域・アフリカへ石鹸を大量に輸出した。1936年4月には平井工場(旧東京工場)が竣工している。1940年9月、ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社と商号変更し、戦時下の油脂統制経済への対応として社名を変更した。戦時中の生産品目は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油へと広がり、家庭用品メーカーというより軍需に組み込まれた油脂化学工業の様相を呈した歯磨の側も統制を免れず、1943年10月には粉製のみに限られ、原料の配合規格まで規定された。配合規格が廃止されたのは終戦後の1945年10月である

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
    • [31]1933年11月に本社所在地(江戸川区平井)へ工場を建設、この間中国・満州・南方諸地域・アフリカ等に石鹸を大量輸出
    • [34]戦時中は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油を生産
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1936年 ライオン石鹼の平井工場(旧東京工場)竣工
    • [33]1940年9月 ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社へ商号変更(戦時下油脂統制への対応)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [35]1943年10月に歯磨は粉製のみに統制され原料配合規格まで規定され、配合規格の廃止は1945年10月

終戦時、株式会社小林商店は本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジアの有望市場も失う打撃を受けた。"ゼロからの再出発"として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱を立て直し、1948年7月に戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年には二度の増資払込で資本金7,500万円へと設備拡充資金を整えた。1949年2月、株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社と商号変更。31年続いた小林商店の名を消すことには、社内にも忍び難い思いがあった。同年5月、東京証券取引所に上場した。上場は取引所が再開された5月14日のわずか2日後、16日のことである

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [36]終戦時に本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジア市場も喪失。「ゼロからの再出発」として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱で立て直しを進めた
    • [37]1948年7月 戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年に二度の増資払込で資本金7,500万円
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1949年2月 株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社へ商号変更
    • [40]1949年5月 東京証券取引所に上場(ライオン歯磨)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [39]1949年2月1日、31年続いた㈱小林商店からライオン歯磨㈱へ商号変更し、社史は「小林商店の名を消すことは忍び難かった」と記す
    • [41]東京・大阪の証券取引所再開(1949年5月14日)の2日後、同月16日に東京市場で株式公開上場

もっとも戦後の再出発は、製品開発の面では後手に回った。チューブ入りの歯磨でも、同社は競合に先行されていた。取引先からは発売の遅さを責められ、眠ったままなのかという声まで出ていた。1948年12月に出したチューブ入り薬用歯磨"ライオンFクリーム"は、社内で国内初のフッ素入り歯磨とされたものの、香りと味が消費者の好みに合わなかった。翌年4月に手を加え、名前を変えて売り直している。目玉に据えたクロロフィル配合も、競合メーカーが前の年の秋に売り出した製品ですでに実現しており、先を越された形だった老舗としての歴史の長さが、市場の変化への反応の遅さに変わりつつあった。

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [42]「ライオンFクリーム」は1948年12月発売で社史は「国内では最初のフッ素入歯磨」と明記するが、香味が受け入れられず翌年4月に改良・改称して再発売
    • [43]チューブ入り歯磨の発売遅れに得意先から「眠っているのではないか」という不満が出ており、クロロフィル配合も競争メーカーに前年秋に先行された
参考文献[31]-[43]
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
    • [31]1933年11月に本社所在地(江戸川区平井)へ工場を建設、この間中国・満州・南方諸地域・アフリカ等に石鹸を大量輸出
    • [34]戦時中は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油を生産
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1936年 ライオン石鹼の平井工場(旧東京工場)竣工
    • [33]1940年9月 ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社へ商号変更(戦時下油脂統制への対応)
    • [38]1949年2月 株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社へ商号変更
    • [40]1949年5月 東京証券取引所に上場(ライオン歯磨)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [35]1943年10月に歯磨は粉製のみに統制され原料配合規格まで規定され、配合規格の廃止は1945年10月
    • [39]1949年2月1日、31年続いた㈱小林商店からライオン歯磨㈱へ商号変更し、社史は「小林商店の名を消すことは忍び難かった」と記す
    • [41]東京・大阪の証券取引所再開(1949年5月14日)の2日後、同月16日に東京市場で株式公開上場
    • [42]「ライオンFクリーム」は1948年12月発売で社史は「国内では最初のフッ素入歯磨」と明記するが、香味が受け入れられず翌年4月に改良・改称して再発売
    • [43]チューブ入り歯磨の発売遅れに得意先から「眠っているのではないか」という不満が出ており、クロロフィル配合も競争メーカーに前年秋に先行された
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [36]終戦時に本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジア市場も喪失。「ゼロからの再出発」として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱で立て直しを進めた
    • [37]1948年7月 戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年に二度の増資払込で資本金7,500万円

第2章 1950年〜 2社体制下の合成洗剤への転換と多角化ライポンFの用途開拓による花王石鹸への肉薄と、提携に頼った歯磨の多角化

筆者考察y.sugiura, author

一人の創業者から分かれた二つの会社は、同じ30年を別々の速さで走った。本家のライオン歯磨は歯磨で全国の半分近い市場を握りながら、1954年から3年続けて売上を落とした。分家のライオン油脂は朝鮮動乱の反動で資金が詰まり、78人の希望退職者を送り出すところまで追い込まれた。そこから先の立ち直りの手は対照的である。歯磨は米国のブリストル・マイヤーズ社から整髪料と制汗剤を借りて事業の数を増やし、油脂は洗濯用として売れなかった洗剤を台所用へ充当して用途の数を増やした。借りた事業は食品で行き詰まり、充当した用途のほうは合成洗剤の全域へ広がった。他人の商品を並べるより、自社の一品を別の使い道で売り直すほうが遠くまで行けた30年だった。

1971年、油脂の年間売上488億円は歯磨の361億円を追い越し、首位の花王石鹸との差を88億円まで詰めていた。分家が本家を抜いたのは、追う側の位置を使い切ったからである。酵素入り洗剤が業界を席巻したときは一社だけ参入せず、各社が1年で撤収するのを横目に無傷で残った。花王が問屋と販売網を組んだときは、そこで生じた反発を引き取って自社の製品部を問屋の中に置いた。どちらも、先に動いた相手がいて初めて成り立つ手である。正面から当たらずに済む位置は、2位にしか与えられない。二つの会社が毎月の会合で共同購入と共同宣伝を始めたとき、10年後の合併までの距離はもう短くなっていた。

ライオン歯磨の売上高 1950年〜1974年(各11月期・単体)(億円)

8.99 1950 26.42 1954 25.13 1957 41.11 1961 111.14 1964 218.92 1967 361.94 1971 602.82 1974
  • 出所は上場会社総覧 1956年版・1959年版・1961年版と会社年鑑 1963年版・1967年版・1971年版・1976年版(各期とも上下期の合算)。

1950年〜減収と資金繰り悪化に同時に見舞われた二社

売れる歯磨を出せないまま減収に沈む

歯磨の市場そのものはむしろ広がっていた。粉歯磨から練歯磨への移り変わりで高級化が進み、業界全体の出荷額は1958年度の80億円から1962年度には119億円に増えている。これに対してライオン歯磨の売上高は1954年11月期の26億4200万円が天井で、1955年11月期に25億7900万円、1957年11月期に25億1300万円と、上場して数年で伸びを失った新製品を次々に出し、乱れた市場を立て直そうと力を尽くしたものの、1954年を山として売上も利益も減っていく流れは変わらず、伸びる市場で、創業60年の老舗だけが足踏みしていたのである。

  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [44]歯磨の総出荷実績は昭和33年度80億円、昭和37年度119億円。練歯磨が消費の中心となり粉歯磨は衰退した
  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [45]ライオン歯磨の1954年11月期の売上高は26億4200万円(上下期合算・単体)
  • 上場会社総覧(1959年版)
    • [46]ライオン歯磨の売上高は1955年11月期25億7900万円、1957年11月期25億1300万円(上下期合算・単体)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [47]新製品の発売や市場の立て直しへの努力にもかかわらず、業績は昭和29年をピークに減収減益傾向が続いた
給料を三度に分けて払い、78人を送り出す

同じ創業者から分かれたライオン油脂は、より切迫していた。朝鮮動乱による原料高と製品安で資金繰りが極端に悪化し、続く原料油の暴落と仮需要の反動が致命的な打撃となった。1953年前後の貸借対照表では、短期借入金が6億円台に膨らみ、資本金1億円の6倍を超えている。1951年9月には給料の3分割払いに踏み切り、翌1952年5月には社長・専務・常務が15%、取締役が10%、部長・次長が5%の減給を決めた。同年10月、50名の予定で希望退職を募ったところ申し出は92名に及び、最終的に78名が退職した。1949年に月産900トンの設備を構えたマーガリン事業も、販売ルートを築けないまま新鋭設備への切替えができず、他社に立ち遅れた

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [48]朝鮮動乱で原料高の製品安となって資金繰りが極端に悪化し、原料油の暴落と仮需要の反動で致命的打撃を受けた
    • [50]昭和26年9月に給料の3分割払いを実施した
    • [51]昭和27年5月に社長・専務・常務15%、取締役10%、部長・次長5%の減給を決めた
    • [52]昭和27年10月に50名の予定で希望退職を募り、申し出は92名、最終的に78名が退職した
    • [53]マーガリンは昭和24年6月に平井工場へ月産900トンの設備を竣工したが、脱臭の品質問題と販売ルート未確立、経営危機による設備更新の遅れで他社に立ち遅れた
  • 株式会社年鑑 1954年版「ライオン油脂」
    • [49]昭和27年から28年の各期の貸借対照表で短期借入金は6億2732万円から6億5499万円の水準にあり、資本金1億円を大きく上回っていた
洗濯で売れない洗剤を台所へ回す

油脂を支えたのは、洗濯ではなく台所だった。1950年6月に工業用洗浄剤として発売された"ライポン"は、翌1951年10月に絹・毛・化繊用の家庭用洗剤として売り出されたが、売上は伸び悩んだ。高級アルコール系のほうが鉱油系より優れているとみられていたうえ、粉石鹸に対する割高感もあったからである。そこで1953年、野菜と食器の洗浄という新用途を訴える打開策へ切り替えた北海道大学農芸化学教室に苺の除菌効果を、茨城県衛生課に食器器具類の汚染除去を研究発表させるなど、研究機関と政府機関への実験依頼を地道に重ねている。1956年に野菜・果物・食器洗い用の"ライポンF"として売り直したこの洗剤は、日本で初めて合成洗剤の新用途を開拓した商品となった

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [54]「ライポン」は昭和25年6月に工業用洗浄剤として、昭和26年10月に家庭用「絹,毛,化繊用」洗剤として発売されたが売上は伸び悩んだ
    • [55]伸び悩みの理由は高級アルコール系が鉱油系より優れていると考えられていたことと、粉石鹸に対する割高感
    • [56]昭和28年に伸び悩みの打開策として「野菜・食器洗浄用」の新用途を訴え、新しい需要を開拓する作戦を展開した
    • [57]北海道大学農芸化学教室での苺の除菌効果、茨城県衛生課での食器器具類汚染の除去成果など、研究機関・政府機関への実験依頼とその成果の発表を地道に続けた
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [58]昭和31年に食器・野菜・果物専用洗浄剤「ライポンF」を発売し、わが国で初めて合成洗剤の新用途を開発した
参考文献[44]-[58]
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [44]歯磨の総出荷実績は昭和33年度80億円、昭和37年度119億円。練歯磨が消費の中心となり粉歯磨は衰退した
  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [45]ライオン歯磨の1954年11月期の売上高は26億4200万円(上下期合算・単体)
  • 上場会社総覧(1959年版)
    • [46]ライオン歯磨の売上高は1955年11月期25億7900万円、1957年11月期25億1300万円(上下期合算・単体)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [47]新製品の発売や市場の立て直しへの努力にもかかわらず、業績は昭和29年をピークに減収減益傾向が続いた
    • [48]朝鮮動乱で原料高の製品安となって資金繰りが極端に悪化し、原料油の暴落と仮需要の反動で致命的打撃を受けた
    • [50]昭和26年9月に給料の3分割払いを実施した
    • [51]昭和27年5月に社長・専務・常務15%、取締役10%、部長・次長5%の減給を決めた
    • [52]昭和27年10月に50名の予定で希望退職を募り、申し出は92名、最終的に78名が退職した
    • [53]マーガリンは昭和24年6月に平井工場へ月産900トンの設備を竣工したが、脱臭の品質問題と販売ルート未確立、経営危機による設備更新の遅れで他社に立ち遅れた
    • [54]「ライポン」は昭和25年6月に工業用洗浄剤として、昭和26年10月に家庭用「絹,毛,化繊用」洗剤として発売されたが売上は伸び悩んだ
    • [55]伸び悩みの理由は高級アルコール系が鉱油系より優れていると考えられていたことと、粉石鹸に対する割高感
    • [56]昭和28年に伸び悩みの打開策として「野菜・食器洗浄用」の新用途を訴え、新しい需要を開拓する作戦を展開した
    • [57]北海道大学農芸化学教室での苺の除菌効果、茨城県衛生課での食器器具類汚染の除去成果など、研究機関・政府機関への実験依頼とその成果の発表を地道に続けた
  • 株式会社年鑑 1954年版「ライオン油脂」
    • [49]昭和27年から28年の各期の貸借対照表で短期借入金は6億2732万円から6億5499万円の水準にあり、資本金1億円を大きく上回っていた
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [58]昭和31年に食器・野菜・果物専用洗浄剤「ライポンF」を発売し、わが国で初めて合成洗剤の新用途を開発した

1958年〜長期経営計画とブリストル・マイヤーズ社提携による歯磨の多角化

若い世代に経営を委ね、初の長期計画を引く

社長小林喜一氏の長男である小林敦氏は、米国留学を終えて1955年に帰国し、貿易課長を務めたのち1957年に取締役に就いていた。停滞する会社を立て直すには柔らかい発想を持つ若手に任せるしかない、と父は判断し、1958年6月、ライオン歯磨は副社長制を復活させて敦氏をその座に就けた。経営の全責任を事実上担った敦氏は、改革がしくじれば小林家のもとでのライオン歯磨はそこまでになる、という退路のない覚悟で臨んだ。掲げた「経営の近代化」は、組織の改革、経営計画づくり、経営を市場に近づけること、科学的なマーケティングの実践、社員の参画意識という5本の柱で構成された。1959年上期には創業以来はじめてとなる長期経営方針が示され、1959年下期から1966年下期までの7年半を第1次・第2次の二つの計画に割り振った。第2次計画の最終年は創業75周年の1966年に置かれた

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [59]小林敦は米国留学を終えて昭和30年10月に帰国し、貿易課長を経て昭和32年に取締役へ就任していた社長小林喜一の長男
    • [60]社長小林喜一は、低迷しているライオン歯磨に活を入れるには柔軟性のある若い世代に経営を委ねることだと考えるようになっていた
    • [61]昭和33年6月に副社長制を復活させ小林敦が副社長に就任した
    • [62]小林敦は実質的に経営の全責任を負い、改革が実を結ばなければ小林家のライオン歯磨は終わると「背水の陣」を敷く覚悟であった
    • [63]「経営の近代化」は組織改革、未来志向の経営計画の策定、経営の市場への接近、科学的マーケティングマネージメントの実践、社員の革新への参画意識の高揚の5要素からなる
    • [64]昭和34年上期に創業以来初めての長期経営方針を提示し、34年下期から41年下期までの7年半を第1次計画(2年半)と第2次計画(5年)に分割した
  • 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
    • [65]副社長小林敦は1966年の鼎談で「今年は当社の七十五周年であると同時に、第二次長期五カ年計画の五年目」と述べている
米国企業の商品を借りて多角化の尖兵にする

多角化の相手に選んだブリストル・マイヤーズ社は、小林敦氏が米国留学中に企業研究の対象とした会社である。扱う商品分野がライオン油脂の石鹸・油脂事業と抵触しないこと、東南アジアへ共同進出できること、提携しなくとも日本進出は必至であることを挙げて、最有力候補と判じた。1965年の全米テレビ広告主で第2位に立つ宣伝力を持つ相手でもあった。交渉は1960年初に始まり契約の発効は1962年8月だったが、信頼関係が先にできていたため調印前の同年7月に液体整髪料"バイタリス"と制汗剤"バン"を発売している。提携商品の売上は1962年下期を100として1963年下期に1141まで伸び、全社の売上高も1961年11月期の41億1100万円から1964年11月期の111億1400万円へ増えた

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [66]ブリストル・マイヤーズ社は小林敦が米国留学中に企業研究の対象に選んだ会社であった
    • [67]提携先選定の理由に、扱い商品分野をライオン油脂の石鹸・油脂事業に抵触しないようにできること、東南アジア等への共同進出の可能性、提携しなくても日本進出は必至であることが挙げられた
    • [69]提携交渉は昭和35年初に始まり契約発効は37年8月だったが、対等のパートナーシップができていたため調印前の37年7月に「バイタリス」「バン」を生産販売した
  • 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
    • [68]前年度の米国テレビ広告主ランクでブリストル・マイヤーズは7670万ドルで全米第2位
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [70]ライオン・ブリストル提携商品(LB商品)の売上は昭和37年下期を100として38年下期に1141.5
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [71]ライオン歯磨の売上高は1961年11月期41億1100万円、1964年11月期111億1400万円(上下期合算・単体)
粉石鹸の絶頂で合成洗剤へ乗り換える

以後の商品政策を貫いたのは用途別多様化という考え方で、その根拠は海外への派遣の報告にあった。ライオン油脂が1956年から1957年にかけて相次いで送り出したのは研究と生産の責任者で、行き先の米国と西ドイツはいずれも合成洗剤で先を行く国だった。報告によれば洗剤市場は、衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居用へと3つに割れていくとされ、商品政策はこの見立てに沿って組まれた。平井工場次長の植松重次郎氏は、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、この産業が大量生産と大量販売を絶対に必要とすることを報告に要約している。1961年には九州小倉、1964年には川崎に合成洗剤工場を建てた粉石鹸の売上がピークに達した1959年に本格転換を決めたのは、主力が最も売れている時点でその主力を捨てる判断であった。

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [72]昭和31年から32年にかけて合成洗剤の先進国であるアメリカと西ドイツを含む欧米へ研究や生産の責任者を相次いで派遣し洗剤市場を調査した
    • [73]調査報告から、洗剤市場が衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居など衣類以外の洗剤の3つに分化するとの結論に達し、用途別多様化戦略を商品政策の基本方針とした
    • [74]平井工場次長植松重次郎は欧米調査の報告で、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、マスプロとマスセールを絶対に必要とすることを挙げた
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [75]昭和36年に九州小倉へ合成洗剤工場を新設し、39年に川崎で最新式の合成洗剤工場を完成させた
参考文献[59]-[75]
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [59]小林敦は米国留学を終えて昭和30年10月に帰国し、貿易課長を経て昭和32年に取締役へ就任していた社長小林喜一の長男
    • [60]社長小林喜一は、低迷しているライオン歯磨に活を入れるには柔軟性のある若い世代に経営を委ねることだと考えるようになっていた
    • [61]昭和33年6月に副社長制を復活させ小林敦が副社長に就任した
    • [62]小林敦は実質的に経営の全責任を負い、改革が実を結ばなければ小林家のライオン歯磨は終わると「背水の陣」を敷く覚悟であった
    • [63]「経営の近代化」は組織改革、未来志向の経営計画の策定、経営の市場への接近、科学的マーケティングマネージメントの実践、社員の革新への参画意識の高揚の5要素からなる
    • [64]昭和34年上期に創業以来初めての長期経営方針を提示し、34年下期から41年下期までの7年半を第1次計画(2年半)と第2次計画(5年)に分割した
    • [66]ブリストル・マイヤーズ社は小林敦が米国留学中に企業研究の対象に選んだ会社であった
    • [67]提携先選定の理由に、扱い商品分野をライオン油脂の石鹸・油脂事業に抵触しないようにできること、東南アジア等への共同進出の可能性、提携しなくても日本進出は必至であることが挙げられた
    • [69]提携交渉は昭和35年初に始まり契約発効は37年8月だったが、対等のパートナーシップができていたため調印前の37年7月に「バイタリス」「バン」を生産販売した
    • [72]昭和31年から32年にかけて合成洗剤の先進国であるアメリカと西ドイツを含む欧米へ研究や生産の責任者を相次いで派遣し洗剤市場を調査した
    • [73]調査報告から、洗剤市場が衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居など衣類以外の洗剤の3つに分化するとの結論に達し、用途別多様化戦略を商品政策の基本方針とした
    • [74]平井工場次長植松重次郎は欧米調査の報告で、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、マスプロとマスセールを絶対に必要とすることを挙げた
  • 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
    • [65]副社長小林敦は1966年の鼎談で「今年は当社の七十五周年であると同時に、第二次長期五カ年計画の五年目」と述べている
    • [68]前年度の米国テレビ広告主ランクでブリストル・マイヤーズは7670万ドルで全米第2位
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [70]ライオン・ブリストル提携商品(LB商品)の売上は昭和37年下期を100として38年下期に1141.5
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [71]ライオン歯磨の売上高は1961年11月期41億1100万円、1964年11月期111億1400万円(上下期合算・単体)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [75]昭和36年に九州小倉へ合成洗剤工場を新設し、39年に川崎で最新式の合成洗剤工場を完成させた

1967年〜タイでの現地生産と、花王石鹸を追う二社の共同化

現地の商人に経営を渡してタイへ入る

戦後の海外進出はタイへの技術援助から始まった。1958年11月、バンコクの代理店サハ社がライオン"ピンクシャンプー"の充填工場を建てることになり、ライオン油脂が技術指導を行った。1967年12月、同社はサハ社との合弁で泰国獅王油脂有限公司を設立する。資本金400万バーツ、出資比率は折半で、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ氏が就任した。現地生産を勧めたのはティアム氏の側である。リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが1963年頃に相次いで現地生産へ移り、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたため、洗剤の輸出が激減していた。派遣された日本人は2人だけで、できるだけ経営の表面に立たない方式を採った

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [76]ライオン油脂の戦後の海外進出はタイへの技術援助からスタートした
    • [77]昭和33年11月にバンコクの現地代理店サハ社がライオン「ピンクシャンプー」充填工場を建設し、ライオン油脂がその技術指導を行った
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1967年12月 サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)を設立
  • 日経ビジネス(1974年8月19日号)
    • [79]タイ・ライオン油脂は資本金400万バーツ、出資比率50対50で設立され、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ社長が就任した
    • [80]サハ社のティアム社長がライオン油脂に現地生産を勧め、タイ・ライオン油脂の設立に踏み切った
    • [81]リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが昭和38年ごろ相次いでタイでの現地生産に乗り出し、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたためライオン油脂の洗剤輸出は激減した
    • [82]タイ・ライオン油脂は設立当初から日本人の派遣は2人だけで、できるだけ経営の表面には立たずタイ人に任せる方式を採った
食品で広げた戦線をたたむ

同じ多角化でも、食品は続かなかった。1964年3月、牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分で済む日本初のインスタントプディング"ママプリン"を発売し、1966年にはライオン食品株式会社を設立した。しかし販売店の店頭を直接管理するマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が重く、1969年8月、設立から3年で資本金1億円を500万円へ減資せざるをえなくなった。追い討ちをかけたのが同年10月の厚生省によるチクロの食品使用禁止措置で、食品事業の収益源だった"ママプリン"は市場からの回収と在庫処分を迫られ、1969年の売上は3年前の水準へ逆戻りし、決算は大幅赤字となった。立て直しは1971年のドレッシング導入から始まり、翌1972年にはタマノ井酢との資本提携へ進んだ

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [83]昭和39年3月に「ママプリン」を市場導入。牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分の20分で済む日本最初のインスタントプディングであった
    • [84]食品事業の本格展開のためライオン食品株式会社を設立した
    • [85]セールスが直接販売店の販売管理・店頭管理を行うマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が大きく、昭和44年8月に資本金1億円を500万円へ減資した(設立から3年)
    • [86]昭和44年10月の厚生省による「チクロの食品への使用禁止」措置で「ママプリン」の回収と在庫処分が必要となり、44年の売上げは3年前の水準に逆戻りして決算は大幅赤字となった
  • 日経ビジネス(1972年7月10日号)
    • [87]ライオン歯磨は2年前から脱本業政策を推進し、ドレッシングの下請け交渉から発展してタマノ井酢との資本提携に及んだ
正面を避けて2位から詰める

1971年、ライオン油脂の直近2期を合わせた年間売上は488億2000万円に達し、首位の花王石鹸の577億800万円との差は88億円余りまで縮まった。5年前の開きは売上で約半分、経常利益で3分の1だった。同じ年のライオン歯磨の売上高は361億9400万円で、分家が本家を上回った。1970年に業界を席巻した酵素入り洗剤には、売れ行きに自信がないとして唯一参入せず、各社が1年で撤収する事態を免れた花王が問屋と共同で販売網を作った際には、その反発を逆用して問屋内に"ライオン油脂製品部"を置かせ、約300問屋に自社製品を専門販売させている。二社は1967年に家庭用品の販売会社を共同出資で設立し、1971年には首脳の"AL会"で共同宣伝と原材料の共同購入を始めていた首位を追う位置は、二社を一つへ寄せる力にもなった。

  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [88]ライオン油脂の最近2期(昭和45年12月・46年6月)合計の年間売上は488億2000万円、花王石鹸は2期合計577億800万円でその差は88億円余り
    • [89]5年前のライオン油脂は花王石鹸の売上の約半分、経常利益は3分の1程度であった
    • [91]昭和45年に酵素入り洗剤が業界を風靡し花王はじめ各社が参入したがライオン油脂のみ「売れ行きに自信がない」として参入を見送り、各社が1年で撤収する事態を免れた
    • [92]花王が問屋と共同で販売網を作った際の反発を逆用し、問屋内に「ライオン油脂製品部」を設けさせ全国約300問屋にライオン製品を専門販売させる体制を取った
    • [94]両社首脳による「AL(オールライオン)会」を設けて毎月1回経営戦略を総合的に検討し、共同宣伝・電算機ソフトウエアの交換・研究開発情報の交流・原材料の共同購入が始まった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [90]ライオン歯磨の1971年11月期の売上高は361億9400万円(上下期合算・単体)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [93]昭和42年に姉妹会社のライオン歯磨と共同出資でライオンハウスホールド株式会社を設立し、家庭用関連品の販売を開始した
参考文献[76]-[94]
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [76]ライオン油脂の戦後の海外進出はタイへの技術援助からスタートした
    • [77]昭和33年11月にバンコクの現地代理店サハ社がライオン「ピンクシャンプー」充填工場を建設し、ライオン油脂がその技術指導を行った
    • [83]昭和39年3月に「ママプリン」を市場導入。牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分の20分で済む日本最初のインスタントプディングであった
    • [84]食品事業の本格展開のためライオン食品株式会社を設立した
    • [85]セールスが直接販売店の販売管理・店頭管理を行うマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が大きく、昭和44年8月に資本金1億円を500万円へ減資した(設立から3年)
    • [86]昭和44年10月の厚生省による「チクロの食品への使用禁止」措置で「ママプリン」の回収と在庫処分が必要となり、44年の売上げは3年前の水準に逆戻りして決算は大幅赤字となった
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1967年12月 サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)を設立
  • 日経ビジネス(1974年8月19日号)
    • [79]タイ・ライオン油脂は資本金400万バーツ、出資比率50対50で設立され、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ社長が就任した
    • [80]サハ社のティアム社長がライオン油脂に現地生産を勧め、タイ・ライオン油脂の設立に踏み切った
    • [81]リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが昭和38年ごろ相次いでタイでの現地生産に乗り出し、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたためライオン油脂の洗剤輸出は激減した
    • [82]タイ・ライオン油脂は設立当初から日本人の派遣は2人だけで、できるだけ経営の表面には立たずタイ人に任せる方式を採った
  • 日経ビジネス(1972年7月10日号)
    • [87]ライオン歯磨は2年前から脱本業政策を推進し、ドレッシングの下請け交渉から発展してタマノ井酢との資本提携に及んだ
  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [88]ライオン油脂の最近2期(昭和45年12月・46年6月)合計の年間売上は488億2000万円、花王石鹸は2期合計577億800万円でその差は88億円余り
    • [89]5年前のライオン油脂は花王石鹸の売上の約半分、経常利益は3分の1程度であった
    • [91]昭和45年に酵素入り洗剤が業界を風靡し花王はじめ各社が参入したがライオン油脂のみ「売れ行きに自信がない」として参入を見送り、各社が1年で撤収する事態を免れた
    • [92]花王が問屋と共同で販売網を作った際の反発を逆用し、問屋内に「ライオン油脂製品部」を設けさせ全国約300問屋にライオン製品を専門販売させる体制を取った
    • [94]両社首脳による「AL(オールライオン)会」を設けて毎月1回経営戦略を総合的に検討し、共同宣伝・電算機ソフトウエアの交換・研究開発情報の交流・原材料の共同購入が始まった
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [90]ライオン歯磨の1971年11月期の売上高は361億9400万円(上下期合算・単体)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [93]昭和42年に姉妹会社のライオン歯磨と共同出資でライオンハウスホールド株式会社を設立し、家庭用関連品の販売を開始した

第3章 1980-2003 (気が向いたら執筆します!) 2社の対等合併によるライオン発足と育毛剤事件後の新経営指針

第4章 2004-2026 (気が向いたら執筆します!) 中外製薬の大衆薬取得とアジア展開、グロンサンなどの譲渡とSKU削減

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歴史年表 1891〜2026年

ライオンの沿革1891〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1891〜1949年小林富次郎商店の創業と歯磨専業化への転換初代小林富次郎氏が神田柳原河岸に小林富次郎商店を開業
石鹸・燐寸原料と石鹸の製造販売を開始
初めて良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と名づける★★
ライオン石鹼工場を設立
小林富次郎小林富次郎商店を改組して小林商店設立(後のライオン歯磨)
小林富次郎ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼を設立(後のライオン油脂)
小林喜一ライオン石鹼をライオン油脂と商号変更
小林喜一小林商店をライオン歯磨と商号変更
小林喜一東京証券取引所に上場(ライオン歯磨)
1950〜1979年2社体制下の合成洗剤への転換と多角化小林喜一東京証券取引所に上場(ライオン油脂)
小林喜一大阪証券取引所市場第一部に上場(2007年12月上場廃止)
小林喜一サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)設立★★
1980〜2003年2社の対等合併によるライオン発足と育毛剤事件後の新経営指針小林喜一対等合併による二社体制の解消と、単一の事業会社としての発足

1980年1月1日、口腔ケアのライオン歯磨株式会社と石鹸・油脂のライオン油脂株式会社が対等合併し、ライオン株式会社として発足した経営判断。創業者・小林富次郎の事業が大正初期に分岐してから60年を経て、二つの系列を一つの経営体へ統合した。

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★★★
小林喜一育毛剤のデータねつ造をめぐる小林敦社長による経営危機の総括

1989年5月、育毛剤"薬用ペンタデカン"の製造承認データねつ造が発覚し、ライオンは小田原工場が20日間の製造業務停止処分を受けた。小林敦社長は生産中止・製品回収を即断する一方で自らは辞任を選ばず、2回にわたるインタビューで事件の経緯と経営責任を語った。危機感の不足という自己総括は、同年10月30日発表の新経営指針『市場高感度企業を目指す』へとつながった。

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★★★
2004〜2026年中外製薬の大衆薬取得とアジア展開、グロンサンなどの譲渡とSKU削減藤重貞慶中外製薬から一般用医薬品事業を取得★★
藤重貞慶CJ Corp.から生活化学品事業を取得★★
藤重貞慶ライオンエコケミカルズ有限公司をマレーシアに設立
藤重貞慶ブリストル・マイヤーズ スクイブから解熱鎮痛薬の商標権を取得
藤重貞慶大阪証券取引所上場廃止
藤重貞慶獅王日用科技有限公司設立(2015年8月吸収合併により消滅)
濱逸夫ピアレス社と共同出資でピアレスライオンをフィリピンに設立
濱逸夫アクゾノーベル社より株式を譲り受けライオン・スペシャリティ・ケミカルズを子会社化★★
濱逸夫ライオン化学品事業・一方社油脂工業・ライオン・スペシャリティ・ケミカルズを統合
濱逸夫Wilmar Internationalとの合弁でGlobal Eco Chemicals Singaporeを設立
竹森征之売上規模の拡大を目標から外す方針転換と、ブランドの選択と集中

2024年にドリンク剤"グロンサン""グロモント"・外用消炎鎮痛剤"ハリックス"を譲渡し、一般用消費財のSKUを2027年度までに3割削減する方針を掲げた。

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竹森征之SKU3割削減方針を発表★★
竹森征之Merap Lion Holding Corporationを完全子会社化★★
竹森征之PNB Consolidated Pty Ltdを完全子会社化
出典・参考 14件
出典・参考
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
  • 株式会社年鑑 1954年版「ライオン油脂」
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
  • 上場会社総覧(1956年版)
  • 上場会社総覧(1959年版)
  • 企業の現代史「健康と美のファミリー製品メーカー(ライオン歯磨)」(1966)
  • 会社年鑑(1967年版)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
  • 日経ビジネス(1972年7月10日号)
  • 日経ビジネス(1974年8月19日号)

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