1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸の店舗(小林富次郎商店)にて、石鹸・燐寸(マッチ)の原料と石鹸の製造販売を開始した。社史は創業日を10月30日、創業地を柳原河岸22号地と特定する。もっともこれは順調な船出ではない。富次郎は1877年の上京から数えて14年、上海での石鹸事業も香港支店もことごとく失敗し、石巻のマッチ軸木事業では洪水で1年分の原木を流して沿川に被害を出し、自殺を決意して北上川の橋上に佇むところまで追い詰められていた。40歳の再起は甥の石鹸工場の一隅から始まっている。当初は石鹸・マッチなどの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造、"高評"石鹸・"牛乳"石鹸などのブランドで発売した。
1896年7月、初めて良質粉ハミガキの製造を開始し、これを"獅子印ライオン歯磨"と名づけた。歯磨に手を伸ばした理由は明快で、石鹸は季節で売上が振れるうえ、問屋筋から競合の"ダイヤモンド歯磨"が月3000円を売ると聞いたからである。歯磨粉を売り出した当時は鹿印・象印など獣の名前を商品名に冠するのが流行しており、獅子は歯牙が強くて純白であることが歯磨の商品イメージに合致するとして採用された。社史はこの命名を、知人の北山牧師の"ライオンなら牙も丈夫だ"という一言に帰している。"ライオン"のブランドはこの粉ハミガキから始まり、強くて頼もしいライオンのイメージを商品名・社名に冠する戦略は、創業以来130年余にわたって維持された。
発売してすぐ"都新聞"と"万朝報"に広告を出したが、売れ行きは伸びなかった。品物を用意しただけでは売れないのである。富次郎は不振の原因を品質に求め、広告が効くのは品物が良いときに限るという宣伝の考え方をここから得た。1898年には、宣伝広告は商品を育てる肥料だと信じて、それまで大都市に限られていた楽隊広告を地方にまで送り出し、行く先々で特約店を募った。9店にすぎなかった特約店は、1902年頃には170店余りに増えている。1900年には大病で床に就いたのを機に社会奉仕を志し、米カーク商会にならって慈善券付きの歯磨を発売した。慈善券の仕組みは二代目にも受け継がれ、1920年までの20年間続いて、寄付の総額は33万6554円50銭7厘にのぼった。回収された小袋が販売数に満たないときは差額も自社で負担して寄付したという。
石鹸では、欧米を見て回った初代が、半端な規模では事業として立ち行かないと見て自社製造をやめる判断をすでに下していた。1910年に初代小林富次郎氏が亡くなると、二代目が富次郎の名を継いで事業を引き受け、1912年、最初の政策決定として"歯磨専業化"を打ち出した。それは創業以来扱ってきた他社製品の特約販売権をすべて返す決断で、目先の利益を手放すことでもあったが、権利だけを抱えていては取引先の信頼に背くと考えたのである。1916年にはライオン歯磨化学研究所を設け、輸入品と張り合える品質を自前の研究で確かめる体制を整えている。事業を絞り込む方針は、こうして二代にわたって貫かれた。
1918年9月、小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立した(資本金100万円、二代目小林富次郎氏が初代社長に就任)。1919年8月には合資会社ライオン石鹼工場を株式会社に改め、ライオン石鹼株式会社が生まれた。これがのちのライオン油脂株式会社の源流で、もう一方がライオン歯磨株式会社の源流となった。創業者・小林富次郎氏が興した歯磨(口腔ケア)と石鹸(家庭用洗剤)の2つの系列は、こうして大正初期に別々の法人として並び立つ体制になった。ただし形だけ会社を分けたのではなく、両社は各自の専門分野で研究から生産、販売までの機能をすべて備え、互いに完全に独立していた。この分かれた体制は、60年後に合併するまで続いている。
1923年の関東大震災では東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ、罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開した。大阪分工場の建設は社長・二代富次郎の即断で、震災2カ月足らずの10月27日に出荷を再開し、罹災工場のなかで生産再開第1号となっている。1929年には資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地に"ライオン会"を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた。この"ライオン会"は、利益が薄いという特約店の不満から生まれた値段協定会にさかのぼり、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例である。1935年12月、二代富次郎は63歳で相談役に退き、副社長の小林喜一氏が36歳で社長に就任した。
石鹸側のライオン石鹸株式会社は、1933年11月に江戸川区平井へ工場を建設し、中国・満州・南方諸地域・アフリカへ石鹸を大量に輸出した。1936年4月には平井工場(旧東京工場)が竣工している。1940年9月、ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社と商号変更し、戦時下の油脂統制経済への対応として社名を変更した。戦時中の生産品目は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油へと広がり、家庭用品メーカーというより軍需に組み込まれた油脂化学工業の様相を呈した。歯磨の側も統制を免れず、1943年10月には粉製のみに限られ、原料の配合規格まで規定された。配合規格が廃止されたのは終戦後の1945年10月である。
終戦時、株式会社小林商店は本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジアの有望市場も失う打撃を受けた。"ゼロからの再出発"として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱を立て直し、1948年7月に戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年には二度の増資払込で資本金7,500万円へと設備拡充資金を整えた。1949年2月、株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社と商号変更。31年続いた小林商店の名を消すことには、社内にも忍び難い思いがあった。同年5月、東京証券取引所に上場した。上場は取引所が再開された5月14日のわずか2日後、16日のことである。
もっとも戦後の再出発は、製品開発の面では後手に回った。チューブ入りの歯磨でも、同社は競合に先行されていた。取引先からは発売の遅さを責められ、眠ったままなのかという声まで出ていた。1948年12月に出したチューブ入り薬用歯磨"ライオンFクリーム"は、社内で国内初のフッ素入り歯磨とされたものの、香りと味が消費者の好みに合わなかった。翌年4月に手を加え、名前を変えて売り直している。目玉に据えたクロロフィル配合も、競合メーカーが前の年の秋に売り出した製品ですでに実現しており、先を越された形だった。老舗としての歴史の長さが、市場の変化への反応の遅さに変わりつつあった。
一人の創業者から分かれた二つの会社は、同じ30年を別々の速さで走った。本家のライオン歯磨は歯磨で全国の半分近い市場を握りながら、1954年から3年続けて売上を落とした。分家のライオン油脂は朝鮮動乱の反動で資金が詰まり、78人の希望退職者を送り出すところまで追い込まれた。そこから先の立ち直りの手は対照的である。歯磨は米国のブリストル・マイヤーズ社から整髪料と制汗剤を借りて事業の数を増やし、油脂は洗濯用として売れなかった洗剤を台所用へ充当して用途の数を増やした。借りた事業は食品で行き詰まり、充当した用途のほうは合成洗剤の全域へ広がった。他人の商品を並べるより、自社の一品を別の使い道で売り直すほうが遠くまで行けた30年だった。
1971年、油脂の年間売上488億円は歯磨の361億円を追い越し、首位の花王石鹸との差を88億円まで詰めていた。分家が本家を抜いたのは、追う側の位置を使い切ったからである。酵素入り洗剤が業界を席巻したときは一社だけ参入せず、各社が1年で撤収するのを横目に無傷で残った。花王が問屋と販売網を組んだときは、そこで生じた反発を引き取って自社の製品部を問屋の中に置いた。どちらも、先に動いた相手がいて初めて成り立つ手である。正面から当たらずに済む位置は、2位にしか与えられない。二つの会社が毎月の会合で共同購入と共同宣伝を始めたとき、10年後の合併までの距離はもう短くなっていた。
歯磨の市場そのものはむしろ広がっていた。粉歯磨から練歯磨への移り変わりで高級化が進み、業界全体の出荷額は1958年度の80億円から1962年度には119億円に増えている。これに対してライオン歯磨の売上高は1954年11月期の26億4200万円が天井で、1955年11月期に25億7900万円、1957年11月期に25億1300万円と、上場して数年で伸びを失った。新製品を次々に出し、乱れた市場を立て直そうと力を尽くしたものの、1954年を山として売上も利益も減っていく流れは変わらず、伸びる市場で、創業60年の老舗だけが足踏みしていたのである。
同じ創業者から分かれたライオン油脂は、より切迫していた。朝鮮動乱による原料高と製品安で資金繰りが極端に悪化し、続く原料油の暴落と仮需要の反動が致命的な打撃となった。1953年前後の貸借対照表では、短期借入金が6億円台に膨らみ、資本金1億円の6倍を超えている。1951年9月には給料の3分割払いに踏み切り、翌1952年5月には社長・専務・常務が15%、取締役が10%、部長・次長が5%の減給を決めた。同年10月、50名の予定で希望退職を募ったところ申し出は92名に及び、最終的に78名が退職した。1949年に月産900トンの設備を構えたマーガリン事業も、販売ルートを築けないまま新鋭設備への切替えができず、他社に立ち遅れた。
油脂を支えたのは、洗濯ではなく台所だった。1950年6月に工業用洗浄剤として発売された"ライポン"は、翌1951年10月に絹・毛・化繊用の家庭用洗剤として売り出されたが、売上は伸び悩んだ。高級アルコール系のほうが鉱油系より優れているとみられていたうえ、粉石鹸に対する割高感もあったからである。そこで1953年、野菜と食器の洗浄という新用途を訴える打開策へ切り替えた。北海道大学農芸化学教室に苺の除菌効果を、茨城県衛生課に食器器具類の汚染除去を研究発表させるなど、研究機関と政府機関への実験依頼を地道に重ねている。1956年に野菜・果物・食器洗い用の"ライポンF"として売り直したこの洗剤は、日本で初めて合成洗剤の新用途を開拓した商品となった。
社長小林喜一氏の長男である小林敦氏は、米国留学を終えて1955年に帰国し、貿易課長を務めたのち1957年に取締役に就いていた。停滞する会社を立て直すには柔らかい発想を持つ若手に任せるしかない、と父は判断し、1958年6月、ライオン歯磨は副社長制を復活させて敦氏をその座に就けた。経営の全責任を事実上担った敦氏は、改革がしくじれば小林家のもとでのライオン歯磨はそこまでになる、という退路のない覚悟で臨んだ。掲げた「経営の近代化」は、組織の改革、経営計画づくり、経営を市場に近づけること、科学的なマーケティングの実践、社員の参画意識という5本の柱で構成された。1959年上期には創業以来はじめてとなる長期経営方針が示され、1959年下期から1966年下期までの7年半を第1次・第2次の二つの計画に割り振った。第2次計画の最終年は創業75周年の1966年に置かれた。
多角化の相手に選んだブリストル・マイヤーズ社は、小林敦氏が米国留学中に企業研究の対象とした会社である。扱う商品分野がライオン油脂の石鹸・油脂事業と抵触しないこと、東南アジアへ共同進出できること、提携しなくとも日本進出は必至であることを挙げて、最有力候補と判じた。1965年の全米テレビ広告主で第2位に立つ宣伝力を持つ相手でもあった。交渉は1960年初に始まり契約の発効は1962年8月だったが、信頼関係が先にできていたため調印前の同年7月に液体整髪料"バイタリス"と制汗剤"バン"を発売している。提携商品の売上は1962年下期を100として1963年下期に1141まで伸び、全社の売上高も1961年11月期の41億1100万円から1964年11月期の111億1400万円へ増えた。
以後の商品政策を貫いたのは用途別多様化という考え方で、その根拠は海外への派遣の報告にあった。ライオン油脂が1956年から1957年にかけて相次いで送り出したのは研究と生産の責任者で、行き先の米国と西ドイツはいずれも合成洗剤で先を行く国だった。報告によれば洗剤市場は、衣類用のヘビーデューティー、毛・絹・化繊用のライトデューティー、身体・台所・住居用へと3つに割れていくとされ、商品政策はこの見立てに沿って組まれた。平井工場次長の植松重次郎氏は、合成洗剤工業が急速に石鹸に取って代わること、日本が米国に10年ほど遅れていること、この産業が大量生産と大量販売を絶対に必要とすることを報告に要約している。1961年には九州小倉、1964年には川崎に合成洗剤工場を建てた。粉石鹸の売上がピークに達した1959年に本格転換を決めたのは、主力が最も売れている時点でその主力を捨てる判断であった。
戦後の海外進出はタイへの技術援助から始まった。1958年11月、バンコクの代理店サハ社がライオン"ピンクシャンプー"の充填工場を建てることになり、ライオン油脂が技術指導を行った。1967年12月、同社はサハ社との合弁で泰国獅王油脂有限公司を設立する。資本金400万バーツ、出資比率は折半で、社長にはサハ社のティアム・チョケワタナ氏が就任した。現地生産を勧めたのはティアム氏の側である。リバー・ブラザーズとコルゲート・パルモリブが1963年頃に相次いで現地生産へ移り、タイ政府が約100%の関税障壁を設けたため、洗剤の輸出が激減していた。派遣された日本人は2人だけで、できるだけ経営の表面に立たない方式を採った。
同じ多角化でも、食品は続かなかった。1964年3月、牛乳を加える必要がなく調理時間が競合品の半分で済む日本初のインスタントプディング"ママプリン"を発売し、1966年にはライオン食品株式会社を設立した。しかし販売店の店頭を直接管理するマコーミック方式は固定的な営業経費の負担が重く、1969年8月、設立から3年で資本金1億円を500万円へ減資せざるをえなくなった。追い討ちをかけたのが同年10月の厚生省によるチクロの食品使用禁止措置で、食品事業の収益源だった"ママプリン"は市場からの回収と在庫処分を迫られ、1969年の売上は3年前の水準へ逆戻りし、決算は大幅赤字となった。立て直しは1971年のドレッシング導入から始まり、翌1972年にはタマノ井酢との資本提携へ進んだ。
1971年、ライオン油脂の直近2期を合わせた年間売上は488億2000万円に達し、首位の花王石鹸の577億800万円との差は88億円余りまで縮まった。5年前の開きは売上で約半分、経常利益で3分の1だった。同じ年のライオン歯磨の売上高は361億9400万円で、分家が本家を上回った。1970年に業界を席巻した酵素入り洗剤には、売れ行きに自信がないとして唯一参入せず、各社が1年で撤収する事態を免れた。花王が問屋と共同で販売網を作った際には、その反発を逆用して問屋内に"ライオン油脂製品部"を置かせ、約300問屋に自社製品を専門販売させている。二社は1967年に家庭用品の販売会社を共同出資で設立し、1971年には首脳の"AL会"で共同宣伝と原材料の共同購入を始めていた。首位を追う位置は、二社を一つへ寄せる力にもなった。
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|---|---|---|---|---|
| 1891〜1949年小林富次郎商店の創業と歯磨専業化への転換 | 初代小林富次郎氏が神田柳原河岸に小林富次郎商店を開業 | ★ | ||
| 石鹸・燐寸原料と石鹸の製造販売を開始 | ★ | |||
| 初めて良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と名づける | ★★ | |||
| ライオン石鹼工場を設立 | ★ | |||
| 小林富次郎 | 小林富次郎商店を改組して小林商店設立(後のライオン歯磨) | ★ | ||
| 小林富次郎 | ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼を設立(後のライオン油脂) | ★ | ||
| 小林喜一 | ライオン石鹼をライオン油脂と商号変更 | ★ | ||
| 小林喜一 | 小林商店をライオン歯磨と商号変更 | ★ | ||
| 小林喜一 | 東京証券取引所に上場(ライオン歯磨) | ★ | ||
| 1950〜1979年2社体制下の合成洗剤への転換と多角化 | 小林喜一 | 東京証券取引所に上場(ライオン油脂) | ★ | |
| 小林喜一 | 大阪証券取引所市場第一部に上場(2007年12月上場廃止) | ★ | ||
| 小林喜一 | サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)設立 | ★★ | ||
| 1980〜2003年2社の対等合併によるライオン発足と育毛剤事件後の新経営指針 | 小林喜一 | 対等合併による二社体制の解消と、単一の事業会社としての発足 1980年1月1日、口腔ケアのライオン歯磨株式会社と石鹸・油脂のライオン油脂株式会社が対等合併し、ライオン株式会社として発足した経営判断。創業者・小林富次郎の事業が大正初期に分岐してから60年を経て、二つの系列を一つの経営体へ統合した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小林喜一 | 育毛剤のデータねつ造をめぐる小林敦社長による経営危機の総括 1989年5月、育毛剤"薬用ペンタデカン"の製造承認データねつ造が発覚し、ライオンは小田原工場が20日間の製造業務停止処分を受けた。小林敦社長は生産中止・製品回収を即断する一方で自らは辞任を選ばず、2回にわたるインタビューで事件の経緯と経営責任を語った。危機感の不足という自己総括は、同年10月30日発表の新経営指針『市場高感度企業を目指す』へとつながった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2004〜2026年中外製薬の大衆薬取得とアジア展開、グロンサンなどの譲渡とSKU削減 | 藤重貞慶 | 中外製薬から一般用医薬品事業を取得 | ★★ | |
| 藤重貞慶 | CJ Corp.から生活化学品事業を取得 | ★★ | ||
| 藤重貞慶 | ライオンエコケミカルズ有限公司をマレーシアに設立 | ★ | ||
| 藤重貞慶 | ブリストル・マイヤーズ スクイブから解熱鎮痛薬の商標権を取得 | ★ | ||
| 藤重貞慶 | 大阪証券取引所上場廃止 | ★ | ||
| 藤重貞慶 | 獅王日用科技有限公司設立(2015年8月吸収合併により消滅) | ★ | ||
| 濱逸夫 | ピアレス社と共同出資でピアレスライオンをフィリピンに設立 | ★ | ||
| 濱逸夫 | アクゾノーベル社より株式を譲り受けライオン・スペシャリティ・ケミカルズを子会社化 | ★★ | ||
| 濱逸夫 | ライオン化学品事業・一方社油脂工業・ライオン・スペシャリティ・ケミカルズを統合 | ★ | ||
| 濱逸夫 | Wilmar Internationalとの合弁でGlobal Eco Chemicals Singaporeを設立 | ★ | ||
| 竹森征之 | 売上規模の拡大を目標から外す方針転換と、ブランドの選択と集中 2024年にドリンク剤"グロンサン""グロモント"・外用消炎鎮痛剤"ハリックス"を譲渡し、一般用消費財のSKUを2027年度までに3割削減する方針を掲げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹森征之 | SKU3割削減方針を発表 | ★★ | ||
| 竹森征之 | Merap Lion Holding Corporationを完全子会社化 | ★★ | ||
| 竹森征之 | PNB Consolidated Pty Ltdを完全子会社化 | ★ |
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事実根拠:出所(ライオン)