育毛剤「ペンタデカン」データねつ造事件と小林敦社長による経営危機の総括
「寝耳に水」の不祥事に、花王との競争に敗れつつあった小林敦社長はどう向き合ったか
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- 概要
- 1989年5月、育毛剤「薬用ペンタデカン」の製造承認データねつ造が発覚し、ライオンは小田原工場が20日間の製造業務停止処分を受けた。小林敦社長は生産中止・製品回収を即断する一方で自らは辞任を選ばず、日経ビジネス誌上の2回連続インタビューで事件の経緯と経営責任を語った。危機感の不足という自己総括は、同年10月30日発表の新経営指針「市場高感度企業を目指す」へとつながった。
- 背景
- 1980年の対等合併で総合家庭用品メーカーへの転換を図ったライオンは、拡大路線の長期計画「アタック100」を掲げる一方、87年の花王「アタック」への対応が1年以上遅れ、88年12月期に合併以来初の減収減益を計上していた。育毛剤「ペンタデカン」は、そうしたなかで期待をかけた育成商品であった。
- 内容
- 5月29日、小林社長は厚生省からの指摘で事件を把握し、翌日には調査委員会を設置した。生産中止と製品回収を即日指示する一方、進退については辞任を選ばず、再発防止を自らの責任と位置づけた。8月1日付で組織改正を実施し、10月の2回連続インタビューでは「社員に危機感が不足していた」と総括した。
- 含意
- 小林社長の総括は、拡大一辺倒だった「アタック100」の事実上の放棄と、10月30日発表の新経営指針「市場高感度企業を目指す」に結実した。ここから「ローコストサプライシステム(LOCOS)」等を柱とする改革が進み、90年代半ばには利益重視の体質転換が数字にも表れていく。
不祥事と自己総括が経営に残したもの
ここで目を引くのは、小林社長が事件そのものへの対処よりも、事件を生んだ土壌を長い時間軸で語った点である。データねつ造という個別の不正を、担当者個人の逸脱にとどめず、80年の合併で膨張した組織と、拡大目標が先行した「アタック100」計画、そして現場に浸透しなかった危機感という、より根の深い経営課題に結びつけて語った。辞任という分かりやすい決着を避け、原因の分析と再発防止を優先した対応であったとみることができる。
もっとも、この総括がそのまま数年で成果に転じたわけではない。「市場高感度企業を目指す」との指針から利益率の目立った改善までには、なお数年を要した。育毛剤という一商品の不祥事が、合併後10年近くを経てもなお定まらなかった経営の型を問い直す契機になった点に、この事件の重みがある。危機に直面してはじめて体質を見直すという経過は、その後のライオンの経営にも影を落としたとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
総合家庭用品メーカー化と拡大路線「アタック100」
1980年1月、ライオン歯磨とライオン油脂が対等合併し、口腔ケア・家庭用洗剤・一般用医薬品の3軸を統合する総合家庭用品メーカーとしてライオン株式会社が発足した。合併後は花王・P&Gジャパンと国内シェアを争う立場となり、創業100周年にあたる91年度に売上高5000億円・経常利益200億円を目指す長期計画「アタック100」を掲げて、規模拡大を優先する経営を進めていた[1]。
しかし1987年、花王がコンパクト洗剤「アタック」を投入すると、ライオンの対応は1年以上遅れた。その結果、洗剤市場のシェアを大幅に奪われ、1988年12月期(昭和63年12月期)の決算見通しを大幅に下方修正せざるを得なくなった。小林敦社長は社内テレビで全社員に向けて、55年のライオン油脂とライオン歯磨の合併以来初めての減収減益となる見通しを自ら伝えた[2]。
期待をかけた育成商品「ペンタデカン」
家庭用品市場が成熟するなか、ライオンが新規事業として力を入れていたのが育毛剤「薬用ペンタデカン」であった。1984年に主成分PDG(ペンタデカン酸グリセリド)が学会発表され、大学病院の試験結果が「薄毛の人に光明」と報じられたことで期待が広がり、85年7月に厚生省へ製造承認を申請、86年に発売した[3]。
発売翌年には売上高230億円規模に育ち、市場全体が500億円に成長すればシェア3割で150億円の収益源になるとの期待を込め、ライオンは「育成商品」に位置づけていた。小林社長自身、事件後に「事業展開にも直接、影響がありました。期待の大きい新製品でしたからね」と、その打撃の大きさを振り返っている[4]。
決断
「寝耳に水」の発覚とねつ造の実態
1989年5月29日、小林社長は厚生省からの電話でペンタデカンへの疑義を知らされた。翌日には副社長を長とする4人の役員による調査委員会を設置して事実調査に踏み切り、担当者の一人がデータねつ造を認めた。小林社長は「それこそ寝耳に水ですからね」と、事件を知った当時の衝撃を語っている[5]。
厚生省令では医薬部外品の製造承認に3年間の長期保存試験が必要とされるが、ライオンは85年7月の申請にあたり、実際は84年12月から85年6月までの7カ月間しか実施していない試験を、83年5月から85年5月までの2年間行ったと偽っていた。厚生省の調査ではさらに睡眠剤についても試験の一部を行わずに出荷していたことが判明し、8月8日付で小田原工場が20日間の製造業務停止処分を受けた[6]。
辞任せず経営責任を引き受けるという選択
事件発覚後、小林社長は生産の即時中止と流通在庫の回収を各担当者に指示する一方、自らの進退については辞任を選ばなかった。「会社ぐるみでやったのなら引かなきゃならないけれども、違いますからね。逆に引いたら会社ぐるみだと思われてしまう」と説明し、再発防止の任務を全うすることを自らの責任と位置づけた[7]。
小林社長は原因を組織の細分化に求めた。80年の合併で研究部門や工場の規模が拡大し、歯磨き・洗剤・スキンケアなどに研究室を細かく分けた結果、従来化粧品を手がけてきたヘアケア研究室が医薬部外品のペンタデカンを担当することになり、規制の厳格さが現場に「身に染み込んでいなかった」と振り返った。8月1日付で組織改正を行い、薬事法関連部門を増員し監視部門を新設して二重チェック体制を敷いた[8]。
結果
「危機感の不足」という総括と新経営指針
事件発覚から5カ月後の続編インタビューで、小林社長は問題の核心を「社員に危機感が不足していた」ことに求めた。87年に花王「アタック」が出た際、自らは「これは売れるぞ」と危機感を持ったが、生産・営業の現場には浸透せず、対応が1年以上遅れたと振り返っている[9]。
この総括を踏まえ、小林社長は創業100年の節目を前にした10月30日、「市場高感度企業を目指す」との新経営指針を発表した。低コストで商品を供給する「ローコストサプライシステム(LOCOS)」と、責任と権限を明確にする「利益責任システム」を柱とする「革新プログラム」を通じて、拡大一辺倒だった「アタック100」計画を88年に事実上放棄し、収益重視の体質転換に着手した[10]。
体質転換の定着
新指針から1年半後の1991年、花王対抗商品「スパーク」が発売1カ月でシェア5%を確保するなど、対応の遅れを取り戻す動きが問屋筋にも伝わり「今年こそ」との期待が広がった。もっとも同時期の誌面では、合併効果や技術融合について「本格的なものは、これから」との評価も残り、体質転換は緒に就いたばかりであった[11]。
転換の成果が数字に表れたのは、それから数年を経てからであった。94年12月期決算は売上高3170億円・経常利益75億円(見込み)となり、業績の底だった90年12月期と比べて売上高は5.9%増にとどまる一方、経常利益は60.5%増を記録した。「これまで着々とリストラを続けてきた」と、当時会長に退いていた小林敦氏は語っている[12]。
- 日経ビジネス 1988年7月18日号「小林敦氏(ライオン社長)"形態革命"の波に乗り遅れる軌跡」
- 日経ビジネス 1989年10月9日号「敗軍の将、兵を語る【上】育毛剤事件は寝耳に水 小林敦氏(ライオン社長)」
- 日経ビジネス 1989年10月23日号「敗軍の将、兵を語る【下】危機感の不足が招いた不振 小林敦氏[ライオン社長]」
- 日経ビジネス 1991年5月13日号「ライオン 利益上がる体質に改善 市場への対応、素早く」
- 日経ビジネス 1995年2月6日号「ライオン コスト減に現場の声直結 利益の出る体質へ転換」
- ライオン 有価証券報告書【沿革】