1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸の[1]店舗(小林富次郎商店)にて[2]、石鹸・燐寸(マッチ)の原料と石鹸の製造販売を開始した[3]。社史は創業日を10月30日、創業地を柳原河岸22号地と特定する[4]。もっともこれは順調な船出ではない。富次郎は1877年の上京から数えて14年、上海での石鹸事業も香港支店もことごとく失敗し、石巻のマッチ軸木事業では洪水で1年分の原木を流して沿川に被害を出し、自殺を決意して北上川の橋上に佇むところまで追い詰められていた[5]。40歳の再起は甥の石鹸工場の一隅から始まっている。当初は石鹸・マッチなどの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造[6]、『高評』石鹸・『牛乳』石鹸などのブランドで発売した。
1896年7月、初めて良質粉ハミガキの製造を開始し、これを『獅子印ライオン歯磨[7]』と名づけた。歯磨に手を伸ばした理由は明快で、石鹸は季節で売上が振れるうえ、問屋筋から競合の『ダイヤモンド歯磨』が月3000円を売ると聞いたからである[8]。歯磨粉を売り出した当時は鹿印・象印など獣の名前を商品名に冠するのが流行しており、獅子は歯牙が強くて純白であることが歯磨の商品イメージに合致[9]するとして採用された。社史はこの命名を、知人の北山牧師の『ライオンなら牙も丈夫だ』という一言に帰している[10]。『ライオン』のブランドはこの粉ハミガキから始まり、強くて頼もしいライオンのイメージを商品名・社名に冠する戦略は、創業以来130年余[11]にわたって維持された。
商品を持っただけでは売れなかった。発売直後に『都新聞』『万朝報』へ広告を打ったものの商いは振るわず、原因は品質にあると見た富次郎は、そこから『広告の効果はよい商品があって初めて威力を発揮する』という宣伝観を引き出す[12]。1898年には『商品にとって宣伝広告は肥料』との信念で、大都市に集中していた楽隊広告を地方まで繰り出し、訪問先で特約店を勧誘して、9店だった特約店を1902年頃には170店余へ広げた[13]。1900年、大病の床で社会奉仕を思い立った富次郎は、米カーク商会の例に倣い慈善券付歯磨を売り出す[14]。この仕組みは二代目に引き継がれて1920年まで20年続き、寄付総額は33万6554円50銭7厘に達した。回収された小袋が販売数に満たないときは差額も自社で負担して寄付したという[15]。
1910年に初代小林富次郎氏が没し、二代目が富次郎を襲名して事業[16]を継いだ。二代目が最初に下した政策決定は、1912年の『歯磨専業化』である[17]。これは創業以来取り次いできた他社商品の特約販売権をすべて返上することを意味し、当座の収益を捨てる決断でもあった。特約販売の権利だけを持ち続けることは取引先の信頼を裏切る、というのがその理屈であった[18]。1916年にはライオン歯磨化学研究所を開設し[19]、輸入品に対抗できる品質を自前の研究で確かめる体制を敷いた。欧米を視察した初代が、中途半端な規模ではこの事業は成り立たないと判断して自社石鹸の製造中止を決めていた経緯もあり[20]、事業の絞り込みは二代にわたる方針であった。
1918年9月、小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立した(資本金100万円、二代目小林富次郎氏が初代社長に就任[21])。これが後のライオン歯磨株式会社の母体となる[22]。1919年8月、合資会社ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼株式会社を設立。これが後のライオン油脂株式会社の母体である[23]。単なる分社ではない。両社はそれぞれの専業分野で研究・生産・販売のすべての機能を持つ、完全に分離独立した会社となった[24]。創業者・小林富次郎氏の事業のうち、歯磨(口腔ケア)事業と石鹸(家庭用洗剤)事業の2系列が[25]、別法人として並立する体制が大正初期に確立された。この分立は60年後の合併まで続く。
1923年の関東大震災では東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ、罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開した[26]。大阪分工場の建設は社長・二代富次郎の即断で、震災2カ月足らずの10月27日に出荷を再開し、罹災工場のなかで生産再開第1号となっている[27]。1929年には資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地[28]に『ライオン会』を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた。この『ライオン会』は、利益が薄いという特約店の不満から生まれた値段協定会にさかのぼり、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例である[29]。1935年12月、二代富次郎は63歳で相談役に退き、副社長の小林喜一氏が36歳で社長に就いた[30]。
石鹸側のライオン石鹸株式会社は、1933年11月に江戸川区平井へ工場を建設し、中国・満州・南方諸地域・アフリカへ石鹸を大量に輸出した[31]。1936年4月には平井工場(旧東京工場)が竣工している[32]。1940年9月、ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社と商号変更し[33]、戦時下の油脂統制経済への対応として社名を改めた。戦時中の生産品目は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油へと広がり、家庭用品メーカーというより軍需に組み込まれた油脂化学工業の様相を呈した[34]。歯磨の側も統制を免れず、1943年10月には粉製のみに限られ、原料の配合規格まで規定された。配合規格が廃止されたのは終戦後の1945年10月である[35]。
終戦時、株式会社小林商店は本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジアの有望市場も失う打撃を受けた。『ゼロからの再出発』として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱を立て直し、1948年7月に戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年には二度の増資払込で資本金7,500万円へと設備拡充資金を整えた[36][37]。1949年2月、株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社と商号変更[38]。31年続いた小林商店の名を消すことには、社内にも忍び難い思いがあった[39]。同年5月、東京証券取引所に上場した[40]。上場は取引所が再開された5月14日のわずか2日後、16日のことである[41]。
もっとも戦後の再出発は、製品開発の面では後手に回った。1948年12月に発売したチューブ入り薬用歯磨『ライオンFクリーム』を、社内では国内初のフッ素入り歯磨と位置づけられたが、香味が消費者の嗜好に合わず、翌年4月に改良のうえ改称して出し直している[42]。チューブ入り歯磨そのものも競合に先を越されており、得意先からは、なぜ発売が遅れているのか眠っているのではないかという声が上がっていた。売り物のクロロフィル配合も、競争メーカーが前年秋に市場へ出した商品ですでに実現しており、後塵を拝した[43]。老舗であることが、市場の変化に対する鈍さに転じかけていた。
1954年をピークに減収減益が続くなか、1958年6月に副社長制が復活し、小林敦氏が副社長に就任した。小林敦氏は実質的に経営の全責任を負い、改革が実を結ばなければ小林家のライオン歯磨は終わるという背水の陣を敷いた[44]。翌1959年、創業以来初めての長期経営計画が策定される。副社長が描いた会社の姿は、口腔ケアにとどまらず業容を広げたファミリー製品メーカーとして海外でも認知される近代的な経営体であった[45]。1957年には『スーパーライオン』を発売してフッ素入り歯磨の系譜を継ぎ[46]、1960年にライオン歯磨研究所を設立[47]、1961年5月には外国品の市場参入に備えて『ホワイトライオン』を発売した。
この転換は数字に表れた。歯磨の総出荷は1958年度の80億円から1963年度には推定155億円へと6年で倍増し、内訳も練歯磨が8割を占めるまでに入れ替わって、粉歯磨は1億円台を割り込んだ[48]。1963年9月には大手各社が協定して粉歯磨の生産そのものを打ち切っている[49]。市場はライオン歯磨とサンスターの2社で9割を占める寡占で、マスコミを使える大手ほど伸びる構造にあった[50]。同社の全国シェアは自社推定で46%[51]。売上は1961年上期の20億円が1963年下期に約47億円、利益は5,300万円が3億9,300万円へと3年で7倍以上に伸びた[52]。1962年開始の長期5カ年計画は、貿易自由化に備えて1966年に売上高利益率10%超を掲げていた[53]。
多角化はこの計画の柱だった。1962年7月28日、米ブリストル・マイヤーズ社との提携第1弾として男性整髪料『バイタリス』と制汗剤『バン』を発売[54][55]。1963年6月に薬品事業部を置いて解熱鎮痛薬『バファリン』の生産に入り、同年12月には食品事業部も設けた[56]。副社長・小林敦氏は1964年の講演で、歯磨が売上に占める比率を1963年下期の76%から1966年に60%へ下げると明言している[57]。同年、10億円を投じて小田原に歯磨工場としては世界最大級の完全オートメーション工場を建設し、能力を7割引き上げた[58][59]。1965年2月にはライオン・ブリストルマイヤーズを設立し、米銀からの100万ドル借款も実現した[60]。
石鹸から合成洗剤への転換は、油脂側の運命を決めた。戦後のライオン油脂は1946年に函館へ食糧・油脂工場を新設し、1950年には合成工業油剤と合成洗剤の生産を開始する[61]。1951年1月に資本金1億円、1955年6月期の売上高は12億2,000万円で、業界三大メーカーの一角を占めた[62]。花王が石鹸から洗剤へ正面から移行できる力を持っていたのに対し、ライオン油脂は競合しない台所分野から入った。1956年に洗剤を食器・青果物用へ持ち込んだのを皮切りに、泡コントロール洗剤、カラー洗剤と、着想と開発技術で差別化する製品を相次いで出す[63]。外部の評者はこれを迂回戦略と呼んだ[64]。
1971年、ライオン油脂の年間売上は488億2,000万円に達し、花王の577億800万円との差は88億円まで縮まった[65]。過去5年で花王が売上42%・利益37%の伸びだったのに対し、ライオン油脂は売上2.5倍・利益2倍。5年前は花王の売上の約半分、経常利益は3分の1という格差だっただけに、社内には合成洗剤でついに首位に立ったという高揚があった[66][67]。流通でも間隙を突く。花王が外資対策として全国に約110社の販売会社網を築き、それが問屋の反発を招くと、ライオン油脂はその空気を逆用して全国約300の問屋のなかに『ライオン油脂製品部』を設けさせ、自社製品を専門に売らせる体制を敷いた[68][69]。
海外では、タイでの合弁がのちの東南アジア事業の原型になる。ライオン油脂は中国系の輸入商サハ・パタナビブン社を通じてタイ市場へ製品を供給しており、1958年から粉シャンプーの現地袋詰めを始めていた。同社のティアム社長に勧められ、1968年3月に資本金400万バーツ・出資比率50対50でタイ・ライオン油脂を設立、社長にはティアム氏が就いた[70]。派遣する日本人は2人だけで、経営の表面には立たずタイ人に任せる方式を貫いている[71]。1973年3月の外国企業規制法にあたっては持ち株1%を譲ってタイ側51%とし、形の上でもタイの会社とした[72]。1972年8月に始めた洗剤が当たり、1973年の売上は前年の3倍超に伸びた[73]。
二社は別法人のまま、実務では急速に近づいていった。1971年時点で両社首脳による『AL(オールライオン)会』が置かれ、毎月1回経営戦略を検討し、第一線の部長からなる14の委員会で具体化する仕組みが動いている。共同宣伝、電算機ソフトウェアの交換、研究開発情報の交流、原材料の共同購入が始まり、特許センターと生物実験研究センターも両社で設けることになっていた[74]。組織の近代化も進む。ライオン歯磨は1964年、米P&G社が1928年に始めたプロダクト・マネジャー制を導入し、製品別の利益管理を機能別組織の縦断で徹底させた。導入を主導したのは当時副社長の小林敦氏で、米コーネル大学院で組織工学を学んだ経験があった[75][76]。
1970年代に入ると、洗剤と歯磨はそろって社会的な批判にさらされる。1973年12月1日、再販指定を取り下げてまで値上げをしたとして、全国地域婦人団体連絡協議会がライオン両社の製品ボイコット運動を起こした。翌年2月に始まった対話には、提携関係が進んでいた両社が一致協力して臨んでいる[77]。1977年1月には消費者団体のパンフレットが新聞で紹介されたことから議論が『歯磨無用論』へ転じ、同年2月、副社長を本部長とする『歯磨効用推進対策本部』が設置された[78]。歯磨発売以来80年、口腔衛生の普及を掲げてきた会社にとって、商品の存在意義そのものを問われる事態であった。
逆風のなかで下された決断もある。ライオン油脂社長だった小林宏氏は1970年代後半、排水汚染がまだ表面化していない段階でリンを含まない洗剤の開発を命じた。無リン化はコスト増を意味したため社内からも業界他社からも強い非難を浴びたが、1984年には自社洗剤の94%が無リンになっている。1970年代を通じて、ライオン歯磨とライオン油脂は[79]いずれも上場企業として独立した経営を保ちながら、創業家・小林家の株主構造と『ライオン』ブランドを共有して緊密に連携する姿となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1891〜1949年小林富次郎商店の創業と歯磨専業化への転換 | 初代小林富次郎氏が神田柳原河岸に小林富次郎商店を開業 | ★ | ||
| 石鹸・燐寸原料と石鹸の製造販売を開始 | ★ | |||
| 初めて良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と名づける | ★★ | |||
| ライオン石鹼工場を設立 | ★ | |||
| 小林富次郎商店を改組して小林商店設立(後のライオン歯磨) | ★ | |||
| ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼を設立(後のライオン油脂) | ★ | |||
| ライオン石鹼をライオン油脂と商号変更 | ★ | |||
| 小林商店をライオン歯磨と商号変更 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場(ライオン歯磨) | ★ | |||
| 1950〜1979年高度成長期のライオン歯磨とライオン油脂 | 東京証券取引所に上場(ライオン油脂) | ★ | ||
| 大阪証券取引所市場第一部に上場(2007年12月上場廃止) | ★ | |||
| サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)設立 | ★★ | |||
| 1980〜2003年対等合併と洗剤市場での敗北、そして再建 | ライオン歯磨とライオン油脂が対等合併しライオンとして発足 | ★★★ | ||
| 小林敦社長が育毛剤事件の経緯と経営責任を語り、新経営指針を発表 | ★★★ | |||
| 2004〜2025年大衆薬とアジアへの傾斜、そして量からの決別 | 中外製薬から一般用医薬品事業を取得 | ★★ | ||
| CJ Corp.から生活化学品事業を取得 | ★★ | |||
| 藤重貞慶 | ライオンエコケミカルズ有限公司をマレーシアに設立 | ★ | ||
| 藤重貞慶 | ブリストル・マイヤーズ スクイブから解熱鎮痛薬の商標権を取得 | ★ | ||
| 藤重貞慶 | 大阪証券取引所上場廃止 | ★ | ||
| 藤重貞慶 | 獅王日用科技有限公司設立(2015年8月吸収合併により消滅) | ★ | ||
| 濱逸夫 | ピアレス社と共同出資でピアレスライオンをフィリピンに設立 | ★ | ||
| 濱逸夫 | アクゾノーベル社より株式を譲り受けライオン・スペシャリティ・ケミカルズを子会社化 | ★★ | ||
| 濱逸夫 | ライオン化学品事業・一方社油脂工業・ライオン・スペシャリティ・ケミカルズを統合 | ★ | ||
| 濱逸夫 | Wilmar Internationalとの合弁でGlobal Eco Chemicals Singaporeを設立 | ★ | ||
| 竹森征之 | 「グロンサン」「グロモント」「ハリックス」を譲渡 | ★★★ | ||
| 竹森征之 | SKU3割削減方針を発表 | ★★ | ||
| 竹森征之 | Merap Lion Holding Corporationを完全子会社化 | ★★ | ||
| 竹森征之 | PNB Consolidated Pty Ltdを完全子会社化 | ★ |
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事実根拠:出所(ライオン)