ライオン の歴史

更新: Author:

創業 1891年
創業者 小林富次郎
創業地 東京都神田
創業
1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸で小林富次郎商店を創業した。石鹸と燐寸の原料を商いながら、小石川の工場で化粧石鹸を作った。1896年7月に粉ハミガキを『獅子印ライオン歯磨』として売り出す。1912年に二代目が他社商品の特約販売権をすべて返上して歯磨専業へ移り、1918年9月に株式会社小林商店、1919年8月にライオン石鹼を設けて、口腔ケアと家庭用洗剤を別法人で育てた。1949年2月に小林商店をライオン歯磨へ改め、同年5月に東京証券取引所へ上場している。ただし戦後の製品開発は後手に回り、チューブ入り歯磨もクロロフィル配合も競合に先を越された。
決断
売上の目標を掲げるたびに、採算を落としてきた。1980年1月にライオン歯磨とライオン油脂を対等合併させた。1983年には創業100周年の1991年へ向けて売上高5,000億円・経常利益200億円を掲げたが、目標達成のための営業が利益率を下げ、1990年12月期の営業利益は5億7,100万円と売上高比0.2%まで沈んだ。1989年には育毛剤のデータねつ造が発覚して生産中止と回収に至った。1988年に計画そのものを放棄し、品目数を1989年10月の576から1990年12月の489へ減らして芳香剤を38品目から14品目にすると、一桁だったシェアが10%を超えた。品目を減らすほどシェアが上がるという結果が、量を追う計画の否定になった。
現況
海外は売上の4割に近づいたが、事業利益では4分の1にとどまる。2025年12月期の外部顧客への売上高4,220億円は一般用消費財2,237億円・海外1,581億円・産業用品393億円で、セグメントの事業利益は一般用消費財216億円・海外81億円・産業用品28億円、全社調整後で307億円となる。国内の一般用消費財が8.4%の事業利益率を保つのに対し、海外は4.6%にとどまる。2024年には量を追わない経営へ転換し、非注力ブランドを譲渡してSKUを減らし、2025年12月には国内のジャパンリテールイノベーションを資生堂へ譲渡した。数を減らして単価を上げる整理は、伸びている海外ではなく利益率の高い国内から始まっている。
競合
花王が問屋を外した流通で、ライオンは問屋の内側へ入った。1964年に花王が全国約110社の販売会社網を築いて小売と直接結ぶと、反発した全国約300の問屋のなかにライオン油脂は自社の製品部を置かせ、専門に売らせる体制を敷いた。石鹸から洗剤へ正面から移った花王に対し、ライオン油脂は1956年に食器・青果物用という競合しない用途から入り、1971年には売上488億2,000万円と花王577億800万円の差を88億円まで縮めている。しかし1987年3月の超コンパクト洗剤『アタック』では、1984年に社内で同等品が提案されながら数十億円の設備投資を見送り、追随品の発売は1年後になった。流通の間隙で縮めた差は、設備を決められなかった1年で開いた。
ライオン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2005年12月期2025年12月期

創業ストーリー 小林富次郎商店の創業と歯磨専業化への転換 (1891年〜)

石鹸原料商から「ライオン歯磨」へ

1891年10月、初代小林富次郎氏が東京・神田柳原河岸の[1]店舗(小林富次郎商店)にて[2]、石鹸・燐寸(マッチ)の原料と石鹸の製造販売を開始した[3]。社史は創業日を10月30日、創業地を柳原河岸22号地と特定する[4]。もっともこれは順調な船出ではない。富次郎は1877年の上京から数えて14年、上海での石鹸事業も香港支店もことごとく失敗し、石巻のマッチ軸木事業では洪水で1年分の原木を流して沿川に被害を出し、自殺を決意して北上川の橋上に佇むところまで追い詰められていた[5]。40歳の再起は甥の石鹸工場の一隅から始まっている。当初は石鹸・マッチなどの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造[6]、『高評』石鹸・『牛乳』石鹸などのブランドで発売した。

  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は初代小林富次郎
    • [2]創業地は東京・神田柳原河岸(小林富次郎商店)
    • [3]1891年10月 初代小林富次郎が神田柳原河岸の店舗(小林富次郎商店)にて石鹸・燐寸の原料と石鹸の製造販売を開始(ライオン創業)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [4]社史は創業日を明治24年10月30日、創業地を神田柳原河岸22号地(現・千代田区東神田2丁目の美倉橋付近)と明記
    • [5]初代富次郎は1877年の上京から1891年までの14年間、上海での石鹸事業・鳴行社香港支店・石巻のマッチ軸木事業をことごとく失敗し、北上川の大洪水では原木流失の責を負って自殺を決意した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]創業当初は石鹸・マッチの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造し「高評」石鹸・「牛乳」石鹸などのブランドで発売

1896年7月、初めて良質粉ハミガキの製造を開始し、これを『獅子印ライオン歯磨[7]』と名づけた。歯磨に手を伸ばした理由は明快で、石鹸は季節で売上が振れるうえ、問屋筋から競合の『ダイヤモンド歯磨』が月3000円を売ると聞いたからである[8]。歯磨粉を売り出した当時は鹿印・象印など獣の名前を商品名に冠するのが流行しており、獅子は歯牙が強くて純白であることが歯磨の商品イメージに合致[9]するとして採用された。社史はこの命名を、知人の北山牧師の『ライオンなら牙も丈夫だ』という一言に帰している[10]。『ライオン』のブランドはこの粉ハミガキから始まり、強くて頼もしいライオンのイメージを商品名・社名に冠する戦略は、創業以来130年余[11]にわたって維持された。

  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1896年7月 良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と命名(「ライオン」ブランドの起点)
    • [11]「ライオン」の社名・商品名は獅子(百獣の王)のイメージに由来し創業以来維持(130年余は解釈表現)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [8]歯磨参入の動機は石鹸の季節変動と、競合「ダイヤモンド歯磨」(平尾賛平)が月3000円売れるという問屋筋の情報
    • [10]「ライオン」の商標は知人の北山牧師の「ライオンなら牙も丈夫だし歯磨の商標としてうってつけ」という意見により1896年3月に登録
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [9]「獅子印ライオン歯磨」の命名理由は、獣の名前を商品名に冠するのが流行し、獅子は歯牙が強くて純白で歯磨の商品イメージに合致したため

商品を持っただけでは売れなかった。発売直後に『都新聞』『万朝報』へ広告を打ったものの商いは振るわず、原因は品質にあると見た富次郎は、そこから『広告の効果はよい商品があって初めて威力を発揮する』という宣伝観を引き出す[12]。1898年には『商品にとって宣伝広告は肥料』との信念で、大都市に集中していた楽隊広告を地方まで繰り出し、訪問先で特約店を勧誘して、9店だった特約店を1902年頃には170店余へ広げた[13]。1900年、大病の床で社会奉仕を思い立った富次郎は、米カーク商会の例に倣い慈善券付歯磨を売り出す[14]。この仕組みは二代目に引き継がれて1920年まで20年続き、寄付総額は33万6554円50銭7厘に達した。回収された小袋が販売数に満たないときは差額も自社で負担して寄付したという[15]

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [12]発売直後の広告失敗から「広告の効果はよい商品があって初めて威力を発揮する」という宣伝観を得た
    • [13]1898年に楽隊広告を地方へ展開し、訪問先で特約店を勧誘して特約店を9店から1902年頃には170店余へ拡大
    • [14]1900年、病床での決意により米カーク商会の事例を参考に慈善券付歯磨を発売
    • [15]慈善券付歯磨は1900年9月から1920年まで20年続き、寄付総額33万6554円50銭7厘。回収小袋が販売数に満たない差額も自社負担で寄付した
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は初代小林富次郎
    • [2]創業地は東京・神田柳原河岸(小林富次郎商店)
    • [3]1891年10月 初代小林富次郎が神田柳原河岸の店舗(小林富次郎商店)にて石鹸・燐寸の原料と石鹸の製造販売を開始(ライオン創業)
    • [7]1896年7月 良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と命名(「ライオン」ブランドの起点)
    • [11]「ライオン」の社名・商品名は獅子(百獣の王)のイメージに由来し創業以来維持(130年余は解釈表現)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [4]社史は創業日を明治24年10月30日、創業地を神田柳原河岸22号地(現・千代田区東神田2丁目の美倉橋付近)と明記
    • [5]初代富次郎は1877年の上京から1891年までの14年間、上海での石鹸事業・鳴行社香港支店・石巻のマッチ軸木事業をことごとく失敗し、北上川の大洪水では原木流失の責を負って自殺を決意した
    • [8]歯磨参入の動機は石鹸の季節変動と、競合「ダイヤモンド歯磨」(平尾賛平)が月3000円売れるという問屋筋の情報
    • [10]「ライオン」の商標は知人の北山牧師の「ライオンなら牙も丈夫だし歯磨の商標としてうってつけ」という意見により1896年3月に登録
    • [12]発売直後の広告失敗から「広告の効果はよい商品があって初めて威力を発揮する」という宣伝観を得た
    • [13]1898年に楽隊広告を地方へ展開し、訪問先で特約店を勧誘して特約店を9店から1902年頃には170店余へ拡大
    • [14]1900年、病床での決意により米カーク商会の事例を参考に慈善券付歯磨を発売
    • [15]慈善券付歯磨は1900年9月から1920年まで20年続き、寄付総額33万6554円50銭7厘。回収小袋が販売数に満たない差額も自社負担で寄付した
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]創業当初は石鹸・マッチの原料商を営み、東京小石川に工場を開設して化粧石鹸を製造し「高評」石鹸・「牛乳」石鹸などのブランドで発売
    • [9]「獅子印ライオン歯磨」の命名理由は、獣の名前を商品名に冠するのが流行し、獅子は歯牙が強くて純白で歯磨の商品イメージに合致したため

歯磨専業化と歯磨・石鹸二系列の分立

1910年に初代小林富次郎氏が没し、二代目が富次郎を襲名して事業[16]を継いだ。二代目が最初に下した政策決定は、1912年の『歯磨専業化』である[17]。これは創業以来取り次いできた他社商品の特約販売権をすべて返上することを意味し、当座の収益を捨てる決断でもあった。特約販売の権利だけを持ち続けることは取引先の信頼を裏切る、というのがその理屈であった[18]。1916年にはライオン歯磨化学研究所を開設し[19]、輸入品に対抗できる品質を自前の研究で確かめる体制を敷いた。欧米を視察した初代が、中途半端な規模ではこの事業は成り立たないと判断して自社石鹸の製造中止を決めていた経緯もあり[20]、事業の絞り込みは二代にわたる方針であった。

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]1910年に初代小林富次郎が没し、二代目が富次郎を襲名して事業を継いだ
    • [19]1916年 ライオン歯磨化学研究所を開設
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [17]二代富次郎が襲名後最初に決めた政策は1912年の「歯磨専業化」
    • [18]専業化は創業以来取り次いできた他社商品の特約販売権をすべて返上することを伴った
    • [20]初代富次郎は欧米視察で「中途半端な規模ではこの事業は成り立たない」と判断し「高評石鹸」の製造中止を決めた

1918年9月、小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立した(資本金100万円、二代目小林富次郎氏が初代社長に就任[21])。これが後のライオン歯磨株式会社の母体となる[22]。1919年8月、合資会社ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼株式会社を設立。これが後のライオン油脂株式会社の母体である[23]。単なる分社ではない。両社はそれぞれの専業分野で研究・生産・販売のすべての機能を持つ、完全に分離独立した会社となった[24]。創業者・小林富次郎氏の事業のうち、歯磨(口腔ケア)事業と石鹸(家庭用洗剤)事業の2系列が[25]、別法人として並立する体制が大正初期に確立された。この分立は60年後の合併まで続く。

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [21]1918年9月 株式会社小林商店を資本金100万円で発足し、二代目小林富次郎が初代社長に就任
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1918年9月 小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立(後のライオン歯磨の母体)
    • [23]1919年8月 合資会社ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼株式会社を設立(後のライオン油脂の母体)
    • [25]歯磨(口腔ケア)系列と石鹸(家庭用洗剤)系列の2系統が別法人として並立する体制が大正初期に確立
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [24]㈱小林商店とライオン石鹸㈱は各専業分野で研究・生産・販売の全機能を持つ完全に分離独立した会社となった

1923年の関東大震災では東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ、罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開した[26]。大阪分工場の建設は社長・二代富次郎の即断で、震災2カ月足らずの10月27日に出荷を再開し、罹災工場のなかで生産再開第1号となっている[27]。1929年には資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地[28]に『ライオン会』を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた。この『ライオン会』は、利益が薄いという特約店の不満から生まれた値段協定会にさかのぼり、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例である[29]。1935年12月、二代富次郎は63歳で相談役に退き、副社長の小林喜一氏が36歳で社長に就いた[30]

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [26]1923年の関東大震災で東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開
    • [28]1929年 資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地に「ライオン会」を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [27]大阪分工場は社長・二代富次郎の決断で建設され、震災2カ月足らずの1923年10月27日に出荷を再開し罹災工場中の生産再開第1号となった
    • [29]「ライオン会」は「ライオン歯磨は利益が薄い」という不満から生まれた値段協定会を起源とし、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例
    • [30]1935年12月 二代富次郎(63歳)が相談役に退き副社長・小林喜一(36歳)が社長就任、同時に大阪支店長・山崎麻吉が常務に抜擢され生え抜き役員が誕生
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]1910年に初代小林富次郎が没し、二代目が富次郎を襲名して事業を継いだ
    • [19]1916年 ライオン歯磨化学研究所を開設
    • [21]1918年9月 株式会社小林商店を資本金100万円で発足し、二代目小林富次郎が初代社長に就任
    • [26]1923年の関東大震災で東京本所厩橋の社屋・工場を焼失したが、大阪の分工場や仮工場で生産を継ぎ罹災後ほどなく歯磨の出荷を再開
    • [28]1929年 資本金を200万円に増資し、主要代理店を結集して各地に「ライオン会」を設けるなど全国的な販売網の確立を進めた
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [17]二代富次郎が襲名後最初に決めた政策は1912年の「歯磨専業化」
    • [18]専業化は創業以来取り次いできた他社商品の特約販売権をすべて返上することを伴った
    • [20]初代富次郎は欧米視察で「中途半端な規模ではこの事業は成り立たない」と判断し「高評石鹸」の製造中止を決めた
    • [24]㈱小林商店とライオン石鹸㈱は各専業分野で研究・生産・販売の全機能を持つ完全に分離独立した会社となった
    • [27]大阪分工場は社長・二代富次郎の決断で建設され、震災2カ月足らずの1923年10月27日に出荷を再開し罹災工場中の生産再開第1号となった
    • [29]「ライオン会」は「ライオン歯磨は利益が薄い」という不満から生まれた値段協定会を起源とし、1927年7月の長野県ライオン会が名称の初例
    • [30]1935年12月 二代富次郎(63歳)が相談役に退き副社長・小林喜一(36歳)が社長就任、同時に大阪支店長・山崎麻吉が常務に抜擢され生え抜き役員が誕生
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1918年9月 小林富次郎商店を改組して株式会社小林商店を設立(後のライオン歯磨の母体)
    • [23]1919年8月 合資会社ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼株式会社を設立(後のライオン油脂の母体)
    • [25]歯磨(口腔ケア)系列と石鹸(家庭用洗剤)系列の2系統が別法人として並立する体制が大正初期に確立

戦時統制下の生産と戦後のゼロからの再出発

石鹸側のライオン石鹸株式会社は、1933年11月に江戸川区平井へ工場を建設し、中国・満州・南方諸地域・アフリカへ石鹸を大量に輸出した[31]。1936年4月には平井工場(旧東京工場)が竣工している[32]。1940年9月、ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社と商号変更し[33]、戦時下の油脂統制経済への対応として社名を改めた。戦時中の生産品目は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油へと広がり、家庭用品メーカーというより軍需に組み込まれた油脂化学工業の様相を呈した[34]。歯磨の側も統制を免れず、1943年10月には粉製のみに限られ、原料の配合規格まで規定された。配合規格が廃止されたのは終戦後の1945年10月である[35]

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
    • [31]1933年11月に本社所在地(江戸川区平井)へ工場を建設、この間中国・満州・南方諸地域・アフリカ等に石鹸を大量輸出
    • [34]戦時中は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油を生産
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1936年 ライオン石鹼の平井工場(旧東京工場)竣工
    • [33]1940年9月 ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社へ商号変更(戦時下油脂統制への対応)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [35]1943年10月に歯磨は粉製のみに統制され原料配合規格まで規定され、配合規格の廃止は1945年10月

終戦時、株式会社小林商店は本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジアの有望市場も失う打撃を受けた。『ゼロからの再出発』として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱を立て直し、1948年7月に戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年には二度の増資払込で資本金7,500万円へと設備拡充資金を整えた[36][37]。1949年2月、株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社と商号変更[38]。31年続いた小林商店の名を消すことには、社内にも忍び難い思いがあった[39]。同年5月、東京証券取引所に上場した[40]。上場は取引所が再開された5月14日のわずか2日後、16日のことである[41]

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [36]終戦時に本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジア市場も喪失。「ゼロからの再出発」として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱で立て直しを進めた
    • [37]1948年7月 戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年に二度の増資払込で資本金7,500万円
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1949年2月 株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社へ商号変更
    • [40]1949年5月 東京証券取引所に上場(ライオン歯磨)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [39]1949年2月1日、31年続いた㈱小林商店からライオン歯磨㈱へ商号変更し、社史は「小林商店の名を消すことは忍び難かった」と記す
    • [41]東京・大阪の証券取引所再開(1949年5月14日)の2日後、同月16日に東京市場で株式公開上場

もっとも戦後の再出発は、製品開発の面では後手に回った。1948年12月に発売したチューブ入り薬用歯磨『ライオンFクリーム』を、社内では国内初のフッ素入り歯磨と位置づけられたが、香味が消費者の嗜好に合わず、翌年4月に改良のうえ改称して出し直している[42]。チューブ入り歯磨そのものも競合に先を越されており、得意先からは、なぜ発売が遅れているのか眠っているのではないかという声が上がっていた。売り物のクロロフィル配合も、競争メーカーが前年秋に市場へ出した商品ですでに実現しており、後塵を拝した[43]。老舗であることが、市場の変化に対する鈍さに転じかけていた。

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [42]「ライオンFクリーム」は1948年12月発売で社史は「国内では最初のフッ素入歯磨」と明記するが、香味が受け入れられず翌年4月に改良・改称して再発売
    • [43]チューブ入り歯磨の発売遅れに得意先から「眠っているのではないか」という不満が出ており、クロロフィル配合も競争メーカーに前年秋に先行された
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
    • [31]1933年11月に本社所在地(江戸川区平井)へ工場を建設、この間中国・満州・南方諸地域・アフリカ等に石鹸を大量輸出
    • [34]戦時中は石鹸・硬化油・脂肪酸・グリセリン・切削油・航空潤滑油を生産
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1936年 ライオン石鹼の平井工場(旧東京工場)竣工
    • [33]1940年9月 ライオン石鹼株式会社をライオン油脂株式会社へ商号変更(戦時下油脂統制への対応)
    • [38]1949年2月 株式会社小林商店をライオン歯磨株式会社へ商号変更
    • [40]1949年5月 東京証券取引所に上場(ライオン歯磨)
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [35]1943年10月に歯磨は粉製のみに統制され原料配合規格まで規定され、配合規格の廃止は1945年10月
    • [39]1949年2月1日、31年続いた㈱小林商店からライオン歯磨㈱へ商号変更し、社史は「小林商店の名を消すことは忍び難かった」と記す
    • [41]東京・大阪の証券取引所再開(1949年5月14日)の2日後、同月16日に東京市場で株式公開上場
    • [42]「ライオンFクリーム」は1948年12月発売で社史は「国内では最初のフッ素入歯磨」と明記するが、香味が受け入れられず翌年4月に改良・改称して再発売
    • [43]チューブ入り歯磨の発売遅れに得意先から「眠っているのではないか」という不満が出ており、クロロフィル配合も競争メーカーに前年秋に先行された
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [36]終戦時に本所厩橋の歯磨工場の大半を焼失し、戦前に築いた東南アジア市場も喪失。「ゼロからの再出発」として製品工場の建設、次いで品質・宣伝・販売の三本柱で立て直しを進めた
    • [37]1948年7月 戦後第一回の増資で資本金900万円、1949年に二度の増資払込で資本金7,500万円

ライオン歯磨の立て直しと事業の多角化

1954年をピークに減収減益が続くなか、1958年6月に副社長制が復活し、小林敦氏が副社長に就任した。小林敦氏は実質的に経営の全責任を負い、改革が実を結ばなければ小林家のライオン歯磨は終わるという背水の陣を敷いた[44]。翌1959年、創業以来初めての長期経営計画が策定される。副社長が描いた会社の姿は、口腔ケアにとどまらず業容を広げたファミリー製品メーカーとして海外でも認知される近代的な経営体であった[45]。1957年には『スーパーライオン』を発売してフッ素入り歯磨の系譜を継ぎ[46]、1960年にライオン歯磨研究所を設立[47]、1961年5月には外国品の市場参入に備えて『ホワイトライオン』を発売した。

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [44]1958年6月に副社長制を復活させ小林敦が副社長に就任、実質的に経営の全責任を負い「小林家のライオン歯磨は終わる」と背水の陣を敷いた
    • [45]1959年上期に創業以来初の長期経営計画を策定、小林敦の描く会社像は「オーラルケアーにとどまらず業容を拡大したファミリー製品メーカーとして、海外でも認知される近代的な経営が行われている企業体」
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [46]1957年「スーパーライオン」を発売しフッ素入り歯磨の系譜を継いだ(国内初のフッ素入り歯磨は1948年12月の「ライオンFクリーム」)
    • [47]1960年 ライオン歯磨研究所を設立/1961年5月 外国品参入に備え「ホワイトライオン」を発売

この転換は数字に表れた。歯磨の総出荷は1958年度の80億円から1963年度には推定155億円へと6年で倍増し、内訳も練歯磨が8割を占めるまでに入れ替わって、粉歯磨は1億円台を割り込んだ[48]。1963年9月には大手各社が協定して粉歯磨の生産そのものを打ち切っている[49]。市場はライオン歯磨とサンスターの2社で9割を占める寡占で、マスコミを使える大手ほど伸びる構造にあった[50]。同社の全国シェアは自社推定で46%[51]。売上は1961年上期の20億円が1963年下期に約47億円、利益は5,300万円が3億9,300万円へと3年で7倍以上に伸びた[52]。1962年開始の長期5カ年計画は、貿易自由化に備えて1966年に売上高利益率10%超を掲げていた[53]

  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [48]歯磨の総出荷実績は1958年度80億円から1963年度推定約155億円へ6年で倍増
    • [49]1963年9月に大手メーカー間の協定で粉歯磨の生産を中止し、練歯磨中心の高級品市場へ移行
    • [50]歯磨工業会加盟は7社で、ライオン歯磨とサンスターの大手2社が市場の90%程度を占める寡占状態
    • [51]自社推定の全国マーケットシェアは46%
    • [52]売上高は1961年上期20億円から1963年下期約47億円へ、利益は5,300万円から3億9,300万円へ3年で7倍以上
    • [53]1962年開始の長期5カ年計画は貿易自由化を見据え最終年度1966年に対売上利益率10%以上を目標とした

多角化はこの計画の柱だった。1962年7月28日、米ブリストル・マイヤーズ社との提携第1弾として男性整髪料『バイタリス』と制汗剤『バン』を発売[54][55]。1963年6月に薬品事業部を置いて解熱鎮痛薬『バファリン』の生産に入り、同年12月には食品事業部も設けた[56]。副社長・小林敦氏は1964年の講演で、歯磨が売上に占める比率を1963年下期の76%から1966年に60%へ下げると明言している[57]。同年、10億円を投じて小田原に歯磨工場としては世界最大級の完全オートメーション工場を建設し、能力を7割引き上げた[58][59]。1965年2月にはライオン・ブリストルマイヤーズを設立し、米銀からの100万ドル借款も実現した[60]

  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [54]1962年8月 米ブリストル・マイヤーズ社と提携し男性整髪料「バイタリス」・制汗剤「バン」などを発売/1963年以降 食品・薬品分野へ進出
    • [59]小田原工場は歯磨工場として世界最大規模を誇り完全オートメーション設備を備えた
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [55]ブリストル・マイヤーズ社との提携第1弾として1962年7月10日に発表、同月28日に「バイタリス」「バン」を発売
    • [60]1965年2月にライオン・ブリストルマイヤーズ㈱を設立し、ファースト・ナショナル・シティ・バンクから外資100万ドル借款が実現
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [56]1963年6月に薬品事業部を設置しバファリンを生産、同年12月に食品事業部を設置
    • [57]小林敦は歯磨の売上構成比を1963年下期の76%から1966年に60%へ引き下げる多角化方針を明言
    • [58]1964年に土地・機械を含め10億円で小田原工場を建設し生産能力を70%引き上げる計画
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [44]1958年6月に副社長制を復活させ小林敦が副社長に就任、実質的に経営の全責任を負い「小林家のライオン歯磨は終わる」と背水の陣を敷いた
    • [45]1959年上期に創業以来初の長期経営計画を策定、小林敦の描く会社像は「オーラルケアーにとどまらず業容を拡大したファミリー製品メーカーとして、海外でも認知される近代的な経営が行われている企業体」
    • [55]ブリストル・マイヤーズ社との提携第1弾として1962年7月10日に発表、同月28日に「バイタリス」「バン」を発売
    • [60]1965年2月にライオン・ブリストルマイヤーズ㈱を設立し、ファースト・ナショナル・シティ・バンクから外資100万ドル借款が実現
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [46]1957年「スーパーライオン」を発売しフッ素入り歯磨の系譜を継いだ(国内初のフッ素入り歯磨は1948年12月の「ライオンFクリーム」)
    • [47]1960年 ライオン歯磨研究所を設立/1961年5月 外国品参入に備え「ホワイトライオン」を発売
    • [54]1962年8月 米ブリストル・マイヤーズ社と提携し男性整髪料「バイタリス」・制汗剤「バン」などを発売/1963年以降 食品・薬品分野へ進出
    • [59]小田原工場は歯磨工場として世界最大規模を誇り完全オートメーション設備を備えた
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
    • [48]歯磨の総出荷実績は1958年度80億円から1963年度推定約155億円へ6年で倍増
    • [49]1963年9月に大手メーカー間の協定で粉歯磨の生産を中止し、練歯磨中心の高級品市場へ移行
    • [50]歯磨工業会加盟は7社で、ライオン歯磨とサンスターの大手2社が市場の90%程度を占める寡占状態
    • [51]自社推定の全国マーケットシェアは46%
    • [52]売上高は1961年上期20億円から1963年下期約47億円へ、利益は5,300万円から3億9,300万円へ3年で7倍以上
    • [53]1962年開始の長期5カ年計画は貿易自由化を見据え最終年度1966年に対売上利益率10%以上を目標とした
    • [56]1963年6月に薬品事業部を設置しバファリンを生産、同年12月に食品事業部を設置
    • [57]小林敦は歯磨の売上構成比を1963年下期の76%から1966年に60%へ引き下げる多角化方針を明言
    • [58]1964年に土地・機械を含め10億円で小田原工場を建設し生産能力を70%引き上げる計画

ライオン油脂の合成洗剤参入とNo.2戦略

石鹸から合成洗剤への転換は、油脂側の運命を決めた。戦後のライオン油脂は1946年に函館へ食糧・油脂工場を新設し、1950年には合成工業油剤と合成洗剤の生産を開始する[61]。1951年1月に資本金1億円、1955年6月期の売上高は12億2,000万円で、業界三大メーカーの一角を占めた[62]。花王が石鹸から洗剤へ正面から移行できる力を持っていたのに対し、ライオン油脂は競合しない台所分野から入った。1956年に洗剤を食器・青果物用へ持ち込んだのを皮切りに、泡コントロール洗剤、カラー洗剤と、着想と開発技術で差別化する製品を相次いで出す[63]。外部の評者はこれを迂回戦略と呼んだ[64]

  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
    • [61]戦後は1946年に函館へ食糧・油脂工場を新設、1950年に合成工業油剤・合成洗剤の生産を開始
    • [62]1951年1月に資本金1億円、1955年6月期の売上高12億2,000万円で日本三大メーカーの一つ
  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [63]1956年に洗剤を食器・青果物用の分野へ持ち込んだのを皮切りに泡コントロール洗剤・カラー洗剤などアイデア新商品で差別化した
    • [64]外部評として、ライオン油脂の成長は花王と競合しない台所分野からの「迂回戦略」によるものと総括された

1971年、ライオン油脂の年間売上は488億2,000万円に達し、花王の577億800万円との差は88億円まで縮まった[65]。過去5年で花王が売上42%・利益37%の伸びだったのに対し、ライオン油脂は売上2.5倍・利益2倍。5年前は花王の売上の約半分、経常利益は3分の1という格差だっただけに、社内には合成洗剤でついに首位に立ったという高揚があった[66][67]。流通でも間隙を突く。花王が外資対策として全国に約110社の販売会社網を築き、それが問屋の反発を招くと、ライオン油脂はその空気を逆用して全国約300の問屋のなかに『ライオン油脂製品部』を設けさせ、自社製品を専門に売らせる体制を敷いた[68][69]

  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [65]1971年時点でライオン油脂の年間売上488億2000万円に対し花王577億800万円、差は88億円
    • [66]過去5年で花王が売上42%・利益37%増に対しライオン油脂は売上2.5倍・利益2倍の成長
    • [67]5年前は花王の売上の約半分・経常利益3分の1の格差で、社長は合成洗剤で首位に立ったと自認した
    • [68]花王は外資対策もあり2〜3年で約110社の販売会社網を築いたが問屋の反発を招いた
    • [69]ライオン油脂は問屋の反発を逆用し全国約300問屋に「ライオン油脂製品部」を設けさせ専門販売させる体制を取った

海外では、タイでの合弁がのちの東南アジア事業の原型になる。ライオン油脂は中国系の輸入商サハ・パタナビブン社を通じてタイ市場へ製品を供給しており、1958年から粉シャンプーの現地袋詰めを始めていた。同社のティアム社長に勧められ、1968年3月に資本金400万バーツ・出資比率50対50でタイ・ライオン油脂を設立、社長にはティアム氏が就いた[70]。派遣する日本人は2人だけで、経営の表面には立たずタイ人に任せる方式を貫いている[71]。1973年3月の外国企業規制法にあたっては持ち株1%を譲ってタイ側51%とし、形の上でもタイの会社とした[72]。1972年8月に始めた洗剤が当たり、1973年の売上は前年の3倍超に伸びた[73]

  • 日経ビジネス(1974年8月19日号)
    • [70]タイ・ライオン油脂は1968年3月設立、資本金400万バーツ・出資比率50対50、社長はサハ社のティアム・チョケワタナ。1958年から粉シャンプーの現地袋詰めを行っていた
    • [71]設立当初から日本人の派遣は2人だけで、経営の表面に立たずタイ人に任せる方式を取った
    • [72]1973年3月の外国企業規制法により持ち株1%分をタイ側へ譲り、タイ側51%出資として形の上でもタイの会社とした
    • [73]1972年8月の洗剤進出が奏功し1973年の売上高は前年の3倍超の1億3,000万バーツとなった
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
    • [61]戦後は1946年に函館へ食糧・油脂工場を新設、1950年に合成工業油剤・合成洗剤の生産を開始
    • [62]1951年1月に資本金1億円、1955年6月期の売上高12億2,000万円で日本三大メーカーの一つ
  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [63]1956年に洗剤を食器・青果物用の分野へ持ち込んだのを皮切りに泡コントロール洗剤・カラー洗剤などアイデア新商品で差別化した
    • [64]外部評として、ライオン油脂の成長は花王と競合しない台所分野からの「迂回戦略」によるものと総括された
    • [65]1971年時点でライオン油脂の年間売上488億2000万円に対し花王577億800万円、差は88億円
    • [66]過去5年で花王が売上42%・利益37%増に対しライオン油脂は売上2.5倍・利益2倍の成長
    • [67]5年前は花王の売上の約半分・経常利益3分の1の格差で、社長は合成洗剤で首位に立ったと自認した
    • [68]花王は外資対策もあり2〜3年で約110社の販売会社網を築いたが問屋の反発を招いた
    • [69]ライオン油脂は問屋の反発を逆用し全国約300問屋に「ライオン油脂製品部」を設けさせ専門販売させる体制を取った
  • 日経ビジネス(1974年8月19日号)
    • [70]タイ・ライオン油脂は1968年3月設立、資本金400万バーツ・出資比率50対50、社長はサハ社のティアム・チョケワタナ。1958年から粉シャンプーの現地袋詰めを行っていた
    • [71]設立当初から日本人の派遣は2人だけで、経営の表面に立たずタイ人に任せる方式を取った
    • [72]1973年3月の外国企業規制法により持ち株1%分をタイ側へ譲り、タイ側51%出資として形の上でもタイの会社とした
    • [73]1972年8月の洗剤進出が奏功し1973年の売上高は前年の3倍超の1億3,000万バーツとなった

二社連携の深化と1970年代の逆風

二社は別法人のまま、実務では急速に近づいていった。1971年時点で両社首脳による『AL(オールライオン)会』が置かれ、毎月1回経営戦略を検討し、第一線の部長からなる14の委員会で具体化する仕組みが動いている。共同宣伝、電算機ソフトウェアの交換、研究開発情報の交流、原材料の共同購入が始まり、特許センターと生物実験研究センターも両社で設けることになっていた[74]。組織の近代化も進む。ライオン歯磨は1964年、米P&G社が1928年に始めたプロダクト・マネジャー制を導入し、製品別の利益管理を機能別組織の縦断で徹底させた。導入を主導したのは当時副社長の小林敦氏で、米コーネル大学院で組織工学を学んだ経験があった[75][76]

  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [74]1971年時点で両社首脳による「AL(オールライオン)会」を設け毎月1回経営戦略を検討、第一線部長から成る14委員会で具体化し、共同宣伝・ソフトウェア交換・研究開発情報の交流・原材料の共同購入が始まっていた
  • 日経ビジネス(1976年9月27日号)
    • [75]ライオン歯磨は1964年にプロダクト・マネジャー制を採用し製品別利益管理を機能別組織の縦断で徹底させた(米P&Gが1928年に導入したのが最初)
    • [76]導入を主導したのは当時副社長の小林敦で、米コーネル大学大学院で組織工学を専攻した経験があった

1970年代に入ると、洗剤と歯磨はそろって社会的な批判にさらされる。1973年12月1日、再販指定を取り下げてまで値上げをしたとして、全国地域婦人団体連絡協議会がライオン両社の製品ボイコット運動を起こした。翌年2月に始まった対話には、提携関係が進んでいた両社が一致協力して臨んでいる[77]。1977年1月には消費者団体のパンフレットが新聞で紹介されたことから議論が『歯磨無用論』へ転じ、同年2月、副社長を本部長とする『歯磨効用推進対策本部』が設置された[78]。歯磨発売以来80年、口腔衛生の普及を掲げてきた会社にとって、商品の存在意義そのものを問われる事態であった。

  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [77]1973年12月1日、再販指定を取り下げての値上げを理由に地婦連がライオン両社製品のボイコット運動を起こし、1974年2月2日の対話に両社が一致協力して臨んだ
    • [78]1977年1月に消費者団体のパンフレット紹介を機に「歯磨無用論」が起こり、同年2月に副社長・吉田佐四郎を本部長とする「歯磨効用推進対策本部」を設置

逆風のなかで下された決断もある。ライオン油脂社長だった小林宏氏は1970年代後半、排水汚染がまだ表面化していない段階でリンを含まない洗剤の開発を命じた。無リン化はコスト増を意味したため社内からも業界他社からも強い非難を浴びたが、1984年には自社洗剤の94%が無リンになっている。1970年代を通じて、ライオン歯磨とライオン油脂は[79]いずれも上場企業として独立した経営を保ちながら、創業家・小林家の株主構造と『ライオン』ブランドを共有して緊密に連携する姿となった。

  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1970年代を通じてライオン歯磨・ライオン油脂は東証上場の独立経営を維持し小林家株主構造とブランド共有で連携(解釈寄り)
  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
    • [74]1971年時点で両社首脳による「AL(オールライオン)会」を設け毎月1回経営戦略を検討、第一線部長から成る14委員会で具体化し、共同宣伝・ソフトウェア交換・研究開発情報の交流・原材料の共同購入が始まっていた
  • 日経ビジネス(1976年9月27日号)
    • [75]ライオン歯磨は1964年にプロダクト・マネジャー制を採用し製品別利益管理を機能別組織の縦断で徹底させた(米P&Gが1928年に導入したのが最初)
    • [76]導入を主導したのは当時副社長の小林敦で、米コーネル大学大学院で組織工学を専攻した経験があった
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
    • [77]1973年12月1日、再販指定を取り下げての値上げを理由に地婦連がライオン両社製品のボイコット運動を起こし、1974年2月2日の対話に両社が一致協力して臨んだ
    • [78]1977年1月に消費者団体のパンフレット紹介を機に「歯磨無用論」が起こり、同年2月に副社長・吉田佐四郎を本部長とする「歯磨効用推進対策本部」を設置
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1970年代を通じてライオン歯磨・ライオン油脂は東証上場の独立経営を維持し小林家株主構造とブランド共有で連携(解釈寄り)

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

ライオンの沿革1891〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1891〜1949年小林富次郎商店の創業と歯磨専業化への転換初代小林富次郎氏が神田柳原河岸に小林富次郎商店を開業
石鹸・燐寸原料と石鹸の製造販売を開始
初めて良質粉ハミガキの製造を開始し「獅子印ライオン歯磨」と名づける★★
ライオン石鹼工場を設立
小林富次郎商店を改組して小林商店設立(後のライオン歯磨)
ライオン石鹼工場を改組してライオン石鹼を設立(後のライオン油脂)
ライオン石鹼をライオン油脂と商号変更
小林商店をライオン歯磨と商号変更
東京証券取引所に上場(ライオン歯磨)
1950〜1979年高度成長期のライオン歯磨とライオン油脂東京証券取引所に上場(ライオン油脂)
大阪証券取引所市場第一部に上場(2007年12月上場廃止)
サハ社と共同出資で泰国獅王油脂有限公司(現Lion Corporation (Thailand) Ltd.)設立★★
2004〜2025年大衆薬とアジアへの傾斜、そして量からの決別中外製薬から一般用医薬品事業を取得★★
CJ Corp.から生活化学品事業を取得★★
藤重貞慶ライオンエコケミカルズ有限公司をマレーシアに設立
藤重貞慶ブリストル・マイヤーズ スクイブから解熱鎮痛薬の商標権を取得
藤重貞慶大阪証券取引所上場廃止
藤重貞慶獅王日用科技有限公司設立(2015年8月吸収合併により消滅)
濱逸夫ピアレス社と共同出資でピアレスライオンをフィリピンに設立
濱逸夫アクゾノーベル社より株式を譲り受けライオン・スペシャリティ・ケミカルズを子会社化★★
濱逸夫ライオン化学品事業・一方社油脂工業・ライオン・スペシャリティ・ケミカルズを統合
濱逸夫Wilmar Internationalとの合弁でGlobal Eco Chemicals Singaporeを設立
竹森征之SKU3割削減方針を発表★★
竹森征之Merap Lion Holding Corporationを完全子会社化★★
竹森征之PNB Consolidated Pty Ltdを完全子会社化
出典・参考
  • ライオン 有価証券報告書【沿革】
  • ライオン株式会社『ライオン100年史 いつも暮らしの中に』(ライオン株式会社, 1992年)
  • 東洋経済新報社会社銀行八十年史編集室 編『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955年)
  • 企業の歴史 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル(1964年2巻4号)
  • 日経ビジネス(1971年8月9日号)
  • 日経ビジネス(1974年8月19日号)
  • 日経ビジネス(1976年9月27日号)

免責事項およびポリシー