創業地愛媛県川之江市
創業年1961
上場年1976
創業者高原慶一朗

ニッチ・大手の手薄を突く新市場の前夜・市場創造1961年、高原慶一朗氏は愛媛県川之江市で大成化工を興し、建材から事業を始めた。翌1962年の渡米で、米国のスーパーの棚に生理用品が堂々と並ぶ光景を見て、紙加工の延長で参入できると判断し、1963年に生理用ナプキン製造へ転業した。当時の市場は先発のアンネが医薬問屋経由で全国の薬局を押さえ、1964年にシェア75%を握っていた。四国の中小企業が割り込む余地はないと業界では見られていた。

販路・チャネルの差し替え業態転換・収益モデルの転換コストリーダーシップ・低価格で勝つ高原慶一朗氏はアンネが握る医薬問屋・薬局の販路を避け、勃興期のスーパーに賭けた。1970年前後に小売の主役が問屋からスーパーへ移ると、この選択が効いて1972年にナプキンで国内首位に立つ。問屋に最適化されたアンネは流通の変化に追従できず吸収された。1981年には経常利益10億円の年に30億円を投じてベビーおむつ「ムーニー」を出し、スーパー販路と高吸水性樹脂でP&Gを参入4年で抜く。同じ不織布・吸収体技術は大人用おむつやペットケアへも広がった。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1963年の生理用品参入時に、先発アンネの問屋・薬局ルートを避けてスーパーに賭けたのか
A 既存の販路は先発に押さえられており、同じ土俵で戦えば後発に勝ち目はないが、流通そのものが変わる端境期なら、まだ誰も握っていない新業態が次の主役になる。高原慶一朗氏は1962年の渡米でスーパーの棚に生理用品が並ぶ光景を見て、米国で起きた変化が日本でも来ると読んだ。当時のアンネは医薬問屋経由で全国の薬局を押さえ、1964年にシェア75%を握っていた。そこで高原氏は問屋ルートを迂回し、勃興期のスーパーと自動販売機に販路を据え、1972年に生理用ナプキンで国内首位に立った
Q なぜ1981年に、経常利益10億円まで落ちた年に30億円を投じてベビーおむつへ参入したのか
A 国内生理用品が成熟して価格競争が再燃し、生理用品で築いたスーパー販路と高吸水性樹脂の技術を、立ち上がったばかりの紙おむつ市場へ転用しなければ成長が止まると見たためである。前年の1980年に花王の生理用品参入で創業以来初の減収減益を喫し、経常利益は前年比60%減の10億円まで落ちていた。それでも高原慶一朗氏は1981年8月に紙おむつ「ムーニー」を発売し、30億円を香川工場に投じてパンツ型製造装置を自社開発した。当時P&G「パンパース」がシェア90%を占め、社内では会社が潰れると反対が続出したが、スーパー販路と三洋化成製の高吸水性樹脂で参入4年でP&Gと大王製紙の売上規模を上回った
Q なぜ2026年の第13次中期経営計画で、総還元性向を65%へ引き上げ純資産を抑える資本政策へ転換したのか
A 新興国で稼いだ資金を内部に貯め込んで純資産が膨らむほど、分母が重くなって資本効率が下がるため、稼ぎを株主へ多く戻して分母を抑えるほうがROEを構造的に高められると見たためである。2026年2月12日に発表した第13次中期経営計画で、高原豪久氏は総還元性向を従来の50%から65%へ引き上げ、配当との差分にあたる約25〜30%を機動的な自己株式取得に充てる方針を示した。量産投資でシェアを広げてきたユニ・チャームが、2030年に売上高1.5兆円・ROE17%を掲げ、稼いだ資金の配り方に規律を加える内容である

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1961年〜1980年 大成化工からの転業とアンネ追撃で築いた生理用品首位

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

「女に負けてたまるか」── 銀座のアンネに挑んだ販路革命

1961年2月、創業者の高原慶一朗氏は愛媛県川之江市で大成化工株式会社を設立し、建材の製造・販売から事業を起こした[1][2]。創業から2年後の1963年8月、大成化工は衛生紙綿、すなわち生理用ナプキンの製造販売へ転業した[3]。きっかけは前年1962年の高原慶一朗氏の渡米経験で、米国のスーパーマーケットの陳列棚に生理用品が堂々と並ぶ光景に接し、紙加工の延長で参入できると判断したことだった。当時の生理用品市場は1961年創業のアンネ株式会社が席巻し、1964年にはシェア75%を占めた[4]。ミツミ電機の森部一社長が資本・設備・技術者を一括して支援し、女性経営者の坂井泰子氏が率いるアンネは医薬問屋経由で全国の薬局を押さえ、四国の中小企業が割り込む余地はないと業界では見られていた。

高原慶一朗氏が選んだのは、アンネが押さえた医薬問屋ルートを迂回し、当時勃興しつつあった新業態のスーパーマーケットを販路に据える戦略だった。1965年に販売会社ユニチャームを設立し、化粧雑貨系の問屋に配送を委ねながら、自動販売機での販売にも参入して大衆化を進めた[5]。1968年には市場価格より5割高い「チャームナップさわやか」を投入し、安売り競争に巻き込まれない高付加価値路線を選択した[6]。1970年前後に問屋経由の販売が斜陽化し、スーパーマーケットが小売の主役へ移ると、高原慶一朗氏の販路選択は決定的な優位として効いた。1972年、ユニチャームは生理用ナプキンでシェア28%を獲得し、アンネを抜き国内首位に立った[7]

ユニチャームの急成長について、1975年に臨時増刊東洋経済は「チャームのナプキンが外国勢を退け、知名度の高いアンネを抜いてトップへ大きくのびたのは、薬局や化粧品店など既存ルート以外に、スーパーや雑貨店など流通経路を拡大したのと、自動販売機などで大衆化に注力したのが当たったといえよう」(東洋経済 1975年臨時増刊)と整理した。先発のアンネは1971年1月期に1.9億円の赤字に転落し、大株主のミツミ電機はアンネ株式を本州製紙・ライオン・東レの3社に譲渡、坂井泰子氏は社長を退任して会長に移った[8]。問屋ルートに最適化された組織はスーパーへの流通変化に追従できず、創業から10年でアンネは本州製紙・ライオンの生理用品部門に吸収される形へ変わった。販路の選び方が業界の主役を入れ替えた。

株式上場と量産投資 ── 副業組と本業組を分けた資本効率

1974年9月、株式額面変更を目的に岡田産業株式会社を存続会社として大成化工を吸収合併し、社名をユニ・チャーム株式会社へ改めた[9]。生理用品の販売子会社として独立していた「ユニチャーム」のブランド名を本体の商号として採用し、生理用品事業を本業に据える組織の建付けを整えた。1976年8月、ユニ・チャームは東京証券取引所市場第二部に上場し、1985年3月には市場第一部へ指定替えされた[10][11]。創業から15年で東証2部、24年で1部へ到達した時間軸は、市場が生理用品事業の成長性を高く評価したことを示す。上場で得た資金は香川県の生産設備投資と次世代製品の研究開発へ向かい、四国発の中小企業から全国規模の生活用品メーカーへ拡大する財務基盤を整えた。

上場直後の1976年、高原慶一朗氏は「過去日本においては120社という同業他社があって、これは資生堂もカネボウもやっておりましたし、あるいは山之内製薬、エーザイ、大正製薬もみんなやっておられた。また製紙メーカーでも原料面から関係があるということで十条キンバリーや本州製紙もやっておった。こういう過去に成長性のあった分野ですから同業同士で叩き合ってきたんです」(野田経済 1976/10/20)と業界の競争史を振り返った。先発の120社が撤退したのは、生理用品が量産投資・流通投資・宣伝投資の三つを同時に必要とする事業で、副業的な参入では収益化が難しかったためである[12]。ユニ・チャームは生理用品単独で事業を組み立てたため、上場資金を全額その三要素に向けることができ、副業組と本業組の差を資本効率の差に置き換えた。

1970年代後半、生理用品の国内市場は飽和の兆しを見せ始め、価格競争が再燃した。高原慶一朗氏は1978年にベビープロダクト開発プロジェクトを発足し、紙おむつ事業への参入準備を開始した[13]。1969年に紙おむつ「ホッポちゃん」で一度失敗しており、2度目の挑戦だった。1978年にP&Gが米国本社で開発した「パンパース」を日本市場に投入してすぐにシェア90%を獲得し、紙おむつ市場が立ち上がった環境で、ユニ・チャームは生理用品で築いたスーパー販路を紙おむつへ転用する戦略を採った[14]。生理用品で得たキャッシュフローを紙おむつの研究開発と設備投資に振り向け、上場前から続く「販路と研究開発への先行投資で先発を抜く」型の経営は、次の主力事業に向けて再起動した。

1981年〜2000年 ベビーおむつとP&G・花王との攻防と東南アジア進出

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

「お前バカか」── 経常利益10億円の年の30億円投資

1980年、ユニ・チャームは創業以来初の減収減益を喫した[15]。2年前に花王が生理用品市場に参入し、魅力的な商品を立て続けに発売した結果、シェアが下がった。同年の経常利益は前年比60%減の10億円で、財務体質は決して余裕がある水準ではなかった[16]。それでも1981年8月、高原慶一朗氏はベビー向け紙おむつ「ムーニー」の販売を開始し、設備投資30億円を香川工場に投じてパンツ型の立体裁断による製造装置を自社開発した[17][18]。当時P&Gの「パンパース」は紙おむつ市場でシェア90%を占めており、社内では「会社が潰れる」と参入に反対する役員や幹部が続出した。

ムーニーの差別化要素は二つあった。一つは従来の布ではなく紙を給水部分に採用するパンツ型構造で、北陸地区での先行発売で女性パート労働者の高い地区性と結びつけた。北陸はパート就業比率が高く子育てに時間がかけられない地域で、日本一のおむつ消費量を誇る試験市場だった。もう一つが1982年からの三洋化成製の高吸水性樹脂の採用で、給水量と漏れ防止性能で「パンパース」を上回った[19]。1985年に日経産業新聞は「進出後わずか四年足らずで先発のプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)、大王製紙の売り上げ規模をしのいでいる」(日経産業新聞 1985)と評価した[20]。生理用品で築いた薬局・スーパー・百貨店の販売網が紙おむつでもそのまま機能し、参入4年で先発を追い抜いた。

P&G生理用品参入と1990年代パンツ型おむつ覇権争い

ムーニーの躍進に対抗し、1986年にP&Gの日本法人は生理用品事業への進出を決断した。1987年に日本人開発者の和田浩子氏が中心となって日本人女性向け製品を投入し、「ウィスパー」を医薬問屋ではなく薬局量販店中心の販路で拡販した。さらにP&Gは高吸水性樹脂についてユニ・チャームの息がかかった三洋化成ではなく日本触媒から買い付け、原料サプライチェーンの寡占構造も切り崩した。1989年にP&Gは生理用品でシェア1位を奪い返した[21]。1989年に日経産業新聞は「紙おむつ販売の五割近くはドラッグストア経由といわれる。ここを重点的に攻めているのが、今、絶好調のP&Gファー・イーストだ」(日経産業新聞 1989/10/04)と書いた[22]。ユニ・チャームの担当者は「P&Gはほんとに怖い。最近のテレビCMの量もこちらがタジタジとするほど」(同)と認めた。

P&Gの追撃に対し、ユニ・チャームは1992年に新型パンツ型おむつ「ムーニーマン」を発売し、吸水力と子供への履かせやすさを再設計した[23]。1994年に日経産業新聞は「普通の紙おむつに比べて付加価値の高いパンツ型紙おむつの売れ行き好調」(日経産業新聞 1994/03/04)と紙おむつ事業の回復を伝えた。P&Gも同種のパンツ型で追随し、1990年代を通じて両社のシェア争いは続いた。花王は「メリーズ」で1980年代後半に参入し、敏感肌訴求を強化した。生理用品ではP&G「ウィスパー」、花王「ロリエ」、ユニ・チャーム「ソフィ」の三つ巴が続き、紙おむつでも「パンパース」「メリーズ」「ムーニー」の三つ巴が定着した。商品開発の速度と販促投資の規模が各社の優劣を月次で塗り替えた。

ユニ・チャームの強みは、生理用品で培った不織布・吸収体技術を紙おむつ・大人用おむつ・ペットシーツ・産業用素材へ転用できた点にあった。1985年に大人用紙おむつ「シルキー」、1987年に「ライフリー」を発売して大人介護市場に参入し、1988年にはペットケア事業を立ち上げた[24][25][26]。不織布の表面処理と高吸水性樹脂の貼り合わせという中核技術を共通の生産設備で複数カテゴリーへ展開する事業設計が、P&Gや花王と異なるユニ・チャームの組織能力として定着した。1980年代後半から1990年代にかけて、生理用品・ベビーおむつの2本柱は4本柱(プラス大人用おむつ・ペットケア)へ拡張され、不織布技術を起点とする複数事業の同時運営が経営の型となった。

1984年台湾から1997年インドネシアへ ── アジア先行投資の13年

1984年10月、ユニ・チャームは台湾に嬌聯股份有限公司を設立し、海外進出の起点とした[27]。1987年7月にはUni.Charm (Thailand) Co., Ltd.を設立してタイへ進出し、1993年11月にはスウェーデンのMölnlyckeとの合弁Uni.Charm Mölnlycke B.V.を欧州に設立した[28][29]。1995年12月に上海尤妮佳有限公司を設立して中国本土に進出、1997年6月にPT UNI-CHARM INDONESIA Tbkを設立してインドネシア事業を立ち上げた[30][31]。1984〜1997年の13年間で台湾・タイ・欧州・中国・インドネシアの5地域に拠点を構え、国内市場の成熟が業界共通の話題となる以前の段階で、新興国市場の足場を取った。

新興国市場での戦略は「低価格スタンダード商品の量産と現地問屋ルートの開拓」だった。日本の高機能高価格モデルをそのまま持ち込むのではなく、現地の所得水準に合わせた仕様で発売し、現地のディストリビューターを使った販路網を一国ずつ整備した。タイ・インドネシアでは初期投資から黒字化まで5〜7年を要する想定で長期投資を継続し、ユニ・チャームの組織能力として「日本本社主導の海外進出ではなく、現地子会社の経営者に決定権を委譲する」型のグローバル経営が1990年代を通じて形になった。先発の台湾・タイ事業は1990年代後半に黒字化を達成し、続くインドネシア・中国本土事業の立ち上げ資金として循環する。

1990年代末の業績は、国内主力事業の成熟と海外事業の立ち上げ投資が同時に進む過渡期にあった。1998年に週刊東洋経済は「ユニ・チャーム最高益下の非常事態宣言」(週刊東洋経済 1998/04/04)と題する記事で、最高益更新を続けながらも海外投資の前倒しと国内事業の構造改革を並行する経営判断を伝えた。1998年10月にはペットケア事業をユニ・タイセイ株式会社へ営業譲渡し、1999年2月にユニ・ハートス株式会社、2002年10月にユニ・チャームペットケア株式会社への社名変更を経て、子会社単独で2004年10月に東証2部上場、2005年9月に1部指定された[32][33][34][35][36]。親子上場という当時のソニー・東京エレクトロンと共通の組織モデルを採用し、ペットケア事業を独立した資本市場の評価対象へ位置付けた。

2001年〜2025年 高原豪久社長の海外比率反転と新興国シフト

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

2001年の親子交代と現地経営者への権限委譲

2001年6月、高原慶一朗氏の長男・高原豪久氏がユニ・チャーム代表取締役社長に就任した[37][38]。三和銀行(現三菱UFJ銀行)勤務を経て1991年にユニ・チャームへ入社、10年間の社内経験を経ての社長就任で、創業者から創業家二代目への親子間トップ交代だった[39]。高原慶一朗氏は会長として2008年まで代表権を保ち、2008年に代表権を返上した[40]。2018年10月3日、高原慶一朗氏は87歳で逝去した[41]。創業者から二代目への切り替えは、1990年代に始まった東南アジア・中国先行投資を加速させる権限を新社長に集約する位置付けで、創業者の存在感が組織内で大きすぎたユニ・チャームの意思決定速度を上げる狙いがあった。

高原豪久社長の経営戦略の核心は「海外現地経営者への権限委譲」と「新興国向けスタンダード商品の量産」の二点に集約された。1990年代までは日本本社が海外子会社の商品仕様と価格設定を細かく統制していたが、高原豪久社長は現地経営者に商品開発と価格決定の権限を委ね、新興国の所得水準と消費習慣に合わせた商品ラインを各国で組み立てる方式に切り替えた。2005年12月にUnicharm Gulf Hygienic Industries Co. Ltd.を買収して中東市場に進出、2006年2月にLG Unicharm Co., Ltd.を設立してLG生活健康との韓国合弁を開始、2008年7月にUnicharm India Private Ltd.を設立してインド市場に参入した[42][43][44]

2008年9月にはAPPP Parent Pty Ltd.の全株式を取得してオセアニア事業を獲得し、2005〜2008年の3年間で中東・韓国・インド・豪州の4地域へ進出した[45]。2011年9月にはベトナムの生活用品最大手Diana Unicharm Joint Stock Companyの株式95%を取得し、東南アジアでのシェア確保を加速させた[46]。同年12月にはThe Hartz Mountain Corporationの株式51%を取得して米国のペット事業基盤を獲得した[47]。2012年、ユニ・チャームの海外売上高は初めて国内売上高を上回り、海外展開に成功した稀有な日本企業として注目を集めた[48]。1984年の台湾進出から28年、創業者期に蒔いた新興国市場の種が、二代目社長期に主力事業に育った形となる[49]

パーソナルケアとペットケアの両輪と中国市場の風評被害

2010年代後半から2020年代前半にかけて、ユニ・チャームの事業構造は「パーソナルケア(生理用品・ベビーおむつ・大人用おむつ・スキンケア)」と「ペットケア」の二本柱に整理された。FY25(2025年12月期)のセグメント別売上高はパーソナルケア7,744億円(連結売上の82%)、ペットケア1,560億円(同17%)、その他産業用素材148億円(同2%未満)という構成である。ペットケアのコア営業利益率は15%でパーソナルケアの11%を上回り、収益性で見るとペット事業が小規模ながら高採算事業に育った。2011年のHartz買収と国内ペットフード事業の高付加価値化が、買収から10年余を経て利益率の差として表面化した[50]

2024年12月期の連結売上高は9,890億円、営業利益は1,345億円(営業利益率13.6%)に達し、創業以来初めて売上高1兆円の手前まで到達した。1株当たり配当は40円で22期連続増配を継続し、総還元性向50%目標を維持した[51]。2025年4月から始動した第12次中期経営計画は2030年の売上1兆円超を視野に、新興国アジア市場でのスタンダードラインの強化と、北米・欧州でのペット事業の高付加価値化を二大投資テーマに据えた[52]。中期スローガン「Project-L」と2024年2月に刷新したブランドメッセージ「Love Your Possibilities」を結びつけ、女性を基点に発想する成長戦略を全社で共有する方針を発表した[53]

しかし2025年12月期は過去最高業績の反動とアジア市場での競争激化を受け、業績は調整期間を経験した。2025年8月の中間決算説明会で高原豪久社長は、中国市場でのフェミニンケア事業について、中国国営テレビの報道に伴う想定外の風評被害が中国のセール期間と重なり、ブランドイメージへの影響でセール期間中の売上が3割程度減少したと説明し、第2四半期の中国フェミニンケア事業の利益率がマイナスに転落した一過性要因を率直に開示した[54]。中国国営テレビの報道に伴う風評被害という、新興国事業に固有の政治リスクが収益のボラティリティとして表面化した形である。

「不織布・吸収体だけでは難しい」── 分散と多様性への戦略転換

高原豪久社長は2025年6月の日経ESGインタビューで、ユニ・チャームの長期戦略について明確な転換方針を語った。不織布・吸収体の単一分野だけでは持続的な成長が難しい時代に入ったとして、ここに「分散と多様性」の要素を取り入れる必要性を提示し、1960年代の生理用品から続く不織布・吸収体技術を中核とする事業構造に、新たな技術領域と事業領域を加える戦略を発表した[55]。具体的には、ペットケア事業の海外拡張、ウェルネスケア(大人用おむつ)のアジア展開強化、フェミニンケアの新興国マーケットシェア拡大、産業用素材事業の精密化が中期投資の柱となった。

組織運営面では、2024年6月の日経ビジネスインタビューで高原豪久社長は、各市場・各カテゴリーで「ナンバーワン」を取りに行く姿勢に強くこだわっていると述べ、分かりやすい目標を据えることで現在地の検証と目指す姿の共有がしやすくなる効用を挙げ、全社共通の目標管理を強調した[56]。各市場・各カテゴリーで「ナンバーワン」を全社のKPIに据え、現地経営者の権限委譲と中央の戦略統制を両立させる組織設計を維持した。2030年に「共生社会」を実現するバックキャスト型ビジョンを掲げ、ESG重点課題への投資と財務目標を連動させる中期計画フレームワークを採用した。

1961年に愛媛で大成化工として発足したユニ・チャームは、64年を経て連結売上1兆円目前のグローバル消費財メーカーに到達した[57]。創業者の高原慶一朗氏が描いた「スーパー販路と高吸水性樹脂による日本市場のシェア奪取」という1980年代の事業設計と、二代目の高原豪久社長が引き継いだ「新興国スタンダード商品と現地経営者への権限委譲」という2000年代以降の事業設計は、いずれも先発企業が持つ流通・原料・組織の前提を一度ずらしてから本業を再構築する型を共有する[58]。次のテーマは、不織布・吸収体技術の一点集中から「分散と多様性」への事業ポートフォリオ転換であり、64年続いた中核技術依存の事業構造を二代目社長の在任期に塗り替えるかどうかが、ユニ・チャームの次の章を分ける構造命題である。

出典

東洋経済 1975年臨時増刊 東洋経済新報社
野田経済(1976年10月20日) 野田経済研究所 [編]/野田経済研究所 https://dl.ndl.go.jp/pid/2722697
日経産業新聞(1985年) 日本経済新聞社
日経産業新聞 1985 日本経済新聞社 1985年
日経産業新聞(1989年10月4日) 日本経済新聞社
日経産業新聞 日本経済新聞社 1994年03月04日
週刊東洋経済 東洋経済新報社 1998年04月04日
高原慶一朗インタビュー(2010年1月)/東洋経済 1975年臨時増刊
高原慶一朗インタビュー(2010年1月)
統合レポート2024/ユニ・チャーム 有価証券報告書
統合レポート2024
日経ビジネス(2024年6月12日) 日経BP https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00602/060600026/
統合レポート2025
日経ESG(2025年6月24日) 日経BP https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00006/061200558/
決算説明会(2025年8月)
ユニ・チャーム 有価証券報告書