1961年〜 大成化工からの転業とアンネ追撃で築いた生理用品首位
ユニ・チャームの業績推移:単体
- 1961年 高原慶一朗が大成化工を設立 建材の製造、販売を開始
- 1963年 衛生紙綿(生理用ナプキン)の製造、販売を開始
- 1974年 衛生紙綿の製造をチャーム工業へ営業譲渡
- 1974年 岡田産業が大成化工を吸収合併
- 1974年 ユニ・チャームに商号変更
- 1976年 東京証券取引所市場第二部に上場
「女に負けてたまるか」── 銀座のアンネに挑んだ販路革命
1961年2月、創業者の高原慶一朗氏[1]は愛媛県川之江市で大成化工株式会社を設立し、建材の製造・販売[2]から事業を起こした。創業から2年後の1963年8月、大成化工は衛生紙綿、すなわち生理用ナプキンの製造販売へ転業した[3]。きっかけは前年1962年の高原慶一朗氏の渡米経験で、米国のスーパーマーケットの陳列棚に生理用品が堂々と並ぶ光景に接し、紙加工の延長で参入できると判断したことだった。当時の生理用品市場は1961年創業のアンネ株式会社が席巻し、1964年にはシェア75%を占めた[4]。ミツミ電機の森部一社長が資本・設備・技術者を一括して支援し、女性経営者の坂井泰子氏が率いるアンネは医薬問屋経由で全国の薬局を押さえ、四国の中小企業が割り込む余地はないと業界では見られていた。
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】
- [1]創業者の氏名は高原慶一朗
- [2]1961年2月 高原慶一朗氏が愛媛県川之江市で大成化工株式会社を設立(建材の製造・販売)
- [3]1963年8月 衛生紙綿(生理用ナプキン)の製造販売へ転業
- 高原慶一朗インタビュー(2010年1月)/東洋経済 1975年臨時増刊
- [4]1964年 アンネのシェア75%
高原慶一朗氏が選んだのは、アンネが押さえた医薬問屋ルートを迂回し、当時勃興しつつあった新業態のスーパーマーケットを販路に据える戦略だった。1965年に販売会社ユニチャームを設立し[5]、化粧雑貨系の問屋に配送を委ねながら、自動販売機での販売にも参入して大衆化を進めた。1968年には市場価格より5割高い「チャームナップさわやか」を投入し[6]、安売り競争に巻き込まれない高付加価値路線を選択した。1970年前後に問屋経由の販売が斜陽化し、スーパーマーケットが小売の主役へ移ると、高原慶一朗氏の販路選択は決定的な優位として効いた。1972年、ユニチャームは生理用ナプキンでシェア28%を獲得し[7]、アンネを抜き国内首位に立った。
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】
- [5]1965年 販売会社ユニチャームを設立
- 高原慶一朗インタビュー(2010年1月)
- [6]1968年 市場価格より5割高い「チャームナップさわやか」を投入
- 東洋経済 1975年臨時増刊
- [7]1972年 ユニチャームが生理用ナプキンでシェア28%を獲得しアンネを抜き国内首位
ユニチャームの急成長について、1975年に臨時増刊東洋経済は「チャームのナプキンが外国勢を退け、知名度の高いアンネを抜いてトップへ大きくのびたのは、薬局や化粧品店など既存ルート以外に、スーパーや雑貨店など流通経路を拡大したのと、自動販売機などで大衆化に注力したのが当たったといえよう」(東洋経済 1975年臨時増刊)と整理した。先発のアンネは1971年1月期に1.9億円の赤字に転落し[8]、大株主のミツミ電機はアンネ株式を本州製紙・ライオン・東レの3社に譲渡、坂井泰子氏は社長を退任して会長に移った。問屋ルートに最適化された組織はスーパーへの流通変化に追従できず、創業から10年でアンネは本州製紙・ライオンの生理用品部門に吸収される形へ変わった。販路の選び方が業界の主役を入れ替えた。
- 東洋経済 1975年臨時増刊
- [8]アンネは1971年1月期に1.9億円の赤字に転落
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】
- [1]創業者の氏名は高原慶一朗
- [2]1961年2月 高原慶一朗氏が愛媛県川之江市で大成化工株式会社を設立(建材の製造・販売)
- [3]1963年8月 衛生紙綿(生理用ナプキン)の製造販売へ転業
- [5]1965年 販売会社ユニチャームを設立
- 高原慶一朗インタビュー(2010年1月)/東洋経済 1975年臨時増刊
- [4]1964年 アンネのシェア75%
- 高原慶一朗インタビュー(2010年1月)
- [6]1968年 市場価格より5割高い「チャームナップさわやか」を投入
- 東洋経済 1975年臨時増刊
- [7]1972年 ユニチャームが生理用ナプキンでシェア28%を獲得しアンネを抜き国内首位
- [8]アンネは1971年1月期に1.9億円の赤字に転落
株式上場と量産投資 ── 副業組と本業組を分けた資本効率
1974年9月、株式額面変更を目的に岡田産業株式会社を存続会社として大成化工を吸収合併し、社名をユニ・チャーム[9]株式会社へ改めた。生理用品の販売子会社として独立していた「ユニチャーム」のブランド名を本体の商号として採用し、生理用品事業を本業に据える組織の建付けを整えた。1976年8月、ユニ・チャームは東京証券取引所市場第二部に上場し[10]、1985年3月には市場第一部へ指定替えされた[11]。創業から15年で東証2部、24年で1部へ到達した時間軸は、市場が生理用品事業の成長性を高く評価したことを示す。上場で得た資金は香川県の生産設備投資と次世代製品の研究開発へ向かい、四国発の中小企業から全国規模の生活用品メーカーへ拡大する財務基盤を整えた。
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】
- [9]1974年9月 岡田産業を存続会社として大成化工を吸収合併し社名をユニ・チャームへ変更
- [10]1976年8月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [11]1985年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
上場直後の1976年、高原慶一朗氏は「過去日本においては120社という同業他社があって、これは資生堂もカネボウもやっておりましたし、あるいは山之内製薬、エーザイ、大正製薬もみんなやっておられた。また製紙メーカーでも原料面から関係があるということで十条キンバリーや本州製紙もやっておった。こういう過去に成長性のあった分野ですから同業同士で叩き合ってきたんです」(野田経済 1976/10/20)と業界の競争史を振り返った。先発の120社が撤退したのは[12]、生理用品が量産投資・流通投資・宣伝投資の三つを同時に必要とする事業で、副業的な参入では収益化が難しかったためである。ユニ・チャームは生理用品単独で事業を組み立てたため、上場資金を全額その三要素に向けることができ、副業組と本業組の差を資本効率の差に置き換えた。
- [12]先発の生理用品参入企業が120社あったとの高原慶一朗氏の証言
1970年代後半、生理用品の国内市場は飽和の兆しを見せ始め、価格競争が再燃した。高原慶一朗氏は1978年にベビープロダクト開発プロジェクトを発足し[13]、紙おむつ事業への参入準備を開始した。1969年に紙おむつ「ホッポちゃん」で一度失敗しており、2度目の挑戦だった。1978年にP&Gが米国本社で開発した「パンパース」を日本市場に投入してすぐにシェア90%を獲得[14]し、紙おむつ市場が立ち上がった環境で、ユニ・チャームは生理用品で築いたスーパー販路を紙おむつへ転用する戦略を採った。生理用品で得たキャッシュフローを紙おむつの研究開発と設備投資に振り向け、上場前から続く「販路と研究開発への先行投資で先発を抜く」型の経営は、次の主力事業に向けて再起動した。
- 高原慶一朗インタビュー(2010年1月)
- [13]1978年 高原慶一朗氏がベビープロダクト開発プロジェクトを発足
- [14]1978年にP&Gが「パンパース」を日本投入しシェア90%を獲得
- ユニ・チャーム 有価証券報告書【沿革】
- [9]1974年9月 岡田産業を存続会社として大成化工を吸収合併し社名をユニ・チャームへ変更
- [10]1976年8月 東京証券取引所市場第二部に上場
- [11]1985年3月 東京証券取引所市場第一部へ指定替え
- [12]先発の生理用品参入企業が120社あったとの高原慶一朗氏の証言
- 高原慶一朗インタビュー(2010年1月)
- [13]1978年 高原慶一朗氏がベビープロダクト開発プロジェクトを発足
- [14]1978年にP&Gが「パンパース」を日本投入しシェア90%を獲得