販社制度の構築——問屋を外し、全国約27万件の小売と直接結ぶ流通改革
数年のシェア首位喪失を代償に、副社長・丸田芳郎氏はなぜ問屋を介さない自前の流通網を選んだのか
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- 概要
- 1964年、花王石鹸は全国約27万件の小売店と再販契約を結び、問屋を介した流通から、花王製品を専売する販売会社「花王販社」を軸とする自前の流通経路へ切り替える改革に着手した。副社長の丸田芳郎氏が陣頭指揮し、問屋の反発で一時は洗剤シェア首位を失う代償を払いながら、店頭までの経路を自社の側から握る体制を築いた経営判断である。
- 背景
- 問屋を介する流通では、店頭価格と在庫の動きが社内に届くまでに時間がかかり、値崩れやスーパーの目玉商品化を防ぎきれなかった。洗剤需要が年率5割で伸びるなかでも問屋の資本蓄積は進まず、迫る外資の参入に備えて流通網を近代化する必要が高まっていた。
- 内容
- 従来の問屋を地区別に共同出資させ、花王製品だけを扱う販社へ組み替えた。出資しなければ花王製品を扱えず、参加すれば販社は花王製品しか売れない仕組みで、問屋の自主性は失われた。東京都内では200の問屋が「販社粉砕協議会」を結成して猛反発し、切り替えの混乱で1971年に洗剤シェア首位をライオン油脂に明け渡した。
- 含意
- 1972〜73年に首位を奪還し、問屋を介さない販社ルートが不況下の価格維持力と物流効率、新製品を流す自前のパイプとして働いた。この経路は1999年の花王販売設立による製販一体へとつながり、花王の後年の高収益体質を支える骨格の一つとなった。
代償を先に払う経営
この判断の芯にあるのは、目先の売上や首位の座を守ることよりも、流通の経路を自らの手に握ることを優先した点である。問屋を外せば一時的に出荷は滞り、シェアも落ちる。実際に花王は1971年に首位を明け渡した。それでも経路の主導権を取りにいったのは、店頭までの動きが見えなければ値崩れも需要変化も抑えられない、という見立てがあったためと考えられる。代償を先に払い、そのうえで長く効く仕組みを残す——設備を組み替えて事業転換を固め、人事で撤退を固めてきた花王の手筋は、流通の領域でも同じ形をとったとみることができる。
もっとも、この改革が万能であったわけではない。問屋を敵に回した摩擦は小さくなく、販社が軌道に乗るまでには数年の混乱を要した。強い価格維持力は、裏返せば流通を握るメーカーへ市場や規制の視線を招きうるものでもあった。それでも、店頭の動きを自社で受け止める経路を早くに築いたことは、価格・物流・新製品・情報の各面で長く働いた。何を代償に何を握るか——販社改革は、その問いに数年のシェアで答えを出した判断であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
問屋を介した流通の弱み
花王石鹸の製品は、問屋を経て小売の店頭に届いた。この経路では、店頭でいくらで売られ、どれだけ在庫が滞っているかが社内へ返ってくるまでに時間がかかり、需要の変化への手当てが遅れがちであった。流通経路が複雑なために、洗剤はスーパーの目玉商品にされて値崩れを招きやすく、値引きの原資を誰が負担するかも定まりにくかった。副社長の丸田芳郎氏は、この構造を流通近代化の課題ととらえていた[1]。
需要の伸びと問屋の体力の落差も大きかった。洗剤の需要は年率5割という勢いで伸びていたにもかかわらず、問屋の収益は伸び悩み、資本の蓄積が進まなかった。値崩れを防いで流通を強くしなければ、迫る外資の参入にも対抗できない——丸田氏はそう見て、問屋を外した自前の流通づくりを急務と位置づけた。花王のなかで、流通は次に手を入れるべき領域になりつつあった[2]。
600の問屋を150の専売会社へ
花王がめざした姿は、当時の記録にも残っている。1968年刊の社史的な記述は、ライオン油脂との対決や外資との競争に備えて花王が流通機構の整備を進めていると伝え、600店もあった大小の問屋を整理統合して150の花王製品専門の販売会社にする計画が着々と進行していると記した。問屋の数を絞り込み、花王製品だけを扱う会社へ組み替える構想が、早くから明確な数字をもって描かれていた[3]。
この流通改革の底には、創業以来の社風があった。1887年(明治20年)の創業以来、花王は技術を重んじ、技術開発を合理性の追求と同じものとみなしてきた。それが経営全般に浸透すると、不合理な慣行への反発となって表れる。問屋を介した流通が値崩れと非効率を生むのであれば、摩擦を覚悟してでも合理的な経路へ組み替える——販社改革は、この社風の延長線上にあった[4]。
決断
問屋への「絶縁状」
1964年、花王石鹸は全国約27万件の小売店と再販契約を結び、問屋への依存から抜け出す流通改革に着手した。続く1966年(昭和41年)からは、それまで花王製品を扱っていた問屋を地区別に共同出資させ、花王製品だけを専門に扱う卸機構「花王販社」の設立を進めた。販社は各地に置かれ、1974年時点で全国99社を数えるまでに広がった。店頭までの経路を問屋任せにせず、自社の側から組み上げる体制であった[5][6]。
この仕組みは、既存の問屋業界への「絶縁状」に等しかった。販社に出資しなければ花王製品を扱えず、出資して参加すれば販社は花王製品しか売れないため、問屋が持っていた自主性は失われた。花王製品という有力な商材を握るために、問屋は自らの自由を手放すか、花王との取引そのものを断たれるかの選択を迫られた。流通の主導権をメーカーの側へ移す、後戻りのきかない組み替えであった[7]。
首位喪失という代償
問屋の反発は激しかった。販社構想が打ち出されると、東京都内では200の問屋が「販社粉砕協議会」を結成し、卸売り業界から猛反発が起きた。急な経路の切り替えは一時的な出荷の伸び悩みを避けられず、しかも販社に出資した問屋の多くは花王に押し切られた面が濃く、営業に身が入らなかった。改革は、産みの苦しみと呼ぶべき数年の混乱をともなった[8]。
代償は数字に表れた。1971年(昭和46年)、花王は洗剤市場のシェア首位の座をライオン油脂に明け渡し、業績でも逆転を許した。商品開発や宣伝の巧拙もあったが、日経ビジネスは首位陥落をもっぱら販社制度づくりに伴う花王の失点によるものと見た。それでも花王は新しい流通網づくりを最後まで貫いた。外資に対抗するには少々の犠牲はやむを得ないという、合理性を追い切る経営の性格がそこにあった[9]。
結果
奪還と価格維持力
流通機構を太く短くするという販社制度が固まると、効果は業績に表れた。花王は1972〜73年(昭和47〜48年)に洗剤市場の首位を奪い返し、ライオンとの差を広げた。国内洗剤シェアは1973年3月期の40.1%から1975年3月期に37.4%へ一度沈むものの、1978年3月期には42.4%へ戻し、同じ時期にP&G(日本)が1.9%から11.6%へ急伸するなかでも首位を守り続けた[10][11]。
販社の最大の武器は、値崩れを抑える価格維持力であった。1974年に洗剤や石鹸が再販価格維持制度の指定から外れても、花王製品は値崩れを起こさなかった。1978年の時点で花王製品は全国84カ所の販社を経て、全製品の約6割が直接小売の店頭に並んだ。第三者の問屋を間に置く他社より「太くて短い」経路を持つ花王は、その分だけ強い価格維持力を働かせた[12][13]。
自前のパイプが生んだもの
販社は、価格の維持だけでなく、新しい商品を市場へ送り込む自前のパイプにもなった。問屋のルートでは他社の既存商品と競合するため新製品を流しにくいが、花王製品専門の販社であればその懸念がない。花王はこのパイプを使って香粧品の分野へ踏み込み、シャンプーやトリートメント、提携先の輸入化粧品を店頭へ広げた。工場・本社・販社をオンラインで結ぶ物流の近代化も、この経路の上で進んだ[14][15]。
花王はこの改革を、30年余りをかけて仕上げた。1999年には花王販売株式会社を設立[16]し、1964年の再販契約に始まる流通の組み替えを、製造と販売を一体で動かす製販一体の体制としてひとまず完成させた。問屋を外して自前の経路を築く判断は、洗剤を超えて日用品全体を運ぶ土台となり、後年の高収益体質を支える骨格の一つとなった。
- 日経ビジネス 1974年9月16日号「花王石鹸。『販社』確立して洗剤首位の座固める」(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1978年7月3日号「花王石鹸。販社の徹底利用で強い価格維持力」(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1979年8月13日号
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 經濟論叢 第157巻4号
- 花王 有価証券報告書【沿革】
- 花王石鹸 会社年鑑(単体業績)