歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1896年、工業化が緒に就いた日本で、輸入石綿を売る商社として大阪市福島区に日本アスベスト株式会社が設立された。石綿は1,000℃近い高温に耐え、配管継手やボイラ、蒸気機関で他に代わるものがない素材で、紡績・造船・鉄道車輌が集まる大阪福島は、それを必要とする工場の目の前にあった。重工業化とともに需要が膨らむなか、断熱材とシール材を工業ユーザーに納める事業が立ち上がった。
決断決定的だったのは、商社の身軽さを捨てて製造業へ転じたことにある。1916年に石綿製品の自社製造を始め、輸入素材を売る業者から、顧客の工場やプラントに食い込む素材メーカーへ性格を変えた。プラント・造船・自動車・鉄道との長期取引で稼ぐ収益が定着し、新規より既存顧客との継続契約で稼ぐ事業へ固まった。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1896年に石綿商社が自社製造へ進んだのか
- A 商社の身軽さよりも顧客の工場に食い込む継続契約を選んだためである。1896年4月に大阪市福島区で輸入石綿を扱う日本アスベスト株式会社として創業し、同年8月には大阪工場で石綿製品の自社製造に着手した。1916年9月には東京都品川区に東京工場を設け、1930年12月には国産初のジョイントシートパッキングを完成させて、輸入素材を売る業者から断熱材・シール材を自製する素材メーカーへ事業の性格を変えた。
- Q なぜ1981年に85年使った「日本アスベスト」の社名を返上したのか
- A 社名そのものが事業継続のリスクになったためである。1970年代後半から欧米で石綿の健康影響が社会問題化し、社名に「アスベスト」を残したままでは輸出・新規取引・採用に支障が生じる環境が広がった。1981年10月、創業以来85年使った「日本アスベスト株式会社」の商号を「ニチアス株式会社」へ改めた。表向きはCI刷新だが、ここから石綿依存事業を全廃へ向かわせる構造転換の宣言でもあった。
- Q なぜ2025年に補償へ充ててきた資金を株主還元へ切り替えたのか
- A 石綿被害の補償と訴訟対応に長く充ててきた資金を、稼ぐ事業へ転じた成果として株主へ戻す段階に入ったためである。同社は2006年12月に国内、2007年3月に海外で石綿含有製品の製造販売を終え、その後の自動車部品・高機能製品で営業利益率15%超まで採算を高めた。2025年5月、中計「しくみ・130」を2ndステージへ進め、総還元性向50%以上・DOE5.0%以上・累進配当を株主還元の基本に据えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1896年〜1980年 石綿商社からシール材製造業への垂直統合
大阪福島の石綿商社として始まった工業用熱・摩耗材ビジネス
1896年4月、大阪市福島区に日本アスベスト株式会社が設立され[2]、石綿(アスベスト)製品の取扱いが始まった[1]。創業の年のうち、同年8月には大阪工場を建設して石綿製品の自社製造にも着手しており[3]、輸入素材の取扱いから一歩踏み込んだところに事業の出発点があった。当時の日本では工業化が緒に就いた段階で、繊維工場・造船所・鉄道・蒸気機関に欠かせない断熱材・パッキン材を国産で供給する事業者がほぼ存在しなかった。石綿は1,000℃近い高温に耐え、機械の摩擦部・配管継手・ボイラ周りで他に代替がきかない素材で、日本の重工業化と歩調を合わせて需要が膨らんでいった。創業地が大阪福島であったことは、紡績・造船・鉄道車輌など重工業の集積地に密着して取引基盤を築いた創業期の選択を示している。1906年4月には増資を行って資本金25万円となり[4]、事業の進展に資本面でも応えた。
1909年3月、本社を大阪福島から東京中央区へ移し[5]、商業の中心地である首都に営業拠点を据えた。1916年9月には東京都品川区に東京工場を設置して関東での石綿製品の自社製造を本格化させ[6]、大阪に続く製造拠点を首都圏にも構えた。当時の日本では関西の繊維・造船産業に加え、首都圏の電力・鉄道・重工業が拡大期にあり、東京近郊での自社工場立ち上げは販売拠点と製造拠点を首都圏に集約する選択だった。1930年12月、東京工場で国産初の「ジョイントシートパッキング」が完成した[7]。ジョイントシートは配管継手の漏れを防ぐシール材で、それまで全量を欧米から輸入していた素材を国産化した一件である。
商社から製造業への垂直統合と、シール材という新領域への国産化投資は、創業期に同社が下した2つの基幹的な事業判断だった。石綿は商社的に扱えば資金回転が速いが付加価値が薄く、製造業として加工すれば資金は寝るが製品差別化と継続契約が取りやすい。創業者世代は商社の身軽さよりも、製造業として顧客の工場・プラントに食い込む道を選び、輸入素材の販売業者から、シール材・断熱材を自社製造して工業ユーザーに納入する素材メーカーへ事業の性格を切り替えた。後年の工業製品事業(プラント断熱・シール)と建材事業の2本柱が当時から30年かけて形成された原型である。
太平洋戦争前後の工場分散と東証一部上場までの工業ユーザー固定化
1937年6月、奈良県北葛城郡に王寺工場を設置し、大阪工場をここへ移した[8]。続く1939年12月には横浜市に鶴見工場を設置して東京工場をここへ移管し[9]、東日本の主力生産拠点を鶴見に集約した。鶴見工場は京浜工業地帯の中心部に位置し、隣接する造船所・製鉄所・石油精製プラントへの納入アクセスを優先した立地選定である。創業以来の増資を繰り返し、鶴見工場を設けた頃には資本金は180万円となっていた[10]。日中戦争から太平洋戦争に向けて軍需産業の石綿需要は急増し、艦船・航空機・蒸気機関車・ボイラの断熱材として石綿製品は戦時統制下で重要物資に指定された。軍需向け増産が続き、第二次大戦中は軍需品の生産に従事し、終戦後は直ちに工場設備の復旧につとめて重要産業部門向けの各種石綿製品の製造を再開した[11]。
戦後、1952年6月に東京証券取引所店頭売買承認銘柄として公開[12]、1955年には鶴見工場(石綿板・石綿ジョイントシート)と王寺工場(石綿ジョイントシート・石綿糸・布ほか)がJIS表示工場の指定を受け[13]た。1956年4月には横浜市に研究所(現鶴見研究所)を設置して中央研究機能を組み込んだ[14]。1959年10月には株式会社祖岳製作所を合併し、同社の竹鼻工場(現羽島工場)を岐阜県の新たな生産拠点として受け入れた[15]。1961年10月に東証二部上場、1962年2月に東証一部上場、1968年9月に大証一部にも上場する複数市場上場銘柄となった[16]。店頭公開から東証一部上場まで10年で、同社は地方工場型の中堅製造業から複数市場上場の中堅素材メーカーへと制度的な格を上げた。1968年の時点で同社は半期売上高67億円強・利益3億円の業績をあげ[17]、製品種類の多さから景気変動に強い事業基盤を築いていた。
1964年3月に静岡県袋井市に袋井工場[18]、1967年9月に奈良県大和郡山市に郡山工場[19]、1974年9月に茨城県結城郡(現下妻市)に結城工場[20]と、戦後の四半世紀で東日本・西日本・関東に生産拠点を分散配置した。製品ごとに専門工場を割り振る多工場体制が整い、ジョイントシート・パッキン・耐火断熱材・建築用石綿セメント板といった製品群はこれら工場に振り分けられた。プラント・造船・自動車・鉄道といった工業ユーザーとの長期取引が同社の収益基盤になり、新規顧客より既存顧客との継続契約で稼ぐ事業性格が固まった。1971年12月の本社移転(東京都中央区から港区へ)[21]も、官公庁・大企業本社が集まる港区への接近で、工業ユーザー営業の効率化を意識した一件であった。
1981年社名変更の前夜と石綿依存の見えない硬直化
1970年代後半、石綿の健康影響が欧米で社会問題化し、米国環境保護庁(EPA)は石綿規制法案の検討を始め、ILOも石綿労働条約の準備に入った。日本国内では1970年代を通じて石綿被害は限定的な業界内の問題にとどまり、ニチアスの主力製品である耐火断熱材・ジョイントシート・パッキン・建築用石綿セメント板は依然として石綿を主成分とする構造が続いた。同社の売上は1970年代を通じて石綿系製品が大半を占め、石綿価格と石綿建材市況が同社業績を直接左右する構造が続いた。当時の経営陣は欧米の規制動向を観察しつつも、国内市場では当面石綿依存が続くという読みで設備投資を続けた。
1970年代の同社は、製品事業部を工業製品・建材・工事の3軸に整理しつつあったが、いずれの事業も石綿を主原料とする点では同質で、原料調達・製造工程・販売チャネルの大半が石綿に依存していた。後年の代替繊維(ガラス繊維・セラミック繊維・ロックウール)への素材転換は1980年代以降に進んだが、1970年代時点では代替繊維のコスト・性能とも石綿に及ばず、業界全体で石綿代替の見通しは立っていなかった。営業統括上、石綿製品の納入実績で築いた顧客関係そのものが資産であり、製品ラインアップを石綿から非石綿へ切り替えると顧客関係まで揺らぐ恐れがあった。
1980年に入り、欧米での石綿規制が現実化するなか、同社経営陣は社名から「アスベスト」を外す判断に追い込まれた。創業時から85年使い続けた「日本アスベスト株式会社」という社名は[23]、石綿が工業材料として正当な評価を受けていた時代の名残であり、健康影響を懸念する社会的視線が強まるなか、社名そのものが事業継続のリスクになり始めた。1981年10月の社名変更[22]は、表向きはCI(コーポレートアイデンティティ)刷新だが、実質は石綿時代の最終局面を企業名のレベルで認めた判断であり、ここから20年かけて石綿依存事業を全廃へ持っていく長い構造転換の起点が、社名のかたちで宣言された。
1981年〜2006年 「アスベスト」社名返上から国内製造販売全廃まで
社名から「アスベスト」を外しても残った石綿依存の事業構造
1981年10月、商号を「日本アスベスト株式会社」から「ニチアス株式会社」へ変更した[24]。社名変更の背景には、欧米で広がる石綿規制と健康被害への社会的関心の高まりがあり、社名に「アスベスト」を残したままでは、海外輸出・新規取引・採用活動のいずれにも障害が生じる経営環境が形成されつつあった。新社名「ニチアス」は旧社名「日本アスベスト」の略称として戦前から社内呼称として使われていた経緯があり、社員・顧客・取引先にとっては馴染みのある呼称への正式昇格でもあった。社名変更は経営陣からの石綿依存事業からの脱却宣言と受け取られたが、当時の事業実態は石綿が主原料の製品で売上の過半を稼ぐ構造が継続していた。
1987年4月、事業部制組織に改編して工業製品事業本部・建材事業本部・工事事業本部の3本部体制を組んだ[25]。プラント向けの耐火断熱材・シール材を扱う工業製品事業、建築物向けの石綿セメント板・断熱建材を扱う建材事業、プラント断熱施工・改修工事を扱う工事事業の3区分で、後年の自動車部品事業と高機能製品事業を加えた5事業セグメント体制の基礎となる組織骨格である。事業部制への移行で各事業本部の収益責任が明確化し、石綿依存度の高い建材事業と、代替繊維への切り替えが進む工業製品事業の収益構造の差が経営陣の前に可視化された。建材事業は1987年以降の30年以上にわたり、低収益体質を残した事業として続いた。
1994年3月、静岡県浜松市に浜松研究所を設置した[26]。鶴見研究所と浜松研究所の東西2拠点体制で、鶴見が工業製品系・シール材系、浜松が高機能製品系・自動車部品系の研究開発を担う分担が固まった。石綿代替の素材開発と、半導体製造装置・自動車向けの高機能フッ素樹脂・セラミック繊維製品の開発が並行で動き始め、研究開発投資は売上比3%前後の水準で継続した。1999年6月の執行役員制導入[27]は、当時の経団連加盟主要企業に広がったコーポレートガバナンス改革の一環で、業務執行と監督の分離を組織として打ち出す動きの一例だった。
クボタショックが暴いた工場周辺住民の中皮腫被害と出荷停止問題
2005年6月、機械メーカーのクボタが旧神崎工場(兵庫県尼崎市)周辺住民の中皮腫死亡を公表した。クボタショックと呼ばれるこの開示は、石綿の健康影響が労働者だけでなく工場周辺住民にも及ぶ事実を社会に突きつけ、石綿関連企業の責任追及と被害者救済の議論を半年で全国規模に押し上げた。日本国内で石綿を業務用に大量取扱いしていた事業者は数十社あり、ニチアスは石綿原料の輸入・加工・販売・施工をすべて手掛けてきた経緯から、業界内で最も注目される企業の1社となった。同社経営陣は社会的責任の表明と、製品出荷の点検・自主規制を並行で進める判断を下した。
2006年5月、ニチアスは羽島工場(岐阜県)で製造していた石綿含有「ジョイントシート」「うず巻形ガスケット」の一部製品について、社内基準値を超える石綿の飛散があったと公表した。同年6月、自主回収と一時出荷停止を実施し、国土交通省・経済産業省への報告と対応が進んだ。羽島工場の石綿断熱材出荷停止問題は、1959年の祖岳製作所合併で取得して以来約半世紀稼動した主力工場[28]の操業停止を意味し、同社の収益と取引関係への直撃は甚大であった。経営陣は2006年5月の出荷停止公表を受けて、石綿含有製品からの撤退を年単位ではなく半年単位で前倒しする決定を下した。
2006年12月、ニチアスは国内におけるアスベスト含有製品の製造・販売を全て終了し、翌2007年3月には海外においても同含有製品の製造・販売を終了した。1896年の創業から110年にわたり石綿の取扱いを業とした同社[29]が、石綿を主原料とする全製品の取扱いを終えた瞬間である。同年内の段階的な撤退で、石綿系製品の売上は同社全体から消え、代替繊維(ガラス繊維・セラミック繊維・ロックウール)と非石綿シール材・非石綿断熱材への切替えが完了した。素材の差し替えは技術面では1980年代以降の代替繊維研究で目途が立っていたが、110年蓄積した「石綿の取扱業者」というブランドそのものを返上する作業は別物であった。
旧従業員・遺族との損害賠償訴訟と「新生ニチアス・スピリット」
2007年、川島吉一社長が退任し、矢野邦彦氏が代表取締役社長に就いた[30]。社長交代と並行して、社内外で2つの整理が進んだ。1つは石綿含有製品の全廃と、それに伴う羽島工場・東京工場(既に閉鎖)など石綿時代の生産拠点の処理。もう1つは、石綿被害の元従業員・遺族からの損害賠償請求と、それに対する補償スキームの確立である。同社は2006年から「石綿関連被災者特別補償制度」を順次拡充し、職場での石綿曝露に起因する健康被害について、業務上認定・労災認定の枠を超える企業独自の補償金支給制度を整備した。
2008年4月、新企業理念「新生ニチアス・スピリット」を制定した[31]。社名変更(1981年)から27年、石綿全廃(2007年)から1年、社内外に「石綿時代を区切って次の事業フェーズに入る」意思を企業理念として表明した一件である。理念のなかで同社は、断熱・シール・ろ過・防音を熱・音・振動の制御技術の4領域と位置づけ、石綿という素材依存から、機能(断つ・保つ)依存への自己定義の書き直しを試みた。石綿は素材としては失ったが、断熱・シールという機能領域での顧客関係と技術蓄積は残っており、その残された無形資産を軸に事業を組み直す試みでもあった。
2010年10月には、石綿元従業員と遺族らが総額約1億1,600万円の損害賠償を求める集団訴訟が提起された。同社は労災認定の手続支援、補償制度の拡充、和解協議を並行で進める方針を取り、訴訟の長期化を避ける戦略を採用した。2011年10月、新企業理念「ニチアス理念」を再度制定し[32]、「新生ニチアス・スピリット」を踏まえつつ、企業理念をより簡潔な言葉で再定義した。再起から定常運営への移行を象徴する理念改訂で、ここまでの5年間の石綿問題対応がひとまず制度として整った段階にあった。石綿時代の負債処理と、非石綿事業への完全移行を両方とも経営課題とした矢野邦彦在任中の6年[33]は、同社の事業ポートフォリオが「石綿の取扱業者」から「断熱・シール材専業企業」へと書き換わる過程だった。
2007年〜2026年 自動車部品買収と半導体・EV向け高機能領域への転換
自動車部品テクニカルセンターと日本ラインツ買収の自前化投資
2007年12月、ニチアスは自動車部品テクニカルセンターを完成させ[34]、自動車向け事業の技術開発体制を整えた。自動車部品事業は、エンジン周りのガスケット・ヒートインシュレータ・遮熱板・吸音材など、断熱・シール・防音という同社のコア機能を自動車のエンジンルームに応用する事業[35]で、1990年代から海外OEMへの納入を年率2桁で伸ばしていた。2007年のテクニカルセンター完成は、自動車部品事業を将来の収益柱と見て研究開発投資を重点配分する経営判断だった。2000年代後半、欧州・北米・東南アジアでの自動車生産拡大に合わせて海外現地生産拠点の整備も進み、自動車部品事業は工業製品事業と並ぶ2本柱の一角となった。
2015年4月、NKK(ニチアス改善活動)を開始した[36]。トヨタ生産方式を意識した全社的な業務改善活動で、製造現場の歩留まり・段取り替え時間・在庫回転の改善を3年かけて全工場に広げた。NKK活動は2010年代後半の同社売上総利益率改善と直接結びつき、2014年3月期の売上総利益率21.6%から2018年3月期の24.3%への上昇を支えた。2016年12月、自動車部品製造会社である日本ラインツ株式会社(現株式会社APJ)の株式を取得し[37]、自動車部品事業の自前化を進める買収を実施した。日本ラインツは自動車エンジン用ガスケットを主力とする中堅メーカーで、ニチアスの自動車部品事業を補完する技術と顧客関係を持っていた。
2017年3月期、同社売上高は前年比5.8%増の1,803億円、営業利益は29.8%増の196億円、営業利益率10.9%と2010年代で初めて2桁の営業利益率を達成した。自動車部品事業の海外OEM納入拡大と、工業製品事業のプラント向け耐火断熱材・シール材の堅調が両輪となった。2017年9月には浜松研究所にInnovation Gallery(技術展示室)を開設し[38]、研究開発成果の顧客向け説明と社内技術共有の機能を強化した。2019年3月期には売上高2,155億円・営業利益226億円・営業利益率10.5%と、売上高2,000億円台と営業利益率10%台が同時に成立する事業体力を獲得し、石綿全廃から12年で同社は石綿時代を超える収益水準に到達した。
武井俊之在任中のカーボンニュートラル宣言と人権方針の制定
2013年7月、本社を東京都港区から東京都中央区へ移した[39]。1971年の港区移転から42年を経て、再び中央区に戻る形での本社移転であった。武井俊之社長(2013年6月就任)[40]の任期前半は、自動車部品事業の海外展開強化と、工業製品事業の収益改善が中心で、2014年2月には子会社株式会社イノクリートが株式会社井上冷熱からコールドエンジニアリング事業および海洋事業を譲り受け[41]、LNG等の低温分野への参入足がかりを得た。工事事業の冷熱領域強化と、自動車部品事業の海外OEM拡大が、武井俊之在任中前半の収益柱だった。
2020年2月、「ニチアスグループ人権方針」を制定した[42]。武井俊之在任中の後半に入ると、人権・環境・健康経営といった非財務領域の方針整備が経営課題の中心に移った。背景には、欧米の投資家・取引先による非財務情報開示要求の強まりと、2018年改訂の東証コーポレートガバナンス・コードによるESG関連開示要請という外部環境の変化がある。石綿問題の長期対応経験を持つ同社は、人権・労働・安全衛生領域でのリスクマネジメントに一日の長があり、人権方針の制定は同社の管理体制を制度として外部に開示する一件であった。
2021年4月、「ニチアスグループカーボンニュートラル宣言」および「ニチアスグループ健康経営宣言」を制定した[43]。カーボンニュートラル宣言は2050年までに同社グループのGHG排出量を実質ゼロにする目標を設定、2030年のマイルストーンとして2019年度比30%削減を掲げた[44]。武井俊之社長は2021年6月の株主総会をもって退任し、後任に亀津克己氏が就いた[45]。武井俊之在任中の8年間は、同社の事業構造を石綿全廃直後の再建期から、自動車部品・高機能製品を含む5事業セグメント体制の成熟期へ移し、非財務領域の方針整備で次世代経営の制度基盤を整えた8年だった。
中期経営計画「しくみ・130」と半導体・EV向け高機能領域への集中
2021年6月、亀津克己氏が代表取締役社長に就任した[46]。亀津社長は工業製品事業の営業・海外営業育ちで、2014年からは子会社株式会社イノクリート代表取締役社長、2016年からニチアス基幹産業事業本部長を歴任した経歴を持つ[47]。就任翌年の2022年5月、新中期経営計画「しくみ・130」(2023年3月期〜2027年3月期)を発表した[48]。「しくみ」は「し(しあわせ)・く(くふう)・み(みらい)」の頭文字で、変化に対応する仕組みづくりを経営の柱に据えた。最終年度の2027年3月期は同社創立130周年に当たり、創立130周年を節目に新たな事業フェーズへ移る時間軸を経営計画に組み込んだ。
中計初年度の2023年3月期、同社売上高は前年比10.1%増の2,381億円、営業利益は14.0%増の299億円、営業利益率12.6%を達成した。工業製品事業の営業利益率は17.6%、高機能製品事業は24.4%と、2017年3月期の2桁達成からさらに高採算化が進んだ。高機能製品事業はフッ素樹脂・セラミック繊維製品を半導体製造装置・EVバッテリー周辺部品向けに納入する事業で、2020年代の半導体投資ブームとEVシフトを直接捕捉した。2024年3月期は売上高2,494億円・営業利益352億円・営業利益率14.1%、2025年3月期は売上高2,565億円・営業利益397億円・営業利益率15.5%と、3期連続で増収増益・営業利益率上昇を記録した。
2025年5月、中計2ndステージへ移行し、株主還元方針として総還元性向50%以上・DOE5.0%以上・累進配当を基本に据えると公表した[49]。戦略投資枠290億円のうち50〜200億円を成長分野のM&A・アライアンスに振り向ける方針を示し[50]、鶴見研究所と浜松研究所の統合検討にも踏み込んだ[51]。1956年・1994年に東西2拠点に分散配置した研究機能を、約30年ぶりに再編する判断である。半導体・EV向け高機能領域への研究開発資源の集中、株主還元の段階的強化、研究拠点の効率化──いずれも、1896年創業から130年近く続いた「石綿の取扱業者」から「断熱・シール材専業の高機能素材メーカー」への事業転換が、ようやく完了局面に入った同社の現在地を示している。