ピジョン破綻状態の哺乳器メーカーへの経営参加と支配権の掌握、株式会社ピジョン哺乳器本舗の設立
損を切って降りるか、訴訟を戦って会社を取るか——月商23万円の会社をめぐる4年
- 概要
- 1951年に経営参加した哺乳器メーカーで前任者と争い、訴訟20数種類と2度の職務遂行停止命令を経て1955年前後に支配権を握ったうえで、1957年8月15日に神奈川県茅ヶ崎市へ株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立した経営判断。シベリア抑留から1947年に帰国した仲田祐一氏が主導した。
- 背景
- 大連で築いた資産を敗戦で失った仲田祐一氏に、1951年、哺乳器メーカーへの経営参加の話が回ってきた。同社は1948年の創業で、1か月の売上高が23万円しかないのに月給の支払いは20万円から25万円にのぼった。実情を知ったときには引き返せないところまで踏み込んでいた。
- 内容
- 損を確定して降りるのではなく、経営権の取得を選んだ。前任者との訴訟は20数種類にのぼり、本人も裁判所から職務遂行停止命令を2回受けている。支配権の掌握後は既存の会社を使い続けず、1957年8月15日に哺乳器と乳首の製造・販売を目的とする法人を新たに設立した。
- 含意
- 哺乳器と乳首のメーカーが30社ほどひしめき、大半が地域の卸店ブランドで売られていた市場で、ピジョンは容量別・流量別の品ぞろえと調乳・洗浄・消毒までの商品展開によって差別化を図った。1966年6月には商号をピジョン株式会社へ改めている。
取り方が、会社の形を決めた
1か月の売上高が23万円の会社で、月給の支払いだけが20万円から25万円出ていた。1951年の時点で常識的だったのは、損を切って降りることである。仲田祐一氏はそこから4年をかけて訴訟20数種類を戦い、自身も裁判所から職務遂行停止命令を2度受けながら、経営権を取りに行った。大連で築いた10万坪の農園を敗戦で失い、郷里にも頼る資産を残していなかったことが、退く理由を持たない側の計算を可能にしていたとみられる。
ただ、この取り方は会社の形をも決めた。訴訟を勝ち抜いた個人が商品の設計まで一人で担い、実用新案300種類の大半に自分の考案を入れ、重役の席は血族で埋まった。強い個人が短い期間で会社を建て直す方法は、次の担い手を育てる方法とは重ならない。1971年の取材記事が、哺乳器シェア93%という数字よりも社長個人への依存を先に問題として書いたのは、この取り方の裏側を見ていたからといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
無一物で帰国した引揚げ者に回ってきた話
仲田祐一氏は大連の幾久屋百貨店に勤めるかたわら土地の売買で資産を築き、1945年ごろには10万坪を超える農園の所有者になっていた。戦局の悪化に際しては、新潟に残していた資産まで整理して大連へ移している。同年5月の現地召集で配属されたソ満国境ムーリンの部隊では、同期の召集兵13名のうち生き残ったのが2名であった。ソ連軍に捕らえられてシベリアへ送られ、帰国したのは1947年7月で、手元には何も残っていなかった[1]。
神戸での仕事と織物商を渡り歩いたのち独立し、東京都交通局のオーバー1万着を受注して完納したことで、仲田祐一氏はようやく商売の足がかりを得た。多少の資金を手にした1951年、哺乳器メーカーであるピジョンへの経営参加の話が回ってくる。同社は1948年の創業で、当時としては目新しいアメリカ式の哺乳ビンを作っており、商品の面では有利であった。ところが1か月の売上高が23万円しかないのに、月給の支払いは20万円から25万円にのぼった[2][3]。
決断
降りるのではなく、経営権を取りに行った
仲田祐一氏が実情を知ったときには、逃げるには遅すぎるほど深く足を踏み入れていた。残された道は、損を確定して降りるか、経営を建て直して会社を自分のものにするかの二つであった。仲田祐一氏は後者を選び、前任者との争いへ入る。争いは法廷へ持ち込まれ、訴訟は20数種類にのぼった。仲田祐一氏自身も裁判所から職務遂行停止命令を2回受けている。実権を握ったのは1955年前後で、経営に加わってから4年ほどが過ぎていた[4]。
引き返さなかった理由を、仲田祐一氏は自分の来歴に重ねて語っている。内地へ帰って郷里に多少の資産が残っていれば、恐らくそれを頼って暮らし、今日のピジョンはなかったという。引揚げ者に事業で成功した例が多いのはなぜかと問われたときの答えも同じで、まったくの無一物だったから頭を働かせて頑張るほかなかった、というものであった。失うものを先に失っていたことが、勝ち目の読めない訴訟を4年続ける側に立たせたとみられる[5]。
既存の会社を使わず、1957年に法人を立て直した
支配権を握ったあと、仲田祐一氏は手に入れた会社をそのまま使い続けなかった。1957年8月15日、神奈川県茅ヶ崎市に株式会社ピジョン哺乳器本舗を設立し、哺乳器と乳首の製造・販売を目的に掲げる。1948年から続く哺乳器メーカーとしての実体は引き継ぎながら、法人としてはここで改めて起こした。会社の設立年月日を1957年8月15日とする記載は、38年後の株式公開時の会社紹介にも、有価証券報告書の沿革にも受け継がれている[6][7]。
設立当時、哺乳器と乳首を作って売っていたメーカーは30社ほどあった。そのうち全国ブランドとして売っていたのはピジョンを含む数社にすぎず、大半は地域のガラス業者やゴム業者が地元の卸店の名前で出す商品であった。仲田祐一社長はこの市場で、単品の作り分けではなく品ぞろえによる差別化を選ぶ。乳幼児の発達段階に合わせてミルクの容量別・流量別に使い分けられる商品を並べ、調乳・洗浄・消毒の用品まで扱って、授乳に関わる道具をまとめて供給した[8]。
結果
全国ブランドへ、そして社長個人に集まった会社
設立の翌1958年3月、ピジョンは本社を東京都千代田区へ移し、販売拠点として東京出張所を併設した。以後は1963年に大阪、1964年に福岡、1965年に名古屋と札幌へ出張所を開き、主要都市へ営業網を広げている。売り方では乳業メーカーと組んで病院・産院へ商品を持ち込み、マタニティ雑誌・ベビー雑誌やテレビの広告と合わせて、育児に携わる人への知名度を高めた。1966年6月には商号をピジョン株式会社へ改め、設立時の哺乳器本舗という看板を外した[9][10]。
一方で会社の形には、支配権を一人で取りに行った経緯がそのまま残った。哺乳器から調乳器具・離乳用品・洗浄消毒器具まで、主要製品のほとんどに仲田祐一社長のアイデアが入り、実用新案は300種類にのぼる。重役の席もほとんどが血族で固められていた。国内の哺乳器シェアが93%に達した1971年、同社を取材した経済評論家の杉岡碩夫氏が最大の問題として挙げたのは、この会社を動かしてきたエネルギーが社長個人のものであることだった[11][12]。