設立の動機は経営者の野心ではなく国家的な輸入代替だった。1918年2月、鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎が[1]、諸外国からの輸入に頼っていたアルカリ[2]源を国産化するため、山口県徳山町に資本金[3]200万円で日本曹達工業株式会社を設立し[4]、アンモニア法によるソーダ灰の製造を始めた[5]。創立当時の社名『日本曹達工業』の頭文字N・S・Kを[6]、ソーダの主原料である塩の結晶の六面体で囲んだ商標は、その後も同社の標章として引き継がれた。ソーダ灰は板ガラス・石鹸・紡織など当時の基幹産業の土台であり、アルカリの輸入依存は国家的な弱点として繰り返し議論されていた。徳山港に面する立地は、石灰石・塩・豊富な用水という原料条件を同時に満たし、後年のコンビナート化にもつながる地の利だった。装置産業としての化学メーカーは、原料・エネルギー・港湾・廃熱処理の4条件が揃う場所でしか成立しない。徳山はその4条件を満たす数少ない候補地の1つとして選ばれた。
しかし発足直後から市況は崩れた。海外勢のダンピングで業績不振が続き、1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造[7]へ切り替える。ちょうど人絹工業が勃興し苛性ソーダ需要が拡大した時期に重なり、業績は回復、1931年には13年ぶりに5分配当を復活させた[8]。創業時に掲げたソーダ灰国産化という大義名分を10年あまりで取り下げ、同じ製塩設備を苛性ソーダに振り向けて生き延びる。1936年に発祥地と製品名を組み込んで徳山曹達株式会社へ改称し[9]、化成品の品目を広げた。1930年代後半には炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダ[10]といった無機化学品の製造を相次いで立ち上げたが、第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産[11]が停滞した。戦後復興のなかで設備を補強し、1949年に東京証券取引所へ上場[12]、戦前期に始まったソーダ会社が大手化学品メーカーへの足場を固めた。装置産業の企業が、主力製品の看板を付け替えながら生き残る原型が、このときすでに現れている。
戦後の再建は肥料から始まった。1950年に塩化アンモニウム肥料の生産へ着手し[13]、1952年1月には肥料用塩化アンモニウムの増産工場を、同年3月には電解法苛性ソーダ工場をそれぞれ立ち上げている[14]。1961年3月末の株主名簿には創業者ゆかりの岩井産業が7.5%で第2位に並び[15]、筆頭は三菱信託銀行の13.6%だった[16]。従業員2159人のうち2001人が徳山の本社・工場に置かれ[17]、東京・大阪・福岡・広島・名古屋の営業拠点は合わせて150人あまりにすぎない[18]。売る組織を最小限にとどめ、人も設備も徳山の一点へ積み上げる。この極端な集中は、原料と用役を工場内で融通し合う装置産業の効率をそのまま形にしたものだった。
セメント事業の起点は新規進出ではなく、ソーダ灰生産で出る副生炭酸石灰の処分先探しだった。1938年3月、徳山工場に湿式法による[19]ポルトランドセメント1号キルンを設置したのを皮切りに、戦前戦後を通じて増設を繰り返し、単一工場として国内有数のセメント工場へ膨らむ[20]。化学品の副産物が第二の柱に化けるパターンが、ここで生まれた。本業のアルカリで出る廃棄物が新事業の原料になる構図は、装置産業では珍しくない。しかし同社の場合は、この副生物処分を1工場の規模で日本有数のセメント生産へ積み上げた点が特異だった。徳山という1つの立地に工程を集中させた判断が、後のコンビナート化への布石にもなった。戦後の高度成長期の公共投資により、セメントはソーダと並ぶ収益源へ育った。
同じ構図は塩素にも当てはまる。1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制[21]を整え、1964年の徳山新南陽石油化学コンビナートの発足により[22]、塩素を起点とする石化製品(プロピレンオキサイド、塩化メチレン、四塩化炭素ほか)の生産を立ち上げた。コンビナート化は単独投資ではなく同業との共同出資で進み、1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を[23]、1964年には東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立[24]して石化原料の供給網を整えた。1966年には鉄興社・ダイセル化学工業との共同出資でサンアロー化学を設立して塩化ビニールへ進出[25]、1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた[26]。相次ぐ設備投資を支えるため資本金も積み増し、1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へと増資した[27]。苛性ソーダと同時に出てくる塩素は単体では行き場のない副生物だが、コンビナート化でパイプラインを隣接工場に直結すれば、そのまま樹脂原料に変わる。化成品・セメント・樹脂の3本柱体制は、こうして配管網に沿って組み上がった。
副生物から始めた事業が創業製品を追い越すのに、20年あまりしかかからなかった。1960年10月から1961年3月の半期で、商品別の売上高はセメントが21億8147万円[28]と全体の36.7%を占め、ソーダ灰の11億9196万円・20.1%[29]と苛性ソーダの10億6964万円・18.0%[30]をいずれも上回っている。この半期の売上高合計は59億4353万円で、前期の54億3845万円から伸びた[31]。もっともセメントの生産能力66万屯に対し実績は38万441屯[32]にとどまり、装置の半分近くが遊んでいた。能力を先に建てて需要の追いつくのを待つ設備投資の型が、すでにこの時期から現れている。
1967年に独自開発したイオン交換膜は[33]、水銀法から非水銀法への切り替えを迫られていた国内製塩業を支える存在となり、自前技術で社会インフラに食い込むという同社の原型を作った。資源大量消費型の事業を抱えた化学メーカーが、技術差別化で生き残りを模索する初期の成功例だった。装置産業のコモディティ競争を、プロセス特許とライセンスで逃げる発想の原点がここにある。イオン交換膜は後年、苛性ソーダ電解の主力プロセスとして国内外に普及し、同社はソーダ灰国産化から半世紀を経て、塩電解装置の技術ライセンサーという立ち位置を手に入れた。単なる大量生産型化学メーカーから、装置そのものを売る企業へ、事業構造の重心がずれ始めた最初の徴候でもある。
しかし1973年と1979年の二度の石油危機は、ナフサ・電力・石炭に依存した同社の事業構造を根底から揺さぶった。原料コストの暴騰は既存3本柱の収益性を圧迫し、社内に『資源消費型からの脱却』という共通課題が立ち上がる。1980年代に火を噴くファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの新規事業は、こうした危機感のなかで構想された[34]。エネルギー価格の変動に左右されるコモディティ化学品から、付加価値の高い少量多品種の電子・医療向け製品へ主力を移す必要があるという認識が、社内に広がった。徳山曹達は、ソーダ会社から多角化化学メーカーへ自己定義を書き換える助走期に入った。同じ時期に業界全体でも脱ナフサ依存の議論が進み、同社の方向転換は業界的な潮流とも重なっていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1918〜1979年輸入アルカリ代替から徳山コンビナートまで | 日本曹達工業として発足 | ★ | ||
| 商号を徳山曹達に変更 | ★ | |||
| 東京営業所を開設 | ★ | |||
| 徳山工場で湿式法ポルトランドセメント製造を開始 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 徳山工場で電解苛性ソーダの製造を開始 | ★ | |||
| 南陽工場を新設 | ★ | |||
| プロピレンオキサイド工場を新設 | ★ | |||
| サンアロー化学を設立し塩化ビニール製造を開始 | ★★ | |||
| イオン交換膜製造工場を新設 | ★ | |||
| 東工場を新設 | ★ | |||
| 東工場でポリプロピレンの製造を開始 | ★ | |||
| 東工場でイソプロピルアルコールの製造を開始 | ★ | |||
| 技術研究所を新設 | ★ | |||
| トーワ技研を設立 | ★ | |||
| 1980〜2008年5カ年計画と新規3分野 ── 多結晶シリコンが芽を出すまで | プラスチックレンズ材料を発売 | ★ | ||
| 電子工業用高純度溶剤(IPA・塩化メチレン)を発売 | ★★ | |||
| 多結晶シリコンと乾式シリカへの参入と、東工場での製造開始 1981年12月にプロジェクト化された高純度多結晶シリコンと乾式シリカの開発を、徳山曹達が2年半で立ち上げ、1984年7月に東工場で多結晶シリコンの製造を始めた経営判断である。立ち上がりの規模は多結晶シリコン年200トン、乾式シリカ年500トンであった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 鹿島工場を新設 | ★ | |||
| ゼネラル・セラミックス社を買収 | ★★ | |||
| 商号をトクヤマに変更 | ★ | |||
| エイアンドティーを設立 | ★ | |||
| 新第一塩ビを設立 | ★ | |||
| Tokuyama Electronic Chemicals Pte Ltdを設立 | ★ | |||
| 台湾徳亞瑪を設立 | ★ | |||
| 中原茂明 | 徳山化工(浙江)有限公司を設立 | ★ | ||
| 中原茂明 | TDパワーマテリアルを設立 | ★ | ||
| 中原茂明 | Tokuyama Korea Co., Ltd.を設立 | ★ | ||
| 2009〜2017年マレーシアの賭けと、1006億円の幕引き | 幸後和壽 | 初の純損失を計上 | ★★ | |
| 幸後和壽 | Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.を設立 | ★★ | ||
| 幸後和壽 | 純損失379億円を計上 | ★ | ||
| 横田浩 | 横田浩が代表取締役社長執行役員に就任 | ★ | ||
| 横田浩 | 純損失1006億円を計上 | ★★ | ||
| 横田浩 | マレーシア多結晶シリコン事業からの完全撤退 ── 減損を確定し韓国OCIへ全株譲渡 2017年5月、トクヤマがマレーシアの多結晶シリコン製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.の全株式を韓国OCIへ譲渡し、太陽電池グレード多結晶シリコン事業から完全撤退した経営判断である。前年の2016年3月期に純損失1006億円・特別損失1257億円という経営史最大級の赤字で全面減損を確定させ、横田浩社長の再建体制のもとで損失を確定して手放す道を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 横田浩 | 徳山海陸運送の全株式を取得 | ★ | ||
| 横田浩 | 韓国OCIとの折半合弁によるマレーシアでの半導体用多結晶シリコン生産と、ベトナム子会社の設立 2023年5月の覚書と同年12月の合弁契約を経て、トクヤマが韓国OCIとマレーシア・サラワク州に半導体用多結晶シリコン半製品の折半出資合弁会社を設立した経営判断である。合弁会社は2025年7月8日にOCI Tokuyama Semiconductor Materials Sdn. Bhd.として発足した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 横田浩 | セメントキルン1系列を停止 | ★★ | ||
| 横田浩 | 合弁会社OCI Tokuyama Semiconductor Materials Sdn. Bhd.を設立 | ★ | ||
| 横田浩 | セメント・固化材の国内販売事業の太平洋セメントへの譲渡と、製造停止の検討着手 2026年3月25日、トクヤマがセメント・固化材の国内販売事業と連結子会社2社の株式を新設の完全子会社へ吸収分割で移し、その全株式を太平洋セメントへ370億円で譲渡すると決めた経営判断である。承継が完了する2028年度を目途に、セメントおよび固化材の製造を停止する検討にも着手した。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(トクヤマ)