トクヤマ多結晶シリコンと乾式シリカへの参入と、東工場での製造開始

ソーダとセメントの会社が半導体材料を手がけるか——企画部員の起案を、完成度と速度のどちらを取って立ち上げたか

時期 1981年12月
意思決定者(推定) 村上昭爾・藤井裕二 企画部・起案・SEプロジェクトリーダー
論点 石油危機後の新規事業の選び方
概要
1981年12月にプロジェクト化された高純度多結晶シリコンと乾式シリカの開発を、徳山曹達が2年半で立ち上げ、1984年7月に東工場で多結晶シリコンの製造を始めた経営判断である。立ち上がりの規模は多結晶シリコン年200トン、乾式シリカ年500トンであった。
背景
二度の石油危機は、ナフサ・電力・石炭に依存した事業構造の見直しを迫り、建材・生活関連・ファインケミカル・メディカル・エレクトロニクスの各分野で高付加価値型の新規事業を育てる方向が定まっていた。1982年のプラスチックレンズ材料、1983年の電子工業用高純度溶剤に続く3年目の手にあたる。
内容
起案は事業部ではなく企画部から出た。経営トップは品質を示せる多結晶シリコンを認める一方、良否の判断がつきにくい乾式シリカを退けたが、基礎物性で品質を規定できるという現場の反論とパイロットプラントでの顧客評価を経て復活する。完成度より速度を取り、建設期間1年未満で仕上げた。
含意
稼働時に不純物レベルが目標に届かず、実プラントで仮説を試して高純度の析出にたどり着いた。この事業は1988年開始の5カ年計画で重点育成事業群に入り、後年の主力へ育つ一方、2009年以降の汎用グレードによる海外量産では撤退に行き着いている。
筆者の見解

期限を先に切った参入

多結晶シリコン年200トンという立ち上がりの数字が、この参入の性格をよく表している。起案は事業部ではなく企画部から出て、しかも村上昭爾氏は自分の専門が有機化学でありそこにテーマはないと認めたうえで、無機のポリシリコンを指した。手元にあったのは副生原料と、ソーダで積み上げた精製の経験だけであった。それでも2年半という期限を先に決め、完成度より速度を選んだところに、資源大量消費型から抜け出したいという当時の切迫がうかがえる。

ただ、この参入が良い結果ばかりを生んだわけではない。同じ時期に事業化を決めた窒化アルミニウムは用途が限られたまま採算割れを続け、社内で「お荷物」と呼ばれる期間を挟んでいる。多結晶シリコン自身も、汎用グレードで規模を追った2009年以降のマレーシア投資では撤退に行き着いた。1984年に選ばれたのは高純度という一点であって、どの用途でどこまで量を追うかは、その後の経営が繰り返し選び直している。参入時の選択が、その後の分岐まで決めていたわけではないといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

資源大量消費型からの脱却という課題

二度の石油危機は、ナフサと電力と石炭に依存した徳山曹達の事業構造を揺さぶった。創立以来蓄積してきた生産技術をどこへ向けるかという問いが社内に立ち、資源大量消費型の構造を見直して、建材・生活関連・ファインケミカル・メディカル・エレクトロニクスの各分野で高付加価値型の新規事業を育てる方向が定まっていく。多結晶シリコンは、その枠組みのなかから出てきた[1]

方向は製品の連打として現れた。1982年8月にプラスチックレンズ材料を発売し、1983年8月には電子工業向けの高純度イソプロピルアルコールと塩化メチレンを出す。後者はフロンやエタンに代替する洗浄システムの構築に寄与すると評された製品で、ソーダ会社が電子産業の川下へ薬品を供給する道筋がここで開いた。多結晶シリコンは、それに続く3年目の手にあたる[2]

企画部から出た起案

発端は事業部ではなく、企画部の一人の提案であった。1981年の春先、企画部の村上昭爾氏は新橋の店で水割りを飲みながら、自分の専門は有機化学でそこにテーマはなく、やるべきは無機のポリシリコンで、副生原料でシリカをつくるのだと語ったと、当時東京大学生産技術研究所に派遣されていた美谷芳雄氏が振り返っている。自らの専門の外を指した提案であった[3]

1981年12月、村上氏の案を藤井裕二氏が推進して企画はプロジェクト化され、「SE」と名づけられた。蒸留、ポリシリコン析出、シリカの3チームが置かれ、数カ月後にエンジニアリングチームが加わる。全員がプロジェクトリーダーの藤井氏のもとで月に一度連絡会を開き、実験と設計の進捗を確かめて翌1カ月の計画を決める運営であった[4]

決断

「粉モノは良否が分からない」

経営トップが引いた線は、2つの製品のあいだを通っていた。多結晶シリコンは品質が分かるので可、粉モノである乾式シリカは良否が分からないので不可という判断が示され、シリカの開発は一度つぶれかけている。純度という尺度で優劣を明示できる製品と、使い方によって序列が変わる製品とで、社内での通りやすさが分かれていた[5][6]

これを押し戻したのは、現場から送られた一通の社内便であった。美谷氏は、品質の判断は基礎物性を合わせるつくり方でやれると東京の藤井氏へ書き送り、シリカは復活する。藤井氏は続いてパイロットプラントを命じ、多結晶シリコンと違ってシリカのような難しい品物は顧客が評価しないと分からないと理由を述べた。およそ半年をかけ、試作した数百キログラムのシリカは顧客で合格している[7][8]

完成度ではなく速度を取る

もう一つの選択は、完成度ではなく速度であった。ゼロから始めて2年半、建設期間は1年未満でプラントは仕上がる。技術の完成度を求めていれば市場参入のタイミングを逸しただろうと、後に当事者は振り返っている。速度の重視は技術の軽視ではないという言い方に、期限を先に切ったうえで必要なことは何でもやるという当時の運び方が表れていた[9]

速度を支えたのは、主要装置を自社でつくる流儀であった。構造や材質に挑戦して試作し、あとは本装置を動かしながら改造する。失敗しても責任をもって何とかする——それが期限に間に合わせ、過剰設備にしないための秘訣であったと記録されている。エンジニアはプラント全体の配置だけでなく個別装置まで見ており、多結晶シリコンもシリカも、この手つきでプラントになっていった[10]

結果

年200トンからの立ち上がり

1984年7月、東工場で多結晶シリコンの製造が始まった。同年8月の社内報が伝えた立ち上がりの規模は、多結晶シリコン年200トン、乾式シリカ年500トンである。半導体用として求められた純度はイレブンナインで、稼働した時点の不純物レベルは満足できるものではなく、量産の入口に技術上の課題が残った[11][12]

不純物との格闘は、実機で決着した。このままでは百年経っても同じことをやっていると藤井氏が決断し、あらかじめ立てていた仮説を実プラントで試す機会が生まれる。蒸留の分析数値は仮説が当たったことを示し、数日して高純度の析出が確認された。翌1985年には鹿島工場を新設し、1988年に始まる5カ年計画でファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの3分野が重点育成事業群に指定される[13][14]

「お荷物」と呼ばれた時期を挟んで

この時期の新規事業がすぐ評価されたわけではない。同じ1981年に研究が始まり1984年に事業化が決まった窒化アルミニウムは、当時の用途が電気機関車用の電源や汎用コンピュータの冷却部材などに限られ、採算割れが続いた。2000年に電子基材事業部シェイパル部長の谷口人文氏は、長い間社内でお荷物といわれていたのにようやく花が咲いた、と語っている[15]

多結晶シリコンのその後は、参入時の位置取りとは別の道をたどった。2009年8月にマレーシアへ製造販売会社を設けて汎用の太陽電池グレードで規模を追い、2017年5月に全株式を韓国OCIへ譲渡して撤退する。一方、徳山に残した先端半導体グレードは伸び続け、2023年12月には同じOCIと折半出資の合弁契約を結んで海外生産へ戻った。1984年の年200トンから、その両方が枝分かれしている[16][17]

出典・参考

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