荏原製作所藤沢工場で真空ポンプ生産:半導体製造装置分野への参入と、CMP装置の事業化

更新:

時期 1987年7月
意思決定者(推定) 取締役会
論点 祖業技術の転用と新規事業の育成
概要

1985年に社内のコーポレートプロジェクトとして電子事業へ参入し、1987年7月に藤沢工場内へ精密機械工場を建設して半導体産業向け真空機器の生産を始めた経営判断。液体を送るポンプの技術を、気体を扱う真空機器へ振り向ける試みで、1992年には顧客の求めに応じてCMP(化学機械研磨)装置の事業化にまで進んだ。

背景

1980年代の荏原製作所は売上高のほぼ7割をポンプ事業が占め、そのうち官公需が3割から5割を占める構造にあった。安定した顧客を抱える一方で、研究開発が既存技術の改良に傾く懸念が社内で語られ、藤村宏幸社長はポンプだけに頼れば収益力が低下すると判断していた。

内容

藤沢工場内の精密機械工場でドライ真空ポンプを手がけ、顧客からの声がけを受けてCMP装置へ進んだ。研磨部と洗浄部を一つの装置に収めるドライインドライアウト方式は社内の営業部からも反対され、1枚8万円のウエハを削っては捨てる開発が続いた。

含意

参入から14年後の2001年に熊本で量産が始まり、2016年には同地の工場を増設した。2025年12月期の精密・電子は売上収益3,422億円・セグメント利益577億円と、5事業の利益合計1,166億円のほぼ半分を稼ぐ事業に育っている。

筆者の見解

畑違いを引き受けた順序

1992年にCMP装置へ手を伸ばしたとき、荏原は自分から装置メーカーになろうとしたわけではなかった。真空ポンプで信頼を得た先に『製造装置もやってみたらいいのでは』という顧客の言葉があり、そこから始まったと南部勇雄氏は語っている。部品を納める会社が装置を売る会社へ変わる転換を、荏原は自社の構想としてではなく顧客の求めに応じて引き受けた。社内の計画でも半導体は環境事業の後ろに置かれており、この判断が全社の看板を背負っていたわけではないとみることができる。

もっとも、引き受けた側の負担は軽くなかった。研磨部と洗浄部を一体にする方式は営業部からも反対され、1枚8万円のウエハを削っては捨てる時期が続き、量産の拠点が熊本に立つまでには参入から14年を要している。1980年代のコーポレートプロジェクトの多くは事業として残らず、CMP装置だけが例外であった。顧客に言われて始めた事業が三十年後に最大の利益源になったのは、言われた後に十数年こらえ続けた結果であって、参入を決めた判断そのものの巧拙とは切り離して見る必要があるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

同じ問いに直面した会社

自社技術による隣接領域への展開1970年象印マホービン自社開発の製品を足がかりに、魔法瓶専業から家庭用電気製品部門への進出保温技術の転換と新規事業
1960年日本製鋼所技術導入によるプラスチック射出成形機事業の立ち上げと、一般産業機械部門の拡大戦後の主力事業の選定と多角化の方向
1953年信越化学工業技術提携を足がかりとした事業化と、肥料中心の売上構成の入れ替え事業構成の転換と新素材への参入
1981年FUJI工作機械専業から電子部品実装機への主力転換主力事業の転換
1977年マルハ遠洋漁業に依存した主力事業からの撤退と養殖への軸足移動遠洋漁業依存からの脱却と事業構造の転換
新技術による祖業の転換1974年三和ホールディングス合併を機としたシャッター専業から建材総合メーカーへの脱皮製品構成と成長市場の選び直し
1972年太陽誘電主力製品への依存を断つ方針の表明と、新製品領域への多角化主力製品の値崩れと製品構成の組み替え
1957年上村工業本社に薬品部を置いての、自社での薬品づくりへの踏み出し商社的な商いからの転換とめっき薬品の自社製造
1956年日亜化学工業塩化カルシウムを主原料とする蛍光灯用蛍光体原料の開発と、日亜化学工業の設立次の製品と原料系統の選択
1953年東京精密日本初の工業化と、切削工具から精密測定機器への主力の移し替え主力製品の組み替えと精密測定機器への専業化
出典・参考
  • 荏原製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 荏原製作所 有価証券報告書(2025年12月期・連結・IFRS)
  • 荏原製作所 2025年12月期 決算説明会 質疑応答
  • 日経ビジネス 1992年9月28日号
  • JBpress「半導体のニーズにEBARAの技術と総合力で応える 精密・電子事業カンパニー」(荏原製作所 特集ページ)

免責事項およびポリシー