1992年にCMP装置へ手を伸ばしたとき、荏原は自分から装置メーカーになろうとしたわけではなかった。真空ポンプで信頼を得た先に『製造装置もやってみたらいいのでは』という顧客の言葉があり、そこから始まったと南部勇雄氏は語っている。部品を納める会社が装置を売る会社へ変わる転換を、荏原は自社の構想としてではなく顧客の求めに応じて引き受けた。社内の計画でも半導体は環境事業の後ろに置かれており、この判断が全社の看板を背負っていたわけではないのだろう。
もっとも、引き受けた側の負担は軽くなかった。研磨部と洗浄部を一体にする方式は営業部からも反対され、1枚8万円のウエハを削っては捨てる時期が続き、量産の拠点が熊本に立つまでには参入から14年を要している。1980年代のコーポレートプロジェクトの多くは事業として残らず、CMP装置だけが例外であった。顧客に言われて始めた事業が三十年後に最大の利益源になったのは、言われた後に十数年こらえ続けた結果であって、参入を決めた判断そのものの巧拙とは切り離して見る必要があるといえる。