日本製鋼所独アンケル・ベルク社からの技術導入によるプラスチック射出成形機事業の立ち上げと、一般産業機械部門の拡大

兵器の跡地に何を置くか——鋳鍛鋼と鋼板で七割を稼いでいた会社が、樹脂を成形する機械の会社へ寄っていくまで

時期 1960年
意思決定者(推定) 取締役会
論点 戦後の主力事業の選定と多角化の方向
概要
1960年、日本製鋼所は西ドイツのアンケル・ベルク社と小型射出成形機の技術援助契約を結び、射出成形機事業を立ち上げた。1963年にはクラウス・マッファイ社と大型射出成形機の技術提携を結び、小型から大型までの品揃えを整えている。
背景
敗戦で兵器生産を失い、1950年12月に第二会社として再出発してからも収益の柱は定まらなかった。1961年3月期の製品構成は鋳鍛鋼品42.4%、鋼板31.1%と素材が七割を占め、機械は17.9%にとどまっていた。
内容
同社は1950年に自社技術でフィルム・シート・電線被覆用の押出成形機を開発しており、樹脂を溶かす技術は持っていた。金型に射ち込んで成形品を数多く作る射出成形機は、二社からの技術導入で入口を買っている。
含意
一般産業機械部門の比重は1963年度の36%から1968年度に43%へ上がった。1987年には業界に先駆けて全電動射出成形機を開発し、2025年3月期には樹脂機械と成形機だけで連結売上高2,485億円の過半を占める。
筆者の見解

買ってきた技術と、続けてきた技術

射出成形機は買ってきた技術で始まった事業である。それでも根づいたのは、1950年に自社技術で押出成形機を開発してからの十年分の蓄積が下にあり、樹脂を溶かして形にするという工程が同社の手の内にあったからだとみられる。買えたのは金型に射ち込む部分だけで、スクリュもシリンダも制御も、その後は自前で作り替えている。1987年に全電動機を業界で最初に出したのは、導入から二十七年後であった。

ただ、この判断が正しかったと言えるのは、建設機械のほうを知っているからでもある。1969年の時点で全国占有率は建設機械の20%が樹脂機械の15%を上回っており、当時どちらが本命かは決まっていなかった。東京製作所は1987年9月に閉鎖され、跡地の売却益425億円が赤字基調の決算を埋める。多角化の巧拙は、何に手を出したかよりも、伸びなかったほうをいつ畳むかに表れるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

収益の柱が定まらない戦後十数年

戦前の日本製鋼所は兵器生産が大部分を占め、敗戦とともに全工場が賠償指定工場として厳しい制約を受けた。いまの会社は企業再建整備法に基づき解散した旧日本製鋼所の第二会社で、1950年12月に旧会社の全額現物出資により資本金2億円で設立されている。旧会社から室蘭・広島・横浜・武蔵の四製作所を引き継いで新発足し、翌1951年6月には東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場した。ただ、兵器に代わる柱は決まっていない[1][2]

1961年3月期の単体売上高は214億円であった。製品部門別の構成は鋳鍛鋼品が42.4%、鋼板が31.1%で、素材が七割を占める。機械は17.9%、兵器は8.6%にとどまっていた。売上高は1957年3月期の97億円から二倍に伸びていたが、鋼を溶かして鍛え、注文どおりの重量物に仕上げるという形は戦前と変わらない。受注生産の重量物は、景気の波をそのまま損益に映す事業であった[3][4]

押出成形機という下地

樹脂の機械は、まったくの飛び地ではなかった。同社は1950年に自社技術でフィルム・シート・電線被覆用の押出成形機を開発しており、合成樹脂加工機械の経験を十年積んでいる。石油化学が国内に立ち上がり、高分子原材料の進歩とともに利用分野が広がると、より高性能の加工機械を求める傾向が出てきた。素材を売る会社が、素材を加工する機械を売る側へ回る道が、そこに開いていた[5][6]

もう一つ、広島製作所という受け皿があった。1920年11月に買収したこの工場は海軍向け砲弾の製造拠点として出発し、戦後は化学機械や紙パルプ機械、ガスタービン、デッキクレーンを手がけている。室蘭が大型の重量物、横浜が小型の産業機械、東京が建設機械という配置のなかで、広島には大型の機械を組み立てる余地が残っていた。新しい事業を置く場所は、社内にすでにある[7][8][9]

決断

技術を二社から買った

1960年、日本製鋼所は西ドイツのアンケル・ベルク社と小型射出成形機の技術援助契約を結んだ。溶かした樹脂を押し出す技術は自前で持っていたが、金型に射ち込んで成形品を数多く作る射出成形機は別物で、入口は買う判断であった。続く1963年、大型射出成形機についてはクラウス・マッファイ社と技術提携を結ぶ。小型と大型を別々の相手から入れて、品揃えを一度に揃えている[10]

相手の選び方には理由があった。当時の射出成形機は可塑化方式がプランジャ方式からスクリュ方式へ移る技術革新の時期にあり、技術を導入した二社はともにシングルスクリュ・インライン式を採用して世界の射出成形機業界をリードしていた。この方式は当時の需要に合い、機械の性能でも成形品の品質でも高い評価を得る。日本製鋼所はこれによって、プラスチック加工機械の総合メーカーとしての出発点を得たと自ら書いている[11]

一般産業機械部門を主柱に据える

決断の内実は、売上の柱を鋳鍛鋼品から一般産業機械へ移すことであった。1963年度に36%だった一般産業機械部門の比重は、1968年度には43%へ上がる。専務取締役の小野達郎氏は1969年の講演で、ここ数年来、企業体質を強化するために一般産業機械部門の強化には特に意を注いできたと述べ、この部門が同社の主柱として発展し、近い将来50%を超えるとの見通しを示した。素材の会社が機械の会社へ寄っていく過程が、数字に出ている[12]

機械への傾斜は樹脂だけではなかった。建設機械では1964年に全油圧式パワーショベルの製造販売を開始し、激しい販売競争のなかで全国占有率20%を占めるに至る。合成樹脂加工用機器の全国占有率は15%で、この時点では建設機械のほうが強い。ただ樹脂機械の売上は1964年度の41億円から1968年度の66億円へ六割伸びており、伸び率では上回っていた。素材からの脱却を、同社は二本立てで試している[13][14]

結果

導入した技術を自前に置き換えるまで

導入で始めた事業は、シリーズの世代交代を重ねて自前のものになっていく。日鋼アンケル・ベルクVシリーズを皮切りに、N、NA、N-BⅡ、J-S、J-SⅡ、J-E、J-EⅡ、J-EⅢと型式が変わり、小型から大型までの開発と製造のなかで独自技術が積み上がった。1975年1月には広島製作所内に機械研究所を置き、1978年8月には米国にJapan Steel Works America, Inc.を設立して外へ出ている[15][16]

技術の主導権が移ったことは、駆動方式の転換に表れている。高精度で安定した成形と省エネルギーの要求に応えるため、射出成形機は油圧駆動から電動駆動へ移っていったが、日本製鋼所は1987年に業界に先駆けて全電動射出成形機を開発し、1989年に初号機を出荷した。ドイツ二社から入れた技術で始めた事業が、二十数年で業界を先導する側に回っている。2015年には五世代目のJ-ADSシリーズを市場に投入した[17]

建設機械が消え、樹脂機械が残った

同じ時期に伸ばした建設機械のほうは、会社に残らなかった。生産の中心を担った東京製作所は1987年9月に閉鎖され、跡地は1992年3月に売却されて固定資産売却益425億円が計上される。1969年の時点で全国占有率20%と樹脂機械を上回っていた事業が、二十年ほどで工場ごと姿を消したことになる。素材から機械へ移る道は二本あったが、通れたのは一本であった[18][19]

2025年3月期の連結売上高2,485億円のうち、産業機械事業は1,990億円を占める。内訳は樹脂製造・加工機械722億円、成形機669億円、防衛関連機器322億円で、1960年に始めた樹脂機械の系統だけで売上の過半にあたる。かつて七割を占めた素材の側は、素形材・エンジニアリング事業471億円と二割を切った。広島製作所では2024年12月に第10組立工場が稼働し、樹脂機械の組立能力を上げる投資が一巡している[20][21]

出典・参考

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