軍縮による事業整理という言い方だけでは、この分離の意味は捉えにくい。日本製鋼所が手放したのは不振の一部門ではなく、1919年に北海道製鉄を合併して自ら組み込んだ川上工程そのものであった。高炉を持てば素材を自給できるが、稼働率が下がれば固定費が居座る。国家の方針ひとつで受注が増減する兵器を主力とする会社にとって、振れの大きい設備を二重に抱える危うさが、軍縮の数年で表に出ただろう。残したのは、鋼を鍛える技術であった。
もっとも、この整理が身を助けたと言えるのは、鋳鍛鋼で生き延びた後の姿を知っているからにすぎない。分離の直後に日本製鋼所が向かった先は火砲と大型鋳鍛鋼への一層の集中であり、敗戦とともに全工場が賠償指定を受けて、戦後の復興では苦難を味わっている。1931年に残した三分野のうち、1968年度に最も伸びていたのは兵器ではなく産業機械であった。事業を絞る決定そのものより、絞った先で何を鍛え続けたかが、その後の差を分けたといえる。