日本製鋼所製鉄・採鉱事業の分離と輪西製鉄の設立、鋳鍛鋼・兵器・産業機械への集中
銑鋼一貫を保つか、鋼を鍛える工程に絞るか——軍縮期の日本製鋼所が引いた事業の線
- 概要
- 1931年12月、日本製鋼所は製鉄および採鉱事業を本体から分離し、輪西製鉄株式会社を設立した。1919年に北海道製鉄を合併して取り込んだ川上工程を12年で手放し、室蘭・広島の各工場は鋳鍛鋼品、兵器、産業機械の三分野に事業を絞った。
- 背景
- 1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約が艦艇の建造を制限し、海軍向け受注に依存する兵器会社の仕事量は細っていた。鉄鋼業も第一次世界大戦後の不況で痛手を受け、各社を大同団結させる国策統合の機運が高まっていた。
- 内容
- 室蘭市輪西町の製鉄設備と鉱山を別法人へ移し、日本製鋼所本体には鋼を溶かして鍛え、加工・仕上げまで一貫して手がける工程を残した。原料の鉄は外部調達に切り替わり、自社で高炉を持たない事業の形がここで定まった。
- 含意
- 分離された輪西製鉄は1934年1月の日本製鉄発足で国策会社に組み込まれ、のちの室蘭製鉄所となる。日本製鋼所は素材を鍛える一点に資源を集め、戦後は大型鋳鍛鋼品と産業機械が事業の柱に育った。
川上を捨てて、鍛える工程に残ったこと
軍縮による事業整理という言い方だけでは、この分離の意味は捉えにくい。日本製鋼所が手放したのは不振の一部門ではなく、1919年に北海道製鉄を合併して自ら組み込んだ川上工程そのものであった。高炉を持てば素材を自給できるが、稼働率が下がれば固定費が居座る。国家の方針ひとつで受注が増減する兵器を主力とする会社にとって、振れの大きい設備を二重に抱える危うさが、軍縮の数年で表に出たとみられる。残したのは、鋼を鍛える技術であった。
もっとも、この整理が身を助けたと言えるのは、鋳鍛鋼で生き延びた後の姿を知っているからにすぎない。分離の直後に日本製鋼所が向かった先は火砲と大型鋳鍛鋼への一層の集中であり、敗戦とともに全工場が賠償指定を受けて、戦後の復興では苦難を味わっている。1931年に残した三分野のうち、1968年度に最も伸びていたのは兵器ではなく産業機械であった。事業を絞る決定そのものより、絞った先で何を鍛え続けたかが、その後の差を分けたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
国家の軍備計画とともに立った民間兵器会社
日本製鋼所は1907年11月、北海道炭礦汽船と英国のアームストロング・ウイットウォース、ビッカースの3社共同出資により、資本金1,000万円で設立された。本店と工場は北海道室蘭に置かれ、陸海軍の兵器を中心に生産する民間兵器会社として出発している。のちに専務取締役を務めた小野達郎氏は、創業から第二次大戦の終結に至るまで兵器生産が大部分を占めていたと述べている。国家の軍備計画と歩調を合わせる事業構造が、当初から会社の性格を決めていた[1][2]。
室蘭の拠点は、その後に厚みを増していく。1919年12月、日本製鋼所は隣接する北海道製鉄株式会社(室蘭市輪西町)を合併し、製鉄および採鉱事業を兼営した。翌1920年11月には広島市外の株式会社広島製作所を買収して広島工場を設けている。銑鉄をつくる高炉から、鋼を鍛えて砲身や艦艇の部材に仕上げる工程まで、室蘭に銑鋼一貫の設備を抱える体制がここで整った[3]。
軍縮と鉄鋼不況が重なった1920年代後半
その体制が重荷に転じたのが1920年代の後半であった。1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約は主力艦と補助艦の建造を制限し、海軍向けの受注に支えられてきた兵器会社の仕事量を細らせる。同じ時期、鉄鋼業そのものも第一次世界大戦後の世界的な不況で大きな痛手を受けていた。兵器と製鉄という二つの需要が同時に落ち込む位置に、日本製鋼所は立っていた[4]。
鉄鋼各社の側では、この不況を機に大同団結の機運が高まっていた。銑鉄の供給を一つの会社に束ねて過当競争を止める構想は、1933年の日本製鉄株式会社法の成立と、翌1934年1月の官営八幡製鉄所ほか5社の合同として実を結ぶ。輪西の製鉄設備を独立の法人にしておくことは、この統合の流れに乗せるうえでも都合がよかったとみられる。日本製鋼所の分離は、その二年前にあたる時期の決定であった[5]。
決断
製鉄・採鉱事業の分離と輪西製鉄の設立
1931年12月、日本製鋼所は製鉄および採鉱事業を分離し、輪西製鉄株式会社を設立した。1919年に北海道製鉄を合併して取り込んだ事業を、12年で本体から切り離した決定であった。銑鉄と鉄鉱石という素材の川上を手放し、室蘭製作所には鋼を溶かして鍛える工程だけが残る。設備も鉱山も別法人へ移す整理であり、いったん切り離せば戻すのは容易ではなかった[6][7]。
兵器会社が高炉まで抱える構えは、軍備が拡張する時期には素材の自給という強みになる。ただ高炉は火を落とせば再稼働に費用と時間がかかり、稼働率が下がればそのまま損失として残る設備であった。軍縮で艦艇向けの受注が細り、鉄鋼市況も崩れたところに、需要の振れの大きい設備を二重に抱える負担が現れた。日本製鋼所は、自ら鉄をつくる工程を持ち続けない道を選んでいる[8]。
鋳鍛鋼・兵器・産業機械への集中
分離のあとに残ったのは、鋳鍛鋼品と兵器、そして産業機械の三分野であった。鋳鍛鋼品は室蘭製作所の平炉と電気炉で鋼を溶かし、熱処理から機械加工、仕上げまでを一貫して手がける製品群で、原料の鉄は外部から買う。鍛える材料には、自動車鋼板などをつくる際に出る高品質のスクラップが用いられた。自社で高炉を持たないという現在まで続く事業の形は、この分離から始まっている[9]。
素材の川上を切り離した分、室蘭製作所は大型の鋳鍛鋼品と火砲へ資源を集めていく。大艦巨砲の時代には一万トンプレスをはじめとする巨大設備を備え、民間で最大かつ最新鋭の兵器会社と評される規模に達した。1935年11月には神奈川県金沢町に横浜工場を起工し、翌1936年6月から操業を始める。製鉄をやめた会社は、兵器会社としての性格をむしろ濃くしていった[10][11]。
結果
輪西製鉄の国策会社への合同
分離された輪西製鉄は、日本製鋼所の手を離れて国策会社に組み込まれる。1933年に日本製鉄株式会社法が成立し、翌1934年1月、官営八幡製鉄所と輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、富士製鋼、九州製鋼の合同によって日本製鉄が発足した。合同当時の生産シェアは銑鉄で96%、鋼塊で52%に達している。輪西の高炉は、国内の鉄鋼供給を一手に担う体制の一部となった[12]。
輪西の製鉄所はその後、日本製鉄の室蘭製鉄所として操業を続けている。室蘭では、かつて一つの会社にあった高炉と鋳鍛鋼の工場が、別々の企業の設備として隣り合う配置が定着した。日本製鋼所の側は素材を買い、鍛える工程で価値を出す事業に徹する。1919年から12年だけ存在した銑鋼一貫の体制は、以後の同社には戻らなかった。原料の自給を捨てる代わりに、鋼の質と大きさで競う立場へ移ったとみることができる[13]。
戦後に引き継がれた三分野の構成
1931年に引いた事業の線は、敗戦と会社の解散をはさんでも崩れなかった。全工場が賠償指定を受けて戦後の復興では苦難を味わったが、旧会社は1950年に解散し、室蘭・広島・横浜・武蔵の各製作所を引き継いで資本金2億円の株式会社日本製鋼所が再出発する。1968年度の売上高517億円の内訳は、一般産業機械製品が43%の225億円、鋳鍛鋼品が30%の150億円、鋼板が21%の108億円、兵器が6%の30億円であった[14][15]。
戦後の伸びを支えたのは、製鉄を手放したあとに磨いた鋳鍛鋼の技術であった。室蘭製作所の大型鋳鍛鋼品は電力・鉄鋼・石油化学のプラント部品で独占的な強みを示し、広島や横浜の産業機械部門は合成樹脂加工機械や建設機械という新しい分野へ入っていく。原子炉圧力容器の部材で世界の8割以上を占める2000年代の姿も、鋼を鍛える一点に絞った事業構成の延長にある[16][17]。
- 日本製鋼所 有価証券報告書【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 証券アナリストジャーナル 1969年 小野達郎「日本製鋼所の現状と将来」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 週刊東洋経済 2010年11月17日号「特集 異形の百年企業 2 伝統と革新のバランス 顧客の要望に合わせて変身」