川崎重工業製鉄部門の分離独立と川崎製鉄の設立、造船・造機・電機3部門への集約

造船と製鉄を一つの財布で抱えるか、外へ出して追わせるか——企業再建整備計画がつきつけた問い

時期 1950年8月
意思決定者(推定) 川崎重工業 取締役会(合議制の新役員)・手塚敏雄 社長
論点 事業構成と復興資金の配分
概要
1950年8月、川崎重工業が企業再建整備計画に基づいて製鉄部門を分離し、資本金5億円の第二会社として川崎製鉄を設立した。本体は造船・造機・電機の3部門に事業を絞り、初代社長には西山弥太郎氏が就いた。
背景
終戦で軍需工場としての打撃を受けた本体は、賠償指定とドッジデフレのなかで事業の整理と縮小に追われていた。製鉄部門は薄鋼板で全国首位を占めながら銑鉄を外部から買う平炉メーカーにとどまり、広畑製鉄所の共同管理を求めた試みも実らなかった。
内容
新役員は合議制のもとで再建整備計画を立案し、川崎製鉄の分離設立と泉州工場の閉鎖を決めた。本体は1950年6月にいったん資本金6,000万円へ減資したのち5億6,000万円へ増資し、同年8月に手塚敏雄氏が5代社長に就任している。
含意
分離先の川崎製鉄は千葉製鉄所で銑鋼一貫に踏み切り、1968年には売上高で本体の倍以上に達した。造船に絞った本体は朝鮮戦争後のタンカーブームを取り込んだのち、1969年に川崎航空機工業・川崎車輛を吸収合併して総合重工業の形へ戻る。
筆者の見解

外へ出したから、追えたもの

1950年の製鉄部門は、薄鋼板と高級仕上鋼板で全国第1位を占めながら、銑鉄は外から買うしかない立場にあった。広畑製鉄所の共同管理を関西系メーカーとして求め、日本製鉄の巻き返しに遭って退けられた経緯を思えば、銑鉄まで自前で持つには造船と同じ財布のままでは足りなかったとみられる。分離は製鉄を切り捨てる処理ではなく、造船の資金繰りから解いた先で西山弥太郎氏に追わせる形をとった判断であったといえる。

ただ、分けたことで本体がすぐに強くなったわけではない。1968年の年間売上高は川崎製鉄の2,500億円以上に対し川崎重工業が約1,100億円で、外へ出した側が本体を追い越した。総合重工業の形を取り戻すのは、川崎航空機工業と川崎車輛を吸収合併する1969年を待つことになる。資金を配りきれないときに何を手放すかという判断は、手放した先が伸びるほど、残った側にとっての重さとして返ってくるとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

再建整備計画のもとで残されたもの

終戦により、軍需工場としての川崎重工業が受けた打撃は大きかった。1944年は労務・資材難に終始し、1945年3月以降は施設の被爆で事実上生産が止まった。戦後は荒廃と各種の制約のなかで事業の整理と縮小に入り、1946年12月に鋳谷正輔社長が辞任したのち、新役員は合議制のもとで企業再建整備計画の立案にあたった。造船・造機のほかに車両・航空機・製鉄を抱えた総合重工業の形を、限られた資金でどこまで支えるかが計画の中心にあった[1]

鉄鋼業の側の環境も定まらなかった。1945年12月のポーレー中間報告は年産250万トンを超える製鋼能力の全部を賠償の対象とし、翌年8月にはGHQが製鉄工場22工場を賠償対象に指定した。指定は1948年3月のストライク調査団報告で緩み、日本経済の自立のために優秀な工場を残す方向へ転じたが、1949年のドッジデフレで価格差補給金が全廃または大幅削減となり、各社は復興から合理化へ重点を移した[2]

銑鉄を持たない平炉メーカーという弱み

川崎重工業の製鉄部門は、造船用鋼材の自給のために設けた工場から育った。1924年には輸入に頼っていた薄鋼板の圧延製造に初めて成功し、鋼板を主力とする性格が定まる。1946年に年3万トンまで落ちた生産は1950年に年33万トンへ戻り、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位にとどまったが、薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めていた。造船の付属部門と呼べる規模ではなくなっていた[3]

それでも銑鉄は外から買うほかなかった。1947年3月にGHQの反トラスト課が日本製鉄の解体方針を示し、広畑製鉄所の帰属が宙に浮くと、川崎重工業は神戸製鋼・扶桑金属とともに関西系メーカーとして広畑の共同管理を主張した。日産1,000トンの高炉2基と鋼板設備を押さえ、銑鉄の安定した供給を確保するとともに、有力な競争相手となる設備を先に手中へ収める狙いであったが、日本製鉄側の巻き返しに遭って実らなかった[4]

決断

造船・造機・電機の3部門で再出発する

新役員がまとめた再建整備計画は、まず川崎製鉄を分離設立し、泉州工場を閉鎖して、造船部門で再出発するという内容であった。本体は1950年6月にいったん資本金6,000万円まで減らしたのち5億6,000万円へ増資し、同年8月に手塚敏雄氏が5代社長に就任している。1928年の川崎車輛、1937年の川崎航空機工業に続いて、製鉄が川崎の名を冠したまま外へ出た[5][6]

分離の理由は同時代の記録に残っている。膨張した製鉄部門が直接の関連性が少ない造船業と同じ総合経営の傘下にあることには種々の障害があり、それを取り除いて基幹産業としての健全な発達を図る、というものであった。1950年8月7日、第二会社として資本金5億円の川崎製鉄が創立され、初代社長には西山弥太郎氏が就任した。増資は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年に40億円と倍額を重ねている[7]

外へ出したあとに追われた構想

西山弥太郎氏が新会社で描いたのは、平炉メーカーからの脱却であった。主力の薄板は旧式のプルオーバーミルからストリップミルへ製造方式が移り始めており、川崎製鉄も新鋭のストリップミルを米国から輸入する計画を立てる。ただしこれを据えれば生産規模が飛躍的に拡大し、銑鉄を外部から買って平炉で鋼を作る限り供給面の不安は消えない。一貫製鉄所の建設という構想が出たのは1950年夏、分離とほぼ同じ時期である[8]

当時の相場観は、この構想に厳しかった。鉄鋼価格が国際的に割高な状態は改まらず、日本で銑鋼一貫の大製鉄所を経営するのは無理だという議論が業界に強まっていた。約330万平方メートルを要する工場用地も難題で、山口県光の軍工廠跡と徳山の旧燃料廠跡を調べていずれも不適とされ、千葉の話が持ち上がったのは土地探しが行き詰まってからであった。建設資金は、西山社長が先を見越して買い込んだ鉄クズの値上がり益が支えたと伝えられる[9]

結果

千葉の高炉と、造船に絞った本体

川崎製鉄は1951年2月、千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫工場の建設に着手した。1953年6月に第一溶鉱炉へ火入れし、1954年9月には700トン高炉1基・100トン平炉3基・コークス炉・分塊圧延機からなる第一期工事を終えて、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移った。のちに同社は、この千葉製鉄所の建設が戦後の日本鉄鋼業の合理化を促した導火線であったと記している[10][11]

造船に絞った本体も、朝鮮戦争の前後に生じたタンカーブームに間に合った。1952年7月の業界誌は川崎重工業を新造船能力で全国第3位、設備・技術ともに一流と評し、2万トン級タンカーの受注により大型船台が1年はフル操業になると伝えている。1953年には1万7,000トン浮船渠を完成させ、スイス各社との技術提携で発電用水車タービンと発電機にも手を伸ばした[12][13]

同じ一冊が並べた1968年の姿

分離から18年後を同じ一冊で見ると、大小は入れ替わっていた。1968年刊の企業史書籍が伝える川崎製鉄は資本金669億3,750万円・従業員33,597名で、年間売上高は2,500億円以上、千葉に続いて水島製鉄所の銑鋼一貫体制も動き始めていた。同じ本に並ぶ川崎重工業は資本金180億2,400万円・従業員14,709名、年間売上高は約1,100億円である[14][15]

本体は本体で、外へ出した事業を再び束ね直す道を選んだ。1969年4月に川崎航空機工業と川崎車輛を吸収合併し、陸海空にわたる総合重工業へ戻っている。一方の川崎製鉄は2002年9月、日本鋼管と共同の株式移転で完全親会社のJFEホールディングスを設立し、川崎重工業の外で50年余を過ごしたのち、別の持株会社の一部となった[16][17]

出典・参考

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