飯野海運海運集約での定期航路部門の譲渡とタンカー専業体制への転換

6中核体に加わるか、定航を手放して液体貨物に残るか——飯野海運が選んだ道

時期 1964年3月
意思決定者(推定) 飯野海運 取締役会
論点 業界再編への対応と事業構成
概要
1964年3月、運輸省が主導した海運集約に応じ、飯野海運は定期航路部門を切り離して新たに設立した飯野汽船株式会社へ譲渡した。飯野汽船は同年4月に川崎汽船と合併し、飯野海運はタンカーと不定期貨物船を主力とする会社として残った。
背景
戦後の飯野海運はバンコク・ニューヨーク・西豪州・ナホトカ・カナダ五大湖と定期航路を広げる一方、大型タンカーやガス船も抱えていた。海運集約は乱立した邦船社を6つの中核体へまとめる政策で、各社は事業の整理を迫られた。
内容
定航部門を新設会社へ移して川崎汽船に合流させ、同時に減資と第三者割当増資で資本金を33億円から43億円へ組み替えた。以後の主力は原油タンカー・LPG船・不定期貨物船となり、コンテナ化が進む定航市場からは退いた。
含意
規模の拡大を捨てて船種を選ぶ判断であった。代償として川崎汽船に株式の50%を握られたが、持株比率は33%、10%、5.8%と下げられ、独立系船社という立ち位置が同社の自己認識となった。
筆者の見解

降りた市場と、残った市場

海運集約という制度は、船社に「どの規模の会社になるか」を問うものであった。飯野海運の答えは、規模を追わずに市場を選ぶというものであった。定期航路は、貨物を集める営業網と船腹の量がそのまま競争力になる事業であり、中堅の資本で中核6社に伍していく見通しは立ちにくい。定航を渡してタンカーと不定期船に残った判断は、勝てる場所を先に見極めた選択であったとみることができる。

ただし、その選択は無傷では済まなかった。譲渡の代償として株式の半分を渡し、独立を取り戻すのに40年近くを要している。2003年に外資が筆頭株主へ現れた場面では、規模を持たない独立系であることが、そのまま買収されやすさとして現れた。何を手放し、その結果どんな立場に置かれるのか——1964年の決断は、事業の選択が資本の構造まで規定することを示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

定期航路と液体貨物を同時に広げた戦後

戦後の飯野海運は、定期航路網を年ごとに増やしていった。1951年にバンコク、インド・パキスタン、ニューヨークの各航路を開き、1957年に西豪州、1958年にナホトカと北米・東南アフリカ三国間、1960年にはカナダ・五大湖の定期航路を加えた。航路の数だけを見れば、戦前の外航タンカー専業からかなり離れた総合船社の様相を帯びていた[1]

もう一方で、液体貨物の船種も増えていた。1950年に戦後初の大型タンカー隆邦丸を竣工させ、1960年には本邦初の加圧式内航ガス船である桃邦丸、1963年にはグループ初の外航LPG船となる豊洲丸を就航させている。同じ1963年には千代田石油を設立して石油小売業にも入った。さらに1955年には千代田土地建物を買い取り、1960年10月に内幸町の飯野ビルを竣工させて本社を移している。定期航路、液体貨物、不動産という性格の違う事業を、中堅の資本で同時に伸ばす状態にあった[2][3]

6中核体に集約するという政策

1960年代前半、日本の海運業は戦後に乱立した会社を整理する政策の対象となった。運輸省が主導した海運集約は、邦船社を6つの中核体へまとめる枠組みで、日本郵船、大阪商船三井船舶、川崎汽船、ジャパンライン、山下新日本汽船、昭和海運の6グループへ業界が再編された。中核体に加わる各社は、事業と船腹を寄せ合って規模を作ることを求められた[4]

飯野海運は、中核体を形づくる側には立たなかった。当時すでにコンテナ船の時代が目前に迫っており、定期航路で世界市場を取りに行くには、コンテナ化に耐える船腹を自前で抱える必要がある。中堅規模の同社にその展望はなかった。定航を持ち続ければ中核6社とのコンテナ化競争に巻き込まれ、船種を絞れば競争の場そのものを変えられる。集約政策は、その選択を先送りできない条件を突きつけた。加えて同社は1955年に取得した不動産と、外航LPG船・内航ガス船という液体貨物の船種を手元に持っており、定航を離れても残る事業の輪郭は見えていた[5]

決断

定航部門を切り離して川崎汽船へ渡す

1964年3月、飯野海運は定期航路部門を分離し、新たに設立した飯野汽船株式会社へ譲渡した。飯野汽船は同年4月に川崎汽船と合併し、飯野海運が戦後13年かけて開いてきた航路網は川崎汽船の定航網に組み込まれた。川崎汽船の沿革は「1964年4月、海運集約により飯野海運の子会社であった飯野汽船と合併した」と記す。譲渡された側にとっては中核体の船隊が厚みを増した合併であった[6][7]

資本の側も同時に組み替えられた。飯野海運は1964年に減資して資本金を33億円としたうえで、有償第三者割当増資により43億円へ積み直している。事業の一部を渡し、身軽になった会社に新しい資本を入れる手順であった。公式の沿革はこの年の項を「以来、タンカー・不定期貨物船経営を主力とする」と締めており、譲渡が事業構成の分かれ目であったことを同社自身が記録している[8]

規模を捨てて市場を選ぶ

定航部門の譲渡は、売上規模の縮小をそのまま受け入れる決断であった。中核6社が定期航路とコンテナで世界市場を取りに行く一方、飯野海運は原油タンカー、LPG船、不定期貨物船という定航とは別の市場に残った。船社としての規模の順位では6社の下に置かれるが、運ぶ貨物がコンテナと競合しないため、定航市況が崩れたときに巻き込まれる度合いは小さくなる[9]

代償もあった。官主導の再編に応じた結果、飯野海運の株式は50%を川崎汽船に握られた。系列に組み込まれた会社が自力で持株比率を下げるには、増資と株主構成の入れ替えを重ねる年月がかかる。1964年の譲渡は、事業を選び直すと同時に、資本の独立をあらためて課題として抱え込む取引でもあった[10]

結果

資本の独立を取り戻すまでの40年

川崎汽船の持株比率は、その後33%、10%と下がり、2003年初めには5.8%になっていた。1986年12月の有償第三者割当増資で資本金は78億円、1990年3月の有償株主割当増資で107億円へ増え、資本の厚みと株主構成が入れ替わっていった。週刊東洋経済は2003年の記事で、この持株比率の引き下げこそが「飯野海運の歴史であり、アイデンティティである」と書いている。同じ記事は当時の飯野海運を、売上高600億円ほどの中堅ながらケミカル船・ガスタンカーを中心とする船隊構成と不動産の2本柱で、財務内容と収益力に定評のある会社として紹介している[11][12][13]

独立系という立ち位置は、同社の対外的な説明の軸にもなった。2003年に香港の海運資本が筆頭株主へ躍り出た際、杉本勝之常務は「私どもは独立系であることが評価されている。一人でやれるならやりたい」と述べている。財閥系の傘下に入る再編話に乗らない姿を、40年前に定航を手放して得た立場と結びつけて語る言い方であった[14]

液体貨物と特殊バルクで組み直した60年

定航を離れた飯野海運は、運ぶ貨物の種類を増やす方向で船隊を組み直した。1979年にケミカルタンカーESPOIRの傭船を始め、1985年にはサウディ基礎産業公社(SABIC)と中東積み・極東向け石油化学製品の数量輸送契約を結び、1989年のLODESTAR ACE竣工でケミカルタンカーの自主運航を本格化させた。荷主との長期契約で稼ぐ船種が、市況一本で振れる原油タンカーの隣に据えられた[15]

業績の規模も、定航を手放した時点から戻していった。単体の売上高は1970年3月期の118億円から1985年3月期には433億円へ増えている。もっとも、この間の経常利益は1979年3月期に1億円、1984年3月期に3億円と薄く、オイルショック後の原油タンカー市況の落ち込みが収益を圧迫した。定航から降りたことは市況の振れそのものを消しはせず、船種の組み替えを重ねる課題は残った。それでも長い目で見れば、選んだ市場は成果を返した。ガス船とケミカル船を主力とする体制のもとで、2024年3月期の連結経常利益は218億円と過去最高になり、売上高は1,380億円に達している[16][17]

出典・参考
  • 飯野海運 公式サイト「社史(1899年〜1964年)」(https://www.iino.co.jp/kaiun/company/history_1964.html)
  • 飯野海運 公式サイト「社史」(https://www.iino.co.jp/kaiun/company/history_1991.html)
  • 川崎汽船 公式サイト「沿革」(https://www.kline.co.jp/ja/corporate/profile/history.html)
  • 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
  • 飯野海運 有価証券報告書(2024年3月期・連結)
  • 週刊東洋経済 2003年2月8日号「狙われた優等生・飯野海運 香港華僑が『海運』を喰う!」
  • 会社年鑑(飯野海運 単体業績)

免責事項およびポリシー