1919年4月、川崎造船所(現川崎重工業)は保有する汽船11隻を現物出資し、資本金2000万円で川崎汽船を設立した。第一次世界大戦中の船舶需要に乗じて造船所が建造した船が、終戦による海運市況の急落で余剰となったことが直接の契機である。1921年5月、川崎造船所・國際汽船との3社提携で『Kライン』を結成し、以後100年にわたり使われるブランドが生まれた。1927年に國際汽船が経営悪化で離脱した後はKラインを単独運航とし、川崎汽船の代名詞となった。本社は神戸市に置き、神戸港を拠点に外航航路の開拓を行った。造船所系資本の海運会社という特異な出自が、その後の独立経営に向かう足取りを形づくった。 [1][2][3]
戦時中は1942年に設立された特殊法人『船舶運営会』のもとで船舶を徴用され、民間海運としての自主運航は停止された。戦後復興の象徴的な出来事として、空爆で座礁していた聖川丸を引き揚げた。のちに川崎汽船関係者は『この船とともに、川汽も伸びようぜ』[引用元]『聖川丸は1965年まで活躍し、わが社発展の礎となった。だから聖川丸の引き揚げが川崎汽船と私自身の転機となったことは確かであり、あの"大宴会"の光景は今でもまぶたの内に焼き付いている』[引用元]と振り返っている。1950年に海運の民営還元が実施されると、外航第一船がバンコク向けに就航し、同年に東京・大阪・名古屋の証券市場に上場した。川崎重工業との資本関係は戦後の財閥解体を経て解消され、独立した海運会社として再出発した。 [4][5][6]
1960年代、日本の海運業界は6年に及ぶ不況の末、政府主導の企業集約政策に直面した。読売新聞は1958年、上場各社23社が無配に転落したと伝え(読売新聞 1958/06/24)、1965年には海員ストに突入した船員側も『このたびのストは物価急上昇の折から船員の生活を守り、海上労働にふさわしい賃金を確立するため、やむおえず、行うもの』[引用元](読売新聞 1965/11/27)と業界の苦境を映した。1964年、海運業の再建整備に関する臨時措置法に基づき川崎汽船は飯野汽船を吸収合併し、6大グループの一角として船隊を拡大した。同時期、海運各社は不定期船から専用船への転換を進めており、川崎汽船も1957年の油槽船富士川丸を皮切りに、鉱石・石炭など船種ごとの専用船隊を整えた。1966年には内航部門を分離して川崎近海汽船を設立し、外航海運に経営資源を集中させる体制をとった。 [7][8][9][10][11]
1968年にフルコンテナ船ごうるでんげいとぶりっじを竣工し、コンテナ革命に参入した。同年に自動車ばら積み兼用船『第一とよた丸』(1250台積)も竣工し、トヨタとの自動車輸送が始まった。当時社長の服部元三はコンテナ化の戦略的意味をこう説いている。「これは相当金のかかるものであり、しかもコンテナーを何千と用意しなければならないので、船会社にとっては相当設備投資費がかさみますが、これは一つの時代の流れでございまして、そういうサービスをしないと、定期船関係はだんだん脱落していく時勢になってきつつあるわけです」(経済時代 1968/05)。1968年は川崎汽船の事業構造を決定づけた年であり、コンテナ船と自動車船という、半世紀にわたり収益の柱となる2つの事業が同時に立ち上がった。 [12][13][14]
1970年7月、自動車だけを積載する専用船第十とよた丸(2070台積)が竣工した。川崎汽船はこの船型をPure Car Carrier(PCC)と命名した。それまでの自動車の海上輸送は貨物船の船倉にばら積みするか、専用でない船に仮設の棚を設置する方法が主流で、輸送中の損傷が課題だった。自動車だけを積む専用設計の船は積み下ろしの効率と輸送品質を高め、PCCという用語は世界の海運業界で共通言語となった。日本の自動車輸出が拡大する1970年代に自動車専用船の需要は一段と伸び、川崎汽船は先行者として大量の船隊を投入した。同じ1970年7月の読売新聞に載った川崎汽船首脳の談話は、日本航空が発注したジャンボジェットについて、高価ではあるが3年半から4年で償却できるほど回転が速いとみて、高価で軽量な荷物は相当が航空機にとられると述べていた。重量物の海上輸送に主戦場を置く立場が、そこに表れている。 [15][16]
1972年には米国ロングビーチ港に初の海外自営コンテナターミナルを完成させ、北米航路の自営オペレーション体制を整えた。1983年には邦船社として初めてLNG運搬船『尾州丸』を竣工させた。液化天然ガスの海上輸送は極低温管理の技術力と長期契約を前提とする事業であり、コンテナ船・自動車船に次ぐ第3の柱が加わった。1980年代後半、業界からは『川崎汽船。潰れるんじゃない?』[引用元]『三光汽船を上回る戦後最大の倒産になるかもしれない』[引用元]との声が出るほど業績は揺れた。松成博茂社長は『綿密な計算に基づいて北米航路に投資しており、勝算は十分にあった』[引用元]『何もしなければジャパンラインのようになっていた』[引用元](日経ビジネス 1989/07/17)と語った。中長期契約と専用設計の船舶群という事業モデルが、以後の競争力の源泉となった。 [17][18][19][20]
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|---|---|---|---|---|
| 1919〜1982年造船所の出資から始まった外航海運会社としての出発 | 川崎造船所の現物出資により川崎汽船設立 | ★★ | ||
| 川崎造船所らと國際汽船設立 | ★ | |||
| Kラインを結成 | ★ | |||
| Kラインが川崎汽船の単独運航に | ★ | |||
| 船舶運営会に指定 | ★ | |||
| 座礁した聖川丸を引き揚げ | ★ | |||
| 服部元三 | 証券市場に株式を上場 | ★ | ||
| 服部元三 | 海運の民営還元 | ★ | ||
| 服部元三 | バンコク定期航路開設 | ★ | ||
| 服部元三 | 興国汽船を吸収合併 | ★ | ||
| 服部元三 | 油槽船富士川丸竣工 | ★ | ||
| 服部元三 | 鉱石専用船富久川丸竣工 | ★ | ||
| 服部元三 | 飯野汽船を吸収合併 | ★★ | ||
| 服部元三 | 川崎近海汽船を設立 | ★ | ||
| 服部元三 | 初のフルコンテナ船竣工 | ★★ | ||
| 服部元三 | 自動車ばら積み兼用船竣工 | ★★ | ||
| 足立護 | フルコンテナ船の投入と、世界初の自動車専用船(PCC)の実用化 1968年10月に初のフルコンテナ船『ごうるでんげいとぶりっじ』を、同年11月に自動車ばら積み兼用船『第一とよた丸』を、1970年7月に自動車だけを積む『第十とよた丸』を竣工させた経営判断。川崎汽船は最後の船型をPure Car Carrier(PCC)と名づけ、コンテナ化への対応と自動車専用船の実用化を同じ数年のうちに進めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 足立護 | ロングビーチ港に初の海外自営コンテナターミナル完成 | ★ | ||
| 足立護 | LPG船さんりばー竣工 | ★ | ||
| 熊谷清 | 本社機能を移転 | ★ | ||
| 1983〜2018年コンテナ船事業の膨張と1394億円の損失連鎖が続いた35年間 | 熊谷清 | 邦船初のLNG運搬船竣工 | ★★ | |
| 伊藤潔 | 北米定期航路への1,200億円の集中投資と、邦船6社共同運航体制からの離脱 1985年から3年間で資本金の4倍を上回る1,200億円を北米定期航路に投じ、1986年3月に邦船6社の共同運航体制から離れて翌4月に単独運航へ移った経営判断。多角化に資金を回さず、大型コンテナ船と自動車運搬船の新造、ロングビーチ港の自営ターミナル、米国内の鉄道・トラック輸送を一体で整えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 新谷功 | ケイラインシップマネージメント設立 | ★ | ||
| 崎長保英 | 太洋海運を完全子会社化 | ★ | ||
| 崎長保英 | 欧州近海完成車輸送を完全自営化 | ★ | ||
| 前川弘幸 | 前川弘幸氏が社長に就任 | ★ | ||
| 前川弘幸 | 初の営業赤字 | ★★ | ||
| 前川弘幸 | 初の純損失 | ★ | ||
| 前川弘幸 | 黒谷研一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 村上英三 | コンテナ船損失で過去最大の赤字 | ★★ | ||
| 村上英三 | コンテナ船事業のONEへの切り出しと、50年続けた自社運航の終了 2016年10月、川崎汽船が日本郵船・商船三井とコンテナ船・海外ターミナル事業を統合すると発表した経営判断。3社が出資する新会社Ocean Network Express(ONE)を2017年7月にシンガポールで設立し、2018年4月に営業を開始した。1968年のフルコンテナ船就航から50年続けたコンテナ船の自社運航は、ここで終わった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 村上英三 | ONE営業開始 | ★★ | ||
| 2019〜2023年海運専業路線への原点回帰と財務基盤の劇的な再構築 | 明珍幸一 | 非海運多角化の見送りと、自動車船・LNG船・鉄鋼原料輸送への集中投資 コンテナ船事業を切り出したあとの川崎汽船が、物流・不動産などの非海運事業へ広げる道をとらず、自ら船を持って運航する自営事業に投資を集中させた経営判断。2019年4月に社長となった明珍幸一氏は、自動車船・LNG船・鉄鋼原料輸送船を自営事業の3本柱に据え、多角化より海運集中で収益を伸ばせるとの立場をとった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 明珍幸一 | 筆頭株主エフィッシモの長期大量保有の受け入れと社外取締役の招請 2019年4月26日、川崎汽船が、株式の38.99%を持つ筆頭株主で投資ファンドのエフィッシモ・キャピタル・マネジメントから社外取締役を受け入れると発表した経営判断。同ファンドが推す内田龍平氏を社外の非業務執行取締役候補に選定し、6月21日の定時株主総会で選任した。エフィッシモは同日に株式の保有目的を純投資へ切り替えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 明珍幸一 | ONE利益により過去最高益 | ★ | ||
| 明珍幸一 | 川崎近海汽船を完全子会社化 | ★ | ||
| 五十嵐武宣 | 指名委員会等設置会社に移行 | ★ | ||
| 五十嵐武宣 | 五十嵐武宣氏が社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(川崎汽船)