川崎汽船北米定期航路への1,200億円の集中投資と、邦船6社共同運航体制からの離脱

合併で生き残るか、本業への投資で残るか——倒産が噂された海運3位が資本金の4倍を投じた航路

時期 1986年4月
意思決定者(推定) 伊藤潔・松成博茂 川崎汽船 社長(1985〜1988年)・川崎汽船 専務、のち社長
論点 北米定期航路への集中投資と業界序列
概要
1985年から3年間で資本金の4倍を上回る1,200億円を北米定期航路に投じ、1986年3月に邦船6社の共同運航体制から離れて翌4月に単独運航へ移った経営判断。多角化に資金を回さず、大型コンテナ船と自動車運搬船の新造、ロングビーチ港の自営ターミナル、米国内の鉄道・トラック輸送を一体で整えた。
背景
北米定期航路は日本・アジアと米国を結ぶ区間に30社がひしめく過当競争にあり、運べば運ぶほど赤字が増える運賃水準が続いていた。川崎汽船はこの航路だけで年間150億円近い赤字を出し、1984年3月期に無配へ転落した。1988年には「三光汽船を上回る戦後最大の倒産になるかもしれない」との声が業界に流れた。
内容
1985年6月の運輸省海運造船合理化審議会の答申で6社共同運航から自由配船へ移る道が開き、川崎汽船が最初に単独運航へ動いた。20隻の大型船を建造して30隻を超える旧型船を処分し、船価が下がった不況期をあえて選んで発注した。松成博茂社長は「綿密な計算に基づいて北米航路に投資しており、勝算は十分にあった」と語った。
含意
1989年3月期の経常損益は17億円の黒字へ転じ、北米航路の収益も改善した。ただし定期航路部門の赤字は1990年代前半に戻り、1993年には商船三井との合併観測が新聞に出た。2001年に新谷功会長は当時を「川崎汽船はつぶれるか吸収合併しか生き残る道はない」と振り返っている。
筆者の見解

資産を売って船を買った会社

資産の半分近くを売って船を買った、という一点にこの判断の性格が表れている。含み資産は日本郵船の1兆円以上に対して1,000億円そこそこで、資産を運用して時間を稼ぐ道は細かった。残った手は、赤字を出している航路そのものに資本金の4倍を投じ、船価が下がった不況期に1隻50億円で大型コンテナ船を揃えることであったとみられる。倒産の噂も合併観測も外からの見立てにすぎず、当事者の側では5年後に船を海外子会社へ売る段取りまで計算に入っていた。

ただ、この投資が変えたのは北米での位置であって、定期船で稼ぐという体質ではなかった。1989年3月期の17億円の黒字は数年で消え、1994年3月期には再び経常赤字に沈み、新谷功社長は売上高の52%を占める定期航路部門の赤字解消を最大の課題に据え直している。会社は残り、コンテナ船を自ら運航する体制は2018年まで続いた。それでも「つぶれるか吸収合併しか生き残る道はない」と言われた条件は、規模の差として長く残ったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

運べば運ぶほど赤字が増える航路

1980年代半ばの北米定期航路には30社がひしめき、業界関係者はこれを「魔の航路」と呼んでいた。荷物を運べば運ぶほど赤字が増える運賃水準が続き、1986年度にはこの航路だけで日本郵船・大阪商船三井船舶・川崎汽船など定期航路6社の赤字が合計700億円に達した。100年の歴史を持つ米USラインズが1987年3月に倒産した背景にも、この航路の出血があった[1]

川崎汽船はこの航路だけで1年間に150億円近い赤字を出し、1984年3月期には無配へ転落した。1987年3月期の経常損益は63億円の赤字で、生きるか死ぬかの瀬戸際という評価が金融機関からも出ていた。1988年の時点では業界内に「川崎汽船。潰れるんじゃない?」「三光汽船を上回る戦後最大の倒産になるかもしれない」という会話があり、根も葉もない噂ではなかった[2]

6社協調のなかで固定された3位という位置

北米定期航路は1985年6月まで、邦船中核6社が共同運航の体制をとっていた。この仕組みでは各社のシェアが決まってしまい、川崎汽船は日本郵船・大阪商船三井船舶に次ぐ3位から動けなかった。上位へ出るどころか、じり貧に向かう懸念もあった。同年6月の運輸省海運造船合理化審議会の答申が規制緩和と自由競争を打ち出し、各社が自由に船を配せる余地が生まれた[3]

体力の差も明らかであった。1989年3月期の売上高は3,000億円で日本郵船の4,200億円と大きな開きはなかったが、営業利益は約70億円と同社の約190億円に及ばず、金融収支は110億円の赤字であった。含み資産も日本郵船の1兆円以上に対して1,000億円そこそこで、資産を売って稼ぐ道は最初から狭かった。使える手は本業の航路そのものに限られていた[4]

決断

共同運航から離れ、単独運航へ

答申が出ると、川崎汽船が真っ先に6社共同運航から飛び出した。1986年3月に6社体制を離れて大阪商船三井船舶との共同運航に移り、翌4月には邦船で最初に北米航路の単独運航へ踏み切った。赤字路線の競争を激化させる動きであり、同業他社が好ましく思うはずはなく、業界内では「業界の異端児」「やんちゃな三男坊」と呼ぶ声が出た[5]

松成博茂社長は、この選択を協調の否定として説明した。他社との共同運航ではもたれ合いになって顧客へのサービスが低下し、企業の独自性も打ち出せない。企業の原点は競争ではないのかと反論している。同時に、規制と協調の外へ出なければ待つ結末についても、何もしなければジャパンラインのようになっていたと述べていた[6]

不況期をあえて選んだ1,200億円

投資の規模は資本金の4倍を上回る1,200億円で、1985年から3年間、北米航路の強化に集中して投じられた。大型新鋭船への置き換え、コンテナターミナルや鉄道を含めた一貫輸送体制の整備を同時に進め、3〜4年で自動車運搬船8隻と大型コンテナ船12隻を新造した。資産の半分近くを売却してまで賄った設備投資であり、多角化には資金を回していない[7]

発注の時期も選んでいた。不況で船価が下がっており、4〜5万トン級の大型コンテナ船を当時の5割近く安い1隻50億円ほどで建造できた。計画造船で建造した船を5年後に海外子会社へ売って外国人船員を乗せることも、20隻の計画段階で決めていた。松成社長は博打という評に対し、綿密な計算に基づいて投資しており勝算は十分にあったと語っている[8]

結果

17億円の黒字と、北米に築いた足場

1989年3月期の経常損益は17億円の黒字となり、同年の4月と5月も好調で、累積損失を年内に一掃できそうだと松成社長は述べていた。北米定期航路の収益は大幅に改善し、日本郵船の岩松重裕副会長は、航路の霧がはれてきたらいつのまにか川崎汽船が1歩も2歩も先を進んでいたと評価した。同年6月21日、松成社長は日本船主協会の会長に就いた[9]

北米で先に築いた設備は、船以外の収益にもつながった。ロサンゼルス南のロングビーチには10年以上前から全額出資の現地会社で自前の港を持ち、コンテナ船から米国の大陸横断鉄道へ直接積み替えられるようにしていた。1988年には小口貨物の輸送サービスを始め、この自前の港と2階建てのコンテナ専用列車を使って、日本から米国内の目的地まで2週間強で運ぶ仕組みを組み上げた[10]

1990年代に戻ってきた定期船の赤字

黒字転換は長く続かなかった。円高と運賃の低迷で定期航路部門の採算は再び崩れ、1994年3月期の経常損益は19億円の赤字となった。1993年12月には大阪商船三井船舶との合併観測が新聞に出て、規模の劣勢という条件は投資のあとにも残っていた。1,200億円の投資は北米での位置を確保したが、定期船で稼ぐ体質そのものを変えるところまでは届いていない[11][12]

1994年6月に社長となった新谷功氏は、売上高の52%を占める定期航路部門の赤字解消を最大の課題に挙げ、労務コストの低い外国人船員の比率をさらに高め、本社機能の海外移転も検討課題になると述べた。苦い水を飲んでもらう時が来るかもしれないと社員に伝えつつ、世界のトップ10に入ろうと呼びかけている。会長となった新谷氏は後年、当時の川崎汽船が「つぶれるか吸収合併しか生き残る道はない」と言われていたと振り返っている[13][14]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年7月17日号「本業に徹して攻める 北米航路足場に飛躍はかる異端児」
  • 日経ビジネス 1992年1月27日号「将来の大口顧客発掘へ小口貨物サービス拡充」
  • 日経ビジネス 1994年7月25日号「新社長登場 新谷功氏[川崎汽船]世界のトップ10で生き残る」
  • 日経産業新聞(1993年12月14日)
  • 日本経済新聞(2001年6月18日)「人間発見 川崎汽船会長 新谷功氏」
  • 川崎汽船 会社年鑑(単独業績)

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