資産の半分近くを売って船を買った、という一点にこの判断の性格が表れている。含み資産は日本郵船の1兆円以上に対して1,000億円そこそこで、資産を運用して時間を稼ぐ余地は小さかった。残った手は、赤字を計上している航路そのものに資本金の4倍を投じ、船価が下がった不況期に1隻50億円で大型コンテナ船を揃えることであっただろう。倒産の噂も合併観測も外からの見立てにすぎず、当事者では5年後に船を海外子会社へ売る段取りまで計算に入っていた。
ただ、この投資が変えたのは北米での位置であって、定期船で稼ぐという体質ではなかった。1989年3月期の17億円の黒字は数年で消え、1994年3月期には再び経常赤字を計上し、新谷功社長は売上高の52%を占める定期航路部門の赤字解消を最大の課題に据え直している。会社は残り、コンテナ船を自ら運航する体制は2018年まで続いた。それでも、日本郵船・大阪商船三井船舶に次ぐ3位という規模の差は長く残ったといえる。