萩原吉太郎氏の診断は正しかった。1955年の時点で燃料革命を見抜き、長期契約で時間を買い、石炭化学に資金を投じた一連の手当ては、斜陽産業の経営者として講じうる対策を講じた記録である。1959年には欧米4か国を回って各国の石炭政策を調べ、帰国後ただちに運賃補助を中核とする意見書を政府へ出したが実現せず、翌年に西独が同じ政策を採った。政府は頼むに足らずという一文が、その落胆を残している。国にも業界にも頼れないという結論が、自社の資源に経営資源を集中する判断を用意した。
誤りは方向にではなく、退路の設計にあった。夕張新炭鉱は外れれば会社が立ち行かなくなる規模の投資で、出炭の4年前に債務超過に陥っている。1975年11月の幌内ガス爆発で24人、1981年の夕張新鉱ガス突出で93人が亡くなり、それぞれ200億円の負担が重なった。306億円の新鉱は一度も採算を確保できないまま1982年に閉じている。政策も融資も資源評価も後押ししたが、斜陽を最も早く見抜いた会社が最も遅くまで国内炭に賭け続けた。