北海道炭礦汽船石炭の斜陽を15年前に予言した会社が、夕張新炭鉱に社運を賭けた判断

燃料革命を1955年に見抜いていた萩原吉太郎氏は、なぜ1970年に国内炭へ306億円を投じたのか

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時期 1969年
意思決定者(推定) 萩原吉太郎 北海道炭礦汽船 社長(1955年7月〜1972年、のち会長)
論点 国の石炭政策に沿った高能率鉱の新設か、脱石炭への資源振り向けか
概要
1969年に構想を打ち出し、1970年秋に着工した夕張新炭鉱への投資判断。国の第1次石炭政策が掲げたスクラップ・アンド・ビルドに沿い、海抜下600メートルの深部から高品位の原料炭を掘る高能率鉱を建てる計画で、当初160億円と見込んだ開発費は306億円に膨らんだ。
背景
萩原吉太郎社長は1955年の就任直後に「燃料革命」を予言し、石炭が斜陽産業になると公言していた。長期契約で10年の猶予を買い、石炭化学研究所を設けて脱石炭を試みたが事業化には至らず、1965年に研究所は廃止された。手元に残ったのは、鉄鋼用原料炭として評価の高い夕張炭という資産だった。
内容
地表から800メートル以上深い炭層を一気に採炭する構想は世界にも例が少なく、鉱員1人当たり月産90トンは全国平均71.8トンを引き離す計画だった。経済埋蔵量8,100万トン、年産150万トンで54年分。新日本製鉄・日本鋼管・東京瓦斯が開発資金を融資し、鉱員の住まいも鉄筋の3DKに改めた。
含意
斜坑の異常湧水で出炭は2年近く遅れ、出炭を待たずに1971年に債務超過へ転落した。1975年6月に営業出炭を開始したものの生産性は上がらず、1981年のガス突出事故で93人が死亡、翌1982年に一度も採算に乗せないまま閉山した。
筆者の見解

正しく読んだ者が、正しく賭けられなかった

萩原吉太郎氏の診断は正しかった。1955年の時点で燃料革命を見抜き、長期契約で時間を買い、石炭化学に資金を投じた一連の手当ては、斜陽産業の経営者として打てる手を打った記録である。1959年には欧米4か国を回って各国の石炭政策を調べ、帰国後ただちに運賃補助を柱とする意見書を政府へ出してもいる。それでも実現せず、翌年に西独が同じ政策を採った。「政府たのむに足らず」という一文が、その落胆を残している。国にも業界にも頼れないという結論が、自社の資源に賭ける判断を用意した。

誤りは方向にではなく、退路の設計にあった。夕張新炭鉱は、当たれば会社を救い、外れれば会社が立ち行かなくなる規模の投資だった。実際、出炭の4年前に債務超過へ落ち、そこから撤退することも続けることも等しく苦しい位置に会社は入っている。1975年11月の幌内ガス爆発で24人が、1981年の夕張新鉱ガス突出で93人が亡くなり、それぞれ200億円の負担が重なった。306億円の新鉱は、一度も採算に乗せられないまま1982年に閉じている。斜陽を最も早く見抜いた会社が、最も遅くまで国内炭に賭け続けた。

後年の社長は、この賭けの責任を国ではなく経営の側に置いている。野々村郁雄氏は「要するに脱石炭を早くからどう進めたか、なのです。国がどうのこうの、というのじゃない」と述べ、そのうえで「夕張新炭鉱の開発にしても、萩原氏が前面に立ったのは確かかもしれません。が、責任は経営陣全員が負うべきものでしょう」と結んでいる。政策も、需要家の融資も、資源の評価も、賭けを後押しした。だが賭けたのは会社である。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

斜陽を15年前に見抜いていた社長

萩原吉太郎氏は、石炭が斜陽産業になることを誰よりも早く口にした経営者である。1955年7月に社長へ就いた直後、石炭界が上向いていた時期に、萩原氏は逆の見立てを述べた。「世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる。どんどん重油に食われていくだろう。これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ」。1970年の決断を評価するとき、この一言が前提になる。北炭は斜陽化を知らずに国内炭へ賭けたのではない。知ったうえで賭けた[1]

見立てに対する手当ても打っている。萩原氏はまず10年の猶予を買った。東京瓦斯と富士製鉄をはじめとする需要家と長期契約を結び、値上がり益を放棄して数量の確実性を取った。業界はこれを「しろうとは困ったものだ。これから上がろうというときに、みずから炭価を押えるようなことをするなんて、まるで気違いざただ」と酷評した。市況が上がると信じる者には愚策に映る。だが斜陽産業の側にいると認めるなら、順序は逆になる[2]

買った10年で答えが出なかった脱石炭

猶予のあいだに何をするか。萩原氏の答えは石炭化学だった。石炭を燃料ではなく化学原料として使う道を開くという構想で、医師の武見太郎氏を介して亀山直人氏に持ち込んだ。亀山氏は「石炭から直接化学原料をつくろうという行き方は現在の日本学界の力をもってしては困難だ。現に世界のどこでもやっていないじゃないか」と一度は断っている。萩原氏は「もし事業化に失敗しても、少なくとも学問の進歩に役立ち、おのれを知るに役立つ」と食い下がり、1956年10月に研究室を発足させた[3][4]

結果は出なかった。研究所は所員250人を擁して石炭液化や酸化分解に取り組んだが、油と石炭の価格差が開く一方の時代にあって事業化には届かない。1965年、北炭は研究所を廃止し、腐植酸アンモニア肥料「フミゾール」と脱臭剤「エスタン」を持たせて北炭化成工業として分離した。買った10年が終わり、脱石炭の答えは出ないまま、手元には鉄鋼用原料炭として評価の高い夕張炭だけが残った。1970年の決断は、この手詰まりの先にある[5]

決断

政策・需要家・資源評価という三つの後押し

1963年の第1次石炭政策は、老朽鉱を潰して高能率鉱を建てるスクラップ・アンド・ビルドを掲げていた。北炭はこの方針に忠実だった。1969年に夕張新炭鉱の開発構想を打ち出し、翌1970年秋に着工している。決断を支えた条件は三つある。国が政策として高能率鉱の建設を求めたこと。夕張炭が鉄鋼用原料炭として理想的な品質を持ち、新日本製鉄・日本鋼管・東京瓦斯が開発資金を融資したこと。そして学界の評価である[6][7]

三つの後押しは、いずれも外から与えられたものだった。政策は通産省が、資金は高炉各社と東京瓦斯が、資源評価は学界が用意している。北炭が自前で持っていたのは炭層そのものだけで、それを掘る意思決定だけが自社に属していた。1960年ごろに18炭鉱・年産600万トンで国内出炭の1割超を占めた規模は、この時点ですでに大きく削れている。老朽化した既存鉱の採算が悪化するなか、高能率鉱を建てるか、石炭から降りるかという二択が残された。北炭は前者を選んだ[8]

世界に例の少ない深部採炭という設計

計画そのものは、当時の技術の先端にあった。第1立坑をエレベーターで2分強下れば海抜下600メートルに達し、そこから水平坑道を進んで切羽に着く。高さ3メートル・横120メートルの炭層を三井三池製作所製のダブルレンジング・ドラム・カッターが削り、西独ヘムシャイド製の自走枠が天盤を支える。切羽前面の操作要員は6人で、従来の炭鉱の10分の1で済んだ。鉱員1人当たり月産90トンという能率は、1974年度の全国平均71.8トンを引き離す設計だった[9]

埋蔵量の見積もりも強気だった。北炭は経済埋蔵量を8,100万トンとはじき、年産150万トンなら54年間掘れる計算を立てている。地表から800メートル以上深い炭層を一気に採炭する例は世界にも少なく、坑内掘りで世界最高の能率に達していた日本の炭鉱のなかでも、ひときわ高い水準にあった。鉱員の住まいも木造の長屋から各戸60平方メートルの鉄筋3DKに改め、住居費と光熱費を無料としている。急激な閉山で労働力の確保が難しくなるという読みが、この労務対策の背景にあった[10]

結果

出炭前に尽きた財務と、補助金で回る会社

工事は最初から狂った。資材の搬入と石炭の積出しのために掘った2本の斜坑が異常湧水に見舞われ、独自の止水工法で切り抜けたものの、出炭開始は当初予定より2年近く遅れている。遅延中の資材費高騰も重なり、160億円と見込んだ開発費は306億円に膨らんだ。出炭が始まる4年も前の1971年、北炭は開発費の負担だけで債務超過に陥っている。出炭が始まる前に自己資本が消えた[11][12]

1975年6月末、夕張新炭鉱がようやく営業出炭を開始した。同じ期の決算は営業損失47億1,700万円、経常損失60億1,500万円、当期損失103億5,400万円で、累積赤字は344億5,700万円に達している。営業外収益70億6,300万円の大部分は国の補助金と交付金であり、元利補給金12億3,000万円・再建交付金17億4,500万円・安定補給金17億6,400万円などの合計60億5,800万円は、資本金70億2,207万円に迫る規模だった。借入金は長期538億円・短期142億円の計680億円である[13]

品質という前提が技術に崩された

出炭を見届けた同時代の評価は冷ややかだった。日経ビジネスは新鉱の技術水準を認めたうえで「石炭産業を私企業ベースで考えるのは無理である」と書き、「夕張新鉱の開発で北炭の経営がどうなるという段階ではもはやない」と結んでいる。1年で60億円を超える国費が1社に注ぎ込まれ、それでもなお赤字が膨らむ構造は変わらない。北炭の側にも言い分はあった。補助金は操業の穴を埋めるために設計されており、脱石炭への投資には回せない。680億円の借入金を返す道は、掘って売る以外に残っていなかった[14][15]

賭けを支えていた最大の前提は、夕張炭の品質だった。流動性に優れ、堅く緻密なコークスができる原料炭であればこそ、高炉各社は融資に応じ、学者は掘るべきだと言った。その前提を崩したのは市況ではなく技術である。流動性の悪い輸入炭からでも十分なコークスが作れるようになれば、あとは安い方が選ばれる。2度の石油危機を経て国内の石炭需要は1億2,000万トンへ増えたが、その中身はほとんど輸入炭だった。国内炭はエネルギー革命で石油に追われ、石油危機のあとは輸入炭に追われている[16]

出典・参考

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