北炭の晩年の判断のなかで、意図したとおりに運んだ大きなものは、この幕引きだけだったのではないか。夕張新炭鉱は開発費が当初の計画の倍近くに増加して採算に乗らず、3山の分離も生産性を上げなかった。それに対して更生法の申請は、社長就任の直後から選択肢を法的に絞り込んだうえで選ばれ、手続きは異例の早さで開始され、労働債権には国の資金が回り、法人としての北炭は残った。閉鎖する仕事だけが設計どおりに終わったとみられる。
もっとも、この設計は会社の側から見た成功にとどまる。空知炭鉱の退職金のうち自力で工面すべき20億円は、最後まで会社の手では用意できず、国の閉山交付金に依存した。会社を残す設計は成功しても、ヤマで働いた人々の暮らしまで残せたわけではない。最盛期に2万4,000人いた社員が30人足らずになった落差は、その差を示しているのだろう。