三洋証券の場合、従来の手法は通用せず、一般の会社と変わらない枠組みで処理が進んだ。免許業種に対して政府は明治以来、営業の許可にとどまらず細かな運営にまで口を出し、その代わりに業者が負うべき責任を引き受けてきた経緯がある。当時の誌面がこの処理を近代金融史の分かれ目と位置づけたのは、免許業者を救う旧来の仕組みがここで終わったとみたからである。行政が破綻させないと請け負う形の支援は、このとき一度途切れた。その見立ては、翌年以降の破綻処理に照らしてもおおむね外れていない。
もっとも、司法手続きを選んだことが誰にとっても中立だったわけではない。守られたのは投資家であり、守られなかったのは無担保で資金を出した金融機関だった。寄託証券補償基金は限度額の18倍を超える特例で顧客資産を引き受けた一方、コール市場に出された資金は返らなかった。この線の引き方は、預けた資産は保護し、市場で取ったリスクは取った者が負うという原則にかなう。ただ、その原則が最初に適用された相手が、相手方の信用を前提に無担保で貸す慣行の上に成り立っていた短期金融市場だった。三洋証券の破綻は金額としては大きくない。それでも波及したのは、金額ではなくその前提のほうを壊したからである。