明治鉱業会社更生法によらない解散と、新明治鉱業を受け皿とする企業ぐるみ閉山

更生法でも子会社分離でもなく——第4次石炭政策が迫った進退に、明治鉱業はどう答えたか

時期 1969年5月
意思決定者(推定) 調査中
論点 第4次石炭政策下の進退と企業ぐるみ閉山
概要
1969年5月、明治鉱業が会社を解散し、同時に新明治鉱業を設立して企業ぐるみ閉山に踏み切った経営判断。同じ第4次石炭対策のもとで、杵島炭砿と麻生産業も同年5月から6月にかけて相次いで解散した。明治鉱業の株式は5月27日に東京証券取引所第一部で上場廃止となった。
背景
エネルギー源の転換で石炭の需要が石油へ移るなか、1963年時点の明治鉱業は所有鉱が多い割によい炭鉱が少なく、立山・上芦別・昭和・庶路の閉山を含む大規模な合理化を計画していた。1965年には日本炭砿・杵島炭砿・麻生産業とともに再建会社の適用を受け、同年に赤池を分離し、1967年に天道を閉じた。
内容
1968年12月の第4次答申は、今回の措置が国の助成の限界であり、対策を受けてもなお事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決すべきであるとした。同時に、企業ぐるみ閉山を行う企業には債務に応じて国が一定割合を補塡する特別閉山交付金制度が新設された。明治鉱業は解散を選び、新明治鉱業を設立した。
含意
同じ第4次対策に対し、三菱鉱業は1969年10月に石炭生産部門を九州と北海道の2社へ分離独立させ、松島炭鉱や住友石炭は逆に兼業部門を子会社として分離した。石炭以外に残せる事業をどれだけ持つかが、選べる道を分けたとみられる。
筆者の見解

残す事業を持たない会社に開いていた道

石炭以外の売上は、石油販売を含めても販売実績の13%に届かなかった。三菱鉱業が石炭生産部門を子会社へ出し、松島炭鉱や住友石炭が兼業部門を分離できたのは、切り離したあとに残る事業と保証力が親会社側にあったからである。1961年に出光興産と組んで石油販売へ入り、鉱石と建設へ広げた明治鉱業の多角化は、1963年の時点でその厚みに達していなかった。企業ぐるみ閉山に乗ったのは、残す側を持たない会社の道が狭かったためだとみられる。

ただ、解散が早すぎた撤退であったとはいいにくい。1965年に再建会社の適用を受けてから4年、赤池を分離し天道を閉じてなお、明治鉱業は第4次答申が継続困難とみなす側に残った。1970年には雄別炭砿と羽幌炭砿鉄道が続き、第4次対策実施後1年間の全国閉山規模は844万トンに達した。1969年5月の解散は、なだれ閉山の先頭に位置していた。国が助成の限界を宣言した以上、鉱の中身で劣る会社に残された時間は長くなかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

所有鉱が多い割によい炭鉱が少ないという1963年の姿

明治鉱業の弱みは、鉱の数ではなく中身にあった。1963年時点の同社は所有鉱が多い割によい炭鉱が少なく、石炭部門の合理化と石炭以外への多角化を並行させていた。合理化の目玉は北海道の本岐鉱で、1962年秋から日本で初めて水力採炭による開発と採掘に入り、能率は鉱員1人当り月産90トンと大手平均の3倍から4倍に達した。その一方で立山、上芦別、昭和、庶路の各鉱については、閉山を含む大規模な合理化を計画していた[1][2]

多角化の側は、石炭を置き換える規模に届いていなかった。明治鉱業は1961年2月に石油販売を始めて出光興産と提携し、デユナイト、大理石、石灰石の採掘販売と建設事業は子会社に担わせていた。1963年3月期の販売実績52億7,718万1,000円の内訳は、石炭45億9,299万円、石油6億6,797万5,000円、鉱石1,621万6,000円で、石炭以外は合わせても13%に届かない。同じ半期の当期利益金は1億1,740万4,000円の赤字であった[3][4]

閉山計画に載った昭和鉱業所と、1965年の再建会社指定

閉山を計画された鉱でも、現場は合理化を積み重ねていた。北海道雨竜郡沼田町の昭和鉱業所は1930年1月に開設された急傾斜の炭鉱で、1964年からは1井層でユルメ発破により炭壁を軟化させ、圧水を噴射する水力採炭に入った。1965年の時点で同鉱業所は、数次にわたる合理化を実施してきたものの所期の目標の達成が遅れ、なお苦しい経営を続けていると記し、当面の目標を1人当り月能率50トンに置いた[5][6]

石炭政策は、まず個別の救済として明治鉱業に及んだ。1963年8月、石炭鉱業審議会は経営危機にあった貝島炭砿を、出炭体制の維持のため再建会社として特別救済することを答申した。1965年には日本炭砿、明治鉱業、杵島炭砿、麻生産業がその適用を受けた。明治鉱業は同じ1965年に赤池を分離し、1967年には天道を閉じた。筑豊御三家の一つとされた大正鉱業は、すでに1964年10月に閉山して会社を解散していた[7][8]

決断

国の助成の限界を告げた第4次答申

1968年4月、椎名通産大臣は石炭鉱業審議会に石炭政策の再検討を諮問し、同年12月25日に第4次答申が提出された。答申は私企業体制による再建を続けるとしながら、今回の措置は国の助成の限界であり、この対策を受けてもなお事業の継続が困難な企業は勇断をもって進退を決すべきであると述べた。5,000万トンという石炭の位置づけも外れ、将来の出炭規模は定めないこととされた。再建可能と判断される企業にだけ助成の手を差し伸べる、選別の立場であった[9]

答申は、退く企業のための制度も同時に用意した。企業ぐるみ閉山を行う企業には債務に応じて一定割合を国が補塡する特別閉山交付金制度が新設され、一般閉山交付金も大幅に増額された。異常債務の第2次肩代りとして約850億円の再建交付金を1969年度から15年間に分割交付し、交付を受ける企業には石炭部門と兼業部門の区分経理を求めるものだった。政府は1969年1月10日の閣議で全面実施を決め、1969年度予算に前年度を48%上回る885億円を計上した[10][11]

解散と新明治鉱業の設立、他社が選んだ二つの分離

1969年4月、第4次対策実施のための諸法案は国会審議の最終段階を迎え、日本石炭協会は通産大臣と衆参両院の石炭対策特別委員会に対し、経営責任を自覚して国の援助にこたえるという業界の決意を表明した。答申の実施に伴い、同年5月から6月にかけて明治鉱業、杵島炭砿、麻生産業が相次いで会社を解散し、企業ぐるみ閉山に踏み切った。明治鉱業は解散と同時に新明治鉱業を設立した[12][13]

同じ対策への答えは、会社によって割れた。三菱鉱業は1969年10月に石炭生産部門を九州と北海道の2社へ分離独立させ、累積赤字や未払退職手当を親会社に残したうえで、石炭以外を持つ親会社の保証力に資金調達を託した。松島炭鉱や住友石炭が選んだのは、これとは逆に兼業部門を子会社として分離する形だった。硫黄の松尾鉱業は1969年1月16日に会社更生法の適用を受け、3月19日に東証第一部の上場を廃止された。解散を選んだ明治鉱業は、そのいずれとも違う道を通った[14][15]

結果

1969年5月27日の上場廃止と、なだれ閉山

1969年5月27日、明治鉱業の株式は東京証券取引所第一部で上場廃止となった。1949年10月17日の上場から19年7か月であった。倒産の形式として記録されたのは会社更生法の適用ではなく解散で、倒産に至る背景にはエネルギー源転換による需要減が挙げられた。直前の資本金は19億8,000万円。石炭の麻生産業も同年6月30日に東証第二部で上場を廃止し、清算へ入った[16][17][18]

閉山は明治鉱業で止まらなかった。1970年2月に雄別炭砿、同年11月に羽幌炭砿鉄道が続き、第4次対策実施後1年間の全国閉山規模は844万トンに達した。1970年度の閉山も300万トンを上回る見通しとなり、石炭産業だけでなく地域社会にも重大な混乱を引き起こすおそれが出てきた。政府は1970年4月2日に石炭鉱業審議会へ体制上の改善策を諮問し、審議会は体制委員会を新たに設けた[19][20]

出典・参考
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
  • 日経ビジネス 1970年2月号
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「明治鉱業」
  • 炭鉱技術 1965年「炭鉱紹介 明治鉱業株式会社 昭和鉱業所」

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