北海道北西部の苫前炭田が外部の目に触れたのは1874年[1]である。米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別の沿岸を踏査[2]し、この地区の調査が始まった。1888年には北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査[3]を行っている。炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方km[4]を占めた。産出するのは非粘結性の亜瀝青炭で、灰分が非常に少なく煤煙も少ない[5]。着火しやすい性質があり[6]、家庭用の暖房炭に向いた。ただし炭層は海岸から離れた山中にあり[7]、掘り出しても運び出す手段がなかった。踏査から半世紀を経ても、この炭田は手つかずのまま残った[8]。
1917年、この鉱区は神戸の鈴木商店の所有となった[9]。鈴木商店は1927年に破綻し、鉱区は1931年に同じ神戸の太陽産業へ引き継がれた[10]。太陽産業は鈴木商店の系譜に連なる企業群の一社[11]である。鈴木商店の破綻後、その中堅社員が集まって1928年に設立したのが日商[12]であり、日商の姉妹会社にモリブデン鉱山を経営する神戸の太陽鉱工[13]があった。羽幌炭礦鉄道は、その太陽鉱工の子会社にあたる[14]。日本樟脳、鈴木薄荷、帝国樟脳、東邦金属、新日本金属化学[15]も同じ系列に並んだ。最北の炭田を掘る資金と人は、神戸の商社網[16]から来ている。
1939年9月、国鉄築別駅を分岐点として築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許が申請され[17]、1940年5月に免許となった[18]。同年7月、資本金700万円で羽幌鉄道が設立される[19]。同じ月に太陽産業は築別本坑を羽幌鉱業所として開坑[20]した。鉄道会社と炭鉱を並行して立ち上げ、1941年7月に両者は合併して羽幌炭鉱鉄道が発足[21]している。掘る主体と運ぶ主体を一つの会社に収めた形であり、社名に炭礦と鉄道の双方が入るのはこの経緯による[22]。石炭を掘っても運べないという苫前炭田の制約を、鉄道を自前で持つことで解いた[23]。
経営陣には満鉄と撫順の経歴を持つ技術者[24]が並んだ。初代社長の岡新六氏は1885年11月に福井県で生まれ[25]、京都帝国大学工学部の第一回卒業生で工学博士の学位を持つ。満鉄石炭研究所長を経て1940年7月に社長へ[26]就いた。同じ月、東京商科大学を出て神戸製鋼所にいた町田叡光氏が取締役支配人として加わっている[27]。1947年8月には撫順炭礦大山採炭所長だった朝比奈敬三氏が入社[28]し、同年11月に常務取締役として技術部を担当した。1943年2月に経理部長となった嶋内義治氏[29]は、南樺太塩業の取締役支配人を務めた人物である。
鉄道は第二次世界大戦の資材不足のなかで工事が進み[30]、1941年12月14日に営業を開始した[31]。総従業員45名、1日4往復の混合列車[32]という規模である。石炭輸送を主目的としつつ、地方開発の一助として一般営業も行った[33]。もっとも開業から終戦までの5年間について、後年に築別鉱業所長を務めた小森豊氏は低迷時代と振り返り[34]、戦争のどさくさにまぎれて行き当たりばったりの経営を行ってきたにすぎないと述べている。1945年の築別鉱業所の出炭は4.8万トン[35]にとどまった。掘る手段も運ぶ手段も揃えたが、戦時下ではその能力を使い切れなかった[36]。
終戦後の5年間を、小森豊氏は苦肉の時代と呼んだ[37]。終戦の混乱に加え、無計画な乱掘による自然発火が頻発し、坑道が荒れた[38]。労働事情も極度に悪化し、命旦夕に迫る状況だった[39]と述べている。戦時中に増産を優先して掘り進めた結果が、そのまま坑内の荒廃として残った[40]。この時期に着手したのが第二の炭鉱の開発であり、1947年から羽幌炭礦の開礦にかかっている[41]。築別炭礦だけでは規模が足りず[42]、一鉱に依存する構造そのものが危うかった。1950年の築別鉱業所の出炭は11万トン[43]で、5年前の4.8万トンから2.3倍になった[44]。
設備投資は増資で賄った[45]。資本金は1950年に2,500万円[46]、1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円[47]と、2年間で20倍を超える規模へ引き上げられている。1951年には築別炭礦の合理化工事に着工し、1953年11月に完成した[48]。年産40万トンを目標とする体制を組み[49]、築別・羽幌の両炭礦を合わせた1953年度の産炭は31万7,000トンを超えた[50]。同じ時期の役員には、満洲製鉄北海道採炭所長だった磯野賢一氏が築別鉱業所長[51]、帝国燃料興業内淵鉱業所副所長だった奥田清生氏が羽幌鉱業所長[52]として並んでいる。旧満洲の現場を踏んだ技術者が、二つの鉱業所をそれぞれ預かった[53]。
1954年時点の会長は高畑誠一氏[54]である。鈴木商店の大番頭として知られ、日商を興した人物が、その系列会社の会長を兼ねた[55]。取引銀行には日本興業銀行、第一銀行、北海道拓殖銀行、三菱銀行[56]、日本勧業銀行、住友銀行、三井銀行、北海道銀行、大和銀行の9行が並ぶ。特約店には三菱商事、関西鉱燃、日商、羽幌石炭販売[57]、北海道石炭、橋本産業、山本石炭が付いた。販売先は日本国有鉄道、北海道電力、東洋高圧工業、国策パルプ工業[58]、東京電力、中部電力、関西電力、富士製鉄である。年間取扱高は35万トン[59]を数えた。
1955年5月23日、羽幌炭礦鉄道は札幌証券取引所に[60]上場した。本社は札幌市大通西5丁目に置き[61]、営業は東京・旭川・留萠に拠点を構えている[62]。開坑から15年で、地方の一炭鉱会社は道内の資本市場に[63]立った。ただし上場先は札幌のみ[64]で、東京証券取引所には出ていない。販売先には東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が並び[65]、事業の相手は全国におよぶ。それでも資金調達の場は道内にとどまった[66]。1954年度の産炭は35万8,000トン[67]で、前年度から4万トン増えている。上場した1955年度の産炭は43万9,000トン[68]だった。
1956年6月、町田叡光氏が社長に[69]就任した。1940年7月の取締役支配人から数えて16年、専務を経ての昇格[70]である。同じ月に横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就いた[71]。資本金は1956年に6億円、1959年に7億5,000万円[72]へ引き上げられている。産炭は1953年度の31万7,000トンから、1955年度43万9,000トン、1957年度61万4,000トン、1959年度73万トン[73]と伸び、1961年には105万トンに達した[74]。8年で3.3倍[75]である。従業員は約2,650名を数え[76]、築別・羽幌の二鉱に加えて福島県勿来市に三松採炭所を持った[77]。
増産の方法について、築別鉱業所長の小森豊氏は1960年の講演で明確に述べている[78]。開山から20年を3期に分け、直近の10年を前進につぐ前進と位置づけ[79]、能率は本邦においてA級にランクされるに至ったとした[80]。そのうえで、こうした改革は決して斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いて行ったものだと説明している[81]。新鋭機の導入で一気に生産性を上げた[82]のではない。すでに持っている設備を使い切る方向[83]へ現場を組み替えた結果だった。築別鉱業所の出炭は1955年の26万トンから1960年に50万トン[84]へ伸びている。
増産の一方で、業界の環境はすでに反転していた[85]。専務取締役の朝比奈敬三氏は1960年12月の寄稿で[86]、1958年の炭界不況による出炭制限を出発点として[87]、突如として浮上した流体エネルギーとの競合[88]のため、企業合理化・体質改善・1,200円のコストダウン・整理・ストライキ[89]という厄介な問題が相次いで迫ってきたと書いている。そのうえ炭鉱は保安確保という至上課題を背負うとも述べた[90]。羽幌炭礦鉄道が産炭を3.3倍にしたのは[91]、石炭産業そのものが石油に置き換えられていく時期と正確に重なる。朝比奈氏はこの寄稿に、微光が射し始めた石炭鉱業という表題[92]を付けている。
鉄道の輸送量は開通当時の9万トンから、1961年度に100万トンを突破した[93]。1962年8月にはディーゼルカーを導入し[94]、それまでの混合列車を客貨完全分離へ切り換えている。運行は1日あたり旅客8往復・貨物6往復[95]となった。通勤通学のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を乗り入れ、混雑時は3両重連で走らせた[96]。1962年12月からは名羽線の一部である曙と羽幌鉱の区間を借り受け[97]、非営業線として輸送業務を担っている。これにより従来の索道輸送を鉄道輸送へ切り換え、石炭の流通経費を下げた[98]。1日4往復の混合列車で始まった輸送は、20年で旅客と貨物を分けるまでになった[99]。
鉄道の敵は雪[100]だった。当地方は年間降雪量の累計が10m、積雪量が2mにおよぶ[101]。国鉄築別駅の一帯は海岸に接近しているため、冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われた[102]。列車の正常運転を確保するために毎年多大な労力と経費を要し、雪害による貯炭は曙構内で2万トンを超えた年もある[103]。会社は除雪の機械力を増強し、モータカーロータリを導入[104]した。自社線の除雪にとどまらず、国鉄へも出動して輸送の安全維持にあたっている[105]。現業は4駅・1機関区・3線路班[106]に区分され、保有車両は機関車・客車・貨車におよんだ。
1964年から赤字が積み上がり[107]はじめた。1970年時点での累積は13億8,600万円[108]にのぼる。それでも生産は落ちていない[109]。鉄道の輸送量は1966年度に111万トンを記録し[110]、輸送品目に占める石炭の比率は96%[111]を示した。旅客の乗降人員も135万6,000人[112]を数えている。同じ1966年度には、築別炭鉱地区の小中学生のために走らせていたレールバスのスクールバス運行を中止した[113]。相次ぐ出炭増で構内の入換が輻輳[114]したためである。増産が地域サービスを押し出す水準[115]まで来ていた。開通時の輸送量9万トンに対し、12倍[116]の水準である。
1966年5月に横田周作氏が代表取締役専務[117]、武井正美氏と小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就いた。翌6月には横田氏が社長となり、町田叡光氏は会長へ[118]移っている。梶田氏は1934年に神戸商業大学を出て同年に満州撫順炭礦へ入り[119]、終戦により大同煤礦へ留用され、1948年の留用解除で帰国して翌年に入社した経歴を持つ。1969年時点の従業員は約2,500名、資本金は7億5,000万円[120]である。取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行の4行[121]に絞られていた。1954年に9行だった取引銀行[122]が半減している。
1970年3月期の年商は54億円内外[123]に達した。上羽幌坑・築別西坑を含む3山で年間110万トン内外を採炭し、道北唯一のビルド鉱とされた[124]。事業構成は石炭採掘が94%、私営鉄道が4%[125]で、ほかに病院を経営した。ところが同年4月、減炭と労務者不足から生産体制の維持が困難となり、築別坑を休坑して年間85万トン内外へ目標を下げている[126]。8月30日には関連会社が負債総額6億2,000万円内外[127]を抱えて倒産した。そして9月2日、羽幌炭礦鉄道は札幌地裁に会社更生法の適用を申請する[128]。負債総額は75億円内外[129]だった。
会社が倒れた1970年は、石炭産業全体が急速に縮んだ年[130]である。第4次石炭政策の実施後1年間で全国の閉山規模は844万トンに達し[131]、1970年度もこれを300万トン以上上回る見通しとなって、なだれ閉山と呼ばれる状況になった[132]。政府は同年4月2日に石炭鉱業審議会へ諮問し[133]、11月に第5次石炭政策の中間答申が出ている[134]。答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ、静かなる撤退を目的とする政策からの転換を意味した[135]。背景には原料炭の国際的な品不足と価格上昇[136]があった。政策が転換した月に[137]、羽幌炭礦鉄道は閉山した。
1970年11月2日[138]、羽幌炭礦鉄道は閉山した。離職した労務者は1,030名[139]にのぼる。同じ日に札幌証券取引所での上場を廃止し[140]、石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請している[141]。申請時の会社名は羽幌炭砿、代表清算人は町田叡光氏[142]だった。事業団に届け出た年間生産数量は鉱区ベース78万44トン、会社ベース95万1,439トン[143]である。閉山の理由を吉岡宏高氏は、保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりで損益が極度に悪化した企業群の一つとして整理し、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山した[144]と記述している。掘る炭も設備も[145]まだあった。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1874〜1946年鈴木商店から太陽産業へ渡った最北の炭田(1874〜1946) | 米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査 | ★ | ||
| 北海道庁が羽幌川・築別川筋の炭層調査を実施 | ★ | |||
| 神戸市の鈴木商店が羽幌の鉱区を取得 | ★★ | |||
| 神戸市の太陽産業が羽幌の鉱区を継承 | ★★ | |||
| 岡新六 | 築別炭礦の開礦と鉄道敷設を目的に羽幌鉄道を設立 | ★★★ | ||
| 岡新六 | 築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑 | ★★ | ||
| 岡新六 | 岡新六氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 岡新六 | 町田叡光氏が取締役支配人に就任 | ★ | ||
| 岡新六 | 太陽産業羽幌鉱業所と羽幌鉄道が合併、羽幌炭鉱鉄道が発足 | ★★ | ||
| 岡新六 | 築別駅-築別炭鉱駅間16.6kmの私設鉄道が完成 | ★★ | ||
| 1947〜1955年自然発火と乱掘の坑内を建て直した苦肉の時代(1947〜1955) | 岡新六 | 羽幌炭礦の開礦に着手 | ★★ | |
| 岡新六 | 町田叡光氏が専務取締役に就任 | ★ | ||
| 岡新六 | 朝比奈敬三氏が常務取締役技術部担当に就任 | ★ | ||
| 岡新六 | 増資 | ★ | ||
| 岡新六 | 築別炭礦の合理化工事に着工 | ★★ | ||
| 岡新六 | 増資 | ★ | ||
| 岡新六 | 増資 | ★ | ||
| 岡新六 | 築別炭礦・羽幌炭礦を併せた産炭実績が31万7,000余屯を突破 | ★ | ||
| 岡新六 | 築別炭礦の合理化工事が完成。年産40万瓲を目途とする体制へ | ★★ | ||
| 岡新六 | 札幌証券取引所に上場 | ★ | ||
| 1956〜1963年能率を本邦A級へ押し上げた二つの鉱業所と鉄道(1956〜1963) | 町田叡光 | 増資、産炭54万6,000屯 | ★ | |
| 町田叡光 | 町田叡光氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 町田叡光 | 横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任 | ★ | ||
| 町田叡光 | 増資、産炭73万屯 | ★ | ||
| 町田叡光 | 産炭105万屯に到達、従業員約2,650名 | ★★★ | ||
| 町田叡光 | 築別・羽幌の2鉱に加え三松採炭所を保有 | ★ | ||
| 1964〜1970年累積赤字となだれ閉山による企業ぐるみ撤退(1964〜1970) | 町田叡光 | この年以降、赤字が累積しはじめる(1970年時点の累積13億8,600万円) | ★★ | |
| 町田叡光 | 横田周作氏が代表取締役専務に就任 | ★ | ||
| 町田叡光 | 武井正美氏・小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就任 | ★ | ||
| 横田周作 | 横田周作氏が社長に就任、町田叡光氏は会長へ | ★★ | ||
| 横田周作 | 上羽幌坑・築別西坑ほか3山で年間110万トン内外を採炭 | ★★ | ||
| 横田周作 | 減炭と労務者不足で築別坑を休坑、生産目標を年間85万トンに縮小 | ★★ | ||
| 横田周作 | 関連会社が負債総額6億2,000万円を抱えて倒産 | ★ | ||
| 横田周作 | 札幌地裁に会社更生法の適用を申請 | ★★★ | ||
| 横田周作 | 閉山、労務者1,030名 | ★★★ | ||
| 横田周作 | 札幌証券取引所での上場を廃止 | ★★ | ||
| 横田周作 | 石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請 | ★ |
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事実根拠:出所(羽幌炭礦鉄道)