苫前炭田が66年も動かなかったのは、石炭が無かったからではない。南北25km・面積250平方kmの炭田に厚い炭層が横たわっていることは、1888年に北海道庁が羽幌川と築別川の筋を調べた時点で分かっていた。動かなかったのは、掘った炭を海まで下ろす手段が無かったからである。1917年に鈴木商店が鉱区を握り、1931年に太陽産業が引き継いでも、事情は変わらなかった。羽幌炭礦鉄道という社名に鉄道が入っているのは、この会社が鉄道業から出発したからではない。築別駅から16.6kmの単線を自前で敷くと決めた時点で、はじめて山中の炭層に値が付いたからである。掘る権利ではなく、運ぶ経路のほうが資産だった。
ところが、運ぶ経路を手に入れた会社が最初の5年で作ったのは、石炭ではなく潰れた坑道だった。露頭から炭層に沿って斜坑を下ろし、坑口を増やし、掘り残した炭柱を坑内に置く。厚い炭層はどこを掘っても炭が出るため、方式を組み直す動機が働かない。下磐のベントナイト層が膨れ、軟弱な上磐が坑道を押し潰すころには、自然発火が採炭できる場所を奪っていた。戦時下の増産要請は、坑道という設備を食いつぶして出炭を取り出したのである。1941年12月に開業した鉄道は総従業員45名、1日4往復。終戦の時点で残っていたのは、16.6kmの線路と、掘れる場所を失った坑内であった。
北海道北西部の苫前炭田が外部の目に触れたのは1874年である。米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別の沿岸を踏査し、この地区の調査が始まった。1888年には北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査を行っている。炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方kmを占めた。産出するのは非粘結性の亜瀝青炭で、灰分が非常に少なく煤煙も少ない。着火しやすい性質があり、家庭用の暖房炭に向いた。ただし炭層は海岸から離れた山中にあり、掘り出しても運び出す手段がなかった。踏査から半世紀を経ても、この炭田は手つかずのまま残った。
1917年、この鉱区は神戸の鈴木商店の所有となった。鈴木商店は1927年に破綻し、鉱区は1931年に同じ神戸の太陽産業へ引き継がれた。太陽産業は鈴木商店の系譜に連なる企業群の一社である。鈴木商店の破綻後、その中堅社員が集まって1928年に設立したのが日商であり、日商の姉妹会社にモリブデン鉱山を経営する神戸の太陽鉱工があった。羽幌炭礦鉄道は、その太陽鉱工の子会社にあたる。日本樟脳、鈴木薄荷、帝国樟脳、東邦金属、新日本金属化学も同じ系列に並んだ。最北の炭田を掘る資金と人は、神戸の商社網から来ている。
1939年9月、国鉄築別駅を分岐点として築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許が申請され、1940年5月に免許となった。同年7月、資本金700万円で羽幌鉄道が設立される。同じ月に太陽産業は築別本坑を羽幌鉱業所として開坑した。鉄道会社と炭鉱を並行して立ち上げ、1941年7月に両者は合併して羽幌炭鉱鉄道が発足している。掘る主体と運ぶ主体を一つの会社に収めた形であり、社名に炭礦と鉄道の双方が入るのはこの経緯による。石炭を掘っても運べないという苫前炭田の制約を、鉄道を自前で持つことで解いた。
経営陣には満鉄と撫順の経歴を持つ技術者が並んだ。初代社長の岡新六氏は1885年11月に福井県で生まれ、京都帝国大学工学部の第一回卒業生で工学博士の学位を持つ。満鉄石炭研究所長を経て1940年7月に社長へ就任した。同じ月、東京商科大学を出て神戸製鋼所にいた町田叡光氏が取締役支配人として加わっている。1947年8月には撫順炭礦大山採炭所長だった朝比奈敬三氏が入社し、同年11月に常務取締役として技術部を担当した。1943年2月に経理部長となった嶋内義治氏は、南樺太塩業の取締役支配人を務めた人物である。
鉄道は第二次世界大戦の資材不足のなかで工事が進み、1941年12月14日に営業を開始した。総従業員45名、1日4往復の混合列車という規模である。石炭輸送を主目的としつつ、地方開発の一助として一般営業も行った。もっとも開業から終戦までの5年間は低迷時代であり、戦争のどさくさにまぎれて行き当たりばったりの経営を行ってきたにすぎなかった——後年に築別鉱業所長を務めた小森豊氏が示した見方である。1945年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンにとどまった。掘る手段も運ぶ手段も揃えたが、戦時下ではその能力を使い切れなかった。
築別本坑が開坑したのは1940年7月である。当初の採掘は、露頭から炭層に沿って斜坑を掘り下げる沿層方式で行われた。採炭方式は柱房式とも呼べない乱掘であり、坑口も一箇所に定まらなかった。多数の坑口から分散して生産するため、労力も機器も集中できない。稼行する炭層は羽幌層の本層と上層で、本層は山丈・炭丈ともに4mに達する厚層である。厚い炭層は、場所を選ばずとも石炭が出ることを意味した。のちに築別鉱業所長を務めた小森豊氏は、当初の方法と技術水準について、今日の発展を予想もしていなかったことがうかがえると記している。戦時下の増産要請のもとでは、深部の良質炭へ向けて坑道の骨格を組むより、露頭に近い炭を手早く掘るほうが速かった。
坑道は掘るそばから潰れた。下磐際にはベントナイト層があり、磐膨れを起こす。上磐の岩石も軟弱で、坑道は激しい重圧を受けて変形し狭窄した。全く手の施しようもない状況であったと、小森氏は後年に振り返っている。坑道の不良は、そのまま運搬と通気と排水を阻害する。石炭を運び出す経路が細り、風が通らず、水が溜まった。築別本坑の下磐岩石は極めて脆弱な泥質砂岩であり、ベントナイト層と耐火粘土層は支保の上で最大の隘路であり続けた。軟質の岩石に富む夾炭層という地質が、掘った坑道を保つ作業に掘り進む作業を食わせる構造を生んだ。
自然発火が頻発した。残柱式まがいの採炭法は、掘り残した炭柱を坑内に残す。その残炭が発熱して坑道を塞ぎ、採炭できない箇所が随所に生じた。掘れる場所が坑内から減った。自然発火は開坑当初から1946年頃まで続き、荒廃はその都度深まった。坑道を岩石の中へ移す工事に着手するのは1947年であり、それまでの6年間、会社は沿層坑道のまま掘り続けている。築別川の上流に位置する本坑では選炭に使う水を容易に取ることができ、鉄道も築別駅から山元まで通じていた。立地の条件は揃っていた。稼行する炭層が厚く、しかも常に連続性を持っていたことが、かえって方式の見直しを遅らせた。
打つ手は一つしかなかった。自然条件と立地条件の不利に加え、補償費の打切りと労働情勢の急変が重なり、企業不振のまま終戦を迎えて開坑以来最悪の事態に立ち至った。安定経営を営むには従来の方式を一擲し、劃期的な基本計画を樹立して強力に実行する以外に方法はないと、小森氏は後年に書いている。前提となったのは炭層の見立てである。露頭付近は炭層が乱れて炭質の劣化も甚だしいが、深部に入れば安定した良質炭になる。築別本坑区域の炭層は山丈5.0m・炭丈4.5mに達し、炭田平均の山丈3.5mを上回った。4mに及ぶ厚層の生産性は、やりようによって計り知れない底力を持つ。その生産性を引き出すには、まず丈夫な坑道の建設から始めるべきだという順序が決まり、最も良質と思われる岩盤を下磐側に見出した。着手は1947年、開坑から7年が過ぎていた。低迷の5年と苦肉の5年を合わせた10年が、坑内の骨格を組み直す出発点になった。
築別本坑が立ち直ったのは、新しい機械を買ったからではない。1947年から6年をかけた工事の順序だけが決まっていた。まず坑道を炭層から外して下磐の岩石へ移し、立入坑道をベントナイト層に触れさせずにポケット採炭へ切り替える。次に選炭場まで2,300mの大立入坑道を通し、8トンの電気機関車で運ぶ。そのうえで鉄柱とカッペを入れ、切羽の面長を30mから90mへ広げる。運搬力が上がれば切羽を機械化でき、切羽が伸びればさらに運搬力を要求する。この往復が、開坑以来の乱掘を反対向きに巻き戻した。坑道を作る作業が鉱夫の三人に一人を占め続けたのは、その代価である。
資金は神戸から来た。資本金は1950年の2,500万円から1952年5月の1億5,000万円へ、2年間で6倍になっている。鈴木商店の大番頭だった高畑誠一氏が会長に座り、特約店には日商と三菱商事が並んだ。最北の炭鉱の設備投資を支えたのは道内の資本ではなく、破綻した商社の系譜に連なる神戸の企業網である。1955年5月、会社は札幌証券取引所へ上場した。販売先は日本国有鉄道から東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄まで全国に広がっていたが、株式を置いた市場は道内だけだった。掘る場所も運ぶ経路も売る相手も増やしたあとで、会社の背骨はなお神戸に残っていた。
終戦後の5年間を、小森豊氏は苦肉の時代と呼んだ。終戦の混乱に加え、無計画な乱掘による自然発火が頻発し、坑道が荒れた。労働事情も極度に悪化し、命旦夕に迫る状況だった。戦時中に増産を優先して掘り進めた結果が、そのまま坑内の荒廃として残った。この時期に着手したのが第二の炭鉱の開発であり、1947年から羽幌炭礦の開礦にかかっている。築別炭礦だけでは規模が足りず、一鉱に依存する構造そのものが危うかった。1950年の築別鉱業所の出炭は11万トンで、5年前の4.8万トンから2.3倍になった。
1947年、会社は主要運搬坑道を炭層から外し、下磐の岩石の中へ開削し始めた。それまでは全て沿層坑道方式であり、坑道の維持に困難を生じて自然発火が続発していた。1948年2月に主要斜坑と上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立する。以後この方式のまま坑内は発展し、1960年には五片坑道の掘削に入っている。沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した。それでも坑道を繕う仕繰夫の比率は、1953年から1954年にかけてなお全鉱夫の31%に及んでいる。この下磐坑道方式が坑内の骨格となり、1965年の時点でも坑口から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑で深部へ下る構造が引き継がれていた。
切羽の側でも採炭法を替えた。築別本坑は開坑以来の残柱式を、1947年10月に短壁式へ改めている。通気の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた。その防止策として保護炭柱方式を採ったところ、炭柱が軟化して逆に自然発火を助長し、採炭そのものを困難な状態に追い込んだ。1948年2月、解決策として下磐坑道方式によるポケット採炭を始める。立入坑道を着炭させず、その手前から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層を貫く距離を最小限にとどめた。坑道の磐膨れを回避し、自然発火も皆無に等しくなった。ロングの面長は当初の30mから60mへ延び、切羽運搬に初めてチェンコンベヤーを使った。小森氏はこれを築別本坑発展の一大基礎と位置づけている。
坑内の建て直しと並行して、二つ目の炭鉱を開いた。羽幌地区ではそれまで本坑と二坑の区域で主に炭層調査が行われ、出炭は微々たるものにとどまっていた。1947年、増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手し、1948年8月に本坑を開発して、二坑を合併し羽幌鉱業所を設定する。稼行できる炭層は羽幌本層・一番層・下層の3層で、東翼本層の炭丈は1.6mから2.5mと、築別本坑の4mに比べれば薄い。それでも一つの鉱業所に依存する構造を崩す意味は大きかった。羽幌本坑と二坑の石炭は同じ選炭場へ集められ、築別駅を分岐点とする16.6kmの社線で国鉄へ渡る。掘る場所を二つに増やしても、運ぶ経路は一本のままであった。
設備投資は増資で賄った。資本金は1950年に2,500万円、1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円と、2年間で20倍を超える規模へ引き上げられている。1951年には築別炭礦の合理化工事に着工し、1953年11月に完成した。年産40万トンを目標とする体制を組み、築別・羽幌の両炭礦を合わせた1953年度の産炭は31万7,000トンを超えた。同じ時期の役員には、満洲製鉄北海道採炭所長だった磯野賢一氏が築別鉱業所長、帝国燃料興業内淵鉱業所副所長だった奥田清生氏が羽幌鉱業所長として並んでいる。旧満洲の現場を踏んだ技術者が、二つの鉱業所をそれぞれ預かった。
1951年11月、会社は選炭場へ直結する通洞坑口の開削に着手した。それまでの坑口は選炭場から2,000m以上離れた山間にあり、50馬力の複線エンドレスで運炭していたため、年産18万トンを超える出炭は不可能だった。主要巻上機である300馬力の単胴巻も、坑内の発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた。大立入坑道と名づけられたこの坑道は、悪質な岩盤とガス突出事故に遭って辛酸をなめ、満2年を費して1953年10月に完成する。当初の目標は年産30万トンであった。比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8トンのトロリー式電気機関車2台を入れている。坑外エンドレス時代に比べ、79人の人員を節約した。この電車坑道はその後の坑内輸送の幹線となった。
切羽の機械化は坑木の節約から始まった。1951年7月、坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入する。まず木の笠木と鉄柱を組み合わせた採炭を試み、1952年7月にカッペを使った。結果に確信を得て、1953年から鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法へ移っている。同時にコールカッターとパンツァコンベヤーを入れ、截炭方式は発破採炭からカッター発破併用へ切り替えた。ただし炭層が厚いため天磐際の発破だけでは上炭を打ち落とせず、中段にも発破が要る。炭壁が倒れて作業に危険が生じた。切羽の面長は1951年度から60mより90mまで順次延長され、切羽集約化の第一段階が完了する。坑道を作り直し、運搬を作り直したうえで、最後に切羽を機械化する順序であった。
1954年時点の会長は高畑誠一氏である。鈴木商店の大番頭として知られ、日商を興した人物が、その系列会社の会長を兼ねた。取引銀行には日本興業銀行、第一銀行、北海道拓殖銀行、三菱銀行、日本勧業銀行、住友銀行、三井銀行、北海道銀行、大和銀行の9行が並ぶ。特約店には三菱商事、関西鉱燃、日商、羽幌石炭販売、北海道石炭、橋本産業、山本石炭が付いた。販売先は日本国有鉄道、北海道電力、東洋高圧工業、国策パルプ工業、東京電力、中部電力、関西電力、富士製鉄である。年間取扱高は35万トンを数えた。
1955年5月23日、羽幌炭礦鉄道は札幌証券取引所に上場した。本社は札幌市大通西5丁目に置き、営業は東京・旭川・留萠に拠点を開設している。開坑から15年で、地方の一炭鉱会社は道内の資本市場に立った。ただし上場先は札幌のみで、東京証券取引所には出ていない。販売先には東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が並び、事業の相手は全国におよぶ。それでも資金調達の場は道内にとどまった。1954年度の産炭は35万8,000トンで、前年度から4万トン増えている。上場した1955年度の産炭は43万9,000トンだった。
1956年6月、町田叡光氏が社長に就任した。1940年7月の取締役支配人から数えて16年、専務を経ての昇格である。同じ月に横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任した。資本金は1956年に6億円、1959年に7億5,000万円へ引き上げられている。産炭は1953年度の31万7,000トンから、1955年度43万9,000トン、1957年度61万4,000トン、1959年度73万トンと伸び、1961年には105万トンに達した。8年で3.3倍である。従業員は約2,650名を数え、築別・羽幌の二鉱に加えて福島県勿来市に三松採炭所を持った。
増産の方法について、築別鉱業所長の小森豊氏は1960年の講演で明確に述べている。開山から20年を3期に分け、直近の10年を前進につぐ前進と位置づけ、能率は本邦においてA級にランクされるに至ったとした。そのうえで、こうした改革は決して斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いて行ったものだった。新鋭機の導入で一気に生産性を上げたのではない。すでに持っている設備を使い切る方向へ現場を組み替えた結果だった。築別鉱業所の出炭は1955年の26万トンから1960年に50万トンへ伸びている。
増産の一方で、業界の環境はすでに反転していた。専務取締役の朝比奈敬三氏は1960年12月の寄稿で、1958年の炭界不況による出炭制限を出発点として、突如として浮上した流体エネルギーとの競合のため、企業合理化・体質改善・1,200円のコストダウン・整理・ストライキという厄介な問題が相次いで迫ってきたと書いている。そのうえ炭鉱は保安確保という至上課題を背負っていた。羽幌炭礦鉄道が産炭を3.3倍にしたのは、石炭産業そのものが石油に置き換えられていく時期と正確に重なる。朝比奈氏はこの寄稿に、微光が射し始めた石炭鉱業という表題を付けている。
鉄道の輸送量は開通当時の9万トンから、1961年度に100万トンを突破した。1962年8月にはディーゼルカーを導入し、それまでの混合列車を客貨完全分離へ切り換えている。運行は1日あたり旅客8往復・貨物6往復となった。通勤通学のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を乗り入れ、混雑時は3両重連で走らせた。1962年12月からは名羽線の一部である曙と羽幌鉱の区間を借り受け、非営業線として輸送業務を担っている。これにより従来の索道輸送を鉄道輸送へ切り換え、石炭の流通経費を下げた。1日4往復の混合列車で始まった輸送は、20年で旅客と貨物を分けるまでになった。
鉄道の敵は雪だった。当地方は年間降雪量の累計が10m、積雪量が2mにおよぶ。国鉄築別駅の一帯は海岸に接近しているため、冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われた。列車の正常運転を確保するために毎年多大な労力と経費を要し、雪害による貯炭は曙構内で2万トンを超えた年もある。会社は除雪の機械力を増強し、モータカーロータリを導入した。自社線の除雪にとどまらず、国鉄へも出動して輸送の安全維持にあたっている。現業は4駅・1機関区・3線路班に区分され、保有車両は機関車・客車・貨車におよんだ。
1964年から赤字が積み上がりはじめた。1970年時点での累積は13億8,600万円にのぼる。それでも生産は減少していない。鉄道の輸送量は1966年度に111万トンを記録し、輸送品目に占める石炭の比率は96%を示した。旅客の乗降人員も135万6,000人を数えている。同じ1966年度には、築別炭鉱地区の小中学生のために走らせていたレールバスのスクールバス運行を中止した。相次ぐ出炭増で構内の入換が輻輳したためである。増産が地域サービスを押し出す水準まで来ていた。開通時の輸送量9万トンに対し、12倍の水準である。
1966年5月に横田周作氏が代表取締役専務、武井正美氏と小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就任した。翌6月には横田氏が社長となり、町田叡光氏は会長へ移っている。梶田氏は1934年に神戸商業大学を出て同年に満州撫順炭礦へ入り、終戦により大同煤礦へ留用され、1948年の留用解除で帰国して翌年に入社した経歴を持つ。1969年時点の従業員は約2,500名、資本金は7億5,000万円である。取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行の4行に絞られていた。1954年に9行だった取引銀行が半減している。
1970年3月期の年商は54億円内外に達した。上羽幌坑・築別西坑を含む3山で年間110万トン内外を採炭し、道北唯一のビルド鉱とされた。事業構成は石炭採掘が94%、私営鉄道が4%で、ほかに病院を経営した。ところが同年4月、減炭と労務者不足から生産体制の維持が困難となり、築別坑を休坑して年間85万トン内外へ目標を下げている。8月30日には関連会社が負債総額6億2,000万円内外を抱えて倒産した。そして9月2日、羽幌炭礦鉄道は札幌地裁に会社更生法の適用を申請する。負債総額は75億円内外だった。
会社が倒れた1970年は、石炭産業全体が急速に縮んだ年である。第4次石炭政策の実施後1年間で全国の閉山規模は844万トンに達し、1970年度もこれを300万トン以上上回る見通しとなって、なだれ閉山と呼ばれる状況になった。政府は同年4月2日に石炭鉱業審議会へ諮問し、11月に第5次石炭政策の中間答申が出ている。答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ、静かなる撤退を目的とする政策からの転換を意味した。背景には原料炭の国際的な品不足と価格上昇があった。政策が転換した月に、羽幌炭礦鉄道は閉山した。
1970年11月2日、羽幌炭礦鉄道は閉山した。離職した労務者は1,030名にのぼる。同じ日に札幌証券取引所での上場を廃止し、石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請している。申請時の会社名は羽幌炭砿、代表清算人は町田叡光氏だった。事業団に届け出た年間生産数量は鉱区ベース78万44トン、会社ベース95万1,439トンである。閉山の理由を吉岡宏高氏は、保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりで損益が極度に悪化した企業群の一つとして整理し、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山したと記述している。掘る炭も設備もまだあった。
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事実根拠:出所(羽幌炭礦鉄道)