羽幌炭礦鉄道 の歴史

更新:

創業

1940年

創業者

※太陽産業の出資・初代社長は岡新六

創業地

北海道苫前郡羽幌町

直近売上高(1969/3)

61億円

長期業績と転換点(1955/3〜1970/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1940年に炭鉱と鉄道を一つの会社で興したのか
A 石炭は掘れても運び出せなければ商品にならない。苫前炭田は1874年の踏査から66年にわたり手つかずだった。炭層が海岸から離れた山中にあり、輸送の手段を欠いたためである。神戸の鈴木商店の系譜に連なる太陽産業は1940年7月、北海道苫前郡羽幌町に資本金700万円で羽幌鉄道を設立し、同じ月に築別本坑を開坑した。翌1941年7月に両者は合併している。掘る主体と運ぶ主体を一つの会社に収めたのが羽幌炭礦鉄道であり、社名に炭礦と鉄道の双方が入るのはこの経緯による。初代社長には満鉄石炭研究所長を務めた岡新六氏が就いた
Q なぜ1961年に産炭を3.3倍へ伸ばしながら赤字に転じたのか
A 増産と需要の消滅が同時に進んだためである。1956年に社長へ就いた町田叡光氏のもとで産炭は伸び、1961年には105万トンと8年で3.3倍に達した。方法は新鋭機の導入ではなく、築別鉱業所長の小森豊氏が現有設備の完全駆使と呼んだ現場の組み替えだった。もっとも専務取締役の朝比奈敬三氏は1960年12月の寄稿で、1958年の炭界不況による出炭制限を出発点に流体エネルギーとの競合が迫ったと書いている。羽幌が産出したのは家庭用の暖房に向く非粘結性の亜瀝青炭である。増産の時期は、石炭が石油に置き換えられる時期と正確に重なった。
Q なぜ1970年に埋蔵炭と新設備を残したまま閉山したのか
A 炭が尽きたのではなく資金が尽きた。上羽幌坑・築別西坑を含む3山で年間110万トン内外を採掘し、道北唯一のビルド鉱とされていた。それでも1964年から積み上がった赤字は13億8,600万円に達し、1970年4月には減炭と労務者不足から築別坑を休坑する。8月30日に関連会社が倒産すると、9月2日に札幌地裁へ会社更生法の適用を申請した。負債総額は75億円内外である。11月2日の閉山で1,030名が離職した。吉岡宏高氏は、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残した企業ぐるみの閉山と記述している

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1874年〜 鈴木商店から太陽産業へ渡った最北の炭田(1874〜1946)

  1. 1917年 神戸市の鈴木商店が羽幌の鉱区を取得
  2. 1931年 神戸市の太陽産業が羽幌の鉱区を継承
  3. 1940年 築別炭礦の開礦と鉄道敷設を目的に羽幌鉄道を設立
  4. 1940年 築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑
  5. 1940年 岡新六氏が社長に就任
  6. 1941年 太陽産業羽幌鉱業所と羽幌鉄道が合併、羽幌炭鉱鉄道が発足
  7. 1941年 築別駅-築別炭鉱駅間16.6kmの私設鉄道が完成

踏査から66年を要した苫前炭田の開発

北海道北西部の苫前炭田が外部の目に触れたのは1874年[1]である。米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別の沿岸を踏査[2]し、この地区の調査が始まった。1888年には北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査[3]を行っている。炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方km[4]を占めた。産出するのは非粘結性の亜瀝青炭で、灰分が非常に少なく煤煙も少ない[5]。着火しやすい性質があり[6]、家庭用の暖房炭に向いた。ただし炭層は海岸から離れた山中にあり[7]、掘り出しても運び出す手段がなかった。踏査から半世紀を経ても、この炭田は手つかずのまま残った[8]

  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [1]1874年に米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査し、この地区の調査が始まった
    • [2]踏査を行ったのは米人地質学者ライマン
    • [3]1888年に北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査を実施した
    • [8]1874年の踏査から1940年の開坑まで66年を要した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [4]苫前炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方kmを占める
    • [5]産出炭は非粘結性亜瀝青炭で灰分が非常に少なく煤煙が少ない
    • [6]着火しやすいことが同炭の特長として挙げられている
    • [7]築別鉱業所は国鉄羽幌線築別駅から社線16.6kmを経て到達する山中に位置する

1917年、この鉱区は神戸の鈴木商店の所有となった[9]。鈴木商店は1927年に破綻し、鉱区は1931年に同じ神戸の太陽産業へ引き継がれた[10]。太陽産業は鈴木商店の系譜に連なる企業群の一社[11]である。鈴木商店の破綻後、その中堅社員が集まって1928年に設立したのが日商[12]であり、日商の姉妹会社にモリブデン鉱山を経営する神戸の太陽鉱工[13]があった。羽幌炭礦鉄道は、その太陽鉱工の子会社にあたる[14]。日本樟脳、鈴木薄荷、帝国樟脳、東邦金属、新日本金属化学[15]も同じ系列に並んだ。最北の炭田を掘る資金と人は、神戸の商社網[16]から来ている。

  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [9]1917年に羽幌の鉱区が神戸の鈴木商店の所有となった
    • [10]1931年に神戸の太陽産業が鉱区を継承した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [11]太陽鉱工とその子会社群は鈴木商店の後身である日商の系列に属した
    • [12]日商は1927年4月の鈴木商店破綻後、同店の中堅社員が相寄り1928年2月に設立された
    • [13]日商の姉妹会社に神戸の太陽鉱工(モリブデン鉱山経営)がある
    • [14]羽幌炭砿鉄道は太陽鉱工の子会社として記載されている
    • [15]同じ系列に日本樟脳・鈴木薄荷・帝国樟脳・東邦金属・新日本金属化学が並んだ
    • [16]羽幌炭砿鉄道は神戸の太陽鉱工の子会社として日商の系列に置かれた
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [1]1874年に米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査し、この地区の調査が始まった
    • [2]踏査を行ったのは米人地質学者ライマン
    • [3]1888年に北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査を実施した
    • [8]1874年の踏査から1940年の開坑まで66年を要した
    • [9]1917年に羽幌の鉱区が神戸の鈴木商店の所有となった
    • [10]1931年に神戸の太陽産業が鉱区を継承した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [4]苫前炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方kmを占める
    • [5]産出炭は非粘結性亜瀝青炭で灰分が非常に少なく煤煙が少ない
    • [6]着火しやすいことが同炭の特長として挙げられている
    • [7]築別鉱業所は国鉄羽幌線築別駅から社線16.6kmを経て到達する山中に位置する
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [11]太陽鉱工とその子会社群は鈴木商店の後身である日商の系列に属した
    • [12]日商は1927年4月の鈴木商店破綻後、同店の中堅社員が相寄り1928年2月に設立された
    • [13]日商の姉妹会社に神戸の太陽鉱工(モリブデン鉱山経営)がある
    • [14]羽幌炭砿鉄道は太陽鉱工の子会社として記載されている
    • [15]同じ系列に日本樟脳・鈴木薄荷・帝国樟脳・東邦金属・新日本金属化学が並んだ
    • [16]羽幌炭砿鉄道は神戸の太陽鉱工の子会社として日商の系列に置かれた

鉄道と炭鉱を一体で興した1940年の設立

1939年9月、国鉄築別駅を分岐点として築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許が申請され[17]、1940年5月に免許となった[18]。同年7月、資本金700万円で羽幌鉄道が設立される[19]。同じ月に太陽産業は築別本坑を羽幌鉱業所として開坑[20]した。鉄道会社と炭鉱を並行して立ち上げ、1941年7月に両者は合併して羽幌炭鉱鉄道が発足[21]している。掘る主体と運ぶ主体を一つの会社に収めた形であり、社名に炭礦と鉄道の双方が入るのはこの経緯による[22]。石炭を掘っても運べないという苫前炭田の制約を、鉄道を自前で持つことで解いた[23]

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [17]1939年9月に築別駅から築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許を申請した
    • [18]1940年5月に敷設免許となった
    • [23]鉄道は石炭輸送を主要目的として敷設された
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [19]羽幌鉄道は1940年7月に資本金700万円で設立された
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [20]1940年7月に築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑した
    • [21]1941年7月に羽幌鉄道と合併し、羽幌炭鉱鉄道として発足した
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [22]主要業務は石炭その他鉱物の採掘販売業と地方鉄道法による一般運輸の業務の二本立てだった

経営陣には満鉄と撫順の経歴を持つ技術者[24]が並んだ。初代社長の岡新六氏は1885年11月に福井県で生まれ[25]、京都帝国大学工学部の第一回卒業生で工学博士の学位を持つ。満鉄石炭研究所長を経て1940年7月に社長へ[26]就いた。同じ月、東京商科大学を出て神戸製鋼所にいた町田叡光氏が取締役支配人として加わっている[27]。1947年8月には撫順炭礦大山採炭所長だった朝比奈敬三氏が入社[28]し、同年11月に常務取締役として技術部を担当した。1943年2月に経理部長となった嶋内義治氏[29]は、南樺太塩業の取締役支配人を務めた人物である。

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [24]岡新六は元満鉄石炭研究所長、朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長
    • [25]岡新六は1885年11月福井県生、京大工学部第一回卒、工学博士
    • [26]岡新六は元満鉄石炭研究所長を経て昭和15年7月に現職(社長)に就いた
    • [27]町田叡光は東京商大卒・神戸製鋼所を経て昭和15年7月に当社取締役支配人となった
    • [28]朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長で昭和22年8月入社、同年11月に常務取締役技術部担当となった
    • [29]嶋内義治は元南樺太塩業取締役支配人で昭和18年2月に当社経理部長となった

鉄道は第二次世界大戦の資材不足のなかで工事が進み[30]、1941年12月14日に営業を開始した[31]。総従業員45名、1日4往復の混合列車[32]という規模である。石炭輸送を主目的としつつ、地方開発の一助として一般営業も行った[33]。もっとも開業から終戦までの5年間について、後年に築別鉱業所長を務めた小森豊氏は低迷時代と振り返り[34]、戦争のどさくさにまぎれて行き当たりばったりの経営を行ってきたにすぎないと述べている。1945年の築別鉱業所の出炭は4.8万トン[35]にとどまった。掘る手段も運ぶ手段も揃えたが、戦時下ではその能力を使い切れなかった[36]

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [30]第2次世界大戦下の資材不足の困難を克服して開業にこぎつけた
    • [31]1941年12月14日から地方鉄道として営業を開始した
    • [32]営業開始時は総従業員45名、1日4往復の混合列車だった
    • [33]鉄道は石炭輸送を主要目的とし、併せて当地方開発の一助として一般営業を行うものだった
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [34]小森豊は開山からの最初の5年を「低迷時代」とし、戦争のどさくさにまぎれた行き当たりばったりの経営だったと述べた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [35]築別鉱業所の出炭は昭和20年に4.8万トンだった
    • [36]昭和20年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンにとどまった
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [17]1939年9月に築別駅から築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許を申請した
    • [18]1940年5月に敷設免許となった
    • [23]鉄道は石炭輸送を主要目的として敷設された
    • [30]第2次世界大戦下の資材不足の困難を克服して開業にこぎつけた
    • [31]1941年12月14日から地方鉄道として営業を開始した
    • [32]営業開始時は総従業員45名、1日4往復の混合列車だった
    • [33]鉄道は石炭輸送を主要目的とし、併せて当地方開発の一助として一般営業を行うものだった
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [19]羽幌鉄道は1940年7月に資本金700万円で設立された
    • [24]岡新六は元満鉄石炭研究所長、朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長
    • [25]岡新六は1885年11月福井県生、京大工学部第一回卒、工学博士
    • [26]岡新六は元満鉄石炭研究所長を経て昭和15年7月に現職(社長)に就いた
    • [27]町田叡光は東京商大卒・神戸製鋼所を経て昭和15年7月に当社取締役支配人となった
    • [28]朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長で昭和22年8月入社、同年11月に常務取締役技術部担当となった
    • [29]嶋内義治は元南樺太塩業取締役支配人で昭和18年2月に当社経理部長となった
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [20]1940年7月に築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑した
    • [21]1941年7月に羽幌鉄道と合併し、羽幌炭鉱鉄道として発足した
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [22]主要業務は石炭その他鉱物の採掘販売業と地方鉄道法による一般運輸の業務の二本立てだった
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [34]小森豊は開山からの最初の5年を「低迷時代」とし、戦争のどさくさにまぎれた行き当たりばったりの経営だったと述べた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [35]築別鉱業所の出炭は昭和20年に4.8万トンだった
    • [36]昭和20年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンにとどまった

1947年〜 自然発火と乱掘の坑内を建て直した苦肉の時代(1947〜1955)

  1. 1947年 羽幌炭礦の開礦に着手
  2. 1947年 町田叡光氏が専務取締役に就任
  3. 1947年 朝比奈敬三氏が常務取締役技術部担当に就任
  4. 1950年 増資
  5. 1951年 築別炭礦の合理化工事に着工
  6. 1952年 増資
  7. 1953年 築別炭礦の合理化工事が完成。年産40万瓲を目途とする体制へ

命旦夕に迫る状況からの坑内の建て直し

終戦後の5年間を、小森豊氏は苦肉の時代と呼んだ[37]。終戦の混乱に加え、無計画な乱掘による自然発火が頻発し、坑道が荒れた[38]。労働事情も極度に悪化し、命旦夕に迫る状況だった[39]と述べている。戦時中に増産を優先して掘り進めた結果が、そのまま坑内の荒廃として残った[40]。この時期に着手したのが第二の炭鉱の開発であり、1947年から羽幌炭礦の開礦にかかっている[41]。築別炭礦だけでは規模が足りず[42]、一鉱に依存する構造そのものが危うかった。1950年の築別鉱業所の出炭は11万トン[43]で、5年前の4.8万トンから2.3倍になった[44]

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [37]小森豊は終戦後の5年を「苦肉の時代」と呼んだ
    • [38]終戦の混乱、無計画な乱掘による自然発火、坑道の荒れが重なった
    • [39]労働事情も極度に悪化して命旦夕に迫る状況だったと述べている
    • [40]無計画な乱掘による自然発火と坑道の荒れが終戦後に残った
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [41]1947年より羽幌炭礦の開礦に着手した
    • [42]1947年から第二の鉱として羽幌炭礦の開礦に着手した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [43]築別鉱業所の出炭は昭和25年に11万トンとなった
    • [44]昭和20年の4.8万トンから昭和25年の11万トンへ増加した

設備投資は増資で賄った[45]。資本金は1950年に2,500万円[46]、1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円[47]と、2年間で20倍を超える規模へ引き上げられている。1951年には築別炭礦の合理化工事に着工し、1953年11月に完成した[48]。年産40万トンを目標とする体制を組み[49]、築別・羽幌の両炭礦を合わせた1953年度の産炭は31万7,000トンを超えた[50]。同じ時期の役員には、満洲製鉄北海道採炭所長だった磯野賢一氏が築別鉱業所長[51]、帝国燃料興業内淵鉱業所副所長だった奥田清生氏が羽幌鉱業所長[52]として並んでいる。旧満洲の現場を踏んだ技術者が、二つの鉱業所をそれぞれ預かった[53]

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [45]1950年から1952年にかけて2,500万円・5,000万円・1億5,000万円と増資を重ねた
    • [46]資本金は1950年に2,500万円へ増資された
    • [47]1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円へ増資した
    • [48]1951年度着工の築別炭礦の合理化工事が1953年11月に完成した
    • [49]昭和29年度は年産40万トンを目途として計画を進めた
    • [50]築別炭礦・羽幌炭礦を併せた昭和28年度の産炭実績は31万7,000余トンを突破した
    • [51]磯野賢一は元満洲製鉄北海道採炭所長で昭和24年11月に築別鉱業所長となった
    • [52]奥田清生は元帝国燃料興業内淵鉱業所副所長で昭和24年1月に羽幌鉱業所長となった
    • [53]磯野賢一が築別鉱業所長、奥田清生が羽幌鉱業所長を務めた
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [37]小森豊は終戦後の5年を「苦肉の時代」と呼んだ
    • [38]終戦の混乱、無計画な乱掘による自然発火、坑道の荒れが重なった
    • [39]労働事情も極度に悪化して命旦夕に迫る状況だったと述べている
    • [40]無計画な乱掘による自然発火と坑道の荒れが終戦後に残った
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [41]1947年より羽幌炭礦の開礦に着手した
    • [42]1947年から第二の鉱として羽幌炭礦の開礦に着手した
    • [45]1950年から1952年にかけて2,500万円・5,000万円・1億5,000万円と増資を重ねた
    • [46]資本金は1950年に2,500万円へ増資された
    • [47]1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円へ増資した
    • [48]1951年度着工の築別炭礦の合理化工事が1953年11月に完成した
    • [49]昭和29年度は年産40万トンを目途として計画を進めた
    • [50]築別炭礦・羽幌炭礦を併せた昭和28年度の産炭実績は31万7,000余トンを突破した
    • [51]磯野賢一は元満洲製鉄北海道採炭所長で昭和24年11月に築別鉱業所長となった
    • [52]奥田清生は元帝国燃料興業内淵鉱業所副所長で昭和24年1月に羽幌鉱業所長となった
    • [53]磯野賢一が築別鉱業所長、奥田清生が羽幌鉱業所長を務めた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [43]築別鉱業所の出炭は昭和25年に11万トンとなった
    • [44]昭和20年の4.8万トンから昭和25年の11万トンへ増加した

神戸の商社網と札幌証券取引所への上場

1954年時点の会長は高畑誠一氏[54]である。鈴木商店の大番頭として知られ、日商を興した人物が、その系列会社の会長を兼ねた[55]。取引銀行には日本興業銀行、第一銀行、北海道拓殖銀行、三菱銀行[56]、日本勧業銀行、住友銀行、三井銀行、北海道銀行、大和銀行の9行が並ぶ。特約店には三菱商事、関西鉱燃、日商、羽幌石炭販売[57]、北海道石炭、橋本産業、山本石炭が付いた。販売先は日本国有鉄道、北海道電力、東洋高圧工業、国策パルプ工業[58]、東京電力、中部電力、関西電力、富士製鉄である。年間取扱高は35万トン[59]を数えた。

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [54]1954年版の役員名で会長は高畑誠一
    • [56]取引銀行は日本興業銀行・第一銀行・北海道拓殖銀行・三菱銀行・日本勧業銀行・住友銀行・三井銀行・北海道銀行・大和銀行
    • [57]特約店は三菱商事・関西鉱燃・日商・羽幌石炭販売・北海道石炭・橋本産業・山本石炭
    • [58]主要販売先は日本国有鉄道・北海道電力・東洋高圧工業・国策パルプ工業・東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄
    • [59]年間取扱高は35万トン
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [55]日商は鈴木商店破綻後にその中堅社員が設立した貿易会社である

1955年5月23日、羽幌炭礦鉄道は札幌証券取引所に[60]上場した。本社は札幌市大通西5丁目に置き[61]、営業は東京・旭川・留萠に拠点を構えている[62]。開坑から15年で、地方の一炭鉱会社は道内の資本市場に[63]立った。ただし上場先は札幌のみ[64]で、東京証券取引所には出ていない。販売先には東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が並び[65]、事業の相手は全国におよぶ。それでも資金調達の場は道内にとどまった[66]。1954年度の産炭は35万8,000トン[67]で、前年度から4万トン増えている。上場した1955年度の産炭は43万9,000トン[68]だった。

  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [60]1955年5月23日に札幌証券取引所へ上場した
    • [63]1940年7月の開坑から1955年5月の上場まで15年を要した
    • [64]札幌証券取引所の上場・廃止一覧に羽幌炭砿鉄道が記載されている
    • [66]上場先は札幌証券取引所のみだった
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [61]本社は札幌市大通西5丁目に所在した
    • [62]営業機構として東京営業所・旭川駐在所・留萠駐在所を置いた
    • [65]主要販売先に東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が含まれる
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [67]昭和29年度の産炭は35万8,000トン
    • [68]昭和30年度の産炭は43万9,000トン
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [54]1954年版の役員名で会長は高畑誠一
    • [56]取引銀行は日本興業銀行・第一銀行・北海道拓殖銀行・三菱銀行・日本勧業銀行・住友銀行・三井銀行・北海道銀行・大和銀行
    • [57]特約店は三菱商事・関西鉱燃・日商・羽幌石炭販売・北海道石炭・橋本産業・山本石炭
    • [58]主要販売先は日本国有鉄道・北海道電力・東洋高圧工業・国策パルプ工業・東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄
    • [59]年間取扱高は35万トン
    • [61]本社は札幌市大通西5丁目に所在した
    • [62]営業機構として東京営業所・旭川駐在所・留萠駐在所を置いた
    • [65]主要販売先に東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が含まれる
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [55]日商は鈴木商店破綻後にその中堅社員が設立した貿易会社である
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [60]1955年5月23日に札幌証券取引所へ上場した
    • [63]1940年7月の開坑から1955年5月の上場まで15年を要した
    • [64]札幌証券取引所の上場・廃止一覧に羽幌炭砿鉄道が記載されている
    • [66]上場先は札幌証券取引所のみだった
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [67]昭和29年度の産炭は35万8,000トン
    • [68]昭和30年度の産炭は43万9,000トン

1956年〜 能率を本邦A級へ押し上げた二つの鉱業所と鉄道(1956〜1963)

羽幌炭礦鉄道の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1956年 増資、産炭54万6,000屯
  2. 1956年 町田叡光氏が社長に就任
  3. 1956年 横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任
  4. 1959年 増資、産炭73万屯
  5. 1961年 産炭105万屯に到達、従業員約2,650名
  6. 1961年 築別・羽幌の2鉱に加え三松採炭所を保有

現有設備の完全駆使という合理化の方法

1956年6月、町田叡光氏が社長に[69]就任した。1940年7月の取締役支配人から数えて16年、専務を経ての昇格[70]である。同じ月に横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就いた[71]。資本金は1956年に6億円、1959年に7億5,000万円[72]へ引き上げられている。産炭は1953年度の31万7,000トンから、1955年度43万9,000トン、1957年度61万4,000トン、1959年度73万トン[73]と伸び、1961年には105万トンに達した[74]。8年で3.3倍[75]である。従業員は約2,650名を数え[76]、築別・羽幌の二鉱に加えて福島県勿来市に三松採炭所を持った[77]

  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [69]町田叡光は昭和31年6月に社長に就任した
    • [70]町田叡光は昭和15年7月に取締役支配人、昭和22年に専務取締役を経て昭和31年6月に社長となった
    • [71]横田周作・武井正美・小森豊はいずれも昭和31年6月に取締役へ就任した
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [72]資本金は昭和31年に6億円、昭和34年に7億5,000万円へ増資された
    • [73]昭和30年度43万9,000トン、昭和32年度61万4,000トン、昭和34年度73万トンと推移した
    • [74]昭和36年に105万トンに達した
    • [75]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ増加した
    • [76]従業員数は約2,650名
    • [77]鉱業所は築別鉱業所・羽幌鉱業所に加え福島県勿来市の三松採炭所を擁した

増産の方法について、築別鉱業所長の小森豊氏は1960年の講演で明確に述べている[78]。開山から20年を3期に分け、直近の10年を前進につぐ前進と位置づけ[79]、能率は本邦においてA級にランクされるに至ったとした[80]。そのうえで、こうした改革は決して斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いて行ったものだと説明している[81]。新鋭機の導入で一気に生産性を上げた[82]のではない。すでに持っている設備を使い切る方向[83]へ現場を組み替えた結果だった。築別鉱業所の出炭は1955年の26万トンから1960年に50万トン[84]へ伸びている。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [78]小森豊は昭和35年度総会の講演で築別炭砿の合理化を報告した
    • [79]小森豊は開山からの20年を3期に分け、第三期の10年を「前進につぐ前進」とした
    • [80]能率は本邦においてA級にランクされるに至ったと述べた
    • [81]改革は斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
    • [82]小森豊は改革が斬新奇抜なものによったのではないと述べた
    • [83]現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [84]築別鉱業所の出炭は昭和30年に26万トン、昭和35年に50万トンとなった

増産の一方で、業界の環境はすでに反転していた[85]。専務取締役の朝比奈敬三氏は1960年12月の寄稿で[86]、1958年の炭界不況による出炭制限を出発点として[87]、突如として浮上した流体エネルギーとの競合[88]のため、企業合理化・体質改善・1,200円のコストダウン・整理・ストライキ[89]という厄介な問題が相次いで迫ってきたと書いている。そのうえ炭鉱は保安確保という至上課題を背負うとも述べた[90]。羽幌炭礦鉄道が産炭を3.3倍にしたのは[91]、石炭産業そのものが石油に置き換えられていく時期と正確に重なる。朝比奈氏はこの寄稿に、微光が射し始めた石炭鉱業という表題[92]を付けている。

  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
    • [85]昭和33年の炭界不況による出炭制限と流体エネルギーとの競合が生じた
    • [86]朝比奈敬三は1960年12月の炭鉱技術に「微光が射し始めた石炭鉱業」を寄稿した
    • [87]昭和33年の炭界不況による出炭制限を出発点とすると述べた
    • [88]突如クローズアップされた流体エネルギーとの競合を挙げた
    • [89]企業合理化・体質改善・1200円のコストダウン・整理・ストライキが迫ったと書いた
    • [90]そのうえ炭鉱では保安確保という至上課題を背負っていると述べた
    • [92]寄稿の表題は「微光が射し始めた石炭鉱業」
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [91]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ3.3倍に増加した
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [69]町田叡光は昭和31年6月に社長に就任した
    • [70]町田叡光は昭和15年7月に取締役支配人、昭和22年に専務取締役を経て昭和31年6月に社長となった
    • [71]横田周作・武井正美・小森豊はいずれも昭和31年6月に取締役へ就任した
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [72]資本金は昭和31年に6億円、昭和34年に7億5,000万円へ増資された
    • [73]昭和30年度43万9,000トン、昭和32年度61万4,000トン、昭和34年度73万トンと推移した
    • [74]昭和36年に105万トンに達した
    • [75]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ増加した
    • [76]従業員数は約2,650名
    • [77]鉱業所は築別鉱業所・羽幌鉱業所に加え福島県勿来市の三松採炭所を擁した
    • [91]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ3.3倍に増加した
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [78]小森豊は昭和35年度総会の講演で築別炭砿の合理化を報告した
    • [79]小森豊は開山からの20年を3期に分け、第三期の10年を「前進につぐ前進」とした
    • [80]能率は本邦においてA級にランクされるに至ったと述べた
    • [81]改革は斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
    • [82]小森豊は改革が斬新奇抜なものによったのではないと述べた
    • [83]現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [84]築別鉱業所の出炭は昭和30年に26万トン、昭和35年に50万トンとなった
  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
    • [85]昭和33年の炭界不況による出炭制限と流体エネルギーとの競合が生じた
    • [86]朝比奈敬三は1960年12月の炭鉱技術に「微光が射し始めた石炭鉱業」を寄稿した
    • [87]昭和33年の炭界不況による出炭制限を出発点とすると述べた
    • [88]突如クローズアップされた流体エネルギーとの競合を挙げた
    • [89]企業合理化・体質改善・1200円のコストダウン・整理・ストライキが迫ったと書いた
    • [90]そのうえ炭鉱では保安確保という至上課題を背負っていると述べた
    • [92]寄稿の表題は「微光が射し始めた石炭鉱業」

索道から鉄道へ切り換えた石炭輸送

鉄道の輸送量は開通当時の9万トンから、1961年度に100万トンを突破した[93]。1962年8月にはディーゼルカーを導入し[94]、それまでの混合列車を客貨完全分離へ切り換えている。運行は1日あたり旅客8往復・貨物6往復[95]となった。通勤通学のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を乗り入れ、混雑時は3両重連で走らせた[96]。1962年12月からは名羽線の一部である曙と羽幌鉱の区間を借り受け[97]、非営業線として輸送業務を担っている。これにより従来の索道輸送を鉄道輸送へ切り換え、石炭の流通経費を下げた[98]。1日4往復の混合列車で始まった輸送は、20年で旅客と貨物を分けるまでになった[99]

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [93]開通当時9万トンの輸送量に対し昭和36年度は100万トンを突破した
    • [94]昭和37年8月にディーゼルカーを導入して従来の混合列車を完全に客貨分離した
    • [95]1日旅客8往復・貨物6往復を運行した
    • [96]通勤通学の便宜のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を運行し、混雑時は3両重連とした
    • [97]昭和37年12月から名羽線の一部(曙〜羽幌鉱)を借り受け非営業線として輸送業務にあたった
    • [98]従来の索道輸送を鉄道輸送に切り換え、石炭流通経費の運賃軽減に効果をあげた
    • [99]1941年12月の4往復混合列車から1962年8月の客貨分離まで20年を要した

鉄道の敵は雪[100]だった。当地方は年間降雪量の累計が10m、積雪量が2mにおよぶ[101]。国鉄築別駅の一帯は海岸に接近しているため、冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われた[102]。列車の正常運転を確保するために毎年多大な労力と経費を要し、雪害による貯炭は曙構内で2万トンを超えた年もある[103]。会社は除雪の機械力を増強し、モータカーロータリを導入[104]した。自社線の除雪にとどまらず、国鉄へも出動して輸送の安全維持にあたっている[105]。現業は4駅・1機関区・3線路班[106]に区分され、保有車両は機関車・客車・貨車におよんだ。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [100]列車の正常運転確保に毎年多大な労力と経費を要した
    • [101]当地方は年間降雪量累計10m・積雪量2mにおよぶ豪雪地帯である
    • [102]国鉄築別駅一帯は海岸に接近しており冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われる
    • [103]雪害による貯炭量は曙構内で2万トンを越えた
    • [104]雪害対策として機械力の増強をはかりモータカーロータリを導入した
    • [105]全力をもって国鉄にも出動して輸送の安全維持に努めた
    • [106]現業は4駅・1機関区・3線路班に区分されている
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [93]開通当時9万トンの輸送量に対し昭和36年度は100万トンを突破した
    • [94]昭和37年8月にディーゼルカーを導入して従来の混合列車を完全に客貨分離した
    • [95]1日旅客8往復・貨物6往復を運行した
    • [96]通勤通学の便宜のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を運行し、混雑時は3両重連とした
    • [97]昭和37年12月から名羽線の一部(曙〜羽幌鉱)を借り受け非営業線として輸送業務にあたった
    • [98]従来の索道輸送を鉄道輸送に切り換え、石炭流通経費の運賃軽減に効果をあげた
    • [99]1941年12月の4往復混合列車から1962年8月の客貨分離まで20年を要した
    • [100]列車の正常運転確保に毎年多大な労力と経費を要した
    • [101]当地方は年間降雪量累計10m・積雪量2mにおよぶ豪雪地帯である
    • [102]国鉄築別駅一帯は海岸に接近しており冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われる
    • [103]雪害による貯炭量は曙構内で2万トンを越えた
    • [104]雪害対策として機械力の増強をはかりモータカーロータリを導入した
    • [105]全力をもって国鉄にも出動して輸送の安全維持に努めた
    • [106]現業は4駅・1機関区・3線路班に区分されている

1964年〜 累積赤字となだれ閉山による企業ぐるみ撤退(1964〜1970)

羽幌炭礦鉄道の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1964年 この年以降、赤字が累積しはじめる(1970年時点の累積13億8,600万円)
  2. 1966年 横田周作氏が社長に就任、町田叡光氏は会長へ
  3. 1970年 上羽幌坑・築別西坑ほか3山で年間110万トン内外を採炭
  4. 1970年 減炭と労務者不足で築別坑を休坑、生産目標を年間85万トンに縮小
  5. 1970年 札幌地裁に会社更生法の適用を申請
  6. 1970年 閉山、労務者1,030名
  7. 1970年 札幌証券取引所での上場を廃止

増産を続けながら積み上がった赤字

1964年から赤字が積み上がり[107]はじめた。1970年時点での累積は13億8,600万円[108]にのぼる。それでも生産は落ちていない[109]。鉄道の輸送量は1966年度に111万トンを記録し[110]、輸送品目に占める石炭の比率は96%[111]を示した。旅客の乗降人員も135万6,000人[112]を数えている。同じ1966年度には、築別炭鉱地区の小中学生のために走らせていたレールバスのスクールバス運行を中止した[113]。相次ぐ出炭増で構内の入換が輻輳[114]したためである。増産が地域サービスを押し出す水準[115]まで来ていた。開通時の輸送量9万トンに対し、12倍[116]の水準である。

  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [107]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円
    • [108]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円にのぼった
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [109]昭和41年度の鉄道輸送量は111万トンを記録した
    • [110]鉄道の輸送量は昭和41年度に111万トンを記録した
    • [111]主要物資別輸送実績では石炭が大半の96%を示した
    • [112]昭和41年度の旅客乗降人員は1,356,000人だった
    • [113]築別炭鉱地区の小中学生の登下校時間帯に運行していたレールバスのスクールバスを昭和41年度に中止した
    • [114]中止の理由は相次ぐ出炭増に伴う構内入換えの輻輳だった
    • [115]出炭増に伴う構内入換えの輻輳でスクールバス運行を中止した
    • [116]開通当時9万トンに対し昭和41年度は111万トン

1966年5月に横田周作氏が代表取締役専務[117]、武井正美氏と小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就いた。翌6月には横田氏が社長となり、町田叡光氏は会長へ[118]移っている。梶田氏は1934年に神戸商業大学を出て同年に満州撫順炭礦へ入り[119]、終戦により大同煤礦へ留用され、1948年の留用解除で帰国して翌年に入社した経歴を持つ。1969年時点の従業員は約2,500名、資本金は7億5,000万円[120]である。取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行の4行[121]に絞られていた。1954年に9行だった取引銀行[122]が半減している。

  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [117]昭和41年5月に横田周作が代表取締役専務、武井正美・小森豊が常務取締役、梶田五郎が取締役に就任した
    • [119]梶田五郎は昭和9年神戸商業大学卒、同年満州撫順炭礦入社、終戦により大同煤礦に留用、昭和23年留用解除帰国、昭和24年入社
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [118]昭和41年6月に横田周作が取締役社長に就任し、町田叡光は取締役会長となった
    • [120]1969年版の従業員数は約2,500名、資本金は7億5,000万円
    • [121]1969年版の取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [122]1954年版の取引銀行は9行だった
  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [107]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円
    • [108]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円にのぼった
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [109]昭和41年度の鉄道輸送量は111万トンを記録した
    • [110]鉄道の輸送量は昭和41年度に111万トンを記録した
    • [111]主要物資別輸送実績では石炭が大半の96%を示した
    • [112]昭和41年度の旅客乗降人員は1,356,000人だった
    • [113]築別炭鉱地区の小中学生の登下校時間帯に運行していたレールバスのスクールバスを昭和41年度に中止した
    • [114]中止の理由は相次ぐ出炭増に伴う構内入換えの輻輳だった
    • [115]出炭増に伴う構内入換えの輻輳でスクールバス運行を中止した
    • [116]開通当時9万トンに対し昭和41年度は111万トン
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [117]昭和41年5月に横田周作が代表取締役専務、武井正美・小森豊が常務取締役、梶田五郎が取締役に就任した
    • [119]梶田五郎は昭和9年神戸商業大学卒、同年満州撫順炭礦入社、終戦により大同煤礦に留用、昭和23年留用解除帰国、昭和24年入社
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [118]昭和41年6月に横田周作が取締役社長に就任し、町田叡光は取締役会長となった
    • [120]1969年版の従業員数は約2,500名、資本金は7億5,000万円
    • [121]1969年版の取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [122]1954年版の取引銀行は9行だった

埋蔵炭と新設備を残した企業ぐるみ閉山

1970年3月期の年商は54億円内外[123]に達した。上羽幌坑・築別西坑を含む3山で年間110万トン内外を採炭し、道北唯一のビルド鉱とされた[124]。事業構成は石炭採掘が94%、私営鉄道が4%[125]で、ほかに病院を経営した。ところが同年4月、減炭と労務者不足から生産体制の維持が困難となり、築別坑を休坑して年間85万トン内外へ目標を下げている[126]。8月30日には関連会社が負債総額6億2,000万円内外[127]を抱えて倒産した。そして9月2日、羽幌炭礦鉄道は札幌地裁に会社更生法の適用を申請する[128]。負債総額は75億円内外[129]だった。

  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [123]45年3月期決算において年度54億円内外をあげていた
    • [124]上羽幌坑・築別西坑ほか3山を有し年間110万トン内外を採炭する道北唯一のビルド鉱だった
    • [125]石炭採掘94%、私営鉄道4%、そのほか病院経営を行っていた
    • [126]1970年4月に築別坑を休坑し年間85万トン内外を目標とした
    • [127]1970年8月30日に関連会社が負債総額6億2,000万円内外で倒産した
    • [128]1970年9月2日に札幌地裁へ会社更生法の適用を申請し、負債総額は75億円内外だった
    • [129]負債総額75億円内外を抱えて会社更生法を申請した

会社が倒れた1970年は、石炭産業全体が急速に縮んだ年[130]である。第4次石炭政策の実施後1年間で全国の閉山規模は844万トンに達し[131]、1970年度もこれを300万トン以上上回る見通しとなって、なだれ閉山と呼ばれる状況になった[132]。政府は同年4月2日に石炭鉱業審議会へ諮問し[133]、11月に第5次石炭政策の中間答申が出ている[134]。答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ、静かなる撤退を目的とする政策からの転換を意味した[135]。背景には原料炭の国際的な品不足と価格上昇[136]があった。政策が転換した月に[137]、羽幌炭礦鉄道は閉山した。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
    • [130]昭和45年度の閉山は300万トンを上回る見通しとなった
    • [131]第4次対策実施後1年間における全国閉山規模は844万トンに達した
    • [132]昭和45年度における閉山も300万トンを上回る見通しとなり「なだれ閉山」の様相を強めた
    • [133]政府は昭和45年4月2日に石炭鉱業審議会に対し体制上の改善策を諮問した
    • [134]石炭鉱業審議会は昭和45年11月に中間答申を発表した
    • [135]中間答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ「静かなる撤退」を目的とする政策からの転換を意味した
    • [136]原料炭の国際的な品不足により価格は上昇しつつあった
    • [137]中間答申は昭和45年11月、閉山は同年11月2日

1970年11月2日[138]、羽幌炭礦鉄道は閉山した。離職した労務者は1,030名[139]にのぼる。同じ日に札幌証券取引所での上場を廃止し[140]、石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請している[141]。申請時の会社名は羽幌炭砿、代表清算人は町田叡光氏[142]だった。事業団に届け出た年間生産数量は鉱区ベース78万44トン、会社ベース95万1,439トン[143]である。閉山の理由を吉岡宏高氏は、保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりで損益が極度に悪化した企業群の一つとして整理し、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山した[144]と記述している。掘る炭も設備も[145]まだあった。

  • 石炭年鑑 1971年版(大同通信社、1971年)
    • [138]羽幌炭礦鉄道は11月2日に閉山し、労務者は1,030名だった
    • [139]閉山時の労務者数は1,030名
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [140]昭和45年11月2日に札幌証券取引所での上場を廃止した
  • 団史 整備・近代化編(石炭鉱業合理化事業団、1976年)
    • [141]石炭鉱業合理化事業団への交付申請年月日は45年11月2日だった
    • [142]交付申請時の会社名は羽幌炭砿株式会社、代表清算人は町田叡光
    • [143]年間生産数量は鉱区ベース780,044トン、会社ベース951,439トン
  • 戦後北海道の石炭産業(石炭斜陽化以降の北海道炭鉱汽船の経営を事例として)改訂版(吉岡宏高、1992年)
    • [144]保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりなどの要因で損益が極度に悪化していた企業群が、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山した
    • [145]大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して閉山した
  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [123]45年3月期決算において年度54億円内外をあげていた
    • [124]上羽幌坑・築別西坑ほか3山を有し年間110万トン内外を採炭する道北唯一のビルド鉱だった
    • [125]石炭採掘94%、私営鉄道4%、そのほか病院経営を行っていた
    • [126]1970年4月に築別坑を休坑し年間85万トン内外を目標とした
    • [127]1970年8月30日に関連会社が負債総額6億2,000万円内外で倒産した
    • [128]1970年9月2日に札幌地裁へ会社更生法の適用を申請し、負債総額は75億円内外だった
    • [129]負債総額75億円内外を抱えて会社更生法を申請した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
    • [130]昭和45年度の閉山は300万トンを上回る見通しとなった
    • [131]第4次対策実施後1年間における全国閉山規模は844万トンに達した
    • [132]昭和45年度における閉山も300万トンを上回る見通しとなり「なだれ閉山」の様相を強めた
    • [133]政府は昭和45年4月2日に石炭鉱業審議会に対し体制上の改善策を諮問した
    • [134]石炭鉱業審議会は昭和45年11月に中間答申を発表した
    • [135]中間答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ「静かなる撤退」を目的とする政策からの転換を意味した
    • [136]原料炭の国際的な品不足により価格は上昇しつつあった
    • [137]中間答申は昭和45年11月、閉山は同年11月2日
  • 石炭年鑑 1971年版(大同通信社、1971年)
    • [138]羽幌炭礦鉄道は11月2日に閉山し、労務者は1,030名だった
    • [139]閉山時の労務者数は1,030名
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [140]昭和45年11月2日に札幌証券取引所での上場を廃止した
  • 団史 整備・近代化編(石炭鉱業合理化事業団、1976年)
    • [141]石炭鉱業合理化事業団への交付申請年月日は45年11月2日だった
    • [142]交付申請時の会社名は羽幌炭砿株式会社、代表清算人は町田叡光
    • [143]年間生産数量は鉱区ベース780,044トン、会社ベース951,439トン
  • 戦後北海道の石炭産業(石炭斜陽化以降の北海道炭鉱汽船の経営を事例として)改訂版(吉岡宏高、1992年)
    • [144]保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりなどの要因で損益が極度に悪化していた企業群が、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山した
    • [145]大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して閉山した

羽幌炭礦鉄道の沿革1874〜1970年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査
北海道庁が羽幌川・築別川筋の炭層調査を実施
神戸市の鈴木商店が羽幌の鉱区を取得★★
神戸市の太陽産業が羽幌の鉱区を継承★★
築別炭礦の開礦と鉄道敷設を目的に羽幌鉄道を設立★★★
築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑★★
岡新六氏が社長に就任★★
町田叡光氏が取締役支配人に就任
太陽産業羽幌鉱業所と羽幌鉄道が合併、羽幌炭鉱鉄道が発足★★
築別駅-築別炭鉱駅間16.6kmの私設鉄道が完成★★
羽幌炭礦の開礦に着手★★
町田叡光氏が専務取締役に就任
朝比奈敬三氏が常務取締役技術部担当に就任
増資
築別炭礦の合理化工事に着工★★
増資
増資
築別炭礦・羽幌炭礦を併せた産炭実績が31万7,000余屯を突破
築別炭礦の合理化工事が完成。年産40万瓲を目途とする体制へ★★
札幌証券取引所に上場
増資、産炭54万6,000屯
町田叡光氏が社長に就任★★
横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任
増資、産炭73万屯
産炭105万屯に到達、従業員約2,650名★★★
築別・羽幌の2鉱に加え三松採炭所を保有
この年以降、赤字が累積しはじめる(1970年時点の累積13億8,600万円)★★
横田周作氏が代表取締役専務に就任
武井正美氏・小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就任
横田周作氏が社長に就任、町田叡光氏は会長へ★★
上羽幌坑・築別西坑ほか3山で年間110万トン内外を採炭★★
減炭と労務者不足で築別坑を休坑、生産目標を年間85万トンに縮小★★
関連会社が負債総額6億2,000万円を抱えて倒産
札幌地裁に会社更生法の適用を申請★★★
閉山、労務者1,030名★★★
札幌証券取引所での上場を廃止★★
石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請
出典・参考
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
  • 石炭年鑑 1971年版(大同通信社、1971年)
  • 団史 整備・近代化編(石炭鉱業合理化事業団、1976年)
  • 戦後北海道の石炭産業(石炭斜陽化以降の北海道炭鉱汽船の経営を事例として)改訂版(吉岡宏高、1992年)

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