羽幌炭礦鉄道 の歴史

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沿革 1874〜1970年

1874年〜鈴木商店から太陽産業へ渡った最北の炭田

  1. 米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査
  2. 北海道庁が羽幌川・築別川筋の炭層調査を実施
  3. 神戸市の鈴木商店が羽幌の鉱区を取得
  4. 神戸市の太陽産業が羽幌の鉱区を継承
  5. 築別炭礦の開礦と鉄道敷設を目的に羽幌鉄道を設立
  6. 築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑
  7. 岡新六氏が社長に就任
  8. 町田叡光氏が取締役支配人に就任
  9. 太陽産業羽幌鉱業所と羽幌鉄道が合併、羽幌炭鉱鉄道が発足
  10. 築別駅-築別炭鉱駅間16.6kmの私設鉄道が完成

1947年〜自然発火と乱掘の坑内を建て直した苦肉の時代

  1. 羽幌炭礦の開礦に着手
  2. 町田叡光氏が専務取締役に就任
  3. 朝比奈敬三氏が常務取締役技術部担当に就任
  4. 増資
  5. 築別炭礦の合理化工事に着工
  6. 増資
  7. 増資
  8. 築別炭礦・羽幌炭礦を併せた産炭実績が31万7,000余屯を突破
  9. 築別炭礦の合理化工事が完成。年産40万瓲を目途とする体制へ
  10. 札幌証券取引所に上場

1956年〜能率を本邦A級へ押し上げた二つの鉱業所と鉄道

  1. 増資、産炭54万6,000屯
  2. 町田叡光氏が社長に就任
  3. 横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任
  4. 増資、産炭73万屯
  5. 産炭105万屯に到達、従業員約2,650名
  6. 築別・羽幌の2鉱に加え三松採炭所を保有

1964年〜累積赤字となだれ閉山による企業ぐるみ撤退

  1. この年以降、赤字が累積しはじめる(1970年時点の累積13億8,600万円)
  2. 横田周作氏が代表取締役専務に就任
  3. 武井正美氏・小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就任
  4. 横田周作氏が社長に就任、町田叡光氏は会長へ
  5. 上羽幌坑・築別西坑ほか3山で年間110万トン内外を採炭
  6. 減炭と労務者不足で築別坑を休坑、生産目標を年間85万トンに縮小
  7. 関連会社が負債総額6億2,000万円を抱えて倒産
  8. 札幌地裁に会社更生法の適用を申請
  9. 閉山、労務者1,030名
  10. 札幌証券取引所での上場を廃止
  11. 石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請
創業 1940年
母体 太陽産業の出資・初代社長は岡新六
創業地 北海道苫前郡羽幌町
創業 1874年、米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別の沿岸を踏査し、北海道北西部の苫
1874年、米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別の沿岸を踏査し、北海道北西部の苫前炭田が知られた。炭層は海岸から離れた山中にあり、掘り出しても運び出す手段がないまま半世紀が過ぎる。鉱区は1917年に神戸の鈴木商店の所有となり、その破綻を経て1931年に同じ神戸の太陽産業へ渡った。1940年5月に築別炭鉱までの単線16.6kmが免許となり、同年7月、資本金700万円で羽幌鉄道が設立される。太陽産業は同じ月に築別本坑を羽幌鉱業所として開坑し、1941年7月に両社は合併して羽幌炭鉱鉄道が発足した。初代社長には満鉄石炭研究所長を務めた岡新六氏が就任した。
決断 先に鉄道を法人にし、あとから炭鉱をその中へ入れた。鉄道は1941年12月に営業を
先に鉄道を法人にし、あとから炭鉱をその中へ入れた。鉄道は1941年12月に営業を開始したが、総従業員45名・1日4往復の混合列車にとどまり、1945年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンでしかない。戦後は無計画な乱掘による自然発火で坑内が荒れ、1947年に第二の炭鉱である羽幌炭礦の開礦へ着手した。資本金は1950年の2,500万円から1952年5月に1億5,000万円へ増え、1953年11月には築別炭礦の合理化工事が完成する。1962年12月には名羽線の曙と羽幌鉱の区間を借り受けて索道輸送を鉄道輸送へ切り換え、開業から21年かけて石炭の流通経費を下げた。
現況 最後まで増産を続けた炭鉱が、なだれ閉山の側へ入った。1964年から赤字が積み上が
最後まで増産を続けた炭鉱が、なだれ閉山の側へ入った。1964年から赤字が積み上がる一方で生産は落ちず、鉄道の輸送量は1966年度に111万トンと開通時の12倍に達した。1970年3月期の年商は54億円内外、上羽幌坑・築別西坑を含む3山で年産110万トン内外を掘り、道北唯一のビルド鉱と呼ばれていた。それでも累積赤字は13億8,600万円に達し、同年4月に築別坑を休坑、9月2日に札幌地裁へ会社更生法の適用を申請する。負債総額は75億円内外だった。11月2日に閉山して1,030名が離職し、同日に札幌証券取引所の上場も廃止された。静かなる撤退から原料炭の長期安定供給へ政策が転じた月に、原料炭にならない亜瀝青炭の会社は市場から退いた。
競合 鉄道を持っていたが、その鉄道が運ぶものも石炭しかなかった。1966年度の輸送品目
鉄道を持っていたが、その鉄道が運ぶものも石炭しかなかった。1966年度の輸送品目に占める石炭の比率は96%で、1970年3月期の事業構成も石炭採掘94%・私営鉄道4%である。同じ北海道で炭鉱を経営した住石ホールディングスは、1971年に赤平の一山体制へ絞り、1994年の閉山後も石炭の仕入と販売で法人を残した。三井松島ホールディングスは1973年に石炭生産部門を分離し、本体を兼業会社へ組み替えている。羽幌炭礦鉄道の上場先は札幌証券取引所だけで、取引銀行も1954年の9行から1969年には4行へ減っていた。石炭以外に運ぶ荷も、道外から引く資金の出し手も持たなかったことが、企業ぐるみの閉山という終わり方を決めた。
長期業績の推移 1955〜1970年
羽幌炭礦鉄道:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1963年3月期〜1969年3月期

第1章 1874年〜 鈴木商店から太陽産業へ渡った最北の炭田(1874〜1946)

筆者考察y.sugiura, author

苫前炭田が66年も動かなかったのは、石炭が無かったからではない。南北25km・面積250平方kmの炭田に厚い炭層が横たわっていることは、1888年に北海道庁が羽幌川と築別川の筋を調べた時点で分かっていた。動かなかったのは、掘った炭を海まで下ろす手段が無かったからである。1917年に鈴木商店が鉱区を握り、1931年に太陽産業が引き継いでも、事情は変わらなかった。羽幌炭礦鉄道という社名に鉄道が入っているのは、この会社が鉄道業から出発したからではない。築別駅から16.6kmの単線を自前で敷くと決めた時点で、はじめて山中の炭層に値が付いたからである。掘る権利ではなく、運ぶ経路のほうが資産だった。

ところが、運ぶ経路を手に入れた会社が最初の5年で作ったのは、石炭ではなく潰れた坑道だった。露頭から炭層に沿って斜坑を下ろし、坑口を増やし、掘り残した炭柱を坑内に置く。厚い炭層はどこを掘っても炭が出るため、方式を組み直す動機が働かない。下磐のベントナイト層が膨れ、軟弱な上磐が坑道を押し潰すころには、自然発火が採炭できる場所を奪っていた。戦時下の増産要請は、坑道という設備を食いつぶして出炭を取り出したのである。1941年12月に開業した鉄道は総従業員45名、1日4往復。終戦の時点で残っていたのは、16.6kmの線路と、掘れる場所を失った坑内であった。

1874年〜踏査から66年を要した苫前炭田の開発

北海道北西部の苫前炭田が外部の目に触れたのは1874年である。米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別の沿岸を踏査し、この地区の調査が始まった。1888年には北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査を行っている。炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方kmを占めた。産出するのは非粘結性の亜瀝青炭で、灰分が非常に少なく煤煙も少ない。着火しやすい性質があり、家庭用の暖房炭に向いた。ただし炭層は海岸から離れた山中にあり、掘り出しても運び出す手段がなかった。踏査から半世紀を経ても、この炭田は手つかずのまま残った。

  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [1]1874年に米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査し、この地区の調査が始まった
    • [2]踏査を行ったのは米人地質学者ライマン
    • [3]1888年に北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査を実施した
    • [8]1874年の踏査から1940年の開坑まで66年を要した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [4]苫前炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方kmを占める
    • [5]産出炭は非粘結性亜瀝青炭で灰分が非常に少なく煤煙が少ない
    • [6]着火しやすいことが同炭の特長として挙げられている
    • [7]築別鉱業所は国鉄羽幌線築別駅から社線16.6kmを経て到達する山中に位置する

1917年、この鉱区は神戸の鈴木商店の所有となった。鈴木商店は1927年に破綻し、鉱区は1931年に同じ神戸の太陽産業へ引き継がれた。太陽産業は鈴木商店の系譜に連なる企業群の一社である。鈴木商店の破綻後、その中堅社員が集まって1928年に設立したのが日商であり、日商の姉妹会社にモリブデン鉱山を経営する神戸の太陽鉱工があった。羽幌炭礦鉄道は、その太陽鉱工の子会社にあたる。日本樟脳、鈴木薄荷、帝国樟脳、東邦金属、新日本金属化学も同じ系列に並んだ。最北の炭田を掘る資金と人は、神戸の商社網から来ている。

  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [9]1917年に羽幌の鉱区が神戸の鈴木商店の所有となった
    • [10]1931年に神戸の太陽産業が鉱区を継承した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [11]太陽鉱工とその子会社群は鈴木商店の後身である日商の系列に属した
    • [12]日商は1927年4月の鈴木商店破綻後、同店の中堅社員が相寄り1928年2月に設立された
    • [13]日商の姉妹会社に神戸の太陽鉱工(モリブデン鉱山経営)がある
    • [14]羽幌炭砿鉄道は太陽鉱工の子会社として記載されている
    • [15]同じ系列に日本樟脳・鈴木薄荷・帝国樟脳・東邦金属・新日本金属化学が並んだ
    • [16]羽幌炭砿鉄道は神戸の太陽鉱工の子会社として日商の系列に置かれた
参考文献[1]-[16]
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [1]1874年に米人地質学者ライマン氏が羽幌・初山別沿岸を踏査し、この地区の調査が始まった
    • [2]踏査を行ったのは米人地質学者ライマン
    • [3]1888年に北海道庁が羽幌川および築別川筋の炭層調査を実施した
    • [8]1874年の踏査から1940年の開坑まで66年を要した
    • [9]1917年に羽幌の鉱区が神戸の鈴木商店の所有となった
    • [10]1931年に神戸の太陽産業が鉱区を継承した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [4]苫前炭田は天塩山脈の西側にあり、南北25km・東西10km・面積250平方kmを占める
    • [5]産出炭は非粘結性亜瀝青炭で灰分が非常に少なく煤煙が少ない
    • [6]着火しやすいことが同炭の特長として挙げられている
    • [7]築別鉱業所は国鉄羽幌線築別駅から社線16.6kmを経て到達する山中に位置する
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [11]太陽鉱工とその子会社群は鈴木商店の後身である日商の系列に属した
    • [12]日商は1927年4月の鈴木商店破綻後、同店の中堅社員が相寄り1928年2月に設立された
    • [13]日商の姉妹会社に神戸の太陽鉱工(モリブデン鉱山経営)がある
    • [14]羽幌炭砿鉄道は太陽鉱工の子会社として記載されている
    • [15]同じ系列に日本樟脳・鈴木薄荷・帝国樟脳・東邦金属・新日本金属化学が並んだ
    • [16]羽幌炭砿鉄道は神戸の太陽鉱工の子会社として日商の系列に置かれた

1940年〜鉄道と炭鉱を一体で興した設立

1939年9月、国鉄築別駅を分岐点として築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許が申請され、1940年5月に免許となった。同年7月、資本金700万円で羽幌鉄道が設立される。同じ月に太陽産業は築別本坑を羽幌鉱業所として開坑した。鉄道会社と炭鉱を並行して立ち上げ、1941年7月に両者は合併して羽幌炭鉱鉄道が発足している。掘る主体と運ぶ主体を一つの会社に収めた形であり、社名に炭礦と鉄道の双方が入るのはこの経緯による。石炭を掘っても運べないという苫前炭田の制約を、鉄道を自前で持つことで解いた。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [17]1939年9月に築別駅から築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許を申請した
    • [18]1940年5月に敷設免許となった
    • [23]鉄道は石炭輸送を主要目的として敷設された
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [19]羽幌鉄道は1940年7月に資本金700万円で設立された
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [20]1940年7月に築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑した
    • [21]1941年7月に羽幌鉄道と合併し、羽幌炭鉱鉄道として発足した
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [22]主要業務は石炭その他鉱物の採掘販売業と地方鉄道法による一般運輸の業務の二本立てだった

経営陣には満鉄と撫順の経歴を持つ技術者が並んだ。初代社長の岡新六氏は1885年11月に福井県で生まれ、京都帝国大学工学部の第一回卒業生で工学博士の学位を持つ。満鉄石炭研究所長を経て1940年7月に社長へ就任した。同じ月、東京商科大学を出て神戸製鋼所にいた町田叡光氏が取締役支配人として加わっている。1947年8月には撫順炭礦大山採炭所長だった朝比奈敬三氏が入社し、同年11月に常務取締役として技術部を担当した。1943年2月に経理部長となった嶋内義治氏は、南樺太塩業の取締役支配人を務めた人物である。

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [24]岡新六は元満鉄石炭研究所長、朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長
    • [25]岡新六は1885年11月福井県生、京大工学部第一回卒、工学博士
    • [26]岡新六は元満鉄石炭研究所長を経て昭和15年7月に現職(社長)に就いた
    • [27]町田叡光は東京商大卒・神戸製鋼所を経て昭和15年7月に当社取締役支配人となった
    • [28]朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長で昭和22年8月入社、同年11月に常務取締役技術部担当となった
    • [29]嶋内義治は元南樺太塩業取締役支配人で昭和18年2月に当社経理部長となった

鉄道は第二次世界大戦の資材不足のなかで工事が進み、1941年12月14日に営業を開始した。総従業員45名、1日4往復の混合列車という規模である。石炭輸送を主目的としつつ、地方開発の一助として一般営業も行った。もっとも開業から終戦までの5年間は低迷時代であり、戦争のどさくさにまぎれて行き当たりばったりの経営を行ってきたにすぎなかった——後年に築別鉱業所長を務めた小森豊氏が示した見方である。1945年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンにとどまった。掘る手段も運ぶ手段も揃えたが、戦時下ではその能力を使い切れなかった。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [30]第2次世界大戦下の資材不足の困難を克服して開業にこぎつけた
    • [31]1941年12月14日から地方鉄道として営業を開始した
    • [32]営業開始時は総従業員45名、1日4往復の混合列車だった
    • [33]鉄道は石炭輸送を主要目的とし、併せて当地方開発の一助として一般営業を行うものだった
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [34]小森豊は開山からの最初の5年を「低迷時代」とし、戦争のどさくさにまぎれた行き当たりばったりの経営だったと述べた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [35]築別鉱業所の出炭は昭和20年に4.8万トンだった
    • [36]昭和20年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンにとどまった
参考文献[17]-[36]
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [17]1939年9月に築別駅から築別炭鉱に至る単線16.6kmの敷設免許を申請した
    • [18]1940年5月に敷設免許となった
    • [23]鉄道は石炭輸送を主要目的として敷設された
    • [30]第2次世界大戦下の資材不足の困難を克服して開業にこぎつけた
    • [31]1941年12月14日から地方鉄道として営業を開始した
    • [32]営業開始時は総従業員45名、1日4往復の混合列車だった
    • [33]鉄道は石炭輸送を主要目的とし、併せて当地方開発の一助として一般営業を行うものだった
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [19]羽幌鉄道は1940年7月に資本金700万円で設立された
    • [24]岡新六は元満鉄石炭研究所長、朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長
    • [25]岡新六は1885年11月福井県生、京大工学部第一回卒、工学博士
    • [26]岡新六は元満鉄石炭研究所長を経て昭和15年7月に現職(社長)に就いた
    • [27]町田叡光は東京商大卒・神戸製鋼所を経て昭和15年7月に当社取締役支配人となった
    • [28]朝比奈敬三は元撫順炭礦大山採炭所長で昭和22年8月入社、同年11月に常務取締役技術部担当となった
    • [29]嶋内義治は元南樺太塩業取締役支配人で昭和18年2月に当社経理部長となった
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [20]1940年7月に築別本坑を太陽産業羽幌鉱業所として開坑した
    • [21]1941年7月に羽幌鉄道と合併し、羽幌炭鉱鉄道として発足した
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [22]主要業務は石炭その他鉱物の採掘販売業と地方鉄道法による一般運輸の業務の二本立てだった
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [34]小森豊は開山からの最初の5年を「低迷時代」とし、戦争のどさくさにまぎれた行き当たりばったりの経営だったと述べた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [35]築別鉱業所の出炭は昭和20年に4.8万トンだった
    • [36]昭和20年の築別鉱業所の出炭は4.8万トンにとどまった

1941年〜露頭からの乱掘が招いた築別本坑の荒廃

築別本坑が開坑したのは1940年7月である。当初の採掘は、露頭から炭層に沿って斜坑を掘り下げる沿層方式で行われた。採炭方式は柱房式とも呼べない乱掘であり、坑口も一箇所に定まらなかった。多数の坑口から分散して生産するため、労力も機器も集中できない。稼行する炭層は羽幌層の本層と上層で、本層は山丈・炭丈ともに4mに達する厚層である。厚い炭層は、場所を選ばずとも石炭が出ることを意味した。のちに築別鉱業所長を務めた小森豊氏は、当初の方法と技術水準について、今日の発展を予想もしていなかったことがうかがえると記している。戦時下の増産要請のもとでは、深部の良質炭へ向けて坑道の骨格を組むより、露頭に近い炭を手早く掘るほうが速かった。

  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [37]築別本坑は1940年7月に太陽産業羽幌鉱業所として開坑した
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [38]開坑当初の築別砿は露頭からの沿層斜坑掘進を行っていた
    • [39]開坑当初の採炭方式は柱房式とも云えない乱掘であった
    • [40]多数坑口による分散生産のため労力・機器の集中ができなかった
    • [41]稼行価値のある炭層は羽幌層の本層および上層で、本層は山丈・炭丈ともに4.00mである
    • [42]小森豊は開坑当初の築別砿の方法・技術水準について、今日の発展を予想もしていなかったことがうかがえると記した

坑道は掘るそばから潰れた。下磐際にはベントナイト層があり、磐膨れを起こす。上磐の岩石も軟弱で、坑道は激しい重圧を受けて変形し狭窄した。全く手の施しようもない状況であったと、小森氏は後年に振り返っている。坑道の不良は、そのまま運搬と通気と排水を阻害する。石炭を運び出す経路が細り、風が通らず、水が溜まった。築別本坑の下磐岩石は極めて脆弱な泥質砂岩であり、ベントナイト層と耐火粘土層は支保の上で最大の隘路であり続けた。軟質の岩石に富む夾炭層という地質が、掘った坑道を保つ作業に掘り進む作業を食わせる構造を生んだ。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [43]開坑当初の坑道は重圧を受けて変形狭窄し、全く手の施しようもない状況であった
    • [44]下磐際のベントナイト層が磐膨れを起こした
    • [45]上磐の岩石が軟弱であった
    • [46]坑道は激しい重圧を受けて変形狭窄した
    • [47]小森豊は当時の坑道の状況を全く手の施しようもない状況であったと記した
    • [48]坑道の不良は運搬・通気・排水を阻害した
    • [49]築別砿の下磐岩石は極めて脆弱な泥質砂岩である
    • [50]下磐際のベントナイト層および耐火粘土層は支保上の最大の隘路であった
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [51]羽幌夾炭層の区域は軟質の岩石に富む

自然発火が頻発した。残柱式まがいの採炭法は、掘り残した炭柱を坑内に残す。その残炭が発熱して坑道を塞ぎ、採炭できない箇所が随所に生じた。掘れる場所が坑内から減った。自然発火は開坑当初から1946年頃まで続き、荒廃はその都度深まった。坑道を岩石の中へ移す工事に着手するのは1947年であり、それまでの6年間、会社は沿層坑道のまま掘り続けている。築別川の上流に位置する本坑では選炭に使う水を容易に取ることができ、鉄道も築別駅から山元まで通じていた。立地の条件は揃っていた。稼行する炭層が厚く、しかも常に連続性を持っていたことが、かえって方式の見直しを遅らせた。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [52]開坑当初の築別砿では自然発火が頻発した
    • [53]築別本坑は開坑以来、残炭を残す残柱式採炭法を実施していた
    • [54]残炭に起因する自然発火により採炭不能個所が随所に生じた
    • [55]自然発火の頻発は開坑当初から昭和21年頃まで続いた
    • [56]昭和22年に岩石坑道への切替に着手した
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [57]築別炭鉱は築別川の上流地点に位置し、選炭用水等は容易に取り得る
    • [58]交通は築別駅から山元まで専用鉄道が布設されている
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [59]苫前炭田の炭層は炭丈1m以上のものが2〜4層あり、常に連続性を有し、稼行価値があるのは本層が主体である

打つ手は一つしかなかった。自然条件と立地条件の不利に加え、補償費の打切りと労働情勢の急変が重なり、企業不振のまま終戦を迎えて開坑以来最悪の事態に立ち至った。安定経営を営むには従来の方式を一擲し、劃期的な基本計画を樹立して強力に実行する以外に方法はないと、小森氏は後年に書いている。前提となったのは炭層の見立てである。露頭付近は炭層が乱れて炭質の劣化も甚だしいが、深部に入れば安定した良質炭になる。築別本坑区域の炭層は山丈5.0m・炭丈4.5mに達し、炭田平均の山丈3.5mを上回った。4mに及ぶ厚層の生産性は、やりようによって計り知れない底力を持つ。その生産性を引き出すには、まず丈夫な坑道の建設から始めるべきだという順序が決まり、最も良質と思われる岩盤を下磐側に見出した。着手は1947年、開坑から7年が過ぎていた。低迷の5年と苦肉の5年を合わせた10年が、坑内の骨格を組み直す出発点になった。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [60]自然条件と立地条件の不利に加え、補償費の打切りと労働情勢の急変が重なった
    • [61]企業不振のまま終戦を迎え、開坑以来最悪の事態に立ち至った
    • [62]安定経営のためには従来の方式を一擲し、劃期的基本計画を樹立してこれを強力に実行する以外に方法はなかった
    • [63]露頭附近の炭層は乱れて炭質の劣化も甚だしいが、深部に入れば安定した良質炭となる
    • [65]4mに及ぶ厚層の生産性は、やりようによって計り知れない底力を持つと見込まれた
    • [66]炭層の生産性を発揮させるには、まず丈夫な坑道の建設から開始すべきものと目標が定まった
    • [67]最も良質と思われる岩磐を探し、下磐側にそれを見出した
    • [68]昭和22年に岩石坑道への切替に着手した
    • [69]小森豊は開山から20年を低迷時代の5年・苦肉の時代の5年・前進につぐ前進の10年の3期に分けた
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [64]築別本坑区域の本層は山丈5.00m・炭丈4.50mで、炭田平均は山丈3.50m・炭丈3.00mである
参考文献[37]-[69]
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [37]築別本坑は1940年7月に太陽産業羽幌鉱業所として開坑した
    • [51]羽幌夾炭層の区域は軟質の岩石に富む
    • [57]築別炭鉱は築別川の上流地点に位置し、選炭用水等は容易に取り得る
    • [58]交通は築別駅から山元まで専用鉄道が布設されている
    • [64]築別本坑区域の本層は山丈5.00m・炭丈4.50mで、炭田平均は山丈3.50m・炭丈3.00mである
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [38]開坑当初の築別砿は露頭からの沿層斜坑掘進を行っていた
    • [39]開坑当初の採炭方式は柱房式とも云えない乱掘であった
    • [40]多数坑口による分散生産のため労力・機器の集中ができなかった
    • [41]稼行価値のある炭層は羽幌層の本層および上層で、本層は山丈・炭丈ともに4.00mである
    • [42]小森豊は開坑当初の築別砿の方法・技術水準について、今日の発展を予想もしていなかったことがうかがえると記した
    • [43]開坑当初の坑道は重圧を受けて変形狭窄し、全く手の施しようもない状況であった
    • [44]下磐際のベントナイト層が磐膨れを起こした
    • [45]上磐の岩石が軟弱であった
    • [46]坑道は激しい重圧を受けて変形狭窄した
    • [47]小森豊は当時の坑道の状況を全く手の施しようもない状況であったと記した
    • [48]坑道の不良は運搬・通気・排水を阻害した
    • [49]築別砿の下磐岩石は極めて脆弱な泥質砂岩である
    • [50]下磐際のベントナイト層および耐火粘土層は支保上の最大の隘路であった
    • [52]開坑当初の築別砿では自然発火が頻発した
    • [53]築別本坑は開坑以来、残炭を残す残柱式採炭法を実施していた
    • [54]残炭に起因する自然発火により採炭不能個所が随所に生じた
    • [55]自然発火の頻発は開坑当初から昭和21年頃まで続いた
    • [56]昭和22年に岩石坑道への切替に着手した
    • [60]自然条件と立地条件の不利に加え、補償費の打切りと労働情勢の急変が重なった
    • [61]企業不振のまま終戦を迎え、開坑以来最悪の事態に立ち至った
    • [62]安定経営のためには従来の方式を一擲し、劃期的基本計画を樹立してこれを強力に実行する以外に方法はなかった
    • [63]露頭附近の炭層は乱れて炭質の劣化も甚だしいが、深部に入れば安定した良質炭となる
    • [65]4mに及ぶ厚層の生産性は、やりようによって計り知れない底力を持つと見込まれた
    • [66]炭層の生産性を発揮させるには、まず丈夫な坑道の建設から開始すべきものと目標が定まった
    • [67]最も良質と思われる岩磐を探し、下磐側にそれを見出した
    • [68]昭和22年に岩石坑道への切替に着手した
    • [69]小森豊は開山から20年を低迷時代の5年・苦肉の時代の5年・前進につぐ前進の10年の3期に分けた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [59]苫前炭田の炭層は炭丈1m以上のものが2〜4層あり、常に連続性を有し、稼行価値があるのは本層が主体である

第2章 1947年〜 自然発火と乱掘の坑内を建て直した苦肉の時代(1947〜1955)

筆者考察y.sugiura, author

築別本坑が立ち直ったのは、新しい機械を買ったからではない。1947年から6年をかけた工事の順序だけが決まっていた。まず坑道を炭層から外して下磐の岩石へ移し、立入坑道をベントナイト層に触れさせずにポケット採炭へ切り替える。次に選炭場まで2,300mの大立入坑道を通し、8トンの電気機関車で運ぶ。そのうえで鉄柱とカッペを入れ、切羽の面長を30mから90mへ広げる。運搬力が上がれば切羽を機械化でき、切羽が伸びればさらに運搬力を要求する。この往復が、開坑以来の乱掘を反対向きに巻き戻した。坑道を作る作業が鉱夫の三人に一人を占め続けたのは、その代価である。

資金は神戸から来た。資本金は1950年の2,500万円から1952年5月の1億5,000万円へ、2年間で6倍になっている。鈴木商店の大番頭だった高畑誠一氏が会長に座り、特約店には日商と三菱商事が並んだ。最北の炭鉱の設備投資を支えたのは道内の資本ではなく、破綻した商社の系譜に連なる神戸の企業網である。1955年5月、会社は札幌証券取引所へ上場した。販売先は日本国有鉄道から東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄まで全国に広がっていたが、株式を置いた市場は道内だけだった。掘る場所も運ぶ経路も売る相手も増やしたあとで、会社の背骨はなお神戸に残っていた。

資本金の推移 1950年〜1952年(万円)

2,500 50年 5,000 52年1月 15,000 52年5月

1947年〜命旦夕に迫る状況からの坑内の建て直し

終戦後の5年間を、小森豊氏は苦肉の時代と呼んだ。終戦の混乱に加え、無計画な乱掘による自然発火が頻発し、坑道が荒れた。労働事情も極度に悪化し、命旦夕に迫る状況だった。戦時中に増産を優先して掘り進めた結果が、そのまま坑内の荒廃として残った。この時期に着手したのが第二の炭鉱の開発であり、1947年から羽幌炭礦の開礦にかかっている。築別炭礦だけでは規模が足りず、一鉱に依存する構造そのものが危うかった。1950年の築別鉱業所の出炭は11万トンで、5年前の4.8万トンから2.3倍になった。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [70]小森豊は終戦後の5年を「苦肉の時代」と呼んだ
    • [71]終戦の混乱、無計画な乱掘による自然発火、坑道の荒れが重なった
    • [72]労働事情も極度に悪化して命旦夕に迫る状況だったと述べている
    • [73]無計画な乱掘による自然発火と坑道の荒れが終戦後に残った
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [74]1947年より羽幌炭礦の開礦に着手した
    • [75]1947年から第二の鉱として羽幌炭礦の開礦に着手した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [76]築別鉱業所の出炭は昭和25年に11万トンとなった
    • [77]昭和20年の4.8万トンから昭和25年の11万トンへ増加した

1947年、会社は主要運搬坑道を炭層から外し、下磐の岩石の中へ開削し始めた。それまでは全て沿層坑道方式であり、坑道の維持に困難を生じて自然発火が続発していた。1948年2月に主要斜坑と上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立する。以後この方式のまま坑内は発展し、1960年には五片坑道の掘削に入っている。沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した。それでも坑道を繕う仕繰夫の比率は、1953年から1954年にかけてなお全鉱夫の31%に及んでいる。この下磐坑道方式が坑内の骨格となり、1965年の時点でも坑口から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑で深部へ下る構造が引き継がれていた。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [78]昭和22年に主要運搬坑道を下磐岩石内に開さくすることを開始した
    • [79]当初は全て沿層坑道方式であった
    • [80]沿層坑道方式では坑道維持に困難を生じ、併せて自然発火が続発していた
    • [81]昭和23年2月に主要斜坑および上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立された
    • [82]昭和35年時点で五片坑道を掘さく中であった
    • [83]沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した
    • [84]昭和28年から29年においても仕繰夫の占める比率は全砿夫の31%に及んでいた
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [85]築別本坑の開坑方式は斜坑方式で、海抜94mの位置から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑に至る

切羽の側でも採炭法を替えた。築別本坑は開坑以来の残柱式を、1947年10月に短壁式へ改めている。通気の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた。その防止策として保護炭柱方式を採ったところ、炭柱が軟化して逆に自然発火を助長し、採炭そのものを困難な状態に追い込んだ。1948年2月、解決策として下磐坑道方式によるポケット採炭を始める。立入坑道を着炭させず、その手前から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層を貫く距離を最小限にとどめた。坑道の磐膨れを回避し、自然発火も皆無に等しくなった。ロングの面長は当初の30mから60mへ延び、切羽運搬に初めてチェンコンベヤーを使った。小森氏はこれを築別本坑発展の一大基礎と位置づけている。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [86]築別本坑は開坑以来の残柱式採炭法を昭和22年10月に短壁式採炭法へ改めた
    • [87]短壁式の採用で通気面の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた
    • [88]保護炭柱方式を採ったところ炭柱が軟化して自然発火を助長し、採炭自体を困難な状態におとしいれた
    • [89]昭和23年2月に下磐坑道方式によるポケット採炭を開始した
    • [90]立入坑道を着炭させず、その前方から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層の貫層距離を最小限にとどめた
    • [91]ポケット採炭により坑道の磐膨れ回避に成功し、自然発火も皆無に等しくなった
    • [92]ロング面長は当初30mから60mに延長され、切羽運搬に初めてチエンコンベヤーを使用した
    • [93]小森豊はポケット採炭による切羽の集約化を築別本坑発展の一大基礎と記した

坑内の建て直しと並行して、二つ目の炭鉱を開いた。羽幌地区ではそれまで本坑と二坑の区域で主に炭層調査が行われ、出炭は微々たるものにとどまっていた。1947年、増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手し、1948年8月に本坑を開発して、二坑を合併し羽幌鉱業所を設定する。稼行できる炭層は羽幌本層・一番層・下層の3層で、東翼本層の炭丈は1.6mから2.5mと、築別本坑の4mに比べれば薄い。それでも一つの鉱業所に依存する構造を崩す意味は大きかった。羽幌本坑と二坑の石炭は同じ選炭場へ集められ、築別駅を分岐点とする16.6kmの社線で国鉄へ渡る。掘る場所を二つに増やしても、運ぶ経路は一本のままであった。

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [94]昭和22年より羽幌炭礦の開礦に着手した
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 2.羽幌炭鉱」
    • [95]羽幌本坑および二坑区域では主として炭層調査が実施され、出炭は微々たるものであった
    • [96]昭和22年に増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手した
    • [97]昭和23年8月に本坑の開発を行い、二坑を合併して羽幌鉱業所を設定した
    • [98]羽幌炭鉱の稼行可能炭層は羽幌本層・一番層・下層の3炭層である
    • [99]羽幌本坑区域の東翼本層の炭丈は1.60〜2.50mである
    • [100]羽幌本坑・二坑とも同一の選炭場で選炭される
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [101]鉄道は国鉄築別駅を分岐点とし築別炭鉱に至る単線16.6kmである
参考文献[70]-[101]
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [70]小森豊は終戦後の5年を「苦肉の時代」と呼んだ
    • [71]終戦の混乱、無計画な乱掘による自然発火、坑道の荒れが重なった
    • [72]労働事情も極度に悪化して命旦夕に迫る状況だったと述べている
    • [73]無計画な乱掘による自然発火と坑道の荒れが終戦後に残った
    • [78]昭和22年に主要運搬坑道を下磐岩石内に開さくすることを開始した
    • [79]当初は全て沿層坑道方式であった
    • [80]沿層坑道方式では坑道維持に困難を生じ、併せて自然発火が続発していた
    • [81]昭和23年2月に主要斜坑および上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立された
    • [82]昭和35年時点で五片坑道を掘さく中であった
    • [83]沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した
    • [84]昭和28年から29年においても仕繰夫の占める比率は全砿夫の31%に及んでいた
    • [86]築別本坑は開坑以来の残柱式採炭法を昭和22年10月に短壁式採炭法へ改めた
    • [87]短壁式の採用で通気面の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた
    • [88]保護炭柱方式を採ったところ炭柱が軟化して自然発火を助長し、採炭自体を困難な状態におとしいれた
    • [89]昭和23年2月に下磐坑道方式によるポケット採炭を開始した
    • [90]立入坑道を着炭させず、その前方から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層の貫層距離を最小限にとどめた
    • [91]ポケット採炭により坑道の磐膨れ回避に成功し、自然発火も皆無に等しくなった
    • [92]ロング面長は当初30mから60mに延長され、切羽運搬に初めてチエンコンベヤーを使用した
    • [93]小森豊はポケット採炭による切羽の集約化を築別本坑発展の一大基礎と記した
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [74]1947年より羽幌炭礦の開礦に着手した
    • [75]1947年から第二の鉱として羽幌炭礦の開礦に着手した
    • [94]昭和22年より羽幌炭礦の開礦に着手した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [76]築別鉱業所の出炭は昭和25年に11万トンとなった
    • [77]昭和20年の4.8万トンから昭和25年の11万トンへ増加した
    • [85]築別本坑の開坑方式は斜坑方式で、海抜94mの位置から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑に至る
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 2.羽幌炭鉱」
    • [95]羽幌本坑および二坑区域では主として炭層調査が実施され、出炭は微々たるものであった
    • [96]昭和22年に増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手した
    • [97]昭和23年8月に本坑の開発を行い、二坑を合併して羽幌鉱業所を設定した
    • [98]羽幌炭鉱の稼行可能炭層は羽幌本層・一番層・下層の3炭層である
    • [99]羽幌本坑区域の東翼本層の炭丈は1.60〜2.50mである
    • [100]羽幌本坑・二坑とも同一の選炭場で選炭される
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [101]鉄道は国鉄築別駅を分岐点とし築別炭鉱に至る単線16.6kmである

1950年〜増資で賄った大立入坑道と切羽の機械化

設備投資は増資で賄った。資本金は1950年に2,500万円、1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円と、2年間で20倍を超える規模へ引き上げられている。1951年には築別炭礦の合理化工事に着工し、1953年11月に完成した。年産40万トンを目標とする体制を組み、築別・羽幌の両炭礦を合わせた1953年度の産炭は31万7,000トンを超えた。同じ時期の役員には、満洲製鉄北海道採炭所長だった磯野賢一氏が築別鉱業所長、帝国燃料興業内淵鉱業所副所長だった奥田清生氏が羽幌鉱業所長として並んでいる。旧満洲の現場を踏んだ技術者が、二つの鉱業所をそれぞれ預かった。

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [102]1950年から1952年にかけて2,500万円・5,000万円・1億5,000万円と増資を重ねた
    • [103]資本金は1950年に2,500万円へ増資された
    • [104]1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円へ増資した
    • [105]1951年度着工の築別炭礦の合理化工事が1953年11月に完成した
    • [106]昭和29年度は年産40万トンを目途として計画を進めた
    • [107]築別炭礦・羽幌炭礦を併せた昭和28年度の産炭実績は31万7,000余トンを突破した
    • [108]磯野賢一は元満洲製鉄北海道採炭所長で昭和24年11月に築別鉱業所長となった
    • [109]奥田清生は元帝国燃料興業内淵鉱業所副所長で昭和24年1月に羽幌鉱業所長となった
    • [110]磯野賢一が築別鉱業所長、奥田清生が羽幌鉱業所長を務めた

1951年11月、会社は選炭場へ直結する通洞坑口の開削に着手した。それまでの坑口は選炭場から2,000m以上離れた山間にあり、50馬力の複線エンドレスで運炭していたため、年産18万トンを超える出炭は不可能だった。主要巻上機である300馬力の単胴巻も、坑内の発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた。大立入坑道と名づけられたこの坑道は、悪質な岩盤とガス突出事故に遭って辛酸をなめ、満2年を費して1953年10月に完成する。当初の目標は年産30万トンであった。比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8トンのトロリー式電気機関車2台を入れている。坑外エンドレス時代に比べ、79人の人員を節約した。この電車坑道はその後の坑内輸送の幹線となった。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [111]昭和26年11月に大立入坑道の開さくに着手した
    • [112]当初の坑口は選炭場より2,000m以上離れた山間にあった
    • [113]50HP複線エンドレスによる運炭では年産18万t以上の出炭は不可能であった
    • [114]主要巻上機である300HP単胴巻は坑内発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた
    • [115]大立入坑道の開さくは悪質岩磐・ガス突出事故等の辛酸をなめた
    • [116]大立入坑道は満2年を費して昭和28年10月に完成した
    • [117]大立入坑道の当初の目標は年産30万tであった
    • [118]比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8屯トロリー電気機関車2台で運搬を行った
    • [119]坑外エンドレス時代に比べ79人の人員節約となった
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [120]築別本坑では坑口から1,800mの電車坑道をトロリーロコで牽引している

切羽の機械化は坑木の節約から始まった。1951年7月、坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入する。まず木の笠木と鉄柱を組み合わせた採炭を試み、1952年7月にカッペを使った。結果に確信を得て、1953年から鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法へ移っている。同時にコールカッターとパンツァコンベヤーを入れ、截炭方式は発破採炭からカッター発破併用へ切り替えた。ただし炭層が厚いため天磐際の発破だけでは上炭を打ち落とせず、中段にも発破が要る。炭壁が倒れて作業に危険が生じた。切羽の面長は1951年度から60mより90mまで順次延長され、切羽集約化の第一段階が完了する。坑道を作り直し、運搬を作り直したうえで、最後に切羽を機械化する順序であった。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [121]坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入した
    • [122]昭和26年7月に鉄柱を導入した
    • [123]最初に木笠木鉄柱採炭を試験し、昭和27年7月にカッペを使用した
    • [124]カッペ採炭に確信を得て昭和28年に鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法に着手した
    • [125]コールカッターとパンツアコンベヤーを使用した
    • [126]截炭方式を発破採炭からカッター発破併用截炭に切替えた
    • [127]厚層のため天磐際のみの発破では上炭の打落しが不完全で、中段にも発破を必要とした
    • [128]中段の発破により炭壁の倒壊等で作業に危険を生じた
    • [129]昭和26年度より切羽面長を60mより90mまで順次延長し、切羽集約化の第一段階が完了した
参考文献[102]-[129]
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [102]1950年から1952年にかけて2,500万円・5,000万円・1億5,000万円と増資を重ねた
    • [103]資本金は1950年に2,500万円へ増資された
    • [104]1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円へ増資した
    • [105]1951年度着工の築別炭礦の合理化工事が1953年11月に完成した
    • [106]昭和29年度は年産40万トンを目途として計画を進めた
    • [107]築別炭礦・羽幌炭礦を併せた昭和28年度の産炭実績は31万7,000余トンを突破した
    • [108]磯野賢一は元満洲製鉄北海道採炭所長で昭和24年11月に築別鉱業所長となった
    • [109]奥田清生は元帝国燃料興業内淵鉱業所副所長で昭和24年1月に羽幌鉱業所長となった
    • [110]磯野賢一が築別鉱業所長、奥田清生が羽幌鉱業所長を務めた
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [111]昭和26年11月に大立入坑道の開さくに着手した
    • [112]当初の坑口は選炭場より2,000m以上離れた山間にあった
    • [113]50HP複線エンドレスによる運炭では年産18万t以上の出炭は不可能であった
    • [114]主要巻上機である300HP単胴巻は坑内発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた
    • [115]大立入坑道の開さくは悪質岩磐・ガス突出事故等の辛酸をなめた
    • [116]大立入坑道は満2年を費して昭和28年10月に完成した
    • [117]大立入坑道の当初の目標は年産30万tであった
    • [118]比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8屯トロリー電気機関車2台で運搬を行った
    • [119]坑外エンドレス時代に比べ79人の人員節約となった
    • [121]坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入した
    • [122]昭和26年7月に鉄柱を導入した
    • [123]最初に木笠木鉄柱採炭を試験し、昭和27年7月にカッペを使用した
    • [124]カッペ採炭に確信を得て昭和28年に鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法に着手した
    • [125]コールカッターとパンツアコンベヤーを使用した
    • [126]截炭方式を発破採炭からカッター発破併用截炭に切替えた
    • [127]厚層のため天磐際のみの発破では上炭の打落しが不完全で、中段にも発破を必要とした
    • [128]中段の発破により炭壁の倒壊等で作業に危険を生じた
    • [129]昭和26年度より切羽面長を60mより90mまで順次延長し、切羽集約化の第一段階が完了した
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
    • [120]築別本坑では坑口から1,800mの電車坑道をトロリーロコで牽引している

1954年〜神戸の商社網と札幌証券取引所への上場

1954年時点の会長は高畑誠一氏である。鈴木商店の大番頭として知られ、日商を興した人物が、その系列会社の会長を兼ねた。取引銀行には日本興業銀行、第一銀行、北海道拓殖銀行、三菱銀行、日本勧業銀行、住友銀行、三井銀行、北海道銀行、大和銀行の9行が並ぶ。特約店には三菱商事、関西鉱燃、日商、羽幌石炭販売、北海道石炭、橋本産業、山本石炭が付いた。販売先は日本国有鉄道、北海道電力、東洋高圧工業、国策パルプ工業、東京電力、中部電力、関西電力、富士製鉄である。年間取扱高は35万トンを数えた。

  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [130]1954年版の役員名で会長は高畑誠一
    • [132]取引銀行は日本興業銀行・第一銀行・北海道拓殖銀行・三菱銀行・日本勧業銀行・住友銀行・三井銀行・北海道銀行・大和銀行
    • [133]特約店は三菱商事・関西鉱燃・日商・羽幌石炭販売・北海道石炭・橋本産業・山本石炭
    • [134]主要販売先は日本国有鉄道・北海道電力・東洋高圧工業・国策パルプ工業・東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄
    • [135]年間取扱高は35万トン
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [131]日商は鈴木商店破綻後にその中堅社員が設立した貿易会社である

1955年5月23日、羽幌炭礦鉄道は札幌証券取引所に上場した。本社は札幌市大通西5丁目に置き、営業は東京・旭川・留萠に拠点を開設している。開坑から15年で、地方の一炭鉱会社は道内の資本市場に立った。ただし上場先は札幌のみで、東京証券取引所には出ていない。販売先には東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が並び、事業の相手は全国におよぶ。それでも資金調達の場は道内にとどまった。1954年度の産炭は35万8,000トンで、前年度から4万トン増えている。上場した1955年度の産炭は43万9,000トンだった。

  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [136]1955年5月23日に札幌証券取引所へ上場した
    • [139]1940年7月の開坑から1955年5月の上場まで15年を要した
    • [140]札幌証券取引所の上場・廃止一覧に羽幌炭砿鉄道が記載されている
    • [142]上場先は札幌証券取引所のみだった
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [137]本社は札幌市大通西5丁目に所在した
    • [138]営業機構として東京営業所・旭川駐在所・留萠駐在所を置いた
    • [141]主要販売先に東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が含まれる
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [143]昭和29年度の産炭は35万8,000トン
    • [144]昭和30年度の産炭は43万9,000トン
参考文献[130]-[144]
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [130]1954年版の役員名で会長は高畑誠一
    • [132]取引銀行は日本興業銀行・第一銀行・北海道拓殖銀行・三菱銀行・日本勧業銀行・住友銀行・三井銀行・北海道銀行・大和銀行
    • [133]特約店は三菱商事・関西鉱燃・日商・羽幌石炭販売・北海道石炭・橋本産業・山本石炭
    • [134]主要販売先は日本国有鉄道・北海道電力・東洋高圧工業・国策パルプ工業・東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄
    • [135]年間取扱高は35万トン
    • [137]本社は札幌市大通西5丁目に所在した
    • [138]営業機構として東京営業所・旭川駐在所・留萠駐在所を置いた
    • [141]主要販売先に東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が含まれる
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
    • [131]日商は鈴木商店破綻後にその中堅社員が設立した貿易会社である
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [136]1955年5月23日に札幌証券取引所へ上場した
    • [139]1940年7月の開坑から1955年5月の上場まで15年を要した
    • [140]札幌証券取引所の上場・廃止一覧に羽幌炭砿鉄道が記載されている
    • [142]上場先は札幌証券取引所のみだった
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [143]昭和29年度の産炭は35万8,000トン
    • [144]昭和30年度の産炭は43万9,000トン

第3章 1956年〜 能率を本邦A級へ押し上げた二つの鉱業所と鉄道(1956〜1963)

1956年〜現有設備の完全駆使という合理化の方法

1956年6月、町田叡光氏が社長に就任した。1940年7月の取締役支配人から数えて16年、専務を経ての昇格である。同じ月に横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任した。資本金は1956年に6億円、1959年に7億5,000万円へ引き上げられている。産炭は1953年度の31万7,000トンから、1955年度43万9,000トン、1957年度61万4,000トン、1959年度73万トンと伸び、1961年には105万トンに達した。8年で3.3倍である。従業員は約2,650名を数え、築別・羽幌の二鉱に加えて福島県勿来市に三松採炭所を持った。

  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [145]町田叡光は昭和31年6月に社長に就任した
    • [146]町田叡光は昭和15年7月に取締役支配人、昭和22年に専務取締役を経て昭和31年6月に社長となった
    • [147]横田周作・武井正美・小森豊はいずれも昭和31年6月に取締役へ就任した
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [148]資本金は昭和31年に6億円、昭和34年に7億5,000万円へ増資された
    • [149]昭和30年度43万9,000トン、昭和32年度61万4,000トン、昭和34年度73万トンと推移した
    • [150]昭和36年に105万トンに達した
    • [151]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ増加した
    • [152]従業員数は約2,650名
    • [153]鉱業所は築別鉱業所・羽幌鉱業所に加え福島県勿来市の三松採炭所を擁した

増産の方法について、築別鉱業所長の小森豊氏は1960年の講演で明確に述べている。開山から20年を3期に分け、直近の10年を前進につぐ前進と位置づけ、能率は本邦においてA級にランクされるに至ったとした。そのうえで、こうした改革は決して斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いて行ったものだった。新鋭機の導入で一気に生産性を上げたのではない。すでに持っている設備を使い切る方向へ現場を組み替えた結果だった。築別鉱業所の出炭は1955年の26万トンから1960年に50万トンへ伸びている。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [154]小森豊は昭和35年度総会の講演で築別炭砿の合理化を報告した
    • [155]小森豊は開山からの20年を3期に分け、第三期の10年を「前進につぐ前進」とした
    • [156]能率は本邦においてA級にランクされるに至ったと述べた
    • [157]改革は斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
    • [158]小森豊は改革が斬新奇抜なものによったのではないと述べた
    • [159]現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [160]築別鉱業所の出炭は昭和30年に26万トン、昭和35年に50万トンとなった

増産の一方で、業界の環境はすでに反転していた。専務取締役の朝比奈敬三氏は1960年12月の寄稿で、1958年の炭界不況による出炭制限を出発点として、突如として浮上した流体エネルギーとの競合のため、企業合理化・体質改善・1,200円のコストダウン・整理・ストライキという厄介な問題が相次いで迫ってきたと書いている。そのうえ炭鉱は保安確保という至上課題を背負っていた。羽幌炭礦鉄道が産炭を3.3倍にしたのは、石炭産業そのものが石油に置き換えられていく時期と正確に重なる。朝比奈氏はこの寄稿に、微光が射し始めた石炭鉱業という表題を付けている。

  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
    • [161]昭和33年の炭界不況による出炭制限と流体エネルギーとの競合が生じた
    • [162]朝比奈敬三は1960年12月の炭鉱技術に「微光が射し始めた石炭鉱業」を寄稿した
    • [163]昭和33年の炭界不況による出炭制限を出発点とすると述べた
    • [164]突如クローズアップされた流体エネルギーとの競合を挙げた
    • [165]企業合理化・体質改善・1200円のコストダウン・整理・ストライキが迫ったと書いた
    • [166]そのうえ炭鉱では保安確保という至上課題を背負っていると述べた
    • [168]寄稿の表題は「微光が射し始めた石炭鉱業」
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [167]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ3.3倍に増加した
参考文献[145]-[168]
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [145]町田叡光は昭和31年6月に社長に就任した
    • [146]町田叡光は昭和15年7月に取締役支配人、昭和22年に専務取締役を経て昭和31年6月に社長となった
    • [147]横田周作・武井正美・小森豊はいずれも昭和31年6月に取締役へ就任した
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [148]資本金は昭和31年に6億円、昭和34年に7億5,000万円へ増資された
    • [149]昭和30年度43万9,000トン、昭和32年度61万4,000トン、昭和34年度73万トンと推移した
    • [150]昭和36年に105万トンに達した
    • [151]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ増加した
    • [152]従業員数は約2,650名
    • [153]鉱業所は築別鉱業所・羽幌鉱業所に加え福島県勿来市の三松採炭所を擁した
    • [167]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ3.3倍に増加した
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [154]小森豊は昭和35年度総会の講演で築別炭砿の合理化を報告した
    • [155]小森豊は開山からの20年を3期に分け、第三期の10年を「前進につぐ前進」とした
    • [156]能率は本邦においてA級にランクされるに至ったと述べた
    • [157]改革は斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
    • [158]小森豊は改革が斬新奇抜なものによったのではないと述べた
    • [159]現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [160]築別鉱業所の出炭は昭和30年に26万トン、昭和35年に50万トンとなった
  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
    • [161]昭和33年の炭界不況による出炭制限と流体エネルギーとの競合が生じた
    • [162]朝比奈敬三は1960年12月の炭鉱技術に「微光が射し始めた石炭鉱業」を寄稿した
    • [163]昭和33年の炭界不況による出炭制限を出発点とすると述べた
    • [164]突如クローズアップされた流体エネルギーとの競合を挙げた
    • [165]企業合理化・体質改善・1200円のコストダウン・整理・ストライキが迫ったと書いた
    • [166]そのうえ炭鉱では保安確保という至上課題を背負っていると述べた
    • [168]寄稿の表題は「微光が射し始めた石炭鉱業」

1961年〜索道から鉄道へ切り換えた石炭輸送

鉄道の輸送量は開通当時の9万トンから、1961年度に100万トンを突破した。1962年8月にはディーゼルカーを導入し、それまでの混合列車を客貨完全分離へ切り換えている。運行は1日あたり旅客8往復・貨物6往復となった。通勤通学のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を乗り入れ、混雑時は3両重連で走らせた。1962年12月からは名羽線の一部である曙と羽幌鉱の区間を借り受け、非営業線として輸送業務を担っている。これにより従来の索道輸送を鉄道輸送へ切り換え、石炭の流通経費を下げた。1日4往復の混合列車で始まった輸送は、20年で旅客と貨物を分けるまでになった。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [169]開通当時9万トンの輸送量に対し昭和36年度は100万トンを突破した
    • [170]昭和37年8月にディーゼルカーを導入して従来の混合列車を完全に客貨分離した
    • [171]1日旅客8往復・貨物6往復を運行した
    • [172]通勤通学の便宜のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を運行し、混雑時は3両重連とした
    • [173]昭和37年12月から名羽線の一部(曙〜羽幌鉱)を借り受け非営業線として輸送業務にあたった
    • [174]従来の索道輸送を鉄道輸送に切り換え、石炭流通経費の運賃軽減に効果をあげた
    • [175]1941年12月の4往復混合列車から1962年8月の客貨分離まで20年を要した

鉄道の敵は雪だった。当地方は年間降雪量の累計が10m、積雪量が2mにおよぶ。国鉄築別駅の一帯は海岸に接近しているため、冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われた。列車の正常運転を確保するために毎年多大な労力と経費を要し、雪害による貯炭は曙構内で2万トンを超えた年もある。会社は除雪の機械力を増強し、モータカーロータリを導入した。自社線の除雪にとどまらず、国鉄へも出動して輸送の安全維持にあたっている。現業は4駅・1機関区・3線路班に区分され、保有車両は機関車・客車・貨車におよんだ。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [176]列車の正常運転確保に毎年多大な労力と経費を要した
    • [177]当地方は年間降雪量累計10m・積雪量2mにおよぶ豪雪地帯である
    • [178]国鉄築別駅一帯は海岸に接近しており冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われる
    • [179]雪害による貯炭量は曙構内で2万トンを越えた
    • [180]雪害対策として機械力の増強をはかりモータカーロータリを導入した
    • [181]全力をもって国鉄にも出動して輸送の安全維持に努めた
    • [182]現業は4駅・1機関区・3線路班に区分されている
参考文献[169]-[182]
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [169]開通当時9万トンの輸送量に対し昭和36年度は100万トンを突破した
    • [170]昭和37年8月にディーゼルカーを導入して従来の混合列車を完全に客貨分離した
    • [171]1日旅客8往復・貨物6往復を運行した
    • [172]通勤通学の便宜のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を運行し、混雑時は3両重連とした
    • [173]昭和37年12月から名羽線の一部(曙〜羽幌鉱)を借り受け非営業線として輸送業務にあたった
    • [174]従来の索道輸送を鉄道輸送に切り換え、石炭流通経費の運賃軽減に効果をあげた
    • [175]1941年12月の4往復混合列車から1962年8月の客貨分離まで20年を要した
    • [176]列車の正常運転確保に毎年多大な労力と経費を要した
    • [177]当地方は年間降雪量累計10m・積雪量2mにおよぶ豪雪地帯である
    • [178]国鉄築別駅一帯は海岸に接近しており冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われる
    • [179]雪害による貯炭量は曙構内で2万トンを越えた
    • [180]雪害対策として機械力の増強をはかりモータカーロータリを導入した
    • [181]全力をもって国鉄にも出動して輸送の安全維持に努めた
    • [182]現業は4駅・1機関区・3線路班に区分されている

第4章 1964年〜 累積赤字となだれ閉山による企業ぐるみ撤退(1964〜1970)

1964年〜増産を続けながら積み上がった赤字

1964年から赤字が積み上がりはじめた。1970年時点での累積は13億8,600万円にのぼる。それでも生産は減少していない。鉄道の輸送量は1966年度に111万トンを記録し、輸送品目に占める石炭の比率は96%を示した。旅客の乗降人員も135万6,000人を数えている。同じ1966年度には、築別炭鉱地区の小中学生のために走らせていたレールバスのスクールバス運行を中止した。相次ぐ出炭増で構内の入換が輻輳したためである。増産が地域サービスを押し出す水準まで来ていた。開通時の輸送量9万トンに対し、12倍の水準である。

  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [183]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円
    • [184]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円にのぼった
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [185]昭和41年度の鉄道輸送量は111万トンを記録した
    • [186]鉄道の輸送量は昭和41年度に111万トンを記録した
    • [187]主要物資別輸送実績では石炭が大半の96%を示した
    • [188]昭和41年度の旅客乗降人員は1,356,000人だった
    • [189]築別炭鉱地区の小中学生の登下校時間帯に運行していたレールバスのスクールバスを昭和41年度に中止した
    • [190]中止の理由は相次ぐ出炭増に伴う構内入換えの輻輳だった
    • [191]出炭増に伴う構内入換えの輻輳でスクールバス運行を中止した
    • [192]開通当時9万トンに対し昭和41年度は111万トン

1966年5月に横田周作氏が代表取締役専務、武井正美氏と小森豊氏が常務取締役、梶田五郎氏が取締役に就任した。翌6月には横田氏が社長となり、町田叡光氏は会長へ移っている。梶田氏は1934年に神戸商業大学を出て同年に満州撫順炭礦へ入り、終戦により大同煤礦へ留用され、1948年の留用解除で帰国して翌年に入社した経歴を持つ。1969年時点の従業員は約2,500名、資本金は7億5,000万円である。取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行の4行に絞られていた。1954年に9行だった取引銀行が半減している。

  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [193]昭和41年5月に横田周作が代表取締役専務、武井正美・小森豊が常務取締役、梶田五郎が取締役に就任した
    • [195]梶田五郎は昭和9年神戸商業大学卒、同年満州撫順炭礦入社、終戦により大同煤礦に留用、昭和23年留用解除帰国、昭和24年入社
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [194]昭和41年6月に横田周作が取締役社長に就任し、町田叡光は取締役会長となった
    • [196]1969年版の従業員数は約2,500名、資本金は7億5,000万円
    • [197]1969年版の取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [198]1954年版の取引銀行は9行だった
参考文献[183]-[198]
  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [183]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円
    • [184]昭和39年以降の赤字累積は13億8,600万円にのぼった
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [185]昭和41年度の鉄道輸送量は111万トンを記録した
    • [186]鉄道の輸送量は昭和41年度に111万トンを記録した
    • [187]主要物資別輸送実績では石炭が大半の96%を示した
    • [188]昭和41年度の旅客乗降人員は1,356,000人だった
    • [189]築別炭鉱地区の小中学生の登下校時間帯に運行していたレールバスのスクールバスを昭和41年度に中止した
    • [190]中止の理由は相次ぐ出炭増に伴う構内入換えの輻輳だった
    • [191]出炭増に伴う構内入換えの輻輳でスクールバス運行を中止した
    • [192]開通当時9万トンに対し昭和41年度は111万トン
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [193]昭和41年5月に横田周作が代表取締役専務、武井正美・小森豊が常務取締役、梶田五郎が取締役に就任した
    • [195]梶田五郎は昭和9年神戸商業大学卒、同年満州撫順炭礦入社、終戦により大同煤礦に留用、昭和23年留用解除帰国、昭和24年入社
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [194]昭和41年6月に横田周作が取締役社長に就任し、町田叡光は取締役会長となった
    • [196]1969年版の従業員数は約2,500名、資本金は7億5,000万円
    • [197]1969年版の取引銀行は日本興業銀行・三菱銀行・北海道銀行・大和銀行
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [198]1954年版の取引銀行は9行だった

1970年〜埋蔵炭と新設備を残した企業ぐるみ閉山

1970年3月期の年商は54億円内外に達した。上羽幌坑・築別西坑を含む3山で年間110万トン内外を採炭し、道北唯一のビルド鉱とされた。事業構成は石炭採掘が94%、私営鉄道が4%で、ほかに病院を経営した。ところが同年4月、減炭と労務者不足から生産体制の維持が困難となり、築別坑を休坑して年間85万トン内外へ目標を下げている。8月30日には関連会社が負債総額6億2,000万円内外を抱えて倒産した。そして9月2日、羽幌炭礦鉄道は札幌地裁に会社更生法の適用を申請する。負債総額は75億円内外だった。

  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [199]45年3月期決算において年度54億円内外をあげていた
    • [200]上羽幌坑・築別西坑ほか3山を有し年間110万トン内外を採炭する道北唯一のビルド鉱だった
    • [201]石炭採掘94%、私営鉄道4%、そのほか病院経営を行っていた
    • [202]1970年4月に築別坑を休坑し年間85万トン内外を目標とした
    • [203]1970年8月30日に関連会社が負債総額6億2,000万円内外で倒産した
    • [204]1970年9月2日に札幌地裁へ会社更生法の適用を申請し、負債総額は75億円内外だった
    • [205]負債総額75億円内外を抱えて会社更生法を申請した

会社が倒れた1970年は、石炭産業全体が急速に縮んだ年である。第4次石炭政策の実施後1年間で全国の閉山規模は844万トンに達し、1970年度もこれを300万トン以上上回る見通しとなって、なだれ閉山と呼ばれる状況になった。政府は同年4月2日に石炭鉱業審議会へ諮問し、11月に第5次石炭政策の中間答申が出ている。答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ、静かなる撤退を目的とする政策からの転換を意味した。背景には原料炭の国際的な品不足と価格上昇があった。政策が転換した月に、羽幌炭礦鉄道は閉山した。

  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
    • [206]昭和45年度の閉山は300万トンを上回る見通しとなった
    • [207]第4次対策実施後1年間における全国閉山規模は844万トンに達した
    • [208]昭和45年度における閉山も300万トンを上回る見通しとなり「なだれ閉山」の様相を強めた
    • [209]政府は昭和45年4月2日に石炭鉱業審議会に対し体制上の改善策を諮問した
    • [210]石炭鉱業審議会は昭和45年11月に中間答申を発表した
    • [211]中間答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ「静かなる撤退」を目的とする政策からの転換を意味した
    • [212]原料炭の国際的な品不足により価格は上昇しつつあった
    • [213]中間答申は昭和45年11月、閉山は同年11月2日

1970年11月2日、羽幌炭礦鉄道は閉山した。離職した労務者は1,030名にのぼる。同じ日に札幌証券取引所での上場を廃止し、石炭鉱業合理化事業団へ交付金を申請している。申請時の会社名は羽幌炭砿、代表清算人は町田叡光氏だった。事業団に届け出た年間生産数量は鉱区ベース78万44トン、会社ベース95万1,439トンである。閉山の理由を吉岡宏高氏は、保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりで損益が極度に悪化した企業群の一つとして整理し、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山したと記述している。掘る炭も設備もまだあった。

  • 石炭年鑑 1971年版(大同通信社、1971年)
    • [214]羽幌炭礦鉄道は11月2日に閉山し、労務者は1,030名だった
    • [215]閉山時の労務者数は1,030名
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [216]昭和45年11月2日に札幌証券取引所での上場を廃止した
  • 団史 整備・近代化編(石炭鉱業合理化事業団、1976年)
    • [217]石炭鉱業合理化事業団への交付申請年月日は45年11月2日だった
    • [218]交付申請時の会社名は羽幌炭砿株式会社、代表清算人は町田叡光
    • [219]年間生産数量は鉱区ベース780,044トン、会社ベース951,439トン
  • 戦後北海道の石炭産業(石炭斜陽化以降の北海道炭鉱汽船の経営を事例として)改訂版(吉岡宏高、1992年)
    • [220]保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりなどの要因で損益が極度に悪化していた企業群が、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山した
    • [221]大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して閉山した
参考文献[199]-[221]
  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
    • [199]45年3月期決算において年度54億円内外をあげていた
    • [200]上羽幌坑・築別西坑ほか3山を有し年間110万トン内外を採炭する道北唯一のビルド鉱だった
    • [201]石炭採掘94%、私営鉄道4%、そのほか病院経営を行っていた
    • [202]1970年4月に築別坑を休坑し年間85万トン内外を目標とした
    • [203]1970年8月30日に関連会社が負債総額6億2,000万円内外で倒産した
    • [204]1970年9月2日に札幌地裁へ会社更生法の適用を申請し、負債総額は75億円内外だった
    • [205]負債総額75億円内外を抱えて会社更生法を申請した
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
    • [206]昭和45年度の閉山は300万トンを上回る見通しとなった
    • [207]第4次対策実施後1年間における全国閉山規模は844万トンに達した
    • [208]昭和45年度における閉山も300万トンを上回る見通しとなり「なだれ閉山」の様相を強めた
    • [209]政府は昭和45年4月2日に石炭鉱業審議会に対し体制上の改善策を諮問した
    • [210]石炭鉱業審議会は昭和45年11月に中間答申を発表した
    • [211]中間答申は原料炭を中心とした長期安定供給体制の確保を掲げ「静かなる撤退」を目的とする政策からの転換を意味した
    • [212]原料炭の国際的な品不足により価格は上昇しつつあった
    • [213]中間答申は昭和45年11月、閉山は同年11月2日
  • 石炭年鑑 1971年版(大同通信社、1971年)
    • [214]羽幌炭礦鉄道は11月2日に閉山し、労務者は1,030名だった
    • [215]閉山時の労務者数は1,030名
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
    • [216]昭和45年11月2日に札幌証券取引所での上場を廃止した
  • 団史 整備・近代化編(石炭鉱業合理化事業団、1976年)
    • [217]石炭鉱業合理化事業団への交付申請年月日は45年11月2日だった
    • [218]交付申請時の会社名は羽幌炭砿株式会社、代表清算人は町田叡光
    • [219]年間生産数量は鉱区ベース780,044トン、会社ベース951,439トン
  • 戦後北海道の石炭産業(石炭斜陽化以降の北海道炭鉱汽船の経営を事例として)改訂版(吉岡宏高、1992年)
    • [220]保有鉱区の不利や主力鉱の行き詰まりなどの要因で損益が極度に悪化していた企業群が、大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して企業ぐるみで閉山した
    • [221]大量の埋蔵炭とビルドアップしたばかりの設備を残して閉山した

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出典・参考 17件
出典・参考
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)2章「エネルギー革命と三菱鉱業の経営戦略」
  • 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
  • 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1969年版(大同通信社、1969年)「羽幌炭砿鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1971年版(大同通信社、1971年)
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
  • 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 2.羽幌炭鉱」
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
  • 団史 整備・近代化編(石炭鉱業合理化事業団、1976年)
  • 我国倒産状況統計表(昭和27年以降全国倒産の動向)(東京商工リサーチ、1977年)
  • 戦後北海道の石炭産業(石炭斜陽化以降の北海道炭鉱汽船の経営を事例として)改訂版(吉岡宏高、1992年)

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