住石ホールディングス の歴史

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創業 1893年
母体 住友総本店
創業地 大阪市
創業
1893年11月、住友総本店が九州の庄司砿を入手して石炭業に着手し、翌1894年4月には忠隈砿を得て若松炭業所を設立した。1924年10月に坂炭砿の経営へ加わって以降は主力が北海道へ移り、上歌志内・赤平・歌志内・奔別・奈井江などを取得して1930年4月に住友炭砿となる。1937年6月には住友別子鉱山と合併して住友鉱業となり、石炭と金属を一社で運営した。財閥解体により1946年1月に井華鉱業へ改称し、1949年10月に東京・大阪両証券取引所へ上場、1952年7月に住友石炭鉱業へ改めた。2008年10月の株式移転で持株会社の住石ホールディングスが発足した。
決断
金属も建設も分けられ、残された石炭からも、最後には掘る工程だけを外した。1949年8月に過度経済力集中排除法の指定を受け、翌1950年3月に金属部門を第二会社として分離し、土建と調度も別子建設・別子百貨店として切り出して石炭専業になった。1969年8月には兼業部門を住石興産へ移し、本体は石炭だけを扱う会社になる。1971年10月に奔別と歌志内を閉山して赤平の一山体制へ移り、1994年2月にその赤平も閉じて101年続いた国内の採炭から退いた。2001年1月には豪州のWambo Mining Corporationを売却して海外の炭鉱権益も整理し、石炭を仕入れて売る商いだけを残した。
現況
輸入炭の仕入と販売が、売上の93%を占める。2026年3月期の連結売上高は106億5,800万円、営業利益は3億2,900万円で、石炭事業が売上99億5,400万円・セグメント利益5億5,100万円を計上した。残るのは青森県六ケ所村の採石が4億3,600万円、1994年に閉じた赤平市で人工ダイヤモンドを作るダイヤ事業が2億6,700万円である。受取配当金24億800万円を含む営業外収益が加わり、経常利益は27億9,400万円まで伸びた。1962年度に8,870名を数えた従業員は連結40名になっている。2024年5月には麻生と資本業務提携を結び、議決権の57.01%は住友系ではなく福岡県飯塚市の麻生が握っている。
競合
石炭から離れた同業と違い、住石ホールディングスは石炭の商いを残した。宇部興産は1957年に祖業の石炭鉱業から撤退し、化学へ主力を移した。三井松島ホールディングスは1973年に生産部門を分離し、2024年には111年続いた石炭事業から撤退した。住石は1994年に採掘をやめたが、石炭そのものからは離れなかった。2025年5月に策定した中期経営計画も、輸入炭の販売を前提に2027年度の経常利益24億円とROE8%以上を掲げている。掘る資産も減損の対象も持たない構えが、2025年3月期には石炭価格の上昇をそのまま過去2番目の業績へ変え、同じ一本の事業が脱炭素で細るという危うさも同時に残した。
長期業績の推移 1950〜2026年
住石ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

設立ストーリー 庄司砿と忠隈砿から北海道へ広がる住友の炭鉱 (1893年〜)

設立ストーリー(1)

別子銅山の住友総本店が九州で買った2つの炭砿

住友の鉱業は、1691年に愛媛の別子銅山を銅商の泉屋吉左衛門が開発したことに始まる[1]。別子は秋田の阿仁や尾去沢とともに御用銅山とされ、輸出銅の供出を義務づけられていた[2]。維新の動乱では幕府の遺物とみなされて官軍に押収されかかり、支配人の広瀬義右衛門が土佐藩の兵隊長に対し、この鉱山は幕府直営ではなく住友の山だと説いて稼業を認めさせた[3]。明治に入って住友総本店は石炭業への進出を企図し、1893年11月に九州の庄司砿を入手して石炭業に着手し[4]、翌1894年4月には同じ九州の忠隈砿を入手して若松炭業所を設立した[5]

  • 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
    • [1]元禄4年(1691年)に愛媛の別子銅山を銅商泉屋吉左衛門が開発し、この泉屋が住友である
    • [2]別子は秋田の阿仁、尾去沢とともに御用銅山とされ、輸出銅の供出を義務づけられた
    • [3]別子銅山は維新の動乱で幕府の遺物とみなされ官軍に押収されたが、支配人の広瀬義右衛門が土佐藩兵隊長に幕府直営ではなく住友の山だと説いて稼業を許された
  • 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1893年11月に庄司砿(九州)を入手し石炭業に着手した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [5]1894年4月に忠隈砿(九州)を入手し、若松炭業所を設立して石炭業進出の基礎を樹立した

需要の増加に伴って住友の炭鉱は北海道へ移り、1924年10月に坂炭砿の経営に参加し[6]、翌1925年10月に商号を住友坂炭砿へ改め、上歌志内砿と赤平砿の経営に乗り出した[7]。1928年6月に住友九州炭砿を設立し、同年11月に潜竜砿を買収[8]、同年12月から翌1929年1月にかけて北海道で歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平の5鉱、九州で芳野浦砿を買収した[9]。1930年4月には住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併し、資本金1,500万円の住友炭砿を設立した[10]。九州の2山から始まった石炭部門は、この時点で主力を北海道に置く鉱山群になった。

  • 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1924年10月に坂炭砿株式会社(北海道)の経営に参加した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [7]1925年10月に坂炭砿株式会社の商号を住友坂炭砿株式会社に変更し、上歌志内砿・赤平砿の経営に乗り出した
    • [8]1928年6月に住友九州炭砿株式会社を設立し、同年11月に潜竜砿を買収した
    • [9]1928年12月から1929年1月にかけて北海道で歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平の5鉱、九州で芳野浦砿を買収した
    • [10]1930年4月に住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併し、資本金1,500万円の住友炭砿を設立した
  • 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
    • [1]元禄4年(1691年)に愛媛の別子銅山を銅商泉屋吉左衛門が開発し、この泉屋が住友である
    • [2]別子は秋田の阿仁、尾去沢とともに御用銅山とされ、輸出銅の供出を義務づけられた
    • [3]別子銅山は維新の動乱で幕府の遺物とみなされ官軍に押収されたが、支配人の広瀬義右衛門が土佐藩兵隊長に幕府直営ではなく住友の山だと説いて稼業を許された
  • 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1893年11月に庄司砿(九州)を入手し石炭業に着手した
    • [6]1924年10月に坂炭砿株式会社(北海道)の経営に参加した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [5]1894年4月に忠隈砿(九州)を入手し、若松炭業所を設立して石炭業進出の基礎を樹立した
    • [7]1925年10月に坂炭砿株式会社の商号を住友坂炭砿株式会社に変更し、上歌志内砿・赤平砿の経営に乗り出した
    • [8]1928年6月に住友九州炭砿株式会社を設立し、同年11月に潜竜砿を買収した
    • [9]1928年12月から1929年1月にかけて北海道で歌志内・新歌志内・奔別・奈井江・上赤平の5鉱、九州で芳野浦砿を買収した
    • [10]1930年4月に住友坂炭砿と住友九州炭砿を合併し、資本金1,500万円の住友炭砿を設立した
設立ストーリー(2)

上歌志内の爆発事故74人と輸入機械による機械化

1928年3月、緑川国栄氏は工業学校の機械科を卒業し、住友坂炭砿の上歌志内炭鉱へ入社した[11]。同年8月5日の上歌志内炭砿の爆発事故では74人が犠牲になり、遺体の搬出完了までに14日を要したが、緑川氏は入坑前だったため難を逃れた[12]。1929年から1930年にかけて、上歌志内では近代化と機械化を進めて増産態勢を整えるための大きな投資が行われた[13]。米国からは225馬力の横置2段空気圧縮機、岩粉製造設備、坑内防爆型の4屯蓄電池機関車2台、ドイツからは緩傾斜払用の空気動シェーカーコンベヤ50メートル分を輸入した[14]。図面と説明書はすべて英文で、緑川氏は退社後に宿舎へ持ち帰って和訳し、これらを稼働させた[15]

    • [11]緑川国栄は工業学校機械科を卒業し、1928年3月に住友坂炭鉱上歌志内炭鉱へ就職した
    • [12]1928年8月5日の上歌志内炭砿の爆発事故で74人の犠牲者が発生し、遺体搬出完了まで14日を要した。緑川は入坑前だったため難を逃れた
    • [13]1929年から1930年にかけて近代化・機械化とともに増産態勢を整えるための大投資の年を迎えた
    • [14]米国から225馬力横置2段空気圧縮機1台・岩粉製造設備1式・ドリルシャプナー1台・坑内防爆型4屯蓄電池機関車2台・充電設備1式、ドイツから緩傾斜払用空気動シェーカーコンベヤ1式50メートル分を輸入した
    • [15]図面及び説明書はすべて英文だったため、勤務中の時間と退社後の宿舎で和訳し、これらすべてを稼働させた

出炭が増えるにつれ、それまで塊炭と中塊は国鉄の機関車用炭に、粉炭は未洗のまま鍛冶用炭として売っていたが、鍛冶用だけでは販売が伸びなかった[16]。そこでガス発生用と原料炭として洗炭し、東京ガスへ売ることを目途に洗炭設備を設けることになり、緑川氏が水洗槽本体の製作設計を担った[17]。九州の忠隈炭鉱から選炭係長の出張を受け、夜は12時まで日曜もなく設計して九州の製作所へ発注し、1929年12月20日に試運転と同時に操業へ入った[18]。毎時45屯能力の鉄製バウム2台は北海道で初めてのもので、灰分8%を狙って8%から10%に振れる状態から、昼は操業、夜は12時まで改造作業を続けた[19]

    • [16]塊炭・中塊は国鉄機関車用炭、粉炭は未洗のまま鍛冶用炭として販売していたが、鍛冶用だけでは販売が伸びなかった
    • [17]ガス発生用ならびに原料炭として洗炭のうえ東京ガスに販売する目途で洗炭設備を設置することになり、緑川が水洗槽本体の製作設計を担当した
    • [18]九州忠隈炭鉱の選炭係長の出張を受け、夜は12時まで日曜もなく設計して九州の製作所に発注し、12月20日に試運転と同時に操業へ入った
    • [19]毎時45屯能力の鉄製バウム2台は北海道で初めてのもので、灰分8%の規格に対し8%から10%という状況で、昼は操業、夜は12時まで改造作業を続けた
    • [11]緑川国栄は工業学校機械科を卒業し、1928年3月に住友坂炭鉱上歌志内炭鉱へ就職した
    • [12]1928年8月5日の上歌志内炭砿の爆発事故で74人の犠牲者が発生し、遺体搬出完了まで14日を要した。緑川は入坑前だったため難を逃れた
    • [13]1929年から1930年にかけて近代化・機械化とともに増産態勢を整えるための大投資の年を迎えた
    • [14]米国から225馬力横置2段空気圧縮機1台・岩粉製造設備1式・ドリルシャプナー1台・坑内防爆型4屯蓄電池機関車2台・充電設備1式、ドイツから緩傾斜払用空気動シェーカーコンベヤ1式50メートル分を輸入した
    • [15]図面及び説明書はすべて英文だったため、勤務中の時間と退社後の宿舎で和訳し、これらすべてを稼働させた
    • [16]塊炭・中塊は国鉄機関車用炭、粉炭は未洗のまま鍛冶用炭として販売していたが、鍛冶用だけでは販売が伸びなかった
    • [17]ガス発生用ならびに原料炭として洗炭のうえ東京ガスに販売する目途で洗炭設備を設置することになり、緑川が水洗槽本体の製作設計を担当した
    • [18]九州忠隈炭鉱の選炭係長の出張を受け、夜は12時まで日曜もなく設計して九州の製作所に発注し、12月20日に試運転と同時に操業へ入った
    • [19]毎時45屯能力の鉄製バウム2台は北海道で初めてのもので、灰分8%の規格に対し8%から10%という状況で、昼は操業、夜は12時まで改造作業を続けた
設立ストーリー(3)

石炭鉱業連合会の出炭制限と住友鉱業への合併

1921年10月、全国の炭鉱主は石炭鉱業連合会を設立して同年5月に確認した出炭制限の実行を主要業務とし、制限率は北海道が20%、常磐が12.5%、筑豊その他が17%に及んだ[20]。露天掘りでコストの低い撫順炭の移入も圧力となり、1932年には販売統制機関の昭和石炭株式会社が生まれた[21]。不況は同時に合理化と大規模炭鉱への集中を進め、年産10万トン以下の炭鉱が生産に占める比重は1921年の27%から1931年に15%まで下がり、年産100万トン以上の大型炭鉱は1921年の1炭鉱・全生産の6%から1936年には8炭鉱・27%に増えた[22]。労務者は1919年の34万8,000人から1932年に13万8,000人へ減り、出炭能率は1人1日7.5トンから16.8トンに上がった[23]。住友による歌志内と芳の浦の取得も、この時期の鉱区再編にあたる[24]

  • 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石炭-長い苦難、自主統制」
    • [20]1921年10月に石炭鉱業連合会を設立し、同年5月の出炭制限協定(北海道20%、常磐12.5%、筑豊その他17%)の実行を主要業務とした
    • [21]露天掘りでコストの低い撫順炭の移入が外部からの圧力となり、1932年に販売統制機関の昭和石炭株式会社が設立された
    • [22]年産10万トン以下の炭鉱の生産比重は1921年の27%から1931年までに15%へ下がり、年産100万トン以上の大型炭鉱は1921年に1つ・全生産の6%だったものが1936年には8炭鉱・27%になった
    • [23]労務者は1919年の34万8,000人をピークに1932年は13万8,000人へ激減し、出炭能率は1人1日7.5トンから16.8トンに上昇した
    • [24]鉱区の再編成が進み、住友の歌志内、芳の浦の取得あるいは経営参加がこの時期に行われた

1937年6月、住友炭砿は住友別子鉱山と合併し、資本金2,700万円の住友鉱業となった[25]。住友別子鉱山は1927年6月に設立され、主として別子銅山の経営を行ってきた会社で、石炭と金属を一社にまとめた総合経営によって増産態勢を整えることを狙った[26]。同じ1937年8月、住友最後の鉱区である赤平に年産100万屯の炭鉱を開発することが決まり、緑川氏らは農家の一室に身を寄せ、12坪の納家1棟を仮事務所として坑内外の施設計画に入った[27]。翌1938年1月に坑口の開鑿へ着工したが、戦時態勢のため10馬力前後の小型電気ホイスト1台さえ手に入らず、斜坑60メートルまでカグラサンで木製炭車1車を巻き上げた[28]。赤平が年産25万屯に達するまでに6年を要した[29]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [25]1937年6月に住友別子鉱山株式会社と合併し、商号を住友鉱業株式会社に変更した(資本金2,700万円)
    • [26]住友別子鉱山は1927年設立で主として別子銅山の経営を行ってきた会社であり、総合経営による強力な増産態勢を整えるための合併だった
    • [27]1937年8月に住友最後の鉱区である赤平へ年産100万屯の大炭砿を開発することになり、赤平の農家の一室に厄介になり納家12坪1棟を仮事務所として坑内外の施設計画に入った
    • [28]1938年1月に坑口開鑿と坑外諸施設工事へ着工したが、戦時態勢のため10馬力前後の小型電気ホイスト1台がなかなか手に入らず、斜坑60メートルまでカグラサンで木製炭車1車を巻き上げた
    • [29]6年を経過して坑内外の設備が整い、年産25万屯程度になった

戦時下で住友鉱業は規模を広げ、1941年7月に資本金を5,000万円へ、1943年11月に8,000万円へ増やし、1944年6月に九州の唐津砿、1945年5月に北海道の弥生砿を買収して増産に努めた[30]。軍の委嘱により、フィリピン、セレベス、ジャワなど南方のニッケル鉱山と炭田の開発にも従事した[31]。敗戦後は財閥解体により、1946年1月に社名を井華鉱業へ変更した[32]。1949年9月には、それまで住友一族と住友関係会社の所有で公開されていなかった株式が一般に売り出され、株式の分散化が進んだ[33]。同年10月、井華鉱業は東京・大阪両証券取引所に株式を上場した[34]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [30]1941年7月に資本金を5,000万円、1943年11月に8,000万円に増加し、1944年6月に九州唐津砿、1945年5月に北海道弥生砿をそれぞれ買収して石炭の増産に努めた
    • [31]軍の委嘱によりフィリピン、セレベス、ジャワ等南方におけるニッケル鉱山、炭田の開発にも従事した
    • [32]占領下における経済民主化の一環としての財閥解体により、1946年1月に社名を井華鉱業に変更した
    • [33]1949年9月、従来住友一族・住友関係会社の所有に属し公開されていなかった株式が一般に売り出され、株式の分散化が行われた
  • 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1949年10月に東京・大阪両証券取引所に株式を上場した
  • 日本産業史 第1巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「石炭-長い苦難、自主統制」
    • [20]1921年10月に石炭鉱業連合会を設立し、同年5月の出炭制限協定(北海道20%、常磐12.5%、筑豊その他17%)の実行を主要業務とした
    • [21]露天掘りでコストの低い撫順炭の移入が外部からの圧力となり、1932年に販売統制機関の昭和石炭株式会社が設立された
    • [22]年産10万トン以下の炭鉱の生産比重は1921年の27%から1931年までに15%へ下がり、年産100万トン以上の大型炭鉱は1921年に1つ・全生産の6%だったものが1936年には8炭鉱・27%になった
    • [23]労務者は1919年の34万8,000人をピークに1932年は13万8,000人へ激減し、出炭能率は1人1日7.5トンから16.8トンに上昇した
    • [24]鉱区の再編成が進み、住友の歌志内、芳の浦の取得あるいは経営参加がこの時期に行われた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [25]1937年6月に住友別子鉱山株式会社と合併し、商号を住友鉱業株式会社に変更した(資本金2,700万円)
    • [26]住友別子鉱山は1927年設立で主として別子銅山の経営を行ってきた会社であり、総合経営による強力な増産態勢を整えるための合併だった
    • [30]1941年7月に資本金を5,000万円、1943年11月に8,000万円に増加し、1944年6月に九州唐津砿、1945年5月に北海道弥生砿をそれぞれ買収して石炭の増産に努めた
    • [31]軍の委嘱によりフィリピン、セレベス、ジャワ等南方におけるニッケル鉱山、炭田の開発にも従事した
    • [32]占領下における経済民主化の一環としての財閥解体により、1946年1月に社名を井華鉱業に変更した
    • [33]1949年9月、従来住友一族・住友関係会社の所有に属し公開されていなかった株式が一般に売り出され、株式の分散化が行われた
    • [27]1937年8月に住友最後の鉱区である赤平へ年産100万屯の大炭砿を開発することになり、赤平の農家の一室に厄介になり納家12坪1棟を仮事務所として坑内外の施設計画に入った
    • [28]1938年1月に坑口開鑿と坑外諸施設工事へ着工したが、戦時態勢のため10馬力前後の小型電気ホイスト1台がなかなか手に入らず、斜坑60メートルまでカグラサンで木製炭車1車を巻き上げた
    • [29]6年を経過して坑内外の設備が整い、年産25万屯程度になった
  • 住石ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1949年10月に東京・大阪両証券取引所に株式を上場した
設立ストーリー(4)

金属・土木・調度の分離で石炭一本になった1950年

1949年8月、井華鉱業は過度経済力集中排除法の指定を受けた[35]。1950年2月には本店を住友ゆかりの大阪から東京へ移し[36]、同年3月に金属部門を第二会社として分離した。これがのちの住友金属鉱山である[37]。金属部門の付帯事業だった土建と調度の2部門も切り離され、それぞれ別子建設、別子百貨店として発足した[38]。井華鉱業はここで石炭一本の会社として新発足した[39]。資本金は1949年11月に2億9,000万円、1952年10月に6億円へ増えた[40]。1952年7月、財閥商号の禁止に関する政令の廃止に伴い、社名を住友石炭鉱業へ変更した[41]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [35]1949年8月に過度経済力集中排除法の指定を受けた
    • [36]1950年2月に本店を住友ゆかりの地である大阪から東京に移転した
    • [37]1950年3月に金属部門を第二会社として分離した(現在の住友金属鉱山)
    • [38]金属部門の付帯事業であった土建、調度の2部門を分離し、それぞれ別子建設、別子百貨店として発足させた
    • [39]3部門の分離により石炭一本の会社として新発足した
    • [40]資本金は1949年11月に2億9,000万円、1952年10月に6億円へ増額した
    • [41]1952年7月、財閥商号の禁止に関する政令の廃止に伴い社名を住友石炭鉱業に変更した

1949年9月の配炭公団廃止により、石炭業は完全な自由企業の姿に戻った[42]。ただし産業界の復興は遅く石炭の需要も多くはなく、自ら売る立場に戻った石炭業は苦難の歩みを続けた[43]。1950年6月の朝鮮動乱で需要は急速に伸び、翌1951年には石炭ブームが現れて収益状態が改善し、資本蓄積も進んで大幅な設備改善ができた[44]。ブームはその後軟化して下降し、1953年に入って生産過剰の様相を呈した[45]。井華鉱業は寿命の尽きた新歌志内砿を1953年8月に、採算上不利な芳野浦砿を同年11月に、それぞれ閉山した[46]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [42]1949年9月の配炭公団の廃止により完全な自由企業の姿に復した
    • [43]産業界の復興は遅々として石炭の需要も多くはなく、自売早々の石炭業は苦難の歩みを続けた
    • [44]1950年6月の朝鮮動乱の勃発に伴い需要は急速に伸び、1951年には石炭ブームを現出して収益状態が改善し、資本蓄積も進んで大幅な設備改善ができた
    • [45]朝鮮動乱を契機とする活況はその後軟化して下降の一路をたどり、1953年に入って生産過剰の様相を呈した
    • [46]寿命の尽きた新歌志内砿を1953年8月に、採算上不利な芳野浦砿を同年11月にそれぞれ閉山した

1954年度の生産実績は1,788,700屯で、全国出炭の4.2%を占めた[47]。稼行していたのは九州の忠隈・潜竜・唐津、北海道の赤平・奔別・弥生・奈井江・歌志内の8炭砿で、保有鉱区は244鉱区、従業員は約1万3,000名を数えた[48]。炭質はおおむね高品位炭で、とくに原料用炭とガス発生炉用炭の占める割合が大きかった[49]。同年度の販売実績は1,836,127屯、主要な販売先は鉄道、電力、ガス、鉄鋼、セメント、化学工業で、大口需要先が全販売高の80%を占めて固定していた[50]。販売面では東京、大阪、小樽、若松のほか全国各地に販売機構を持ち、特約店を設定していた[51]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [47]1954年度の生産実績は1,788,700屯で全国出炭の4.2%だった
    • [48]事業所は九州で忠隈・潜竜・唐津、北海道で赤平・奔別・弥生・奈井江・歌志内の8炭砿を操業し、保有鉱区は244鉱区、従業員数は約1万3,000名だった
    • [49]炭質はおおむね高品位炭で、特に原料用炭、ガス発生炉用炭の占める割合が大きかった
    • [50]1954年度の販売実績は1,836,127屯、主要販売先は鉄道・電力・ガス・鉄鋼・セメント・化学工業で、大口需要先が全販売高の80%を占めて固定していた
    • [51]販売面では東京、大阪、小樽、若松のほか全国各地に販売機構を擁し、特約店を設定して安定充実した販売網を有していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 31_石炭「住友石炭鉱業」
    • [35]1949年8月に過度経済力集中排除法の指定を受けた
    • [36]1950年2月に本店を住友ゆかりの地である大阪から東京に移転した
    • [37]1950年3月に金属部門を第二会社として分離した(現在の住友金属鉱山)
    • [38]金属部門の付帯事業であった土建、調度の2部門を分離し、それぞれ別子建設、別子百貨店として発足させた
    • [39]3部門の分離により石炭一本の会社として新発足した
    • [40]資本金は1949年11月に2億9,000万円、1952年10月に6億円へ増額した
    • [41]1952年7月、財閥商号の禁止に関する政令の廃止に伴い社名を住友石炭鉱業に変更した
    • [42]1949年9月の配炭公団の廃止により完全な自由企業の姿に復した
    • [43]産業界の復興は遅々として石炭の需要も多くはなく、自売早々の石炭業は苦難の歩みを続けた
    • [44]1950年6月の朝鮮動乱の勃発に伴い需要は急速に伸び、1951年には石炭ブームを現出して収益状態が改善し、資本蓄積も進んで大幅な設備改善ができた
    • [45]朝鮮動乱を契機とする活況はその後軟化して下降の一路をたどり、1953年に入って生産過剰の様相を呈した
    • [46]寿命の尽きた新歌志内砿を1953年8月に、採算上不利な芳野浦砿を同年11月にそれぞれ閉山した
    • [47]1954年度の生産実績は1,788,700屯で全国出炭の4.2%だった
    • [48]事業所は九州で忠隈・潜竜・唐津、北海道で赤平・奔別・弥生・奈井江・歌志内の8炭砿を操業し、保有鉱区は244鉱区、従業員数は約1万3,000名だった
    • [49]炭質はおおむね高品位炭で、特に原料用炭、ガス発生炉用炭の占める割合が大きかった
    • [50]1954年度の販売実績は1,836,127屯、主要販売先は鉄道・電力・ガス・鉄鋼・セメント・化学工業で、大口需要先が全販売高の80%を占めて固定していた
    • [51]販売面では東京、大阪、小樽、若松のほか全国各地に販売機構を擁し、特約店を設定して安定充実した販売網を有していた
設立ストーリー(5)

赤平の200万屯計画と東京ガス向け原料炭の灰分

赤平炭砿は建設の途中で年産100万屯計画から200万屯計画に変わった[52]。採掘深度が増すと斜坑では巻上げが2段3段となって人員の昇降時間も延び、能率が落ちるため立坑が必要になる[53]。ドイツの炭鉱にならい、中央にケージ立坑とスキップ立坑の2本を掘る案がかなり検討された[54]。緑川氏は当初からこれに反対し、運搬能力はベルトが立坑に勝る、長大物件の搬出入には斜坑が有利、長時間の停電事故でも鉱員が斜坑を徒歩で自力出坑できる、投資が半分で済むという4点を理由に挙げた[55]。10数枚のビラを作って2、3回上京して説明した結果、立坑と斜坑を併用する案が通った[56]

    • [52]赤平炭砿は中間において100万屯から200万屯計画に変わった
    • [53]採掘深度が斜坑の垂直深度450メートル・延長1,600メートルを超えると巻上げが2段3段と増え、人員の昇降時間も延びて能率が減少するため立坑が必要になる
    • [54]ドイツ方式で実施すれば中央立坑はケージ立坑とスキップ立坑の2本が必要となり、当初はドイツ方式の案がかなり検討されていた
    • [55]緑川は当初からドイツ方式に反対し、運搬能力はベルトがまさる、長大物件の搬出入には斜坑が有利、長時間の停電事故等でも鉱員は斜坑を徒歩で自力出坑できる、投資が半分で済むの4点を理由とした
    • [56]利害得失を説明するため10数枚のビラを作成して2、3回上京して説明した結果許可となり、これが赤平炭砿の立坑斜坑併用案となった

赤平の石炭は東京ガスへ原料炭として納めていたが、取引規格の灰分8%に対し実際は7%から11%に振れた[57]。高品位原炭3層と低品位原炭2層を多層で採掘し、一本の系統で混合して洗うため、製品の品位にばらつきが出ていた[58]。原料炭として使用できないと判断されて納炭が止まり、約2か月分の送炭が揚地に山積みになった[59]。緑川氏は社長から本社へ呼びつけられ、赤平の炭を売れなくしたら会社は何で飯を食っていくのかと叱責を受けた[60]。対策として原料炭ポケット600屯を7対3に間仕切り、チップラーで時間別に転函して品位別に貯蔵し、良悪を分けて給炭する二色洗炭に切り替えた[61]。灰分は5%から6%に安定し、全体の歩留りも10%上がった[62]

    • [57]東京ガスとの取引規格は灰分8%であったが、7%から11%という振れがあった
    • [58]赤平炭砿は高品位原炭3層・低品位原炭2層の多層採掘で、一本系統の混合洗炭のため製品品位のばらつきが発生した
    • [59]原料炭として使用不可となり納炭ストップという事態になり、約2か月分の送炭が揚地に山積みとなった
    • [60]社長より本社に呼びつけられ、赤平の炭を売れなくしたら会社は何で飯を食って行くのかと叱責を受けた
    • [61]原料炭ポケット600屯を高低割合7対3に間仕切りし、チップラーで時間別に転函させて品位別に貯蔵し、良悪別に給炭する二色洗炭に切り替えた
    • [62]実施の結果、灰分は5%から6%に安定し、全体歩留りも10%の上昇となった
    • [52]赤平炭砿は中間において100万屯から200万屯計画に変わった
    • [53]採掘深度が斜坑の垂直深度450メートル・延長1,600メートルを超えると巻上げが2段3段と増え、人員の昇降時間も延びて能率が減少するため立坑が必要になる
    • [54]ドイツ方式で実施すれば中央立坑はケージ立坑とスキップ立坑の2本が必要となり、当初はドイツ方式の案がかなり検討されていた
    • [55]緑川は当初からドイツ方式に反対し、運搬能力はベルトがまさる、長大物件の搬出入には斜坑が有利、長時間の停電事故等でも鉱員は斜坑を徒歩で自力出坑できる、投資が半分で済むの4点を理由とした
    • [56]利害得失を説明するため10数枚のビラを作成して2、3回上京して説明した結果許可となり、これが赤平炭砿の立坑斜坑併用案となった
    • [57]東京ガスとの取引規格は灰分8%であったが、7%から11%という振れがあった
    • [58]赤平炭砿は高品位原炭3層・低品位原炭2層の多層採掘で、一本系統の混合洗炭のため製品品位のばらつきが発生した
    • [59]原料炭として使用不可となり納炭ストップという事態になり、約2か月分の送炭が揚地に山積みとなった
    • [60]社長より本社に呼びつけられ、赤平の炭を売れなくしたら会社は何で飯を食って行くのかと叱責を受けた
    • [61]原料炭ポケット600屯を高低割合7対3に間仕切りし、チップラーで時間別に転函させて品位別に貯蔵し、良悪別に給炭する二色洗炭に切り替えた
    • [62]実施の結果、灰分は5%から6%に安定し、全体歩留りも10%の上昇となった
設立ストーリー(6)

石油への転換と杵島炭鉱の企業ぐるみ閉山

1960年7月、住友石炭鉱業は石油製品の販売を開始して多角経営に乗り出し、1963年からはヒーターの販売も始めた[63]。1968年時点では四大石炭会社の一つで、北海道の赤平・歌志内・奔別の3鉱業所を経営し、従業員は8,620名を抱え、社長は石松正鉄氏が務めた[64]。経営の安定は政府の救済策に左右され、1967年度からの異常負債の肩代わりと坑道掘進助成金の支給によって、経営はある程度楽になる見通しにあった[65]。この先は原料炭に力を入れて石炭不況を乗り切る方針をとっていた[66]。1968年の事業内容は、石炭、重油、ヒーターほかとされた[67]

  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「住友石炭鉱業」
    • [63]1960年7月に石油製品の販売を開始して多角経営に乗り出し、ヒーター販売は1963年からである
    • [64]四大石炭会社の一つで、北海道の赤平・歌志内・奔別の3鉱業所を経営し、従業員8,620名、社長は石松正鉄だった
    • [65]経営安定化は政府の救済策にかかっており、1967年度から異常負債の肩代わりと坑道掘進助成金の支給により経営もある程度楽になる
    • [66]今後は原料炭に力を入れることで石炭不況を乗り切る方針だった
    • [67]1968年時点の事業は石炭、重油、ヒーター他である

石炭の需要が石油へ移る間、売上高は伸びても利益は薄いままだった。1956年度の売上高は127億6,100万円、経常利益は2億3,200万円で[68]、1957年度は175億4,100万円と5億7,300万円[69]、1958年度は160億6,000万円と1億9,600万円[70]、1959年度は168億3,900万円と2億5,600万円と動いた[71]。1961年度の売上高は197億9,300万円、経常利益2億6,000万円、当期純利益1億5,700万円[72]、1962年度は売上高193億1,600万円、経常利益2億2,300万円、当期純利益1億4,000万円で、従業員は8,870名を数えた[73]。6年で売上高は1.5倍になったが、経常利益は2億円台へ戻った。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友石炭鉱業」
    • [68]1956年度の売上高127.61億円、経常利益2.32億円
    • [69]1957年度の売上高175.41億円、経常利益5.73億円
    • [70]1958年度の売上高160.60億円、経常利益1.96億円
    • [71]1959年度の売上高168.39億円、経常利益2.56億円
    • [72]1961年度の売上高197.93億円、経常利益2.60億円、当期純利益1.57億円
    • [73]1962年度の売上高193.16億円、経常利益2.23億円、当期純利益1.40億円、従業員8,870名

1969年1月、石炭会社の社長としてはもっとも若い57歳で、川副官次氏が石松氏から社長を引き継いだ[74]。1911年9月に佐賀県で生まれ、1937年3月に九州大学工学部を卒業して同年4月に住友炭鉱へ入社し、1962年8月に取締役、1964年8月に常務取締役、1968年5月に取締役副社長を経た[75]。川副官次社長は就任早々の1969年4月、年来の重荷だった杵島炭鉱の企業ぐるみ閉山をやり遂げた[76]。同年8月1日には住石興産を発足させて兼業部門の移管と関連子会社の統轄を任せ、住友石炭鉱業の本体は石炭だけを扱う会社になった[77]

    • [74]1969年元日に石松前社長からバトンタッチを受け、57歳で石炭会社社長としてはもっとも若かった
    • [75]1911年9月佐賀県生まれ、1937年3月九大工学部卒、1937年4月住友炭鉱入社、1962年8月取締役、1964年8月常務取締役、1968年5月取締役副社長、1969年1月取締役社長
    • [76]住友石炭年来の重荷であった杵島炭鉱株式会社の企業ぐるみ閉山を1969年4月早々にやり遂げた
    • [77]1969年8月1日に住石興産を発足させ、兼業部門の移管と関連子会社統轄を委せ、住友石炭鉱業としては石炭だけに専念することになった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「住友石炭鉱業」
    • [63]1960年7月に石油製品の販売を開始して多角経営に乗り出し、ヒーター販売は1963年からである
    • [64]四大石炭会社の一つで、北海道の赤平・歌志内・奔別の3鉱業所を経営し、従業員8,620名、社長は石松正鉄だった
    • [65]経営安定化は政府の救済策にかかっており、1967年度から異常負債の肩代わりと坑道掘進助成金の支給により経営もある程度楽になる
    • [66]今後は原料炭に力を入れることで石炭不況を乗り切る方針だった
    • [67]1968年時点の事業は石炭、重油、ヒーター他である
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友石炭鉱業」
    • [68]1956年度の売上高127.61億円、経常利益2.32億円
    • [69]1957年度の売上高175.41億円、経常利益5.73億円
    • [70]1958年度の売上高160.60億円、経常利益1.96億円
    • [71]1959年度の売上高168.39億円、経常利益2.56億円
    • [72]1961年度の売上高197.93億円、経常利益2.60億円、当期純利益1.57億円
    • [73]1962年度の売上高193.16億円、経常利益2.23億円、当期純利益1.40億円、従業員8,870名
    • [74]1969年元日に石松前社長からバトンタッチを受け、57歳で石炭会社社長としてはもっとも若かった
    • [75]1911年9月佐賀県生まれ、1937年3月九大工学部卒、1937年4月住友炭鉱入社、1962年8月取締役、1964年8月常務取締役、1968年5月取締役副社長、1969年1月取締役社長
    • [76]住友石炭年来の重荷であった杵島炭鉱株式会社の企業ぐるみ閉山を1969年4月早々にやり遂げた
    • [77]1969年8月1日に住石興産を発足させ、兼業部門の移管と関連子会社統轄を委せ、住友石炭鉱業としては石炭だけに専念することになった

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沿革年表 1893〜2022年

住石ホールディングスの沿革1893〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1893〜1949年庄司砿と忠隈砿から北海道へ広がる住友の炭鉱庄司砿(九州)を入手し石炭業に着手★★
忠隈砿(九州)を入手
坂炭砿(北海道)の経営に参加★★
住友別子鉱山を設立(設立登記日)★★
住友九州炭砿を設立
住友坂炭砿と住友九州炭砿が合併し住友炭砿を設立★★
住友別子鉱山と合併し商号を住友鉱業に変更★★
商号を井華鉱業に変更★★
東京・大阪両証券取引所に株式を上場
1950〜1970年過度経済力集中排除法による石炭専業化と北海道への集約本社を大阪市から東京都に移転
過度経済力集中排除法により金属鉱山部門・土木部門・調度部門を分離★★★
商号を住友石炭鉱業に変更★★
1971〜1994年三山15,000トン体制から赤平一山へ、そして1994年の閉山奔別砿・歌志内砿を閉山し赤平砿の一山体制に移行★★★
赤平炭砿を分離して住友石炭赤平炭砿を設立
豪州の炭鉱会社Wambo Mining Corporationに資本参加★★
赤平炭砿を閉山し国内炭鉱経営から撤退★★★
1995〜2026年石炭を掘らずに売る会社への転身と麻生の資本参加泉山興業を買収
豪州の炭鉱会社Wambo Mining Corporationを売却★★
単独株式移転により持株会社住石ホールディングスを設立★★★
住石ホールディングスが東京証券取引所に株式を上場
住友石炭鉱業が商号を住石マテリアルズに変更
長崎駒樹住石マテリアルズの石炭事業部門を住石貿易に事業譲渡
長崎駒樹新素材事業部門と採石事業部門を新設分割により分社★★
長崎駒樹住石山陽採石を売却
長崎駒樹東京証券取引所スタンダード市場に移行
出典・参考 8件
出典・参考

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