ゼンショーが選んだのは、新しい商品ではなく新しい売り場だった。牛丼という商品そのものは、先行する吉野家が駅前で売り込んできたものである。小川賢太郎氏が1982年に横浜市鶴見区で始めた会社は、その同じ丼を、駅から離れた幹線道路沿いへ持ち出した。立地が変われば客も変わる。駅前の立ち食いに来るのは単身の男性客だが、車で乗りつける郊外の店には家族が来る。とん汁を付け、キムチを足し、肉の量を100グラムから500グラムまで選ばせたメニューは、その客層の違いに合わせて組み直された品ぞろえだった。商品を変えずに売る場所を変える。創業から五年で打ったこの一手が、後の全国展開の型を決めた。
もう一つ、創業期に決めていたことがある。自らを外食業ではなく製造販売業と呼び、肉・カレー・漬物・その他食材の四工場を直営し、店も一店残らず直営で持った。加盟店を募って店数を稼ぐ方式は採らなかった。出店の速度は自社の資本の厚みに縛られるが、代わりに牛肉や米の買い付けから加工、配送、調理までが一つの帳簿の内側に入った。1986年に横浜工場へ併設した配送センターを1988年に切り離し、1990年に佐野、1992年に川崎、1993年に三郷と春日井へ広げた配送網は、この一貫体制を多店舗に耐える構造へ組み替える作業である。工場を増やすのではなく、工場と配送を分けて置く。郊外へ散る店を支えたのは、この分業だった。
1982年6月、小川賢太郎氏が株式会社ゼンショーを設立し、神奈川県横浜市鶴見区に横浜工場を併設した本社を置いた。初年度の布陣は、工場のほかに弁当と牛丼という二つの業態の店を並べる形になった。弁当店ランチボックスの1号店となる生麦店が同じ鶴見区に開いたのは設立の翌月で、同年11月には生麦駅前店がすき家のビルイン1号店として続いた。15年後に小川氏が自社を形容した言葉は、いずれの企業グループにも入らない独立の会社というものだった。グループの後ろ盾を持たない以上、食材の仕入れ先も出店の資金も自力で賄うほかなく、本社に工場を併せて置いた創業時の判断もこの前提を踏まえていた。
二つの業態のうち、資源を寄せたのは牛丼のほうだった。小川氏は牛丼を、米国におけるハンバーガーと同じ位置を日本で占めうる商品と見ていた。創業以来の基本コンセプトとして掲げられたのは、美味しい料理を気軽に味わってもらうという考え方だった。創業を動かしたのは、牛肉と、2000年にわたり主食であり続けた米と、大豆から造る醤油の三素材を合わせただけの単純な商品が外食産業の頂点を取りうるという判断である『牛肉、日本人が2000年にわたって主食とし、小麦よりはるかに優れたデンプンである米、大豆を主原料とした世界一の調味料である醤油という素晴らしい素材を組み合わせたシンプルな商品である牛丼は、アメリカにおいてハンバーガーが外食産業のトップの座を得たのと同様のポジションを日本で取り得るし、また取らねばならないと判断して創業した』。この見立てから、品目を広げて客層を増やす道は取らず、一品に集中して回転と規模を稼ぐ方針が選ばれた。もっとも、最初のすき家は駅前のビルインで、業態の組み立ては先を行く牛丼チェーンとさして変わらず、違いが表に出るのは店の置き場所を決め直した五年後のことである。
牛丼市場で先を走っていた吉野家は、繁華街の駅前に店を構える型で伸びてガリバー型の独占的な地位を築いており、立地も商品も同じなら勝負は店舗網の厚さで決まってしまう。そこでゼンショーは郊外を基本の立地に据え、その立地に合う商品構成と店の広さの釣り合いを詰めることに力を注いだ。最初の形は1987年7月、茨城県水戸市に開いた水戸店で、ロードサイドに単独で建つフリースタンディング型の1号店だった。この郊外型ファミリー牛丼チェーンという業態こそ、設立から15年で当時の規模に達した最大の要因だったと、小川氏は後に振り返っている。
郊外の店を成り立たせたのは、品ぞろえの深さだった。牛丼セットの一本槍ではなく、とん汁を組み合わせたとん汁セット、キムチを加えたキムチとん汁セット、肉の量を100グラムから500グラムまで選べる牛皿セットを並べ、専門店のなかで複数の購買動機に応じられる構成を組んだ。店内のレイアウトもテーブル席を増やし、男性客だけでなく家族連れ・女性客・グループ客を対象に置いた。選んで買う楽しみを単品の専門店へ持ち込む設計であり、立ち食いの回転を前提とする駅前型とは、客単価も滞在時間も別の商売になる。1991年3月には神奈川県横浜市保土ヶ谷区に研修センターを開設し、店舗運営の教育を社内に抱えた。
ゼンショーは創業以来、自らを製造販売業と位置づけてきた。肉、カレー、漬物、その他の食材の四工場を直営し、店舗も全店直営として、高い内製化率を保ったまま、食材の買い付けから加工、物流、販売までを自社で管理する一貫体制を敷いた。牛肉や米が牛丼になるまでの全工程を握るという意味であり、原価の変動も品質の責任も社外へ出さない。製造の拠点は店舗網の広がりに合わせて増えた。1990年10月に栃木県佐野市へ佐野工場を新設して佐野配送センターを併設し、1993年12月には同じ佐野市に、セントラルキッチン機能の拡充を目的として佐野第2工場を建てている。自社で作るということは、店が増えるより先に工場を建てるということであり、投資は常に売上に先行した。
製造の拡張と並んで組み替えられたのが配送である。1986年8月、本社を神奈川県横浜市神奈川区へ、横浜工場を同市緑区へ移した際、配送センターは工場に併設された。店舗へ食材と備品を確実に届けて24時間の営業を途切れさせないため、配送は決まったルートを定期に回る形をとり、在庫は各店から決まった時刻に届く発注の数字で制御した。この機能が工場から切り離されたのは1988年10月である。1992年3月に横浜配送センターを閉じて神奈川県川崎市宮前区に川崎配送センターを設けた。1993年10月には物流部門の拡充として埼玉県三郷市と愛知県春日井市に二つの配送センターを加えて、供給の足場を関東の外へ伸ばした。製造と輸送の拠点を切り分けたことで、郊外に散らばる店を増やす下地ができた。
牛丼で伸びている会社が、なぜ牛丼以外を試したのか。一品に絞って回転を取る商売は、その一品の需要が止まった瞬間に代わりを持たない。1994年のカレー専門店・南南亭と1996年の丼専門店・たの家は、すき家の新メニュー開発で出てきた、牛丼店の枠に収まらない案の行き先として作られた業態である。ただし1997年3月期の数字で見れば、単体売上117億円のうち牛丼類が89億円を占め、南南亭は1億9,300万円、たの家は4,500万円にすぎない。会社の言葉でもこの二つはテストマーケティングを兼ねた運営であり、収益源ではなかった。収益はあくまで単品が生み、第二業態は、単品が頭打ちになったときの逃げ道を先に掘っておく作業だった。
1990年代半ばの外食市場は、1993年の27兆9,816億円から1995年の28兆612億円まで、三年でほとんど動いていない。そのなかで牛丼上位三社の同部門売上は年平均6.2%で伸び、ゼンショーは23.1%で伸びた。伸びない市場で四倍近い速さが出るのは、一店あたりの客が増えたからではなく、店の数が増えたからである。そして店を増やす速度は、工場と配送網を自前で持つ会社では資本の厚みに縛られる。1997年8月の店頭登録は、この縛りを緩める手続きだった。小川賢太郎氏が公開の利点に挙げたのも資金調達と人材確保の二つで、その先に関西と九州への出店計画が置かれていた。
1994年9月、ゼンショーは牛丼に続く第二の業態として、カレー専門店の南南亭を開店した。スパイシールー・甘口ルー・ハヤシライスソースを土台に、玉子や野菜、揚物など約30種類のトッピングを自由に組み合わせ、辛さを段階で分け、ライスの量を100グラム単位で区切る仕組みである。すき家で採った選択購買の設計を、そのままカレーへ移したものだった。1996年4月には丼専門店のたの家を開店している。かつ丼・チリ丼・ステーキ丼・まぐろ丼・ネギトロ丼・山かけ丼といった品ぞろえは、すき家の新メニュー開発の場で出た、牛丼店の枠に入らない丼物の案が出発点になった。丼物のほかに各種定食やカレーセットも並べており、すき家より広い品ぞろえを持つ業態だった。
二つの業態は、事業として立てる前の段階に置かれていた。1997年3月期の単体売上117億3,600万円の内訳は、牛丼類が89億9,700万円、すき家で出すカレー類が11億4,500万円、南南亭が1億9,300万円、たの家が4,500万円、その他が13億5,600万円である。牛丼類だけで売上の76%を超え、第二業態の二つを合わせても2億4,000万円に達しない。会社の位置づけでも、この二つはテストマーケティングを兼ねた運営であり、事業化はこれから進める段階に置かれていた。同じ1994年7月には川崎配送センターへ川崎工場を併設しており、業態を試す前に作る側の余力を積んでいた。
国内の外食市場は、1993年に27兆9,816億円、1994年に27兆9,269億円、1995年に28兆612億円と、三年でほとんど増えていなかった。小川氏は、この先も大幅な伸びは見込めないとしつつ、ライフスタイルの変化や女性の社会進出、余暇時間の増大に伴って安定的な拡大は続くと見ていた。成熟した市場で牛丼を主力に据え続けた根拠は、手軽さと親しみやすさを備えたベーシック商品として安定した需要に応えられる点に置かれている。牛丼を主力とする上位三社の同部門売上は1992年度から1995年度まで年平均6.2%で伸びたが、ゼンショーの伸びはこれを大きく上回る年平均23.1%だった『「牛丼」を主力商品とする当社を含めた上位3社の牛丼部門の売上高増加率は、92年度から95年度までの3年間で年平均6.2%という高い伸びとなった。そして当社はこれをさらに大きく上回り、この3年間の年平均増加率は23.1%になった』。市場がほぼ動かない三年間に、一社だけが四倍近い速度で積み増したことになる。
伸びは利益の側にも現れた。単体の経常利益は1995年3月期に2億8,200万円だった。売上高は同期の102億6,200万円から1996年3月期に112億500万円へ9.2%増え、経常利益は4億7,600万円で68.8%増、当期純利益は2億2,200万円で110.5%増になった。1997年3月期は売上117億3,600万円で4.7%増、経常利益5億1,500万円で8.1%増と伸び幅こそ落ち着いたが、経常利益率は1995年3月期の2.7%から4.4%へ上がっている。店が増えるたびに工場と配送センターの負担が一店あたりで薄まる構造であり、郊外型の多店舗化が損益に効き始めた段階だった。
1997年8月、ゼンショーは日本証券業協会へ株式を店頭登録した。公開は同月25日で、そのときの店舗数は181店、展開エリアは首都圏を中心に東北・北陸・中部までだった。公開で得られる資金調達と人材確保の利点は、世界中の人々へ食を提供する世界一のフード企業という目標へ向けたてことされ、公開そのものが全国展開の節目に置かれた。具体の計画は、1998年3月期中に5〜6店舗を出し、中部と九州の間のエリアを順に埋めるというもので、関西と九州へは愛知県下の物流センターを起点として入り、九州にもう一つの物流センターを置く構想を持っていた。37万平方キロメートルの国土に1億2,000万人が住む国で、最も効率のよい店舗展開をやりたい、というのが全国化の考え方だった。
公開後の二期で、会社の規模は一段上がった。単体売上高は1998年3月期に135億2,300万円、1999年3月期に152億9,700万円へ伸び、経常利益は7億2,000万円から11億3,600万円になった。1999年3月末の店舗数は222店で、内訳はすき家218店と南南亭4店、製造拠点は横浜・川崎・佐野第一・佐野第二の四工場である。株主の構成は、創業者の資産管理会社である日本クリエイトが31.23%、小川賢太郎氏個人が16.90%、小川一政氏と小川洋平氏が各3.84%と、創業家側で55.81%を占めた。1999年9月、東京証券取引所第二部市場へ上場した。公開市場から資金を取りながら、議決権の過半は創業家に残したままだった。
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|---|---|---|---|---|
| 1982〜1993年郊外型牛丼の垂直統合 | 小川賢太郎 | 神奈川県横浜市鶴見区に設立 | ★ | |
| 小川賢太郎 | ランチボックス(弁当店)1号店として生麦店を開店 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | すき家(牛丼店)ビルイン1号店として生麦駅前店を開店 | ★★ | ||
| 小川賢太郎 | フリースタンディング1号店として水戸店を開店 | ★ | ||
| 1994〜1999年単品業態の全国展開 | 小川賢太郎 | カレー専門店「南南亭」1号店を開店 | ★ | |
| 小川賢太郎 | 丼専門店「たの家」1号店を開店 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | 日本証券業協会に株式を店頭登録 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | 東京証券取引所第二部市場に上場 | ★ | ||
| 2000〜2010年ココスジャパン・なか卯の取得による多業態化とはま寿司の立ち上げ | 小川賢太郎 | ココスジャパンの株式を取得 | ★ | |
| 小川賢太郎 | はま寿司を設立 | ★★ | ||
| 小川賢太郎 | ビッグボーイジャパンの株式を取得 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | M&Aによる多業態フードチェーンの構築 2000年代、ゼンショーは牛丼"すき家"を主軸に、レストランのココス、回転寿司のはま寿司、ステーキのビッグボーイ、丼・うどんのなか卯を相次いで傘下や自社設立で統括し、業態を並べて調達・製造・物流を共通化する多業態フードチェーンを築いた。小川賢太郎社長が"製造販売業"と呼ぶ垂直統合を全業態へ広げるMMD(マス・マーチャンダイジング)戦略で、2005年3月のなか卯取得で国内の業態網が出そろった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小川賢太郎 | 華屋与兵衛の株式を取得 | ★ | ||
| 2011〜2026年持株会社体制への移行とすき家の地域分社・再統合、海外寿司事業の取得 | 小川賢太郎 | 持株会社体制に移行し社名をゼンショーHDへ変更 | ★★ | |
| 小川賢太郎 | マルヤの株式を取得 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | 過重労働の露呈と第三者委員会の設置による労務体制の見直し 2014年春、牛丼チェーン「すき家」の店舗で従業員の負担増が深刻化し、ゼンショーホールディングスは店舗の労働環境改善を経営の最重要課題に設定した。4月に地域分社化と第三者委員会の設置を決め、委員長の久保利英明弁護士に委員の選定まで一任。7月末の提言に沿って深夜帯の一人勤務体制を廃止し、10月1日から複数勤務体制の整わない1,167店で深夜営業を一時休止した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小川賢太郎 | Advanced Fresh Concepts Corp.の株式を取得 | ★★ | ||
| 小川賢太郎 | ジョリーパスタを株式交換により完全子会社化(上場廃止) | ★ | ||
| 小川賢太郎 | ココスジャパンを株式交換により完全子会社化(上場廃止) | ★ | ||
| 小川賢太郎 | すき家地域会社9社を吸収合併しすき家として再統合 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | ロッテリアの株式を取得 | ★ | ||
| 小川賢太郎 | SnowFox Topco Limitedの株式を取得 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ゼンショーホールディングス)