1871年7月、廃藩置県で世禄を失った筑前福岡藩士の松本潜・幾島徳の兄弟は家業として炭坑業を選び[1]、発意を兄の松本潜氏が、経営の実務を弟の幾島徳氏が受け持った[2]。末弟の安川敬一郎氏は1869年に藩命で京都、翌年に静岡へ留学し、1871年には一介の民間書生として東京へ出て、1872年7月から慶応義塾に学んだ[3]。学問で身を立てる準備を断ち切ったのは1874年2月の佐賀の乱で、官軍の小隊長として出征した幾島徳氏が筑肥の境の三瀬峠で戦死した[4]。悲報に接した安川敬一郎氏は学をなげうって帰郷し、徳永・松本・幾島・安川の四家族の生活を維持する家業として、松本潜氏とともに炭坑業に携わった[5]。
兄弟が引き継いだのは当時の筑豊の例にもれず狸掘り式の小規模な坑で[6]、松本潜氏は嘉麻・穂波二郡の大区長として飯塚に在勤するかたわら穂波郡相田村の相田炭坑を受け持ち、安川敬一郎氏は鞍手郡西川村長谷の東谷炭坑を任された[7]。炭坑経営がまったくの未経験だった安川敬一郎氏は、長雨による製塩用石炭の需要減退にも災いされて一敗地に塗れ、起つこともできない苦境に落ちた[8]。ここを救ったのが博多の商人 堺惣平氏で、松本潜氏と旧知の債権者でありながら一、二回の交渉で前債の停滞を猶予し、新計画への資金融通にも応じている[9]。整理が一段落したら再び上京するという志を安川敬一郎氏が捨て、終生を炭坑業に注ぐ決心を固めたのは、このときからだった[10]。
1875年には製塩業も好況を呈して前年の失敗を体験に変えた家業が立ち直り[11]、1880年には松本潜氏が官を辞して芦屋に移り、炭坑業に専念した[12]。前後して兄弟は、福岡県令 渡邊淸氏が招いた官営三池炭坑の技師ボッター氏に相田炭坑を調べさせ、良質の石炭があると判明したことから、1880年に嘉麻郡相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、伊藤傳六・中野徳次郎を現場担当者として高雄・伊岐須の両炭坑を開いた[13]。1884年には鉱山局技師 山際永吾氏の調査に基づいて相田鉱区を72万余坪に広げ、生産費を削るため1884年から1885年にかけて高雄炭坑の疏水工事を竣工させた[14]。もっともこの時期まで炭坑業に対する金融業者の信用は薄く、地方の二、三の金貸業者から無理に融通を受けて経営を継続していた[15]。
石炭を掘る経路より先に売る経路を自分の手に置いた安川敬一郎氏は、1877年、遠賀郡芦屋町に石炭販売店の安川商店を開き、事務所には松本平内氏が創立した焚石会所の跡を充てている[16]。1885年に神戸へ支店を出したのは、外国船焚料炭を扱う問屋の不正が筑豊炭の声価に及ぶことを嫌い、その粛正を念願したためだった[17]。筑豊炭の搬出で芦屋より有利な若松へは1886年に本店を移して大阪支店を増設し、1888年には門司支店を置いた[18]。1893年夏、米国留学を中途で切り上げて帰朝した松本健次郎氏が家業に加わり、仲買商を介する神戸流の販売を避けて外国商人との直接取引を根本方針に据えた[19]。1894年の総輸出高は13万4,000余屯に達し、1899年2月には安川商店を安川松本商店と改めた[20]。
掘る以外への関与は、家業がまだ小規模の域を出ない時期から始まっている。洞海湾の重要性に着目した安川敬一郎氏は、1888年に同志と若松港の築港計画を立て、土木技術者 古市公威氏らの参画を得て若松築港株式会社を設立し、のちに同社社長となる白石直治氏らの指導のもとで港を完成させた[21]。1889年からは筑豊炭田の開発に欠かせない輸送機関として筑豊鉄道の建設にも力を注いだ[22]。1885年に筑豊が海軍予備炭田に指定された際は業界を代表して民間への解放を陳情し、豊国炭砿の鉱区指定が1889年12月に解除されたほか[23]、1897年に創設された八幡製鉄所についても、工場敷地を現在地に選定させるため尽力している[24]。
坑夫の募集と取締りを納屋頭に委ねる納屋制度では、賃金からの控除に加え、採炭切符で払われた坑夫が炭砿の分配所で二重三重に搾取されていた[25]。安川敬一郎氏は1899年2月、明治第一坑で他に先んじて納屋制度を廃止して直轄制度に改め、順次ほかの坑にも実施したうえ[26]、1900年6月には採炭切符制をやめて現金払いに改めた[27]。中堅技術員の養成では、1902年4月に赤池炭砿へ日本最初の炭砿技術員養成所となる二カ年制の私立赤池鉱山学校を設けている[28]。日露戦争後の好況で旧債を完済し、鉄道国有による鉄道株の買上げで得た270余万円の公債と合わせて400万円近くが手許に残ると、1907年6月に基金330万円と敷地7万8,000余坪を寄附して明治専門学校を設立した[29]。1909年4月に開校し、1920年に財団の一切を政府へ献納したこの学校が、いまの九州工業大学である[30]。
1896年4月、安川敬一郎氏は大城炭坑の設備拡充に要する資金を確保するため、大阪の松本重太郎・田中市兵衛・野田吉兵衛ら17名と資本金30万円の明治炭坑株式会社を創立し、大城炭坑を明治第一坑と改めた[31]。しかし純出資者の立場に立つ大阪側とは意見の齟齬が続いた[32]。1899年5月、八幡製鉄所の創設に伴って政府から譲渡を申し込まれた高雄炭砿を130万円で手放し、1898年に谷茂平・今西林三郎と組んで100万円で引き受けた田川炭砿も、1900年3月に三井鉱山合名会社へ165万円で売り渡している[33]。この資金で1901年5月に平岡浩太郎氏の赤池炭砿持分を40万円で引き受け、1902年11月には明治炭坑の株式を一手に集めて会社を任意解散し、全事業を個人の所有に戻した[34]。
1907年7月20日、平岡浩太郎氏の遺族が経営する豊国炭砿でガス爆発が起き、殉職者は1899年6月の210名を上回る365名に達した[35]。安川敬一郎氏は、1888年から赤池炭砿を共同経営した平岡浩太郎氏との間柄と遺族の懇請から、債権者の三井家に引き受けさせようと動いた[36]。200万円を価格とし平岡家維持に要する80万円を三井が預かる条件で朝吹英二氏と交渉し、井上馨・金子堅太郎にも仲介を頼んだものの、交渉は不調に終わった[37]。そこで同じ条件のまま自ら引き受けると決め、9月4日には三井が債権54万4,000円のうち10万円を切り捨てて決着したが[38]、長年築いた基盤一切を賭けた引受けであり、莫大な債務を残した[39]。
1908年1月、安川敬一郎氏は明治・赤池・豊国の3炭砿を統一して資本金500万円の明治鉱業株式合資会社を設立し、自ら社長に、次子の松本健次郎氏を副社長に据えた[40]。負債を抱えたまま出発した新会社が当面した大仕事は豊国炭砿の復旧と整備で[41]、日露戦争後の国力伸張に伴って事業は伸び、1912年に朝鮮の安州炭砿、1913年に多久炭砿と高田炭砿を開設した[42]。1918年4月、安川敬一郎氏は満70歳を機に引退して松本健次郎氏が社長を継ぎ[43]、同年12月に資本金を1,000万円へ増額、1919年1月には本社を戸畑へ移し、4月には株式会社へと組織を改めた[44]。変わったのは法人格で、商号は1908年の設立以来 明治鉱業のまま、当時の稼動炭砿は明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿を数えた[45]。1919年12月には資本金をさらに2,000万円へ増資している[46]。
1919年4月に株式会社へ組織を変えた明治鉱業は、同年12月に資本金を2,000万円へ増額し、明治・赤池・豊国・高田・多久・安州の6砿を稼行していた[47]。この陣容で迎えた欧州大戦後の世界的不況で石炭市況は悪化し、明治鉱業は事業場の縮小に入る[48]。ただし縮めるだけの数年ではなく、手を入れた先は坑内の掘り方から選炭場の機械、坑外の電力にいたるまでの全段にわたった。売り物にならない低品位炭を自社の動力へ回すため自家発電所を建て、採炭方式の改善、選炭機の改造、資材の節約をあわせて不況対策に据えた[49]。
不況下でも鉱区の取得は続き、1927年には満州に西安炭砿を開設した[50]。1912年の朝鮮安州炭砿開設、1914年の沙里院炭砿買収、1917年の大成炭砿譲受に続く外地の鉱区で、九州の炭田だけに産炭地を置かない構えは株式会社になった後も変わらない[51]。この間の1929年5月、父の安川敬一郎氏から1918年4月に社長を引き継いで在任11年を数えていた松本健次郎氏が[52]、社長を弟の安川清三郎氏に譲った[53]。明治鉱業は炭坑のほかに明治紡績・安川電機製作所・黒崎窯業を関連事業として創立しており、経営は創業者である安川敬一郎氏の子らが担った[54]。
1930年1月、明治鉱業は1918年前後に買収したまま置いてあった北海道の雨竜鉱区[55]に昭和炭砿を開設し[56]、九州・朝鮮・満州に散っていた産炭地へ10年余りを経て北海道が加わった。翌1931年の満州事変を境に10年余り続いた不況は一掃され、明治鉱業は1934年から増産態勢に移る[57]。増産と並んで動かしたのが販売で、1936年1月には安川松本商店から営業権を譲り受けて営業部を新設し、初めて生産と販売を一元化した[58]。安川松本商店は1893年に石炭の販売のために創立した商店で、明治鉱業の炭は40年余りその手を通って売られてきた[59]。
営業部を置いた翌月の1936年2月に安川清三郎社長が急逝し[60]、跡を継いだのは松本健次郎氏の長男である松本幹一郎氏だった[61]。松本幹一郎社長の代に入ると事業に対する国家的干与が強まり、明治鉱業は国策に従って朝鮮の大成炭砿と満州の西安炭砿を手放す[62]。1917年に譲り受けた大成炭砿も、1927年に開いたばかりの西安炭砿も、開発した会社の手元には残らなかった[63]。外地の鉱区を国策に削られる一方、内地では系列の整理が進み、1937年6月には子会社の平山炭砿を直接経営へ移して平山鉱業株式会社を合併した[64][65]。
日華事変以後に石炭の需要が急増すると[66]、国策で外地の2砿を手放した明治鉱業は、別の場所で鉱区を開き直す。1938年に西杵炭砿、1939年に庶路炭砿を開設し、華北の磁県炭砿の開発にも乗り出したことで[67]、佐賀県北方の西杵鉱業所と北海道白糠の庶路鉱業所という九州と北海道の双方に新しい坑口が開いた[68]。外地の鉱区は朝鮮・満州に華北を加えた3地域へ広がり、内地では明治・赤池・豊国・高田・多久に平山を加えた既設砿の上へ、西杵と庶路が積み上がった[69]。掘る場所を増やし、売る経路を1936年に自社へ取り込んだ明治鉱業は、産炭から販売までを一本で握ったまま戦時に入った[70]。
1938年5月、明治鉱業は海水を利用する化学工業を起こしたものの[71]、石炭の外に収益の柱を置くこの試みからは3年で手を引き、1941年に鐘淵実業へ譲渡している[72]。海水を扱う工場を手放した明治鉱業に残ったのは九州・北海道と外地に散る炭砿で、石炭の増産が国策として求められるなか、会社は本業へ資本を積み増した。1940年10月の資本金3,000万円への増額は[73]、1919年12月に2,000万円としてから21年ぶりの増資にあたり、1908年1月の設立時の500万円[74]から数えれば37年で6倍の水準になる。公称資本金も同額の3,000万円に置かれ、明治鉱業はこの額のまま終戦を迎えた[75]。
戦局の推移に伴い明治鉱業は既設砿で増産措置を採り[76]、開坑と買収も続けて1943年に立山炭砿を開設、1944年に上芦別炭砿、1945年に天道炭砿を買収して稼行に移した[77]。増える一方だったのは坑口である。その坑口を増やした1944年は売り先を選ぶ余地を失った年でもあり、同年に石炭の販売が統制されて営業部は廃止に至った[78]。安川松本商店から営業権を譲り受けて手にした販売機能を8年で失い[79]、1893年の同商店創立以来、自前の売り先を握ることで石炭を捌いてきた会社は、掘る仕事だけを残して国の配炭機構の下に入った[80]。
1945年8月の終戦で明治鉱業は在外事業場を喪失し[81]、1912年の朝鮮安州炭砿以来30年余りかけて朝鮮・満州・華北へ広げた鉱区が、一度に手を離れた[82]。痛手はそれだけではなく、安川・松本両家の持株が物納と解放で失われて同族的性格は一変し[83]、創業家の持分に支えられた会社が株式の分散した会社へ変わった。加えて戦後に急騰した労働攻勢と鉱害賠償攻勢が、荒廃した炭砿の再建と同時に降りかかった[84]。松本健次郎元社長は、事業資金は事業家個人が単独で用意するものではないとし、明治鉱業が多数の株主を擁する株式会社として運営されていることを父安川敬一郎氏の考え方の具現だと述べている[85]。
敗戦で明治鉱業は、朝鮮の安州と沙里院、満洲の大窰溝、華北の磁県に置いた在外の事業場を失った[86]。1908年の設立から敗戦まで経営は安川家と松本家の手にあったが[87]、その両家の持株も物納と解放にかかって同族会社としての性格は一変し[88]、1946年4月には安川松本合名会社を合併した[89]。石炭の販売は、1936年1月に安川松本商店から営業権を譲り受けて営業部を置いたものの、1944年の販売統制で営業部を廃していた[90]。松本幹一郎社長は、戦後に強まった労働攻勢と鉱害賠償の要求に応じながら、荒廃した炭砿の再建を続けた[91]。
再建の資金は借入金で賄い、新しい坑として1948年2月に明治佐賀炭砿を起工し[92]、2年10か月後の1950年12月に着炭した[93]。既設の坑は、1908年の設立時からの赤池と豊国、1913年開設の高田、1930年開設の昭和、1938年開設の西杵、1939年開設の庶路、1943年開設の立山と、戦前から戦中にかけて開いたものが並ぶ[94]。そこへ1937年6月に合併した平山鉱業の平山炭砿[95]と、1944年に買収した上芦別炭砿が加わり[96]、九州と北海道に分かれたこの坑の列に、戦後の新鉱として明治佐賀炭砿が続いた。のちの増資手取金のうち最大の4億8,000万円は、この明治佐賀炭砿の設備に充てられた[97]。
本社の所在地と資本金は、1949年から1950年にかけて相次いで改まった。1919年4月に株式会社へ組織を改めてから30年を経た1949年[98]、1月に本社を戸畑から東京へ移し[99]、10月17日には東京証券取引所へ株式を上場し、のちに大阪・福岡・札幌の各市場へも上場先を広げた[100]。1950年1月15日には企業再建整備計画に伴う1億円への増資の払込を終えて[101]、同年3月に特別経理会社の指定を解かれ[102]、資本金は終戦時の3,000万円から3倍余りに増えた[103]。もっとも1億円で足りたわけではなく、資本金の増額は1951年6月、1952年2月、1953年6月と3度続いた[104]。
大手5社に次ぐ生産高と販売高を持ちながら資本金1億円は過少で[105]、2割配当としても半期の配当金は1,000万円にとどまり、3月期の利益率は20割を超えた[106]。一方、長期負債は3月末で20億円を超え[107]、傾斜生産で復興金融金庫などの資金を注ぎ込んだ分が負債として残り、その金利が経理を圧迫した[108]。1951年6月16日、明治鉱業は1億円から2億円への増資の払込を完了したが[109]、これでも資本構成の是正としては十分といえないとみられ[110]、6月末の長期負債はなお19億円台にあった[111]。過大な負債と金利の圧迫は石炭各社に共通していた[112]。
増資の手取金は、明治佐賀鉱の設備に4億8,000万円、赤池炭砿の未着手区域の開発資金に4億7,000万円を充てた[113]。折から石炭は不足して炭価は契約改訂のたびに上がり[114]、トン当り1950年下期の4,017円が1951年4月に4,695円、5月に4,824円、6月に4,856円、7月に5,132円と、前年下期に比べて2割5分から3割の騰貴となった[115]。1951年度の出炭計画171万8,000トンに対し[116]、生産実績は4月91%、5月94.7%、6月96%と月を追って上がり[117]、7月から9月は前四半期比6%増、前年度比では20%以上の増加が見込まれた[118]。新たに開発した明治佐賀炭砿の出炭も増えていた[119]。
1951年3月期の決算では、2月のストで出炭が5万8,640トンまで落ちながら炭価の上昇で収益が前期を上回り[120]、利益金1億124万4,000円を計上して配当を5分増の2割とした[121]。供給先は国鉄・電力・鉄鋼・窯業・化学工業で半分以上を占め、朝鮮動乱が終結しても急に減るものとは見られておらず[122]、動乱が終われば中共炭の輸入が予想されたものの、割高な米国炭が振り替えられるにとどまり、国内産への打撃はないとみられていた[123]。増資後の下期の利益は、トン当り200円としても3億4,360万円、半期で1億7,180万円と見込まれた[124]。1952年2月22日、明治鉱業は資本金を4億円へ倍額増資した[125]。
1953年6月5日、明治鉱業は資本金を4億円から8億円へ倍額増資し[126]、手取金を借入金の返済に1億8,000万円、運転資金に2億円と振り分けた[127]。設備資金を償却金と社債と借入金で賄っても、借入金の返済と運転資金が約4億円以上不足すると見込まれたためである[128]。1953年度の新規設備改良工事は、開発工事、選炭設備の改良、坑内外の運搬能力の増強とその他の機械化に分かれ[129]、うち開発工事は坑内の拡張掘進と竪坑開鑿により深部の通気系統を整え、あわせて運搬設備を改良する内容とした[130]。総額12億3,850万円は[131]、開発銀行借入金6億3,350万円、長期信用銀行借入金2億円、第二回ろ号社債手取金9,350万円、営業収益からの充当3億645万円で賄った[132]。
工事は事業場ごとに割り振られ、赤池の三坑左深部と明治新六坑の開発継続には4億7,347万円、明治佐賀の採炭切羽の機械化と大型炭車の補充には1億4,900万円、西杵の左深部開発と通気竪坑の開鑿には1億3,417万1,000円を組んだ[133]。平山・高田・立山・昭和・上芦別・庶路の各炭砿にも、坑道掘進と運搬設備の工事を配した[134]。明治佐賀炭砿は1953年3月から本格生産に移り[135]、出炭の約90%が上級炭、品位は平均6,450カロリーだった[136]。需要先は特約店17.5%、窯業16.1%、製鋼13.0%、電力11.9%、国鉄10.1%の順に並んだ[137]。
しかし1953年9月期は、炭鉱界の不振のなかで出炭が86万4,144トンにとどまり[138]、利益金6,465万50円は平均払込資本金の2割にあたって、配当は3割から5分減らして1割5分へ引き下げた[139]。石炭不振で大手各社が一斉に人員整理に入るなか、明治鉱業は1953年3月期から9月末までに職員を含め2,673人を減らしたが[140]、それでも出炭量は落ちず、炭砿の機械化による能率化が効いた[141]。資本金は1957年1月25日に12億円まで増え[142]、同年3月期の半期売上高は51億8,222万5,000円、税込利益は2億5,313万3,000円となった[143]。同年3月、創立50年の社史を刊行した[144]。
明治鉱業では1957年に板橋喜介社長が就任したが[145]、1950年代の末から収益は細った。半期ごとの税込利益率は1958年3月期に3.6%、配当は1割2分[146]。それが1959年3月期には利益率1.6%・配当1割へ下がり[147]、1960年3月期には利益率0.2%、配当も無配へ落ちた[148]。同じ1960年3月期の半期売上高54億1,706万7,000円から残った税込利益は1,025万9,000円にとどまり[149]、1961年3月期にようやく利益率2.1%と1割の配当が戻った[150]。所有する鉱の数に比してよい炭鉱が少ないという鉱区の構成のもとで、明治鉱業は石炭部門の合理化と、石炭以外への多角化とを並行させた[151]。
石炭以外への手は建設と石油の二つから入り、まず1960年3月に設立した明豊建設株式会社が[152]、のちに明治建設興業株式会社となって明治鉱業の持株比率は93%を占めた[153]。翌1961年2月には石油販売を開始して出光興産株式会社と提携し[154]、石炭を掘って売ってきた会社が、石炭の需要を奪う側の商品を店頭に置いた。多角化の中身は、デユナイト・大理石・石灰石の採掘販売と建設事業で、いずれも子会社が担った[155]。明治鉱業はほかに豊里鉱業株式会社、明治興産株式会社、唐津荷役株式会社、赤池耐火材料株式会社などを関係会社に持ち、決算期を3月と9月の年2回に置いたまま資本金19億8,000万円で1963年を迎えた[156]。
鉱石では三つの鉱山が動き、デユナイトは愛媛県土居町の赤石鉱山で採掘して高級鋳物砂や耐火煉瓦の原料として販売した[157]。大理石は岐阜県洞戸村の新美山鉱山で採って建設会社などへ納め[158]、石灰石は高知県の天ケ崎鉱山で、1963年時点では本格採掘の直前にあった[159]。採掘から販売までを引き受けたのは子会社で、持株比率は赤石オリビンサンド株式会社が82%、明治大理石株式会社が100%、南国石灰石株式会社が75%となる[160]。売り先は鋳物工場、耐火煉瓦の製造元、建設会社と、いずれも石炭の需要家とは別の系統にあったものの、1963年3月期の鉱石の売上は1,621万6,000円で、販売実績全体の0.3%にとどまった[161]。
1962年秋、明治鉱業は北海道の本岐鉱で、日本で初めて水力採炭による開発と採掘を始めた[162]。水力採炭は、高圧の水を炭壁に噴射して炭を崩し、水とともに搬出する採炭法で、坑内に張りつける人手が少なくてすむため、能率は鉱員1人当り月産90トンに達した[163]。大手平均の3倍から4倍にあたるこの能率が[164]、石炭部門の合理化のなかで注目を集め[165]、九州でも佐賀鉱の高能率が知られていた[166]。ただし本岐開発事業所の従業員は283人で、赤池鉱業所の1,722人、平山鉱業所の1,030人、明治佐賀鉱業所の762人、西杵鉱業所の752人に比べれば小さい[167]。
同じ時期、明治鉱業は立山、上芦別、昭和、庶路の各鉱の閉山を含む大規模な合理化を計画し[168]、大手平均の3倍から4倍の能率を出す鉱を開きながら、四つの鉱を閉じる計画を並べて立てた。決算は3月と9月の年2回で、2期を合わせた1年で見ると、この二年で収支は反転している。1962年3月期までの1年は、売上高103億2,501万6,000円に当期利益2億4,930万5,000円[169]。1962年9月期と1963年3月期を合わせた1年では、売上高97億6,759万4,000円、当期純利益は4,659万8,000円の赤字へ転じた[170]。赤字は後半の半期に集まり、1963年3月期の半期だけで売上高52億8,143万1,000円に対して当期利益金1億1,740万4,000円の赤字を出している[171]。
1963年3月末の従業員は5,979人で、内訳は職員男952人、鉱員男4,924人、鉱員女103人[172]、平均年令37.9才、平均勤続13.5年、平均給与は月額28,609円を数えた[173]。組合員数は5,740名で、職員組合は全国炭砿職員労働組合協議会に、鉱員組合は日本炭砿労働組合などに属した[174]。資本金は1962年に13億2,000万円から19億8,000万円へ増えており[175]、同じ1963年3月末の筆頭株主は安川電機製作所で、286万3,200株、比率にして7.2%を持った[176]。次いで三井銀行5.3%、第一銀行3.4%、北海道拓殖銀行2.7%が並び、株式は東京・大阪の各第一部と福岡・札幌に上場していた[177]。
製鉄向けの原料炭へ寄せ、家庭や工場が燃やす一般炭を削る動きが、半年で石炭の中身を入れ替えた。1962年9月期の販売実績は一般炭が構成比70.7%、原料炭が18.8%だった[178]。それが1963年3月期には原料炭32.2%、一般炭54.8%へ転じ[179]、金額でも原料炭は8億4,098万円から16億9,913万1,000円へ倍増した[180]。石油も4億6,341万4,000円から6億6,797万5,000円へ増えて、構成比は10.3%から12.7%へ動いた[181]。石炭全体の売上は40億845万6,000円から45億9,299万円へ伸び、販売実績の合計は44億8,188万1,000円から52億7,718万1,000円へ増えた[182]。
北海道雨竜郡沼田町字昭和の昭和鉱業所は1930年1月に開設され[183]、1964年からは1井層で水力採炭に入った[184]。ユルメ発破であらかじめ炭壁を軟化させ、そのうえで圧水を噴射するサブレベル方式をとり[185]、坑口は海抜211mに設け、延長2,110mの通洞坑道で三つの区域へ展開して、坑道の総延長は約27,000mに及んだ[186]。1962年の出炭は201,500トン、人員562人、1人当り月能率30.0トン[187]。1964年12月には人員459人、月能率43.6トンへ上がったが[188]、数次にわたる合理化を重ねてなお所期の目標の達成は遅れ、昭和鉱業所は当面の目標を1人当り月能率50トンに置いた[189]。
1965年、明治鉱業は日本炭砿・杵島炭砿・麻生産業とともに再建会社の適用を受け[190]、同じ年に赤池を分離し[191]、1967年には天道を閉じた[192]。第4次石炭政策の諸法案が国会審議の最終段階を迎えた1969年4月の翌月[193]、明治鉱業は会社を解散し、企業ぐるみ閉山に踏み切って新明治鉱業を設立した[194]。解散直前の資本金は19億8,000万円[195]。同月27日に株式は東京証券取引所第一部で上場廃止となり[196]、1949年10月17日の上場から19年7か月が過ぎていた[197]。倒産に至る背景として挙げられたのは、エネルギー源転換による需要減だった[198]。
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|---|---|---|---|---|
| 1871〜1919年売る経路と運ぶ経路を先に持った士族の炭坑業、1908年の3砿統一 | 松本潜氏と幾島徳氏が筑豊で炭坑業を創業 | ★ | ||
| 安川敬一郎氏が帰郷し経営の実務を担当 | ★★ | |||
| 平岡浩太郎氏と赤池炭砿の共同経営を開始 | ★ | |||
| 松本健次郎氏が米国留学を中断し家業に入る | ★★ | |||
| 大阪の資本家と提携し明治炭坑を創立 | ★★ | |||
| 高雄炭坑と田川組を譲渡し赤池炭砿を専有 | ★★ | |||
| 石炭販売店の安川商店を安川松本商店に商号変更 | ★ | |||
| 大爆発を起こした豊国炭砿を引き受け | ★★ | |||
| 大爆発を起こした豊国炭砿の引受けと、明治・赤池・豊国3炭砿を統一した明治鉱業の設立 1907年7月20日のガス爆発で殉職者365名を出した豊国炭砿を、安川敬一郎氏が同年9月、三井への肩代わり交渉が不調に終わったのち自己の資産を賭して引き受け、翌1908年1月に明治・赤池・豊国の3炭砿を統一して資本金500万円の明治鉱業株式合資会社を設立した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 松本健次郎氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 本社を戸畑に移転 | ★ | |||
| 株式会社に組織変更し明治鉱業が発足 | ★★ | |||
| 1920〜1945年朝鮮・満州・華北へ広げた鉱区と、敗戦で失われた安川・松本両家の持株 | 満州の西安炭砿を開設 | ★ | ||
| 安川清三郎氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 北海道の雨竜鉱区に昭和炭砿を開設 | ★★ | |||
| 安川松本商店から営業権を譲り受け営業部を新設 | ★★ | |||
| 松本幹一郎氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 子会社の平山鉱業を合併 | ★★ | |||
| 佐賀県に西杵炭砿を開設 | ★ | |||
| 北海道に庶路炭砿を開設 | ★ | |||
| 海水利用の化学工業部門を鐘淵実業に譲渡 | ★ | |||
| 北海道に立山炭砿を開設 | ★ | |||
| 石炭の販売統制により営業部を廃止 | ★★ | |||
| 終戦により在外事業場を喪失 | ★★★ | |||
| 1946〜1957年明治佐賀炭砿を掘り、資本金を1億円から8億円へ | 安川松本合名を合併 | ★ | ||
| 本社を東京に移転 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 企業再建整備計画により資本金1億円に増資 | ★★ | |||
| 特別経理会社の指定を解除 | ★ | |||
| 明治佐賀炭砿が着炭 | ★ | |||
| 資本金を8億円に増額 | ★ | |||
| 大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 1958〜1969年国内初の水力採炭と4鉱の閉山計画、1969年5月の解散 | 明豊建設を設立 | ★ | ||
| 出光興産と提携し石油販売を開始 | ★★ | |||
| 本岐鉱で国内初の水力採炭による開発と採掘を開始 | ★★★ | |||
| 立山・上芦別・昭和・庶路の閉山を含む合理化計画を策定 | ★★ | |||
| 日本炭砿・杵島炭砿・麻生産業とともに再建会社の適用を受ける | ★★ | |||
| 北海道の昭和炭砿を閉山 | ★★ | |||
| 東京証券取引所第一部で上場廃止 | ★ | |||
| 会社更生法によらない解散と、新明治鉱業を受け皿とする企業ぐるみ閉山 1969年5月、明治鉱業が会社を解散し、同時に新明治鉱業を設立して企業ぐるみ閉山に踏み切った経営判断。同じ第4次石炭対策のもとで、杵島炭砿と麻生産業も同年5月から6月にかけて相次いで解散した。明治鉱業の株式は5月27日に東京証券取引所第一部で上場廃止となった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(明治鉱業)