明治鉱業大爆発を起こした豊国炭砿の引受けと、明治・赤池・豊国3炭砿を統一した明治鉱業の設立
三井に肩代わりさせるか、自ら背負うか──365名を失った炭砿と平岡家の遺族をめぐる選択
- 概要
- 1907年7月20日のガス爆発で殉職者365名を出した豊国炭砿を、安川敬一郎氏が同年9月、三井への肩代わり交渉が不調に終わったのち自己の資産を賭して引き受け、翌1908年1月に明治・赤池・豊国の3炭砿を統一して資本金500万円の明治鉱業株式合資会社を設立した経営判断。
- 背景
- 安川敬一郎氏は1888年から平岡浩太郎氏と赤池炭砿を共同経営し、水魚の交りと呼ばれる間柄で結ばれていた。平岡浩太郎氏の没後、遺族に豊国炭砿を自営する意思はなく、豊国は1899年6月の爆発処理で三井に債務を負い、三井から乗り込んだ島田純一氏が管理に当たっていた。
- 内容
- 豊国を200万円で評価し、うち平岡家の維持に要する80万円を三井が預かる条件で朝吹英二氏と交渉したものの、井上馨氏と金子堅太郎氏の仲介を頼むところまで手を尽くして不成功に終わった。安川敬一郎氏は同じ条件のまま自ら引き受け、9月4日に三井が債権54万4,000円のうち10万円を切り捨てて決着した。
- 含意
- 引受けは長年築いた基盤の一切を賭けたもので、莫大な債務を残した。3炭砿の統一はその債務を抱えたままの発足であり、新会社が当面した大仕事は豊国炭砿の復旧と整備であった。
肩代わりを頼む側から、背負う側へ
三井への肩代わりを頼む側に立っていた安川敬一郎氏は、交渉が不成功に終わった時点で、自分が示した200万円の条件をそのまま呑む側へ回った。その数か月前に、手許に残った400万円近い資金のうち330万円を明治専門学校の基金へ振り向けており、豊国を背負う余力が残っていたとは考えにくい。赤池の立坑を共同で仕上げた平岡浩太郎氏との間柄と、自営の意思を持たない遺族の生活とが、採算の計算より先に立ったとみられる。
引き受けた債務は、3炭砿の統一によって消えたわけではない。新会社が最初に取り組んだのは二度の密閉を経た豊国炭砿の復旧と整備であり、経営の重荷はそのまま持ち越された。1912年の安州、1913年の多久・高田へ手を広げられたのは、日露戦争後の国力伸張という外の条件に助けられた面が小さくない。資産を賭す決意だけで会社が伸びたわけではなく、そのあとの復旧作業と時勢の追い風が揃って初めて結果になったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
債権者に救われた出発点と、平岡浩太郎氏との赤池共同経営
炭坑業に入って間もない安川敬一郎氏は、長雨による製塩用石炭の需要減退に災いされ、1874年に起つこともできないほどの苦境へ落ちた。ここを救ったのが博多の商人 堺惣平氏で、旧知の債権者でありながら、一、二回の交渉で前債の停滞を猶予し、新計画への資金融通にも応じた。事業資金は事業家個人が単独で用意するものではなく、信用さえあれば他からの融通は必ず得られる。安川敬一郎氏のこの考えを、松本健次郎氏は社史の序に書き残した[1][2][3]。
1888年、赤池の選定鉱区に権利を持ちながら資金に窮していた平岡浩太郎氏が、安川敬一郎氏へ共同経営を申し入れた。安川敬一郎氏は約124万坪の赤池炭坑に乗り出し、1889年4月に立坑の開さくへ着手したが、設備が足りず同年11月にいったん中止した。工事を1890年2月に再開して秋には深さ250尺の立坑を仕上げ、資金不足は相田・明治両坑の売炭を利用して三菱から受けた3万円の融資で凌いだ。二人はここから水魚の交りと呼ばれる間柄になった[4][5]。
三井に債務を負う豊国炭砿と、明治専門学校へ向けた330万円
豊国炭砿の鉱区は1874年に山本貴三郎氏へ許可され、1896年から平岡浩太郎氏との共有となったのち、1901年5月に平岡浩太郎氏の専有へ移った。1899年6月のガス爆発で殉職者210名を出した際は、その処理に要する金に窮して三井から借金し、以後は三井から乗り込んだ島田純一氏が管理に当たった。平岡浩太郎氏が没すると遺族に自営の意思はなく、安川敬一郎氏は債権者である三井に豊国を引き受けてもらい、あわせて遺族の生活維持を図るため八方に奔走した[6][7]。
日露戦争がもたらした炭界の好況で、安川敬一郎氏は旧債を完済してなお余剰金を得た。鉄道国有に伴う鉄道株の買上げで受け取った公債270余万円と合わせると、手許に残った金は400万円近くにのぼる。かねて念願であった技術教育の学校へこれを充て、1907年6月、基金330万円と敷地7万8,000余坪を寄附して財団法人設立の認可を受けた。のちの明治専門学校で、自由に処分できる資金の大半はここへ向かった[8]。
決断
殉職365名の再度の爆発と、注水か密閉かの復旧論争
1907年7月20日、安川敬一郎氏が上京している間に、豊国炭砿でふたたびガス爆発が起きた。殉職者は1899年6月の210名をはるかに上回る365名に達し、災害は世間の耳目を集めた。直ちに応急密閉を施し、同月31日に密閉を解放して作業を始めたところ、また爆発が起きたため再密閉に踏み切った。坑を開けるか閉じるかという判断が、そのまま人命と復旧の時間を左右していた[9]。
復旧の方法をめぐって見解は割れた。三井側は坑内へ水を注ぐ案を主張し、明治炭砿の白土善太郎氏と石渡信太郎氏は、密閉による正攻法が良策であると安川敬一郎氏に進言した。ただ、いずれの案を採るにせよ豊国の経営者を決めることが先決となり、平岡家の遺族と関係者は協議の末、有力な債権者であり販売権の受託者でもある三井家に引き受けてもらうほかないとの結論へ至った[10]。
三井との交渉不調と、同じ条件のままの引受け
安川敬一郎氏は平岡家の代表とともに上京し、三井側の朝吹英二氏と交渉に入った。示した条件は、豊国を200万円で評価し、うち平岡家の維持に要する80万円を1917年まで三朱で三井が預かって翌年に支払うというものであった。しかし團琢磨氏は入院中、盆田孝氏は洋行中という事情もあって埒が明かず、井上馨氏と金子堅太郎氏に仲介の労を頼むところまで手を尽くしたが、交渉は不成功に終わった[11]。
ここに至って安川敬一郎氏は、三井に示したのと同じ条件のまま、自らこれを引き受けると決めた。遺著の『撫松餘韻』では、平岡浩太郎氏との関係は尋常一様のものではなく、その遺族の前途を傍観して痛みを分かたずにいることは自分には忍びないとして、万難を排し自己の資産を賭して復旧作業を引き受ける決意を書き残している。9月4日、三井は債権54万4,000円のうち10万円を切り捨てることを承諾し、引受問題は決着をみた[12][13][14]。
結果
莫大な債務とともに発足した3炭砿統一の会社
引受けは長年築いた基盤の一切を賭けたもので、安川敬一郎氏は莫大な債務を負った。引受け決定の電報は、松本健次郎氏が石渡信太郎氏と長崎の大島鉱区を踏査している最中に届き、神崎東造氏から売値6万円で持ち込まれていたその話は立ち消えとなった。1908年1月、安川敬一郎氏は明治・赤池・豊国の3炭砿を統一して資本金500万円の明治鉱業株式合資会社を設立し、自ら社長に、次子の松本健次郎氏を副社長に据えた[15][16]。
債務を抱えたまま出発した会社が当面した大仕事は、二度の密閉を経た豊国炭砿の復旧と整備であった。3炭砿が一つの会社になったのち、1906年下半期に鉱夫へ支給を始めていた年功慰労金は成文の規則に改められ、1908年12月から傘下の3炭砿すべてに実施された。日露戦争後の国力伸張に伴って事業は伸び、1912年に朝鮮の安州炭砿、1913年に多久炭砿と高田炭砿を開設した[17][18]。
- 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)
- 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)「社史の刊行に寄せて」
- 社史 明治鉱業株式会社(明治鉱業、1957年)第一章 創業時代(明治七年―同四十年)所収 安川敬一郎『撫松餘韻』779頁・796頁
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「明治鉱業」の項