1889年〜 官営幌内炭鉱の払下げから三井傘下へ、そして鉄道を失った会社へ
- 1889年北海道炭礦鉄道を創立
- 1889年皇室が宮内省内蔵頭名義で1万株を出資し、創立時の筆頭大株主となる
- 1890年室蘭港に至る鉄道線路を新設し北海道中央幹線を完成
- 1890年空知炭山を開発
- 1899年三井銀行が株式を大量に買い入れ、三井が経営権を掌握
- 1906年社有鉄道が国有化され、社名を北海道炭礦汽船に改称
- 1910年70万円の欠損を計上し、創業以来の連続配当が途切れて無配に転落
北海道炭礦汽船の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
石炭と鉄道を一体で持って発足した北海道開拓の請負人
1889年11月18日、堀基氏が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立した。元手は、政府から払下げを受けた幌内炭山と、小樽と幌内を結ぶ付属の運炭鉄道である。創立時の常議員には徳川義礼氏・渋沢栄一氏・高島嘉右衛門氏らが名を連ね、皇室も宮内省内蔵頭名義で1万株を出資して筆頭株主となった。同年12月から営業を開始し、翌1890年4月に空知、6月に夕張の二炭山を開発した。両炭山に接続して積出港の室蘭に至る線路を新設し、北海道中央幹線を完成させている。石炭資源の開発と道内交通路の整備を、一つの会社が同時に担った。会社は自らの使命を「北海道開拓の一翼をになうこと」と規定しており、この自己規定は民間企業の事業目的というより、国策の代行者としての宣言に近い。官営事業の払下げを受けて発足したという出自が、そのまま会社の性格になった。 [1][2][3][4][5]
- [1]1889年11月18日に堀基が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立し、同年12月から営業を開始した
- [2]元手は政府から払下げを受けた幌内炭山と付属の運炭鉄道だった
- [3]1890年4月に空知、同年6月に夕張の二炭山を開発し、室蘭港に至る線路を新設して北海道中央幹線を完成させた
- [5]会社は自らの使命を「北海道開拓の一翼をになうこと」と規定していた
- [4]明治22年11月の創立時に堀基が社長、園田実徳が理事に就き、常議員として徳川義礼・渋沢栄一・高島嘉右衛門・田中平八・吉川泰二郎・北村英一郎が、検査役に金井信之が就任した
石炭と鉄道を一体で持つ構造が、この会社の広がり方を決めた。石炭の供給によって道内の諸産業を興し、市場は上海や香港まで届いた。それだけにとどまらず、コークスの製造、山林の造植、電灯電力の供給、さらに製鉄製鋼へと事業を伸ばしている。掘る、運ぶ、燃やす、加工するという連なりのすべてに手を出した会社だった。その結果を同社自身は、北海道を「未開の農業立地より、鉱工業立地へと一大転換せしめた」と総括している。手を広げすぎたという評価も成り立つが、開拓を請け負う以上は産業の側もつくらねばならないという理屈がここにはある。多角化は、後年の経営難のなかで思いついた延命策ではなく、創業期から会社に組み込まれていた。 [6][7]
- [6]石炭供給により道内諸産業の興隆を促し、上海・香港など海外にまで市場を開拓した
- [7]コークス製造・山林造植・電灯電力供給・製鉄製鋼へ進出し、北海道を農業立地から鉱工業立地へ転換させたと自ら記している
- [1]1889年11月18日に堀基が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立し、同年12月から営業を開始した
- [2]元手は政府から払下げを受けた幌内炭山と付属の運炭鉄道だった
- [3]1890年4月に空知、同年6月に夕張の二炭山を開発し、室蘭港に至る線路を新設して北海道中央幹線を完成させた
- [5]会社は自らの使命を「北海道開拓の一翼をになうこと」と規定していた
- [6]石炭供給により道内諸産業の興隆を促し、上海・香港など海外にまで市場を開拓した
- [7]コークス製造・山林造植・電灯電力供給・製鉄製鋼へ進出し、北海道を農業立地から鉱工業立地へ転換させたと自ら記している
- [4]明治22年11月の創立時に堀基が社長、園田実徳が理事に就き、常議員として徳川義礼・渋沢栄一・高島嘉右衛門・田中平八・吉川泰二郎・北村英一郎が、検査役に金井信之が就任した
1899年、三井銀行の株式買占めによる経営権の移動
発足から10年で、会社の持ち主が変わった。1899年、三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、経営権を手中におさめている。三井にとってこの買収は単独の案件ではなかった。三井は三池に加えて1892年に山野を買収しており、幌内の掌握によって銀行・物産・鉱山の三位一体が完成したと産業史は記す。田川の買収は、その翌年の1900年にあたる。北海道開拓を掲げて出発した会社は、10年で財閥の資源部門という位置を与えられた。以後の北炭は、資本の論理と国策の論理という二つの筋書きを同時に背負う。三井が人事と資本を握り、国が石炭政策で事業の枠を決める関係は、1995年の破綻まで続いた。 [8][9]
- [8]1899年に三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、経営権を手中におさめた
- [9]三井は同年に幌内炭鉱を株の買い占めで事実上支配し、銀行・物産・鉱山の三位一体を完成させた
この資本関係は、40年後に一人の人物を北炭へ送り込む経路になる。1940年2月、三井合名の島田勝之助氏が磯村豊太郎氏の死去を受けて北炭会長に迎えられ、その秘書だった萩原吉太郎氏が随行して移籍した。萩原氏は三井合名を2月15日に去っている。本社勤めを捨てる決断について、本人は「まるで都落ちのような気がしてさびしかった」と書き残した。移籍後の1年をあえて仕事をせずに過ごし、本社にも現業所にも顔を出して人に覚えられることに費やしたという。北炭を17年にわたって率い、最後に社運を賭ける経営者は、自らの志望ではなく三井の人事の都合でこの会社に来た。 [10][11][12]
- [10]1940年2月、磯村豊太郎の死去を受けて島田勝之助が北炭会長に迎えられ、萩原吉太郎が随行して2月15日に三井合名を去った
- [11]萩原吉太郎は北炭移籍当初の心境を「まるで都落ちのような気がしてさびしかった」と書いている
- [12]萩原吉太郎は移籍後の1年間をあえて遊んで過ごし、ヤマにも足を運んで社内に自分を知ってもらうことに充てた
- [8]1899年に三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ、経営権を手中におさめた
- [9]三井は同年に幌内炭鉱を株の買い占めで事実上支配し、銀行・物産・鉱山の三位一体を完成させた
- [10]1940年2月、磯村豊太郎の死去を受けて島田勝之助が北炭会長に迎えられ、萩原吉太郎が随行して2月15日に三井合名を去った
- [11]萩原吉太郎は北炭移籍当初の心境を「まるで都落ちのような気がしてさびしかった」と書いている
- [12]萩原吉太郎は移籍後の1年間をあえて遊んで過ごし、ヤマにも足を運んで社内に自分を知ってもらうことに充てた
鉄道国有化と、社名に「汽船」が加わった転身
1906年10月、鉄道国有法により社有鉄道が国に買い上げられた。創業の二本柱の一方を失った会社は、社名を北海道炭礦汽船と改め、主力を炭砿経営と回漕業に集中させている。買収された路線は、現在のJR函館本線などの一部にあたる。手放したのは単なる資産ではなく、自社の石炭を自社の線路で港まで運ぶという創業以来の仕組みそのものだった。代わりに拡張したのが海運で、太平洋戦争の直前には所有船舶が21隻・8万5千トンに達している。社名の「汽船」は、鉄道を失った代償として選び直した事業を指す。国策によって生まれた会社が、国策によって事業の形を変えられた最初の例になった。 [13][14][15]
- [13]1906年10月に社有鉄道が国有に帰し、社名を北海道炭砿汽船と改称して炭砿経営と回漕業に主力を集中した
- [15]所有船舶は逐次増加し太平洋戦争直前に21隻8万5千トンに達した
- 日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る」
- [14]買収された鉄道は現在のJR函館本線の一部にあたる
鉄道の売却代金は、石炭と鉄鋼を結ぶ事業に投じられた。1907年11月、北炭は室蘭に日本製鋼所を設立している。自社の粘結炭を原料炭として使う垂直統合の構想だったが、この試みは成功しなかった。1909年には噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画したものの、わずか2か月で中止し、1913年から鉄鉱石に原料を切り替えて再出発している。同じ1913年、北炭は三井の団琢磨氏を会長に迎えた。鉄鋼進出のつまずきが、三井による経営関与をさらに深める結果を招いている。もっとも、日本製鋼所も輪西製鉄所も会社としては生き残り、前者は現在も存続し、後者は富士製鉄輪西へと引き継がれた。ただし北炭自身は代償を払っている。鉄道の売却剰余金を株主への分配に回して資本の蓄積を怠り、残りを不慣れな製鉄・製鋼へ固定した結果、1910年上期には70万円の欠損を出して創業以来の連続配当が途切れた。 [16][17][18][19][20]
- [16]鉄道部門を国に買い上げられた資金で明治40年(1907年)に日本製鋼所を設立し、石炭=鉄鋼の関連をつけようとしたが失敗、大正2年(1913年)に三井の団琢磨を会長に迎えた
- [17]明治42年(1909年)に北炭が噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画したが2か月で中止し、大正2年から鉄鉱石に原料を切り替えて再出発した
- [18]鉄道国有で生じた売却剰余金を株主に分配して資本の蓄積を怠り、鉄道業に代わる製鉄・製鋼へ多額の資金を固定した結果、明治43年(1910年)上期に70万円の欠損を生じ、創業以来連続していた配当が途切れて無配に転落した
- [19]輪西製鉄所は富士製鉄輪西に発展した
- 日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏[北炭社長]」
- [20]新日本製鉄の室蘭製鉄所も日本製鋼所も、元をたどれば北炭の子会社から出発したと野々村郁雄は述べている
- [13]1906年10月に社有鉄道が国有に帰し、社名を北海道炭砿汽船と改称して炭砿経営と回漕業に主力を集中した
- [15]所有船舶は逐次増加し太平洋戦争直前に21隻8万5千トンに達した
- [19]輪西製鉄所は富士製鉄輪西に発展した
- 日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る」
- [14]買収された鉄道は現在のJR函館本線の一部にあたる
- [16]鉄道部門を国に買い上げられた資金で明治40年(1907年)に日本製鋼所を設立し、石炭=鉄鋼の関連をつけようとしたが失敗、大正2年(1913年)に三井の団琢磨を会長に迎えた
- [17]明治42年(1909年)に北炭が噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画したが2か月で中止し、大正2年から鉄鉱石に原料を切り替えて再出発した
- [18]鉄道国有で生じた売却剰余金を株主に分配して資本の蓄積を怠り、鉄道業に代わる製鉄・製鋼へ多額の資金を固定した結果、明治43年(1910年)上期に70万円の欠損を生じ、創業以来連続していた配当が途切れて無配に転落した
- 日経ビジネス 1995年9月18日号「敗軍の将、兵を語る 野々村郁雄氏[北炭社長]」
- [20]新日本製鉄の室蘭製鉄所も日本製鋼所も、元をたどれば北炭の子会社から出発したと野々村郁雄は述べている