1889年11月18日、堀基氏が資本金650万円で北海道炭礦鉄道を創立[1]した。元手は、政府から払下げを受けた幌内炭山[2]と、小樽と幌内を結ぶ付属の運炭鉄道である。資本金は鉄道部500万円と炭鉱部150万円に区分[3]され、鉄道部には政府の資本利子補給が付いていた。創立時の常議員には渋沢栄一氏・徳川義礼氏・高島嘉右衛門氏[4]らが名を連ねている。皇室も宮内省内蔵頭名義で1万株を出資[5]し、発行株式13万株の8%にあたる筆頭大株主[6]となった。株式は創業の翌月にあたる1889年12月28日に東京株式取引所へ上場[7]し、翌1890年2月には華族世襲財産に編入[8]された。
1890年1月に株価が大暴落し、恐慌が発生[9]した。同年4月に空知炭鉱を、6月に夕張炭鉱を開坑[10]し、両炭山から積出港の室蘭に至る線路を新設して北海道中央幹線を完成[11]させている。会社は自らの使命を『北海道開拓の一翼をになうこと』[引用元]と規定していた。石炭の供給によって道内の諸産業を興し、市場は上海や香港にまで広げ[12]ている。事業はそこにとどまらず、コークスの製造、山林の造植、電灯電力の供給、製鉄製鋼[13]へと伸びた。その結果を会社自身は、北海道を『未開の農業立地より、鉱工業立地へと一大転換せしめた』[引用元]と総括している。
1899年、三井銀行が北海道炭礦鉄道の株式を大量に買い入れ[14]、経営権を手中におさめた。三井にとってこの買収は単独の案件ではなく、同じ年に幌内炭鉱を株の買い占めで事実上支配したことにより、銀行・物産・鉱山の三位一体が完成[15]している。三井資本の支配時代は、大正2年から30余年[16]におよんだ。1945年9月末の株主名簿では、三井本社16.8%・三井鉱山10.3%を筆頭に三井関係が発行株式の約33%[17]を占めている。皇室の所有株も増資のたびに増え、1945年末には15万9,800株となって三井本社・三井鉱山に次ぐ第3位[18]の大株主だった。
1940年2月、磯村豊太郎氏の死去を受けて三井合名の島田勝之助氏が北炭会長[19]に迎えられ、その秘書だった萩原吉太郎氏が随行して移籍[20]した。萩原氏が三井合名を去ったのは同年2月15日[21]で、引き止める側の好意に感謝しながらの退社[22]だった。本社勤めを捨てる決断について、本人は当時の心境を『まるで都落ちのような気がしてさびしかった』[引用元]と書き残している。移籍後の1年をあえて仕事をせずに過ごし[23]、本社にも現業所にも足を運んで社内に自分を知ってもらうことに費やしている。萩原氏が北炭の社長に就くのは、移籍から15年後の1955年7月[24]にあたる。
1906年10月、鉄道国有法により社有鉄道が国に買い上げられた[25]。創業の二本柱の一方を失った会社は、社名を北海道炭礦汽船と改め、主力を炭砿経営と回漕業に集中[26]させている。買収された路線は、現在のJR函館本線などの一部[27]にあたる。英貨社債100万ポンドのうち鉄道部にあてた40万ポンドは、鉄道国有によって[28]1906年10月に政府へ移管された。手放したのは資産だけではなく、自社の石炭を自社の線路で港まで運ぶ[29]という創業以来の仕組みでもあった。代わりに広げたのが海運で、所有船舶は太平洋戦争の直前に21隻8万5千トン[30]へ増えている。
1907年11月、北炭は鉄道部門の売却資金で室蘭に日本製鋼所を設立[31]し、石炭と鉄鋼を結ぶ関連をつけようとした。英アームストロング・ウィットウォース社とビッカース社を加えた三社の共同出資[32]による会社である。計画の推進者は北炭専務の井上角五郎氏[33]で、伊藤博文氏や松方正義氏をはじめとする要路の後押しを受けている。この試みは成功せず、1909年に噴火湾一帯の砂鉄を原料とする製銑事業を輪西で計画[34]したものの、2か月で中止している。原料を鉄鉱石に切り替えて再出発したのは1913年[35]で、同じ年に三井の団琢磨氏が会長に就いた[36]。鉄道の売却剰余金を株主へ分配して資本の蓄積を怠り[37]、残りを製鉄・製鋼へ固定した結果、1910年上期には70万円の欠損を出し、創業以来の連続配当が途切れた[38]。
1913年1月の臨時株主総会で、資本金900万円の減資と優先株式18万株の発行[39]を決めた。社業の更新を期した減増資[40]が同時に実施され、資本金はふたたび2,700万円[41]になっている。1924年1月に夕張鉄道を、1931年9月に輪西製鉄所を、1933年1月に室蘭電灯を設立[42]している。1938年1月には夕張製作所が、1939年5月には天塩鉄道[43]が続いた。1907年11月の日本製鋼所[44]とあわせれば、鉄鋼・鉄道・電力・機械という顔ぶれになった。輪西製鉄所は富士製鉄輪西へ発展し、室蘭電灯は北海道電力に吸収[45]されている。
昭和戦前期の三井合名の系統図では、北炭は王子製紙・鐘紡と並ぶ傍系企業[46]として記載されている。新日本製鉄の室蘭製鉄所も日本製鋼所も、元をたどれば北炭の子会社から出発した[47]と野々村郁雄氏は述べている。その広がりが、1943年12月に一つ削られた[48]。海務院の勧めにより、所有船舶21隻8万5千トンの全部を三井船舶へ現物出資[49]した。以後の北炭は石炭の採掘と販売に専念[50]している。鉄道は1906年に、船は1943年に手放し[51]、残った柱は石炭だけになった。その石炭も、戦時中の国家的要請による大増産で坑内の荒廃[52]を招いていた。
終戦直後、人事部長だった萩原吉太郎氏はただちに2割の人員整理計画[53]を立てた。外地から引き揚げてくる者が不況のさなかに路頭に迷う事態を避けるため、国内にいる者を先に整理する[54]という判断による。実施は1割7分から8分にとどまり[55]、辞めた者の多くは新しい職を得たと本人は書いている。同時に萩原氏は『これからの企業は正常な労組をつくらなければならない』[引用元]と考え、人事部長みずから組合の結成を説いて回り[56]、御用組合をつくる腹づもりだと誤解されてあわてている。1946年春の五月争議では組合の要求が20数項目に及び、幌内では所長を排除して生産管理[57]に入っていた。
会社側が人事権を盾に押し返そうとする席で、萩原氏は『実は"人事権"なんて考えたことがない』[引用元]と述べた。人道は人事権に優先する[58]と主張し、解雇の撤回に応じている。復職者の人選そのものを組合に一任[59]した結果、今度は組合幹部が退職者に詰め寄られる立場に回り[60]、最も厄介な問題が片づいた。1947年2月、重役総退陣を経て萩原氏が常務に就任[61]した。三井の持株はすべて持株会社整理委員会に押さえられていて株主総会が開けず、GHQの許可が下りたのは総会開始の1時間前[62]だった。就任から2か月後、萩原氏は追放令違反の容疑で4日間の取り調べ[63]を受けている。追放中の島田氏へ自動車と月5万円の家賃を提供[64]した件について、三井銀行の小切手と会社の帳簿を示して[65]事情を説明し、無罪放免となった。
傾斜生産による資材の投入と復金融資を受けて、明治・佐賀・北炭・清水沢などが当時の優良・モデル炭鉱[66]として姿を現した。1949年下期には1億3,000万円の利益[67]を計上し、翌1950年上期に戦後最初の配当を復活[68]させている。萩原氏は清水沢の新鉱開発に期待をかけ、原料炭の確保は北炭のためだけでなく国家の将来に必要[69]だと説いて日本興業銀行にかけあっている。ところが留守中の重役会が投資の取りやめを決め、社内から日本開発銀行へ中傷[70]が持ち込まれて、1年近く融資の道が閉ざされた。清水沢炭砿と平和第二炭砿が全工事を終えたのは1954年7月[71]で、営業出炭は同年8月に始まった。
朝鮮動乱のブームで1951年上期には6億円を上回る利益をあげ、2割5分の配当[72]を行っている。石炭界は1951年から52年の好況を境に、輸入炭と重油の圧迫とデフレ政策の浸透によって需要が細り、貯炭は累増して炭価は低落[73]した。1952年8月24日の企業合理化実施要綱にもとづき、9月19日に鉱員4,004名、24日に社員547名[74]の希望退職募集を打ち切っている。萩原氏にとって、終戦直後・レッドパージに次ぐ3度目[75]の首切りだった。炭労の長期ストを機に外国炭の輸入と重油転換が進んで炭況は軟化し[76]、1954年下期には1,000万円の欠損[77]を生じている。
1955年7月8日、島田勝之助氏の健康悪化を受けて萩原吉太郎氏が社長に就任[78]した。就任時の同社は資本金10億円で、稼行中の9炭砿を夕張・平和・幌内・空知の4鉱業所が統轄[79]していた。石炭の発熱量は平均7,000カロリーを超え[80]、主力の夕張炭砿は8,000カロリーの粘結炭を日産4,100トン[81]産出している。就任時の石炭界は上向いていた[82]が、萩原氏は逆に警戒した。『世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる。どんどん重油に食われていくだろう。これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ』[引用元]。
萩原氏は向こう10年間、安定した数量が売れる状態をつくり[83]、その間に対策を進める計画を立てた。1955年、東京瓦斯と富士製鉄をはじめとする需要家と長期契約[84]を結んでいる。当時の業界はこれを『しろうとは困ったものだ。これから上がろうというときに、みずから炭価を押えるようなことをするなんて、まるで気違いざただ』[引用元]と酷評した。契約先はその後10社を超え[85]、萩原氏自身が1960年の時点で『北炭の大きな強味になっている』[引用元]と評価している。営業方針の転換にともない、営業担当の福谷常務と讃岐営業部長が勇退[86]した。両名にはそれぞれ北星海運と北海道石炭荷役の社長[87]を用意している。
1957年上期には戦後最高の販売量230万トン[88]を記録し、10億円の借入金を返済したうえで5億7,000万円の利益金[89]を計上した。同年下期は金融引締政策の浸透で石炭市況が沈滞したが、ガスおよび鉄鋼の長期販売契約の成果により荷捌きは順調[90]に推移している。3億6,000万円の利益金を計上し、1割2分の配当[91]を据え置いた。大株主層が安定を取り戻したのは、重要得意先である富士製鉄と東京瓦斯が最有力株主として登場した1952年[92]からである。1958年3月末には富士製鉄240万株・東京瓦斯200万株[93]が並び、両社だけで発行総株式数の11%[94]を占めた。
萩原氏の答えは石炭化学で、石炭を燃料ではなく化学原料として使う道を開く[95]構想だった。日本医師会会長の武見太郎氏に着想を打ち明け[96]、亀山直人氏を訪ねている。亀山氏は『石炭から直接化学原料をつくろうという行き方は現在の日本学界の力をもってしては困難だ。現に世界のどこでもやっていないじゃないか』[引用元]と一度は断った。萩原氏は『もし事業化に失敗しても、少なくとも学問の進歩に役立ち、おのれを知るに役立つ』[引用元]と食い下がっている。1956年10月、科学研究所の一棟を借りて石炭化学研究室が発足[97]し、亀山氏が初代所長に就いた[98]。同時に埼玉県戸田町へ約1万坪を購入[99]し、自前の研究所の建設が始まっている。
1958年3月、研究は新築の戸田町の研究所へ移った[100]。荒川のほとりに数億円を投じた[101]この研究所は所員250人[102]を擁し、石炭の水添分解と酸化、膨潤炭[103]を主要テーマに掲げた。当時は油と石炭の価格差が開く一方の時代[104]で、事業化には届かなかった。1965年、北炭は研究所を廃止[105]し、腐植酸アンモニア肥料『フミゾール』と脱臭剤『エスタン』[106]を持たせて北炭化成工業として分離独立させている。緑化工事への入口は分社の前にあり、1963年に三井不動産から飛砂対策の相談を受けた[107]ことがきっかけだった。分社後の北炭化成工業は、1980年度に緑化5億5,000万円・肥料4億5,100万円・公害防止装置6億円・薬剤5億300万円[108]の4本柱を持つ会社に育っている。
1960年ごろの北炭は18炭鉱を持ち、年産約600万トンを掘って国内出炭5,500万トンの1割以上[109]を占めていた。従業員は社員4,000人と鉱員2万人の計2万4,000人[110]。株式や不動産の含み益は、上場企業のなかで10位以内に入る時期[111]もあった。国内の石炭生産量は1961年度の5,440万トンを頂点[112]として、以後は減少に転じている。斜陽となった石炭産業からレジャー分野への進出が目立つ[113]なか、1958年には札幌・摩周湖・支笏湖などでホテルを経営[114]し、1969年にはレジャー部門が170億円を稼いで石炭部門の約半分[115]に達している。
1958年12月、期末手当の交渉で中央労働委員会会長の職権あっせんを受けるかどうかをめぐり、日本石炭鉱業経営者協議会の社長会議は13対1[116]で拒否に傾いた。萩原氏は単独であっせんを受けると宣言[117]し、その場で脱会している。経協への復帰は1960年4月[118]まで待たねばならなかった。1959年秋には西独・フランス・イギリス・アメリカを回って各国の石炭政策[119]を調べ、帰国後ただちに運賃補助を柱とする意見書を政府へ提出[120]した。自民党幹部は賛成しながら実現に至らず[121]、翌年に西独が同じ政策を実施している。萩原氏は『政府たのむに足らず』[引用元]と書き、日本の石炭産業を救うという望みを捨てて[122]北炭一社の防衛に向かった。
1963年の第1次石炭政策は、炭鉱のスクラップ・アンド・ビルドと合理化による油への対抗[123]を掲げていた。北炭はこの方針に忠実で、1969年に夕張新炭鉱の開発構想を打ち出し[124]、翌1970年秋に開発工事へ着手[125]している。海抜下600メートル、地表から800メートル以上深い炭層を一気に採炭する構想[126]は世界にも例が少なかった。鉱員1人当たり月産90トンという能率は、1974年度の全国平均71.8トン[127]を引き離す計画だった。経済埋蔵量は8,100万トン[128]と見積もられ、年産150万トンなら54年間[129]掘れる計算になる。鉱員の住まいも各戸60平方メートルの鉄筋3DK[130]に改め、住居費と光熱費を無料[131]とした。
北炭の夕張炭は流動性に優れ、鉄鋼用の原料炭として理想的な品質[132]を持っていた。堅く緻密なコークスができるため、新日本製鉄・日本鋼管・東京瓦斯が炭鉱開発の融資[133]に応じている。学者のなかにも『これほど優良な石炭は眠らせておかないで掘るべきである』[引用元]と言う者がいた。その品質の優位を崩したのは市況ではなく技術で、流動性の悪い輸入炭からでも十分なコークスが作れる[134]ようになった。そうなれば、あとは安い方が選ばれる[135]。2度の石油危機を経て国内の石炭需要は1億2,000万トンへ増えた[136]が、国内炭はエネルギー革命で石油に追われ、石油危機のあとは輸入炭[137]に追われた。
資材の搬入と石炭の積出しのために掘った2本の斜坑が異常湧水に見舞われ[138]、出炭開始は当初予定より2年近く遅れた[139]。独自の止水工法は1974年度の全国炭鉱技術会賞[140]を受けている。遅延中の資材費高騰も重なり、160億円と見込んだ開発費は306億円[141]に膨らんだ。出炭が始まる4年前の1971年、北炭は開発費の負担によって債務超過[142]に陥っている。1972年に社長を辞任した萩原氏[143]は、新鉱の生産性が上がらないと見るや会長として復帰[144]した。70歳を超えた身で現場に立ち[145]、ヤマの男たちを鼓舞して回ったという逸話が残る。
1975年6月、夕張新炭鉱が営業出炭を開始[146]した。3か月前には平和炭鉱を閉山し、閉山関係費43億3,900万円[147]を特別損失に計上している。同期の決算は営業損失47億1,700万円、経常損失60億1,500万円[148]、当期損失103億5,400万円で、累積赤字は344億5,700万円[149]に達した。元利補給金12億3,000万円・再建交付金17億4,500万円[150]・安定補給金17億6,400万円などを合わせた補助金は60億5,800万円[151]。資本金70億2,207万円に迫る額[152]を、1年間で国から受け取っていた。借入金は長期538億円・短期142億円の計680億円[153]、従業員は社員1,254人・鉱員5,257人の6,511人[154]だった。『新鉱開発を途中でやめるわけにはいかず、75年には出炭にこぎ着けました』[引用元]と野々村郁雄氏は後年述べている。
1975年11月、三笠市の幌内炭鉱でガス爆発事故が発生し、24人が死亡[155]した。坑内を水没させて鎮火させたのち、2年をかけて[156]水を抜き坑道を復旧している。遺族への補償を含む再建費用は200億円[157]に上った。新鉱の306億円と幌内の200億円が同時に財務へのしかかり、1978年、北炭は夕張・真谷地・幌内の3山を分離独立[158]させた。本体は炭鉱を一つも営業しない委託販売会社[159]となり、個々の炭鉱に自立意識を持たせて生産性を上げる狙い[160]は実らなかった。以後の本体は、子会社への債務保証[161]を通じて損失だけを引き受ける立場に置かれた。
1981年、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生し、93人が死亡[162]した。日本の炭鉱事故史上で最大規模の犠牲者[163]を出した災害である。新鉱は生産を再開しないまま1982年に閉山[164]し、災害費用だけで200億円[165]を要している。306億円を投じた新鉱[166]は、一度も採算に乗らないまま終わった。分離した3山は順に消え、1987年に真谷地が、1989年9月29日に最古のヤマである幌内が閉山[167]した。
幌内の閉山では1,000人を超える従業員が職を失った[168]。退職者に支払われていない未払い労務債は、一時70億円[169]まで積み上がっていた。労働組合の下田信夫氏は『三菱など他の炭鉱には見られないこの問題はいずれ自分たちにも降りかかってくるものです』[引用元]と述べた。組合はヤマの存続を求めるよりも、労務債の回収と退職条件を優先する方針[170]を採っている。閉山から2か月の時点で再就職が決まったのは約110人[171]にとどまり、そのうち地元三笠市に決まったのは30人ほど[172]だった。ピーク時に6万人を超えた三笠市の人口[173]は、2万人を割り込んでいる。下田氏は『少なくとも『北炭』の名に誇りなんてありませんよ』[引用元]と語った。
1992年に社長へ就いた野々村郁雄氏が引き受けたのは、1994年3月期末で累積損失850億円・債務超過780億円[174]を抱える会社だった。子会社への債務保証320億円を含めれば、実質的な債務超過は1,000億円[175]を超える。野々村氏は就任した1992年10月に取締役6人によるタスクフォース[176]を設け、会議は100回を超えた[177]。引き金は最後に残った空知炭鉱で、炭労ベースの退職金41億円のうち閉山交付金で賄えない20億円[178]の原資が尽きていた。1995年2月3日に空知炭鉱が、2月5日に北炭本体が会社更生法の適用を申請[179]した。株式売買のある平日を避けて日曜[180]が選ばれ、目立たないよう裏門から地裁に入っている。申請後に通産省が動き、3月7日には閉山交付金で空知炭鉱の退職金を全額支給[181]する旨が閣議決定された。最盛期に2万4,000人を数えた社員は、役員を含めて30人足らず[182]になった。
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|---|---|---|---|---|
| 1889〜1913年官営幌内炭鉱の払下げで生まれた国策会社が、鉄道という柱を失うまで | 北海道炭礦鉄道を創立 | ★ | ||
| 皇室が創立時の筆頭大株主に就任 | ★ | |||
| 夕張炭山を開発 | ★ | |||
| 三井銀行が株式を大量に買い入れ、三井が経営権を掌握 | ★★ | |||
| 社有鉄道が国有化され、社名を北海道炭礦汽船に商号変更 | ★★ | |||
| 日本製鋼所を設立 | ★ | |||
| 創業以来の連続配当が途切れて無配に転落 | ★★ | |||
| 1914〜1954年北海道に会社を撒いた多角化と、汽船部門の消滅、そして戦後の労使 | 所有船舶21隻8万5千トンの全部を三井船舶に現物出資 | ★ | ||
| 重役総退陣を経て萩原吉太郎氏が常務に就任 | ★ | |||
| 財閥解体で三井の持株が放出されへの増資と証券民主化が進む | ★ | |||
| 企業合理化実施要綱により4,551人を解雇 | ★★ | |||
| 1955〜1968年燃料革命を1955年に予言した経営者が買った、10年という猶予 | 石炭が上向いていた1955年に、萩原吉太郎氏が炭価を自ら抑えた判断 1955年、社長に就任した萩原吉太郎氏が『燃料革命』の到来を予言し、東京瓦斯・富士製鉄をはじめとする需要家と10年間の長期契約を結んだ販売方針の転換。値上がり益を放棄して数量の確実性を取る判断で、業界からは炭価が上向くなかで自ら価格を抑える愚策として酷評された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 萩原吉太郎氏が社長に就任 | ★ | |||
| 石炭化学研究室を発足させ、亀山直人が初代所長に就任 | ★ | |||
| 戦後最高の販売量230万トンを記録 | ★ | |||
| 18炭鉱・年産約600万トンで国内出炭の1割超を占める | ★ | |||
| 空知炭鉱を子会社として分離 | ★ | |||
| 北炭化成工業として分離独立 | ★ | |||
| 1969〜1995年社運を賭けた夕張新炭鉱、二つの災害、そして106年の歴史の幕引き | レジャー部門の売上が170億円に達し石炭部門の約半分を占める | ★ | ||
| 夕張新炭鉱の開発構想を打ち出す | ★★ | |||
| 石炭の斜陽を15年前に予言した会社が、夕張新炭鉱に社運を賭けた判断 1969年に構想を打ち出し、1970年秋に着工した夕張新炭鉱への投資判断。国の第1次石炭政策が掲げたスクラップ・アンド・ビルドに沿い、海抜下600メートルの深部から高品位の原料炭を掘る高能率鉱を建てる計画で、当初160億円と見込んだ開発費は306億円に膨らんだ。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 夕張新炭鉱の開発費負担により債務超過に転落 | ★★ | |||
| 夕張新炭鉱が営業出炭を開始 | ★ | |||
| 幌内炭鉱でガス爆発事故が発生し24人が死亡 | ★ | |||
| 炭鉱を持たない委託販売会社へ転換 | ★★ | |||
| 北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生し93人が死亡 | ★★ | |||
| 北炭夕張新炭鉱が生産を再開しないまま閉山 | ★ | |||
| 真谷地炭鉱を閉山 | ★ | |||
| 最古のヤマである幌内炭鉱を閉山 | ★ | |||
| 106年の会社をどう畳むか ── 野々村郁雄氏が選んだ会社更生法 1995年2月、北海道炭礦汽船が会社更生法の適用を申請した経営判断。2月3日に子会社の空知炭鉱が、5日に本体が申請し、ほかに子会社4社が特別清算を申し立てた。創立106年目の幕引きで、株式売買のある平日を避けて日曜が選ばれた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 空知炭鉱が閉山 | ★ | |||
| 退職金の全額支給を閣議決定 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(北海道炭礦汽船)