決断
石炭の斜陽を業界の誰より早く読みながら、最後まで石炭から出られなかった。1955年7月に社長へ就任した萩原吉太郎氏は、直後に燃料革命の到来を告げ、値上がり益を放棄して炭価を自ら抑えた。東京瓦斯や富士製鉄と10年の長期契約を締結し、その猶予で1956年に石炭化学研究所を新設したが、事業化できないまま1965年に廃止した。ホテルから始めたレジャー部門は1969年に石炭部門の約半分を稼ぐまで育ったが、同じ1969年に構想を打ち出し、1970年10月に夕張新炭鉱の開発に着手する。高品位の夕張炭を掘る高能率鉱に306億円を投じ、国の第1次石炭政策と需要家の融資がこれを支えた。鉄道は1906年に、船舶21隻8万5千トンは1943年12月に三井船舶へ現物出資して失っており、大型投資の先に選んだのは再び石炭だった。
1995年2月 空知炭鉱と本体の更生法申請
1970年 夕張新炭鉱へ投資
夕張新炭鉱へ投資石炭の斜陽化を早くから認識していた北海道炭礦汽船が、国の石炭政策と需要家の融資を背景に、高品位の夕張炭を掘る高能率鉱へ306億円を投じた設備投資判断同じ経営論点に直面した企業 | 経営計画・中期戦略業績の推移1969 1970 売上高(億円) 318 294 純利益率(%) -6.6 -3.6 1955年 東京瓦斯・富士製鉄と長期契約