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石炭生産部門の分離と兼業会社への転換 ― 松島炭鉱から松島興産へ

1973年実施

エネルギー革命と石炭政策のもとで、祖業の「掘る部門」をどう切り離し、何で食いつなごうとしたか

時期 1973年4月
意思決定者 武富氏(社長)
論点 石炭依存と多角化
概要
1973年4月、石油への転換で劣勢に立った松島炭鉱が、石炭生産部門を新設の別会社(同年4月に松島炭鉱へ改称)へ営業譲渡し、本体は松島興産へ社名を変更して石炭・資材の販売と不動産・スーパー・観光などの兼業会社へ組み替えた経営判断。
背景
1960年代後半からのエネルギー革命で国内炭は価格・公害の両面で劣勢に立ち、1970年に大島鉱業所を閉山した。石炭政策(第4次石炭答申)は石炭部門と兼業部門の区分経理と企業体制の整備を求め、採掘部門を別会社に切り出して本体を多角化する打開策が業界共通の課題となっていた。
内容
1973年2月に石炭生産専業の池島炭鉱を新設し、同年4月に松島第一商事を吸収合併して松島興産へ社名を変更、石炭生産部門を池島炭鉱へ営業譲渡した。池島炭鉱は同月に松島炭鉱へ改称して生産専業会社となり、本体の松島興産は石炭・炭鉱資材の販売を軸に不動産・スーパーなどへ多角化した。
含意
「掘る会社」を別会社に切り離し「売る会社」として生き残る道を選んだことで、1983年の三井鉱山建材販売の合併と三井松島産業への社名変更、1990年の豪州リデル炭鉱への展開へと続く総合商社的な事業構成の下地を作った。
筆者の見解

生産を手放し、売る側に残るという選択

この判断の核心は、祖業である石炭の生産そのものを別会社へ移し、上場する本体を「売る側」に残した点にある。エネルギー革命で採算の見通しが立ちにくくなった採掘事業を切り離すことで、本体の損益から生産の重い固定費を分け、石炭の販売と資材・不動産・スーパーといった稼ぎ口へ経営資源を振り向けられるようにした。同じ石炭政策のもとで各社が採った型に沿いつつ、松島は生産機能に旧社名を与えて別会社化するという、社名と機能の入れ替えまで踏み込んだ。

結果として、石炭比率は約40%まで下がり、建材・不動産・スーパー・海外炭を束ねる総合商社的な事業構成が形づくられた。掘る事業を残したまま本体で多角化する道もありえたなかで、生産を切り離して身軽になる側を選んだことが、その後の三井松島産業、そして豪州リデル炭鉱への展開へと続く方向を決めた。一次エネルギーの転換という自社では動かせない変化に対して、何を手放し何を残すかを早い時期に決めた判断として振り返る価値がある。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

池島炭鉱で膨らんだ出炭と、迫るエネルギー革命

松島炭鉱は、1913年に三井鉱山・三井物産と古賀鉱業合資の共同出資で設立された三井系の石炭会社である。長崎県の松島鉱に始まり、大島鉱、そして戦後に開発を進めた池島鉱へと採掘の主力を移し、1969年には大島鉱と池島鉱を合わせた年間出炭が181万トンに達して過去最高を記録した。海底炭鉱の効率的な開発で、他の炭鉱が縮小へ向かうなかでも比較的安定した生産を続ける会社だった[1]

しかし1960年代後半に入ると、一次エネルギーが石炭から石油へ移るエネルギー革命が進み、国内炭は輸入炭・石油との競争で劣勢に立った。価格の面だけでなく公害の面でも不利になり、いっそうの合理化を迫られていった。採掘条件が悪化していた大島鉱業所は1970年6月に閉山され、戦中・戦後の出炭を支えた大島事業は幕を閉じた[2][3]

石炭政策が求めた「区分経理」

エネルギー革命による石炭不況への打開策として、大手石炭会社が共通して採ったのが、石炭採掘部門を別会社に分離し、本体で多角化を進めるやり方だった。背景には、石炭政策(第4次石炭答申)が石炭部門と兼業部門の区分経理と企業体制の整備を求めていたという事情もあった。掘る部門の採算を明確に切り分け、本体は石炭以外の事業で利益を確保するという生き残りの型が、この時期に業界へ広がっていた[4][5]

決断

「掘る会社」と「売る会社」の分離

1973年4月、松島炭鉱は事業構造を組み替えた。1969年6月に設立していた松島第一商事を吸収合併すると同時に、本体の社名を松島興産へ変更した。あわせて、石炭生産部門を同年2月に新設していた池島炭鉱へ営業譲渡し、その池島炭鉱は4月に松島炭鉱へ社名を変更して、石炭生産専業の会社として新たに発足した。祖業の社名と生産機能を新会社へ移し、上場する本体は生産設備を持たない側に立つという、大がかりな入れ替えだった[6][7]

この結果、本体の松島興産は、石炭の販売と炭鉱資材の仕入れ・販売を担う商事会社となった。旧社名の松島炭鉱を新会社へ与えて生産を切り出し、それを翼下の別会社として抱える構図で、掘る機能と売る機能をはっきり分けたうえで、本体は商業側に軸を据えた[8]

「守りから攻めへ」の多角化

分離後の本体は、石炭以外での利益づくりへ動いた。当時の武富社長のもとで松島は10年ぶりの黒字転換を果たし、「武冨の松島にならえ」が石炭業界で語られるほど、その経営は注目された。日本アルプス麓の土地取得や福岡市郊外の観光施設の取得など、石炭以外の分野へも触手を伸ばし、「守りから攻めへ」を掲げて事業の幅を広げていった。生産会社を別に置き、本体は稼ぐ手段を石炭の外へ広げるという多角化の方向が、この時期に定まった[9][10]

結果

スーパー・不動産・海外炭への広がり

1979年に社長へ就任した本吉節治氏のもとで、多角化は具体的な事業として形を持ち始めた。松島興産はスーパー部門に力を入れ、不動産部門でも東京に貸ビルを三つ、西宮に賃貸アパートを設けて賃貸収入を狙った。さらに、豪州ニューサウスウェールズ州政府から鉱区の認可を得たことを受けて石炭開発輸入計画に取り組み、その窓口として松島海外石炭開発を設立し、本社を松島興産本社内に置いた。国内炭の縮小を見越して、輸入炭の開発という新しい石炭事業の柱を用意する動きだった[11][12]

1983年4月には、セメント・生コンなどの建材事業へ進出するために三井鉱山建材販売を吸収合併し、社名を三井松島産業へ変更した。事業内容は、石炭など燃料の取り扱い、建機材の製造・販売、不動産、スーパーマーケット3店、工作、観光へと広がった。さらに1990年11月には三井松島オーストラリアを設立し、豪州リデル炭鉱産石炭の輸出を始めるなど、国際的にも事業を広げていった[13][14]

こうした組み替えの結果、1992年時点で売上に占める石炭の比率は約40%まで下がった。事業内容は、石炭に加えて石油、セメント、生コンクリート、骨材、建材、機械器具の仕入・販売、不動産の販売、貸ビルの賃貸、国民宿舎の経営、スーパー事業、機械部品の製作・修理の請負まで広がり、総合商社的な性格を強めた。豪州の炭鉱への出資も強め、輸入ソースの開発に力を入れた[15][16]

出典・参考
  • 日本会社史総覧(1995)
  • 日本の経営者 昭和52年版(1977)
  • 日本の経営者 昭和58年版(1982)
  • 日本の経営者 平成5年版(1992)