北海道炭礦汽船石炭が上向いていた1955年に、萩原吉太郎氏が炭価を自ら抑えた判断

「まるで気違いざただ」と業界に酷評された10年間の長期契約は、北炭に何を買ったのか

時期 1955年
意思決定者(推定) 萩原吉太郎 北海道炭礦汽船 社長(1955年7月就任)
論点 炭価が上向くなかでの値上がり益の追求か、10年の安定販売の確保か
概要
1955年、社長に就任した萩原吉太郎氏が「燃料革命」の到来を予言し、東京瓦斯・富士製鉄をはじめとする需要家と10年間の長期契約を結んだ販売方針の転換。値上がり益を放棄して数量の確実性を取る判断で、業界からは炭価が上向くなかで自ら価格を抑える愚策として酷評された。
背景
石炭界は1951年から52年の好況を境に輸入炭と重油の圧迫を受け、貯炭が累増して炭価が低落していた。北炭は1952年に5,000人を整理している。萩原氏の就任時には市況が持ち直していたが、萩原氏は世界のエネルギー情勢から石炭が斜陽産業になると読み、景気の波ではなく構造の転換だと判断した。
内容
向こう10年間、安定した数量が売れる状態をつくり、その間に脱石炭の対策を進めるという設計だった。契約先は東京瓦斯・富士製鉄から始まり、のちに10社を超えている。営業方針の転換に伴い、営業担当の常務と営業部長が勇退した。
含意
買った10年で北炭は石炭化学研究所を設け、ホテル経営にも進んだ。だが石炭化学は事業化に届かず1965年に研究所を廃止、レジャーは1969年に石炭部門の約半分を稼ぐ規模へ育ったものの、会社は1970年に国内炭へ回帰する。
筆者の見解

時間は買えたが、答えは出なかった

1955年の判断は、単体で見れば成功している。石炭の斜陽化を6年早く読み、売り先を固定して衝撃を和らげ、その猶予で石炭化学とレジャーという二つの道を試した。診断も、時間の買い方も、使い道の探し方も、順序として誤っていない。にもかかわらず会社は1995年に消えた。

石炭化学は事業化に届かず、1965年に研究所を廃止して北炭化成工業として分離された。この会社は緑化事業へ進んで総合緑化企業に育つが、規模は本体を支えるには小さい。レジャーは1969年に石炭部門の約半分まで伸びたにもかかわらず、翌1970年、北炭は夕張新炭鉱の開発工事に着手して国内炭へ回帰した。育ちつつあった非石炭部門ではなく、斜陽と自ら診断した本業に、306億円が投じられている。萩原氏が1955年に買った10年は、期限が来たときに使い道を誤った。

萩原氏の関心が自社を超えていたことも、この結末に関わっている。1959年秋には西独・フランス・イギリス・アメリカを回って各国の石炭政策を調べ、帰国後ただちに運賃補助を柱とする意見書を政府へ提出した。自民党幹部は賛成しながら実現せず、翌年に西独が同じ政策を実施している。「政府たのむに足らず」と書いた萩原氏は、「日本の石炭産業を救え」という望みを捨て、せめて北炭だけでもと願うようになったと記した。国にも業界にも頼れないという結論が、10年後に自社の炭層へ賭ける判断を用意している。

買った時間で何をするかは、時間を買った判断とは別の意思決定である。1955年の萩原氏は前者に成功し、1970年の萩原氏は後者に失敗した。同じ経営者が、同じ診断のもとで、正反対の結果を出している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

好況の裏で進んでいた需要の交代

1955年の石炭界は、直前の落ち込みから持ち直していた。だが数年前の記憶は生々しい。石炭界は1951年から52年の好況を境に、輸入炭と重油の圧迫、デフレ政策の浸透によって需要が細り、貯炭は累増して炭価は低落した。北炭は人員と設備の配置転換、高能率炭砿への生産集約、坑内外施設の合理化で応じ、1952年には5,000人を整理している。萩原吉太郎氏にとって、終戦直後・レッドパージに次ぐ3度目の首切りだった。市況の回復は、この経験を消すほど強くはなかった[1][2]

一方で、資産としての北炭は充実していた。1955年時点の同社は資本金10億円、夕張・平和・幌内・空知の4鉱業所が9炭砿を統轄している。石炭の発熱量は平均7,000カロリーを超え、会社はこれを「わが国随一の高品位炭」と称した。主力の夕張炭砿は発熱量8,000カロリーの粘結炭を日産4,100トン産出し、すべての切羽でカッペ採炭を実施する機械化の先端にあった。前年8月には清水沢炭砿と平和第二炭砿が完工している。設備投資がひととおり実を結んだ直後の就任だった[3][4]

決断

「これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ」

1955年7月8日に社長へ就いた萩原吉太郎氏は、就任直後に市況とは逆の見立てを述べた。「現況に酔っていてはいけない。世界のエネルギー情勢から遠からず石炭は斜陽産業になる。どんどん重油に食われていくだろう。これはもう単なる景気の問題ではなくて、燃料革命だ」。景気の波であれば待てば戻る。構造の転換であれば戻らない。萩原氏はこれを構造の転換と読み、「いま適切な手を打っておかねばいのちとりになる」と考えた。診断が下されたのは、国内の石炭生産がピークを打つ6年前である[5][6]

この診断が特異だったのは、時期である。1955年の石炭はまだ国の基幹エネルギーであり、傾斜生産で復興を支えた実績も新しかった。同業他社は市況の持ち直しを見て増産に向かっており、斜陽を口にする経営者はほとんどいない。萩原氏の見立ては、自社の坑内条件や炭価表からではなく、世界のエネルギー情勢という外側の観察から導かれている。三井合名の調査課で新聞の切り抜きと翻訳に明け暮れた経歴が、この視野に関わっていた可能性はある[7]

値上がり益を捨てて、10年の時間を買う

打った手は、販売の形を変えることだった。萩原氏は向こう10年間、安定した数量が売れる状態をつくり、その間に対策を進める計画を立て、東京瓦斯と富士製鉄をはじめとする需要家と長期契約を結んだ。炭価が上向くさなかに長期の数量契約を結べば、値上がり益は取り逃す。業界はこれを「しろうとは困ったものだ。これから上がろうというときに、みずから炭価を押えるようなことをするなんて、まるで気違いざただ」と酷評した。三井合名から来た門外漢が相場を分かっていない、という見方である[8]

方針の転換は人事にも及んだ。萩原氏は新しい営業方針を進めるため営業畑を一新し、営業担当の福谷常務と讃岐営業部長が勇退している。両名にはそれぞれ北星海運と北海道石炭荷役の社長を用意した。相場を見て売る営業から、数量を確保して売る営業へ。売り方の設計が変われば、それを担う人も替わる。萩原氏が就任わずか数か月でここまで動かした事実は、燃料革命という診断が思いつきではなかったことを示している[9]

結果

契約は10社を超え、猶予は使われた

契約そのものは狙いどおりに働いた。相手先は東京瓦斯・富士製鉄から広がって10社を超え、萩原氏自身が1960年の時点で「北炭の大きな強味になっている」と評価している。会社の公式記録も同じ判断を下した。七十年史は1957年下期について、金融引締めで石炭市況が沈滞するなかでも「ガスおよび鉄鋼の長期販売契約の成果により、荷捌きも順調に推移し」3億6,000万円の利益を計上して1割2分配当を据え置いた、と記している[11]。値上がり益を捨てた判断は、売り先を失わないという一点で確かに働いた[10]

買った時間の使い道は二つに分かれた。ひとつは石炭化学である。萩原氏は石炭を燃料ではなく化学原料として使う道を開こうとし、1956年10月に石炭化学研究室を発足させ、埼玉県戸田町に自前の研究所の建設を始めた。もうひとつは多角化で、1958年には札幌・摩周湖・支笏湖などでホテルを経営している。この路線は伸び、1969年にはレジャー部門の売上が170億円と石炭部門の約半分を占めるに至った。10年の猶予は、確かに別の事業を育てるために使われている[12][13]

需要家が株主になるという副産物

長期契約は、販売の枠組みを超えたところにも効いた。七十年史によれば、北炭の大株主層がようやく安定を取り戻したのは「重要得意先である富士製鉄、東京瓦斯などが最有力株主として登場した」1952年からである[14]。1958年3月末の株主名簿では富士製鉄240万株・東京瓦斯200万株が第1位と第3位を占め、両社だけで発行総株式数の11%に達した。財閥解体で三井が抜けた穴を、石炭を買う側が埋めた形になる[15]。売り先を固定した判断は、株主構成の安定という副産物も生んでいる。

株主の顔ぶれが変わった意味は小さくない。創業時の筆頭株主は宮内省内蔵頭名義で1万株を出資した皇室であり、以後は三井が資本と人事を握った[16]。国策の代行者として発足し、財閥の資源部門となった会社が、戦後は石炭を燃やす側の企業と金融機関に支えられる構図へ移っている。1958年3月末の株主1万9,661名のうち法人株主が約57%を占め、うち銀行・生損保など金融機関だけで30%に達した[17]。売り先と株主が重なる関係は、需要が続くかぎり安定を約束する。裏を返せば、その需要が石油と輸入炭に移ったとき、支えは同時に外れる。

出典・参考

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