1955年の判断は、単体で見れば働いている。石炭の斜陽化を国内生産がピークを打つ6年前に読み、東京瓦斯・富士製鉄に始まり10社を超えた長期契約で売り先を固定し、その猶予で石炭化学とレジャーという二つの道を試した。1969年にはレジャー部門が石炭部門の約半分を稼ぐまでに育っている。萩原吉太郎氏の視野は自社にとどまらず、1959年秋には西独・フランス・イギリス・アメリカの石炭政策を調べ、帰国後ただちに運賃補助を中核とする意見書を政府へ提出した。診断も時間の買い方も、順序として誤っていない。
それでも会社は1995年に消えた。石炭化学は事業化に届かず、1965年に研究所を廃止して北炭化成工業として分離され、緑化事業へ進んだものの本体を支える規模ではなかった。意見書は自民党幹部の賛成を得ながら実現せず、翌年に西独が同じ政策を実施している。政府も業界も頼れないと結論した萩原氏は、1970年に夕張新炭鉱の開発工事へ着手し、自ら斜陽と診断した本業へ306億円を投じた。買った時間の使い道は、時間を買った判断とは別の意思決定であり、同じ経営者が正反対の結果を出したと思われる。