グンゼ 販売子会社23社体制へ再編 代理店に委ねてきた流通の直接掌握と、首都圏販売の3系列への集約

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時期 1971年
論点 販売網の再編とシェア拡大
何をなぜ決めたか
概要

グンゼが1971年ごろから、メリヤス肌着の流通を担ってきた代理店を販売子会社へ順次置き換え、1978年末までに全国を23の販売会社で覆う体制を構築し上げた経営判断。首都圏では小売店・百貨店専門店・問屋の3系列へ販売を集約した。

背景

メリヤス肌着は需要の伸びが横ばいか微増にとどまる実用衣料で、各社が品質と価格でシェアを奪い合っていた。関東では複数の販売会社の支店が交錯し、非効率な面が残っていた。第一次石油ショック後の繊維不況で同業各社が減量経営へ向かう時期にあたる。

内容

東方グンゼ販売の東京・横浜支店、大阪グンゼ販売の東京支店などを統合して京浜グンゼ販売を設立し、問屋向けの又一グンゼ販売東京支店を分離して中央グンゼ販売とした。並行して毎年約40億円の設備投資を続け、その8割を合理化機械と生産システムの自社開発に充てた。

含意

メリヤス肌着のシェアは1973年の21%程度から1978年に30%程度へ拡大し、1人当たり年間売上高は295万円から456万円へ上がった。一方で1976年5月には公正取引委員会からヤミ再販の破棄勧告を受けており、価格支配力の副作用も表れた。

いつ何が起きたか 8件
筆者の見解
筆者の見解

23社という数が残したもの

需要が横ばいの商品で他社の取り分を奪うには、店頭へ商品を運ぶ側を押さえるほかない。グンゼが7年かけて代理店を23社の販売子会社へ入れ替えたのは、値引きでも新商品でもなく、流通の権限を自社へ移す選択であった。首都圏で小売店・百貨店専門店・問屋を3系列に分けた設計は、系列同士が同じ市場で重なる無駄を消すと同時に、どの層にどの条件で売るかを本社が決められる構造を残した。1人当たり年間売上高が295万円から456万円へ伸びた背景には、この権限の移動があったと思われる。

ただ、流通を握ることは価格を握ることに近い。1976年5月のヤミ再販破棄勧告は、品質で積み上げた価格支配力が制度の側から咎められた一例であった。量販店と百貨店を取ればシェア50%に届くと見ながら一般小売店中心の構成を崩さなかった判断も、共存共栄の理念であると同時に、既存の販売網を守る選択でもあった。この体制は肌着という単品の強さに支えられており、売上の半分をメリヤスが占める偏りは残されたまま、1990年代の輸入品との価格競争へ持ち越された。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

業績の推移
同じ問いに直面した会社

同じ問いに直面した会社

価格政策1955年北海道炭礦汽船石炭が上向いていた1955年に、萩原吉太郎氏が炭価を自ら抑えた判断炭価が上向くなかでの値上がり益の追求か、10年の安定販売の確保か
1995年松井証券広告・電話営業への転換、株式保護預り手数料の無料化営業手法と手数料
1997年資生堂定価を守る仕組みを捨て、価格決定を売り場に委ねる転換独占禁止法対応と流通統制の放棄
1997年あいおい損害保険自動車メーカーの依頼に応じた、メーカー主導の商品設計の受け入れ自由化前夜の商品差別化と販売チャネル
1930年ニップン三井物産への製品一手販売の委託と、日清製粉を含む共同販売体制の構築過剰能力下の販売体制と価格の維持
販路の転換1923年資生堂販売会社方式と組み合わせた、店と流通を束ねる体制の確立流通の設計と価格統制
1758年イオン四日市の天秤棒行商として始まり、屋号を変更して構えた店の出発点店舗を持たない天秤棒の行商としての開業と、その後の店の立地の移し方
1996年ナカニシ販売代理店の取り込みと社名変更による製造・販売の一社統合製造と販売の一体化と業容拡大
1975年日本アイ・ビー・エム外資の現地法人を国内企業と同等に位置づけて売り込む構え現地法人の位置づけと販路・製品の現地化
1977年三菱電機生産志向でつくられてきた事業部編成の解体と、市場を起点とする体制への組み替え事業編成と販売体制
参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1979年2月12日号
  • 日経ビジネス 1991年1月14日号
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-繊維不況からDCブームへ」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-輸入規制で打撃」
  • グンゼ 有価証券報告書【沿革】

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