三菱電機生産志向型の事業部編成の見直しと、営業本部・4事業本部制への移行

作れば売れた名門は、売る力をどう作り直したか——生産の都合で引かれた事業の線を、客の側から引き直す

時期 1977年6月
意思決定者(推定) 進藤貞和 社長
論点 事業編成と販売体制
概要
1975年6月の営業本部新設と1977年6月の事業本部制導入により、三菱電機が生産の都合で分かれていた事業部編成を、市場ごとに責任を負う重電・電子・機器・商品の4事業本部へ組み替えた経営判断。進藤貞和社長はこれを「販売志向型」への切り替えと説明した。
背景
戦後の電源開発・設備投資・家庭電化の三つのブームに乗り、三菱グループからの受注も厚く「売る苦労を知らなかった」名門であったが、1963〜1964年を境に電化ブームが終わり、減配を重ねて1965年9月期には無配転落寸前まで落ち込んだ。
内容
1975年に営業本部を置き、1977年に10に分かれていた事業部の上へ重電・電子・機器・商品の4事業本部を重ねた。本部長には事業の技術的専門家ではなく、互いに協力できる人物を充てた。研究本部は開発本部へ改称した。
含意
1976年度は攻めのSP76作戦と守りのVA350作戦が効き、翌1977年には日立・東芝の停滞をよそに単独増益を続けて「雌伏50年」と評された。ただし同じ時期に、売る相手の定まらないエレクトロニクス部門の弱さも指摘されていた。
筆者の見解

誰に向かって仕事をするか

いい物を作っています、というだけでは殿様商法と言われても仕方がない——1977年末、進藤貞和社長はそう語っている。10年前に業界誌が同社へ投げつけた言葉を、社長が自社の説明にそのまま使っていた。4事業本部制の骨子は、冷熱の部門がありながらウインドクーラーは商品事業部が扱うという、生産側の都合で引かれていた線を客の側から引き直すことにあった。組織図の書き換えというより、誰に向かって仕事をするかの向きを変える作業であったとみることができる。

ただ、向きを変えても届かない領域が残った。「雌伏50年」と評された好調のさなかで、同じ記事はエレクトロニクス部門の弱さを指摘し、半導体は民生用か産業用かの方針すら定まっていないと書いている。市場ごとに責任を持つ体制は、売る相手が決まっている商品には効いたが、相手を自分で決めなければならない事業には効きにくかったのかもしれない。この積み残しに決着がつくのは、20年後の汎用DRAM撤退まで待つことになる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

「売る苦労を知らなかった」名門

三菱電機は1921年に三菱造船の電気機械部門を継いで生まれ、戦後は電源開発・設備投資・家庭電化の三つの波に乗って伸びた。1945年から1955年にかけては3割配当を続け、世間はこの会社を名門と呼んだ。当時の商いぶりを業界誌はこう書いている。終戦前の一時期を除けば製品は作る片端から売れ、三菱グループからの受注も多く、売る苦労を知らなかった、と。良い物さえ作れば買い手のついた時代であった[1]

その時代は1963年から1964年を境に終わる。扇風機が飛ぶように売れた年を最後に長い電化ブームは去り、競争激化と需要減退が表に出た。三菱電機の業績はじり貧となって減配が続き、1965年9月期には利益剰余金を取り崩し、かろうじて無配転落を免れた。同じ不況で富士電機と安川電機は無配に落ち、明電舎は住友グループへ身売りした。日立・東芝・三菱の大手3社のあいだにも、この不況ではっきりとした質の格差が生じた[2]

「最も弱い部門」と社長が呼んだ家電

1970年に社長となった進藤貞和氏は、就任以来の基本方針を量から質への転換に置き、弾力性のある経営体質と資金効率のよい企業体質づくりを掲げた。折しも1971年9月期は5億3,700万円の為替差損が出て6%の減益となり、2分の減配で1割配当に落ちる。同社はこれを機に、人・物・金のあらゆる使い方を社内で総点検する「101作戦」を始めた。会計年度の101期にあたる1973年9月期までに業績を回復させる、という意味の全社運動であった[3]

より根の深い問題は、事業の構成そのものにあった。進藤社長は1972年12月の講演で、家庭電器部門をこれまで社内で最も弱い部門であったと率直に述べている。世界に先がけて発売した110度ブラウン管の薄型カラーテレビ、業界の先陣を切った電子ジャー炊飯器と、看板になる製品は揃っていた。それでも販売力で一歩の遅れをとって苦戦している、というのがその説明であった。作る力と売る力の落差が、名門の弱点として残っていた[4]

決断

生産志向から販売志向への組み替え

組織の組み替えは二段階で進んだ。1975年6月に営業本部を新設し、1977年6月には事業本部制を導入して重電・電子・機器・商品の4事業本部を置いた。三菱電機は1958年から事業部制を採り、市場と技術の変化に合わせて手直しを重ねた結果、1972年末には10事業部にまで分かれていた。細分化された事業部群の上に、市場ごとの責任を負う本部を重ねたのが1977年の改革であった[5][6]

狙いを進藤社長は明快に語っている。冷熱関係を担当する部門がありながらウインドクーラーは商品事業部が扱うといった具合に、それまでの区分は生産志向型であった。これを客中心に切り替え、電力会社に対しては電力機器から汎用モーター、電力量計までまとめて売りにいく方式にした、というのがその説明である。あわせて研究本部を開発本部へ改称した。研究をして後は知らぬ顔では困る、物を作る以上は研究を商品へ反映させてほしい、という理由であった[7]

本部長の人選と、「殿様商法」の引き受け

4事業本部の長を誰にするかで、進藤社長は技術の専門性を条件にしなかった。その事業本部のエキスパートでなくてもよい、大事なのは4人が協力できることだと述べ、自分の事業本部のことばかり言う人物は選んでいないはずだと明かしている。時に自部門が多少犠牲になっても、大所高所から全体を見られる人を据えたという。この人事によって全社的なローテーションが動くようになった、というのが本人の評価であった[8]

目を引くのは、10年前に業界誌が投げた「殿様商法」という評語を、社長自身が引き受けている点である。他社製品とどこが違うかを売る人に説明しておかなければならない、いい物を作っていますというだけでは殿様商法と言われても仕方がない——1977年末の取材で進藤社長はそう述べた。社長就任の際には、重電育ちの人であるから家電をやめてしまうのではないか、という噂が社内に流れたという。それを聞いて意地でもやってやると思った、と本人は振り返っている[9]

結果

二大作戦と、単独増益の「ブーム」

1976年度、同社は「SP76作戦」と「VA350作戦」を並べて進めた。前者は売上と利益の同時必達を掲げた営業力強化の全社運動、後者は総原価を350億円削る原価低減運動で、削減額は目標を17%上回る410億円に達した。1975年度上期に76%まで落ちていた操業度は、1976年度上期には95%へ戻る。1977年3月期の実績は売上高6,962億円、経常利益145億円、当期純利益85億円で、経常利益は前期の2倍を超えた[10][11]

外では海外事業部が重電プラントの輸出を積み上げた。1976年度の輸出受注は1,700億円と前年度比7割増で、うち3分の2がプラント輸出である。イラク電力庁向けの発電プラント約250億円、イラン電力庁向けの変電プラント約260億円といった大型案件が並んだ。週刊東洋経済は1977年10月、日立・東芝の業況停滞をよそに三菱だけが増益を続けていると報じ、これを「雌伏50年」の末に訪れたブームと呼んでいる[12][13]

現場に降りた市場志向と、残された課題

本社の方針は現場にも降りていった。カラーテレビを担う京都製作所は石油危機の前から赤字で、のちに常務となる大森淳夫氏は所長として購買部長を兼務すると宣言し、その後は営業部長も兼ねて輸出市場を回った。自動挿入などの合理化もあって、3年で一人当たり生産高は2.26倍になる。買い替えが中心になった市場を読んでブラウン管とチューナーを分けたシステムテレビを出し、VTRではピクチャーサーチを先行させた[14]

一方で、好調を伝えた同じ1977年の記事は、残された課題も名指ししていた。エレクトロニクス部門が他社に比べて弱く、半導体の売上約400億円のうち2割は社内向け、民生用か産業用かの方針もはっきりしない、という指摘である。市場ごとに売る体制を敷いても、半導体だけは誰に売るかが定まらないままであった。この積み残しは20年後、汎用DRAMからの撤退として改めて問われることになる[15]

出典・参考

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