汎用DRAM事業からの撤退と、システムLSI・パワー半導体への「選択の時代」

「百貨店型」の総花的な半導体をどう畳むか——コスト勝負のDRAMを捨て、三菱電機は半導体で何に賭け直したか

更新:

時期 1998年2月
意思決定者 北岡隆 社長
論点 半導体事業の選択と集中
概要
1998年2月、三菱電機は沖電気工業と同時に、汎用DRAM事業からの撤退を決定した。DRAM市況の悪化で各社が投資を縮小するなかでの撤退は初めてで、両社ともシステムLSIへ資源を集中させる。汎用メモリからマイコンまで手広く抱える「百貨店型」の半導体から、得意分野に的を絞る「選択の時代」への転換であり、後のパワー半導体特化につながる出発点となった経営判断。
背景
日本の半導体メーカーは汎用メモリからマイコンまで手がける「百貨店型」に特徴があり、三菱電機もDRAMで世界の十指に入る規模を持っていた。だがDRAMは韓国・台湾勢が価格で追い上げるコスト勝負の製品で、「ウィンドウズ95」需要を見込んだ大型投資の直後に市況が崩落し、1998年3月期に連結最終赤字へ転落した。
内容
汎用DRAMからの撤退を沖電気と同時に決め、システムLSIへ特化する方針を示した。2003年には日立製作所とシステムLSI事業を統合してルネサステクノロジを設立し、同年に半導体事業本部を半導体・デバイス事業本部へ改称。DRAMなど汎用メモリから、パワー半導体や高周波・光デバイスへ主力を移した。
含意
総花的にすべてを抱える戦略から、勝てる領域に絞る戦略への転換であった。DRAM撤退で降りたコスト勝負の消耗戦とは対照的に、注力したパワー半導体は2020年代にSiC(炭化ケイ素)の大型投資へと育ち、パワーデバイス事業に約2600億円を投じる中核事業となった。撤退の決断が、四半世紀後の投資の柱を用意した形である。
筆者の見解

コスト勝負から降りる、という選択

この決断の核心は、規模の大きさそのものを価値とする発想からの離脱であった。DRAMで世界の十指に入るという地位は、手放すには惜しい看板であったはずである。それでも三菱電機は、コストだけが勝負を決める汎用品を抱え続ければ、韓国・台湾勢との際限ない価格競争に体力を削られると見て、規模ではなく優位を築ける領域を選んだ。総花的な「百貨店型」から降りるこの判断は、痛みを伴う撤退でありながら、後年の選択と集中の先触れになったとみることができる。

興味深いのは、捨てた事業と残した事業の、その後の分かれ方である。ルネサステクノロジはのちにNECエレクトロニクスとも統合してルネサスエレクトロニクスとなり、三菱電機の手を離れていった。一方で残したパワー半導体は、電動化と脱炭素という追い風を受けて、いまや約2600億円を投じる中核事業へ育っている。どの事業を残し、どの事業を手放すか——1998年の「選択の時代」という言葉は、四半世紀後の投資配分にまで影を落としているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「百貨店型」の総合半導体

日本の半導体メーカーには、汎用メモリからマイコンまで幅広く手がける「百貨店型」という特徴があった。三菱電機もその一つで、DRAMでは世界の十指に入る規模を持っていた。一方、米国のインテルはMPU(超小型演算処理装置)に特化するなど、専門分野を絞って高収益をあげていた。総花的に品ぞろえを広げる日本勢と、勝てる領域に絞る米国勢という対比のなかで、日本の半導体は次第に守勢に立たされていった[1]

もっとも、三菱電機の半導体は規模の割に評価が高くなかった。半導体への参入自体は早かったものの、その後の詰めが遅れてシェアは低迷し、1977年には業界誌から「三菱の半導体は気にならない」とまで酷評されている。民生用か産業用かの方針も定まらないまま総花的に広げてきた歴史が、優位を築けないまま規模だけを追う体質につながっていた[2]

DRAM市況の崩落と赤字

転機は市況の崩落であった。三菱電機は「ウィンドウズ95」の発売で膨らむパソコン需要を見込み、1994年から1996年にかけ半導体へ連結で3000億円近い投資を許可していた。だが1997年に米マイクロン・テクノロジー社が安価なDRAMを投入し始めると、市況は急落する。大規模投資の直後で重い償却負担を抱えた三菱電機は打撃をまともに受け、1998年3月期には連結最終損益が1059億円の赤字へ転落した[3][4]

DRAMは汎用品であり、コストが勝負を決める製品であった。三菱電機の北岡隆社長が就任した1990年代初め、韓国のサムスンや現代といった財閥企業が日本勢を急速に追い上げ、台湾も総力をあげてDRAMを強化していた。価格競争が構造的に激しくなるなかで、北岡社長はのちに「半導体事業で私が社長として犯したミスは、脱DRAMを推し進められなかったことだ」と、消耗戦から抜け出す決断の遅れを悔やんでいる[5]

決断

汎用DRAM撤退という初の一手

1998年2月、三菱電機は沖電気工業と同時に、汎用DRAM事業からの撤退を決定した。DRAM市況の悪化を受けて各社が投資計画を縮小・見直ししていたなかで、事業そのものからの撤退は初めてであった。DRAMで三菱電機は世界の十指に入り、沖電気も国内6位の規模を持っていた。その規模を自ら手放し、両社とも市場が広がるシステムLSIへ特化する道を選んだ[6]

この撤退を、当時の報道は業界全体の転機として受け止めた。日本経済新聞は「日本の半導体産業は得意分野に的を絞る『選択の時代』に入った」と論評している。前年夏には米モトローラもDRAMから撤退しており、韓国勢を含めて事業を見直す動きが広がると見られていた。総花的にすべてを抱える「百貨店型」から、勝てる領域だけを選ぶ経営へ——三菱電機の撤退は、その転換を象徴する一手であった[7]

システムLSIへの特化

撤退は、単に赤字事業を切る後ろ向きの整理ではなかった。三菱電機が資源を振り向けた先は、マイコンやロジックなどのシステムLSIであった。汎用メモリのように価格で消耗する領域から降り、設計力で付加価値を生む領域へ半導体を寄せていく。総合電機として品ぞろえの広さを誇ってきた事業を、競争優位を見込める分野へと絞り込む選択と集中が、半導体で先行して進んだ[8]

絞り込みの方針は、その後の組織にも表れた。2003年10月、三菱電機は半導体事業本部を半導体・デバイス事業本部へ改称する。名称の変更は、汎用メモリを中核から外し、パワー半導体や高周波・光デバイスといった、産業機器や電力用途に根ざしたデバイスへ主力を移す方針を映していた。市況に振り回されるコモディティから、自社の重電・産業事業と結びつく領域へ——半導体の輪郭が描き直されていった[9]

結果

日立との統合=ルネサステクノロジ

システムLSIへの特化は、やがて他社との統合へ発展した。2003年4月、三菱電機は日立製作所とシステムLSI事業を統合し、半導体新会社ルネサステクノロジを設立する。資本金500億円のうち出資は日立製作所が55%、三菱電機が45%で、マイコンやロジック、ディスクリート半導体などを持ち寄った。ただしDRAMは統合の対象から明確に外され、汎用メモリから降りるという1998年の選択が、事業統合の設計にもそのまま引き継がれた[10][11]

三菱電機自身の半導体は、統合後に残したパワー半導体や高周波・光デバイスを軸として歩んでいく。汎用メモリという規模の大きな事業を手放したことで、収益が市況に振れやすい構造からは距離を置いた。系列の総合半導体という自画像を捨て、産業や電力の用途に根ざした専門デバイスの供給者へ——三菱電機の半導体は、その輪郭を固めていった[12]

パワー半導体への注力とSiC投資

絞り込んだ領域は、四半世紀を経て投資の柱に育った。2023年3月、三菱電機はパワーデバイス事業の2021〜2025年度の累計設備投資を従来計画の約1300億円から倍増させ、約2600億円へ引き上げると発表する。省エネ性能の高いSiC(炭化ケイ素)パワー半導体の生産体制を強化する狙いで、汎用メモリを捨てた半導体が、いまや会社が重点的に資源を張る成長事業へ位置づけ直された[13]

投資の中心は、新たな量産拠点の建設であった。三菱電機はSiCウエハに約1000億円を投じ、熊本県菊池市に8インチ(200mm)ウエハ対応の新工場棟を建設する。2024年4月に着工し、稼働は2026年4月を予定した。DRAMの消耗戦から降りた1998年の決断が、電動車や再生可能エネルギーの普及で需要が伸びるパワー半導体という、性格の異なる賭けへとつながった[14]

出典・参考