三菱電機 の歴史

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創業 1921年
母体 三菱造船
創業地 兵庫県神戸市
創業
1921年1月、三菱造船の神戸造船所にあった電機製作所を母体に三菱電機が設立された。資本金は1500万円で、施設は神戸工場だけだった。1923年に長崎でタービン発電機など大型重電機器、1924年に名古屋で標準電機品と家庭用電気機器へと製作所ごとに品目を重ね、米ウエスチングハウス社との技術提携で製品の質を支えた。戦時下に工場の新設が続き、終戦時には4製作所8工場を抱えて日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーの一つに数えられた。ただし空襲で全施設の31%を失い、財閥解体で三菱商事が解散すると販売機関を一挙に失っている。営業所と特約店で販売網を敷き直したうえで、1951年に三菱の商号を守って技術提携を復活させた
決断
先に工場を建て、売れなくても撤退しなかった。1959年に半導体の量産だけを担う北伊丹工場を新設し、米国勢の安値攻勢で国産各社が赤字に沈んだ1970年代も撤退せず、1972年に半導体事業部を置いて生産と販売を強めた。一方で電化ブームが終わると作れば売れる体質は通じなくなり、1977年に生産都合の事業部編成の上へ市場別の4事業本部を重ねた。1980年代には塩害を懸念する社内の反対を押し切って西条・高知へ設備を積み増し、1992年には半導体出身の北岡隆氏が社長に就任して万年3位からの脱却を掲げた。半導体投資は1994年から3年で連結約3000億円に達した。1998年3月期は1059億円の連結赤字と上場以来初の無配に落ち、北岡隆社長は脱DRAMを進められなかったことを最大のミスと認めて辞任した。
現況
現在の主力事業は重電でも半導体でもなく、エレベーターと空調である。2026年3月期の連結売上高5兆8947億円のうち、昇降機・空調・家電を集約したライフが2兆3182億円で最も大きく、営業利益1705億円も報告セグメントの首位となった。半導体を担うセミコンダクター・デバイスは売上2871億円で、全社の5%に達しない。この形は、2021年に発覚した35年続いた架空検査を機に始まった組み替えの結果である。1921年の創立以来続いた製作所単位の縦割りを2022年に4つのビジネスエリアへ再編し、赤字の続いた自動車機器事業は2024年に会社分割で三菱電機モビリティへ切り出した。製作所の自治を崩したことが、創業以来積み上げてきた事業を初めて外へ出せる会社に変えた。
競合
万年3位と呼ばれた位置取りが、総合電機3社でいちばん長く続いた。日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーとして戦後を出たものの、変化に縁遠い大企業と評されるほど業績の振幅が小さく、規模でも収益でも2社を抜けなかった。半導体では1998年に汎用DRAMから撤退してルネサステクノロジへ切り出しており、優位を築けない領域を手放す判断そのものは3社に共通する。違いは経営資源を集中させる規模にあり、日立製作所は2020年に火力発電から撤退してITサービスへ寄せ、東芝は原子力の巨額損失を経て2023年に株式を非公開化した。集中の規模を小さく抑えたことが、上場と総合電機の品揃えを3社のうち三菱電機だけに残した。

設立ストーリー 三菱造船から独立し、戦時の工場網拡張と財閥解体をくぐった時代 (1921年〜)

神戸造船所の電機部門継承と、ウエスチングハウスからの技術導入

三菱電機の源流は1905年、三菱合資会社造船部神戸造船所の構内で舶用・鉱山用を主とした電気機械器具の製造[1]が始まったところにある。同造船所は1908年に国産第一号のタービン発電機を完成させ[2]、創業期の電機技術を蓄えた。1921年1月15日、その電気機械部門を継承して資本金1500万円[3]で三菱電機が設立された。設立の事情は、電力を動力に用いる機運が各方面で熟していたにもかかわらず、欧州大戦直後の疲弊で先進工業国からの輸入が困難になり、電気機械製造事業の有望性が高く評価された[4]点にあった。発足時の施設は神戸工場だけで、本店は名古屋[5]に置かれた。

    • [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
    • [2]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [3]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
    • [4]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
    • [5]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋

1921年10月に神戸工場を神戸製作所と改称し、翌1922年1月には本店を東京へ[6]移した。1923年11月には三菱造船長崎造船所の電機工場を1年の委託経営ののちに吸収して長崎製作所[7]とし、タービン発電機や船舶用直流機など大型重電機器[8]を手がけた。1924年9月には名古屋製作所を開設し、汎用誘導電動機などの標準電機品と家庭用電気機器[9]へ製品の幅を広げた。技術の面では米ウエスチングハウス社と技術提携契約を結び[10]、翌年にはウエスチングハウスエヤーブレーキ社とも提携[11]した。これらの契約は戦時中の中絶を除いて戦後まで続き[12]、製品の質を支えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [6]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
    • [7]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
    • [10]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
    • [11]1924年9月 ウエスチングハウスエヤーブレーキ社とも技術提携
    • [12]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
    • [9]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける

1930年から1931年にかけての不況で経営は苦しんだが、満州事変の勃発後は好況に転じ、神戸・名古屋・長崎の三製作所は整備拡張[13]の時期に入った。1935年の販売高は一期で1200万円[14]を計上した。同年には英レイロール社とも技術提携を結び[15]、大正期に結んだ米国系3社の契約へ欧州の技術を重ねた。1940年12月には尼崎に12万坪の用地を買って大阪工場を建設し、あわせて研究所[16]を開いた。大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し[17]、神戸・名古屋・長崎の三製作所と並ぶ主力工場になった。資本金は1937年と1940年の倍額増資を経て、1943年8月に1億2000万円[18]へ増えた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [13]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
    • [14]1935年 一期の販売高1200万円
    • [16]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
    • [17]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
    • [18]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
    • [15]1935年 英レイロール社と技術提携
    • [1]1905年 三菱合資会社造船部神戸造船所構内で舶用・鉱山用の電気機械器具製造を創始
    • [2]1908年 神戸造船所で国産第一号のタービン発電機を完成
    • [15]1935年 英レイロール社と技術提携
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [3]1921年1月15日 電気機械部門を継承し資本金1500万円で設立
    • [4]設立事情は欧州大戦直後の疲弊による輸入難と電気機械製造事業の有望性
    • [5]発足時の施設は神戸工場のみ、本店は名古屋
    • [6]1921年10月 神戸工場を神戸製作所と改称、1922年1月 本店を東京へ移転
    • [7]1923年 長崎造船所電機工場を1年の委託経営後に吸収し長崎製作所とする
    • [10]1923年11月 米ウエスチングハウス社と技術提携契約を締結
    • [11]1924年9月 ウエスチングハウスエヤーブレーキ社とも技術提携
    • [12]両提携は戦時中の中絶期間を除き戦後も継続し製品の質的向上に寄与
    • [13]昭和5〜6年の不況後、満州事変勃発を機に三製作所の整備拡張期へ
    • [14]1935年 一期の販売高1200万円
    • [16]1940年12月 尼崎に12万坪を購入し大阪工場を建設、研究所を開設
    • [17]大阪工場はのちに伊丹製作所と改称し主力工場の一つとなる
    • [18]1937年・1940年の倍額増資を経て1943年8月に資本金1億2000万円
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1923年11月 長崎工場でタービン発電機・船舶用直流機等の大型重電機器を手がける
    • [9]1924年9月 名古屋製作所を新設し標準電機品・家庭用電気機器を手がける

戦時下の工場分散と、三菱商事解散で失った販売機関の再建

戦時経済のもとで工場の新設は加速し、1940年12月の大阪工場は神戸製作所から無線機と精機の工場を移して[19]立ち上げ、1942年4月には世田谷工場[20]を設けた。1943年2月に福山工場と中津川工場、4月に郡山工場、6月に和歌山工場[21]と、半年のあいだに4か所が動き出した。1944年2月には姫路工場を新設[22]し、翌3月には本店研究部を研究所へ格上げ[23]して、開発の社内機能も拠点の拡張と並べて整えた。終戦時には4製作所8工場に1研究所を加え、日立製作所・東京芝浦電気と並ぶ三大メーカーの一つ[24]に数えられる規模と内容を持った。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
    • [21]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
    • [22]1944年2月 姫路工場を新設
    • [23]1944年 本店研究部を研究所とする
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [20]1942年4月 世田谷工場を開設
    • [24]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ

空襲による被害は、原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%[25]に及んだ。復旧を妨げたのは、制限会社の指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法の指定[26]と続いた戦後の法令であり、なかでも三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に失った[27]打撃が大きかった。売る場所を自力で作り直すため、1946年から1949年にかけて大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島などに営業所を置き[28]、その下に多数の特約店と販売店を配して全国の販売網を敷き直した。1949年5月には10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し、業界の合理化の口火[29]を切った。同月、東京証券取引所へ株式を上場[30]している。1950年3月期には8分の低率で配当を復活[31]した。

  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1940年12月 大阪工場を新設し神戸製作所より無線機・精機工場を移転
    • [21]1943年2月 福山工場・中津川工場、同年4月 郡山工場、6月 和歌山工場を新設
    • [22]1944年2月 姫路工場を新設
    • [23]1944年 本店研究部を研究所とする
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [20]1942年4月 世田谷工場を開設
    • [24]終戦時は4製作所8工場1研究所を擁し日立・東芝と並ぶ三大メーカーの一つ
    • [25]空襲被害は原爆を受けた長崎製作所をはじめ全施設の31%
    • [26]制限会社指定・賠償指定・特別経理会社・過度経済力集中排除法指定が復旧の制約
    • [27]三菱商事の解散で従来の販売機関を一挙に喪失
    • [28]1946〜1949年に大阪・名古屋・福岡・札幌・仙台・富山・広島等へ営業所を設置
    • [29]1949年5月 10%の人員整理と10%の賃金引き下げを発表し業界合理化の口火
    • [31]1950年3月期 8分の低率で配当を復活

商号存続をかけた陳情と、技術提携の復活が決めた戦後重電の系列

傾斜生産方式が再起の糸口となり、1951年以降に本格化した電源開発を受けて、電気機械の生産額は1950年の238億円から1951年には533億円[32]へ跳ね上がった。戻ってきた需要に対し、国内の技術は戦時中の停滞のぶんだけ後れて[33]いた。欧米が14万5000キロワット級のタービンを実用化していた[34]一方で、1952年完成の築上発電所向けに国産できた設備は3万5000キロワット[35]にとどまった。三菱電機が大正期に結んだ米ウエスチングハウス社との技術提携契約は戦時中に中絶[36]したままで、大容量機の技術を国内で調達する当てはなかった。

ウエスチングハウス社は、三菱電機が分割されて三菱の商号を失えば技術契約は結べない[37]と通告した。高杉晋一社長は1950年4月に三井・住友の代表とともに吉田茂首相へ陳情し、5月末に一年の延期[38]を得た。再延期を経て、1952年4月28日の講和条約発効で商号の使用禁止令は消滅[39]している。商号を守ったうえで、1951年4月に技術提携を復活させ[40]、資本提携もあわせて結び直した。ロイヤリティは1年目25万ドル、2年目30万ドル、3年目40万ドル、4年目以降は売上の3%[41]という条件であった。1955年9月時点でウエスチングハウス社は発行済4800万株のうち200万株を持つ筆頭株主[42]であった。

  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [37]WH社は三菱電機が分割され商号を失えば技術契約は結べないと通告
    • [38]1950年4月 高杉晋一社長が三井・住友代表とともに吉田茂首相へ陳情、5月末に一年延期
    • [39]1952年4月28日の講和条約発効で商号使用の禁止令が消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [40]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
    • [41]ロイヤリティは1年目25万ドル・2年目30万ドル・3年目40万ドル・4年目以降売上の3%
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [42]1955年9月時点でWH社が発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主

外資法の制定を機に、富士電機はジーメンス社、東京芝浦電気はゼネラル・エレクトリック社と関係を復活させ[43]、日立製作所は1953年にゼネラル・エレクトリック社から火力プラント技術を導入[44]した。新三菱重工業も1952年2月に蒸気タービンの製作でウエスチングハウス社と提携[45]し、三菱グループは同じ系譜に連なった。水素冷却発電機の開発では長崎製作所の今北孝次試験課長をウエスチングハウス社へ派遣[46]し、同製作所員の海外出張は戦後初となっている。国内では1953年10月に無線機製作所[47]、1954年4月に冷蔵庫やエアコンなど民需用冷機の専門工場として静岡工場[48]を新設した。1955年3月期の利益は4億4000万円にとどまり、配当は1割8分[49]へ下がった。

    • [43]外資法制定を機に富士電機=ジーメンス、東芝=GEが関係を復活
    • [44]1953年 日立製作所がGEから火力プラント技術を導入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「新三菱重工業」の項
    • [45]1952年2月 新三菱重工業が蒸気タービン製作で米WH社と技術提携
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [46]水素冷却発電機の開発で長崎製作所の今北孝次試験課長をWH社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [47]1953年10月 無線機製作所を新設
    • [48]1954年4月 民需用冷機の専門工場として静岡工場を新設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [49]1955年3月期 利益4億4000万円・1割8分へ減配
    • [32]電気機械の生産額は1950年238億円から1951年533億円へ急増
    • [33]戦時中の停滞で国内の重電技術が欧米に後れる
    • [34]欧米は14万5000キロワット級タービンを実用化
    • [35]1952年完成の築上発電所向け国産設備は3万5000キロワット
    • [43]外資法制定を機に富士電機=ジーメンス、東芝=GEが関係を復活
    • [44]1953年 日立製作所がGEから火力プラント技術を導入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「三菱電機」の項
    • [36]大正期に締結した米ウエスチングハウス社との技術提携は戦時中に中絶
    • [49]1955年3月期 利益4億4000万円・1割8分へ減配
  • 私の履歴書 経済人8「高杉晋一」(日本経済新聞社, 1980年)
    • [37]WH社は三菱電機が分割され商号を失えば技術契約は結べないと通告
    • [38]1950年4月 高杉晋一社長が三井・住友代表とともに吉田茂首相へ陳情、5月末に一年延期
    • [39]1952年4月28日の講和条約発効で商号使用の禁止令が消滅
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [40]1951年4月 米ウエスチングハウス社との技術提携を復活
    • [46]水素冷却発電機の開発で長崎製作所の今北孝次試験課長をWH社へ派遣、同製作所員の海外出張は戦後初
    • [41]ロイヤリティは1年目25万ドル・2年目30万ドル・3年目40万ドル・4年目以降売上の3%
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [42]1955年9月時点でWH社が発行済4800万株のうち200万株を保有し筆頭株主
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「新三菱重工業」の項
    • [45]1952年2月 新三菱重工業が蒸気タービン製作で米WH社と技術提携
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [47]1953年10月 無線機製作所を新設
    • [48]1954年4月 民需用冷機の専門工場として静岡工場を新設

北伊丹工場と国産IC第一号、そして電化ブームの終わり

1959年8月、三菱電機は半導体の量産だけを担う専門工場として北伊丹工場[50]を新設した。設備投資を支えたのは電源開発で、電力各社は1958年度から1963年まで5年間で1000万キロワット近い電源開発[51]を計画していた。1959年の業績は売上高が前年同期比16%増、利益金が35%増[52]で、いずれも創業以来の最高を更新し、証券市場では成長株と呼ばれた[53]。1954年の静岡工場、1956年の家庭電器工場に続いて重電・電子・家庭電器の各分野で設備を積み増し[54]、1960年に鎌倉製作所、1962年に京都製作所と相模製作所[55]を建てた。

1959年ごろ、関義長社長は提携先のウエスチングハウス社から一センチ角ほどの集積回路の試作品を持ち帰った[56]。その話が新聞記事になると三菱電機の株価は一時暴騰[57]した。関社長の指示で中央研究所が製法を考案し、1961年に『モレクトロン』の名で商品化[58]した。これが国産IC第一号にあたり、開発が早かったため1970年ごろまで国産メーカーのトップ[59]を走った。1963年3月には菱電機器を吸収合併して群馬製作所と改称[60]し、1964年には昇降機の専門工場として稲沢製作所[61]を新設している。1968年3月期の売上高は1321億円、利益36億円、受注は1500億円[62]で、いずれも創業以来の最高であった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [56]1959年ごろ 関義長社長が米WH社から一センチ角ほどのICの試作品を持ち帰る
    • [57]ICの試作品の話が新聞記事になり三菱電機の株価が一時暴騰
    • [58]1961年 中央研究所が製法を考案し「モレクトロン」として商品化
    • [59]モレクトロンは国産IC第一号で、開発の早さから1970年ごろまで国産メーカーの首位
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [60]1963年3月 菱電機器を吸収合併し群馬製作所と改称
    • [61]1964年 昇降機の専門工場として稲沢製作所を新設
    • [62]1968年3月期 売上高1321億円・利益36億円・受注1500億円でいずれも創業以来最高

1963年から1964年を境に電化ブームは終わり、1965年9月期は利益剰余金を取り崩してかろうじて無配転落を免れた[63]。同じ不況で富士電機と安川電機は無配に落ち、明電舎は住友グループへ身売り[64]しており、大手3社のあいだにも格差が生じた。1971年9月期は為替差損5億3700万円で6%の減益・2分の減配[65]となり、これを機に全社総点検運動『101作戦』を始め、進藤貞和社長は量から質への転換を基本方針[66]に据えた。半導体では1970年ごろから日本の十倍の規模で生産する米国メーカーが販売攻勢をかけ、価格低下で国産各社は軒並み赤字[67]に沈んだが、三菱電機は撤退せず1972年4月に半導体事業部を設けて生産と販売を強めた[68]。初代事業部長が提案したマレーシア工場案を進藤貞和社長は言葉の違いと自動化の進展を理由に退け[69]、実際その2〜3年後に組み立て工程の自動化機械が開発された。

    • [63]1963〜1964年を境に電化ブームが終わり1965年9月期は利益剰余金取り崩しで無配転落を回避
    • [64]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売り
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [65]1971年9月期 為替差損5億3700万円で6%減益・2分減配
    • [66]全社総点検運動「101作戦」を開始し進藤貞和社長は量から質への転換を基本方針とする
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [67]1970年ごろから日本の十倍規模で生産する米国メーカーの販売攻勢で国産各社が赤字
    • [68]1972年4月 半導体事業部を設置し生産・販売を強化
    • [69]初代事業部長のマレーシア工場案を進藤社長が言葉の違いと自動化の進展を理由に却下
  • 三菱電機 有価証券報告書 第154期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]1959年8月 半導体量産専門工場として北伊丹工場を新設
    • [60]1963年3月 菱電機器を吸収合併し群馬製作所と改称
    • [61]1964年 昇降機の専門工場として稲沢製作所を新設
    • [51]電力各社は1958年度から1963年まで5年間で1000万キロワット近い電源開発を計画
    • [52]1959年 売上高が前年同期比16%増・利益金35%増で創業以来の最高
    • [53]1959年 証券市場で成長株と呼ばれる
    • [54]1954年 静岡工場、1956年 家庭電器工場に続き重電・電子・家庭電器の各分野で設備を拡充
    • [55]1960年 鎌倉製作所、1962年 京都製作所・相模製作所を建設
    • [62]1968年3月期 売上高1321億円・利益36億円・受注1500億円でいずれも創業以来最高
  • 日本経済新聞「私の履歴書」進藤貞和(1986年7月)
    • [56]1959年ごろ 関義長社長が米WH社から一センチ角ほどのICの試作品を持ち帰る
    • [57]ICの試作品の話が新聞記事になり三菱電機の株価が一時暴騰
    • [58]1961年 中央研究所が製法を考案し「モレクトロン」として商品化
    • [59]モレクトロンは国産IC第一号で、開発の早さから1970年ごろまで国産メーカーの首位
    • [67]1970年ごろから日本の十倍規模で生産する米国メーカーの販売攻勢で国産各社が赤字
    • [68]1972年4月 半導体事業部を設置し生産・販売を強化
    • [69]初代事業部長のマレーシア工場案を進藤社長が言葉の違いと自動化の進展を理由に却下
    • [63]1963〜1964年を境に電化ブームが終わり1965年9月期は利益剰余金取り崩しで無配転落を回避
    • [64]同不況で富士電機・安川電機は無配、明電舎は住友グループへ身売り
  • 証券アナリストジャーナル 1973年 第11巻第2号(進藤貞和・三菱電機社長)
    • [65]1971年9月期 為替差損5億3700万円で6%減益・2分減配
    • [66]全社総点検運動「101作戦」を開始し進藤貞和社長は量から質への転換を基本方針とする

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三菱電機の沿革1921〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1921〜1950年三菱造船から独立し、戦時の工場網拡張と財閥解体をくぐった時代三菱電機を創立
長崎工場を新設
名古屋製作所を新設
大船工場を新設
大阪工場を新設
福山・中津川工場を新設
姫路工場を新設
福岡工場を新設
本店研究部を研究所に
高杉晋一東京証券取引所に株式を上場
1951〜1976年ウエスチングハウス提携の復活と、半導体量産への先行投資の時代高杉晋一米ウエスチングハウスとの技術・資本提携の復活と、「三菱」商号の存続

1951年4月、三菱電機は戦争で中断していた米ウエスチングハウス社との技術提携を復活させ、資本提携もあわせて正式に復活させた経営判断。前年から続いた『三菱』商号の存続運動と一体の決着であった。

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高杉晋一無線機械製作所を新設
高杉晋一静岡工場を新設
関義長半導体量産専門工場・北伊丹工場の新設と、西条・高知への量産設備の拡大

1959年8月、三菱電機は半導体の量産専門工場として北伊丹工場(兵庫県)を新設した。米ウエスチングハウス社の試作品をもとに中央研究所が国産IC第一号『モレクトロン』を商品化する2年前である。以後、1972年の半導体事業部の設置、1981年の福岡半導体工場、1984年の西条工場(愛媛県)、1985年着工の高知工場と設備を積み増した。重電と家電で立つ会社が、電子部品の内製と量産に資源を割いた経営判断。

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関義長商品研究所を新設
関義長鎌倉製作所を新設
関義長京都製作所を新設
関義長三菱プレシジョンを設立
関義長菱電機器を吸収合併し群馬製作所に商号変更
関義長稲沢製作所を新設
進藤貞和三菱電機アメリカ社を設立
進藤貞和制御製作所・計算機製作所を新設
進藤貞和コンピュータシステム工場を新設
1977〜1998年販売志向への組み替えと、半導体集中が招いた初の連結赤字の時代進藤貞和生産志向型の事業部編成の見直しと、営業本部・4事業本部制への移行

1975年6月の営業本部新設と1977年6月の事業本部制導入により、三菱電機が生産の都合で分かれていた事業部編成を、市場ごとに責任を負う重電・電子・機器・商品の4事業本部へ組み替えた経営判断。進藤貞和社長はこれを『販売志向型』への切り替えと説明した。

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進藤貞和台湾三菱電機股份有限公司を設立
片山仁八郎北伊丹製作所福岡半導体工場を新設
片山仁八郎事業本部を6本部体制に再編
志岐守哉計算機製作所とコンピュータシステム製作所を統合しコンピュータ製作所に
志岐守哉大船製作所を廃止
志岐守哉自動車機器事業本部を新設
北岡隆「万年3位」からの脱却を掲げた北岡改革と、半導体投資の誤算による引責辞任

1992年に三菱電機で初のハイテク分野出身社長となった北岡隆氏が、GEのジャック・ウェルチ氏流の選択と集中を掲げ、9事業本部への再編・権限委譲、本社人員の毎年削減、社内公募制の導入に踏み込んだ構造改革。しかし自らの出身分野である半導体のDRAM投資が裏目に出て、1998年3月期に連結最終赤字へ転落し、北岡氏は改革の途上で引責辞任した。

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北岡隆中期経営計画を発表
北岡隆赤井電機の経営権をセミ=テックグループに譲渡★★
谷口一郎汎用DRAM事業からの撤退と、システムLSI・パワー半導体への「選択の時代」

1998年2月、三菱電機は沖電気工業と同時に、汎用DRAM事業からの撤退を決定した。DRAM市況の悪化で各社が投資を縮小するなかでの撤退は初めてで、両社ともシステムLSIへ資源を集中させる。汎用メモリからマイコンまで手広く抱える『百貨店型』の半導体から、得意分野に的を絞る『選択の時代』への転換であり、後のパワー半導体特化につながる出発点となった経営判断。

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1999〜2027年独立独歩を捨てた事業の入れ替えと、品質不正からの立て直しの時代谷口一郎家電業界初のリサイクルプラントを稼働
野間口有「Changes for the Better」をコーポレートステートメントとして制定
野間口有日立製作所とシステムLSI合弁のルネサス テクノロジを設立★★
野間口有委員会等設置会社へ移行
野間口有東芝三菱電機産業システムを設立★★
下村節宏山西健一郎が執行役社長に就任
山西健一郎ルネサス テクノロジがNECエレクトロニクスと合併しルネサス エレクトロニクスが発足★★
山西健一郎三菱電機インド社を設立
山西健一郎柵山正樹が執行役社長に就任
柵山正樹デルクリマ社を完全子会社化
柵山正樹杉山武史が執行役社長に就任
杉山武史鉄道車両向け空調機器等の品質不正が発覚★★
漆間啓鉄道車両用空調の架空検査発覚と、杉山武史社長の引責辞任・漆間啓体制での品質風土改革

2021年6月、長崎製作所が製造する鉄道車両向け空調装置で、35年以上にわたる架空検査が発覚した。杉山武史社長は7月に引責辞任し、事務系出身の専務・漆間啓氏が執行役社長へ昇格する。漆間氏は不正の原因を『組織として品質に対する誠実さがなかった』ことに置き、品質改革推進本部の新設とビジネスエリア体制への移行で、縦割りの風土そのものの立て直しに着手した経営判断。

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漆間啓自動車機器事業の会社分割による分社化と三菱電機モビリティの設立、鴻海精密工業への出資受け入れの検討

2023年4月、三菱電機は自動車機器事業の構造改革を決議し、1年以内の分社化を表明した。2024年4月1日に会社分割で三菱電機モビリティを設立し、カーマルチメディアなど課題事業の終息と、電動化・ADASでの社外パートナーとの協業を進める経営判断。2026年4月には、鴻海精密工業への50%出資受け入れを視野に入れた検討開始の覚書にまで至っている。

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漆間啓ネクストステージ支援制度で2,378人が応募★★
出典・参考

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