1881年 沖牙太郎氏の明工舎から浅野財閥系の沖電気へ、国産化に挑んだ67年
- 1881年沖牙太郎が電信機・電話機・電線・電鈴等を製造・販売するため、当社の前身である明工舎を創業
- 1907年合資会社沖商会に組織変更
- 1912年合資会社沖商会の販売部門として沖電気(株)を設立
- 1917年合資会社沖商会を沖電気(株)に合併
- 1927年東京市芝区に芝浦事業所を開設
沖電気工業の業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
銀細工師が電信機に出会い、官を辞して興した町工場
沖牙太郎氏は1848年、広島県沼田郡新庄村の農家の末子に生まれた。農業を嫌って従兄弟の銀細工師に弟子入りし、広島で武具や馬具の金具づくりに没頭するうちに明治を迎える。銀細工師としての腕だけを元手に上京した牙太郎氏が頼ったのは、同じ広島県出身で電信寮修技校の初代校長を務めていた原田隆造だった。原田氏の書生として修技校に出入りするうち、同じ構内にあった製機所の雑役夫として本採用される。履歴書とともに自作の銀かんざしを提出したという逸話が、製機所が牙太郎氏の手技を買った経緯を伝えている。 [1][2][3][4]
- [1]沖牙太郎氏は1848年に広島県沼田郡新庄村の農家の末子として生まれた
- [2]牙太郎は従兄弟の銀細工師について技術を習得し、広島で武具・馬具の金具づくりに従事した
- [3]牙太郎が上京して頼ったのは同郷・広島県出身で修技校初代校長の原田隆造だった
- [4]牙太郎は原田の書生から製機所の雑役夫として本採用され、履歴書とともに自作の銀かんざしを提出した
工部省が電信寮を設けたのは1870年、電信機の修理・製作を担う製機所が汐留に付設されたのは1873年である。誰も電信機を作った経験がない時代に、牙太郎氏は同僚と国産化の研究グループ「ヤルキ社」を結成してベル式電話機の模造に取り組んだ。やがて官にとどまるより自ら通信事業を興すべきだと考えるようになる。1879年9月、同僚の荒木勘助・神谷正純・福田知至らと相談し、試験掛の吉田正秀・今井盛悦・高宮信守らの後援を取り付けて、勤務のかたわら電信局の下請け工場を始めた。場所は芝西久保桜川町、初代電信頭の石丸安世邸の長屋である。設備は長屋の片隅に据えた足踏み旋盤2台だけで、ブンゼン電池用のカーボンや電機材料、電鈴などを作っては電信局に納めた。 [5][6][7][8]
- [5]1870年に工部省が設置され電信寮が付属、1873年に製機所が汐留の旧奥平邸内に付設された
- [6]牙太郎は製機所で国産化の研究グループ「ヤルキ社」を結成しベル式電話機を模造した
- [7]1879年9月に芝西久保桜川町の石丸安世邸の長屋で電信局の下請け工場を始めた
- [8]下請け工場の設備は足踏み旋盤2台で、ブンゼン電池用カーボン・電機材料・電鈴などを電信局に納入した
1881年1月、沖牙太郎氏は電信機・電話機・電線・電鈴などの製造と販売を目的に明工舎を創立した。製機所への辞表は前年初めに出していたが、奉職期間の規定で受理までほぼ1年を要し、依願免官の辞令が下りたのは1880年末だった。芝の工場の設備は移転済みだったため、年明け早々に開業できた。所在地は京橋区新肴町19番、現在の東京都中央区銀座にあたる。れんが造りで間口は3間、製機所の同僚だった松岡寛之助から資金を融通してもらってようやく開業にこぎつけた。機械は旋盤3台と手づくりの道具だけ、陣容は舎主の牙太郎氏のほか製機所の工員だった加藤藤太郎、鍛冶職人の山田亀吉、牙太郎氏の甥にあたる沖馬吉の4人と見習い数人という町工場である。 [9][10][11][12][13]
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [9]1881年1月に沖牙太郎が電信機・電話機・電線・電鈴等の製造販売を目的に明工舎を創立した
- [10]製機所への辞表は1880年初めに提出したが依願免官の辞令が下りたのは1880年末だった
- [11]明工舎の所在地は京橋区新肴町19番で現在の中央区銀座にあたり、れんが造りで間口3間だった
- [12]創業資金は製機所の同僚・松岡寛之助から融通を受けた
- [13]創業時の機械は旋盤3台で、陣容は牙太郎・加藤藤太郎・山田亀吉・沖馬吉の4人と見習い数人だった
- [1]沖牙太郎氏は1848年に広島県沼田郡新庄村の農家の末子として生まれた
- [2]牙太郎は従兄弟の銀細工師について技術を習得し、広島で武具・馬具の金具づくりに従事した
- [3]牙太郎が上京して頼ったのは同郷・広島県出身で修技校初代校長の原田隆造だった
- [4]牙太郎は原田の書生から製機所の雑役夫として本採用され、履歴書とともに自作の銀かんざしを提出した
- [5]1870年に工部省が設置され電信寮が付属、1873年に製機所が汐留の旧奥平邸内に付設された
- [6]牙太郎は製機所で国産化の研究グループ「ヤルキ社」を結成しベル式電話機を模造した
- [7]1879年9月に芝西久保桜川町の石丸安世邸の長屋で電信局の下請け工場を始めた
- [8]下請け工場の設備は足踏み旋盤2台で、ブンゼン電池用カーボン・電機材料・電鈴などを電信局に納入した
- [10]製機所への辞表は1880年初めに提出したが依願免官の辞令が下りたのは1880年末だった
- [11]明工舎の所在地は京橋区新肴町19番で現在の中央区銀座にあたり、れんが造りで間口3間だった
- [12]創業資金は製機所の同僚・松岡寛之助から融通を受けた
- [13]創業時の機械は旋盤3台で、陣容は牙太郎・加藤藤太郎・山田亀吉・沖馬吉の4人と見習い数人だった
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [9]1881年1月に沖牙太郎が電信機・電話機・電線・電鈴等の製造販売を目的に明工舎を創立した
顕微音機で名を売り、「国産の沖」として交換機を納める
開業2カ月後の1881年3月、明工舎は上野の第2回内国勧業博覧会に「顕微音機」と名づけた新式の電話機を出品した。歯磨き粉用の桐箱にレトルトカーボンの粉末を入れ、ふたの代わりに薄い檜板の振動板を置き、ダニエル電池8個を電源にした構造である。ベル式が送受話器とも磁石を使ったのに対し、顕微音機は送話器に炭素を用いるエジソン式と同じ原理で、音声はベル式よりはるかに明瞭だった。エジソン式が日本に輸入される前の開発である。この電話機は博覧会に行幸した明治天皇の目にとまり、侍従が送話器に押しあてた懐中時計の音を、天皇は受話器ではっきりと聞き取ったという。有功二等賞を受け、明工舎の名は一挙に世に知られた。 [14][15][16]
- [14]1881年3月に上野の第2回内国勧業博覧会へ新式電話機「顕微音機」を出品した
- [15]顕微音機は桐箱にレトルトカーボン粉末を入れ檜板の振動板とダニエル電池8個を用いた炭素電話機で、エジソン式と同原理だった
- [16]顕微音機は明治天皇の目にとまり有功二等賞を受けた
牙太郎氏は宣伝と販売にも手を尽くした。室内電鈴・軽便電話・避雷針の縮尺図を描いたポスターを作り、室内電鈴については機械類と設置費を明工舎が全額負担して3年契約で貸し渡し、期間中は月2回巡回すると告知している。貸渡料は前払いで月35銭、現代でいうレンタル方式の広告である。1889年には社名を沖電機工場と改称して本社工場を拡大し、工員と徒弟は20人近くに増えた。電話機の製作は製機所が中心だったが、架設や配線の作業は明工舎が独占していた。1896年には国産初の直列複式交換機を東京の浪花町分局に納入して稼働させ、1902年には国産初の磁石式並列複式交換機を長崎局に納めている。輸入品に外見で劣ると思われないよう、真鍮製の輸入機器と同じ金色の塗装を自前で採り入れるほど、「国産の沖」の看板には執着があった。 [17][18][19][20]
- [17]室内電鈴は明工舎が機械類・設置費を全額負担し3年契約・月2回巡回・貸渡料は前払い月35銭という条件で貸し渡す広告を打った
- [20]輸入品と同じ金色の塗装(ラック引き)を採り入れ、国産品が外見で劣ると思われないようにした
- [18]1889年に明工舎を沖電機工場と改称し本社工場を拡大、工員・徒弟は20人近くになった
- [19]1896年に国産初の直列複式交換機を東京・浪花町分局に納入し稼働開始、1902年に国産初の磁石式並列複式交換機を長崎局に納入した
1906年5月、沖牙太郎氏が死去した。長男の正信は当時19歳でアメリカに留学中だったが、翌年帰国して牙太郎氏の名を継ぎ、母のタケとともに事業を担う。1907年5月、沖商会は匿名組合から合資会社に組織を変えた。沖タケ氏が無限責任の代表社員に就き、2代目牙太郎氏、工務部長の沖馬吉、会計部長の木下英太郎氏、営業部長の伊藤潔、技師長の加藤藤太郎が無限責任社員として名を連ねる。木下英太郎氏はエールとコロンビアの両大学で学んで哲学博士の学位を持ち、牙太郎氏の長女カク子を妻に迎えていた。役員は沖家の一族と創業以来の功労者で固められたが、資本金60万円のうち沖家の出資は一部にとどまり、残りは外部の資本が支えた。 [21][22][23][24]
- [21]沖牙太郎は1906年5月に死去し、長男の正信が翌年帰国して2代目牙太郎を襲名、母タケとともに沖商会の経営にあたった
- [23]合資会社沖商会では沖タケが無限責任の代表社員、2代目牙太郎・沖馬吉・木下英太郎・伊藤潔・加藤藤太郎が無限責任社員だった
- [24]合資会社沖商会の資本金は60万円で、沖家の出資は一部にとどまった
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [22]1907年5月に沖商会は匿名組合から合資会社に組織変更した
- [14]1881年3月に上野の第2回内国勧業博覧会へ新式電話機「顕微音機」を出品した
- [15]顕微音機は桐箱にレトルトカーボン粉末を入れ檜板の振動板とダニエル電池8個を用いた炭素電話機で、エジソン式と同原理だった
- [16]顕微音機は明治天皇の目にとまり有功二等賞を受けた
- [17]室内電鈴は明工舎が機械類・設置費を全額負担し3年契約・月2回巡回・貸渡料は前払い月35銭という条件で貸し渡す広告を打った
- [20]輸入品と同じ金色の塗装(ラック引き)を採り入れ、国産品が外見で劣ると思われないようにした
- [21]沖牙太郎は1906年5月に死去し、長男の正信が翌年帰国して2代目牙太郎を襲名、母タケとともに沖商会の経営にあたった
- [23]合資会社沖商会では沖タケが無限責任の代表社員、2代目牙太郎・沖馬吉・木下英太郎・伊藤潔・加藤藤太郎が無限責任社員だった
- [24]合資会社沖商会の資本金は60万円で、沖家の出資は一部にとどまった
- [18]1889年に明工舎を沖電機工場と改称し本社工場を拡大、工員・徒弟は20人近くになった
- [19]1896年に国産初の直列複式交換機を東京・浪花町分局に納入し稼働開始、1902年に国産初の磁石式並列複式交換機を長崎局に納入した
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [22]1907年5月に沖商会は匿名組合から合資会社に組織変更した
浅野・渋沢・安田を後ろ盾にした株式会社化から、軍需と敗戦まで
外部資本を呼び込んだのは相談役に就いた浅野総一郎氏である。浅野氏は牙太郎氏と同年の生まれで、夫人がタケの姪という姻戚関係にあり、生前から牙太郎氏と事業の将来を語り合う間柄だった。富山から上京して水売りや竹の皮売りから身を起こし、1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野工場を興し、1896年には東洋汽船を創立した人物である。セメントと海運で成功した浅野氏の呼びかけに、渋沢栄一と安田善次郎が出資で応じた。1912年8月には沖商会の販売部門として沖電気株式会社が設立され、1917年2月に合資会社沖商会が沖電気に合併される。沖一族の同族企業は、財界と金融界を後ろ盾とする株式会社へ姿を変えた。 [25][26][27][28]
- [25]合資会社沖商会の相談役に浅野総一郎が就任し、渋沢栄一・安田善次郎が出資に応じた
- [26]浅野総一郎は牙太郎と同年生まれで、夫人が牙太郎夫人タケの姪という姻戚関係にあった
- [27]浅野総一郎は1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野工場を設立し、1896年に東洋汽船を創立した
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1912年8月に合資会社沖商会の販売部門として沖電気株式会社を設立し、1917年2月に合資会社沖商会を沖電気に合併した
沖電気は1915年に無線電信機の製造を始め、1918年には純国産の共電式交換機を高輪局に納入した。1927年8月には東京市芝区に芝浦事業所を開設する。イギリスのGE社と技術提携して自動交換機の国産化を進め、1930年には自動交換機の第一号を中野局に納めた。もっとも逓信省向けの納入実績では、1930年ごろに日本電気に次ぐ2位だった順位が、その後に富士電機製造へ抜かれて3位に落ちている。1930年11月に2代目浅野総一郎氏が会長へ就き、その2カ月後の1931年1月、沖電気は創業50周年を迎えた。節目に決めた事業は、創業者の足跡をまとめた『沖牙太郎』の刊行と、隔月刊の技術誌『沖電気時報』の創刊である。ところが同じ1931年9月の柳条湖事件を境に、日本は満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと進んだ。 [29][30][31][32][33][34]
- [29]1915年に無線電信機の製造を開始し、1918年に純国産の共電式交換機を高輪局に納入した
- [31]イギリスのGE社と技術提携して自動交換機を国産化し、1930年に自動交換機第一号を中野局に納入した
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [30]1927年8月に東京市芝区に芝浦事業所を開設した
- [32]逓信省向け納入実績で沖電気は1930年ごろ日本電気に次ぐ第2位だったが、のちに富士電機製造に抜かれ第3位に転落した
- [33]1930年11月に2代目浅野総一郎が会長に就任し、1931年1月に沖電気は創業50周年を迎えた
- [34]創業50周年の記念事業として『沖牙太郎』を刊行し、隔月刊の技術誌『沖電気時報』を創刊した
1932年以降は軍需の増大で業績が好転し、沖電気は軍需会社に指定される。1930年代には旧日本海軍と水測機器の共同研究を始めており、これが現在まで続く防衛事業の源流にあたる。1938年には東京都芝高浜に高浜工場を開設した。やがて空襲が工場を次々に焼く。大塚の両工場が焼失し、芝浦製造所はC館が全焼してD館も一部が焼け、大阪・沼津・荏原・鶴見の各工場も失われた。1945年8月15日正午、本社の社員は芝浦製造所D館の屋上で終戦の詔勅を聞く。このとき沖電気は地方疎開分を含めて20余の工場を抱え、従業員は挺身隊なども入れて約2万2700人にのぼっていた。軍需産業から平和産業へ戻るため、国内外の工場を閉鎖して品川・芝浦・蕨・富岡・福島の5工場に集約する。1946年8月時点で発行済株式の31%は安田銀行と安田保善社が保有しており、この資本関係がのちに富士銀行をメインバンクとする長い関係につながった。 [35][36][37][38][39][40][41][42]
- [35]1932年以降は軍需の増大で業績が好転し、沖電気は軍需会社に指定された
- [38]空襲で大塚の両工場が焼失、芝浦製造所C館が全焼しD館も一部焼損、大阪・沼津・荏原・鶴見の各工場も焼失した
- [39]終戦時の沖電気は20余の工場を持ち、従業員は挺身隊を含め約2万2700人だった
- [40]国内外の多数の工場を閉鎖し品川・芝浦・蕨・富岡・福島の5工場に集約した
- [41]1946年8月時点で沖電気の発行済株式総数の31%を安田銀行と安田保善社が保有していた
- 週刊東洋経済(2025年11月8日号)
- [36]1930年代に旧日本海軍とソナーなど水測機器の共同研究を始めたのがOKIの防衛事業の源流である
- [37]1938年に東京都芝高浜に高浜工場(旧品川工場)を開設した
- 週刊東洋経済(1998年10月31日号)
- [42]安田銀行は1948年10月に富士銀行に改称し、以後長くメインバンクを務めた
- [25]合資会社沖商会の相談役に浅野総一郎が就任し、渋沢栄一・安田善次郎が出資に応じた
- [26]浅野総一郎は牙太郎と同年生まれで、夫人が牙太郎夫人タケの姪という姻戚関係にあった
- [27]浅野総一郎は1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野工場を設立し、1896年に東洋汽船を創立した
- [32]逓信省向け納入実績で沖電気は1930年ごろ日本電気に次ぐ第2位だったが、のちに富士電機製造に抜かれ第3位に転落した
- [33]1930年11月に2代目浅野総一郎が会長に就任し、1931年1月に沖電気は創業50周年を迎えた
- [34]創業50周年の記念事業として『沖牙太郎』を刊行し、隔月刊の技術誌『沖電気時報』を創刊した
- [35]1932年以降は軍需の増大で業績が好転し、沖電気は軍需会社に指定された
- [38]空襲で大塚の両工場が焼失、芝浦製造所C館が全焼しD館も一部焼損、大阪・沼津・荏原・鶴見の各工場も焼失した
- [39]終戦時の沖電気は20余の工場を持ち、従業員は挺身隊を含め約2万2700人だった
- [40]国内外の多数の工場を閉鎖し品川・芝浦・蕨・富岡・福島の5工場に集約した
- [41]1946年8月時点で沖電気の発行済株式総数の31%を安田銀行と安田保善社が保有していた
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】
- [28]1912年8月に合資会社沖商会の販売部門として沖電気株式会社を設立し、1917年2月に合資会社沖商会を沖電気に合併した
- [30]1927年8月に東京市芝区に芝浦事業所を開設した
- [29]1915年に無線電信機の製造を開始し、1918年に純国産の共電式交換機を高輪局に納入した
- [31]イギリスのGE社と技術提携して自動交換機を国産化し、1930年に自動交換機第一号を中野局に納入した
- [37]1938年に東京都芝高浜に高浜工場(旧品川工場)を開設した
- 週刊東洋経済(2025年11月8日号)
- [36]1930年代に旧日本海軍とソナーなど水測機器の共同研究を始めたのがOKIの防衛事業の源流である
- 週刊東洋経済(1998年10月31日号)
- [42]安田銀行は1948年10月に富士銀行に改称し、以後長くメインバンクを務めた