{
  "title": "沖電気工業の歴史概略",
  "sections": [
    {
      "start_year": 1881,
      "end_year": 1948,
      "main_title": "沖牙太郎氏の明工舎から浅野財閥系の沖電気へ、国産化に挑んだ67年",
      "subsections": [
        {
          "title": "銀細工師が電信機に出会い、官を辞して興した町工場",
          "text": "沖牙太郎氏は1848年、広島県沼田郡新庄村の農家の末子に生まれた。農業を嫌って従兄弟の銀細工師に弟子入りし、広島で武具や馬具の金具づくりに没頭するうちに明治を迎える。銀細工師としての腕だけを元手に上京した牙太郎氏が頼ったのは、同じ広島県出身で電信寮修技校の初代校長を務めていた原田隆造だった。原田氏の書生として修技校に出入りするうち、同じ構内にあった製機所の雑役夫として本採用される。履歴書とともに自作の銀かんざしを提出したという逸話が、製機所が牙太郎氏の手技を買った経緯を伝えている。\n\n工部省が電信寮を設けたのは1870年、電信機の修理・製作を担う製機所が汐留に付設されたのは1873年である。誰も電信機を作った経験がない時代に、牙太郎氏は同僚と国産化の研究グループ「ヤルキ社」を結成してベル式電話機の模造に取り組んだ。やがて官にとどまるより自ら通信事業を興すべきだと考えるようになる。1879年9月、同僚の荒木勘助・神谷正純・福田知至らと相談し、試験掛の吉田正秀・今井盛悦・高宮信守らの後援を取り付けて、勤務のかたわら電信局の下請け工場を始めた。場所は芝西久保桜川町、初代電信頭の石丸安世邸の長屋である。設備は長屋の片隅に据えた足踏み旋盤2台だけで、ブンゼン電池用のカーボンや電機材料、電鈴などを作っては電信局に納めた。\n\n1881年1月、沖牙太郎氏は電信機・電話機・電線・電鈴などの製造と販売を目的に明工舎を創立した。製機所への辞表は前年初めに出していたが、奉職期間の規定で受理までほぼ1年を要し、依願免官の辞令が下りたのは1880年末だった。芝の工場の設備は移転済みだったため、年明け早々に開業できた。所在地は京橋区新肴町19番、現在の東京都中央区銀座にあたる。れんが造りで間口は3間、製機所の同僚だった松岡寛之助から資金を融通してもらってようやく開業にこぎつけた。機械は旋盤3台と手づくりの道具だけ、陣容は舎主の牙太郎氏のほか製機所の工員だった加藤藤太郎、鍛冶職人の山田亀吉、牙太郎氏の甥にあたる沖馬吉の4人と見習い数人という町工場である。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "沖牙太郎氏は1848年に広島県沼田郡新庄村の農家の末子として生まれた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "沖牙太郎氏は1848年、広島県沼田郡新庄村の農家の末子に生まれた。"
              },
              {
                "fact": "牙太郎は従兄弟の銀細工師について技術を習得し、広島で武具・馬具の金具づくりに従事した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "農業を嫌って従兄弟の銀細工師に弟子入りし、広島で武具や馬具の金具づくりに没頭するうちに明治を迎える。"
              },
              {
                "fact": "牙太郎が上京して頼ったのは同郷・広島県出身で修技校初代校長の原田隆造だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "銀細工師としての腕だけを元手に上京した牙太郎氏が頼ったのは、同じ広島県出身で電信寮修技校の初代校長を務めていた原田隆造だった。"
              },
              {
                "fact": "牙太郎は原田の書生から製機所の雑役夫として本採用され、履歴書とともに自作の銀かんざしを提出した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "原田氏の書生として修技校に出入りするうち、同じ構内にあった製機所の雑役夫として本採用される。履歴書とともに自作の銀かんざしを提出したという逸話が、製機所が牙太郎氏の手技を買った経緯を伝えている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1870年に工部省が設置され電信寮が付属、1873年に製機所が汐留の旧奥平邸内に付設された",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "工部省が電信寮を設けたのは1870年、電信機の修理・製作を担う製機所が汐留に付設されたのは1873年である。"
              },
              {
                "fact": "牙太郎は製機所で国産化の研究グループ「ヤルキ社」を結成しベル式電話機を模造した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "牙太郎氏は同僚と国産化の研究グループ「ヤルキ社」を結成してベル式電話機の模造に取り組んだ。"
              },
              {
                "fact": "1879年9月に芝西久保桜川町の石丸安世邸の長屋で電信局の下請け工場を始めた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "1879年9月、同僚の荒木勘助・神谷正純・福田知至らと相談し、試験掛の吉田正秀・今井盛悦・高宮信守らの後援を取り付けて、勤務のかたわら電信局の下請け工場を始めた。場所は芝西久保桜川町、初代電信頭の石丸安世邸の長屋である。"
              },
              {
                "fact": "下請け工場の設備は足踏み旋盤2台で、ブンゼン電池用カーボン・電機材料・電鈴などを電信局に納入した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "設備は長屋の片隅に据えた足踏み旋盤2台だけで、ブンゼン電池用のカーボンや電機材料、電鈴などを作っては電信局に納めた。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1881年1月に沖牙太郎が電信機・電話機・電線・電鈴等の製造販売を目的に明工舎を創立した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1881年1月、沖牙太郎氏は電信機・電話機・電線・電鈴などの製造と販売を目的に明工舎を創立した。"
              },
              {
                "fact": "製機所への辞表は1880年初めに提出したが依願免官の辞令が下りたのは1880年末だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "製機所への辞表は前年初めに出していたが、奉職期間の規定で受理までほぼ1年を要し、依願免官の辞令が下りたのは1880年末だった。"
              },
              {
                "fact": "明工舎の所在地は京橋区新肴町19番で現在の中央区銀座にあたり、れんが造りで間口3間だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "所在地は京橋区新肴町19番、現在の東京都中央区銀座にあたる。れんが造りで間口は3間、"
              },
              {
                "fact": "創業資金は製機所の同僚・松岡寛之助から融通を受けた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "製機所の同僚だった松岡寛之助から資金を融通してもらってようやく開業にこぎつけた。"
              },
              {
                "fact": "創業時の機械は旋盤3台で、陣容は牙太郎・加藤藤太郎・山田亀吉・沖馬吉の4人と見習い数人だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "機械は旋盤3台と手づくりの道具だけ、陣容は舎主の牙太郎氏のほか製機所の工員だった加藤藤太郎、鍛冶職人の山田亀吉、牙太郎氏の甥にあたる沖馬吉の4人と見習い数人という町工場である。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "顕微音機で名を売り、「国産の沖」として交換機を納める",
          "text": "開業2カ月後の1881年3月、明工舎は上野の第2回内国勧業博覧会に「顕微音機」と名づけた新式の電話機を出品した。歯磨き粉用の桐箱にレトルトカーボンの粉末を入れ、ふたの代わりに薄い檜板の振動板を置き、ダニエル電池8個を電源にした構造である。ベル式が送受話器とも磁石を使ったのに対し、顕微音機は送話器に炭素を用いるエジソン式と同じ原理で、音声はベル式よりはるかに明瞭だった。エジソン式が日本に輸入される前の開発である。この電話機は博覧会に行幸した明治天皇の目にとまり、侍従が送話器に押しあてた懐中時計の音を、天皇は受話器ではっきりと聞き取ったという。有功二等賞を受け、明工舎の名は一挙に世に知られた。\n\n牙太郎氏は宣伝と販売にも手を尽くした。室内電鈴・軽便電話・避雷針の縮尺図を描いたポスターを作り、室内電鈴については機械類と設置費を明工舎が全額負担して3年契約で貸し渡し、期間中は月2回巡回すると告知している。貸渡料は前払いで月35銭、現代でいうレンタル方式の広告である。1889年には社名を沖電機工場と改称して本社工場を拡大し、工員と徒弟は20人近くに増えた。電話機の製作は製機所が中心だったが、架設や配線の作業は明工舎が独占していた。1896年には国産初の直列複式交換機を東京の浪花町分局に納入して稼働させ、1902年には国産初の磁石式並列複式交換機を長崎局に納めている。輸入品に外見で劣ると思われないよう、真鍮製の輸入機器と同じ金色の塗装を自前で採り入れるほど、「国産の沖」の看板には執着があった。\n\n1906年5月、沖牙太郎氏が死去した。長男の正信は当時19歳でアメリカに留学中だったが、翌年帰国して牙太郎氏の名を継ぎ、母のタケとともに事業を担う。1907年5月、沖商会は匿名組合から合資会社に組織を変えた。沖タケ氏が無限責任の代表社員に就き、2代目牙太郎氏、工務部長の沖馬吉、会計部長の木下英太郎氏、営業部長の伊藤潔、技師長の加藤藤太郎が無限責任社員として名を連ねる。木下英太郎氏はエールとコロンビアの両大学で学んで哲学博士の学位を持ち、牙太郎氏の長女カク子を妻に迎えていた。役員は沖家の一族と創業以来の功労者で固められたが、資本金60万円のうち沖家の出資は一部にとどまり、残りは外部の資本が支えた。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1881年3月に上野の第2回内国勧業博覧会へ新式電話機「顕微音機」を出品した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "開業2カ月後の1881年3月、明工舎は上野の第2回内国勧業博覧会に「顕微音機」と名づけた新式の電話機を出品した。"
              },
              {
                "fact": "顕微音機は桐箱にレトルトカーボン粉末を入れ檜板の振動板とダニエル電池8個を用いた炭素電話機で、エジソン式と同原理だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "歯磨き粉用の桐箱にレトルトカーボンの粉末を入れ、ふたの代わりに薄い檜板の振動板を置き、ダニエル電池8個を電源にした構造である。ベル式が送受話器とも磁石を使ったのに対し、顕微音機は送話器に炭素を用いるエジソン式と同じ原理で、音声はベル式よりはるかに明瞭だった。"
              },
              {
                "fact": "顕微音機は明治天皇の目にとまり有功二等賞を受けた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "この電話機は博覧会に行幸した明治天皇の目にとまり、侍従が送話器に押しあてた懐中時計の音を、天皇は受話器ではっきりと聞き取ったという。有功二等賞を受け、明工舎の名は一挙に世に知られた。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "室内電鈴は明工舎が機械類・設置費を全額負担し3年契約・月2回巡回・貸渡料は前払い月35銭という条件で貸し渡す広告を打った",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "室内電鈴については機械類と設置費を明工舎が全額負担して3年契約で貸し渡し、期間中は月2回巡回すると告知している。貸渡料は前払いで月35銭、現代でいうレンタル方式の広告である。"
              },
              {
                "fact": "1889年に明工舎を沖電機工場と改称し本社工場を拡大、工員・徒弟は20人近くになった",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1881年〜1945年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_1.html",
                "genbun": "1889年には社名を沖電機工場と改称して本社工場を拡大し、工員と徒弟は20人近くに増えた。"
              },
              {
                "fact": "1896年に国産初の直列複式交換機を東京・浪花町分局に納入し稼働開始、1902年に国産初の磁石式並列複式交換機を長崎局に納入した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1881年〜1945年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_1.html",
                "genbun": "1896年には国産初の直列複式交換機を東京の浪花町分局に納入して稼働させ、1902年には国産初の磁石式並列複式交換機を長崎局に納めている。"
              },
              {
                "fact": "輸入品と同じ金色の塗装（ラック引き）を採り入れ、国産品が外見で劣ると思われないようにした",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "輸入品に外見で劣ると思われないよう、真鍮製の輸入機器と同じ金色の塗装を自前で採り入れるほど、「国産の沖」の看板には執着があった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "沖牙太郎は1906年5月に死去し、長男の正信が翌年帰国して2代目牙太郎を襲名、母タケとともに沖商会の経営にあたった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "1906年5月、沖牙太郎氏が死去した。長男の正信は当時19歳でアメリカに留学中だったが、翌年帰国して牙太郎氏の名を継ぎ、母のタケとともに事業を担う。"
              },
              {
                "fact": "1907年5月に沖商会は匿名組合から合資会社に組織変更した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1907年5月、沖商会は匿名組合から合資会社に組織を変えた。"
              },
              {
                "fact": "合資会社沖商会では沖タケが無限責任の代表社員、2代目牙太郎・沖馬吉・木下英太郎・伊藤潔・加藤藤太郎が無限責任社員だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "沖タケ氏が無限責任の代表社員に就き、2代目牙太郎氏、工務部長の沖馬吉、会計部長の木下英太郎氏、営業部長の伊藤潔、技師長の加藤藤太郎が無限責任社員として名を連ねる。"
              },
              {
                "fact": "合資会社沖商会の資本金は60万円で、沖家の出資は一部にとどまった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "資本金60万円のうち沖家の出資は一部にとどまり、残りは外部の資本が支えた。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "浅野・渋沢・安田を後ろ盾にした株式会社化から、軍需と敗戦まで",
          "text": "外部資本を呼び込んだのは相談役に就いた浅野総一郎氏である。浅野氏は牙太郎氏と同年の生まれで、夫人がタケの姪という姻戚関係にあり、生前から牙太郎氏と事業の将来を語り合う間柄だった。富山から上京して水売りや竹の皮売りから身を起こし、1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野工場を興し、1896年には東洋汽船を創立した人物である。セメントと海運で成功した浅野氏の呼びかけに、渋沢栄一と安田善次郎が出資で応じた。1912年8月には沖商会の販売部門として沖電気株式会社が設立され、1917年2月に合資会社沖商会が沖電気に合併される。沖一族の同族企業は、財界と金融界を後ろ盾とする株式会社へ姿を変えた。\n\n沖電気は1915年に無線電信機の製造を始め、1918年には純国産の共電式交換機を高輪局に納入した。1927年8月には東京市芝区に芝浦事業所を開設する。イギリスのGE社と技術提携して自動交換機の国産化を進め、1930年には自動交換機の第一号を中野局に納めた。もっとも逓信省向けの納入実績では、1930年ごろに日本電気に次ぐ2位だった順位が、その後に富士電機製造へ抜かれて3位に落ちている。1930年11月に2代目浅野総一郎氏が会長へ就き、その2カ月後の1931年1月、沖電気は創業50周年を迎えた。節目に決めた事業は、創業者の足跡をまとめた『沖牙太郎』の刊行と、隔月刊の技術誌『沖電気時報』の創刊である。ところが同じ1931年9月の柳条湖事件を境に、日本は満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと進んだ。\n\n1932年以降は軍需の増大で業績が好転し、沖電気は軍需会社に指定される。1930年代には旧日本海軍と水測機器の共同研究を始めており、これが現在まで続く防衛事業の源流にあたる。1938年には東京都芝高浜に高浜工場を開設した。やがて空襲が工場を次々に焼く。大塚の両工場が焼失し、芝浦製造所はC館が全焼してD館も一部が焼け、大阪・沼津・荏原・鶴見の各工場も失われた。1945年8月15日正午、本社の社員は芝浦製造所D館の屋上で終戦の詔勅を聞く。このとき沖電気は地方疎開分を含めて20余の工場を抱え、従業員は挺身隊なども入れて約2万2700人にのぼっていた。軍需産業から平和産業へ戻るため、国内外の工場を閉鎖して品川・芝浦・蕨・富岡・福島の5工場に集約する。1946年8月時点で発行済株式の31%は安田銀行と安田保善社が保有しており、この資本関係がのちに富士銀行をメインバンクとする長い関係につながった。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "合資会社沖商会の相談役に浅野総一郎が就任し、渋沢栄一・安田善次郎が出資に応じた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "セメントと海運で成功した浅野氏の呼びかけに、渋沢栄一と安田善次郎が出資で応じた。"
              },
              {
                "fact": "浅野総一郎は牙太郎と同年生まれで、夫人が牙太郎夫人タケの姪という姻戚関係にあった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "浅野氏は牙太郎氏と同年の生まれで、夫人がタケの姪という姻戚関係にあり、生前から牙太郎氏と事業の将来を語り合う間柄だった。"
              },
              {
                "fact": "浅野総一郎は1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野工場を設立し、1896年に東洋汽船を創立した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "富山から上京して水売りや竹の皮売りから身を起こし、1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受けて浅野工場を興し、1896年には東洋汽船を創立した人物である。"
              },
              {
                "fact": "1912年8月に合資会社沖商会の販売部門として沖電気株式会社を設立し、1917年2月に合資会社沖商会を沖電気に合併した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1912年8月には沖商会の販売部門として沖電気株式会社が設立され、1917年2月に合資会社沖商会が沖電気に合併される。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1915年に無線電信機の製造を開始し、1918年に純国産の共電式交換機を高輪局に納入した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1881年〜1945年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_1.html",
                "genbun": "沖電気は1915年に無線電信機の製造を始め、1918年には純国産の共電式交換機を高輪局に納入した。"
              },
              {
                "fact": "1927年8月に東京市芝区に芝浦事業所を開設した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
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                "genbun": "1927年8月には東京市芝区に芝浦事業所を開設する。"
              },
              {
                "fact": "イギリスのGE社と技術提携して自動交換機を国産化し、1930年に自動交換機第一号を中野局に納入した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1881年〜1945年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_1.html",
                "genbun": "イギリスのGE社と技術提携して自動交換機の国産化を進め、1930年には自動交換機の第一号を中野局に納めた。"
              },
              {
                "fact": "逓信省向け納入実績で沖電気は1930年ごろ日本電気に次ぐ第2位だったが、のちに富士電機製造に抜かれ第3位に転落した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "もっとも逓信省向けの納入実績では、1930年ごろに日本電気に次ぐ2位だった順位が、その後に富士電機製造へ抜かれて3位に落ちている。"
              },
              {
                "fact": "1930年11月に2代目浅野総一郎が会長に就任し、1931年1月に沖電気は創業50周年を迎えた",
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                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "1930年11月に2代目浅野総一郎氏が会長へ就き、その2カ月後の1931年1月、沖電気は創業50周年を迎えた。"
              },
              {
                "fact": "創業50周年の記念事業として『沖牙太郎』を刊行し、隔月刊の技術誌『沖電気時報』を創刊した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "節目に決めた事業は、創業者の足跡をまとめた『沖牙太郎』の刊行と、隔月刊の技術誌『沖電気時報』の創刊である。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1932年以降は軍需の増大で業績が好転し、沖電気は軍需会社に指定された",
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                "genbun": "1932年以降は軍需の増大で業績が好転し、沖電気は軍需会社に指定される。"
              },
              {
                "fact": "1930年代に旧日本海軍とソナーなど水測機器の共同研究を始めたのがOKIの防衛事業の源流である",
                "source": "週刊東洋経済（2025年11月8日号）",
                "url": null,
                "genbun": "1930年代には旧日本海軍と水測機器の共同研究を始めており、これが現在まで続く防衛事業の源流にあたる。"
              },
              {
                "fact": "1938年に東京都芝高浜に高浜工場（旧品川工場）を開設した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1881年〜1945年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_1.html",
                "genbun": "1938年には東京都芝高浜に高浜工場を開設した。"
              },
              {
                "fact": "空襲で大塚の両工場が焼失、芝浦製造所C館が全焼しD館も一部焼損、大阪・沼津・荏原・鶴見の各工場も焼失した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "大塚の両工場が焼失し、芝浦製造所はC館が全焼してD館も一部が焼け、大阪・沼津・荏原・鶴見の各工場も失われた。"
              },
              {
                "fact": "終戦時の沖電気は20余の工場を持ち、従業員は挺身隊を含め約2万2700人だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "このとき沖電気は地方疎開分を含めて20余の工場を抱え、従業員は挺身隊なども入れて約2万2700人にのぼっていた。"
              },
              {
                "fact": "国内外の多数の工場を閉鎖し品川・芝浦・蕨・富岡・福島の5工場に集約した",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "軍需産業から平和産業へ戻るため、国内外の工場を閉鎖して品川・芝浦・蕨・富岡・福島の5工場に集約する。"
              },
              {
                "fact": "1946年8月時点で沖電気の発行済株式総数の31%を安田銀行と安田保善社が保有していた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "1946年8月時点で発行済株式の31%は安田銀行と安田保善社が保有しており、"
              },
              {
                "fact": "安田銀行は1948年10月に富士銀行に改称し、以後長くメインバンクを務めた",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "この資本関係がのちに富士銀行をメインバンクとする長い関係につながった。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1949,
      "end_year": 1990,
      "main_title": "第二会社として再出発し、電電ファミリーの一角で多角化を重ねる",
      "subsections": [
        {
          "title": "1949年の解散と、資本金1億8000万円での再スタート",
          "text": "1949年11月1日、企業再建整備法による法定整備計画に基づいて沖電気株式会社は解散し、同じ日に業務の一切を引き継ぐ第二会社として資本金1億8000万円の沖電気工業株式会社が設立された。現在の沖電気工業はここから始まる。創業1881年、設立1949年という二重の年号を持つのはこのためである。神戸捨二社長は新発足のあいさつで「弊社の七十年になんなんとする歴史と伝統にかんがみ、全員一段と決意を新たにし折角通信機製造業者としての使命達成を深く期するものであります」と述べた。旧債は企業再建整備法に基づいて株主と一般債権者に負担を求め、清算が終わったのは3年後の1952年である。この処理によって新会社は旧債から解放され、経理内容も改善した。\n\n舵取りを担った神戸捨二社長は、前任の楊井勇三氏と同じく安田銀行の出身である。帝国ピストンリングの専務を経て1945年11月に常務として沖電気に迎えられ、1947年8月に専務、旧会社の解散直前の1949年4月に社長へ就いた。通信機器業界は未経験だったが若手に人望があり、1966年1月に会長へ退くまで16年余の長期政権を担う。その間に沖電気は1950年に4号形電話機の量産を始め、1951年11月に東京証券取引所へ上場した。1956年にはクロスバ交換機を電電公社に納入している。1958年11月には情報処理装置の生産拠点として群馬県高崎市に高崎事業所を開設し、1961年7月に大阪証券取引所へ上場、1962年5月には電子通信装置の生産拠点として埼玉県本庄市に本庄事業所を開いた。",
          "references": [],
          "factBasis": [
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              {
                "fact": "1949年11月1日に企業再建整備法の法定整備計画に基づき沖電気株式会社を解散し、第二会社として資本金1億8000万円の沖電気工業株式会社を設立した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
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                "genbun": "1949年11月1日、企業再建整備法による法定整備計画に基づいて沖電気株式会社は解散し、同じ日に業務の一切を引き継ぐ第二会社として資本金1億8000万円の沖電気工業株式会社が設立された。"
              },
              {
                "fact": "神戸捨二社長が新会社設立にあたってあいさつを述べた",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "神戸捨二社長は新発足のあいさつで「弊社の七十年になんなんとする歴史と伝統にかんがみ、全員一段と決意を新たにし折角通信機製造業者としての使命達成を深く期するものであります」と述べた。"
              },
              {
                "fact": "旧債処理は企業再建整備法に基づき株主と一般債権者が負担し、清算完了は3年後の1952年だった",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "旧債は企業再建整備法に基づいて株主と一般債権者に負担を求め、清算が終わったのは3年後の1952年である。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "神戸捨二は安田銀行出身で帝国ピストンリング専務を経て1945年11月に常務として沖電気入り、1947年8月に専務、1949年4月に社長就任、1966年1月に会長就任まで16年余の長期政権を担った",
                "source": "進取の精神—沖電気120年のあゆみ（沖電気工業, 2001）",
                "url": "https://www.oki.com/global/ja/profile/history/120th/",
                "genbun": "舵取りを担った神戸捨二社長は、前任の楊井勇三氏と同じく安田銀行の出身である。帝国ピストンリングの専務を経て1945年11月に常務として沖電気に迎えられ、1947年8月に専務、旧会社の解散直前の1949年4月に社長へ就いた。通信機器業界は未経験だったが若手に人望があり、1966年1月に会長へ退くまで16年余の長期政権を担う。"
              },
              {
                "fact": "1950年に4号形電話機の量産を開始し、1951年11月に東京証券取引所に上場した",
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                "genbun": "その間に沖電気は1950年に4号形電話機の量産を始め、1951年11月に東京証券取引所へ上場した。"
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              {
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                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
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                "genbun": "1958年11月には情報処理装置の生産拠点として群馬県高崎市に高崎事業所を開設し、1961年7月に大阪証券取引所へ上場、1962年5月には電子通信装置の生産拠点として埼玉県本庄市に本庄事業所を開いた。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "売上は倍増しても利益が伸びない、公社依存の総合通信メーカー",
          "text": "1961年にトランジスタ式電子計算機「OKITAC-5090システム」を発売し、八王子市に半導体工場を開いてトランジスタの生産を始めた。1963年には米スペリーランド社と合弁で沖ユニバック株式会社を設立してコンピュータ事業に踏み込む。1967年にはICの生産を始め、オンライン端末機「OKIDATAシリーズ」を発売し、預金オンライン端末機「オキセイバ」を富士銀行へ納入した。通信機から電子計算機、半導体へと事業は広がり、沖電気は総合通信メーカーとしての形を整えた。1971年にはオンライン現金自動支払機を富士銀行に納入した。のちの主力となるATMの出発点は、メインバンクとの取引のなかにあった。\n\n事業の広がりは収益に結びつかなかった。1969年3月4日、証券アナリスト協会の企業分析第2部会で講演した専務取締役の山本正明氏は、従業員が正規1万1000人・臨時1100人、事業所5カ所、研究所1カ所、支店・営業所は全国20カ所という規模を示したうえで、前年9月期の売上構成比は電話機・交換機が50%、電子計算機入出力装置と情報伝送装置が25%、無線伝送・測機・制御機・舶用機器等が7%だと説明した。電電公社への依存率は33〜34%から44〜45%の間を往復していた。1968年度は売上463〜467億円、税込利益21〜22億円の見込みで、1965年に配当を1割3分から1割へ減配して以来の低迷から若干復調した水準にすぎない。減配した1963年度上期当時と比べると、6年で売上は倍増以上になったのに利益は23%増にとどまった。\n\n山本氏は低収益の理由を人件費の急増と、金利・償却負担に耐えるだけの売上増がなかったことに求めた。人件費率は1963年当時の約15%が1966年には20%へ、資本費率も約9%が11.5%へ上がっている。さらに山本氏は、公共的色彩の濃い機種や合理化目的の機種が多いために高い利潤率は期待しがたいと、事業構成そのものに由来する制約を先に断っていた。過去3回の長期計画がいずれも目標を下回った事実も自ら明かしている。この講演から30年後、篠塚勝正社長も同じ低収益体質を別の言葉で語っている。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "山本正明",
              "role": "1969年当時の沖電気工業 専務取締役",
              "date": "1969-03-04",
              "text": "ただ長期計画については、実は過去3回にわたり3年ないし5年の期間をとつて策定したのであるが、実績は常に計画目標を下回つた。\n長期計画の策定ということは非常に難しい問題なのであり、経営者としては反省もし、常に的確な判断を行ない得るよう心がけるべきであると思う。",
              "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
              "paragraph": 3
            }
          ],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1961年にトランジスタ式電子計算機「OKITAC-5090システム」を発売し、東京都八王子市に半導体工場を開設してトランジスタの生産を開始した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1946年〜1970年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_2.html",
                "genbun": "1961年にトランジスタ式電子計算機「OKITAC-5090システム」を発売し、八王子市に半導体工場を開いてトランジスタの生産を始めた。"
              },
              {
                "fact": "1963年に米スペリーランド社と合弁で沖ユニバック株式会社を設立した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1946年〜1970年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_2.html",
                "genbun": "1963年には米スペリーランド社と合弁で沖ユニバック株式会社を設立してコンピュータ事業に踏み込む。"
              },
              {
                "fact": "1967年にICの生産を開始し、オンライン端末機「OKIDATAシリーズ」を発売、預金オンライン端末機「オキセイバ」を富士銀行へ納入した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1946年〜1970年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_2.html",
                "genbun": "1967年にはICの生産を始め、オンライン端末機「OKIDATAシリーズ」を発売し、預金オンライン端末機「オキセイバ」を富士銀行へ納入した。"
              },
              {
                "fact": "1971年にオンライン現金自動支払機（CD）を富士銀行に納入した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1971年〜1980年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_3.html",
                "genbun": "1971年にはオンライン現金自動支払機を富士銀行に納入した。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1969年3月4日に証券アナリスト協会の企業分析第2部会で沖電気工業専務取締役の山本正明が講演した",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "1969年3月4日、証券アナリスト協会の企業分析第2部会で講演した専務取締役の山本正明氏は、"
              },
              {
                "fact": "1969年時点の従業員は正規1万1000人・臨時1100人、事業所5カ所、研究所1カ所、支店・営業所は全国20カ所だった",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "従業員が正規1万1000人・臨時1100人、事業所5カ所、研究所1カ所、支店・営業所は全国20カ所という規模を示したうえで、"
              },
              {
                "fact": "1968年9月期の売上構成比は電話機・交換機50%、電子計算機入出力装置と情報伝送装置25%、無線伝送・測機・制御機・舶用機器等7%だった",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "前年9月期の売上構成比は電話機・交換機が50%、電子計算機入出力装置と情報伝送装置が25%、無線伝送・測機・制御機・舶用機器等が7%だと説明した。"
              },
              {
                "fact": "電電公社への依存率は33〜34%から44〜45%の間を往復していた",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "電電公社への依存率は33〜34%から44〜45%の間を往復していた。"
              },
              {
                "fact": "1968年度は売上463〜467億円・税込利益21〜22億円の見込みで、1965年に配当を1割3分から1割へ減配して以来低迷が続いていた",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "1968年度は売上463〜467億円、税込利益21〜22億円の見込みで、1965年に配当を1割3分から1割へ減配して以来の低迷から若干復調した水準にすぎない。"
              },
              {
                "fact": "1963年度上期当時と比べ6年で売上は倍増以上になったが利益は23%増にとどまった",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "減配した1963年度上期当時と比べると、6年で売上は倍増以上になったのに利益は23%増にとどまった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "人件費率は1963年当時の約15%が1966年に20%へ、資本費率は約9%が11.5%へ上昇した",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "人件費率は1963年当時の約15%が1966年には20%へ、資本費率も約9%が11.5%へ上がっている。"
              },
              {
                "fact": "山本正明は公共的色彩の濃い機種・合理化目的の機種が多いため高い利潤率は期待しがたいと述べた",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "さらに山本氏は、公共的色彩の濃い機種や合理化目的の機種が多いために高い利潤率は期待しがたいと、事業構成そのものに由来する制約を先に断っていた。"
              },
              {
                "fact": "山本正明は過去3回にわたり3年ないし5年の長期計画を策定したが実績は常に計画目標を下回ったと述べた",
                "source": "証券アナリストジャーナル（1969年7巻3号）",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/2730579",
                "genbun": "過去3回の長期計画がいずれも目標を下回った事実も自ら明かしている。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "半導体とプリンターに同時に投じた1980年代",
          "text": "1980年、超LSIの生産会社である宮崎沖電気の工場が完成し、64キロビットDRAMの生産が始まった。パーソナルコンピュータ「if800シリーズ」もこの年の発売である。1982年には世界初の紙幣還流機能付きATM「AT-100シリーズ」を発売した。このAT-100は2015年に情報処理技術遺産へ認定されている。1986年には宮崎沖電気で1メガビットDRAMの生産を始め、埼玉県蕨市にシステム開発センタを開設した。通信機の会社は、半導体と情報機器の二つに同時に投資を続ける体制に入った。\n\n1987年12月には欧州のプリンター販売統括会社OKI EUROPE LTD.を英国に設立し、同じ年に英国でプリンタの生産も始めた。1988年には超LSI生産会社の宮城沖電気の工場が完成して1メガビットDRAMの生産を開始する。1990年にはオレゴン州の半導体工場が操業を始め、4メガビットDRAMを一般市場向けに量産した。同年、発光ダイオードを光源に用いたページプリンタ「MICROLINE800シリーズ」を発売している。宮崎・宮城・オレゴンと拠点を重ねたDRAM投資が、次の10年の収益を揺さぶり続ける。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1980年に超LSI生産会社の宮崎沖電気の工場が完成し64キロビットDRAMの生産を開始、パーソナルコンピュータ「if800シリーズ」を発売した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1971年〜1980年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_3.html",
                "genbun": "1980年、超LSIの生産会社である宮崎沖電気の工場が完成し、64キロビットDRAMの生産が始まった。パーソナルコンピュータ「if800シリーズ」もこの年の発売である。"
              },
              {
                "fact": "1982年に世界初の紙幣還流機能付きATM「AT-100シリーズ」を発売し、2015年に情報処理技術遺産に認定された",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1981年〜1990年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_4.html",
                "genbun": "1982年には世界初の紙幣還流機能付きATM「AT-100シリーズ」を発売した。このAT-100は2015年に情報処理技術遺産へ認定されている。"
              },
              {
                "fact": "1986年に宮崎沖電気で1メガビットDRAMの生産を開始し、埼玉県蕨市にシステム開発センタを開設した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1986年には宮崎沖電気で1メガビットDRAMの生産を始め、埼玉県蕨市にシステム開発センタを開設した。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1987年12月に欧州におけるプリンターの販売統括会社OKI EUROPE LTD.を英国に設立し、同年に英国にプリンタ生産会社オキ（UK）社を設立して生産を開始した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1987年12月には欧州のプリンター販売統括会社OKI EUROPE LTD.を英国に設立し、同じ年に英国でプリンタの生産も始めた。"
              },
              {
                "fact": "1988年に宮城沖電気の工場が完成し1メガビットDRAMの生産を開始した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1981年〜1990年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_4.html",
                "genbun": "1988年には超LSI生産会社の宮城沖電気の工場が完成して1メガビットDRAMの生産を開始する。"
              },
              {
                "fact": "1990年にオレゴン州の半導体工場が操業を開始して4メガビットDRAMを一般市場向けに量産開始し、ページプリンタ「MICROLINE800シリーズ」を発売した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1981年〜1990年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_4.html",
                "genbun": "1990年にはオレゴン州の半導体工場が操業を始め、4メガビットDRAMを一般市場向けに量産した。同年、発光ダイオードを光源に用いたページプリンタ「MICROLINE800シリーズ」を発売している。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1991,
      "end_year": 2010,
      "main_title": "DRAMの重荷と再建計画の反復、赤字を繰り返した末の半導体事業売却",
      "subsections": [
        {
          "title": "シリコンサイクルが招いた再建計画の空回り",
          "text": "1992年度、沖電気は連結で329億円の最終赤字を計上した。故・神宮司順社長、続く澤村紫光社長が「経営再建計画」「経営再建計画パート2」と切れ目なく再建を進めたにもかかわらず、1998年度には過去最大となる430億円の赤字に転落する。『週刊東洋経済』1998年10月31日号は「沖電気は一体、何度『再建計画』を策定したことだろう」と書き、需給バランスで収益が大幅に上下するDRAMを「諸悪の根源」と指摘した。1992年度の大赤字で再建計画を定めたのに、1994・95年度は同じDRAMが稼ぎ頭となり、経常益段階で連続最高益を更新する。「このままでも意外と利益は出るではないか」という油断が経営陣の再建遂行に水を差し、直後にDRAMが採算割れして再び巨額赤字に落ちた。\n\n1998年6月に社長へ就いた篠塚勝正氏は、「緊急施策」と2000年度の復配を目指す経営再建計画「フェニックス21計画」を策定した。DRAMは64メガで量産を止め、128メガ以降は量産しない。半導体の設備投資額は1997年度の334億円から1998年度124億円、1999年度100億円へ圧縮し、米オレゴン工場の閉鎖などと合わせて半導体事業の年間総コストを300億円削減する計画である。篠塚勝正氏（社長）は投資体力の差をはっきり口にした。年間800億〜1000億円の設備投資ができれば続けるが、沖には300億〜400億円の力しかない、これでは勝てない、と。当時のグループ有利子負債は4300億円に膨らみ、1998年9月には長期債の格付けがAマイナスからトリプルBへ引き下げられている。\n\n人員も削った。2001年3月期までに本体1万0500人のうち1500人、国内グループ会社1万3500人のうち1200人の計2700人を減らす計画で、役員報酬の10%カットや賞与抑制、残業ゼロ化の推進といった施策も積み上げた。篠塚勝正氏（社長）は沖電気の体質そのものを問題にしている。一つのPDCAがうまくいかないとあきらめ、またプランを作り直して新しいPDCAをやってきた、と。1969年に山本正明氏が長期計画は常に目標を下回ったと語った会社は、30年を経ても計画を作り直し続けていた。篠塚勝正氏（社長）は「PDCACACA……」と繰り返し、一度定めたプランをしつこく実行すると誓った。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "篠塚勝正",
              "role": "1998年当時の沖電気工業 社長",
              "date": "1998-10-31",
              "text": "Ｐ（プラン）、Ｄ（ドゥー）、Ｃ（チェック）、Ａ（アクション）という言葉があるが、沖は一つのＰＤＣＡがうまくいかないとあきらめて、またプランを作り直して新しいＰＤＣＡをやっていた。\nＰＤＣＡＣＡＣＡ……と一度定めたプランはしつこく、確実に実行する。",
              "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
              "paragraph": 3
            },
            {
              "speaker": "篠塚勝正",
              "role": "1998年当時の沖電気工業 社長（談話）",
              "date": "1998-10-31",
              "text": "私は昨年の七月初頭から半導体事業担当となったが、七月一〇日には「ＤＲＡＭに投資を続けても沖は勝つことができない」との結論に達した。\n世界のメモリの状況を見れば今や設計技術や製造ノウハウの時代ではなく、製造装置を買う資金力が最も重要になった。\n幸いにして、沖には簿外債務などおかしな問題が一切ない。まじめすぎるくらいまじめな会社だ。",
              "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
              "paragraph": 2
            }
          ],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1992年度に連結で329億円の最終赤字を計上した",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "1992年度、沖電気は連結で329億円の最終赤字を計上した。"
              },
              {
                "fact": "故・神宮司順社長と澤村紫光社長が「経営再建計画」「経営再建計画パート2」を進めた",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "故・神宮司順社長、続く澤村紫光社長が「経営再建計画」「経営再建計画パート2」と切れ目なく再建を進めたにもかかわらず、"
              },
              {
                "fact": "1998年度に過去最大の430億円の赤字に転落した",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "1998年度には過去最大となる430億円の赤字に転落する。"
              },
              {
                "fact": "1994・95年度はDRAMが大きく稼ぎ経常益段階で連続最高益を更新した",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "1992年度の大赤字で再建計画を定めたのに、1994・95年度は同じDRAMが稼ぎ頭となり、経常益段階で連続最高益を更新する。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1998年6月に篠塚勝正が社長に就任し「緊急施策」と2000年度の復配を目指す経営再建計画「フェニックス21計画」を策定した",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "1998年6月に社長へ就いた篠塚勝正氏は、「緊急施策」と2000年度の復配を目指す経営再建計画「フェニックス21計画」を策定した。"
              },
              {
                "fact": "半導体の設備投資額を1997年度334億円から1998年度124億円、1999年度100億円へ圧縮し、半導体事業の年間総コストを300億円削減する計画だった",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "半導体の設備投資額は1997年度の334億円から1998年度124億円、1999年度100億円へ圧縮し、米オレゴン工場の閉鎖などと合わせて半導体事業の年間総コストを300億円削減する計画である。"
              },
              {
                "fact": "篠塚勝正は年間800億〜1000億円の設備投資ができれば続けるが沖には300億〜400億円の力しかなく勝てないと述べた",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "年間800億〜1000億円の設備投資ができれば続けるが、沖には300億〜400億円の力しかない、これでは勝てない、と。"
              },
              {
                "fact": "当時のグループ有利子負債は4300億円で、1998年9月22日に日本格付投資情報センターが長期債格付けをAマイナスからトリプルBに引き下げた",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "当時のグループ有利子負債は4300億円に膨らみ、1998年9月には長期債の格付けがAマイナスからトリプルBへ引き下げられている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "人員削減は2001年3月期までに本体1万0500人のうち1500人、国内グループ会社1万3500人のうち1200人の計2700人だった",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "2001年3月期までに本体1万0500人のうち1500人、国内グループ会社1万3500人のうち1200人の計2700人を減らす計画で、"
              },
              {
                "fact": "役員報酬の10%カット、従業員の賞与抑制、残業ゼロ化の推進などの施策を積み上げた",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "役員報酬の10%カットや賞与抑制、残業ゼロ化の推進といった施策も積み上げた。"
              },
              {
                "fact": "篠塚勝正は沖電気が一つのPDCAがうまくいかないとあきらめて新しいPDCAをやっていたと分析した",
                "source": "週刊東洋経済（1998年10月31日号）",
                "url": null,
                "genbun": "一つのPDCAがうまくいかないとあきらめ、またプランを作り直して新しいPDCAをやってきた、と。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "事業の切り出しと、株価50円台まで沈んだ底",
          "text": "1994年、プリンターとファクシミリの事業を株式会社沖データへ譲渡した。1999年には東芝から国内民間向けの金融自動化機器事業を譲り受けている。篠塚勝正氏（社長）は1999年3月の『週刊東洋経済』誌上で、グループの中で細かいものも含め20ほどの事業の売却を考えており、拡散していた研究開発テーマも半分に絞ったと語り、東芝から譲り受けたATMを注力事業強化の第一弾に位置づけた。2001年7月にはATMの生産拡大と中国市場での販売のため、中国に沖電気実業（深圳）有限公司を設立している。2005年には事業セグメントを情報通信システム・半導体・プリンタの3事業へ再編した。\n\nそれでも収益は安定しなかった。有価証券報告書の連結数値では、2007年3月期に純損益が364億円の赤字、2009年3月期に450億円の赤字、2011年3月期にも270億円の赤字を計上している。黒字だった年も2008年3月期が5億円、2010年3月期が36億円にとどまり、2006年度からの5年間で利益は積み上がらなかった。売上高は2008年3月期の7196億円から2009年3月期に5456億円、2010年3月期には4439億円へ落ちる。株価は上場来最安値圏の50円台をうろついた。2008年10月、沖電気は半導体事業を譲渡する。1961年に八王子工場でトランジスタの生産を始め、DRAMで二度も会社を揺さぶった半導体から、およそ半世紀で手を引いた。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "篠塚勝正",
              "role": "1999年当時の沖電気工業 社長",
              "date": "1999-03-20",
              "text": "沖は今、再建中だ。グループの中では細かいものも含め二〇くらいの事業を他社に売却することを考えている。拡散していた研究開発テーマも半分に絞った。その一方で注力事業は買収やアライアンスでより強くしていく。昨年、東芝から譲り受けたＡＴＭはその第一弾だ。",
              "source": "週刊東洋経済（1999年3月20日号）",
              "paragraph": 1
            }
          ],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "1994年10月にプリンター・ファクシミリ及び関連事業を株式会社沖データへ譲渡した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "1994年、プリンターとファクシミリの事業を株式会社沖データへ譲渡した。"
              },
              {
                "fact": "1999年に東芝から国内民間向け金融自動化機器事業を譲受した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 1991年〜2000年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_5.html",
                "genbun": "1999年には東芝から国内民間向けの金融自動化機器事業を譲り受けている。"
              },
              {
                "fact": "2001年7月にATMの生産拡大と中国市場での販売のため中国に沖電気実業（深圳）有限公司を設立した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2001年7月にはATMの生産拡大と中国市場での販売のため、中国に沖電気実業（深圳）有限公司を設立している。"
              },
              {
                "fact": "2005年に事業セグメントを情報通信システム・半導体・プリンタの3事業に再編した",
                "source": "OKI 企業情報 OKIのあゆみ 2001年〜2010年",
                "url": "https://www.oki.com/jp/profile/history/his_6.html",
                "genbun": "2005年には事業セグメントを情報通信システム・半導体・プリンタの3事業へ再編した。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "株価は上場来最安値圏の50円台をうろついた",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "株価は上場来最安値圏の50円台をうろついた。"
              },
              {
                "fact": "2008年10月に半導体事業を譲渡した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2008年10月、沖電気は半導体事業を譲渡する。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 2011,
      "end_year": 2026,
      "main_title": "通信老舗からの脱皮、ATM・EMS・防衛が支える再生の15年",
      "subsections": [
        {
          "title": "見えにくい経営実態にメスを入れた構造改革",
          "text": "2009年に社長へ就いた川崎秀一氏は、当時の経営を「土俵際の徳俵の上に何とか立っているようなものだった」と振り返る。それでも社内は「大変だ、大変だと言っても何とかなってきたじゃないか」と平然と構える空気で、国内大手銀行や通信事業者という優良顧客を抱えていた安心感が危機感を緩ませていた。川崎社長は2010年度に構造改革へ着手する。増減資で毀損した自己資本を補強し、生産拠点を再編し、早期退職者を募った。人員削減は国内正社員の1割に及んだ。あわせて管理制度にも手を入れる。通信機器や現金処理機は所属する事業部門と製造拠点が別部門に分かれ、事業収益に生産部門の収益が十分反映されていなかった。2011年10月に事業本部の下へ生産拠点を紐づけて責任を事業本部長に一元化し、同年に社内システムも刷新した。川崎社長はこれを「一種のアメーバ経営」と呼び、京セラの手法に範を取ったと語っている。\n\n改革の道のりは平坦ではない。2011年に東日本大震災とタイ洪水が重なり、2012年にはスペインの販売子会社で現地法人トップによる不正会計が発覚した。それでも2013年度の営業利益計画は240億円と前期比8割増、2004年度以来の高水準に戻り、8期ぶりの復配を果たす。牽引したのはATM事業だった。販売台数は2011年3万3000台、2012年4万1000台、2013年は4万5500台の見通しで、ATMを中心とするメカトロ事業部門が全売上高の2割にあたる900億円、利益率は約10%を稼いだ。使い古された紙幣に対応する認識機能の強化と黄砂対策というカスタマイズが効き、中国4大銀行のうち最大手の中国工商銀行を含む3行と取引するに至った。\n\n事業の入れ替えは続いた。2017年12月に公開買付で沖電線を連結子会社化し、2019年4月にリカーリング型ビジネスの強化を目指してOKIクロステックを設立、2021年4月には沖データを吸収合併した。2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しで市場第一部からプライム市場へ移行している。2025年10月にはプリンターの開発・生産に関する事業をエトリアへ承継した。1980年代から欧州で育ててきたプリンターは、他社との連携による事業継続へ切り替わった。一時は7000億円超あった連結売上高は、半導体事業の売却などを経て2022年3月期の3520億円を底とし、2025年3月期には4524億円まで戻している。",
          "references": [],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "川崎秀一は2009年に社長就任し、当時の経営を「土俵際の徳俵の上に何とか立っているようなものだった」と振り返った",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "2009年に社長へ就いた川崎秀一氏は、当時の経営を「土俵際の徳俵の上に何とか立っているようなものだった」と振り返る。"
              },
              {
                "fact": "2010年度に構造改革に着手し、増減資で自己資本を補強、生産拠点の再編成と早期退職者募集を実施、人員削減は国内正社員の1割に及んだ",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "川崎社長は2010年度に構造改革へ着手する。増減資で毀損した自己資本を補強し、生産拠点を再編し、早期退職者を募った。人員削減は国内正社員の1割に及んだ。"
              },
              {
                "fact": "2011年10月に事業本部の下に生産拠点を紐づけ責任を事業本部長へ一元化し、同年に社内システムも刷新した",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "2011年10月に事業本部の下へ生産拠点を紐づけて責任を事業本部長に一元化し、同年に社内システムも刷新した。"
              },
              {
                "fact": "川崎秀一は組織改革を「一種のアメーバ経営」と呼び京セラのアメーバ経営に範を取ったと語った",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "川崎社長はこれを「一種のアメーバ経営」と呼び、京セラの手法に範を取ったと語っている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2011年に東日本大震災とタイ洪水、2012年にスペインの販売子会社で現地法人トップによる不正会計が発覚した",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "2011年に東日本大震災とタイ洪水が重なり、2012年にはスペインの販売子会社で現地法人トップによる不正会計が発覚した。"
              },
              {
                "fact": "2013年度の営業利益計画は240億円と前期比8割増で2004年度以来の高水準となり、8期ぶりに復配した",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "それでも2013年度の営業利益計画は240億円と前期比8割増、2004年度以来の高水準に戻り、8期ぶりの復配を果たす。"
              },
              {
                "fact": "ATM販売台数は2011年3万3000台、2012年4万1000台、2013年4万5500台の見通しで、メカトロ事業部門は全売上高の2割にあたる900億円・利益率約10%だった",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "販売台数は2011年3万3000台、2012年4万1000台、2013年は4万5500台の見通しで、ATMを中心とするメカトロ事業部門が全売上高の2割にあたる900億円、利益率は約10%を稼いだ。"
              },
              {
                "fact": "中国では紙幣の認識機能を強化し黄砂対策を施し、中国4大銀行のうち中国工商銀行を含む3行と取引した",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "使い古された紙幣に対応する認識機能の強化と黄砂対策というカスタマイズが効き、中国4大銀行のうち最大手の中国工商銀行を含む3行と取引するに至った。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "2017年12月に公開買付により沖電線を連結子会社化した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2017年12月に公開買付で沖電線を連結子会社化し、"
              },
              {
                "fact": "2019年4月にリカーリング型ビジネスの強化を目指してOKIクロステックを設立し、2021年4月に沖データを吸収合併した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2019年4月にリカーリング型ビジネスの強化を目指してOKIクロステックを設立、2021年4月には沖データを吸収合併した。"
              },
              {
                "fact": "2022年4月に東京証券取引所の市場区分の見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しで市場第一部からプライム市場へ移行している。"
              },
              {
                "fact": "2025年10月にプリンターの開発・生産に関する事業をエトリア株式会社に承継した",
                "source": "沖電気工業 有価証券報告書【沿革】",
                "url": null,
                "genbun": "2025年10月にはプリンターの開発・生産に関する事業をエトリアへ承継した。"
              },
              {
                "fact": "連結売上高は2022年3月期3520億円を底に2025年3月期は4524億円まで回復した",
                "source": "週刊東洋経済（2014年1月24日号）",
                "url": null,
                "genbun": "一時は7000億円超あった連結売上高は、半導体事業の売却などを経て2022年3月期の3520億円を底とし、2025年3月期には4524億円まで戻している。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "閉鎖寸前だった本庄工場がEMSで買う側に回るまで",
          "text": "本庄工場は1962年の開設以来、電電公社の時代から交換機や伝送装置をNTTへ納め続けてきた。交換機と伝送装置は日立製作所・日本電気・富士通・沖電気の電電ファミリー4社がNTTと共同開発し、NTT向け機器はこの4社の寡占だった。増設工事は6期を数え、2001年には敷地面積13万平方メートル・建屋面積5.2万平方メートルに達し、約700人が働いていた。そこへNTTが調達方針を転換し、電電4社以外からも装置を調達すると伝えてくる。最新交換機の新ノードは、米シスコシステムズなど海外勢のルーターに通信効率で歯が立たなかった。2001年、沖電気は本庄の従業員を半分に絞る大リストラを断行し、生産量は3年後に半分以下へ落ち込む。誰が見ても閉鎖を宿命づけられたような工場だった。\n\n米国工場を10年、中国の協力工場を3年半担当してきた清水光一郎氏は、本庄工場を違うふうに見ていた。日本には日本のモノづくりがあり、本庄にはそのよさがある、本庄工場がなくなれば電子系のモノづくりは沖電気から永遠になくなる、と。清水氏が出した答えが電子機器の受託生産、EMSである。社内の反対は強く、役員クラスの先輩が次々に非公式の場へ誘っては「清水、やめとけ」と説いた。仕事が遅い・雰囲気が暗い・半分公務員のような企業文化で客商売のEMSは無理だ、最後発でうまくいくわけがない、というのが反対の理由だった。それでも清水氏は当時社長の篠塚勝正氏を粘り強く説得し、EMSビジネス本部長に就く。篠塚勝正氏（社長）は1年での黒字化を求め、人は何人使ってもいいがカネは出さないと告げた。失敗したら自分でEMS事業をリストラしろ、それができたら次は俺がおまえをリストラする、とも言い放っている。\n\nEMSに充てた従業員は当初100人、損益分岐点は70億円だったが初年度の売上高は25億円にとどまった。2年目も赤字で、下期にようやく収支が均衡する。3年目に海外大手メーカーからエレベーターの制御基板という高付加価値品を受注して赤字を脱却した。少量多品種を支えたのは交換機で鍛えられた段取りの力である。交換機の基板は市外局番などで一つひとつ容量も仕様も異なり、別の基板へ移る際の段取りに時間をかければコスト割れする。それを避けるノウハウの蓄積が、そのままEMSの競争力になった。2012年には五十年来の取引先である田中貴金属工業の山形・鶴岡の配線板工場を買収し、以後は利益率5%前後を安定して達成する。世界最大のEMSである鴻海精密工業ですら3%台であり、利益率では巨人をしのいだ。2015年には横河電機から青梅工場を買い、2016年7月には日本アビオニクスから事業を譲り受けている。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "清水光一郎",
              "role": "2016年当時のOKI 顧問（EMS参入当時はEMSビジネス本部長）",
              "date": "2016-11-12",
              "text": "米国には米国の、中国には中国のモノづくりがあるように、日本には日本のモノづくりがある。そして本庄には日本のモノづくりのよさがある。それは中から見ているだけではわからない。本庄工場がなくなれば、電子系のモノづくりは沖電気から永遠になくなる。それでいいのか。",
              "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
              "paragraph": 2
            },
            {
              "speaker": "清水光一郎",
              "role": "2016年当時のOKI 顧問",
              "date": "2016-11-12",
              "text": "ＥＭＳには電電４社が皆参入した。特に発表せずに、出たり入ったりを繰り返した会社もある。でも沖電気以外は皆うまくいかなかった。製造拠点の多い他社はＥＭＳで失敗してもまだ余裕があるからかもしれない。でも沖電気はそもそも工場が少ないので、本庄工場を閉鎖したらもう後がない。それくらいに思っていた。",
              "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
              "paragraph": 3
            }
          ],
          "factBasis": [
            [
              {
                "fact": "本庄工場は1962年に開設され、電電公社時代から交換機・伝送装置をNTTに納め続けた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
                "url": null,
                "genbun": "本庄工場は1962年の開設以来、電電公社の時代から交換機や伝送装置をNTTへ納め続けてきた。"
              },
              {
                "fact": "交換機・伝送装置は日立製作所・日本電気・富士通・沖電気の電電ファミリー4社がNTTと共同開発し、NTT向け機器はこの4社の寡占だった",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "交換機と伝送装置は日立製作所・日本電気・富士通・沖電気の電電ファミリー4社がNTTと共同開発し、NTT向け機器はこの4社の寡占だった。"
              },
              {
                "fact": "本庄工場の増設工事は6期を数え2001年には敷地面積13万平方メートル・建屋面積5.2万平方メートルに達し約700人が働いていた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "増設工事は6期を数え、2001年には敷地面積13万平方メートル・建屋面積5.2万平方メートルに達し、約700人が働いていた。"
              },
              {
                "fact": "2001年に沖電気は本庄の従業員を半分に絞る大リストラを断行し、生産量は3年後に半分以下に落ち込んだ",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "2001年、沖電気は本庄の従業員を半分に絞る大リストラを断行し、生産量は3年後に半分以下へ落ち込む。"
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            ],
            [
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                "fact": "清水光一郎は沖電気の米国工場を10年、中国の協力工場を3年半担当していた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "米国工場を10年、中国の協力工場を3年半担当してきた清水光一郎氏は、本庄工場を違うふうに見ていた。"
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              {
                "fact": "清水光一郎はEMS（電子機器の受託生産）に本庄工場の生き残りを懸け、社内の猛反対を受けた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "清水氏が出した答えが電子機器の受託生産、EMSである。社内の反対は強く、役員クラスの先輩が次々に非公式の場へ誘っては「清水、やめとけ」と説いた。"
              },
              {
                "fact": "清水光一郎は当時社長の篠塚勝正を説得してEMSビジネス本部長に就任し、篠塚は1年での黒字化を求めた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "それでも清水氏は当時社長の篠塚勝正氏を粘り強く説得し、EMSビジネス本部長に就く。篠塚勝正氏（社長）は1年での黒字化を求め、人は何人使ってもいいがカネは出さないと告げた。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "EMSに充てた従業員は当初100人、損益分岐点は70億円、初年度の売上高は25億円だった",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "EMSに充てた従業員は当初100人、損益分岐点は70億円だったが初年度の売上高は25億円にとどまった。"
              },
              {
                "fact": "3年目に海外大手メーカーからエレベーターの制御基板を受注して赤字を脱却した",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "3年目に海外大手メーカーからエレベーターの制御基板という高付加価値品を受注して赤字を脱却した。"
              },
              {
                "fact": "交換機の基板は市外局番などで容量・仕様が個別に異なり、段取りのノウハウの蓄積が少量多品種のEMS事業に結びついた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "交換機の基板は市外局番などで一つひとつ容量も仕様も異なり、別の基板へ移る際の段取りに時間をかければコスト割れする。それを避けるノウハウの蓄積が、そのままEMSの競争力になった。"
              },
              {
                "fact": "2012年に五十年来の取引先だった田中貴金属工業の山形・鶴岡の配線板工場を買収し、以後利益率5%前後を安定的に達成した",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
                "url": null,
                "genbun": "2012年には五十年来の取引先である田中貴金属工業の山形・鶴岡の配線板工場を買収し、以後は利益率5%前後を安定して達成する。"
              },
              {
                "fact": "世界最大のEMSである鴻海の利益率は3%台であり、鶴岡買収後のOKIのEMSはそれを上回った",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "世界最大のEMSである鴻海精密工業ですら3%台であり、利益率では巨人をしのいだ。"
              },
              {
                "fact": "2015年に横河電機から青梅工場を買収し、2016年7月に日本アビオニクスから事業を譲受した",
                "source": "週刊東洋経済（2016年11月12日号）",
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                "genbun": "2015年には横河電機から青梅工場を買い、2016年7月には日本アビオニクスから事業を譲り受けている。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "海外ガバナンスの立て直しと、防衛が花形になる時代",
          "text": "2016年4月に社長へ就いた鎌上信也氏は、リサイクルATMを開発して中国市場を開拓したエンジニアである。1996年に初めて北京へ行ったとき、人民元はくしゃくしゃで落書きがあったりホチキスやセロハンテープで留められていたりし、店舗では紫外線を照射して本物か確認してからでないと高額紙幣を受け取らなかった。その状態を見て中国のATM需要は大きいと直感したという。もっとも海外展開は損失も生んだ。中国のOEM先で215億円の製品代金の不払いが発生し、2015年秋に華南国際経済貿易仲裁委員会へ仲裁を申し立てている。ブラジルは現地大手銀行イタウ・ウニバンコのグループ企業イタウテックを買収して進出したが、進出した途端に現地経済が悪化した。鎌上信也氏（社長）は2016年4月、グループ全体のガバナンスを強化する組織を新設した。\n\n1930年代に旧日本海軍との共同研究から始まり、戦後にいったん途切れた水中音響の技術は、静岡・沼津で開発が続けられてきた。特機システム事業部長の本杉正哉氏は2025年、工場の稼働状況はパンパンの状態が続いていると語っている。以前は冗談めかして沼津村と言うくらい閉鎖性があった部署に、プリンターなど別分野から人員が移ってくるようになった。防衛事業の2023〜25年度の累計売上高は2020〜22年度の2倍に拡大する見込みで、沼津工場の隣接地に建設中の新棟は2027年度中に稼働し、水中音響製品の生産能力は2024年比の1.5倍になる。オーストラリア政府が採用予定の三菱重工業製もがみ型護衛艦にはOKIの曳航式パッシブソナーが搭載される。戦前に海軍と組んで始めた技術を、OKIは90年を経て成長事業に位置づけ直した。\n\n2026年3月5日の新経営計画骨子説明会で、代表取締役社長執行役員の森孝廣氏は前計画の評価を問われ、やれることはやったが本当の意味での改革は道半ばだと答えた。個別最適の集合体だった経営を会社全体で最適化するオペレーションへ転換し、2019年度の水準程度まで戻した段階であり、到達感は三合目から四合目だという。新経営計画2031が掲げる2031年度目標は売上高6000億円以上・営業利益率7%以上で、森社長はこれを最低ラインと位置づけ、将来的には1兆円規模を見据えたうえでの中間のマイルストーンだと説明した。期待する領域は金融を最重視しつつ、防衛、社会インフラ、ネットワークが続く。創業から145年、国産の電話機を世に出した町工場は、NTT向け交換機に代わる収益の柱をまだ固めきれていない。",
          "references": [],
          "quotes": [
            {
              "speaker": "鎌上信也",
              "role": "2016年当時のOKI 社長",
              "date": "2016-04-08",
              "text": "３月１１日に「新ノード」と呼ばれる基幹系交換機の最後の１台を出荷した。これでＮＴＴへの交換機納入はおしまい。これからは「通信老舗のＯＫＩ」と書かれることはなくなるだろう。\n過去にしがみついていては、企業は成り立たたない。次の成長の種を生み出し続けなければならない。そういうマインドに社風を変えていきたいと思っている。",
              "source": "週刊東洋経済（2016年4月8日号）",
              "paragraph": 1
            },
            {
              "speaker": "鎌上信也",
              "role": "2016年当時のOKI 社長",
              "date": "2016-04-08",
              "text": "成長し続けるためにグローバル展開は不可欠だが、海外でのガバナンスはこれまで足りないところがあった。そこで４月にグループ全体のガバナンスを強化する組織を新設した。単に海外に出ていけばいいわけではない。海外展開とガバナンス強化を車の両輪と位置づけたい。",
              "source": "週刊東洋経済（2016年4月8日号）",
              "paragraph": 1
            },
            {
              "speaker": "森孝廣",
              "role": "2026年当時のOKI 代表取締役社長執行役員兼最高経営責任者",
              "date": "2026-03-05",
              "text": "前計画は「やれることはやった」が、本当の意味での改革は道半ばとの認識である。個別最適の集合体だった経営から、会社全体で最適化するオペレーションに転換し、特にコロナ影響からの需給回復では全社で支える運営が機能した。\n結果として19年度水準程度に戻した段階であり、ここで満足せず次の段階に進む必要がある。到達感は「三合目〜四合目」との表現で、体力がついた今、もう一段上を目指す。",
              "source": "OKI 新経営計画骨子説明会 質疑応答（2026年3月5日）",
              "paragraph": 3
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                "source": "週刊東洋経済（2016年4月8日号）",
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                "genbun": "2016年4月に社長へ就いた鎌上信也氏は、リサイクルATMを開発して中国市場を開拓したエンジニアである。"
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                "fact": "中国のOEM先で215億円の製品代金の不払いが発生し、2015年秋に華南国際経済貿易仲裁委員会に仲裁を申し立てた",
                "source": "週刊東洋経済（2016年4月8日号）",
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                "genbun": "中国のOEM先で215億円の製品代金の不払いが発生し、2015年秋に華南国際経済貿易仲裁委員会へ仲裁を申し立てている。"
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                "fact": "ブラジルには現地大手銀行イタウ・ウニバンコのグループ企業イタウテックを買収して進出したが、進出直後にブラジル経済が急激に悪化した",
                "source": "週刊東洋経済（2016年4月8日号）",
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                "genbun": "ブラジルは現地大手銀行イタウ・ウニバンコのグループ企業イタウテックを買収して進出したが、進出した途端に現地経済が悪化した。"
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              {
                "fact": "2016年4月にグループ全体のガバナンスを強化する組織を新設した",
                "source": "週刊東洋経済（2016年4月8日号）",
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                "genbun": "鎌上信也氏（社長）は2016年4月、グループ全体のガバナンスを強化する組織を新設した。"
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                "fact": "OKI特機システム事業部長の本杉正哉は2025年に「工場の稼働状況はパンパンの状態が続いている」と語った",
                "source": "週刊東洋経済（2025年11月8日号）",
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                "genbun": "特機システム事業部長の本杉正哉氏は2025年、工場の稼働状況はパンパンの状態が続いていると語っている。"
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                "fact": "防衛事業の2023〜25年度の累計売上高は2020〜22年度の2倍に拡大する見込みである",
                "source": "週刊東洋経済（2025年11月8日号）",
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                "genbun": "防衛事業の2023〜25年度の累計売上高は2020〜22年度の2倍に拡大する見込みで、"
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              {
                "fact": "沼津工場の隣接地に建設中の新棟は2027年度中に稼働し水中音響製品の生産能力が2024年比1.5倍になる",
                "source": "週刊東洋経済（2025年11月8日号）",
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                "genbun": "沼津工場の隣接地に建設中の新棟は2027年度中に稼働し、水中音響製品の生産能力は2024年比の1.5倍になる。"
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              {
                "fact": "オーストラリア政府が採用予定の三菱重工業製もがみ型護衛艦にOKIの曳航式パッシブソナーが搭載される",
                "source": "週刊東洋経済（2025年11月8日号）",
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                "genbun": "オーストラリア政府が採用予定の三菱重工業製もがみ型護衛艦にはOKIの曳航式パッシブソナーが搭載される。"
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            [
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    "title": "サマリー",
    "text": "### 創業\n\n1881年、明治政府が電信網を急ごしらえしていた最中に、銀細工師あがりで工部省製機所の職工だった沖牙太郎氏が、東京・京橋区新肴町（現在の銀座）で明工舎を創業した。旋盤3台と職人4人の町工場である。開業2カ月後の内国勧業博覧会に出した炭素式電話機「顕微音機」は、輸入前のエジソン式と同じ原理で音声が明瞭だと評価され、有功二等賞を得て名を広めた。通信機は官需が買い手の全てで、輸入品に対抗できる国産品を出せた者だけが納入業者になれた。牙太郎氏は交換機の国産化に賭け、1896年に国産初の直列複式交換機を浪花町分局へ納めた。",
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