日本セメント の歴史

創業

1883年

創業者

浅野総一郎

創業地

東京府深川清住町(現・東京都江東区清澄)

直近売上高(1984/4)

1,588億円

長期業績と転換点(1976/4〜1984/4)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1883年に官営の深川工作分局が浅野総一郎氏へ貸し下げられたのか
A 日本セメントは、1883年に東京・深川の官営セメント工場の貸下げを受けた浅野総一郎氏の浅野工場を前身とする。払下げを望む者は多く、三井は倉庫として利用するために、三菱は別荘を建てるために、この工場敷地へ目をつけていた。浅野氏は横浜瓦斯局払下げのコークスを深川工場へ納める得意先であり、渋沢栄一氏は当初セメントより紡績を勧めたものの、その熱意に折れて工部卿の山尾庸三氏らに払下げを口添えした。工部省が選んだのは敷地の転用ではなく事業の継続で、1883年4月16日、セメント工場は浅野氏へ貸し下げられた
Q なぜ1924年に業界最大手の浅野セメントが自ら生産を縛るカルテルを主導したのか
A 装置産業のセメントは生産量に関係なく固定費がかかり、作った製品は在庫がきかない。市価が崩れれば、能力を最も多く抱える会社が最も長く安値で売り続けるほかない。1923年の関東大震災で見込まれた復興需要は工事の繰り延べで見込みはずれに終わり、増産計画だけが進んで業界は生産過剰に陥った。浅野セメント取締役の金子喜代太氏は小野田セメント製造社長の笠井真三氏と組み、1924年10月5日に18社のセメント連合会を創設する。能力に比例して生産を割り当てる協定であり、能力の42.5%を占める浅野セメントが絶対量で最も多く削られた
Q なぜ1947年に創業家の名を冠した浅野セメントから日本セメントへ商号を変えたのか
A 創業家との関係が絶たれた以上、その姓を掲げる商号を残す根拠もなくなったためである。1945年12月、GHQの財閥解体の真意が厳しいと察した浅野八郎氏が専務取締役を、浅野良三氏が取締役を退き、1946年4月には浅野総一郎氏が取締役社長を辞任して常務取締役の徳根吉郎氏へ社長の席を譲った。初代浅野総一郎氏以来63年にわたる浅野家との関係は、ここで完全に絶たれる。会社は新社名を社内で募集して日本セメント株式会社に決め、1947年3月27日付で許可を得て、営業期初の5月1日から用いた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1883年〜 官営深川工場の払下げを受けた浅野総一郎氏の匿名組合から合資会社まで

  1. 1883年 工部省深川工作分局セメント工場の浅野総一郎氏への貸下げ
  2. 1884年 官営工場の払下げと匿名組合浅野工場の発足、資本金4万5000円
  3. 1885年 皇居造営用セメント3000樽の納入契約、創業後最初の大口契約
  4. 1891年 横浜築港工事向けセメント3500トンの落札
  5. 1893年 浅野門司分工場の発足による西日本での生産開始
  6. 1903年 わが国最初の回転窯の導入と深川工場での試運転開始
  7. 1912年 浅野セメントの設立、資本金10万円

官営工場の貸下げから匿名組合浅野工場の発足まで

維新政府は殖産興業の方針のもと、1873年秋に隅田川沿いの旧仙台藩屋敷跡へセメント工場を建て、摂綿篤製造所と名づけた[1]。化学技師の宇都宮三郎氏が前年の欧米視察で得た知識に基づいて設備を英仏流の湿式法へ大改修[2]し、1875年5月にわが国最初の近代的なセメントを製造した[3]。原料の石灰石は栃木県の葛生から運び、粘土は工場前の隅田川底のものを使った[4]。ただし価格を舶来品より低く抑えねばならず、営業成績は赤字の年が多かった[5]。1882年末に太政官から所管事業払下げの承認を得た工部省[6]は、翌1883年3月16日、深川工作分局の工場を確実な営業人へ貸与したいという伺書を太政官へ提出[7]した。伺いは同年4月5日に許可[8]された。

    • [1]明治6年秋、維新政府の殖産興業の方針によりセメント工場が大蔵省の手で隅田河畔の仙台屋敷跡に建てられ、摂綿篤製造所と命名された
    • [2]化学技師宇都宮三郎は前年に欧米のセメント工場を視察し、その知識に基づいて工場設備を英・仏流の湿式法に大改修した
    • [3]明治8年5月、深川の官営工場で日本最初の近代的セメントが製造された
    • [4]官営工場は原料の石灰石を栃木県の葛生から運び、石炭は紀州の無煙炭、粘土は工場の前の隅田川底のものを使った
    • [5]官営工場は価格を舶来品より低くしなければならなかったので営業成績は赤字の年が多かった
    • [6]明治15年末に太政官から所管事業適宜払下げの承認を得た工部省は、翌16年から直轄事業を逐次民間に払い下げ、そのトップを切ったのが深川工作分局だった
    • [7]明治16年3月16日、工部省は深川工作分局工場を確実な営業人を選んで貸与したい旨の伺書を太政官に提出した
    • [8]この伺いは明治16年4月5日に許可された

確実な営業人として選ばれたのが浅野総一郎氏[9]である。浅野氏は横浜で薪炭と石炭を商う燃料商[10]で、深川工場へコークスを納めていた縁から、渋沢栄一氏の紹介で工作局長の大鳥圭介氏ら工部省首脳へ払下げをたびたび願い出ていた[11]。工場敷地には倉庫用地として三井が、別荘地として三菱が目をつけていた[12]が、渋沢氏は浅野氏に払い下げれば必ず工場は盛大になると断言して口添え[13]した。1883年4月16日、深川工作分局のセメント工場は浅野氏に貸し下げられ、同日をもって分局は廃止[14]された。構内の耐火煉瓦工場は西村勝三氏が借り受けた[15]。両者とも期限は5年、貸借料は純益金の10分の5[16]という条件だった。西村氏はのちの品川白煉瓦の創設者[17]にあたる。

工場は貸し下げられても所有権は政府に残り、運営は諸般の官規に縛られた[18]。浅野総一郎氏と西村勝三氏は土地を含む工場の一括売却を政府へ要請し、1884年7月に払下げの契約が正式に取り交わされた[19]。払下げ価格は6万1741円62銭4厘、25年の年賦払い[20]という条件である。1885年12月に太政官制度が内閣官制に代わって工部省が廃止[21]されると、納付方法は35年賦へ延長され、年利4分5厘の一時払いも認められた[22]。浅野氏は残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫へ納めて完済[23]した。同じ1884年7月、10年余の官営時代を終えた工場は、浅野氏の出資3万円と渋沢栄一氏の出資1万5000円、合計4万5000円で匿名組合浅野工場として発足[24]した。

    • [18]工場は民間に貸し下げられたものの所有権は依然として政府の手にあり、運営は諸般の官規に縛られて思うように手腕を振るえなかった
    • [19]明治17年7月、正式に払下げの契約が取り交わされ、名実ともに工場は浅野総一郎のものとなった
    • [20]セメント工場払下げの条件は金額6万1741円62銭4厘を25年の年賦で支払うというものだった
    • [21]明治18年12月に太政官制度にかわって内閣官制が創設され、同時に工部省が廃止された
    • [22]払下げ代金の納金方法は従来の25年賦が35年に延長され、年賦制度にかえて年利4分5厘の一時払いの恩典に浴することとなった
    • [23]浅野は払下げ金額の残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫に納入して払下げ金を完済した
    • [24]明治17年7月、完全な民間経営となったセメント工場は浅野総一郎出資3万円、渋沢栄一出資1万5000円、合計4万5000円の資本金で匿名組合浅野工場として発足した
    • [1]明治6年秋、維新政府の殖産興業の方針によりセメント工場が大蔵省の手で隅田河畔の仙台屋敷跡に建てられ、摂綿篤製造所と命名された
    • [2]化学技師宇都宮三郎は前年に欧米のセメント工場を視察し、その知識に基づいて工場設備を英・仏流の湿式法に大改修した
    • [3]明治8年5月、深川の官営工場で日本最初の近代的セメントが製造された
    • [4]官営工場は原料の石灰石を栃木県の葛生から運び、石炭は紀州の無煙炭、粘土は工場の前の隅田川底のものを使った
    • [5]官営工場は価格を舶来品より低くしなければならなかったので営業成績は赤字の年が多かった
    • [10]浅野総一郎は横浜の燃料商で、王子製紙会社へ石炭を納めたのが縁で渋沢栄一の知遇を得ていた
    • [6]明治15年末に太政官から所管事業適宜払下げの承認を得た工部省は、翌16年から直轄事業を逐次民間に払い下げ、そのトップを切ったのが深川工作分局だった
    • [7]明治16年3月16日、工部省は深川工作分局工場を確実な営業人を選んで貸与したい旨の伺書を太政官に提出した
    • [8]この伺いは明治16年4月5日に許可された
    • [9]工部省が確実な営業人として選んだのが浅野総一郎だった
    • [11]浅野はコークスを納入していた関係で深川工作分局に出入りしており、渋沢栄一の紹介で工作局長大鳥圭介をはじめ首脳にセメント工場の払下げをたびたび願い出ていた
    • [14]明治16年4月16日にセメント工場は浅野総一郎に貸し下げられ、この日、深川工作分局は廃止された
    • [15]構内にあった耐火れんが工場(白煉化石製造所)は西村勝三が借り受けた
    • [16]浅野・西村ともに貸下げの期限は5年、貸借料は純益金の10分の5だった
    • [18]工場は民間に貸し下げられたものの所有権は依然として政府の手にあり、運営は諸般の官規に縛られて思うように手腕を振るえなかった
    • [12]払下げを希望する者は多く、三井は倉庫として利用するために、三菱は別荘を建てるためにこの工場敷地に目をつけていた
    • [13]渋沢栄一は浅野に払い下げれば必ずセメント工場は盛大になることを保証すると断言し、その援助もあずかって払下げが決まった
    • [19]明治17年7月、正式に払下げの契約が取り交わされ、名実ともに工場は浅野総一郎のものとなった
    • [17]耐火れんが工場の払下げを受けた西村勝三は品川白煉瓦株式会社の創設者である
    • [20]セメント工場払下げの条件は金額6万1741円62銭4厘を25年の年賦で支払うというものだった
    • [21]明治18年12月に太政官制度にかわって内閣官制が創設され、同時に工部省が廃止された
    • [22]払下げ代金の納金方法は従来の25年賦が35年に延長され、年賦制度にかえて年利4分5厘の一時払いの恩典に浴することとなった
    • [23]浅野は払下げ金額の残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫に納入して払下げ金を完済した
    • [24]明治17年7月、完全な民間経営となったセメント工場は浅野総一郎出資3万円、渋沢栄一出資1万5000円、合計4万5000円の資本金で匿名組合浅野工場として発足した

皇居造営の受注と2度の増設が生んだ生産能力5倍

発足当初の浅野工場は敷地4442坪、建物15棟で総建坪708.25坪[25]、設備はセメント焼窯8基をはじめ官営時代のまま[26]だった。生産能力は月800樽、およそ145トンで、職工は37名[27]である。浅野総一郎氏は総長と呼ばれて販売を担当し、工場は渋沢栄一氏を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎氏が受け持った[28]。浅野氏は横浜寿町から工場構内の旧仙台屋敷の門長屋へ一家をあげて移り住み[29]、毎朝5時に工場の入口で職工を待って一緒に働き、夜は会計監督格の谷敬三氏について簿記を習って自ら帳簿をつけた[30]。勤務時間を定めて厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れた職工の一部は不満を抱き、ストライキを企てる者も出た[31]

    • [25]工場の敷地面積は4442坪、建物は合計15棟で総建坪数708.25坪だった
    • [26]セメント製造設備はセメント焼窯(竪窯)8基、攪擾池1カ所、沈澱池8カ所などで官営時代のままだった
    • [27]発足当初の生産能力は月800樽程度、約145トンで、職工37名が働いていた
    • [28]発足当初、浅野総一郎は総長と呼ばれて販売関係を担当し、渋沢を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎が工場関係を担当した
    • [29]浅野工場発足後まもなく初代社長は横浜寿町から深川の工場内にあった旧仙台屋敷の門長屋に住居を移した
    • [30]総一郎は毎朝5時には工場の入口で職工の来るのを待ち、職工がそろうと自分も一緒になって働き、夜は会計監督格の谷敬三について簿記を習い自分で帳簿をつけた
    • [31]職工に対しては勤務時間を制定して厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れきっていた職工の間には一部に不満が出てストライキを企てる者もいた

浅野総一郎氏は賃金と賞与の一部を積み立てさせ、10年継続すれば積立額と同額を支給する従業員優遇法を独自に定めた[32]。積立金の金利は当時の郵便貯金の6朱を上回る7朱[33]としたため、他の工場や官庁から調査に訪れる者もいた。1883年に月600〜800樽だった生産高[34]は、操業時間の延長と工場能率の改善によって1885年ごろには1500〜2000樽へ増えた。最初の大口契約は皇居造営工事である。1873年5月に炎上した皇居の造営は1884年4月に起工式を迎え[35]、使用するセメントは約1万5000樽と見込まれていた[36]。浅野氏は工場を借り受けるとすぐ、深川工作分局の少技長へ皇居造営用セメント買上げの願書を提出[37]した。

    • [32]従業員優遇法は賃金・賞与の一部を積立てさせ、10年継続すると積立額と同額を支給する制度で、浅野が独自に考えたものだった
    • [33]積立金に対する金利は当時の郵便貯金の金利6朱よりも多い7朱とし、他の工場・官庁などから調査にきたという
    • [34]明治16年に官営を引き継いだ当時の浅野工場の生産高は月600〜800樽程度だったが、操業時間の延長と工場能率の改善により18年ころには1500〜2000樽に増加した
    • [35]明治6年5月5日に皇居が炎上し、造営は17年4月に起工式を行って4年半をかけて21年10月に竣工した
    • [36]皇居造営の大建築工事に使用するセメントは約1万5000樽と予定されていた
    • [37]初代社長はセメント工場を借り受けるとすぐ、工作分局の少技長佐畑信之あてに皇居造営用セメント買上げの願書を提出した

本格的な買上げが始まったのは1885年6月で、同月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで毎月1000樽を納める[38]こととなった。売値は400ポンド入り1樽4円50銭[39]である。皇居造営用に納入した浅野工場品は1885年8月から1887年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭[40]に達した。同じ工事には輸入品7190樽と深川工作分局製品4861樽も使われた[41]。需要は東京湾要塞の築造や各地方鉄道の敷設でさらに増え[42]、浅野工場は1886年に第1次増設へ着工して翌1887年に完成[43]させた。セメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基を加え、生産高は月平均3000樽、約544トンとなって規模は倍増[44]した。

    • [38]明治18年6月に初めて本格的な買上げが開始され、同年6月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで各月1000樽ずつ納入することとなった
    • [40]皇居造営用に納入した浅野工場品は明治18年8月から20年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭だった
    • [41]皇居造営工事には浅野工場品のほか輸入品7190樽、深川工作分局製品4861樽が使用された
    • [42]皇居造営工事をはじめ東京湾要塞の築造、各地方鉄道の敷設などが相次ぎ、セメントの需要はにわかに増加し始めた
    • [43]浅野工場は第1次の増設工事を明治19年に着工し、翌20年に完成した
    • [44]第1次増設の主なものはセメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基で、生産高は月平均3000樽、約544トンとなり浅野工場の規模は倍増した
    • [39]皇居造営用セメントの売り値は400ポンド入り1樽4円50銭で、深川工場渡し4円41銭に現場までの運賃9銭を加えたものだった
    • [25]工場の敷地面積は4442坪、建物は合計15棟で総建坪数708.25坪だった
    • [26]セメント製造設備はセメント焼窯(竪窯)8基、攪擾池1カ所、沈澱池8カ所などで官営時代のままだった
    • [27]発足当初の生産能力は月800樽程度、約145トンで、職工37名が働いていた
    • [28]発足当初、浅野総一郎は総長と呼ばれて販売関係を担当し、渋沢を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎が工場関係を担当した
    • [29]浅野工場発足後まもなく初代社長は横浜寿町から深川の工場内にあった旧仙台屋敷の門長屋に住居を移した
    • [30]総一郎は毎朝5時には工場の入口で職工の来るのを待ち、職工がそろうと自分も一緒になって働き、夜は会計監督格の谷敬三について簿記を習い自分で帳簿をつけた
    • [31]職工に対しては勤務時間を制定して厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れきっていた職工の間には一部に不満が出てストライキを企てる者もいた
    • [34]明治16年に官営を引き継いだ当時の浅野工場の生産高は月600〜800樽程度だったが、操業時間の延長と工場能率の改善により18年ころには1500〜2000樽に増加した
    • [35]明治6年5月5日に皇居が炎上し、造営は17年4月に起工式を行って4年半をかけて21年10月に竣工した
    • [36]皇居造営の大建築工事に使用するセメントは約1万5000樽と予定されていた
    • [37]初代社長はセメント工場を借り受けるとすぐ、工作分局の少技長佐畑信之あてに皇居造営用セメント買上げの願書を提出した
    • [38]明治18年6月に初めて本格的な買上げが開始され、同年6月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで各月1000樽ずつ納入することとなった
    • [40]皇居造営用に納入した浅野工場品は明治18年8月から20年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭だった
    • [41]皇居造営工事には浅野工場品のほか輸入品7190樽、深川工作分局製品4861樽が使用された
    • [42]皇居造営工事をはじめ東京湾要塞の築造、各地方鉄道の敷設などが相次ぎ、セメントの需要はにわかに増加し始めた
    • [43]浅野工場は第1次の増設工事を明治19年に着工し、翌20年に完成した
    • [44]第1次増設の主なものはセメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基で、生産高は月平均3000樽、約544トンとなり浅野工場の規模は倍増した
    • [32]従業員優遇法は賃金・賞与の一部を積立てさせ、10年継続すると積立額と同額を支給する制度で、浅野が独自に考えたものだった
    • [33]積立金に対する金利は当時の郵便貯金の金利6朱よりも多い7朱とし、他の工場・官庁などから調査にきたという
    • [39]皇居造営用セメントの売り値は400ポンド入り1樽4円50銭で、深川工場渡し4円41銭に現場までの運賃9銭を加えたものだった

横浜築港での評価と合資会社への改組、そして最初の回転窯

1886年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、建築技師や職工を実習生としてドイツへ留学[45]させた。浅野総一郎氏はこの機をとらえ、技師の坂内冬蔵氏と職工の浅野喜三郎氏を一行に加えた[46]。坂内氏は1883年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、1886年3月に浅野工場へ技師として入社[47]した人物である。両氏が1888年に相次いで帰国した[48]のち、坂内氏の指導監督による第2次増設が1890年に完了し、生産高は月4000樽以上、職工数は191名となった[49]。西日本への進出も並行した。浅野氏は渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏とともに1888年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立[50]したが、1890年の不況で金融難に陥り工場建設を中止して会社も解散した[51]。計画は1891年に動き直し、大倉氏が門司白木崎で営む日本輸出米商社を買収して精米工場をセメント工場へ改造し、1893年9月に浅野門司分工場が発足[52]した。

    • [45]明治19年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、西洋建築とくに建築材料の技術者を養成するため建築技師と大工・左官などの優秀な職工を実習生としてドイツに留学させた
    • [46]初代社長はこの機をとらえ、浅野工場から技師坂内冬蔵、職工浅野喜三郎を実習生一行に参加させた
    • [47]坂内冬蔵は会津の人で明治16年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、山口県師範学校・山口中学校で教鞭をとったのち19年3月に浅野工場へ技師として入社した
    • [48]坂内冬蔵と浅野喜三郎の2人は明治21年に相次いで帰国した
    • [49]坂内の指導監督による第2次増設工事は明治23年に完了し、浅野工場の生産高は月4000樽以上、職工数は合計191名に増えて規模は借受当時の約5倍となった
    • [50]初代社長は西日本の発展性に着目し、渋沢栄一・大倉喜八郎とともに明治21年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立した
    • [51]明治23年に産業界は4年間の好況から一転して不況となり、門司セメント会社は金融難に陥ってセメント工場の建設を中止し会社も解散を余儀なくされた
    • [52]明治24年に門司白木崎の大倉喜八郎経営になる日本輸出米商社を買収し、25年末から工場建設に取りかかって26年9月に竣工、浅野門司分工場として発足した

次の大口は横浜築港だった。工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源[53]に、1889年9月から4カ年の継続事業として着手[54]された。監督にあたった土木技師パーマー氏は、外国品が為替相場で価格変動を受けやすいこと、国内品の製造技術が進歩して価格も安いことを挙げて国内品の使用を主張[55]した。入札資格は月産400トン以上の業者に限られ[56]、1891年11月の第1回入札で浅野総一郎氏ほか2社が3500トンずつ落札[57]した。工事報告書は浅野氏の供給に遅滞がなく品質も善良で試験成績は頗る好調[58]だったと記した。第2回は指名入札法で浅野氏が落札し、所要6000トンを1893年9月までに完納[59]した。

    • [53]横浜港修築工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源として開始された
    • [54]第1期築港工事は総工費200万円の予算で明治22年9月から4カ年の継続事業として設計者パーマーの監督で着手された
    • [55]監督者パーマーは外国品が為替相場に影響されて価格変動が多いこと、国内品の製造技術が進歩し品質が向上したこと、外国品に比べ国内品は価格が安いことを理由に国内品の使用を主張した
    • [56]入札資格者は月産400トン以上の生産能力を有する業者に限定され、第1回の所要数量1万500トンを3口に分けて入札希望者を募った
    • [57]明治24年11月に入札が行われ、浅野総一郎のほか2社が3500トンずつ落札した
    • [58]当時の工事報告書には浅野総一郎は供給をなす始終遅滞なく、その品質は首尾善良にして試験上頗る好成績を呈せりと記されている
    • [59]第2回の入札はパーマーの進言で指名入札法により行われ、浅野総一郎が落札して所要セメント6000トンは明治26年9月までに完納された

日清戦争後の活況を受けて浅野工場は資本の充実を図った。1897年6月30日現在の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円と20万円に切り捨てて合計50万円と評価[60]し、渋沢栄一氏から20万円、安田善次郎氏から10万円の現金出資を加えて、1898年2月に総資本金80万円の浅野セメント合資会社が発足[61]した。浅野総一郎氏は33万5000円を出資して無限責任を負い、渋沢氏や大川平三郎氏らは有限責任社員[62]となった。技師長の坂内冬蔵氏は1902年3月に社命で渡米して回転窯の実績を確かめ、アリス・チャーマーズ社へ1基を発注[63]した。深川工場が1903年12月に試運転を始めたこの窯がわが国最初の回転窯[64]であり、竪窯と併用した同工場の生産能力は月2万樽へ倍増[65]した。1907年5月には資本金を500万円へ増資し、出資社員は5名から30名[66]になった。

    • [60]明治30年6月30日の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円、20万円に切り捨て、浅野工場の資本金を合計50万円と評価した
    • [61]渋沢栄一から20万円、安田善次郎から10万円の現金出資を加え、明治31年2月に総資本金80万円(払込額57万5000円)の浅野セメント合資会社が発足した
    • [62]会社契約書第10条により渋沢・安田・大川平三郎・尾高幸五郎はいずれも有限責任とし、浅野総一郎は33万5000円の出資で無限責任とされた
    • [63]明治35年3月、坂内は社命でアメリカに渡り回転窯が予想以上に良好な実績をあげているのを知って急きょ帰国し、アリス・チャーマーズ社に1基を発注した
    • [64]浅野セメント合資会社はセメント焼成回転窯をわが国に初めて輸入し、明治36年12月に深川工場で試運転を行った
    • [65]従来の竪窯焼成と並行して回転窯焼成を実施したので深川工場の生産能力は一躍倍増して月2万樽となった
    • [66]明治40年5月の臨時総会で資本金を80万円から500万円に増資することを可決し、合資会社発足以来5名だった出資社員は40年には30名となった
    • [45]明治19年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、西洋建築とくに建築材料の技術者を養成するため建築技師と大工・左官などの優秀な職工を実習生としてドイツに留学させた
    • [46]初代社長はこの機をとらえ、浅野工場から技師坂内冬蔵、職工浅野喜三郎を実習生一行に参加させた
    • [47]坂内冬蔵は会津の人で明治16年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、山口県師範学校・山口中学校で教鞭をとったのち19年3月に浅野工場へ技師として入社した
    • [48]坂内冬蔵と浅野喜三郎の2人は明治21年に相次いで帰国した
    • [49]坂内の指導監督による第2次増設工事は明治23年に完了し、浅野工場の生産高は月4000樽以上、職工数は合計191名に増えて規模は借受当時の約5倍となった
    • [50]初代社長は西日本の発展性に着目し、渋沢栄一・大倉喜八郎とともに明治21年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立した
    • [51]明治23年に産業界は4年間の好況から一転して不況となり、門司セメント会社は金融難に陥ってセメント工場の建設を中止し会社も解散を余儀なくされた
    • [52]明治24年に門司白木崎の大倉喜八郎経営になる日本輸出米商社を買収し、25年末から工場建設に取りかかって26年9月に竣工、浅野門司分工場として発足した
    • [53]横浜港修築工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源として開始された
    • [54]第1期築港工事は総工費200万円の予算で明治22年9月から4カ年の継続事業として設計者パーマーの監督で着手された
    • [55]監督者パーマーは外国品が為替相場に影響されて価格変動が多いこと、国内品の製造技術が進歩し品質が向上したこと、外国品に比べ国内品は価格が安いことを理由に国内品の使用を主張した
    • [56]入札資格者は月産400トン以上の生産能力を有する業者に限定され、第1回の所要数量1万500トンを3口に分けて入札希望者を募った
    • [57]明治24年11月に入札が行われ、浅野総一郎のほか2社が3500トンずつ落札した
    • [58]当時の工事報告書には浅野総一郎は供給をなす始終遅滞なく、その品質は首尾善良にして試験上頗る好成績を呈せりと記されている
    • [59]第2回の入札はパーマーの進言で指名入札法により行われ、浅野総一郎が落札して所要セメント6000トンは明治26年9月までに完納された
    • [60]明治30年6月30日の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円、20万円に切り捨て、浅野工場の資本金を合計50万円と評価した
    • [61]渋沢栄一から20万円、安田善次郎から10万円の現金出資を加え、明治31年2月に総資本金80万円(払込額57万5000円)の浅野セメント合資会社が発足した
    • [62]会社契約書第10条により渋沢・安田・大川平三郎・尾高幸五郎はいずれも有限責任とし、浅野総一郎は33万5000円の出資で無限責任とされた
    • [63]明治35年3月、坂内は社命でアメリカに渡り回転窯が予想以上に良好な実績をあげているのを知って急きょ帰国し、アリス・チャーマーズ社に1基を発注した
    • [64]浅野セメント合資会社はセメント焼成回転窯をわが国に初めて輸入し、明治36年12月に深川工場で試運転を行った
    • [65]従来の竪窯焼成と並行して回転窯焼成を実施したので深川工場の生産能力は一躍倍増して月2万樽となった
    • [66]明治40年5月の臨時総会で資本金を80万円から500万円に増資することを可決し、合資会社発足以来5名だった出資社員は40年には30名となった

1912年〜 株式会社への改組と度重なる合併で全国に工場を広げた浅野財閥のセメント事業

  1. 1912年 浅野セメントの設立、資本金10万円
  2. 1913年 合併完了に伴う資本金500万円への増資と支店制の採用
  3. 1915年 北海道セメントの合併と上磯工場の取得
  4. 1917年 川崎工場の完成と7月の操業開始
  5. 1917年 深川工場でのコットレル式電気集じん装置の稼働と工場撤廃要求の撤回
  6. 1924年 セメント連合会の創設主導と、生産・販売数量および最低価格の協定 自ら生産を縛るか、値崩れに耐えるか——能力の42.5%を握る最大手が主導した業界初の全国カルテル
  7. 1945年 敗戦による朝鮮・台湾・満州など全海外資産の喪失

株式会社への改組と第1次大戦下に進んだ工場増設

日露戦争後の国力増大は官民の事業を勃興させ[67]、浅野セメント合資会社は組織を改めた。1912年10月7日にまず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立[68]され、同月24日[69]には合資会社の資産、債権および債務のすべてを株式会社へ合併する仮契約が結ばれた[70]。合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いてこの仮契約を承認し、商法上の手続きを終えて合資会社の名称が消滅したのは1913年2月[71]である。株式会社は資本金500万円、うち払込額275万円の合資会社を合併し、490万円を増資して資本金500万円となった[72]。同時に深川工場と門司工場は組織上それぞれ東京支店、門司支店と改称されて支店制が敷かれた[73]。技術の最高指導者だった坂内冬蔵氏は1913年5月20日に技師長を辞し、技術顧問となった[74]

    • [67]日露戦争後の国力の増大はにわかに官民事業の勃興を促し、浅野セメント合資会社も時代の流れにそって株式会社に改組した
    • [68]大正元年10月7日、まず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立された
    • [70]大正元年10月24日、合資会社の所有資産・債権および債務のすべてを浅野セメント株式会社に合併する旨の仮契約が締結された
    • [71]合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いて合併の仮契約を承認し、合資会社の名称が消滅したのは大正2年2月だった
    • [72]浅野セメント株式会社は資本金500万円・払込額275万円の合資会社を合併したことにより490万円を増資して資本金500万円となった
    • [73]合併と同時に深川・門司両工場の名称を組織上、東京支店・門司支店と改称し支店制をとった
    • [74]技術の最高指導者として功績のあった坂内技師長は大正2年5月20日に技師長を辞任し、技術顧問として技術関係の重要問題に参画することとなった
    • [69]企業の歴史:明治百年は浅野セメント株式会社の設立を大正元年10月7日と記載している

1914年7月に始まった第1次世界大戦は翌年から景気を好転させ[75]、セメント需要も大きく伸びた。この時期、浅野セメントは同業の救済を通じて工場を増やした。1890年4月に資本金20万円で発足した北海道セメント[76]は、回転窯の運転開始により年産能力40万樽の大工場となった[77]ものの、社債46万円の返還に窮して整理に直面した[78]。小野田セメント製造との合併交渉が同社相談役の井上馨氏の反対で潰れた[79]のち、1915年2月下旬に浅野セメントへ救済を求め、両社は4月24日に合併契約書へ調印して7月25日に合併[80]した。北海道セメントの名称は消え、のちの上磯工場となる北海道支店が発足[81]した。資本金は1915年上期に200万円を増資して700万円、北海道セメント合併で718万円となり[82]、1917年11月にはさらに782万円を増資して1500万円に達した[83]

    • [75]第1次世界大戦は大正3年7月に勃発し、翌4年から景気は好転してセメント需要も大幅な伸びを示した
    • [76]北海道セメント株式会社は明治23年4月、函館区の有力者吉川泰次郎らが発起人となり資本金20万円で発足した
    • [77]回転窯の操業開始により生産高は急激に増加し、北海道セメント社は年産能力40万樽(約7万2600トン)の大工場となった
    • [78]北海道セメント社の資金難の直接の原因は社債46万円の返還に窮したことにあった
    • [79]小野田セメント製造株式会社との合併はほぼ交渉成立の段階まで進んだが、同社創業以来の後援者で相談役の井上馨の反対にあい取りやめとなった
    • [80]大正4年2月下旬に北海道セメント社は浅野セメントへ救済を要請し、4月24日に両社は合併契約書に調印、7月25日に合併した
    • [81]合併により明治23年以来の歴史をもつ北海道セメント社の名称は消滅し、新たに北海道支店として再出発した。これが上磯工場である
    • [82]資本金は大正4年上期に200万円増資して700万円(払込額550万円)に、同年下期は北海道セメント社の合併で718万円(払込額568万円)に増加した
    • [83]大正6年11月に川崎・北海道・門司各工場の増設資金へ充てるため782万円の増資を決定し、資本金は一挙に1500万円(払込額913万5000円)となった

新工場の建設も相次いだ。台湾では基隆と高雄の築港や縦貫鉄道の敷設で需要が伸び[84]、浅野セメントは1913年7月に高雄州寿山の一部190甲について石灰石の払下げ認可を得て、150万円の予算で年産48万樽の工場建設に踏み切った[85]。1915年8月に着工した台湾工場は1917年5月に回転窯の試運転を始め、同年7月に設備を完成[86]させた。神奈川県橘樹郡田島村の10万4052坪に建てた川崎工場[87]も1915年4月に地鎮祭を行い、大戦の影響で機械の到着が遅れて1917年5月にようやく完成し、7月に操業を開始[88]した。回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築と煉瓦積工事は清水組が請け負っている[89]。両工場の回転窯はいずれもわが国初の大型窯[90]だった。

    • [84]日清戦争後に日本の領土となった台湾では基隆・高雄両港の築港、縦貫鉄道の敷設などの建設事業が相次ぎ、セメント需要も年々増加した
    • [85]大正2年7月、台南庁興隆内里打狗山(高雄州寿山)の一部190甲について石灰石の払下げを出願して正式に認可され、年産48万樽の台湾工場建設計画が150万円の予算で具体化した
    • [86]台湾工場は大正4年8月に建設へ着工し、6年5月に回転窯の試運転を開始、同年7月に工場設備の完成をみた
    • [87]川崎工場の敷地は大正2年4月の重役会で神奈川県橘樹郡田島村大字大島新田10万4052坪に変更された
    • [88]川崎工場の建設工事は海岸の地盛工事から始まり大正4年4月に地鎮祭を行ったが、大戦の影響で諸機械の到着が遅れ6年5月にようやく完成し7月に操業を開始した
    • [89]川崎新工場の回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築およびれんが積工事の一切を清水組に請け負わせた
    • [90]大正6年7月に川崎および台湾高雄へわが国初の大型回転窯を持つ新鋭工場を建設した
    • [67]日露戦争後の国力の増大はにわかに官民事業の勃興を促し、浅野セメント合資会社も時代の流れにそって株式会社に改組した
    • [68]大正元年10月7日、まず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立された
    • [70]大正元年10月24日、合資会社の所有資産・債権および債務のすべてを浅野セメント株式会社に合併する旨の仮契約が締結された
    • [71]合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いて合併の仮契約を承認し、合資会社の名称が消滅したのは大正2年2月だった
    • [72]浅野セメント株式会社は資本金500万円・払込額275万円の合資会社を合併したことにより490万円を増資して資本金500万円となった
    • [73]合併と同時に深川・門司両工場の名称を組織上、東京支店・門司支店と改称し支店制をとった
    • [74]技術の最高指導者として功績のあった坂内技師長は大正2年5月20日に技師長を辞任し、技術顧問として技術関係の重要問題に参画することとなった
    • [75]第1次世界大戦は大正3年7月に勃発し、翌4年から景気は好転してセメント需要も大幅な伸びを示した
    • [69]企業の歴史:明治百年は浅野セメント株式会社の設立を大正元年10月7日と記載している
    • [76]北海道セメント株式会社は明治23年4月、函館区の有力者吉川泰次郎らが発起人となり資本金20万円で発足した
    • [77]回転窯の操業開始により生産高は急激に増加し、北海道セメント社は年産能力40万樽(約7万2600トン)の大工場となった
    • [78]北海道セメント社の資金難の直接の原因は社債46万円の返還に窮したことにあった
    • [79]小野田セメント製造株式会社との合併はほぼ交渉成立の段階まで進んだが、同社創業以来の後援者で相談役の井上馨の反対にあい取りやめとなった
    • [80]大正4年2月下旬に北海道セメント社は浅野セメントへ救済を要請し、4月24日に両社は合併契約書に調印、7月25日に合併した
    • [81]合併により明治23年以来の歴史をもつ北海道セメント社の名称は消滅し、新たに北海道支店として再出発した。これが上磯工場である
    • [82]資本金は大正4年上期に200万円増資して700万円(払込額550万円)に、同年下期は北海道セメント社の合併で718万円(払込額568万円)に増加した
    • [83]大正6年11月に川崎・北海道・門司各工場の増設資金へ充てるため782万円の増資を決定し、資本金は一挙に1500万円(払込額913万5000円)となった
    • [84]日清戦争後に日本の領土となった台湾では基隆・高雄両港の築港、縦貫鉄道の敷設などの建設事業が相次ぎ、セメント需要も年々増加した
    • [85]大正2年7月、台南庁興隆内里打狗山(高雄州寿山)の一部190甲について石灰石の払下げを出願して正式に認可され、年産48万樽の台湾工場建設計画が150万円の予算で具体化した
    • [86]台湾工場は大正4年8月に建設へ着工し、6年5月に回転窯の試運転を開始、同年7月に工場設備の完成をみた
    • [87]川崎工場の敷地は大正2年4月の重役会で神奈川県橘樹郡田島村大字大島新田10万4052坪に変更された
    • [88]川崎工場の建設工事は海岸の地盛工事から始まり大正4年4月に地鎮祭を行ったが、大戦の影響で諸機械の到着が遅れ6年5月にようやく完成し7月に操業を開始した
    • [89]川崎新工場の回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築およびれんが積工事の一切を清水組に請け負わせた
    • [90]大正6年7月に川崎および台湾高雄へわが国初の大型回転窯を持つ新鋭工場を建設した

降灰問題の決着と関東大震災後の増資・合併・副業進出

深川工場は創業期から降灰の苦情を受けていた。1903年に回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と窯の増設で生産高が急増[91]すると、外部へ飛散する降灰量も増えた。問題は1907年ごろから表面化して工場付近に深川青年団が組織され、当局への陳情と会社への抗議が続き、1910年から翌年にかけて対立は険悪[92]になった。当局の斡旋もあり、浅野セメントは1911年3月、1916年末までに深川工場を撤廃すると区民側へ約束[93]した。川崎工場はその代替として建てたもの[94]である。ところが1916年3月、アメリカ滞在中の高峰譲吉氏らからコットレル式電気集じん装置の情報が届き[95]、同年7月の重役会は特許権と機械設備一切をアメリカから購入すると決めた[96]。1917年12月23日に回転窯4基の装置が機能を発揮[97]し、翌24日、深川青年団と区民代表は工場撤廃の要求を撤回した[98]

    • [91]明治36年に深川工場でわが国最初の回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と回転窯の増設によって生産高が急増した結果、外部に飛散する降灰量も増加した
    • [92]問題は明治40年ころから漸次表面化し、工場付近には深川青年団が組織されて当局に陳情し会社に抗議するなどして、43、44年ころ対立関係は険悪となった
    • [93]当局の斡旋もあって明治44年3月、当社は大正5年末までに深川工場を撤廃する旨を区民側に約束した
    • [94]川崎工場は深川工場撤廃の代替工場として建設したものである
    • [95]大正5年3月ころ、アメリカに滞在中で初代社長と親交のあった高峰譲吉博士らからブラウンの長石から加里を採取する方法について報告があり、コットレル式集じん装置の存在が判明した
    • [96]深川工場の撤廃期限が目前に迫り急を要したため、大正5年7月の重役会の決議によって特許権・機械設備その他一切を直接アメリカから購入することに決定した
    • [97]大正6年12月18日に試運転を行い、23日には回転窯4基の集じん装置が完全に機能を発揮することが確認された
    • [98]12月24日、初代社長をはじめ会社幹部と深川青年団・同区民代表者が協議し、区民側も集じん装置の効果を認めてついに工場撤廃の要求を撤回した

設備の拡張はその後も続いた。川崎第2工場は1918年10月に着工して1920年9月に完成[99]し、門司工場には長さ200フィートの大回転窯が据えられて1922年秋までに4基が揃い、1923年の同工場の生産高は年産223万9821樽に達した[100]。北海道第2工場は1917年9月に着工して1922年3月に竣工[101]し、1925年の北海道工場の生産高は143万7075樽と北日本最大になった[102]。増設資金を賄うため1920年7月の定時株主総会は1800万円の増資を可決し、1921年6月に資本金は3300万円となった[103]。1923年9月1日の関東大震災では深川工場が火災で全設備を焼失し、機械や製品を含む損失額は186万4942円72銭にのぼった[104]。川崎工場も煙突や原料粗砕室が大破し、両工場で工員6名が死亡[105]した。

    • [99]川崎第2工場は大正7年10月に建設工事へ取りかかり、工事着手後約2年の9年9月に完成して試運転を開始した
    • [100]門司工場は大正9年から11年にかけての増設工事により200ft回転窯が計4基となり、12年実績で年産223万9821樽を記録して200万樽の大台を突破した
    • [101]北海道第2工場は大正6年9月に着工し、建設予算総額498万9000円で11年3月に工事を完成して試運転を開始した
    • [102]大正14年に北海道工場の生産高は143万7075樽(約24万7700トン)となり、北日本最大のセメント工場となった
    • [104]関東大震災で深川工場は地震のあと火災に襲われて工場の全設備を焼失し、機械・建物・原料品・製品などの合計損失額は186万4942円72銭で工員2名が死亡した
    • [105]川崎工場は火災を免れたものの第1工場の煙突2本が破損して原料粗砕室が大破し、第2工場でも大煙突2本の破損に加え変電室・原料粗砕室などが崩壊、工員4名が死亡した
    • [103]川崎・門司・北海道各工場の増設などのため大正9年7月の定時株主総会で1800万円の増資を可決し、10年6月に資本金は3300万円(払込額1950万円)となった

創業40年にあたる1923年10月[106]、浅野セメントは3つの部門を抱え込んだ。浅野スレートを合併してスレート部とし、日本カーリットを合併してカーリット部[107]とし、浅野同族から鉄筋コンクリート部を継承した。スレートは1914年12月に深川でわが国初の製造試運転にこぎつけた事業で、翌年2月に資本金30万円の浅野スレートとして分離[108]していたが、1920年春からの不況で販売数量が半減し採算が悪化していた[109]。カーリットはスウェーデンの化学者オスカー・カールソン氏が発明した火薬[110]で、大戦により原料の輸入が途絶したことから浅野総一郎社長が国産化に乗り出した[111]ものである。資本金は1923年10月に3575万円[112]、1924年6月には第二浅野セメントと大阪木津川セメントの合併で5631万円となった[113]。初代社長は1930年11月9日に死去し、翌12月に長男で副社長の浅野泰治郎氏が2代目社長に就き[114]、1931年1月に総一郎を襲名した。

    • [106]大正12年は当社が官営の深川工作分局セメント工場を借り受け創業してからちょうど40年目にあたる年だった
    • [107]大正12年10月、当社は浅野スレート株式会社を合併してスレート部とし、日本カーリット株式会社を合併してカーリット部に、さらに浅野同族株式会社の鉄筋コンクリート部を継承した
    • [108]大正3年12月にわが国で初めてのスレート製造の試運転を開始し、4年2月に資本金30万円の浅野スレート株式会社として分離・独立した
    • [109]大正9年春から不況となり、9年上期に650万枚だった浅野スレート社の販売数量は12年には半期約400万枚前後となり、価格も低落して採算は極度に悪化した
    • [110]カーリットとはスウェーデンの化学者オスカー・カールソンが発明した火薬である
    • [111]第1次世界大戦勃発後は火薬はもちろん火薬原料の輸入もほとんど途絶したため、初代社長は国内原料を利用した火薬製造に乗り出した
    • [114]昭和5年11月9日に創設者初代社長浅野総一郎が長逝し、同年12月に副社長浅野泰治郎(初代社長の長男)が2代目社長に就任、翌6年1月に総一郎を襲名した
    • [112]資本金は大正12年10月に浅野スレート社・日本カーリット社を合併して3575万円に増加した
    • [113]大正2年に500万円だった資本金は13年6月の第二浅野セメント社・大阪木津川セメント社の合併により5631万円となり、工場数は2から6に増えた
    • [91]明治36年に深川工場でわが国最初の回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と回転窯の増設によって生産高が急増した結果、外部に飛散する降灰量も増加した
    • [92]問題は明治40年ころから漸次表面化し、工場付近には深川青年団が組織されて当局に陳情し会社に抗議するなどして、43、44年ころ対立関係は険悪となった
    • [93]当局の斡旋もあって明治44年3月、当社は大正5年末までに深川工場を撤廃する旨を区民側に約束した
    • [94]川崎工場は深川工場撤廃の代替工場として建設したものである
    • [95]大正5年3月ころ、アメリカに滞在中で初代社長と親交のあった高峰譲吉博士らからブラウンの長石から加里を採取する方法について報告があり、コットレル式集じん装置の存在が判明した
    • [96]深川工場の撤廃期限が目前に迫り急を要したため、大正5年7月の重役会の決議によって特許権・機械設備その他一切を直接アメリカから購入することに決定した
    • [97]大正6年12月18日に試運転を行い、23日には回転窯4基の集じん装置が完全に機能を発揮することが確認された
    • [98]12月24日、初代社長をはじめ会社幹部と深川青年団・同区民代表者が協議し、区民側も集じん装置の効果を認めてついに工場撤廃の要求を撤回した
    • [99]川崎第2工場は大正7年10月に建設工事へ取りかかり、工事着手後約2年の9年9月に完成して試運転を開始した
    • [100]門司工場は大正9年から11年にかけての増設工事により200ft回転窯が計4基となり、12年実績で年産223万9821樽を記録して200万樽の大台を突破した
    • [101]北海道第2工場は大正6年9月に着工し、建設予算総額498万9000円で11年3月に工事を完成して試運転を開始した
    • [102]大正14年に北海道工場の生産高は143万7075樽(約24万7700トン)となり、北日本最大のセメント工場となった
    • [104]関東大震災で深川工場は地震のあと火災に襲われて工場の全設備を焼失し、機械・建物・原料品・製品などの合計損失額は186万4942円72銭で工員2名が死亡した
    • [105]川崎工場は火災を免れたものの第1工場の煙突2本が破損して原料粗砕室が大破し、第2工場でも大煙突2本の破損に加え変電室・原料粗砕室などが崩壊、工員4名が死亡した
    • [103]川崎・門司・北海道各工場の増設などのため大正9年7月の定時株主総会で1800万円の増資を可決し、10年6月に資本金は3300万円(払込額1950万円)となった
    • [112]資本金は大正12年10月に浅野スレート社・日本カーリット社を合併して3575万円に増加した
    • [106]大正12年は当社が官営の深川工作分局セメント工場を借り受け創業してからちょうど40年目にあたる年だった
    • [107]大正12年10月、当社は浅野スレート株式会社を合併してスレート部とし、日本カーリット株式会社を合併してカーリット部に、さらに浅野同族株式会社の鉄筋コンクリート部を継承した
    • [108]大正3年12月にわが国で初めてのスレート製造の試運転を開始し、4年2月に資本金30万円の浅野スレート株式会社として分離・独立した
    • [109]大正9年春から不況となり、9年上期に650万枚だった浅野スレート社の販売数量は12年には半期約400万枚前後となり、価格も低落して採算は極度に悪化した
    • [110]カーリットとはスウェーデンの化学者オスカー・カールソンが発明した火薬である
    • [111]第1次世界大戦勃発後は火薬はもちろん火薬原料の輸入もほとんど途絶したため、初代社長は国内原料を利用した火薬製造に乗り出した
    • [114]昭和5年11月9日に創設者初代社長浅野総一郎が長逝し、同年12月に副社長浅野泰治郎(初代社長の長男)が2代目社長に就任、翌6年1月に総一郎を襲名した
    • [113]大正2年に500万円だった資本金は13年6月の第二浅野セメント社・大阪木津川セメント社の合併により5631万円となり、工場数は2から6に増えた

セメント連合会の生産制限から戦時統制会の企業整備へ

関東大震災後の復興需要は見込みはずれに終わり、各社の増産計画だけが予定どおり進んだ結果、業界は生産過剰と在庫増を抱えた[115]。1924年6月ごろから小野田セメント製造社長の笠井真三氏と浅野セメント取締役の金子喜代太氏がカルテル結成の準備にあたり[116]、同年10月5日にセメント連合会が創設された[117]。加盟は当時のセメント会社をほとんど網羅する18社で、全社の年間生産能力1599万6000樽[118]のうち浅野セメントは679万2000樽と42.5%を占めた[119]。ただし生産制限は設備の拡張自体を縛らず、輸出も制限外だったため、各社の拡張競争とダンピングが続いた[120]。1930年1月の金輸出解禁後、第2次連合会は生産制限率を38%から56%へ高めたが市価は回復せず[121]、1934年12月に発足した第3次連合会の下では朝鮮を舞台に空前の乱売戦が起きた[122]。決着は1936年7月の笠井・金子協定による朝鮮向け出荷協定[123]である。

    • [115]災害の復興事業は思うように進まず期待された大量需要は見込みはずれとなり、各社の増産計画だけが予定どおり進行して生産量が増加し、業界は生産過剰と在庫増を背景にカルテル結成へ向かった
    • [116]大正13年6月ころから小野田セメント製造社社長笠井真三と当社取締役金子喜代太の2人が中心となりカルテル結成準備に取りかかった
    • [117]大正13年10月5日の協議会で各社の意見は完全に一致し、第1次セメント連合会が創設された
    • [118]第1次セメント連合会には当時のセメント会社ほとんどを網羅する18社が加盟し、全社の年間生産能力は1599万6000樽(約275万トン)だった
    • [119]第1次セメント連合会加盟18社のうち当社の年間生産能力は679万2000樽で全体の42.5%を占めていた
    • [120]連合会内部でも生産制限は生産能力によることになっており設備の拡張自体には制限がなかったため各社の間で激しい拡張競争があり、輸出は制限外だったのでアジア市場へのダンピングが続いた
    • [121]昭和5年1月の金輸出解禁により不況は深刻さを増し、第2次セメント連合会は生産制限率を5年初めに38%、8月からは56%に高めたが市価はいっこうに回復しなかった
    • [122]昭和9年12月に生産・販売両面を統制する第3次セメント連合会が発足したが、小野田セメント製造社ら3社は加盟せず、朝鮮でのダンピング合戦から空前の乱売戦が展開された
    • [123]昭和11年7月、小野田セメント製造社社長笠井真三とセメント連合会側代表の当社専務取締役金子喜代太のいわゆる笠井・金子協定によって朝鮮向け出荷協定が成立し、1年半にわたった乱売戦に終止符が打たれた

戦時統制は業界の組織を次々に組み替えた。1937年9月施行の臨時資金調整法でセメント製造業は丙種産業に指定され[124]、石炭、紙袋、鋼材や耐火煉瓦といった補修資材の購入で強い制約を受けた。1940年2月には内地の全セメント製造業者26社が株主となってセメント共販株式会社を設立[125]し、3月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制が始まった[126]。第3次セメント連合会は同年9月に解散して日本セメント工業組合となり[127]、太平洋戦争が始まった1941年12月18日にはセメント統制会が設立された[128]。2代目社長の浅野総一郎氏は社長の職を辞して統制会会長に就任[129]し、1944年2月には会長のまま社長へ復帰した[130]。統制会の指令は公定価格の改訂から企業整備、生産力増強、設備の海外移設[131]まで及んだ。

    • [124]昭和12年9月施行の臨時資金調整法によってセメント産業は丙種産業に指定され、石炭・容器(紙袋)・重要補修資材(鋼材、耐火れんがなど)の購入にはなはだしい制約を受けた
    • [125]昭和15年2月12日、内地の全セメント製造業者26社は自らが株主となってセメント共販株式会社を設立した
    • [126]セメント共販社は昭和15年3月1日に業務を開始し、同月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制を行った
    • [127]セメント製造業者は第3次セメント連合会を解散し、昭和15年9月に工業組合法による日本セメント工業組合を設立した
    • [128]昭和16年12月に日中戦争が太平洋戦争に発展し、商工省の指令によりセメント業者は12月18日にセメント統制会を設立して即日認可を受けた
    • [129]当社の2代目社長浅野総一郎は社長の職を辞してセメント統制会会長に就任した
    • [130]生産責任者は最初専務取締役浅野八郎であったが、昭和19年2月、浅野総一郎はセメント統制会会長のまま再度当社社長に就任し、生産責任者となった
    • [131]セメント統制会の指令は公定価格の改訂、販売機構の整備、企業整備、生産力増強、設備の海外移設など企業活動の全般にわたって空前の規模で行われた

商工省は1941年7月、当時22社あったセメント企業を10社程度へ整理する案を立てた[132]。資本系列を同じくする各社の間では自発的な合併が先行し、浅野セメントは1939年10月1日に八代・佐伯両工場をもつ旧日本セメントを、1940年5月1日に土佐セメントを、1941年3月1日に日東セメントを、1942年3月に東亜セメントを合併[133]した。旧日本セメントの合併では資本金を1000万円増資して1億1631万円とし[134]、九州の工場は門司、香春を含めて4工場、月産11万8500トンとなった[135]。石炭事情の悪化は本拠にも及び、創業以来56年にわたって操業し、1930年に東京工場と改称していた深川工場[136]は、1939年11月に閉鎖された。設備は1940年10月に華北洋灰へ520万円で売却され[137]、川崎工場も1941年3月28日に日本高炉セメントへ譲渡された[138]。1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾[139]した。

    • [132]商工省は昭和16年7月、企業の合同(合併・買収)によって当時の22社を10社程度に整理する案をたてた
    • [133]セメント工業整備実施委員会の審議によらず資本系列を同じくする各社間に自発的な合併が行われ、当社は昭和14年10月に旧日本セメント社(八代・佐伯両工場)、15年5月に土佐セメント社、16年3月に日東セメント社、17年3月に東亜セメント社を合併した
    • [134]旧日本セメント株式会社は昭和14年10月1日に当社へ合併され、当社の資本金は1000万円増資して1億1631万円となった
    • [135]八代(月産2万6580トン)・佐伯(月産3万1550トン)両乾式工場を加え、九州における当社の工場は門司・香春両工場とあわせて4工場・月産11万8500トンとなった
    • [137]東京工場の全設備は昭和15年10月、華北洋灰社琉璃河工場建設のため華北洋灰股份有限公司に520万円で売却された
    • [138]昭和16年3月28日、当社は資産売買契約に基づき川崎工場およびその付属原料採掘場の事業設備一切を日本高炉セメント社に譲渡した
    • [139]昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日に戦争終結の詔書が放送された
    • [136]昭和5年7月、深川工場を東京工場と改称した。昭和13年10月施行の石炭配給統制規則によりセメント工業用石炭は激減し、創業以来56年にわたり操業を続けてきた東京工場は運転不能に陥って14年11月に閉鎖された
    • [115]災害の復興事業は思うように進まず期待された大量需要は見込みはずれとなり、各社の増産計画だけが予定どおり進行して生産量が増加し、業界は生産過剰と在庫増を背景にカルテル結成へ向かった
    • [116]大正13年6月ころから小野田セメント製造社社長笠井真三と当社取締役金子喜代太の2人が中心となりカルテル結成準備に取りかかった
    • [117]大正13年10月5日の協議会で各社の意見は完全に一致し、第1次セメント連合会が創設された
    • [118]第1次セメント連合会には当時のセメント会社ほとんどを網羅する18社が加盟し、全社の年間生産能力は1599万6000樽(約275万トン)だった
    • [119]第1次セメント連合会加盟18社のうち当社の年間生産能力は679万2000樽で全体の42.5%を占めていた
    • [120]連合会内部でも生産制限は生産能力によることになっており設備の拡張自体には制限がなかったため各社の間で激しい拡張競争があり、輸出は制限外だったのでアジア市場へのダンピングが続いた
    • [121]昭和5年1月の金輸出解禁により不況は深刻さを増し、第2次セメント連合会は生産制限率を5年初めに38%、8月からは56%に高めたが市価はいっこうに回復しなかった
    • [122]昭和9年12月に生産・販売両面を統制する第3次セメント連合会が発足したが、小野田セメント製造社ら3社は加盟せず、朝鮮でのダンピング合戦から空前の乱売戦が展開された
    • [123]昭和11年7月、小野田セメント製造社社長笠井真三とセメント連合会側代表の当社専務取締役金子喜代太のいわゆる笠井・金子協定によって朝鮮向け出荷協定が成立し、1年半にわたった乱売戦に終止符が打たれた
    • [124]昭和12年9月施行の臨時資金調整法によってセメント産業は丙種産業に指定され、石炭・容器(紙袋)・重要補修資材(鋼材、耐火れんがなど)の購入にはなはだしい制約を受けた
    • [125]昭和15年2月12日、内地の全セメント製造業者26社は自らが株主となってセメント共販株式会社を設立した
    • [126]セメント共販社は昭和15年3月1日に業務を開始し、同月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制を行った
    • [127]セメント製造業者は第3次セメント連合会を解散し、昭和15年9月に工業組合法による日本セメント工業組合を設立した
    • [128]昭和16年12月に日中戦争が太平洋戦争に発展し、商工省の指令によりセメント業者は12月18日にセメント統制会を設立して即日認可を受けた
    • [129]当社の2代目社長浅野総一郎は社長の職を辞してセメント統制会会長に就任した
    • [130]生産責任者は最初専務取締役浅野八郎であったが、昭和19年2月、浅野総一郎はセメント統制会会長のまま再度当社社長に就任し、生産責任者となった
    • [131]セメント統制会の指令は公定価格の改訂、販売機構の整備、企業整備、生産力増強、設備の海外移設など企業活動の全般にわたって空前の規模で行われた
    • [132]商工省は昭和16年7月、企業の合同(合併・買収)によって当時の22社を10社程度に整理する案をたてた
    • [133]セメント工業整備実施委員会の審議によらず資本系列を同じくする各社間に自発的な合併が行われ、当社は昭和14年10月に旧日本セメント社(八代・佐伯両工場)、15年5月に土佐セメント社、16年3月に日東セメント社、17年3月に東亜セメント社を合併した
    • [134]旧日本セメント株式会社は昭和14年10月1日に当社へ合併され、当社の資本金は1000万円増資して1億1631万円となった
    • [135]八代(月産2万6580トン)・佐伯(月産3万1550トン)両乾式工場を加え、九州における当社の工場は門司・香春両工場とあわせて4工場・月産11万8500トンとなった
    • [137]東京工場の全設備は昭和15年10月、華北洋灰社琉璃河工場建設のため華北洋灰股份有限公司に520万円で売却された
    • [138]昭和16年3月28日、当社は資産売買契約に基づき川崎工場およびその付属原料採掘場の事業設備一切を日本高炉セメント社に譲渡した
    • [139]昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日に戦争終結の詔書が放送された
    • [136]昭和5年7月、深川工場を東京工場と改称した。昭和13年10月施行の石炭配給統制規則によりセメント工業用石炭は激減し、創業以来56年にわたり操業を続けてきた東京工場は運転不能に陥って14年11月に閉鎖された

1945年〜 財閥解体で創業家が去り、業界首位に立つまでの35年

日本セメントの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1945年 敗戦による朝鮮・台湾・満州など全海外資産の喪失
  2. 1946年 浅野一族の浅野セメント役員からの退任
  3. 1946年 浅野総一郎社長の辞任と徳根吉郎常務の社長就任
  4. 1947年 財閥解体による創業家・浅野一族の役員退任と、浅野セメントから日本セメントへの商号変更 創業家の名を残すか、会社を残すか——63年続いた浅野家との関係を絶ち、1947年5月に社名を替えるまで
  5. 1949年 事業所の改廃と人員整理を含む企業合理化方針の提示
  6. 1949年 井上英煕専務の社長就任と会長・社長・常務制への移行
  7. 1970年 セメント生産の大型工場への集約と、小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策 閉じるか、別の製品で立たせるか——1970年3月に労働組合へ示した基本構想と、10年後の答え

財閥解体で浅野家が退き、社名が日本セメントになるまで

1945年8月15日、浅野セメントの本社は海上ビル新館の会議室で玉音放送を聞いた[140]。ただちに緊急常勤重役会が開かれ、新規事業と新規購入を差し控えること、給料と食糧の手当、幹部の東京待機[141]などが当面の経営方針として決まった。9月7日にはGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出て[142]、本社は日本鋼管の大手町分室など3カ所に分散した[143]。敗戦により、朝鮮、台湾、満州、北支、南支、スマトラに点在した海外事業および投資事業の資産は一切失われた[144]。海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名[145]にのぼった。国内工場も戦災と補修不足で荒廃し、石炭統制と補修資材の入手難から生産の再開は進まなかった[146]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第1節 終戦直後の経営
    • [140]1945年8月15日正午に終戦の詔勅が玉音放送で発表され、本社では海上ビル新館の会議室でこの放送を聞いた
    • [141]緊急常勤重役会は新規事業及新規購入ハ差控ヘル事、給料ノ手当ニ関スル件、食糧ノ手当ニ関スル件、幹部ハ東京ニ待機スル事などを当面の経営方針として決定した
    • [142]1945年9月7日にGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出た
    • [143]本社は日本鋼管株式会社大手町分室内、浅野スレート3階、大川田中ビル4階の3カ所に分散移転した
    • [144]海外事業および投資事業は朝鮮、台湾をはじめ満州、北支、南支、スマトラの諸地域に点在しており、敗戦とともにこれら一切の海外資産を喪失した
    • [146]国内工場も戦災や補修不足で荒廃し、石炭統制と各種補修資材の入手難のため生産再開は容易ではなかった
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第2節 海外事業所と権益の喪失
    • [145]海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名であった

財閥解体は浅野財閥にも及んだ。1945年11月24日に公布された制限会社令[147]に続く指定で、浅野本社、浅野セメント、浅野重工業、浅野物産、関東電気工業、日本鋼管、東亜港湾工業の7社が制限会社となった[148]。指定時、浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位[149]にあった。1945年12月には浅野八郎氏が専務取締役を、浅野良三氏が取締役を退き[150]、1946年4月には浅野総一郎氏が取締役社長を辞任して常務取締役の徳根吉郎氏に社長の席を譲った[151]。1947年3月には財閥家族56名の指定が行われ、浅野財閥からは浅野総一郎氏ら4名[152]が該当者となった。創業から63年続いた浅野家との関係[153]は、ここで完全に絶たれた。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
    • [147]1945年11月24日に制限会社令が公布され、資本金500万円以上の会社の譲渡・解散が制限された
    • [148]制限会社一覧表には浅野財閥関係会社として株式会社浅野本社・浅野セメント・浅野重工業・浅野物産・関東電気工業・日本鋼管・東亜港湾の7社が指定されている
    • [149]指定時において浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造社の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位にあった
    • [150]1945年12月に浅野八郎が専務取締役を、浅野良三が取締役を退いた
    • [151]1946年4月に浅野総一郎が取締役社長を辞任し、常務取締役の徳根吉郎に社長の席を譲った
    • [152]1947年3月13日に内閣総理大臣名で三井・岩崎・住友・安田・浅野など10家の財閥家族56名が指定され、浅野財閥からは浅野総一郎・浅野良三・浅野八郎・浅野義夫の4名が指定された
    • [153]初代浅野総一郎以来63年にわたる浅野家との関係が財閥解体によって完全に絶たれた

財閥にちなむ社名を捨てることになり、社内で募集した結果、新社名は日本セメント株式会社と決まった[154]。1947年3月27日付で許可を得て[155]、営業期初の5月1日から改称した。総司令部担当室が日本の国号を公文書でJAPANと表示していることを理由に英文表示をJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他の渉外関係先には当初やむなくこの表記を使った[156]。1948年2月には過度経済力集中排除法の第1次指定企業257社に含まれ[157]、小野田セメント製造、磐城セメント、大阪窯業セメント、宇部興産とともにセメント企業から指定された[158]。しかしアメリカ政府の5人委員会が示した4原則により適用は緩和され[159]、1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受けた[160]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
    • [154]財閥にちなむ社名を捨てて新社名を選定することになり、社内で募集した結果、新社名を日本セメント株式会社に決定した
    • [155]1947年3月27日付で社名変更の許可を得て、営業期初の5月1日を期して改称し、関係先に挨拶状、一般には新聞紙上で公告した
    • [156]総司令部担当室は日本の国号が公文書にJAPANと表示されていることからJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他渉外関係先へはやむなくこの表記を使用した
    • [157]1948年2月8日に持株会社整理委員会が過度経済力集中排除法の第1次指定企業として鉱工業257社を公示した
    • [158]セメント企業からは同社のほか小野田セメント製造・磐城セメント・大阪窯業セメント・宇部興産の各社が指定された
    • [159]1948年5月に来日したアメリカ政府の集中排除審査委員会(5人委員会)が4原則を発表し、集中排除法の適用は著しく緩和された
    • [160]1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受け、同法に基づく指定とすべての指令が取り消された
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第1節 終戦直後の経営
    • [140]1945年8月15日正午に終戦の詔勅が玉音放送で発表され、本社では海上ビル新館の会議室でこの放送を聞いた
    • [141]緊急常勤重役会は新規事業及新規購入ハ差控ヘル事、給料ノ手当ニ関スル件、食糧ノ手当ニ関スル件、幹部ハ東京ニ待機スル事などを当面の経営方針として決定した
    • [142]1945年9月7日にGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出た
    • [143]本社は日本鋼管株式会社大手町分室内、浅野スレート3階、大川田中ビル4階の3カ所に分散移転した
    • [144]海外事業および投資事業は朝鮮、台湾をはじめ満州、北支、南支、スマトラの諸地域に点在しており、敗戦とともにこれら一切の海外資産を喪失した
    • [146]国内工場も戦災や補修不足で荒廃し、石炭統制と各種補修資材の入手難のため生産再開は容易ではなかった
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第2節 海外事業所と権益の喪失
    • [145]海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名であった
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第3節 創業以来の経営者浅野一族の辞任と日本セメントの再建整備計画
    • [147]1945年11月24日に制限会社令が公布され、資本金500万円以上の会社の譲渡・解散が制限された
    • [148]制限会社一覧表には浅野財閥関係会社として株式会社浅野本社・浅野セメント・浅野重工業・浅野物産・関東電気工業・日本鋼管・東亜港湾の7社が指定されている
    • [149]指定時において浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造社の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位にあった
    • [150]1945年12月に浅野八郎が専務取締役を、浅野良三が取締役を退いた
    • [151]1946年4月に浅野総一郎が取締役社長を辞任し、常務取締役の徳根吉郎に社長の席を譲った
    • [152]1947年3月13日に内閣総理大臣名で三井・岩崎・住友・安田・浅野など10家の財閥家族56名が指定され、浅野財閥からは浅野総一郎・浅野良三・浅野八郎・浅野義夫の4名が指定された
    • [153]初代浅野総一郎以来63年にわたる浅野家との関係が財閥解体によって完全に絶たれた
    • [154]財閥にちなむ社名を捨てて新社名を選定することになり、社内で募集した結果、新社名を日本セメント株式会社に決定した
    • [155]1947年3月27日付で社名変更の許可を得て、営業期初の5月1日を期して改称し、関係先に挨拶状、一般には新聞紙上で公告した
    • [156]総司令部担当室は日本の国号が公文書にJAPANと表示されていることからJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他渉外関係先へはやむなくこの表記を使用した
    • [157]1948年2月8日に持株会社整理委員会が過度経済力集中排除法の第1次指定企業として鉱工業257社を公示した
    • [158]セメント企業からは同社のほか小野田セメント製造・磐城セメント・大阪窯業セメント・宇部興産の各社が指定された
    • [159]1948年5月に来日したアメリカ政府の集中排除審査委員会(5人委員会)が4原則を発表し、集中排除法の適用は著しく緩和された
    • [160]1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受け、同法に基づく指定とすべての指令が取り消された

統制撤廃から埼玉工場の完成までの復興10年

労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就いた徳根吉郎氏は井上英煕専務に社長の職を譲った[161]。井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃して会長・社長・常務制に改め[162]、東京機械製作所の閉鎖、尼崎工場の閉鎖、秩父鉱業所の分離独立、ブロック事務所の強化、人員整理[163]を実施した。スレート部は1949年11月に独立採算制となり、1951年5月にアサノスレート[164]として独立した。1949年8月にはセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除され[165]、1950年1月にはセメントの配給と価格の統制が全面撤廃された[166]。セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来、10年ぶりに自由販売価格へ復帰した[167]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
    • [161]労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就任した徳根吉郎は社長の職を井上英煕専務に譲った
    • [162]井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃し会長・社長・常務制に改めて新経営陣を編成した
    • [163]新体制では東京機械製作所閉鎖、尼崎工場閉鎖、秩父鉱業所を独立させ秩父鉱業とすること、職制機構の改正、ブロック事務所の強化、人員整理の実施が行われた
    • [164]スレート部は1949年11月にまず独立採算制となり、1951年5月にアサノスレート株式会社として独立した
    • [165]1949年8月にセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除された
    • [166]政府は1949年12月29日に農林・通産省令第10号を発し、1950年1月以降セメントの統制を全面的に撤廃する旨を公示した
    • [167]セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来10年ぶりに自由販売価格へ復帰した

1950年6月に勃発した朝鮮戦争は特需景気を招き[168]、セメント需要を押し上げた。西多摩工場3号窯は1950年12月に着工して翌年11月に竣工し、月産1万トンの能力増[169]となった。このときアメリカのフラー社から購入したエアクエンチングクーラをわが国で最初に設置し、クリンカの冷却温度を下げると同時に2次空気の温度を上げて石炭を節約した[170]。上磯工場では1952年11月に3号窯が完成し、わが国最初の三点支持全溶接回転窯[171]となって同工場の能力は月産3万3000トンに達した。輸送では1950年6月に門司工場へ積込設備を新設し、近海郵船の豊城丸をセメントタンカーに改造して門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させ[172]、荷受設備として横浜に最初の包装所を設けた[173]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
    • [168]1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、いわゆる特需景気を招来してセメントの需要は激増した
    • [169]1950年12月に西多摩工場3号窯の増設に着工し、翌年11月に竣工して月産1万トンの能力増となった
    • [170]西多摩工場3号窯の増設でわが国最初のエアクエンチングクーラをアメリカのフラー社から購入して新設し、クリンカの冷却温度を著しく引き下げると同時に2次空気の温度を引き上げて石炭を節約した
    • [171]上磯工場は1952年4月に3号窯の増設に着工し同年11月に完成、わが国最初の三点支持全溶接回転窯であり、同工場の能力は月産3万3000トンとなって当社最大の工場となった
    • [172]1950年6月に門司工場へ積込設備を新設すると同時に近海郵船所有の豊城丸をセメントタンカーに改造し、門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させて定期的に海上輸送した
    • [173]荷受設備として2500トンサイロ2基などを備えた当社最初の包装所を横浜に新設した

需要が最も伸びた関東信越地区で、日本セメントが持つ工場は西多摩工場だけ[174]だった。しかも同工場は早強セメントと中庸熱セメントの生産を主体としており、普通セメントの需要には応じ切れなかった[175]。1952年3月に具体的計画の作成へ着手し、糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点を候補とした[176]うえで、武甲と日原の両原料山を背後に控える西武沿線に絞った[177]。1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設すると決めた[178]が、飯能町双柳地区の反対運動が市長不信任決議と議会解散にまで発展したため、1954年5月に協定の白紙還元を通知した[179]。候補地を高麗川村へ移して1955年1月に工場誘致協定を結び[180]、埼玉工場は1955年4月に竣工した[181]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第2節 埼玉工場の建設
    • [174]需要が特に増進した関東信越地区には西多摩工場をもつだけであった
    • [175]西多摩工場は早強セメントならびに中庸熱セメントの生産を主体にしており、普通セメントの需要に対しては到底応じ切れない状態であった
    • [176]1952年3月に具体的計画の作成に着手し、工場建設候補地として糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点が考えられた
    • [177]西武沿線の埼玉県飯能町付近は豊富な埋蔵量をもつ武甲・日原の両原料山を背後に控え主要市場にも近いという好条件をもっていた
    • [178]1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設する旨を決定した
    • [179]双柳地区の一部に猛烈な反対運動が起き、翌1954年には飯能市長不信任決議、議会解散にまで発展し、1954年5月29日に飯能市へ協定の白紙還元を通知した
    • [180]高麗川村に候補地を絞り、1954年6月に正式に話がまとまって1955年1月に工場誘致に関する協定書が締結された
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第7節 当期間の業績
    • [181]1955年4月に埼玉工場を竣工させ、同年下期に同工場の特別償却を行った
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第5章第5節 企業再建への努力
    • [161]労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就任した徳根吉郎は社長の職を井上英煕専務に譲った
    • [162]井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃し会長・社長・常務制に改めて新経営陣を編成した
    • [163]新体制では東京機械製作所閉鎖、尼崎工場閉鎖、秩父鉱業所を独立させ秩父鉱業とすること、職制機構の改正、ブロック事務所の強化、人員整理の実施が行われた
    • [164]スレート部は1949年11月にまず独立採算制となり、1951年5月にアサノスレート株式会社として独立した
    • [165]1949年8月にセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除された
    • [166]政府は1949年12月29日に農林・通産省令第10号を発し、1950年1月以降セメントの統制を全面的に撤廃する旨を公示した
    • [167]セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来10年ぶりに自由販売価格へ復帰した
    • [168]1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、いわゆる特需景気を招来してセメントの需要は激増した
    • [169]1950年12月に西多摩工場3号窯の増設に着工し、翌年11月に竣工して月産1万トンの能力増となった
    • [170]西多摩工場3号窯の増設でわが国最初のエアクエンチングクーラをアメリカのフラー社から購入して新設し、クリンカの冷却温度を著しく引き下げると同時に2次空気の温度を引き上げて石炭を節約した
    • [171]上磯工場は1952年4月に3号窯の増設に着工し同年11月に完成、わが国最初の三点支持全溶接回転窯であり、同工場の能力は月産3万3000トンとなって当社最大の工場となった
    • [172]1950年6月に門司工場へ積込設備を新設すると同時に近海郵船所有の豊城丸をセメントタンカーに改造し、門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させて定期的に海上輸送した
    • [173]荷受設備として2500トンサイロ2基などを備えた当社最初の包装所を横浜に新設した
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第2節 埼玉工場の建設
    • [174]需要が特に増進した関東信越地区には西多摩工場をもつだけであった
    • [175]西多摩工場は早強セメントならびに中庸熱セメントの生産を主体にしており、普通セメントの需要に対しては到底応じ切れない状態であった
    • [176]1952年3月に具体的計画の作成に着手し、工場建設候補地として糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点が考えられた
    • [177]西武沿線の埼玉県飯能町付近は豊富な埋蔵量をもつ武甲・日原の両原料山を背後に控え主要市場にも近いという好条件をもっていた
    • [178]1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設する旨を決定した
    • [179]双柳地区の一部に猛烈な反対運動が起き、翌1954年には飯能市長不信任決議、議会解散にまで発展し、1954年5月29日に飯能市へ協定の白紙還元を通知した
    • [180]高麗川村に候補地を絞り、1954年6月に正式に話がまとまって1955年1月に工場誘致に関する協定書が締結された
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第6章第7節 当期間の業績
    • [181]1955年4月に埼玉工場を竣工させ、同年下期に同工場の特別償却を行った

40年不況が促した集中生産と非セメント部門

1965年の不況で業績は急激に悪化した。過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰で操業率が下がり、原価高に加えて借入金と支払利息の増大が利益を圧迫した[183]。1964年上期から利益は減り続け、1965年上期は辛うじて3億円[184]の利益を出したにとどまった。同年5月、会社は原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出し[185]、集中生産への移行、サスペンション様式の採用推進、原石自採比率の引上げ、重油焼成への転換、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利と減価償却負担の軽減など8項目を重要施策に定めた[186]。人員は補充採用を行わない要員管理で減らし、従業員数は1965年10月の4,534名から1967年10月には4,111名となった[187][182]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
    • [182]1965年の不況により業績は急激に悪化し、その主な要因は過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰にあった
    • [183]操業率の低下は原価高を招き、さらに借入金と支払利息が増大してこれが利益を圧迫する原因となった
    • [184]1964年上期から毎期利益は減少し続け、1965年上期は辛うじて3億円の利益を出したにとどまった
    • [185]1965年5月に危機乗り切りの打開策として原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出した
    • [186]重要施策は集中生産への移行の検討、製造様式の検討、原燃料費の低減、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利・減価償却負担の軽減、研究ならびに開発の重点化の8項目にわたった
    • [187]補充採用は行わず要員管理によって合理化を進め、従業員数は1965年10月20日の4,534名から1967年10月20日に4,111名となった

1966年12月、40年不況を克服した井上英煕社長は会長に退き、武安千春副社長が社長に就いた[188]。井上前社長は1947年7月以来19年にわたって代表専務取締役と社長の座にあり、対外的にも数期にわたってセメント協会会長を務めた[189]。武安社長は量から質への企業体質改善という前社長の基本方針を引き継ぎ[190]、目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品と副業品の開発促進、関係会社管理の強化を実行目標に掲げた[191]。1970年3月には第1次体質強化策を提案し[192]、原価の低廉な大型工場に運転を集約して、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止し他部門に転換するか閉鎖するとした。1969年度の1人当り労働生産性はセメント全社平均2,866トンに対し日本セメントは2,646トン[193]と低かった。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
    • [188]1966年12月に新体制により40年不況を克服した井上社長は会長に退き、武安副社長が社長に就任した
    • [189]井上前社長は1947年7月以来19年の長きにわたって代表専務取締役・社長の座にあり、数期にわたるセメント協会会長として業界取りまとめの大任を果たした
    • [190]新体制は井上前社長の経営基本方針である量から質への企業体質改善の強化促進を引き継いだ
    • [191]武安体制の実行目標は目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品・副業品の開発促進、関係会社管理の強化の5つだった
    • [192]1970年3月に第1次体質強化策を提案し、生産能力が大きく原価の低廉な大型工場に運転を集約し、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止して他部門に転換するかまたは閉鎖する方針を示した
    • [193]1969年度の年間1人当りの労働生産性はセメント協会調べでセメント全社平均2,866トンに対し同社は2,646トンと低かった

非セメント部門の育成も1965年の体質改善方策から始まった。同年7月に埼玉、大阪両工場の遊休設備で石粉の生産を始めてアサノフィラーの商品名で発売し[194]、1966年8月には大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した[195]。1966年10月には西多摩工場でアサノアルミナセメント[196]、1969年11月には1日強度が普通ポルトランドセメントの4倍に達するアサノスーパーベロセメントを発売した[197]。1938年に香春工場の余剰電力を活用する鋳造所として始まった香春製鋼所[198]は鋳鋼品から産業機械へ製品を広げ、1974年12月25日に機械事業部となった[199]。総売上高に対する非セメント部門の売上比率は1965年度の3%から1973年度には21.8%へ上がり[200]、1977年度の生産シェアは日本セメントが12.5%で首位、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%が続いた[201]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第4節 経営多角化への指向
    • [194]1965年7月に埼玉・大阪両工場の遊休設備を利用して石粉の生産を開始し、アサノフィラーの商品名で発売した
    • [195]1966年8月に大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した
    • [196]1966年10月に耐火性・早強性に優れたアルミナセメントを開発し西多摩工場で生産を開始、アサノアルミナセメントの商品名で販売した
    • [197]1969年11月に1日強度で普通ポルトランドセメントの4倍、早強ポルトランドセメントの2倍の強度を発現するアサノスーパーベロセメントの販売を開始した
    • [198]香春製鋼所は1938年1月に香春工場の自家発電による余剰電力を有効活用するため同工場の一部門として鋼塊の製造を開始したのが起源である
    • [199]香春製鋼所は非セメント部門の主柱のひとつに成長し、1974年12月25日に機械事業部の設置をみた
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第1節 高度経済成長の転換期
    • [200]総売上高に対する非セメント部門の売上比は1965年度の3%から1973年度には21.8%となった
    • [201]1977年度のセメント業界の生産シェアは日本セメント12.5%、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%だった
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第2節 企業体質の改善,強化
    • [182]1965年の不況により業績は急激に悪化し、その主な要因は過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰にあった
    • [183]操業率の低下は原価高を招き、さらに借入金と支払利息が増大してこれが利益を圧迫する原因となった
    • [184]1964年上期から毎期利益は減少し続け、1965年上期は辛うじて3億円の利益を出したにとどまった
    • [185]1965年5月に危機乗り切りの打開策として原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出した
    • [186]重要施策は集中生産への移行の検討、製造様式の検討、原燃料費の低減、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利・減価償却負担の軽減、研究ならびに開発の重点化の8項目にわたった
    • [187]補充採用は行わず要員管理によって合理化を進め、従業員数は1965年10月20日の4,534名から1967年10月20日に4,111名となった
    • [188]1966年12月に新体制により40年不況を克服した井上社長は会長に退き、武安副社長が社長に就任した
    • [189]井上前社長は1947年7月以来19年の長きにわたって代表専務取締役・社長の座にあり、数期にわたるセメント協会会長として業界取りまとめの大任を果たした
    • [190]新体制は井上前社長の経営基本方針である量から質への企業体質改善の強化促進を引き継いだ
    • [191]武安体制の実行目標は目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品・副業品の開発促進、関係会社管理の強化の5つだった
    • [192]1970年3月に第1次体質強化策を提案し、生産能力が大きく原価の低廉な大型工場に運転を集約し、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止して他部門に転換するかまたは閉鎖する方針を示した
    • [193]1969年度の年間1人当りの労働生産性はセメント協会調べでセメント全社平均2,866トンに対し同社は2,646トンと低かった
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第7章第4節 経営多角化への指向
    • [194]1965年7月に埼玉・大阪両工場の遊休設備を利用して石粉の生産を開始し、アサノフィラーの商品名で発売した
    • [195]1966年8月に大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した
    • [196]1966年10月に耐火性・早強性に優れたアルミナセメントを開発し西多摩工場で生産を開始、アサノアルミナセメントの商品名で販売した
    • [197]1969年11月に1日強度で普通ポルトランドセメントの4倍、早強ポルトランドセメントの2倍の強度を発現するアサノスーパーベロセメントの販売を開始した
    • [198]香春製鋼所は1938年1月に香春工場の自家発電による余剰電力を有効活用するため同工場の一部門として鋼塊の製造を開始したのが起源である
    • [199]香春製鋼所は非セメント部門の主柱のひとつに成長し、1974年12月25日に機械事業部の設置をみた
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第1節 高度経済成長の転換期
    • [200]総売上高に対する非セメント部門の売上比は1965年度の3%から1973年度には21.8%となった
    • [201]1977年度のセメント業界の生産シェアは日本セメント12.5%、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%だった

1980年〜 工場閉鎖と業界再編をはさんで被合併側にまわるまでの18年

日本セメントの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1983年 創立100周年と中央研究所の新築
  2. 1984年 大日本セメント共同事業の設立
  3. 1992年 木村道夫氏の社長就任
  4. 1993年 北岡徹氏の会長就任
  5. 1997年 秩父小野田との合併の発表
  6. 1998年 秩父小野田との合併による太平洋セメントの発足

工場を閉じ石炭に戻した1980年前後の減量経営

1974年12月25日、原島保氏が第6代社長に選ばれ、武安千春前社長は会長に就いた[202]。第1次石油ショック直後の1974年度は実質経済成長率が戦後初めてマイナスとなり、重油と電力のコスト上昇でセメント産業の採算は悪化した[203]。就任から3か月後、原島社長は「辞めることも自由でなくなった」(日経ビジネス 1975/3/17)[204]と語った。会社は1975年3月から役員報酬と管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた[205]。雇用調整給付金の指定業種となったため一時帰休制度も採り[206]、1975年6月の西多摩工場を皮切りに上磯、埼玉、大阪、八代の各工場へ広げた。1976年1月には50歳以上の従業員を対象とする勇退を労働組合に提案し、同年6月14日に勇退者350名を確認して、管理職を含め約400名[207]が会社を去った。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第2節 石油ショックの克服
    • [202]1974年12月25日の第120回株主総会後の取締役会で原島保が第6代社長に選ばれ、前社長の武安千春は会長に就任した
    • [203]1974年度の実質経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、セメント産業も重油・電力などエネルギーコストの大幅上昇により採算が悪化した
    • [205]緊急対策として1975年3月から役員報酬および管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた
    • [206]セメント産業は1975年1月から雇用保険法の雇用調整給付金の指定業種となり、一時帰休制度を採用して1975年6月の西多摩工場に続き8・9月に上磯、埼玉、西多摩、大阪、八代の5工場で実施した
    • [207]50歳以上の従業員を対象とする勇退が1976年1月12日に労働組合へ提案され、同年6月14日に勇退者350名を確認し管理職を含め約400名が勇退した
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏(日本セメント)登場
    • [204]原島保は日経ビジネス1975年3月17日号に登場し、辞めることも自由でなくなったと述べた

1977年4月14日、会社はチャレンジ400とチャレンジ自立の2つの目標を労働組合に説明[208]した。チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切り下げるもので、1977年上期の予算を基準に本社、支店と上磯、埼玉、土佐、香春、佐伯、糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定した[209]。チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標[210]とした。1年を経ても好転せず、1979年1月の常務会で門司、八代両工場の基本方針を定め、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した[211]。130名近くが他工場や日本イトン工業などへ配転・出向し、約40名が退職[212]して、1980年4月に両工場は閉鎖された。門司工場は1893年、八代工場は1890年に建設された約90年の歴史[213]をもつ工場だった。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
    • [208]1977年4月14日に会社はチャレンジ自立と同時にチャレンジ400運動の趣旨を労働組合に説明した
    • [209]チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切下げるため、1977年上期の予算を基準に本社・支店・上磯・埼玉・土佐・香春・佐伯・糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定したものである
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退
    • [210]チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標とするものであった
    • [211]1979年1月の常務会で門司・八代両工場の今後の基本方針を決定し、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した
    • [212]130名近い従業員が他工場、日本イトン工業の九州工場、飯田工業所へ配転・出向し、約40名が円満に退職して1980年4月に門司・八代両工場の閉鎖問題は全面的に解決した
    • [213]門司工場は西日本進出の拠点として1893年に建設され、八代工場は旧日本セメントが1890年に建設した工場で、両工場は約90年の歴史をもっていた

燃料は重油から石炭へ戻された。2度の石油ショックで熱量当りの重油価格が石炭価格を上回ったため[214]で、1978年10月の佐伯工場5号キルンを最初に、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が石炭混焼を始めた[215]。四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%[216]となり、石炭焼成はほぼ上限に達した。1979年4月には西多摩工場にタイヤの投入設備を新設[217]し、ブリヂストンタイヤと共同開発した使用ずみタイヤの燃料利用を実用化して、同年6月に環境庁から環境賞を受けた。1979年には神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが上磯工場6号キルンで稼働し[218]、1982年9月には香春工場7号キルン系統に最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成した[219]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
    • [214]2度の石油ショックにより熱量当りの重油価格が石炭価格より高くなったため、石炭への転換が必要となった
    • [215]石炭転換は1978年10月の佐伯工場5号キルンから始まり、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が相次いで石炭混焼を開始した
    • [216]四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%となり、石炭焼成はほぼ上限に達した
    • [217]1979年4月に西多摩工場へタイヤ給養設備を新設して使用ずみタイヤの燃料利用を実用化し、ブリヂストンタイヤとの共同開発により1979年6月に環境庁から環境賞を受賞した
    • [218]神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが1979年に上磯工場6号キルンで実用化された
    • [219]1982年9月に香春工場7号キルン系統にキルンとクーラの排ガスを利用した最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成し、同工場の電力費は大幅に低減した
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第2節 石油ショックの克服
    • [202]1974年12月25日の第120回株主総会後の取締役会で原島保が第6代社長に選ばれ、前社長の武安千春は会長に就任した
    • [203]1974年度の実質経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、セメント産業も重油・電力などエネルギーコストの大幅上昇により採算が悪化した
    • [205]緊急対策として1975年3月から役員報酬および管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた
    • [206]セメント産業は1975年1月から雇用保険法の雇用調整給付金の指定業種となり、一時帰休制度を採用して1975年6月の西多摩工場に続き8・9月に上磯、埼玉、西多摩、大阪、八代の5工場で実施した
    • [207]50歳以上の従業員を対象とする勇退が1976年1月12日に労働組合へ提案され、同年6月14日に勇退者350名を確認し管理職を含め約400名が勇退した
  • 日経ビジネス 1975年3月17日号 No.131 p122 原島保氏(日本セメント)登場
    • [204]原島保は日経ビジネス1975年3月17日号に登場し、辞めることも自由でなくなったと述べた
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第4節 経営の徹底的合理化
    • [208]1977年4月14日に会社はチャレンジ自立と同時にチャレンジ400運動の趣旨を労働組合に説明した
    • [209]チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切下げるため、1977年上期の予算を基準に本社・支店・上磯・埼玉・土佐・香春・佐伯・糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定したものである
    • [214]2度の石油ショックにより熱量当りの重油価格が石炭価格より高くなったため、石炭への転換が必要となった
    • [215]石炭転換は1978年10月の佐伯工場5号キルンから始まり、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が相次いで石炭混焼を開始した
    • [216]四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%となり、石炭焼成はほぼ上限に達した
    • [217]1979年4月に西多摩工場へタイヤ給養設備を新設して使用ずみタイヤの燃料利用を実用化し、ブリヂストンタイヤとの共同開発により1979年6月に環境庁から環境賞を受賞した
    • [218]神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが1979年に上磯工場6号キルンで実用化された
    • [219]1982年9月に香春工場7号キルン系統にキルンとクーラの排ガスを利用した最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成し、同工場の電力費は大幅に低減した
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第3節 関連製品部門の自立化への努力と不採算部門からの撤退
    • [210]チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標とするものであった
    • [211]1979年1月の常務会で門司・八代両工場の今後の基本方針を決定し、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した
    • [212]130名近い従業員が他工場、日本イトン工業の九州工場、飯田工業所へ配転・出向し、約40名が円満に退職して1980年4月に門司・八代両工場の閉鎖問題は全面的に解決した
    • [213]門司工場は西日本進出の拠点として1893年に建設され、八代工場は旧日本セメントが1890年に建設した工場で、両工場は約90年の歴史をもっていた

1,884億円の頂点と、大手6社が4社になるまで

1982年7月22日、7年半にわたり社長を務めた原島保氏は会長に退き、北岡徹氏が社長に就いた[220]。会社年鑑1986年版によれば、単体売上高は1981年4月期の1,884億円を頂点に3年続けて減り、1984年4月期は1,589億円まで落ちた[221]。経常利益は1979年4月期の105億円から1984年4月期には9億円[222]まで縮んでいる。1984年4月期の売上構成はセメントが1,265億円で80%を占め、その他は324億円[223]にとどまった。同じ年鑑に載る他社の直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%[224]であり、大手6社はいずれも1981年前後に売上高の頂点を打って以後減収に転じた[225]

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [220]1974年12月以来7年半にわたり社長を務めた原島保は1982年7月22日に会長へ退き、北岡徹が新社長に就任した
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント
    • [221]単体売上高は1981年4月期の1,884億3,000万円をピークに1982年4月期1,764億4,000万円、1983年4月期1,665億5,000万円、1984年4月期1,588億8,000万円と3年続けて減少した
    • [222]経常利益は1979年4月期の105億5,000万円から1984年4月期には9億4,000万円へ縮小した
    • [223]1984年4月期の売上構成はセメント1,265億円が80%、その他324億円が20%だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [224]会社年鑑1986年版の直近期セメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%だった
    • [225]会社年鑑1986年版によれば三菱鉱業セメント2,161億円、小野田セメント2,027億円、日本セメント1,589億円、住友セメント1,425億円、秩父セメント717億円、大阪セメント556億円の6社はいずれも1981年前後に売上高のピークを打ち以後減収となった

需要そのものが減っていた。セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンを頂点に年々低減[226]し、1982年度は7,237万トンとなって3年間で1,060万トンを失った。創立100周年を迎えた1983年の年頭、北岡徹社長は全体の6割強を占める官公需が財政難で厳しい抑制を受けていること、民需も不況と産業構造の変化でかつての力を失っていることを挙げ、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた[227]。そのうえで、セメント部門で業界最優位の価格競争力を確立すること、成長の機会を新規分野に求めて研究開発と非セメント部門を強化すること、管理・間接部門を効率化して販売、研究開発、海外事業へ人員を重点配置することの3つを基本的方向に置いた[228]。1983年2月には中央研究所本館を新築[229]している。

  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [226]セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンをピークとして以後年々低減を続け、1982年度は7,237万トンとなり3年間で1,060万トンの大幅減を記録した
    • [227]北岡社長は1983年の年頭あいさつで、全体の6割強を占める官公需が財政難のため厳しい抑制を受け、民需も不況の影響と産業構造の変化でかつての力を失っているとして、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた
    • [228]北岡社長は価格競争力の確保、研究開発と非セメント部門、社内体制の効率・活性化の3つを基本的方向として示した
    • [229]創立100周年を記念して1983年2月に中央研究所本館を新築し研究施設を充実させた

1990年10月には小野田セメントが米カリフォルニア・ポルトランド・セメントを買収[230]し、米国西海岸へ進出した。1992年7月13日号の日経ビジネスには、同年に社長へ就いた木村道夫氏が登場し、国際化を進展させるとともに自らの意識も変える[231]と述べた。1993年12月13日号では北岡徹会長が、失敗を恐れると画一的発想に陥る[232]と語った。同じころ業界の再編が始まり、1994年10月1日に小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田が、住友セメントと大阪セメントが合併して住友大阪セメントが発足した[233]。秩父小野田の国内シェアは24%で業界首位となり[234]、1981年前後にそろって売上高の頂点を打った大手6社は、この月に4社となった。日本セメントは合併に加わらず、単独のまま業界3位の位置[235]についた。

  • 有価証券報告書(太平洋セメント)沿革 1990年10月
    • [230]1990年10月に小野田セメントが米カリフォルニア・ポルトランド・セメント(現・カルポルトランド)を買収した。太平洋セメント有報の【沿革】は企業集団としての変遷を1本にまとめたもので、この行は1994年10月の秩父小野田発足より前に置かれている=存続会社である小野田セメント側の事象にあたる
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号 No.648 p98 木村道夫氏[日本セメント]登場
    • [231]木村道夫は日経ビジネス1992年7月13日号に登場し、国際化を進展させ自らの意識変革も進めると述べた
  • 日経ビジネス 1993年12月13日号 No.719 p5 北岡徹[日本セメント会長]失敗恐れると画一的発想に陥る
    • [232]北岡徹日本セメント会長は日経ビジネス1993年12月13日号で、失敗を恐れると画一的発想に陥ると語った
  • 週刊東洋経済 1998年6月27日号 p62 平成恐慌年表 経済・金融・企業事件簿
    • [233]1994年10月1日に秩父小野田と住友大阪セメントの合併2社が発足した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p105 創造的革新に挑む
    • [234]秩父小野田の合併後の国内シェアは24%で業界首位となった
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [235]1997年の合併発表時点で秩父小野田は業界1位、日本セメントは3位だった
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [220]1974年12月以来7年半にわたり社長を務めた原島保は1982年7月22日に会長へ退き、北岡徹が新社長に就任した
    • [226]セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンをピークとして以後年々低減を続け、1982年度は7,237万トンとなり3年間で1,060万トンの大幅減を記録した
    • [227]北岡社長は1983年の年頭あいさつで、全体の6割強を占める官公需が財政難のため厳しい抑制を受け、民需も不況の影響と産業構造の変化でかつての力を失っているとして、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた
    • [228]北岡社長は価格競争力の確保、研究開発と非セメント部門、社内体制の効率・活性化の3つを基本的方向として示した
    • [229]創立100周年を記念して1983年2月に中央研究所本館を新築し研究施設を充実させた
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント
    • [221]単体売上高は1981年4月期の1,884億3,000万円をピークに1982年4月期1,764億4,000万円、1983年4月期1,665億5,000万円、1984年4月期1,588億8,000万円と3年続けて減少した
    • [222]経常利益は1979年4月期の105億5,000万円から1984年4月期には9億4,000万円へ縮小した
    • [223]1984年4月期の売上構成はセメント1,265億円が80%、その他324億円が20%だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5236 秩父セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [224]会社年鑑1986年版の直近期セメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%だった
    • [225]会社年鑑1986年版によれば三菱鉱業セメント2,161億円、小野田セメント2,027億円、日本セメント1,589億円、住友セメント1,425億円、秩父セメント717億円、大阪セメント556億円の6社はいずれも1981年前後に売上高のピークを打ち以後減収となった
  • 有価証券報告書(太平洋セメント)沿革 1990年10月
    • [230]1990年10月に小野田セメントが米カリフォルニア・ポルトランド・セメント(現・カルポルトランド)を買収した。太平洋セメント有報の【沿革】は企業集団としての変遷を1本にまとめたもので、この行は1994年10月の秩父小野田発足より前に置かれている=存続会社である小野田セメント側の事象にあたる
  • 日経ビジネス 1992年7月13日号 No.648 p98 木村道夫氏[日本セメント]登場
    • [231]木村道夫は日経ビジネス1992年7月13日号に登場し、国際化を進展させ自らの意識変革も進めると述べた
  • 日経ビジネス 1993年12月13日号 No.719 p5 北岡徹[日本セメント会長]失敗恐れると画一的発想に陥る
    • [232]北岡徹日本セメント会長は日経ビジネス1993年12月13日号で、失敗を恐れると画一的発想に陥ると語った
  • 週刊東洋経済 1998年6月27日号 p62 平成恐慌年表 経済・金融・企業事件簿
    • [233]1994年10月1日に秩父小野田と住友大阪セメントの合併2社が発足した
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p105 創造的革新に挑む
    • [234]秩父小野田の合併後の国内シェアは24%で業界首位となった
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [235]1997年の合併発表時点で秩父小野田は業界1位、日本セメントは3位だった

東南アジア輸出の急減から太平洋セメント発足へ

合併の前提にあったのは、需要と価格の縮小である。セメントの国内需要はバブル期の1990年度に8,600万トンあったが、1996年度は8,200万トン[236]、1997年度は8,000万トン割れも予想された。官公需の比重が6割と高く、1998年度以降は財政改革による公共工事の減少[237]が本格化する見通しだった。市況もトン当り1994年度の9,800円から1996年度は9,200円[238]へ下がった。販売の7割を占める生コンクリート業者は5,000社を超え[239]、買い手であるゼネコンの交渉力が強かった。日本への輸入は1%弱の65万トン、日本からの輸出は1,000万トン[240]で、欧州メーカーはアジア各地で設備を増強し、韓国も競争力をつけていた。

  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [236]セメントの国内需要はバブル期の1990年度に8,600万トンだったが1996年度には8,200万トン、1997年度には8,000万トン割れも予想された
    • [237]官公需のウエイトが6割と高く、1998年度以降は財政改革で公共工事の減少が本格化する見通しだった
    • [238]セメント市況は1994年度のトン当り9,800円から1996年度は9,200円まで下がった
    • [239]販売の7割が生コン業者向けで生コン業者は5,000社を超え、買い手のゼネコンの力が圧倒的に強く買いたたかれやすかった
    • [240]日本への輸入は1%弱の65万トン、日本からの輸出は1,000万トンで、欧州メーカーはアジア各地で設備を増強し韓国も競争力をつけていた

1997年10月2日、秩父小野田と日本セメントは1998年10月1日に合併すると発表[241]した。日経ビジネスは同月13日号で、東南アジアへの輸出急減が引き金になった[242]と伝えた。新会社の国内販売シェアは約4割となり、連結売上高8,600億円[243]はスイスのホルダーバンクの8,800億円に匹敵する規模にあたる。両社で10カ所ある生産拠点の統廃合は行わず[244]、北海道は日本セメントの拠点が秩父小野田の販売分を、関東は小野田の拠点が日本セメントの分を担う物流の再編が計画された。本社の管理部門と営業拠点の人員も減らし[245]、生まれた余力は産業廃棄物や一般ごみからセメントを造る環境事業、ファインセラミックス、エレクトロニクスの強化に回す方針が示された。

  • 週刊東洋経済 1998年6月27日号 p62 平成恐慌年表 経済・金融・企業事件簿
    • [241]1997年10月2日に秩父小野田と日本セメントが1998年10月1日に合併すると発表した
  • 日経ビジネス 1997年10月13日号 No.911 p7 宿敵と手を組んだセメント業界の苦境
    • [242]日経ビジネス1997年10月13日号は、秩父小野田と日本セメントの合併は東南アジアへの輸出急減が引き金になったと報じた
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [243]1998年10月に発足予定の新会社は国内販売シェア約4割、連結売上高8,600億円でスイスのホルダーバンクの8,800億円に匹敵する規模とされた
    • [244]両社で10カ所ある生産拠点の統廃合は考えず、北海道は日セメの生産拠点が秩父小野田の販売分を担当し、関東は小野田の生産拠点が日セメの分を担当する物流の大合理化を狙った
    • [245]本社の管理部門や営業拠点の人員合理化効果を見込み、余力は環境事業(産業廃棄物や一般のゴミでセメントを造る)やファインセラミックス、エレクトロニクスの強化に回す方針だった

日本セメントは芙蓉グループに属し、借入先は富士銀行、安田信託銀行、第一勧業銀行の順で芙蓉グループの比重が圧倒的に高かった[246]。相手方の秩父小野田は三井グループの小野田セメントと第一勧業銀行グループの秩父セメントが1994年に一つになった会社である[247]。それでも合併の交渉に双方のグループ銀行は全く介在せず[248]、週刊東洋経済は、両社のトップ同士のあうんの呼吸による決断[249]で事が進んだと伝えた(週刊東洋経済 1998/11/28)。1998年3月末の両社の有利子負債は合計4,119億円強[250]にのぼった。1998年10月1日、両社は合併して太平洋セメントが発足[251]した。1883年の創立から115年[252]、1947年に日本セメントと改めた商号はこの日に消えた。

  • 週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 [特集]富士銀・芙蓉グループの危機
    • [246]旧日本セメントの借入先は富士、安田信託、一勧の順で芙蓉グループのウエートが圧倒的に高かった
    • [247]秩父小野田は1994年10月に三井グループの小野田セメントと第一勧業銀行グループの秩父セメントが合併した会社である
    • [248]秩父小野田と日セメの合併の際にはそれぞれのグループに属する銀行は全く介在せず、両社のトップ同士のあうんの呼吸による決断で事を進めた
    • [249]太平洋セメントは芙蓉には深入りせず縁切りもない、合併は自らの判断で決断したと説明した
    • [250]1998年3月末現在で両社の有利子負債を合計すると4,119億円強だった
    • [251]1998年10月1日に秩父小野田と日本セメントが合併して太平洋セメントが発足した
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [252]1883年3月10日に創立し1983年3月10日に創立100周年を迎え、1947年5月1日に社名を日本セメント株式会社と改めた
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [236]セメントの国内需要はバブル期の1990年度に8,600万トンだったが1996年度には8,200万トン、1997年度には8,000万トン割れも予想された
    • [237]官公需のウエイトが6割と高く、1998年度以降は財政改革で公共工事の減少が本格化する見通しだった
    • [238]セメント市況は1994年度のトン当り9,800円から1996年度は9,200円まで下がった
    • [239]販売の7割が生コン業者向けで生コン業者は5,000社を超え、買い手のゼネコンの力が圧倒的に強く買いたたかれやすかった
    • [240]日本への輸入は1%弱の65万トン、日本からの輸出は1,000万トンで、欧州メーカーはアジア各地で設備を増強し韓国も競争力をつけていた
    • [243]1998年10月に発足予定の新会社は国内販売シェア約4割、連結売上高8,600億円でスイスのホルダーバンクの8,800億円に匹敵する規模とされた
    • [244]両社で10カ所ある生産拠点の統廃合は考えず、北海道は日セメの生産拠点が秩父小野田の販売分を担当し、関東は小野田の生産拠点が日セメの分を担当する物流の大合理化を狙った
    • [245]本社の管理部門や営業拠点の人員合理化効果を見込み、余力は環境事業(産業廃棄物や一般のゴミでセメントを造る)やファインセラミックス、エレクトロニクスの強化に回す方針だった
  • 週刊東洋経済 1998年6月27日号 p62 平成恐慌年表 経済・金融・企業事件簿
    • [241]1997年10月2日に秩父小野田と日本セメントが1998年10月1日に合併すると発表した
  • 日経ビジネス 1997年10月13日号 No.911 p7 宿敵と手を組んだセメント業界の苦境
    • [242]日経ビジネス1997年10月13日号は、秩父小野田と日本セメントの合併は東南アジアへの輸出急減が引き金になったと報じた
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 [特集]富士銀・芙蓉グループの危機
    • [246]旧日本セメントの借入先は富士、安田信託、一勧の順で芙蓉グループのウエートが圧倒的に高かった
    • [247]秩父小野田は1994年10月に三井グループの小野田セメントと第一勧業銀行グループの秩父セメントが合併した会社である
    • [248]秩父小野田と日セメの合併の際にはそれぞれのグループに属する銀行は全く介在せず、両社のトップ同士のあうんの呼吸による決断で事を進めた
    • [249]太平洋セメントは芙蓉には深入りせず縁切りもない、合併は自らの判断で決断したと説明した
    • [250]1998年3月末現在で両社の有利子負債を合計すると4,119億円強だった
    • [251]1998年10月1日に秩父小野田と日本セメントが合併して太平洋セメントが発足した
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第8章第6節 研究開発体制の強化と経営刷新の気運
    • [252]1883年3月10日に創立し1983年3月10日に創立100周年を迎え、1947年5月1日に社名を日本セメント株式会社と改めた

日本セメントの沿革1883〜1998年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
工部省深川工作分局セメント工場の浅野総一郎氏への貸下げ★★★
官営工場の払下げと匿名組合浅野工場の発足、資本金4万5000円★★
皇居造営用セメント3000樽の納入契約、創業後最初の大口契約★★
第1次増設の完成による月産3000樽への規模倍増
横浜築港工事向けセメント3500トンの落札★★
浅野門司分工場の発足による西日本での生産開始★★
匿名組合から浅野セメント合資会社への改組、総資本金80万円★★
わが国最初の回転窯の導入と深川工場での試運転開始★★★
竪窯の取りこわしによる深川工場の全回転窯化★★
坂内冬蔵技師長による生灰焼成法の特許取得★★
降灰問題による深川区民への深川工場撤廃の約束★★
浅野セメントの設立、資本金10万円★★★
合併完了に伴う資本金500万円への増資と支店制の採用★★
北海道セメントの合併と上磯工場の取得★★★
門司工場へのわが国最大の200フィート回転窯の据付
川崎工場の完成と7月の操業開始★★
台湾工場の完成
深川工場でのコットレル式電気集じん装置の稼働と工場撤廃要求の撤回★★★
川崎第2工場の完成と試運転開始
関東大震災による深川工場の全設備焼失★★
浅野スレートと日本カーリットの合併
大阪木津川セメントの合併と大阪工場の取得★★
セメント連合会の創設主導と、生産・販売数量および最低価格の協定自ら生産を縛るか、値崩れに耐えるか——能力の42.5%を握る最大手が主導した業界初の全国カルテル 詳細を読む★★★
西多摩工場の新設と高級品アサノベロセメントの誕生★★
創業者である浅野総一郎社長の逝去★★
副社長の浅野泰治郎氏の2代目社長就任★★
満州吉林での大同洋灰の共同出資による設立
わが国初の低熱セメントの製造開始★★
香春工場の完成によるアサノベロセメント全国供給網の整備★★
笠井・金子協定による朝鮮向け出荷協定の成立
香春工場での鋼塊製造の開始
旧日本セメントの合併と八代・佐伯両工場の取得★★
石炭事情の悪化による発祥地の東京工場の閉鎖★★
セメント共販の設立と公定価格による配給統制への移行★★
土佐セメントの合併と土佐工場の取得
日本鋼管などとの共同出資による日本高炉セメントの設立
日東セメントの合併と糸崎工場の取得
浅野総一郎社長のセメント統制会会長就任に伴う社長辞任★★
東亜セメントの合併と尼崎工場の取得
軍需省の指令による国営士別工場の完成と委任経営
敗戦による朝鮮・台湾・満州など全海外資産の喪失★★★
浅野一族の浅野セメント役員からの退任★★
浅野総一郎社長の辞任と徳根吉郎常務の社長就任★★★
財閥解体による創業家・浅野一族の役員退任と、浅野セメントから日本セメントへの商号変更創業家の名を残すか、会社を残すか——63年続いた浅野家との関係を絶ち、1947年5月に社名を替えるまで 詳細を読む★★★
事業所の改廃と人員整理を含む企業合理化方針の提示★★
井上英煕専務の社長就任と会長・社長・常務制への移行★★
企業再建整備法による整備計画の認可と新旧勘定の併合★★
セメントの配給・価格統制の全面撤廃と自由販売への復帰★★
門司・横浜間のセメントタンカー輸送と横浜包装所の開設★★
スレート部門のアサノスレートとしての分離独立
西多摩工場3号窯の完成とわが国初のエアクエンチングクーラの設置
アサノコンクリートの設立による生コンクリート事業への参入★★
上磯工場3号窯の完成、わが国初の全溶接回転窯
豪雨による門司工場の被災と従業員・家族29名の死亡★★
埼玉工場の竣工
熊谷工場の竣工
大阪工場での人工軽量骨材アサノライトの生産開始
第一セメントとのセメント受託販売契約の締結★★
超早強のアサノスーパーベロセメントの発売
セメント生産の大型工場への集約と、小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策閉じるか、別の製品で立たせるか——1970年3月に労働組合へ示した基本構想と、10年後の答え 詳細を読む★★★
ロックウールのアサノミネラルファイバーの発売
明星セメントの全株式取得★★
機械事業部の設置と香春製鋼所の産業機械部門への転換
創立100周年と中央研究所の新築★★
大日本セメント共同事業の設立
木村道夫氏の社長就任★★
北岡徹氏の会長就任
秩父小野田との合併の発表★★
秩父小野田との合併による太平洋セメントの発足★★★
出典・参考

免責事項およびポリシー