1883年〜 官営深川工場の払下げを受けた浅野総一郎氏の匿名組合から合資会社まで
- 1883年 工部省深川工作分局セメント工場の浅野総一郎氏への貸下げ
- 1884年 官営工場の払下げと匿名組合浅野工場の発足、資本金4万5000円
- 1885年 皇居造営用セメント3000樽の納入契約、創業後最初の大口契約
- 1891年 横浜築港工事向けセメント3500トンの落札
- 1893年 浅野門司分工場の発足による西日本での生産開始
- 1903年 わが国最初の回転窯の導入と深川工場での試運転開始
- 1912年 浅野セメントの設立、資本金10万円
官営工場の貸下げから匿名組合浅野工場の発足まで
維新政府は殖産興業の方針のもと、1873年秋に隅田川沿いの旧仙台藩屋敷跡へセメント工場を建て、摂綿篤製造所と名づけた[1]。化学技師の宇都宮三郎氏が前年の欧米視察で得た知識に基づいて設備を英仏流の湿式法へ大改修[2]し、1875年5月にわが国最初の近代的なセメントを製造した[3]。原料の石灰石は栃木県の葛生から運び、粘土は工場前の隅田川底のものを使った[4]。ただし価格を舶来品より低く抑えねばならず、営業成績は赤字の年が多かった[5]。1882年末に太政官から所管事業払下げの承認を得た工部省[6]は、翌1883年3月16日、深川工作分局の工場を確実な営業人へ貸与したいという伺書を太政官へ提出[7]した。伺いは同年4月5日に許可[8]された。
- [1]明治6年秋、維新政府の殖産興業の方針によりセメント工場が大蔵省の手で隅田河畔の仙台屋敷跡に建てられ、摂綿篤製造所と命名された
- [2]化学技師宇都宮三郎は前年に欧米のセメント工場を視察し、その知識に基づいて工場設備を英・仏流の湿式法に大改修した
- [3]明治8年5月、深川の官営工場で日本最初の近代的セメントが製造された
- [4]官営工場は原料の石灰石を栃木県の葛生から運び、石炭は紀州の無煙炭、粘土は工場の前の隅田川底のものを使った
- [5]官営工場は価格を舶来品より低くしなければならなかったので営業成績は赤字の年が多かった
- [6]明治15年末に太政官から所管事業適宜払下げの承認を得た工部省は、翌16年から直轄事業を逐次民間に払い下げ、そのトップを切ったのが深川工作分局だった
- [7]明治16年3月16日、工部省は深川工作分局工場を確実な営業人を選んで貸与したい旨の伺書を太政官に提出した
- [8]この伺いは明治16年4月5日に許可された
確実な営業人として選ばれたのが浅野総一郎氏[9]である。浅野氏は横浜で薪炭と石炭を商う燃料商[10]で、深川工場へコークスを納めていた縁から、渋沢栄一氏の紹介で工作局長の大鳥圭介氏ら工部省首脳へ払下げをたびたび願い出ていた[11]。工場敷地には倉庫用地として三井が、別荘地として三菱が目をつけていた[12]が、渋沢氏は浅野氏に払い下げれば必ず工場は盛大になると断言して口添え[13]した。1883年4月16日、深川工作分局のセメント工場は浅野氏に貸し下げられ、同日をもって分局は廃止[14]された。構内の耐火煉瓦工場は西村勝三氏が借り受けた[15]。両者とも期限は5年、貸借料は純益金の10分の5[16]という条件だった。西村氏はのちの品川白煉瓦の創設者[17]にあたる。
- [9]工部省が確実な営業人として選んだのが浅野総一郎だった
- [11]浅野はコークスを納入していた関係で深川工作分局に出入りしており、渋沢栄一の紹介で工作局長大鳥圭介をはじめ首脳にセメント工場の払下げをたびたび願い出ていた
- [14]明治16年4月16日にセメント工場は浅野総一郎に貸し下げられ、この日、深川工作分局は廃止された
- [15]構内にあった耐火れんが工場(白煉化石製造所)は西村勝三が借り受けた
- [16]浅野・西村ともに貸下げの期限は5年、貸借料は純益金の10分の5だった
- [10]浅野総一郎は横浜の燃料商で、王子製紙会社へ石炭を納めたのが縁で渋沢栄一の知遇を得ていた
- [12]払下げを希望する者は多く、三井は倉庫として利用するために、三菱は別荘を建てるためにこの工場敷地に目をつけていた
- [13]渋沢栄一は浅野に払い下げれば必ずセメント工場は盛大になることを保証すると断言し、その援助もあずかって払下げが決まった
- [17]耐火れんが工場の払下げを受けた西村勝三は品川白煉瓦株式会社の創設者である
工場は貸し下げられても所有権は政府に残り、運営は諸般の官規に縛られた[18]。浅野総一郎氏と西村勝三氏は土地を含む工場の一括売却を政府へ要請し、1884年7月に払下げの契約が正式に取り交わされた[19]。払下げ価格は6万1741円62銭4厘、25年の年賦払い[20]という条件である。1885年12月に太政官制度が内閣官制に代わって工部省が廃止[21]されると、納付方法は35年賦へ延長され、年利4分5厘の一時払いも認められた[22]。浅野氏は残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫へ納めて完済[23]した。同じ1884年7月、10年余の官営時代を終えた工場は、浅野氏の出資3万円と渋沢栄一氏の出資1万5000円、合計4万5000円で匿名組合浅野工場として発足[24]した。
- [18]工場は民間に貸し下げられたものの所有権は依然として政府の手にあり、運営は諸般の官規に縛られて思うように手腕を振るえなかった
- [19]明治17年7月、正式に払下げの契約が取り交わされ、名実ともに工場は浅野総一郎のものとなった
- [20]セメント工場払下げの条件は金額6万1741円62銭4厘を25年の年賦で支払うというものだった
- [21]明治18年12月に太政官制度にかわって内閣官制が創設され、同時に工部省が廃止された
- [22]払下げ代金の納金方法は従来の25年賦が35年に延長され、年賦制度にかえて年利4分5厘の一時払いの恩典に浴することとなった
- [23]浅野は払下げ金額の残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫に納入して払下げ金を完済した
- [24]明治17年7月、完全な民間経営となったセメント工場は浅野総一郎出資3万円、渋沢栄一出資1万5000円、合計4万5000円の資本金で匿名組合浅野工場として発足した
- [1]明治6年秋、維新政府の殖産興業の方針によりセメント工場が大蔵省の手で隅田河畔の仙台屋敷跡に建てられ、摂綿篤製造所と命名された
- [2]化学技師宇都宮三郎は前年に欧米のセメント工場を視察し、その知識に基づいて工場設備を英・仏流の湿式法に大改修した
- [3]明治8年5月、深川の官営工場で日本最初の近代的セメントが製造された
- [4]官営工場は原料の石灰石を栃木県の葛生から運び、石炭は紀州の無煙炭、粘土は工場の前の隅田川底のものを使った
- [5]官営工場は価格を舶来品より低くしなければならなかったので営業成績は赤字の年が多かった
- [10]浅野総一郎は横浜の燃料商で、王子製紙会社へ石炭を納めたのが縁で渋沢栄一の知遇を得ていた
- [6]明治15年末に太政官から所管事業適宜払下げの承認を得た工部省は、翌16年から直轄事業を逐次民間に払い下げ、そのトップを切ったのが深川工作分局だった
- [7]明治16年3月16日、工部省は深川工作分局工場を確実な営業人を選んで貸与したい旨の伺書を太政官に提出した
- [8]この伺いは明治16年4月5日に許可された
- [9]工部省が確実な営業人として選んだのが浅野総一郎だった
- [11]浅野はコークスを納入していた関係で深川工作分局に出入りしており、渋沢栄一の紹介で工作局長大鳥圭介をはじめ首脳にセメント工場の払下げをたびたび願い出ていた
- [14]明治16年4月16日にセメント工場は浅野総一郎に貸し下げられ、この日、深川工作分局は廃止された
- [15]構内にあった耐火れんが工場(白煉化石製造所)は西村勝三が借り受けた
- [16]浅野・西村ともに貸下げの期限は5年、貸借料は純益金の10分の5だった
- [18]工場は民間に貸し下げられたものの所有権は依然として政府の手にあり、運営は諸般の官規に縛られて思うように手腕を振るえなかった
- [12]払下げを希望する者は多く、三井は倉庫として利用するために、三菱は別荘を建てるためにこの工場敷地に目をつけていた
- [13]渋沢栄一は浅野に払い下げれば必ずセメント工場は盛大になることを保証すると断言し、その援助もあずかって払下げが決まった
- [19]明治17年7月、正式に払下げの契約が取り交わされ、名実ともに工場は浅野総一郎のものとなった
- [17]耐火れんが工場の払下げを受けた西村勝三は品川白煉瓦株式会社の創設者である
- [20]セメント工場払下げの条件は金額6万1741円62銭4厘を25年の年賦で支払うというものだった
- [21]明治18年12月に太政官制度にかわって内閣官制が創設され、同時に工部省が廃止された
- [22]払下げ代金の納金方法は従来の25年賦が35年に延長され、年賦制度にかえて年利4分5厘の一時払いの恩典に浴することとなった
- [23]浅野は払下げ金額の残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫に納入して払下げ金を完済した
- [24]明治17年7月、完全な民間経営となったセメント工場は浅野総一郎出資3万円、渋沢栄一出資1万5000円、合計4万5000円の資本金で匿名組合浅野工場として発足した
皇居造営の受注と2度の増設が生んだ生産能力5倍
発足当初の浅野工場は敷地4442坪、建物15棟で総建坪708.25坪[25]、設備はセメント焼窯8基をはじめ官営時代のまま[26]だった。生産能力は月800樽、およそ145トンで、職工は37名[27]である。浅野総一郎氏は総長と呼ばれて販売を担当し、工場は渋沢栄一氏を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎氏が受け持った[28]。浅野氏は横浜寿町から工場構内の旧仙台屋敷の門長屋へ一家をあげて移り住み[29]、毎朝5時に工場の入口で職工を待って一緒に働き、夜は会計監督格の谷敬三氏について簿記を習って自ら帳簿をつけた[30]。勤務時間を定めて厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れた職工の一部は不満を抱き、ストライキを企てる者も出た[31]。
- [25]工場の敷地面積は4442坪、建物は合計15棟で総建坪数708.25坪だった
- [26]セメント製造設備はセメント焼窯(竪窯)8基、攪擾池1カ所、沈澱池8カ所などで官営時代のままだった
- [27]発足当初の生産能力は月800樽程度、約145トンで、職工37名が働いていた
- [28]発足当初、浅野総一郎は総長と呼ばれて販売関係を担当し、渋沢を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎が工場関係を担当した
- [29]浅野工場発足後まもなく初代社長は横浜寿町から深川の工場内にあった旧仙台屋敷の門長屋に住居を移した
- [30]総一郎は毎朝5時には工場の入口で職工の来るのを待ち、職工がそろうと自分も一緒になって働き、夜は会計監督格の谷敬三について簿記を習い自分で帳簿をつけた
- [31]職工に対しては勤務時間を制定して厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れきっていた職工の間には一部に不満が出てストライキを企てる者もいた
浅野総一郎氏は賃金と賞与の一部を積み立てさせ、10年継続すれば積立額と同額を支給する従業員優遇法を独自に定めた[32]。積立金の金利は当時の郵便貯金の6朱を上回る7朱[33]としたため、他の工場や官庁から調査に訪れる者もいた。1883年に月600〜800樽だった生産高[34]は、操業時間の延長と工場能率の改善によって1885年ごろには1500〜2000樽へ増えた。最初の大口契約は皇居造営工事である。1873年5月に炎上した皇居の造営は1884年4月に起工式を迎え[35]、使用するセメントは約1万5000樽と見込まれていた[36]。浅野氏は工場を借り受けるとすぐ、深川工作分局の少技長へ皇居造営用セメント買上げの願書を提出[37]した。
- [32]従業員優遇法は賃金・賞与の一部を積立てさせ、10年継続すると積立額と同額を支給する制度で、浅野が独自に考えたものだった
- [33]積立金に対する金利は当時の郵便貯金の金利6朱よりも多い7朱とし、他の工場・官庁などから調査にきたという
- [34]明治16年に官営を引き継いだ当時の浅野工場の生産高は月600〜800樽程度だったが、操業時間の延長と工場能率の改善により18年ころには1500〜2000樽に増加した
- [35]明治6年5月5日に皇居が炎上し、造営は17年4月に起工式を行って4年半をかけて21年10月に竣工した
- [36]皇居造営の大建築工事に使用するセメントは約1万5000樽と予定されていた
- [37]初代社長はセメント工場を借り受けるとすぐ、工作分局の少技長佐畑信之あてに皇居造営用セメント買上げの願書を提出した
本格的な買上げが始まったのは1885年6月で、同月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで毎月1000樽を納める[38]こととなった。売値は400ポンド入り1樽4円50銭[39]である。皇居造営用に納入した浅野工場品は1885年8月から1887年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭[40]に達した。同じ工事には輸入品7190樽と深川工作分局製品4861樽も使われた[41]。需要は東京湾要塞の築造や各地方鉄道の敷設でさらに増え[42]、浅野工場は1886年に第1次増設へ着工して翌1887年に完成[43]させた。セメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基を加え、生産高は月平均3000樽、約544トンとなって規模は倍増[44]した。
- [38]明治18年6月に初めて本格的な買上げが開始され、同年6月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで各月1000樽ずつ納入することとなった
- [40]皇居造営用に納入した浅野工場品は明治18年8月から20年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭だった
- [41]皇居造営工事には浅野工場品のほか輸入品7190樽、深川工作分局製品4861樽が使用された
- [42]皇居造営工事をはじめ東京湾要塞の築造、各地方鉄道の敷設などが相次ぎ、セメントの需要はにわかに増加し始めた
- [43]浅野工場は第1次の増設工事を明治19年に着工し、翌20年に完成した
- [44]第1次増設の主なものはセメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基で、生産高は月平均3000樽、約544トンとなり浅野工場の規模は倍増した
- [39]皇居造営用セメントの売り値は400ポンド入り1樽4円50銭で、深川工場渡し4円41銭に現場までの運賃9銭を加えたものだった
- [25]工場の敷地面積は4442坪、建物は合計15棟で総建坪数708.25坪だった
- [26]セメント製造設備はセメント焼窯(竪窯)8基、攪擾池1カ所、沈澱池8カ所などで官営時代のままだった
- [27]発足当初の生産能力は月800樽程度、約145トンで、職工37名が働いていた
- [28]発足当初、浅野総一郎は総長と呼ばれて販売関係を担当し、渋沢を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎が工場関係を担当した
- [29]浅野工場発足後まもなく初代社長は横浜寿町から深川の工場内にあった旧仙台屋敷の門長屋に住居を移した
- [30]総一郎は毎朝5時には工場の入口で職工の来るのを待ち、職工がそろうと自分も一緒になって働き、夜は会計監督格の谷敬三について簿記を習い自分で帳簿をつけた
- [31]職工に対しては勤務時間を制定して厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れきっていた職工の間には一部に不満が出てストライキを企てる者もいた
- [34]明治16年に官営を引き継いだ当時の浅野工場の生産高は月600〜800樽程度だったが、操業時間の延長と工場能率の改善により18年ころには1500〜2000樽に増加した
- [35]明治6年5月5日に皇居が炎上し、造営は17年4月に起工式を行って4年半をかけて21年10月に竣工した
- [36]皇居造営の大建築工事に使用するセメントは約1万5000樽と予定されていた
- [37]初代社長はセメント工場を借り受けるとすぐ、工作分局の少技長佐畑信之あてに皇居造営用セメント買上げの願書を提出した
- [38]明治18年6月に初めて本格的な買上げが開始され、同年6月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで各月1000樽ずつ納入することとなった
- [40]皇居造営用に納入した浅野工場品は明治18年8月から20年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭だった
- [41]皇居造営工事には浅野工場品のほか輸入品7190樽、深川工作分局製品4861樽が使用された
- [42]皇居造営工事をはじめ東京湾要塞の築造、各地方鉄道の敷設などが相次ぎ、セメントの需要はにわかに増加し始めた
- [43]浅野工場は第1次の増設工事を明治19年に着工し、翌20年に完成した
- [44]第1次増設の主なものはセメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基で、生産高は月平均3000樽、約544トンとなり浅野工場の規模は倍増した
- [32]従業員優遇法は賃金・賞与の一部を積立てさせ、10年継続すると積立額と同額を支給する制度で、浅野が独自に考えたものだった
- [33]積立金に対する金利は当時の郵便貯金の金利6朱よりも多い7朱とし、他の工場・官庁などから調査にきたという
- [39]皇居造営用セメントの売り値は400ポンド入り1樽4円50銭で、深川工場渡し4円41銭に現場までの運賃9銭を加えたものだった
横浜築港での評価と合資会社への改組、そして最初の回転窯
1886年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、建築技師や職工を実習生としてドイツへ留学[45]させた。浅野総一郎氏はこの機をとらえ、技師の坂内冬蔵氏と職工の浅野喜三郎氏を一行に加えた[46]。坂内氏は1883年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、1886年3月に浅野工場へ技師として入社[47]した人物である。両氏が1888年に相次いで帰国した[48]のち、坂内氏の指導監督による第2次増設が1890年に完了し、生産高は月4000樽以上、職工数は191名となった[49]。西日本への進出も並行した。浅野氏は渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏とともに1888年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立[50]したが、1890年の不況で金融難に陥り工場建設を中止して会社も解散した[51]。計画は1891年に動き直し、大倉氏が門司白木崎で営む日本輸出米商社を買収して精米工場をセメント工場へ改造し、1893年9月に浅野門司分工場が発足[52]した。
- [45]明治19年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、西洋建築とくに建築材料の技術者を養成するため建築技師と大工・左官などの優秀な職工を実習生としてドイツに留学させた
- [46]初代社長はこの機をとらえ、浅野工場から技師坂内冬蔵、職工浅野喜三郎を実習生一行に参加させた
- [47]坂内冬蔵は会津の人で明治16年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、山口県師範学校・山口中学校で教鞭をとったのち19年3月に浅野工場へ技師として入社した
- [48]坂内冬蔵と浅野喜三郎の2人は明治21年に相次いで帰国した
- [49]坂内の指導監督による第2次増設工事は明治23年に完了し、浅野工場の生産高は月4000樽以上、職工数は合計191名に増えて規模は借受当時の約5倍となった
- [50]初代社長は西日本の発展性に着目し、渋沢栄一・大倉喜八郎とともに明治21年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立した
- [51]明治23年に産業界は4年間の好況から一転して不況となり、門司セメント会社は金融難に陥ってセメント工場の建設を中止し会社も解散を余儀なくされた
- [52]明治24年に門司白木崎の大倉喜八郎経営になる日本輸出米商社を買収し、25年末から工場建設に取りかかって26年9月に竣工、浅野門司分工場として発足した
次の大口は横浜築港だった。工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源[53]に、1889年9月から4カ年の継続事業として着手[54]された。監督にあたった土木技師パーマー氏は、外国品が為替相場で価格変動を受けやすいこと、国内品の製造技術が進歩して価格も安いことを挙げて国内品の使用を主張[55]した。入札資格は月産400トン以上の業者に限られ[56]、1891年11月の第1回入札で浅野総一郎氏ほか2社が3500トンずつ落札[57]した。工事報告書は浅野氏の供給に遅滞がなく品質も善良で試験成績は頗る好調[58]だったと記した。第2回は指名入札法で浅野氏が落札し、所要6000トンを1893年9月までに完納[59]した。
- [53]横浜港修築工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源として開始された
- [54]第1期築港工事は総工費200万円の予算で明治22年9月から4カ年の継続事業として設計者パーマーの監督で着手された
- [55]監督者パーマーは外国品が為替相場に影響されて価格変動が多いこと、国内品の製造技術が進歩し品質が向上したこと、外国品に比べ国内品は価格が安いことを理由に国内品の使用を主張した
- [56]入札資格者は月産400トン以上の生産能力を有する業者に限定され、第1回の所要数量1万500トンを3口に分けて入札希望者を募った
- [57]明治24年11月に入札が行われ、浅野総一郎のほか2社が3500トンずつ落札した
- [58]当時の工事報告書には浅野総一郎は供給をなす始終遅滞なく、その品質は首尾善良にして試験上頗る好成績を呈せりと記されている
- [59]第2回の入札はパーマーの進言で指名入札法により行われ、浅野総一郎が落札して所要セメント6000トンは明治26年9月までに完納された
日清戦争後の活況を受けて浅野工場は資本の充実を図った。1897年6月30日現在の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円と20万円に切り捨てて合計50万円と評価[60]し、渋沢栄一氏から20万円、安田善次郎氏から10万円の現金出資を加えて、1898年2月に総資本金80万円の浅野セメント合資会社が発足[61]した。浅野総一郎氏は33万5000円を出資して無限責任を負い、渋沢氏や大川平三郎氏らは有限責任社員[62]となった。技師長の坂内冬蔵氏は1902年3月に社命で渡米して回転窯の実績を確かめ、アリス・チャーマーズ社へ1基を発注[63]した。深川工場が1903年12月に試運転を始めたこの窯がわが国最初の回転窯[64]であり、竪窯と併用した同工場の生産能力は月2万樽へ倍増[65]した。1907年5月には資本金を500万円へ増資し、出資社員は5名から30名[66]になった。
- [60]明治30年6月30日の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円、20万円に切り捨て、浅野工場の資本金を合計50万円と評価した
- [61]渋沢栄一から20万円、安田善次郎から10万円の現金出資を加え、明治31年2月に総資本金80万円(払込額57万5000円)の浅野セメント合資会社が発足した
- [62]会社契約書第10条により渋沢・安田・大川平三郎・尾高幸五郎はいずれも有限責任とし、浅野総一郎は33万5000円の出資で無限責任とされた
- [63]明治35年3月、坂内は社命でアメリカに渡り回転窯が予想以上に良好な実績をあげているのを知って急きょ帰国し、アリス・チャーマーズ社に1基を発注した
- [64]浅野セメント合資会社はセメント焼成回転窯をわが国に初めて輸入し、明治36年12月に深川工場で試運転を行った
- [65]従来の竪窯焼成と並行して回転窯焼成を実施したので深川工場の生産能力は一躍倍増して月2万樽となった
- [66]明治40年5月の臨時総会で資本金を80万円から500万円に増資することを可決し、合資会社発足以来5名だった出資社員は40年には30名となった
- [45]明治19年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、西洋建築とくに建築材料の技術者を養成するため建築技師と大工・左官などの優秀な職工を実習生としてドイツに留学させた
- [46]初代社長はこの機をとらえ、浅野工場から技師坂内冬蔵、職工浅野喜三郎を実習生一行に参加させた
- [47]坂内冬蔵は会津の人で明治16年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、山口県師範学校・山口中学校で教鞭をとったのち19年3月に浅野工場へ技師として入社した
- [48]坂内冬蔵と浅野喜三郎の2人は明治21年に相次いで帰国した
- [49]坂内の指導監督による第2次増設工事は明治23年に完了し、浅野工場の生産高は月4000樽以上、職工数は合計191名に増えて規模は借受当時の約5倍となった
- [50]初代社長は西日本の発展性に着目し、渋沢栄一・大倉喜八郎とともに明治21年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立した
- [51]明治23年に産業界は4年間の好況から一転して不況となり、門司セメント会社は金融難に陥ってセメント工場の建設を中止し会社も解散を余儀なくされた
- [52]明治24年に門司白木崎の大倉喜八郎経営になる日本輸出米商社を買収し、25年末から工場建設に取りかかって26年9月に竣工、浅野門司分工場として発足した
- [53]横浜港修築工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源として開始された
- [54]第1期築港工事は総工費200万円の予算で明治22年9月から4カ年の継続事業として設計者パーマーの監督で着手された
- [55]監督者パーマーは外国品が為替相場に影響されて価格変動が多いこと、国内品の製造技術が進歩し品質が向上したこと、外国品に比べ国内品は価格が安いことを理由に国内品の使用を主張した
- [56]入札資格者は月産400トン以上の生産能力を有する業者に限定され、第1回の所要数量1万500トンを3口に分けて入札希望者を募った
- [57]明治24年11月に入札が行われ、浅野総一郎のほか2社が3500トンずつ落札した
- [58]当時の工事報告書には浅野総一郎は供給をなす始終遅滞なく、その品質は首尾善良にして試験上頗る好成績を呈せりと記されている
- [59]第2回の入札はパーマーの進言で指名入札法により行われ、浅野総一郎が落札して所要セメント6000トンは明治26年9月までに完納された
- [60]明治30年6月30日の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円、20万円に切り捨て、浅野工場の資本金を合計50万円と評価した
- [61]渋沢栄一から20万円、安田善次郎から10万円の現金出資を加え、明治31年2月に総資本金80万円(払込額57万5000円)の浅野セメント合資会社が発足した
- [62]会社契約書第10条により渋沢・安田・大川平三郎・尾高幸五郎はいずれも有限責任とし、浅野総一郎は33万5000円の出資で無限責任とされた
- [63]明治35年3月、坂内は社命でアメリカに渡り回転窯が予想以上に良好な実績をあげているのを知って急きょ帰国し、アリス・チャーマーズ社に1基を発注した
- [64]浅野セメント合資会社はセメント焼成回転窯をわが国に初めて輸入し、明治36年12月に深川工場で試運転を行った
- [65]従来の竪窯焼成と並行して回転窯焼成を実施したので深川工場の生産能力は一躍倍増して月2万樽となった
- [66]明治40年5月の臨時総会で資本金を80万円から500万円に増資することを可決し、合資会社発足以来5名だった出資社員は40年には30名となった