1907年〜 八茎鉱山の残石から起こした後発6社目の船出と、三菱商事に委ねた販売
- 1907年 磐城セメントを資本金100万円で設立、本店は横浜市太田町
- 1910年 資本金85万円への減資と、減資差益金による累積損失の一掃
- 1911年 1911年度上期に利益4万518円を計上、年8%の初配当
- 1920年 塩釜セメントの合併と、増資による資本金300万円への拡大
- 1926年 セメント連合会への脱退通告
- 1926年 セメント連合会への復帰
- 1928年 三菱商事との製品一手委託販売契約の締結
日露戦争後の企業熱と、八茎鉱山に積まれた石灰石
磐城セメントの起業は、1906年に横浜で立案[1]された計画に始まる。福島県石城郡大野村の八茎鉱山は和銅年間の発見とも伝えられる古い銅山で、1906年7月からオット・ライメールス商会[2]と鉱山業者の西村準三郎氏の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営に移った。鉱区一帯が石灰石山だったため、銅を掘れば大量の石灰石がずり石として出た[3]。この石灰石を使うセメント事業に着目したのが、同商会幹部で八茎鉱山の社長を務めた横浜の事業家広瀬金七氏と、東京の事業家岩崎清七氏[4]である。両氏はドイツ塩や外米の輸入を通じて懇意[5]な間柄にあった。八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もないこと、1906年4月のサンフランシスコ地震[6]の影響でセメント輸出が盛んなこと。この三つを両氏は事業の根拠に挙げた[7]。
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [1]磐城セメントの起業計画は設立前年の1906年に横浜で立案された
- [2]八茎鉱山は1906年7月にオット・ライメールス商会と西村準三郎の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営となった
- [3]八茎鉱山の鉱区一帯は石灰石山で、銅の採掘と同時にずり石として大量の石灰石が出た
- [4]セメント事業に着目したのは八茎鉱山社長の広瀬金七と東京の事業家岩崎清七で、有価証券報告書も1906年に両名らが設立を企図したと記す
- [5]広瀬金七と岩崎清七はドイツ塩や外米の輸入を通じてかなり懇意な間柄だった
- [6]1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んだったことが起業判断の根拠のひとつになった
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [7]社史は八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もなかったこと、サンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んであったことの三点を挙げ、広瀬・岩崎の両名が事業の将来性と有利性に確信をもったと記す
セメント事業を決めた両氏は、交友と取引のあった京浜地区の事業家に呼びかけて発起人を募った[8]。推進役となった創立委員は、横浜在住の安部幸兵衛氏・広瀬金七氏・岡野利兵衛氏・吉永仁蔵氏と、東京在住の岩崎清七氏・佐久間福太郎氏・安部林右衛門氏・西村準三郎氏の8名で、岩崎氏が創立委員長を務めた[9]。発起人は34名、賛成人は東京・横浜・磐城を中心に153名[10]にのぼった。創立委員は安部幸兵衛氏を除く7名で八茎鉱山を視察し、工場用地を福島県石城郡四倉町に決めた[11]。当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を予定していた[12]が、事情により急遽変更した。横浜市太田町三丁目52番地の創立事務所[13]で発起人総会が開かれたのは1907年1月30日[14]で、この席で起業設計書・営業収支予算書・定款を審議し、承認した。資本金は150万円、株式3万株[15]を見込む計画とした。
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [8]広瀬金七と岩崎清七は互いの交友・取引関係にあった京浜地区の事業家やオット・ライメールス商会の関係者に呼びかけて新会社設立の発起人を募った
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [9]創立委員8名のうち岩崎清七が創立委員長として中心的役割を果たした
- [10]創立委員の呼びかけで設立発起人に加わったのは34名、ほかに東京・横浜・磐城を中心に153名の賛成人がいた
- [11]創立委員は現地視察の結果、工場を福島県石城郡四倉町に建設することを決定した
- [12]当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を工場地に予定していたが四倉町に変更された
- [13]創立事務所は横浜市太田町三丁目52番地に置かれ、これが最初の本社となった
- [14]発起人総会は1907年1月30日に開催され、起業設計書・営業収支予算書・定款が審議承認された
- [15]起業目論見書の資本金総額は150万円、株式総数は1株50円の3万株だった
ところが、発起人総会と同じ1907年1月、東京株式相場が突然暴落[16]した。2月から6月にかけて関東・東海地方を中心に40余の中小銀行で支払停止と取付けが続出[17]し、6月の第一回株式払込みでは1株につき12円50銭[18]が集まらず、会社設立そのものが困難になった。創立委員長の岩崎清七氏は、設立を一時打ち切って損勘定を発起人で分担する[19]ほかないという見解を述べた。これに反対したのが、創立委員のなかで最年長にあたる安部幸兵衛氏[20]だった。安部氏は、石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、機械もすでに全部注文済み[21]だとして一歩も引かなかった。1907年11月29日、横浜市港町の浜港館で創立総会[22]が開かれ、株主の田原当一氏の動議により資本金は100万円へ減額[23]することを決議した。株式総数も3万株から2万株に減り、取締役会で吉永仁蔵氏が初代社長に、西村準三郎氏が専務[24]に選ばれた。
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [16]発起人総会が開かれた1907年1月に東京株式相場が突然暴落し反動不況が始まった
- [17]1907年2月から6月にかけ関東・東海地方を中心とした40余の中小銀行に支払停止・取付けが続出した
- [18]第一回株式払込みの1株12円50銭が集まらず会社設立そのものが困難な状態に追い込まれた
- [19]岩崎清七は設立を一時打ち切り損勘定を発起人で分担するしか方法がないとの見解を述べた
- [20]安部幸兵衛は当時60歳で創立委員のなかでは最年長かつ最大の実力者だった
- [22]創立総会は1907年11月29日に横浜市港町の浜港館で開催された
- [23]株主田原当一の動議により起業設計書の資本金150万円が100万円へ減額され満場一致で決議された
- [24]創立総会後の取締役会で社長に吉永仁蔵、専務に西村準三郎が選任された
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [21]安部幸兵衛は石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、セメント事業が急に悪くなったわけではなく機械も全部注文済みだと強硬論を主張して引き下がらなかった
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [1]磐城セメントの起業計画は設立前年の1906年に横浜で立案された
- [2]八茎鉱山は1906年7月にオット・ライメールス商会と西村準三郎の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営となった
- [3]八茎鉱山の鉱区一帯は石灰石山で、銅の採掘と同時にずり石として大量の石灰石が出た
- [4]セメント事業に着目したのは八茎鉱山社長の広瀬金七と東京の事業家岩崎清七で、有価証券報告書も1906年に両名らが設立を企図したと記す
- [5]広瀬金七と岩崎清七はドイツ塩や外米の輸入を通じてかなり懇意な間柄だった
- [6]1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んだったことが起業判断の根拠のひとつになった
- [9]創立委員8名のうち岩崎清七が創立委員長として中心的役割を果たした
- [10]創立委員の呼びかけで設立発起人に加わったのは34名、ほかに東京・横浜・磐城を中心に153名の賛成人がいた
- [11]創立委員は現地視察の結果、工場を福島県石城郡四倉町に建設することを決定した
- [12]当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を工場地に予定していたが四倉町に変更された
- [13]創立事務所は横浜市太田町三丁目52番地に置かれ、これが最初の本社となった
- [14]発起人総会は1907年1月30日に開催され、起業設計書・営業収支予算書・定款が審議承認された
- [15]起業目論見書の資本金総額は150万円、株式総数は1株50円の3万株だった
- [16]発起人総会が開かれた1907年1月に東京株式相場が突然暴落し反動不況が始まった
- [17]1907年2月から6月にかけ関東・東海地方を中心とした40余の中小銀行に支払停止・取付けが続出した
- [18]第一回株式払込みの1株12円50銭が集まらず会社設立そのものが困難な状態に追い込まれた
- [19]岩崎清七は設立を一時打ち切り損勘定を発起人で分担するしか方法がないとの見解を述べた
- [20]安部幸兵衛は当時60歳で創立委員のなかでは最年長かつ最大の実力者だった
- [22]創立総会は1907年11月29日に横浜市港町の浜港館で開催された
- [23]株主田原当一の動議により起業設計書の資本金150万円が100万円へ減額され満場一致で決議された
- [24]創立総会後の取締役会で社長に吉永仁蔵、専務に西村準三郎が選任された
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [7]社史は八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もなかったこと、サンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んであったことの三点を挙げ、広瀬・岩崎の両名が事業の将来性と有利性に確信をもったと記す
- [8]広瀬金七と岩崎清七は互いの交友・取引関係にあった京浜地区の事業家やオット・ライメールス商会の関係者に呼びかけて新会社設立の発起人を募った
- [21]安部幸兵衛は石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、セメント事業が急に悪くなったわけではなく機械も全部注文済みだと強硬論を主張して引き下がらなかった
回転窯を選んだ技師長と、日本で最初の原石焼成法
資本金の減額は建設計画を狂わせした。第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減り[25]、重役会の大勢は当初計画の回転窯を諦めて、当時の業界で一般的だった竪窯[26]へ切り替える方向に傾いた。これに猛反対したのが、三重セメントから招聘されて1907年12月に技師長となった岡田萬次氏[27]である。岡田氏は、ここで10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば会社は将来かならず泡沫会社の運命をたどる[28]と述べ、当初計画どおりの回転窯導入を主張した。竪窯は連続作業ができず、一窯一回の焼成に4日から7日を要し、焼出量も13トン程度[29]にとどまる。重役陣はこの主張を認めて竪窯案を撤回し、不足する資金は1株につき5円の第二回株式払込みで10万円を調達[30]して建設費に充てた。導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で、径7フィート・長さ100フィート[31]の大きさがあった。
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [25]資本金減額により第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減った
- [26]重役会の大勢は当時のセメント業界における一般的な設備である竪窯への切替えに傾いた
- [27]岡田萬次は三重セメントから嘱託技師として招聘され1907年12月に技師長に任命された
- [28]岡田萬次は10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば将来必ず泡沫会社の運命をたどると重役会に反対した
- [29]竪窯は連続作業ができず一窯一回の焼成に4〜7日間を要し焼出量も13トン程度だった
- [30]不足資金は1株5円の第二回株式払込みで10万円を調達し建設費に充当した
- [31]導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で径7フィート×長さ100フィート、浅野セメントの窯より大型だった
四倉工業所は1908年9月19日に完成[32]し、試運転を開始した。試運転には、日本で最初の原石焼成法[33]を用いた。1903年に回転窯を導入した浅野セメント深川工場[34]は、石灰石を焼いてつくった生石灰を機械的に粉末にし、粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法[35]をとっていた。これに対し岡田萬次技師長が考案した原石焼成法[36]は、石灰石を生石灰にせず原石のまま自然乾燥し、乾燥した粘土と混ぜて粉砕して、直接回転窯へ送り込む方法である。仮焼の工程がない分、製造法が簡単で操業管理も品質管理も容易[37]になる。試運転は成功し、第二期事業報告書は、製品の試験成績がきわめて優良で、日本で一、二と称されるものに比べて劣らない[38]と記した。操業を始めたのは1908年10月[39]で、製造関係の従業員は当初15人ほど[40]しかいなかった。原石焼成法はその後、日本のセメント工場の通常の焼成法になった[41]。
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [32]四倉工業所は1908年9月19日に完成し試運転を開始した
- [33]四倉工業所の試運転は日本で最初の原石焼成法によって行なわれた
- [34]わが国の回転窯によるセメント製造は1903年の浅野セメント深川工場が最初だった
- [35]浅野セメント深川工場は生石灰を粉末にして粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法を採用していた
- [36]原石焼成法は磐城セメントの岡田萬次技師長が考案し実施したものである
- [38]第二期事業報告書は製品の試験成績が極めて優良で日本で一、二と称されるものと比べて劣らないと記した
- [39]四倉工業所が操業を開始したのは1908年10月である
- [40]製造関係の従業員は操業当初15人ぐらいしかいなかった
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [37]原石焼成法は竪窯で石灰石を仮焼する工程がないため製造法が簡単で、操業管理・品質管理が容易だと社史は記す
- [41]原石焼成法はその後わが国のセメント工場に一般的に採用され、通常の焼成法となった
創業当初の業績は損失が続いた。初めて純益金2446円を計上した1909年度下期[42]にも期末の累積赤字は2万1319円あり、創業費6236円を含めると2万7555円の欠損[43]だった。そこで1910年6月29日の臨時株主総会[44]で、資本金を100万円から85万円へ減額[45]することを決議した。同年10月30日までに1株につき21円払込済みの株式3000株を4万3082円で買い入れて消却[46]し、払込額6万3000円との差で1万9918円の差益[47]を得た。1910年度下期の決算は、純益金7911円とこの減資差益を合わせた2万7829円から欠損金2万2793円を差し引き、創業以来の累損を一掃したうえで5036円の繰越金[48]を残した。翌1911年度上期には純益金が前期比5.1倍の4万518円[49]に達し、年8%弱にあたる1万7000円を初配当[50]に充てた。この配当水準を1914年度上期まで維持[51]した。
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [42]第四期決算にあたる1909年度下期に初めて2446円の純益金を計上した
- [43]同期末の累積赤字2万1319円に創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった
- [44]1910年6月29日の第五回定時株主総会に続く臨時総会で減資が決議された
- [45]資本金は100万円から85万円へ減額された
- [46]1株21円払込済みの株式3000株を総額4万3082円(1株平均14円36銭)で買入消却した
- [47]払込額6万3000円に対し買入総額との差で1万9918円の減資差益が生じた
- [48]第六期決算で創業以来の累損を一掃したうえ5036円の繰越金を計上した
- [49]第七期(1911年度上期)の純益金は対前期比5.1倍の4万518円を記録した
- [50]年8%弱にあたる1万7000円を配当金に充当し初配当を実施した
- [51]1911年度上期の年8%配当は1914年度上期までその水準が維持された
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [25]資本金減額により第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減った
- [26]重役会の大勢は当時のセメント業界における一般的な設備である竪窯への切替えに傾いた
- [27]岡田萬次は三重セメントから嘱託技師として招聘され1907年12月に技師長に任命された
- [28]岡田萬次は10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば将来必ず泡沫会社の運命をたどると重役会に反対した
- [29]竪窯は連続作業ができず一窯一回の焼成に4〜7日間を要し焼出量も13トン程度だった
- [30]不足資金は1株5円の第二回株式払込みで10万円を調達し建設費に充当した
- [31]導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で径7フィート×長さ100フィート、浅野セメントの窯より大型だった
- [32]四倉工業所は1908年9月19日に完成し試運転を開始した
- [33]四倉工業所の試運転は日本で最初の原石焼成法によって行なわれた
- [34]わが国の回転窯によるセメント製造は1903年の浅野セメント深川工場が最初だった
- [35]浅野セメント深川工場は生石灰を粉末にして粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法を採用していた
- [36]原石焼成法は磐城セメントの岡田萬次技師長が考案し実施したものである
- [38]第二期事業報告書は製品の試験成績が極めて優良で日本で一、二と称されるものと比べて劣らないと記した
- [39]四倉工業所が操業を開始したのは1908年10月である
- [40]製造関係の従業員は操業当初15人ぐらいしかいなかった
- [42]第四期決算にあたる1909年度下期に初めて2446円の純益金を計上した
- [43]同期末の累積赤字2万1319円に創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった
- [44]1910年6月29日の第五回定時株主総会に続く臨時総会で減資が決議された
- [45]資本金は100万円から85万円へ減額された
- [46]1株21円払込済みの株式3000株を総額4万3082円(1株平均14円36銭)で買入消却した
- [47]払込額6万3000円に対し買入総額との差で1万9918円の減資差益が生じた
- [48]第六期決算で創業以来の累損を一掃したうえ5036円の繰越金を計上した
- [49]第七期(1911年度上期)の純益金は対前期比5.1倍の4万518円を記録した
- [50]年8%弱にあたる1万7000円を配当金に充当し初配当を実施した
- [51]1911年度上期の年8%配当は1914年度上期までその水準が維持された
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [37]原石焼成法は竪窯で石灰石を仮焼する工程がないため製造法が簡単で、操業管理・品質管理が容易だと社史は記す
- [41]原石焼成法はその後わが国のセメント工場に一般的に採用され、通常の焼成法となった
震災後のカルテル脱退と、三菱商事へ委ねた一手販売
第一次世界大戦の好況は磐城セメントの財務を厚く[52]した。1914年度下期に1万3278円だった純益金[53]は、1916年度下期に15万3231円、1917年度上期に16万1164円、同年度下期には30万1118円[54]に伸びた。配当は1916年度下期から1920年度下期まで8期にわたり、特別配当を含めて年20%から30%[55]を続けた。1918年に仙台市で設立された塩釜セメント[56]は、工場を着工しないうちに大戦終結を迎え、磐城セメントに合併を申し入れた。1920年3月1日に財産の引継ぎが終わり[57]、資本金は300万円となって22万6286円の合併差益[58]が生じた。1923年9月1日の関東大震災では、震源地から300キロメートル離れた四倉工業所に被害はなく[59]、東京市京橋区の本社事務所が焼失した。健康がすぐれなかった吉永仁蔵社長は同年11月30日に病気静養のため辞任[60]し、12月20日、岩崎清七氏が第二代社長[61]に就いた。
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [52]磐城セメントは第一次世界大戦下の業績好調を背景に財務基盤を強化したと社史は記す
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [53]1914年度下期の純益金は1万3278円にすぎなかった
- [54]1917年度下期の純益金は30万1118円に達した
- [55]1916年度下期から1920年度下期までの8期にわたり特別配当を含めて年20〜30%の配当を継続した
- [56]塩釜セメントは1918年に仙台市国分町で資本金100万円をもって設立された
- [57]1920年3月1日に合併手続きが終了し塩釜セメントの財産引継ぎが行なわれた
- [58]塩釜セメントの合併で22万6286円の合併差益を得た
- 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
- [59]四倉工業所は震源地から300キロメートルほど離れていたため関東大震災による直接的な被害はなかった
- [60]吉永仁蔵社長は1923年11月30日に病気静養のため辞任した
- [61]1923年12月20日に岩崎清七が第二代社長に就任した
震災の復興需要を見込んだ各社の増産と輸入の増加が重なり、セメント市況はトン当り40円前後から11円台へ急落[62]した。1924年10月5日、全国18社が加盟する第一次セメント連合会[63]が発足し、生産制限と最低価格の協定が始まった。加盟18社には大阪窯業も含まれる[64]。磐城セメントは1925年6月1日に日出セメントを合併して湊工業所[65]を得たが、生産制限を企業規模の大小にかかわらず一律に適用する方式は一社多工場の大会社に有利[66]であり、輸出分を制限の適用外とする扱いも輸出可能な大会社しか恩典を受けないと考えた。そして1926年1月26日、岩崎社長名の文書で連合会へ脱退を通告[67]した。翌27日には高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長[68]を訪ねて事情を説明した。
- 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
- [62]震災後の供給過剰と乱売競争でセメント市況はトン当り40円前後から11円台にまで急落した
- [63]1924年10月5日にわが国セメント業界初のカルテルであるセメント連合会が成立し18社が加盟した
- [65]1925年6月1日に株式比率2対1で日出セメントを合併し湊工業所とした
- [66]生産制限の一律適用は生産条件の不利な工場を休止できる一社多工場の大会社に有利だと磐城セメントは主張した
- [67]1926年1月26日に岩崎社長名の文書でセメント連合会へ脱退を通告した
- [68]翌1月27日に高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情説明を行なった
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [64]第一次セメント連合会の成立時点の加盟18社には愛知・浅野・磐城・大阪窯業・小野田などが名を連ねた
連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名[69]を決めたが、浅野セメントの斡旋で休止中の帝国・鈴木両社から合計1万1515樽の能力融通[70]を受けることがまとまり、4月15日に復帰した。同年6月に東京株式取引所へ株式を上場[71]し、7月10日には鈴木セメントを合併して東京工業所[72]を開いた。1927年3月の金融恐慌でセメント各社の金融難が深まると、岩崎社長は家業の岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね[73]て製品の販売委託を申し入れ、1928年3月7日に一手販売契約[74]が結ばれた。手数料は売値の2.5%[75]、三菱商事は受渡済み契約品の手取額の70%を立て替えて支払い、その残高総額は100万円[76]を超えないものと定めた。契約期間は5年で、以後5年ごとに更新[77]された。1930年8月には社員15名を解雇[78]して全従業員の給与を切り下げ、無配は1930年度の2期にとどまり、1931年度上期には4%へ復配[79]した。
- 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
- [69]セメント連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決定した
- [70]帝国セメント5527樽・鈴木セメント5988樽の合計1万1515樽の能力融通を受ける覚書が締結された
- [71]株式払込みによる資金調達の円滑化を図るため1926年6月に東京株式取引所へ上場した
- [72]1926年7月10日に株式比率4対3で鈴木セメントを合併し東京工業所として再開した
- [73]岩崎社長は岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね製品の販売委託を申し入れた
- [74]1928年3月7日に磐城セメントと三菱商事の間で一手販売契約が締結され4月1日から営業が始まった
- [75]一手販売契約の手数料は売値の2.5%で、のちに2%へ引き下げられた
- [76]三菱商事は受渡済み契約品について磐城セメントの手取額の70%を立て替えて支払い、残高総額は100万円を超えないものとされた
- [77]契約期間は昭和3年から5か年で以後5年ごとに更新すると定められた
- [78]1930年8月に本社5名・四倉7名・湊3名の社員15名を解雇すると同時に全従業員の給与切下げを実施した
- [79]無配は1930年度上・下期の2期にとどまり1931年度上期に4%へ復配した
- 住友セメント八十年史(1987年)
- [52]磐城セメントは第一次世界大戦下の業績好調を背景に財務基盤を強化したと社史は記す
- [64]第一次セメント連合会の成立時点の加盟18社には愛知・浅野・磐城・大阪窯業・小野田などが名を連ねた
- 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
- [53]1914年度下期の純益金は1万3278円にすぎなかった
- [54]1917年度下期の純益金は30万1118円に達した
- [55]1916年度下期から1920年度下期までの8期にわたり特別配当を含めて年20〜30%の配当を継続した
- [56]塩釜セメントは1918年に仙台市国分町で資本金100万円をもって設立された
- [57]1920年3月1日に合併手続きが終了し塩釜セメントの財産引継ぎが行なわれた
- [58]塩釜セメントの合併で22万6286円の合併差益を得た
- 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
- [59]四倉工業所は震源地から300キロメートルほど離れていたため関東大震災による直接的な被害はなかった
- [60]吉永仁蔵社長は1923年11月30日に病気静養のため辞任した
- [61]1923年12月20日に岩崎清七が第二代社長に就任した
- [62]震災後の供給過剰と乱売競争でセメント市況はトン当り40円前後から11円台にまで急落した
- [63]1924年10月5日にわが国セメント業界初のカルテルであるセメント連合会が成立し18社が加盟した
- [65]1925年6月1日に株式比率2対1で日出セメントを合併し湊工業所とした
- [66]生産制限の一律適用は生産条件の不利な工場を休止できる一社多工場の大会社に有利だと磐城セメントは主張した
- [67]1926年1月26日に岩崎社長名の文書でセメント連合会へ脱退を通告した
- [68]翌1月27日に高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情説明を行なった
- [69]セメント連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決定した
- [70]帝国セメント5527樽・鈴木セメント5988樽の合計1万1515樽の能力融通を受ける覚書が締結された
- [71]株式払込みによる資金調達の円滑化を図るため1926年6月に東京株式取引所へ上場した
- [72]1926年7月10日に株式比率4対3で鈴木セメントを合併し東京工業所として再開した
- [73]岩崎社長は岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね製品の販売委託を申し入れた
- [74]1928年3月7日に磐城セメントと三菱商事の間で一手販売契約が締結され4月1日から営業が始まった
- [75]一手販売契約の手数料は売値の2.5%で、のちに2%へ引き下げられた
- [76]三菱商事は受渡済み契約品について磐城セメントの手取額の70%を立て替えて支払い、残高総額は100万円を超えないものとされた
- [77]契約期間は昭和3年から5か年で以後5年ごとに更新すると定められた
- [78]1930年8月に本社5名・四倉7名・湊3名の社員15名を解雇すると同時に全従業員の給与切下げを実施した
- [79]無配は1930年度上・下期の2期にとどまり1931年度上期に4%へ復配した