住友大阪セメント の歴史

創業

1907年

創業者

広瀬金七・岩崎清七

創業地

横浜市太田町(現・神奈川県横浜市中区)

直近売上高(2025/3)

2,195億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1963年に、好業績の磐城セメントは創業以来の社名を捨てて住友グループへ入ったのか
A 磐城セメントは1907年、広瀬金七氏と岩崎清七氏が福島県の八茎鉱山に積まれた石灰石を当てに横浜で設立し、四倉町に最初の工場を建てた会社である。1963年3月期の売上高は319億9,280万円、配当は30%で、月産能力では業界3位にあった。それでも斎藤次郎社長は、住友石炭鉱業のセメント進出で三菱・三井・住友が並び立てば業界が混乱すると読み、自分は磐城セメントを身内に渡すほどの資本家ではないとして、住友銀行の堀田庄三頭取へ自ら提携を申し入れた。商号変更は1963年10月、白水会への加盟はその8か月後だった
Q なぜ1985年に、2期連続の赤字を抱えた住友セメントは非セメント50%という10年計画を掲げたのか
A 1974年からの合理化で11工場中5工場を閉じ、従業員を3,900人から1,900人へ半減させても収益は戻らなかった。需要が縮むかぎり、削減はいずれ底を打つ。売上の93%をセメントが占め、1983年3月期・1984年3月期は最終赤字、配当も1982年9月中間期から止まった。今川彦二社長は1985年4月からの10年で非セメント比率を8.7%から50%へ引き上げる計画を掲げ、遊休地の転用ではなく研究開発型の4分野を選んだ。1984年3月期の非セメント売上126億円に対し目標はその10倍で、到達したのは15%台である
Q なぜ2022年からの石炭高騰下で、住友大阪セメントは1トン2,000円級の値上げを重ねたのか
A セメントの燃料である石炭の市況が1年強で約4倍になる一方、生コンクリートの価格を着工から完工まで固定する商習慣があり、協同組合との交渉は数百円動かすのも難しかった。原価の上昇と交渉の刻みが桁で食い違えば、赤字のまま売るほかない。住友大阪セメントは2022年4〜6月期にセメント事業で54億円の営業赤字を出しながら、1トン2,000円級の改定を三度重ねた。諸橋央典社長は、脱炭素の設備投資を賄うには最低でも3桁の営業利益が要ると述べた。2025年4月出荷分では、固定ユーザー1,070件余りの半数超から満額の回答を得た

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1907年〜 八茎鉱山の残石から起こした後発6社目の船出と、三菱商事に委ねた販売

  1. 1907年 磐城セメントを資本金100万円で設立、本店は横浜市太田町
  2. 1910年 資本金85万円への減資と、減資差益金による累積損失の一掃
  3. 1911年 1911年度上期に利益4万518円を計上、年8%の初配当
  4. 1920年 塩釜セメントの合併と、増資による資本金300万円への拡大
  5. 1926年 セメント連合会への脱退通告
  6. 1926年 セメント連合会への復帰
  7. 1928年 三菱商事との製品一手委託販売契約の締結

日露戦争後の企業熱と、八茎鉱山に積まれた石灰石

磐城セメントの起業は、1906年に横浜で立案[1]された計画に始まる。福島県石城郡大野村の八茎鉱山は和銅年間の発見とも伝えられる古い銅山で、1906年7月からオット・ライメールス商会[2]と鉱山業者の西村準三郎氏の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営に移った。鉱区一帯が石灰石山だったため、銅を掘れば大量の石灰石がずり石として出た[3]。この石灰石を使うセメント事業に着目したのが、同商会幹部で八茎鉱山の社長を務めた横浜の事業家広瀬金七氏と、東京の事業家岩崎清七氏[4]である。両氏はドイツ塩や外米の輸入を通じて懇意[5]な間柄にあった。八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もないこと、1906年4月のサンフランシスコ地震[6]の影響でセメント輸出が盛んなこと。この三つを両氏は事業の根拠に挙げた[7]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [1]磐城セメントの起業計画は設立前年の1906年に横浜で立案された
    • [2]八茎鉱山は1906年7月にオット・ライメールス商会と西村準三郎の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営となった
    • [3]八茎鉱山の鉱区一帯は石灰石山で、銅の採掘と同時にずり石として大量の石灰石が出た
    • [4]セメント事業に着目したのは八茎鉱山社長の広瀬金七と東京の事業家岩崎清七で、有価証券報告書も1906年に両名らが設立を企図したと記す
    • [5]広瀬金七と岩崎清七はドイツ塩や外米の輸入を通じてかなり懇意な間柄だった
    • [6]1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んだったことが起業判断の根拠のひとつになった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [7]社史は八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もなかったこと、サンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んであったことの三点を挙げ、広瀬・岩崎の両名が事業の将来性と有利性に確信をもったと記す

セメント事業を決めた両氏は、交友と取引のあった京浜地区の事業家に呼びかけて発起人を募った[8]。推進役となった創立委員は、横浜在住の安部幸兵衛氏・広瀬金七氏・岡野利兵衛氏・吉永仁蔵氏と、東京在住の岩崎清七氏・佐久間福太郎氏・安部林右衛門氏・西村準三郎氏の8名で、岩崎氏が創立委員長を務めた[9]。発起人は34名、賛成人は東京・横浜・磐城を中心に153名[10]にのぼった。創立委員は安部幸兵衛氏を除く7名で八茎鉱山を視察し、工場用地を福島県石城郡四倉町に決めた[11]。当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を予定していた[12]が、事情により急遽変更した。横浜市太田町三丁目52番地の創立事務所[13]で発起人総会が開かれたのは1907年1月30日[14]で、この席で起業設計書・営業収支予算書・定款を審議し、承認した。資本金は150万円、株式3万株[15]を見込む計画とした。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [8]広瀬金七と岩崎清七は互いの交友・取引関係にあった京浜地区の事業家やオット・ライメールス商会の関係者に呼びかけて新会社設立の発起人を募った
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [9]創立委員8名のうち岩崎清七が創立委員長として中心的役割を果たした
    • [10]創立委員の呼びかけで設立発起人に加わったのは34名、ほかに東京・横浜・磐城を中心に153名の賛成人がいた
    • [11]創立委員は現地視察の結果、工場を福島県石城郡四倉町に建設することを決定した
    • [12]当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を工場地に予定していたが四倉町に変更された
    • [13]創立事務所は横浜市太田町三丁目52番地に置かれ、これが最初の本社となった
    • [14]発起人総会は1907年1月30日に開催され、起業設計書・営業収支予算書・定款が審議承認された
    • [15]起業目論見書の資本金総額は150万円、株式総数は1株50円の3万株だった

ところが、発起人総会と同じ1907年1月、東京株式相場が突然暴落[16]した。2月から6月にかけて関東・東海地方を中心に40余の中小銀行で支払停止と取付けが続出[17]し、6月の第一回株式払込みでは1株につき12円50銭[18]が集まらず、会社設立そのものが困難になった。創立委員長の岩崎清七氏は、設立を一時打ち切って損勘定を発起人で分担する[19]ほかないという見解を述べた。これに反対したのが、創立委員のなかで最年長にあたる安部幸兵衛氏[20]だった。安部氏は、石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、機械もすでに全部注文済み[21]だとして一歩も引かなかった。1907年11月29日、横浜市港町の浜港館で創立総会[22]が開かれ、株主の田原当一氏の動議により資本金は100万円へ減額[23]することを決議した。株式総数も3万株から2万株に減り、取締役会で吉永仁蔵氏が初代社長に、西村準三郎氏が専務[24]に選ばれた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [16]発起人総会が開かれた1907年1月に東京株式相場が突然暴落し反動不況が始まった
    • [17]1907年2月から6月にかけ関東・東海地方を中心とした40余の中小銀行に支払停止・取付けが続出した
    • [18]第一回株式払込みの1株12円50銭が集まらず会社設立そのものが困難な状態に追い込まれた
    • [19]岩崎清七は設立を一時打ち切り損勘定を発起人で分担するしか方法がないとの見解を述べた
    • [20]安部幸兵衛は当時60歳で創立委員のなかでは最年長かつ最大の実力者だった
    • [22]創立総会は1907年11月29日に横浜市港町の浜港館で開催された
    • [23]株主田原当一の動議により起業設計書の資本金150万円が100万円へ減額され満場一致で決議された
    • [24]創立総会後の取締役会で社長に吉永仁蔵、専務に西村準三郎が選任された
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [21]安部幸兵衛は石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、セメント事業が急に悪くなったわけではなく機械も全部注文済みだと強硬論を主張して引き下がらなかった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [1]磐城セメントの起業計画は設立前年の1906年に横浜で立案された
    • [2]八茎鉱山は1906年7月にオット・ライメールス商会と西村準三郎の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営となった
    • [3]八茎鉱山の鉱区一帯は石灰石山で、銅の採掘と同時にずり石として大量の石灰石が出た
    • [4]セメント事業に着目したのは八茎鉱山社長の広瀬金七と東京の事業家岩崎清七で、有価証券報告書も1906年に両名らが設立を企図したと記す
    • [5]広瀬金七と岩崎清七はドイツ塩や外米の輸入を通じてかなり懇意な間柄だった
    • [6]1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んだったことが起業判断の根拠のひとつになった
    • [9]創立委員8名のうち岩崎清七が創立委員長として中心的役割を果たした
    • [10]創立委員の呼びかけで設立発起人に加わったのは34名、ほかに東京・横浜・磐城を中心に153名の賛成人がいた
    • [11]創立委員は現地視察の結果、工場を福島県石城郡四倉町に建設することを決定した
    • [12]当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を工場地に予定していたが四倉町に変更された
    • [13]創立事務所は横浜市太田町三丁目52番地に置かれ、これが最初の本社となった
    • [14]発起人総会は1907年1月30日に開催され、起業設計書・営業収支予算書・定款が審議承認された
    • [15]起業目論見書の資本金総額は150万円、株式総数は1株50円の3万株だった
    • [16]発起人総会が開かれた1907年1月に東京株式相場が突然暴落し反動不況が始まった
    • [17]1907年2月から6月にかけ関東・東海地方を中心とした40余の中小銀行に支払停止・取付けが続出した
    • [18]第一回株式払込みの1株12円50銭が集まらず会社設立そのものが困難な状態に追い込まれた
    • [19]岩崎清七は設立を一時打ち切り損勘定を発起人で分担するしか方法がないとの見解を述べた
    • [20]安部幸兵衛は当時60歳で創立委員のなかでは最年長かつ最大の実力者だった
    • [22]創立総会は1907年11月29日に横浜市港町の浜港館で開催された
    • [23]株主田原当一の動議により起業設計書の資本金150万円が100万円へ減額され満場一致で決議された
    • [24]創立総会後の取締役会で社長に吉永仁蔵、専務に西村準三郎が選任された
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [7]社史は八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もなかったこと、サンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んであったことの三点を挙げ、広瀬・岩崎の両名が事業の将来性と有利性に確信をもったと記す
    • [8]広瀬金七と岩崎清七は互いの交友・取引関係にあった京浜地区の事業家やオット・ライメールス商会の関係者に呼びかけて新会社設立の発起人を募った
    • [21]安部幸兵衛は石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、セメント事業が急に悪くなったわけではなく機械も全部注文済みだと強硬論を主張して引き下がらなかった

回転窯を選んだ技師長と、日本で最初の原石焼成法

資本金の減額は建設計画を狂わせした。第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減り[25]、重役会の大勢は当初計画の回転窯を諦めて、当時の業界で一般的だった竪窯[26]へ切り替える方向に傾いた。これに猛反対したのが、三重セメントから招聘されて1907年12月に技師長となった岡田萬次氏[27]である。岡田氏は、ここで10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば会社は将来かならず泡沫会社の運命をたどる[28]と述べ、当初計画どおりの回転窯導入を主張した。竪窯は連続作業ができず、一窯一回の焼成に4日から7日を要し、焼出量も13トン程度[29]にとどまる。重役陣はこの主張を認めて竪窯案を撤回し、不足する資金は1株につき5円の第二回株式払込みで10万円を調達[30]して建設費に充てた。導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で、径7フィート・長さ100フィート[31]の大きさがあった。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [25]資本金減額により第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減った
    • [26]重役会の大勢は当時のセメント業界における一般的な設備である竪窯への切替えに傾いた
    • [27]岡田萬次は三重セメントから嘱託技師として招聘され1907年12月に技師長に任命された
    • [28]岡田萬次は10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば将来必ず泡沫会社の運命をたどると重役会に反対した
    • [29]竪窯は連続作業ができず一窯一回の焼成に4〜7日間を要し焼出量も13トン程度だった
    • [30]不足資金は1株5円の第二回株式払込みで10万円を調達し建設費に充当した
    • [31]導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で径7フィート×長さ100フィート、浅野セメントの窯より大型だった

四倉工業所は1908年9月19日に完成[32]し、試運転を開始した。試運転には、日本で最初の原石焼成法[33]を用いた。1903年に回転窯を導入した浅野セメント深川工場[34]は、石灰石を焼いてつくった生石灰を機械的に粉末にし、粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法[35]をとっていた。これに対し岡田萬次技師長が考案した原石焼成法[36]は、石灰石を生石灰にせず原石のまま自然乾燥し、乾燥した粘土と混ぜて粉砕して、直接回転窯へ送り込む方法である。仮焼の工程がない分、製造法が簡単で操業管理も品質管理も容易[37]になる。試運転は成功し、第二期事業報告書は、製品の試験成績がきわめて優良で、日本で一、二と称されるものに比べて劣らない[38]と記した。操業を始めたのは1908年10月[39]で、製造関係の従業員は当初15人ほど[40]しかいなかった。原石焼成法はその後、日本のセメント工場の通常の焼成法になった[41]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [32]四倉工業所は1908年9月19日に完成し試運転を開始した
    • [33]四倉工業所の試運転は日本で最初の原石焼成法によって行なわれた
    • [34]わが国の回転窯によるセメント製造は1903年の浅野セメント深川工場が最初だった
    • [35]浅野セメント深川工場は生石灰を粉末にして粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法を採用していた
    • [36]原石焼成法は磐城セメントの岡田萬次技師長が考案し実施したものである
    • [38]第二期事業報告書は製品の試験成績が極めて優良で日本で一、二と称されるものと比べて劣らないと記した
    • [39]四倉工業所が操業を開始したのは1908年10月である
    • [40]製造関係の従業員は操業当初15人ぐらいしかいなかった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [37]原石焼成法は竪窯で石灰石を仮焼する工程がないため製造法が簡単で、操業管理・品質管理が容易だと社史は記す
    • [41]原石焼成法はその後わが国のセメント工場に一般的に採用され、通常の焼成法となった

創業当初の業績は損失が続いた。初めて純益金2446円を計上した1909年度下期[42]にも期末の累積赤字は2万1319円あり、創業費6236円を含めると2万7555円の欠損[43]だった。そこで1910年6月29日の臨時株主総会[44]で、資本金を100万円から85万円へ減額[45]することを決議した。同年10月30日までに1株につき21円払込済みの株式3000株を4万3082円で買い入れて消却[46]し、払込額6万3000円との差で1万9918円の差益[47]を得た。1910年度下期の決算は、純益金7911円とこの減資差益を合わせた2万7829円から欠損金2万2793円を差し引き、創業以来の累損を一掃したうえで5036円の繰越金[48]を残した。翌1911年度上期には純益金が前期比5.1倍の4万518円[49]に達し、年8%弱にあたる1万7000円を初配当[50]に充てた。この配当水準を1914年度上期まで維持[51]した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [42]第四期決算にあたる1909年度下期に初めて2446円の純益金を計上した
    • [43]同期末の累積赤字2万1319円に創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった
    • [44]1910年6月29日の第五回定時株主総会に続く臨時総会で減資が決議された
    • [45]資本金は100万円から85万円へ減額された
    • [46]1株21円払込済みの株式3000株を総額4万3082円(1株平均14円36銭)で買入消却した
    • [47]払込額6万3000円に対し買入総額との差で1万9918円の減資差益が生じた
    • [48]第六期決算で創業以来の累損を一掃したうえ5036円の繰越金を計上した
    • [49]第七期(1911年度上期)の純益金は対前期比5.1倍の4万518円を記録した
    • [50]年8%弱にあたる1万7000円を配当金に充当し初配当を実施した
    • [51]1911年度上期の年8%配当は1914年度上期までその水準が維持された
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [25]資本金減額により第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減った
    • [26]重役会の大勢は当時のセメント業界における一般的な設備である竪窯への切替えに傾いた
    • [27]岡田萬次は三重セメントから嘱託技師として招聘され1907年12月に技師長に任命された
    • [28]岡田萬次は10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば将来必ず泡沫会社の運命をたどると重役会に反対した
    • [29]竪窯は連続作業ができず一窯一回の焼成に4〜7日間を要し焼出量も13トン程度だった
    • [30]不足資金は1株5円の第二回株式払込みで10万円を調達し建設費に充当した
    • [31]導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で径7フィート×長さ100フィート、浅野セメントの窯より大型だった
    • [32]四倉工業所は1908年9月19日に完成し試運転を開始した
    • [33]四倉工業所の試運転は日本で最初の原石焼成法によって行なわれた
    • [34]わが国の回転窯によるセメント製造は1903年の浅野セメント深川工場が最初だった
    • [35]浅野セメント深川工場は生石灰を粉末にして粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法を採用していた
    • [36]原石焼成法は磐城セメントの岡田萬次技師長が考案し実施したものである
    • [38]第二期事業報告書は製品の試験成績が極めて優良で日本で一、二と称されるものと比べて劣らないと記した
    • [39]四倉工業所が操業を開始したのは1908年10月である
    • [40]製造関係の従業員は操業当初15人ぐらいしかいなかった
    • [42]第四期決算にあたる1909年度下期に初めて2446円の純益金を計上した
    • [43]同期末の累積赤字2万1319円に創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった
    • [44]1910年6月29日の第五回定時株主総会に続く臨時総会で減資が決議された
    • [45]資本金は100万円から85万円へ減額された
    • [46]1株21円払込済みの株式3000株を総額4万3082円(1株平均14円36銭)で買入消却した
    • [47]払込額6万3000円に対し買入総額との差で1万9918円の減資差益が生じた
    • [48]第六期決算で創業以来の累損を一掃したうえ5036円の繰越金を計上した
    • [49]第七期(1911年度上期)の純益金は対前期比5.1倍の4万518円を記録した
    • [50]年8%弱にあたる1万7000円を配当金に充当し初配当を実施した
    • [51]1911年度上期の年8%配当は1914年度上期までその水準が維持された
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [37]原石焼成法は竪窯で石灰石を仮焼する工程がないため製造法が簡単で、操業管理・品質管理が容易だと社史は記す
    • [41]原石焼成法はその後わが国のセメント工場に一般的に採用され、通常の焼成法となった

震災後のカルテル脱退と、三菱商事へ委ねた一手販売

第一次世界大戦の好況は磐城セメントの財務を厚く[52]した。1914年度下期に1万3278円だった純益金[53]は、1916年度下期に15万3231円、1917年度上期に16万1164円、同年度下期には30万1118円[54]に伸びた。配当は1916年度下期から1920年度下期まで8期にわたり、特別配当を含めて年20%から30%[55]を続けた。1918年に仙台市で設立された塩釜セメント[56]は、工場を着工しないうちに大戦終結を迎え、磐城セメントに合併を申し入れた。1920年3月1日に財産の引継ぎが終わり[57]、資本金は300万円となって22万6286円の合併差益[58]が生じた。1923年9月1日の関東大震災では、震源地から300キロメートル離れた四倉工業所に被害はなく[59]、東京市京橋区の本社事務所が焼失した。健康がすぐれなかった吉永仁蔵社長は同年11月30日に病気静養のため辞任[60]し、12月20日、岩崎清七氏が第二代社長[61]に就いた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [52]磐城セメントは第一次世界大戦下の業績好調を背景に財務基盤を強化したと社史は記す
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [53]1914年度下期の純益金は1万3278円にすぎなかった
    • [54]1917年度下期の純益金は30万1118円に達した
    • [55]1916年度下期から1920年度下期までの8期にわたり特別配当を含めて年20〜30%の配当を継続した
    • [56]塩釜セメントは1918年に仙台市国分町で資本金100万円をもって設立された
    • [57]1920年3月1日に合併手続きが終了し塩釜セメントの財産引継ぎが行なわれた
    • [58]塩釜セメントの合併で22万6286円の合併差益を得た
  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [59]四倉工業所は震源地から300キロメートルほど離れていたため関東大震災による直接的な被害はなかった
    • [60]吉永仁蔵社長は1923年11月30日に病気静養のため辞任した
    • [61]1923年12月20日に岩崎清七が第二代社長に就任した

震災の復興需要を見込んだ各社の増産と輸入の増加が重なり、セメント市況はトン当り40円前後から11円台へ急落[62]した。1924年10月5日、全国18社が加盟する第一次セメント連合会[63]が発足し、生産制限と最低価格の協定が始まった。加盟18社には大阪窯業も含まれる[64]。磐城セメントは1925年6月1日に日出セメントを合併して湊工業所[65]を得たが、生産制限を企業規模の大小にかかわらず一律に適用する方式は一社多工場の大会社に有利[66]であり、輸出分を制限の適用外とする扱いも輸出可能な大会社しか恩典を受けないと考えた。そして1926年1月26日、岩崎社長名の文書で連合会へ脱退を通告[67]した。翌27日には高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長[68]を訪ねて事情を説明した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [62]震災後の供給過剰と乱売競争でセメント市況はトン当り40円前後から11円台にまで急落した
    • [63]1924年10月5日にわが国セメント業界初のカルテルであるセメント連合会が成立し18社が加盟した
    • [65]1925年6月1日に株式比率2対1で日出セメントを合併し湊工業所とした
    • [66]生産制限の一律適用は生産条件の不利な工場を休止できる一社多工場の大会社に有利だと磐城セメントは主張した
    • [67]1926年1月26日に岩崎社長名の文書でセメント連合会へ脱退を通告した
    • [68]翌1月27日に高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情説明を行なった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [64]第一次セメント連合会の成立時点の加盟18社には愛知・浅野・磐城・大阪窯業・小野田などが名を連ねた

連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名[69]を決めたが、浅野セメントの斡旋で休止中の帝国・鈴木両社から合計1万1515樽の能力融通[70]を受けることがまとまり、4月15日に復帰した。同年6月に東京株式取引所へ株式を上場[71]し、7月10日には鈴木セメントを合併して東京工業所[72]を開いた。1927年3月の金融恐慌でセメント各社の金融難が深まると、岩崎社長は家業の岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね[73]て製品の販売委託を申し入れ、1928年3月7日に一手販売契約[74]が結ばれた。手数料は売値の2.5%[75]、三菱商事は受渡済み契約品の手取額の70%を立て替えて支払い、その残高総額は100万円[76]を超えないものと定めた。契約期間は5年で、以後5年ごとに更新[77]された。1930年8月には社員15名を解雇[78]して全従業員の給与を切り下げ、無配は1930年度の2期にとどまり、1931年度上期には4%へ復配[79]した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [69]セメント連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決定した
    • [70]帝国セメント5527樽・鈴木セメント5988樽の合計1万1515樽の能力融通を受ける覚書が締結された
    • [71]株式払込みによる資金調達の円滑化を図るため1926年6月に東京株式取引所へ上場した
    • [72]1926年7月10日に株式比率4対3で鈴木セメントを合併し東京工業所として再開した
    • [73]岩崎社長は岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね製品の販売委託を申し入れた
    • [74]1928年3月7日に磐城セメントと三菱商事の間で一手販売契約が締結され4月1日から営業が始まった
    • [75]一手販売契約の手数料は売値の2.5%で、のちに2%へ引き下げられた
    • [76]三菱商事は受渡済み契約品について磐城セメントの手取額の70%を立て替えて支払い、残高総額は100万円を超えないものとされた
    • [77]契約期間は昭和3年から5か年で以後5年ごとに更新すると定められた
    • [78]1930年8月に本社5名・四倉7名・湊3名の社員15名を解雇すると同時に全従業員の給与切下げを実施した
    • [79]無配は1930年度上・下期の2期にとどまり1931年度上期に4%へ復配した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [52]磐城セメントは第一次世界大戦下の業績好調を背景に財務基盤を強化したと社史は記す
    • [64]第一次セメント連合会の成立時点の加盟18社には愛知・浅野・磐城・大阪窯業・小野田などが名を連ねた
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
    • [53]1914年度下期の純益金は1万3278円にすぎなかった
    • [54]1917年度下期の純益金は30万1118円に達した
    • [55]1916年度下期から1920年度下期までの8期にわたり特別配当を含めて年20〜30%の配当を継続した
    • [56]塩釜セメントは1918年に仙台市国分町で資本金100万円をもって設立された
    • [57]1920年3月1日に合併手続きが終了し塩釜セメントの財産引継ぎが行なわれた
    • [58]塩釜セメントの合併で22万6286円の合併差益を得た
  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
    • [59]四倉工業所は震源地から300キロメートルほど離れていたため関東大震災による直接的な被害はなかった
    • [60]吉永仁蔵社長は1923年11月30日に病気静養のため辞任した
    • [61]1923年12月20日に岩崎清七が第二代社長に就任した
    • [62]震災後の供給過剰と乱売競争でセメント市況はトン当り40円前後から11円台にまで急落した
    • [63]1924年10月5日にわが国セメント業界初のカルテルであるセメント連合会が成立し18社が加盟した
    • [65]1925年6月1日に株式比率2対1で日出セメントを合併し湊工業所とした
    • [66]生産制限の一律適用は生産条件の不利な工場を休止できる一社多工場の大会社に有利だと磐城セメントは主張した
    • [67]1926年1月26日に岩崎社長名の文書でセメント連合会へ脱退を通告した
    • [68]翌1月27日に高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情説明を行なった
    • [69]セメント連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決定した
    • [70]帝国セメント5527樽・鈴木セメント5988樽の合計1万1515樽の能力融通を受ける覚書が締結された
    • [71]株式払込みによる資金調達の円滑化を図るため1926年6月に東京株式取引所へ上場した
    • [72]1926年7月10日に株式比率4対3で鈴木セメントを合併し東京工業所として再開した
    • [73]岩崎社長は岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ね製品の販売委託を申し入れた
    • [74]1928年3月7日に磐城セメントと三菱商事の間で一手販売契約が締結され4月1日から営業が始まった
    • [75]一手販売契約の手数料は売値の2.5%で、のちに2%へ引き下げられた
    • [76]三菱商事は受渡済み契約品について磐城セメントの手取額の70%を立て替えて支払い、残高総額は100万円を超えないものとされた
    • [77]契約期間は昭和3年から5か年で以後5年ごとに更新すると定められた
    • [78]1930年8月に本社5名・四倉7名・湊3名の社員15名を解雇すると同時に全従業員の給与切下げを実施した
    • [79]無配は1930年度上・下期の2期にとどまり1931年度上期に4%へ復配した

1932年〜 統制と戦時転換をくぐり、集中排除法の指定を経て住友へ合流するまで

  1. 1939年 七尾セメントにおける含ニッケル鉄の試験製錬の開始
  2. 1941年 企業整備による豊国セメントの合併、資本金4150万円
  3. 1942年 七尾工場のキルン3基の含ニッケル鉄生産への全面転換
  4. 1944年 七尾工場の海軍監督工場への指定、4月には軍需会社指定
  5. 1944年 栃木工場のドロマイトクリンカー生産への全面転換
  6. 1945年 終戦にともなう満蒙・台湾などの海外資産の喪失
  7. 1963年 磐城セメントの住友グループ加入と、住友セメントへの商号変更 配当30%を続ける会社が、なぜ創業以来の社名を自ら手放したのか

傘下5社の取得で到達した業界三大会社の地位

1932年以降、満州事変後の軍事費膨張と時局匡救事業[80]でセメント需要は回復した。ところが各社が拡張に走り新会社の設立も相次いで生産能力が需要の伸びを上回り、セメント連合会の生産制限率は年平均で常に50%を超えた[81]。制限下でも既設工場の拡張は続い[82]た。磐城セメントは1932年12月、月産能力4000トンの増強[83]をめざして四倉・湊両工業所の設備拡充を決めた。時局匡救事業は農村恐慌の深刻だった東北地方に多く[84]、この方面を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切った。1933年2月20日の役員会は、さらに予算125万円[85]をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた。全国能力比率が1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%[86]へ落ち、このままでは連合会加盟会社中6位に転落[87]しかねないという判断による。工事は1934年10月と11月に完成し、湊工業所の月産能力は4万300トンに増えた[88]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [80]1932年以降の需要回復は満州事変を契機とする軍事費の膨張と時局匡救事業の実施によるものだった
    • [81]1932年以降の年平均の生産制限率は常に50%を上回り、最低の1933年でも50.1%だった
    • [83]1932年12月に月産能力4000トンの増強をめざして四倉・湊両工業所の生産設備を拡充することを決めた
    • [84]時局匡救事業は農村恐慌が最も深刻だった東北地方に多く、東北を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切らざるをえなかった
    • [85]1933年2月20日の役員会は予算125万円をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた
    • [86]全国能力比率は1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%へ低下していた
    • [87]このままでは1934年12月に6.5%程度へ低下し連合会加盟会社中6位に転落しかねない状況にあった
    • [88]第一期工事は1934年10月、第二期工事は11月に完成し湊工業所の月産能力は1万トン増強して4万300トンとなった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [82]巨額の資金を要する新工場計画は見送られたものの、既存セメント各社は既設工場の拡張を積極的に行なっていた

同じ時期、磐城セメントは同業他社への出資を重ね[89]た。1933年6月、大同電力と東邦電力[90]が資金調達のため手放した豊国セメント株を、競争会社への直接売却をはばかる両社の事情から三菱商事を名義上の買い手として買い取り[91]、1934年4月に譲り受けた株数は3万4500株[92]にのぼった。1935年11月には子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて敦賀セメント[93]を傍系会社とし、1937年6月に富山セメントの株式2万900株[94]を取得、同年9月には東武鉄道の根津嘉一郎社長が設立した富国セメント[95]の過半数株を取得した。七尾を含む5社を傘下に収めた結果、外地工場を含めた経営規模は浅野・小野田の両社と比べて遜色のない[96]ところまで達し、業界三大会社の地位が確立した。1938年5月、岩崎社長は創立30周年の訓示をレコードに吹き込み[97]、六大セメント会社を統制下に置いて月産能力30万トンに達した[98]と従業員に語った。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [89]磐城セメントはこの時期に対外的な積極政策を進め、豊国・敦賀・富国・富山の各セメント会社へ株式投資を行なった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [90]1933年6月に大同電力と東邦電力が資金調達のため豊国セメント株の売却を希望したのを受けて買入れを決めた
    • [91]大同電力と東邦電力は競争会社である磐城セメントへの直接売却をはばかり三菱商事が中継的に名義上の買い手となった
    • [92]三菱商事から譲渡されたのは1934年4月で、買い入れた豊国セメント株は3万4500株だった
    • [93]敦賀セメントは1935年11月に設立され、磐城セメントは子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて傍系会社とした
    • [94]1937年6月に富山セメントの株式2万900株を取得して経営に参加し傍系会社とした
    • [95]富国セメントは1936年2月に東武鉄道の根津嘉一郎社長によって設立され、1937年9月に磐城セメントが過半数株を取得した
    • [96]5社の過半数株式を取得し外地工場を含めると浅野・小野田の両社と比較してほとんど遜色のない経営規模に達した
    • [97]1938年5月に岩崎社長は創立30周年を迎える訓示をレコードに吹き込み従業員や関係各方面に配布した
    • [98]岩崎社長は訓示で六大セメント会社を統制下に有し月産能力30万トン・年産360万トンに達したと述べた

日中戦争下で国家統制が強まる[99]なか、業容の拡大は合併という形をとった。1940年12月1日、傘下の富国セメントを合併[100]して資本金は2800万円、年産能力は122万2800トン[101]に達した。これを機に1941年1月9日、四倉工業所を四倉工場[102]、湊工業所を八戸工場、富国の葛生工場を栃木工場と改称[103]した。一方、七尾セメントは1939年、休止中のキルンを使って大江山鉱山の含ニッケル鉱土から含ニッケル鉄を試験製錬[104]し、1941年8月に製鉄事業法第三条の許可[105]を得て本格生産に入った。1941年11月26日、磐城セメントは企業整備の形で七尾セメントと豊国セメント[106]を合併し、同日付で敦賀セメントも合併した。資本金は4150万円へ増え、七尾と苅田の2工場[107]が加わった。商工大臣に提出した合併申請書は、含ニッケル鉄の増産が時局下の重要資材として必要[108]であることを合併理由に挙げていた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [99]日中戦争開始後、臨時資金調整法や国家総動員法により政府が経済活動を直接統制できるようになった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [100]1940年11月に商工省の許可を得て12月1日付で富国セメントを合併し同社は解散した
    • [101]富国セメント合併により資本金2800万円・年産能力122万2800トンの規模となった
    • [102]1941年1月9日に四倉工業所を四倉工場、湊工業所を八戸工場、葛生工場を栃木工場と改称した
    • [103]栃木工場は富国セメントが栃木県安蘇郡葛生町に建設した葛生工場を改称したものである
    • [105]1941年8月に製鉄事業法第三条の許可を得て含ニッケル鉄の本格的な生産を始めた
    • [106]1941年11月26日付で七尾セメント・豊国セメント・敦賀セメントの3社を合併した
    • [107]3社合併により資本金は4150万円となり七尾・苅田の2工場が加わった
    • [108]商工大臣へ提出した製鉄事業合併決議内認可申請書は含ニッケル鉄が時局下の重要資材でありその増産を図る必要があると記した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [104]七尾工場の含ニッケル鉄は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料としていた
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
    • [80]1932年以降の需要回復は満州事変を契機とする軍事費の膨張と時局匡救事業の実施によるものだった
    • [81]1932年以降の年平均の生産制限率は常に50%を上回り、最低の1933年でも50.1%だった
    • [83]1932年12月に月産能力4000トンの増強をめざして四倉・湊両工業所の生産設備を拡充することを決めた
    • [84]時局匡救事業は農村恐慌が最も深刻だった東北地方に多く、東北を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切らざるをえなかった
    • [85]1933年2月20日の役員会は予算125万円をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた
    • [86]全国能力比率は1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%へ低下していた
    • [87]このままでは1934年12月に6.5%程度へ低下し連合会加盟会社中6位に転落しかねない状況にあった
    • [88]第一期工事は1934年10月、第二期工事は11月に完成し湊工業所の月産能力は1万トン増強して4万300トンとなった
    • [90]1933年6月に大同電力と東邦電力が資金調達のため豊国セメント株の売却を希望したのを受けて買入れを決めた
    • [91]大同電力と東邦電力は競争会社である磐城セメントへの直接売却をはばかり三菱商事が中継的に名義上の買い手となった
    • [92]三菱商事から譲渡されたのは1934年4月で、買い入れた豊国セメント株は3万4500株だった
    • [93]敦賀セメントは1935年11月に設立され、磐城セメントは子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて傍系会社とした
    • [94]1937年6月に富山セメントの株式2万900株を取得して経営に参加し傍系会社とした
    • [95]富国セメントは1936年2月に東武鉄道の根津嘉一郎社長によって設立され、1937年9月に磐城セメントが過半数株を取得した
    • [96]5社の過半数株式を取得し外地工場を含めると浅野・小野田の両社と比較してほとんど遜色のない経営規模に達した
    • [97]1938年5月に岩崎社長は創立30周年を迎える訓示をレコードに吹き込み従業員や関係各方面に配布した
    • [98]岩崎社長は訓示で六大セメント会社を統制下に有し月産能力30万トン・年産360万トンに達したと述べた
    • [100]1940年11月に商工省の許可を得て12月1日付で富国セメントを合併し同社は解散した
    • [101]富国セメント合併により資本金2800万円・年産能力122万2800トンの規模となった
    • [102]1941年1月9日に四倉工業所を四倉工場、湊工業所を八戸工場、葛生工場を栃木工場と改称した
    • [103]栃木工場は富国セメントが栃木県安蘇郡葛生町に建設した葛生工場を改称したものである
    • [105]1941年8月に製鉄事業法第三条の許可を得て含ニッケル鉄の本格的な生産を始めた
    • [106]1941年11月26日付で七尾セメント・豊国セメント・敦賀セメントの3社を合併した
    • [107]3社合併により資本金は4150万円となり七尾・苅田の2工場が加わった
    • [108]商工大臣へ提出した製鉄事業合併決議内認可申請書は含ニッケル鉄が時局下の重要資材でありその増産を図る必要があると記した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [82]巨額の資金を要する新工場計画は見送られたものの、既存セメント各社は既設工場の拡張を積極的に行なっていた
    • [89]磐城セメントはこの時期に対外的な積極政策を進め、豊国・敦賀・富国・富山の各セメント会社へ株式投資を行なった
    • [99]日中戦争開始後、臨時資金調整法や国家総動員法により政府が経済活動を直接統制できるようになった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [104]七尾工場の含ニッケル鉄は京都府北部の大江山鉱山から供給される含ニッケル鉱土を主原料としていた

軍需会社指定と、海外資産の全損で迎えた終戦

太平洋戦争下、磐城セメントの工場はセメント以外の軍需物資へ転換[109]した。七尾工場は1942年4月に3号キルンも含ニッケル鉄の生産へ移し[110]、セメント生産を休止した。栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令[111]を受け、1944年5月からキルン2基をともにドロマイトクリンカー[112]の生産へ切り替えた。ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材[113]で、その工業化は日本では磐城セメントが最初である。1943年5月29日、岩崎清七氏が初代会長[114]に、専務の岩崎清一郎氏が第三代社長[115]に就いた。同年9月30日には政府の企業整備方針に沿って常陸セメントを合併[116]し、日立工場を加えて工場は7か所に広がった。1944年4月、セメント11社はすべて第二次指定で軍需会社[117]となり、政府は岩崎清一郎社長を生産責任者に、各工場長を生産担当者[118]に指名した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [109]軍事面の必要から磐城セメントは軍にセメント以外の軍需物資の製造を要請され、七尾・栃木の両工場が全面転換した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [110]1942年4月から七尾工場の3号キルンも含ニッケル鉄生産に転換しセメント生産を休止した
    • [111]栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令を受けた
    • [112]1944年5月から栃木工場はセメント用キルン2基をともにドロマイトクリンカーの生産に切り替えた
    • [113]ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材で、わが国での工業化は磐城セメントが初めてだった
    • [114]1943年5月29日に岩崎清七社長が初代会長に就任した
    • [115]岩崎清一郎専務が第三代社長に就任した
    • [116]1943年9月30日付で政府の企業整備方針にもとづき常陸セメントを合併し日立工場とした
    • [117]1944年4月の第二次指定でセメント11社はすべて軍需会社となった
    • [118]軍需会社指定にともない岩崎清一郎社長が生産責任者、各工場長が生産担当者に指名された

戦争末期に七尾工場長を務めた小湊恒太郎氏[119]は後年、工場名が磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へ再度改称された[120]と回想している。1945年8月の終戦で、台湾・満州・中国に広げた事業はすべて失われた[121]。海外の会社に対する有価証券投資や融資金などの損失は合計1647万3741円[122]に達し、これは1946年8月の特別経理会社指定時における総資産の18%[123]を占めた。セメント生産数量も、1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トン[124]まで落ちた。配当は1945年度上期から止まっ[125]た。終戦から9日後の1945年8月24日、斎藤次郎常務は部長と工場長に宛てた書簡[126]で、製品ごとの需要見通し、工場ごとの復旧方針、資金と人員の扱い、原価切下げの必要を細かく指示した。1946年4月10日には磐城セメント労働組合が結成[127]され、翌11日、取締役会長の岩崎清七氏が83歳で死去[128]した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [119]小湊恒太郎は1945年4月に八戸工場長から七尾工場長へ転勤した
    • [120]小湊恒太郎の記述によれば七尾工場は磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へと再度改称された
    • [122]海外の会社に対する有価証券投資・融資金・受取手形などの損失総額は1647万3741円に達した
    • [123]海外資産の損失は1946年8月の特別経理会社指定時の総資産の18%に相当した
    • [124]セメント生産数量は1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トンへ激減した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [121]現地でのセメント生産に活躍した海外の工場も1945年8月の終戦ですべて失われた
    • [125]売上げ・利益とも大幅に落ち込んだ結果、1945年度上期から無配となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [126]1945年8月24日に斎藤次郎常務が部長・工場長へ送った書簡が戦後の会社方針を示達した
    • [127]1946年4月10日に磐城セメント労働組合が結成され従来の工場労組はその支部となった
    • [128]取締役会長の岩崎清七は1946年4月11日に83歳で死去した

1948年2月、磐城セメントは過度経済力集中排除法の審査対象に指定[129]を受けた。セメント業界では日本・小野田・大阪窯業・宇部の各社も同時に指定[130]を受けた。ただし磐城セメントは、戦時中の企業整備で取得した日立・敦賀・苅田の3工場[131]を、すでに旧所有者へ返還するか、その手続きを進めていた。指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%[132]で、1948年5月にこの事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出[133]したところ、7月に指定は取り消された[134]。同年8月に企業再建整備計画を提出し、9月30日付で認可[135]を得た。1948年4月9日には岩崎清一郎社長が会長に退き[136]、常務の斎藤次郎氏が第四代社長[137]に就いた。同年12月には全額出資で東京コンクリート工業を設立し、1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場[138]を完成させて、12月から日本で最初の生コンクリート生産[139]を始めた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [129]1948年2月に過度経済力集中排除法の審査対象に指定された
    • [130]セメント業界からは日本(旧浅野)・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社が指定された
    • [131]日立工場は1947年11月、敦賀工場は1948年2月、苅田工場は1948年3月に旧所有者側へ返還・分離された
    • [132]指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%だった
    • [133]1948年5月に事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出し指定の解除を申し入れた
    • [134]1948年7月に過度経済力集中排除法の指定は取り消された
    • [135]1948年8月に企業再建整備計画を当局へ提出し9月30日付で認可された
    • [136]1948年4月9日に岩崎清一郎社長が会長に退いた
    • [137]斎藤次郎常務が第四代社長に就任した
    • [138]1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場が完成し12月から生産を開始した
    • [139]1948年11月の役員会で全額出資による生コン会社設立を決め12月に東京コンクリート工業を設立、日本で最初の生コンクリート生産となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [109]軍事面の必要から磐城セメントは軍にセメント以外の軍需物資の製造を要請され、七尾・栃木の両工場が全面転換した
    • [121]現地でのセメント生産に活躍した海外の工場も1945年8月の終戦ですべて失われた
    • [125]売上げ・利益とも大幅に落ち込んだ結果、1945年度上期から無配となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
    • [110]1942年4月から七尾工場の3号キルンも含ニッケル鉄生産に転換しセメント生産を休止した
    • [111]栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令を受けた
    • [112]1944年5月から栃木工場はセメント用キルン2基をともにドロマイトクリンカーの生産に切り替えた
    • [113]ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材で、わが国での工業化は磐城セメントが初めてだった
    • [114]1943年5月29日に岩崎清七社長が初代会長に就任した
    • [115]岩崎清一郎専務が第三代社長に就任した
    • [116]1943年9月30日付で政府の企業整備方針にもとづき常陸セメントを合併し日立工場とした
    • [117]1944年4月の第二次指定でセメント11社はすべて軍需会社となった
    • [118]軍需会社指定にともない岩崎清一郎社長が生産責任者、各工場長が生産担当者に指名された
    • [119]小湊恒太郎は1945年4月に八戸工場長から七尾工場長へ転勤した
    • [120]小湊恒太郎の記述によれば七尾工場は磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へと再度改称された
    • [122]海外の会社に対する有価証券投資・融資金・受取手形などの損失総額は1647万3741円に達した
    • [123]海外資産の損失は1946年8月の特別経理会社指定時の総資産の18%に相当した
    • [124]セメント生産数量は1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トンへ激減した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [126]1945年8月24日に斎藤次郎常務が部長・工場長へ送った書簡が戦後の会社方針を示達した
    • [127]1946年4月10日に磐城セメント労働組合が結成され従来の工場労組はその支部となった
    • [128]取締役会長の岩崎清七は1946年4月11日に83歳で死去した
    • [129]1948年2月に過度経済力集中排除法の審査対象に指定された
    • [130]セメント業界からは日本(旧浅野)・小野田・磐城・大阪窯業・宇部の各社が指定された
    • [131]日立工場は1947年11月、敦賀工場は1948年2月、苅田工場は1948年3月に旧所有者側へ返還・分離された
    • [132]指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%だった
    • [133]1948年5月に事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出し指定の解除を申し入れた
    • [134]1948年7月に過度経済力集中排除法の指定は取り消された
    • [135]1948年8月に企業再建整備計画を当局へ提出し9月30日付で認可された
    • [136]1948年4月9日に岩崎清一郎社長が会長に退いた
    • [137]斎藤次郎常務が第四代社長に就任した
    • [138]1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場が完成し12月から生産を開始した
    • [139]1948年11月の役員会で全額出資による生コン会社設立を決め12月に東京コンクリート工業を設立、日本で最初の生コンクリート生産となった

レポール方式の先行採用と、住友グループへの合流

磐城セメントは1949年5月、東京証券取引所市場第一部に上場[140]した。翌1950年1月にセメントの統制が撤廃[141]されると、斎藤社長は4工場体制のままでは自由競争下の健全経営はできないと判断した。八戸・四倉・七尾の3工場は寒地にあって[142]冬季の不需要期の影響を強く受けるため、関東以西にあと2、3の工場を持つことが最も望ましい[143]と1950年8月の臨時株主総会資料で説明した。同年11月1日、磐城セメントは東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併[144]し、資本金は2億2500万円に増えた[145]。東洋セメントの工場は小倉工場となり、門司港に隣接して接岸荷役施設[146]を持つことから輸出専用工場の役割を担った。助六石灰工業は岐阜石灰工場に変わっ[147]た。同年12月、磐城セメントは本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移した[148]。生産拠点の近くに本社を置くべきだという斎藤社長の考え[149]による。

  • 有価証券報告書
    • [140]1949年5月に東京証券取引所市場第一部へ上場した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [141]GHQの指示により1950年1月以降セメントの全面的な統制撤廃が実施された
    • [142]八戸・四倉・七尾の3工場は寒地工場であり冬季不需要期の影響を強く受けると斎藤社長は説明した
    • [143]経営の不均衡を是正するには関東以西になお2、3の工場を有することが最も望ましいと株主総会資料は述べた
    • [144]1950年11月1日に東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併した
    • [145]3社合併にともなう7500万円の増資で資本金は2億2500万円となった
    • [146]小倉工場は門司港に隣接して接岸荷役施設を持っていたため輸出専用工場の役割を果たした
    • [148]1950年12月に本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移転し台東区の旧本社は東京事務所となった
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [147]1950年11月の3社合併により助六石灰工業は磐城セメントの岐阜石灰工場となった
    • [149]斎藤社長は生産拠点の近くに本社をおくべきだと考えており、この時点で名実ともに本社移転が実行された

1954年7月、磐城セメントは総工費約30億円[150]をかけて浜松工場を完成させた。日本で最初の本格的なレポールキルン2基[151]を備え、月産能力は2万5200トン[152]に達した。レポール方式は原料をペレットに造粒し、キルン排ガスの熱で乾燥と仮焼を済ませてから焼成する製造方式で、乾式キルンでクリンカー1トン当り160万から180万カロリー[153]を要した焼成熱量を、90万から100万カロリーへ下げられる。建設の狙いは電源開発の佐久間ダム向けセメントの供給[154]にあった。磐城セメントは佐久間・秋葉の両ダムへ中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トン[155]を納め、総使用量の80%を供給[156]した。1955年12月の役員会で各工場のレポール化[157]を決め、1963年までにキルンを新設16基・改造13基行い、うち18基をレポール方式[158]とした。1960年3月31日には川崎重工業系の川崎セメントを合併[159]し、大垣工場を岐阜工場として引き継いだ。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [150]浜松工場は総工費約30億円をかけて1954年7月に完成した
    • [151]浜松工場は日本で最初の本格的レポールキルン2基を備えた工場だった
    • [152]完成時の浜松工場の月産能力は2万5200トンだった
    • [153]乾式キルンでクリンカー1トン当り160万〜180万カロリーを要する焼成熱量をレポールキルンは90万〜100万カロリーへ低減できた
    • [154]浜松工場は電源開発の佐久間ダムへ専属的にセメントを納入する話がまとまったため岐阜計画を変更して建設された
    • [155]佐久間・秋葉両ダムに中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トンの合計80万トンを供給した
    • [156]両ダムの総使用セメント量の80%を磐城セメントが供給した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
    • [157]各工場のキルンをレポール方式へ転換する結論が出たのは1955年12月の役員会である
    • [158]1963年までに新設したキルンは16基、改造は13基に達し、そのうちレポール方式は新設13基・改造5基の計18基だった
    • [159]1960年3月31日をもって川崎重工業系の川崎セメントを吸収合併し大垣工場を岐阜工場として運営した

エネルギー革命で石炭産業が斜陽化するなか、住友石炭鉱業は石炭の自家使用と雇用問題への対策[160]を兼ねてセメント事業への進出を計画した。同じ福島県で新工場を計画していた磐城セメントは、県内での重複投資による過剰生産を憂慮[161]し、住友系の新会社が田村郡内に工場を建てるならば技術援助と販売ルートの提供[162]を行うと申し入れた。斎藤社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に提携を申し入れた[163]。1962年6月に住友系5社の出資で福島セメントが設立[164]され、磐城セメントは1963年5月、福島セメントと住友石灰工業を合併[165]して資本金は35億円へ増えた[166]。月産能力のシェアはこれにより12.77%から16.06%へ上がった[167]。合併で引き継いだ田村工場では、1963年6月から7月にかけてレポール方式のキルン3基が完成し、月産能力7万トンで操業[168]が始まった。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
    • [160]住友石炭鉱業は石炭の自家使用・雇用問題対策などを目的にセメント事業への進出を企図し石灰石鉱区を取得していた
    • [161]磐城セメントは同一県内における重複投資によって過剰生産に陥る公算が大きいことを憂慮した
    • [162]磐城セメントは住友系新会社が田村郡内に新工場を建設することを条件に技術援助と自社販売ルートでの運営を申し入れた
    • [163]斎藤社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に接触し提携を申し入れた
    • [164]1962年6月に住友機械工業を中心とする住友系5社の出資で資本金35億円の福島セメントが設立された
    • [165]有価証券報告書は1963年5月に福島セメント(田村工場)および住友石灰工業を合併したと記す。社史は両社の臨時株主総会決議を経た合併期日を1963年3月31日とする
    • [166]2社の合併で資本金は10億円増加して35億円となった
    • [167]福島セメント・住友石灰工業の合併により住友セメントの月産能力シェアは12.77%から16.06%へ伸びた
    • [168]田村工場は1963年6月下旬に1・2号キルン、7月初旬に3号キルンが完成して操業を開始し、月産能力は7万トンだった
  • 有価証券報告書
    • [140]1949年5月に東京証券取引所市場第一部へ上場した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
    • [141]GHQの指示により1950年1月以降セメントの全面的な統制撤廃が実施された
    • [142]八戸・四倉・七尾の3工場は寒地工場であり冬季不需要期の影響を強く受けると斎藤社長は説明した
    • [143]経営の不均衡を是正するには関東以西になお2、3の工場を有することが最も望ましいと株主総会資料は述べた
    • [144]1950年11月1日に東洋セメント・富士セメント・助六石灰工業の3社を合併した
    • [145]3社合併にともなう7500万円の増資で資本金は2億2500万円となった
    • [146]小倉工場は門司港に隣接して接岸荷役施設を持っていたため輸出専用工場の役割を果たした
    • [148]1950年12月に本社を栃木県安蘇郡葛生町へ移転し台東区の旧本社は東京事務所となった
    • [150]浜松工場は総工費約30億円をかけて1954年7月に完成した
    • [151]浜松工場は日本で最初の本格的レポールキルン2基を備えた工場だった
    • [152]完成時の浜松工場の月産能力は2万5200トンだった
    • [153]乾式キルンでクリンカー1トン当り160万〜180万カロリーを要する焼成熱量をレポールキルンは90万〜100万カロリーへ低減できた
    • [154]浜松工場は電源開発の佐久間ダムへ専属的にセメントを納入する話がまとまったため岐阜計画を変更して建設された
    • [155]佐久間・秋葉両ダムに中庸熱セメント約40万トンと普通セメント約40万トンの合計80万トンを供給した
    • [156]両ダムの総使用セメント量の80%を磐城セメントが供給した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [147]1950年11月の3社合併により助六石灰工業は磐城セメントの岐阜石灰工場となった
    • [149]斎藤社長は生産拠点の近くに本社をおくべきだと考えており、この時点で名実ともに本社移転が実行された
  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
    • [157]各工場のキルンをレポール方式へ転換する結論が出たのは1955年12月の役員会である
    • [158]1963年までに新設したキルンは16基、改造は13基に達し、そのうちレポール方式は新設13基・改造5基の計18基だった
    • [159]1960年3月31日をもって川崎重工業系の川崎セメントを吸収合併し大垣工場を岐阜工場として運営した
    • [160]住友石炭鉱業は石炭の自家使用・雇用問題対策などを目的にセメント事業への進出を企図し石灰石鉱区を取得していた
    • [161]磐城セメントは同一県内における重複投資によって過剰生産に陥る公算が大きいことを憂慮した
    • [162]磐城セメントは住友系新会社が田村郡内に新工場を建設することを条件に技術援助と自社販売ルートでの運営を申し入れた
    • [163]斎藤社長は1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に接触し提携を申し入れた
    • [164]1962年6月に住友機械工業を中心とする住友系5社の出資で資本金35億円の福島セメントが設立された
    • [165]有価証券報告書は1963年5月に福島セメント(田村工場)および住友石灰工業を合併したと記す。社史は両社の臨時株主総会決議を経た合併期日を1963年3月31日とする
    • [166]2社の合併で資本金は10億円増加して35億円となった
    • [167]福島セメント・住友石灰工業の合併により住友セメントの月産能力シェアは12.77%から16.06%へ伸びた
    • [168]田村工場は1963年6月下旬に1・2号キルン、7月初旬に3号キルンが完成して操業を開始し、月産能力は7万トンだった

1963年〜 住友の名を継いだ商号変更と、高度成長の終わりに現れた2期連続の最終赤字

住友大阪セメントの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1963年 定時株主総会における商号変更と本社移転の承認可決
  2. 1963年 磐城セメントの住友グループ加入と、住友セメントへの商号変更 配当30%を続ける会社が、なぜ創業以来の社名を自ら手放したのか
  3. 1964年 住友グループの社長会である白水会への加盟
  4. 1965年 和歌山セメント・西浜開発ほか2社の合併、資本金55億円
  5. 1972年 経営改善総合対策委員会の設置、12月には要綱を発表
  6. 1974年 住友石炭鉱業社長の藤末尚氏の第六代社長就任
  7. 1975年 工場閉鎖と希望退職を含む合理化案の労働組合への提示

商号変更が先、白水会加盟は8か月後だった順序

磐城セメントの住友グループ入りは、資本参加の受け入れが先で、社名の変更はそのあとに続いた[169]。1963年5月、同社は福島セメントと住友石灰工業を合併[170]し、両社の株主だった住友系各社が磐城セメント株を相当数[171]握った。同月29日の第95回定時株主総会[172]は、同年10月1日をもって商号を住友セメントへ改めること[173]、翌1964年4月に本社を栃木県葛生町から東京都台東区へ移すこと[174]など4項目を可決した。1964年3月末の大株主は住友石炭鉱業13.92%、住友生命保険11.19%、住友商事6.43%[175]と並び、上位10位のうち6社が住友系で34.88%[176]を占めた。改称にあわせて社章と商標は住友の井桁マークに変わった[177]

  • 私の住友昭和史(1988年)第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入
    • [169]住友側では1963年初めに磐城セメントへの資本参加が了承され、商号を住友セメントへ改めたのは同年10月1日だった
  • 有価証券報告書
    • [170]1963年5月に福島セメント(田村工場)および住友石灰工業(現・山口事業所)を合併した
    • [173]1963年10月1日をもって磐城セメントは商号を住友セメントに変更した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [171]両社の株主構成から住友系各社が磐城セメント株を相当数保有することになり、住友グループへ大きく接近した
    • [172]1963年5月29日の第95回定時株主総会が商号変更・本社移転を含む4項目を決議した
    • [174]本社を栃木県葛生町から東京都台東区へ移すことが同じ総会で決議された
    • [175]1964年3月31日現在の大株主は住友石炭鉱業13.92%、住友生命保険11.19%、住友商事6.43%だった
    • [176]上位10位の大株主のうち6社が住友系で、合計34.88%を保有していた
    • [177]商号変更にともない社章・商標を住友の井桁マークに改めた

グループ入りの理由を、斎藤社長は1963年5月23日付の日本経済新聞の対談で説明[178]した。1960年ごろ住友石炭鉱業が福島県下にセメント工場を新設する計画を知った[179]こと、実現すれば三菱・三井・住友の旧三大財閥が競い合って業界が混乱[180]すること、提携すれば有力な競争相手が一つ消えて原料も確保できることを挙げた。当時の業績は不振ではなく、1963年3月期の売上高は319億9,280万円、税引前利益は57億4,100万円、配当は30%[181]だった。社名について住友銀行の堀田庄三頭取は後年、住友側には磐城セメントの名を変えるつもりがなかった[182]と述べ、改称は斎藤社長の主張によるものだった[183]と回想した。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [178]斎藤次郎社長は1963年5月23日付日本経済新聞の対談記事でグループ入りの理由を説明した
    • [179]1960年ごろ住友石炭鉱業が福島県下にセメント工場を新設する計画があることを知った
    • [180]実現すれば三菱・三井・住友の旧三大財閥が競合して業界が混乱すると考えた
    • [181]1963年3月期は売上高319億9,280万円、税引前利益57億4,100万円、配当30%だった
    • [182]住友銀行の堀田庄三頭取は住友側に磐城セメントの名を変えるつもりはなかったと後年述べた
    • [183]社名変更は住友に入ったからには名実ともに住友でありたいという斎藤社長の主張によるものだった

白水会への加盟は、商号変更から8か月後の1964年6月[184]だった。住友側の記録によれば、1963年初めに堀田頭取が白水会の席で[185]、磐城セメントは業界で二、三位を占める優秀企業[186]であり、斜陽化する住友石炭鉱業の救済につながるとして資本参加は考慮に値する[187]と説明し、各社の協力を求めた。同年10月に磐城セメント側から住友セメントと改称して直ちに白水会へ加入したいという申し出[188]があり、少し早過ぎるのではないかという意見も出たうえで承認された[189]。加盟は1964年6月1日で、白水会は16社となった[190]。本社は同年4月1日に東京都台東区北稲荷町へ移り[191]、1950年12月以来14年ぶりに東京へ戻った[192]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [184]社名変更の8か月後にあたる1964年6月に住友グループの白水会へ加盟した
    • [190]住友セメントの加盟により白水会の加盟社は16社になった
    • [191]1964年4月1日に本社を東京都台東区北稲荷町13番地へ移転した
    • [192]1950年12月以来14年ぶりに本社が東京へ戻った
  • 私の住友昭和史(1988年)第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入
    • [185]1963年初め、住友銀行の堀田庄三頭取が白水会で磐城セメントへの資本参加について各社の協力を要請した
    • [186]堀田頭取は磐城セメントを業界で二、三位を占める優秀企業と説明した
    • [187]住友石炭鉱業の斜陽化を救う施策の一つとして磐城セメントへの資本参加が検討された
    • [188]1963年10月に磐城セメントから住友セメントと改称し直ちに白水会に加入したいという申し出があった
    • [189]白水会では少し早過ぎるのではないかという意見も出たうえで加入が承認された
  • 私の住友昭和史(1988年)第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入
    • [169]住友側では1963年初めに磐城セメントへの資本参加が了承され、商号を住友セメントへ改めたのは同年10月1日だった
    • [185]1963年初め、住友銀行の堀田庄三頭取が白水会で磐城セメントへの資本参加について各社の協力を要請した
    • [186]堀田頭取は磐城セメントを業界で二、三位を占める優秀企業と説明した
    • [187]住友石炭鉱業の斜陽化を救う施策の一つとして磐城セメントへの資本参加が検討された
    • [188]1963年10月に磐城セメントから住友セメントと改称し直ちに白水会に加入したいという申し出があった
    • [189]白水会では少し早過ぎるのではないかという意見も出たうえで加入が承認された
  • 有価証券報告書
    • [170]1963年5月に福島セメント(田村工場)および住友石灰工業(現・山口事業所)を合併した
    • [173]1963年10月1日をもって磐城セメントは商号を住友セメントに変更した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [171]両社の株主構成から住友系各社が磐城セメント株を相当数保有することになり、住友グループへ大きく接近した
    • [172]1963年5月29日の第95回定時株主総会が商号変更・本社移転を含む4項目を決議した
    • [174]本社を栃木県葛生町から東京都台東区へ移すことが同じ総会で決議された
    • [175]1964年3月31日現在の大株主は住友石炭鉱業13.92%、住友生命保険11.19%、住友商事6.43%だった
    • [176]上位10位の大株主のうち6社が住友系で、合計34.88%を保有していた
    • [177]商号変更にともない社章・商標を住友の井桁マークに改めた
    • [178]斎藤次郎社長は1963年5月23日付日本経済新聞の対談記事でグループ入りの理由を説明した
    • [179]1960年ごろ住友石炭鉱業が福島県下にセメント工場を新設する計画があることを知った
    • [180]実現すれば三菱・三井・住友の旧三大財閥が競合して業界が混乱すると考えた
    • [181]1963年3月期は売上高319億9,280万円、税引前利益57億4,100万円、配当30%だった
    • [182]住友銀行の堀田庄三頭取は住友側に磐城セメントの名を変えるつもりはなかったと後年述べた
    • [183]社名変更は住友に入ったからには名実ともに住友でありたいという斎藤社長の主張によるものだった
    • [184]社名変更の8か月後にあたる1964年6月に住友グループの白水会へ加盟した
    • [190]住友セメントの加盟により白水会の加盟社は16社になった
    • [191]1964年4月1日に本社を東京都台東区北稲荷町13番地へ移転した
    • [192]1950年12月以来14年ぶりに本社が東京へ戻った

合併で並んだ業界首位と、配当性向80%の代償

住友グループ入り後の設備投資は臨海工場へ向かった。1965年3月、住友セメントは和歌山セメント、西浜開発ほか2社を合併[193]し、資本金を20億円増の55億円とした[194]。和歌山セメントは1963年12月に浦賀重工業・川崎重工業・住友機械工業の出資で設立[195]され、住友セメントの秋芳鉱山から石灰石の供給を受ける計画[196]だったが、1964年の市況悪化で単独運営を断念[197]していた。合併で得た兵庫県赤穂市の旧塩田跡地には1965年2月に着工[198]し、1966年9月から12月にかけてレポールキルン3基が順に稼働[199]した。月産能力12万トンの赤穂工場は11番目の工場[200]で、臨海工場としては初めてである。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [193]1965年3月に和歌山セメント・西浜開発ほか2社を合併し資本金55億円となった
    • [194]合併により資本金を20億円増やして55億円とした
    • [195]和歌山セメントは1963年12月に浦賀重工業・川崎重工業・住友機械工業の共同出資で設立された
    • [196]和歌山セメントは住友セメントの秋芳鉱山から石灰石の供給を受ける構想だった
    • [197]1964年の市況悪化で和歌山セメントは単独運営を断念し住友セメントとの合併を決めた
    • [198]赤穂工場は1965年2月に着工した
    • [199]1966年9月25日に1号キルン、10月9日に2号、12月17日に3号が稼働した
    • [200]赤穂工場は月産能力12万トンで、住友セメントの11番目の工場かつ初の臨海工場だった

原料側の投資も同時に進んだ。1965年6月には秋芳鉱山から仙崎港までを結ぶ全長16.5キロメートルのベルトコンベアが完成[201]し、総建設費は約60億円に達した[202]。秋芳鉱山は可採鉱量40億トン、炭酸カルシウム98%以上の鉱区[203]で、1963年の住友石灰工業の合併によって住友セメントの所有となった[204]ものである。1966年には滋賀興産を合併して彦根・多賀の両工場を取得[205]し、資本金は75億円に増えた[206]。彦根工場が備える日産2,600トンのSPキルン2基は、当時の国内他社の1,000〜1,320トン級のほぼ2倍[207]に達する。合併後の月産能力81万9,000トンは業界1位の日本セメントと肩を並べ[208]、1968年度には生産・販売とも業界第1位に立った[209]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [201]秋芳鉱山と仙崎港を結ぶ全長16,463メートルのベルトコンベアが1965年6月に完成した
    • [202]秋芳鉱山開発の総建設費は約60億円だった
    • [203]秋芳鉱山は鉱区面積3,310ha・可採鉱量40億トン、炭酸カルシウム98%以上の品位を持つ
    • [204]秋芳鉱山はもと住友石炭鉱業、次いで住友石灰工業の所有で、1963年の合併により住友セメントのものとなった
    • [206]滋賀興産の合併で資本金は20億円増えて75億円となった
    • [207]彦根工場は日産2,600トンのポリジウス式SPキルン2基を備え、当時の国内他社の1,000〜1,320トン級の約2倍だった
    • [208]合併後の月産能力81万9,000トン・シェア16.2%は業界1位の日本セメントと同水準だった
    • [209]1968年度に生産・販売とも業界第1位となった
  • 有価証券報告書
    • [205]滋賀興産の合併により多賀工場・彦根工場を取得した

規模の拡大は財務を痛めた。1960年から1966年までの4度の合併[210]で業容は広がったが、高率配当を続けたため資金が社外へ流出し、配当性向は1963年度の29%から1966年度には80%へ上がった[211]。1970年4月に第五代社長となった古賀進氏[212]は、1972年の社内報で就任以来3期続けて減配した[213]と述べた。同年8月、住友セメントは経営改善総合対策委員会を設け[214]、12月1日に「経営改善総合対策要綱」18項目を発表[215]した。余剰員対策と労働生産性の向上、赤字のセメント工場とスレート工場の合理化計画の策定、臨海大型工場の建設促進[216]などが並んだ。1973年度の売上高は742億円と過去最高に達した[217]が、同年10月の第一次石油危機で赤穂工場の増設予算は246億円から330億円へ膨らんだ[218]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第8章 企業体質の強化をめざして
    • [210]1960年の川崎セメントから1966年の滋賀興産まで4度の合併を行った
    • [211]配当性向は1963年度の29%から1966年度に80%へ上昇し、内部の蓄積がほとんど残らなくなった
    • [212]1970年4月1日に副社長の古賀進が第五代社長に就任した
    • [213]古賀社長は1972年の社内報新年号で社長就任以来3期連続の減配を余儀なくされたと述べた
    • [214]1972年8月に経営改善総合対策委員会を設置した
    • [215]1972年12月1日に「経営改善総合対策要綱」18項目を発表した
    • [216]要綱には余剰員対策と労働生産性向上、赤字工場の合理化計画、臨海大型工場の建設促進が含まれた
    • [217]1973年度の売上高は742億円で過去最高、税引前利益は43億円だった
    • [218]赤穂工場増設の起業計画は石油危機後の1974年3月改訂で246億円から330億円へ増額された
  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
    • [193]1965年3月に和歌山セメント・西浜開発ほか2社を合併し資本金55億円となった
    • [194]合併により資本金を20億円増やして55億円とした
    • [195]和歌山セメントは1963年12月に浦賀重工業・川崎重工業・住友機械工業の共同出資で設立された
    • [196]和歌山セメントは住友セメントの秋芳鉱山から石灰石の供給を受ける構想だった
    • [197]1964年の市況悪化で和歌山セメントは単独運営を断念し住友セメントとの合併を決めた
    • [198]赤穂工場は1965年2月に着工した
    • [199]1966年9月25日に1号キルン、10月9日に2号、12月17日に3号が稼働した
    • [200]赤穂工場は月産能力12万トンで、住友セメントの11番目の工場かつ初の臨海工場だった
    • [201]秋芳鉱山と仙崎港を結ぶ全長16,463メートルのベルトコンベアが1965年6月に完成した
    • [202]秋芳鉱山開発の総建設費は約60億円だった
    • [203]秋芳鉱山は鉱区面積3,310ha・可採鉱量40億トン、炭酸カルシウム98%以上の品位を持つ
    • [204]秋芳鉱山はもと住友石炭鉱業、次いで住友石灰工業の所有で、1963年の合併により住友セメントのものとなった
    • [206]滋賀興産の合併で資本金は20億円増えて75億円となった
    • [207]彦根工場は日産2,600トンのポリジウス式SPキルン2基を備え、当時の国内他社の1,000〜1,320トン級の約2倍だった
    • [208]合併後の月産能力81万9,000トン・シェア16.2%は業界1位の日本セメントと同水準だった
    • [209]1968年度に生産・販売とも業界第1位となった
  • 有価証券報告書
    • [205]滋賀興産の合併により多賀工場・彦根工場を取得した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第8章 企業体質の強化をめざして
    • [210]1960年の川崎セメントから1966年の滋賀興産まで4度の合併を行った
    • [211]配当性向は1963年度の29%から1966年度に80%へ上昇し、内部の蓄積がほとんど残らなくなった
    • [212]1970年4月1日に副社長の古賀進が第五代社長に就任した
    • [213]古賀社長は1972年の社内報新年号で社長就任以来3期連続の減配を余儀なくされたと述べた
    • [214]1972年8月に経営改善総合対策委員会を設置した
    • [215]1972年12月1日に「経営改善総合対策要綱」18項目を発表した
    • [216]要綱には余剰員対策と労働生産性向上、赤字工場の合理化計画、臨海大型工場の建設促進が含まれた
    • [217]1973年度の売上高は742億円で過去最高、税引前利益は43億円だった
    • [218]赤穂工場増設の起業計画は石油危機後の1974年3月改訂で246億円から330億円へ増額された

11工場のうち5工場を閉じた10年と、5期にわたる無配

1974年5月、住友セメントは住友石炭鉱業社長の藤末尚氏を第六代社長に迎えた[219]。1974年度の販売数量は前年度より約24万トン少ない806万トン[220]、税引前利益は前年度の42億6,000万円から8億9,000万円へ落ち[221]、労働生産性は大手他社を20%以上下回っていた[222]。1975年6月10日、藤末社長は労働組合に希望退職1,200名の募集[223]と、七尾・多賀の両工場および浜松工場の岩水鉱山を7月31日で閉鎖[224]する案を示した。七尾工場の労働生産性は全社平均4,113トンに対し1,812トンで、過去10年の累積赤字は27億円[225]に達する。交渉の妥結を待たず6月23日から募集に入り、11月4日までの退職者は定年退職を含め1,196名[226]にのぼった。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第9章 合理化と積極経営の展開
    • [219]1974年5月28日の第110回定時株主総会で住友石炭鉱業社長の藤末尚が第六代社長に就任した
    • [220]1974年度の販売数量は806万トンで前年度より約24万トン減少した
    • [221]税引前利益は前年度の42億6,000万円から1974年度は8億9,000万円へ落ち込んだ
    • [222]住友セメントの労働生産性は大手他社に比べ20%以上低い水準にあった
    • [223]1975年6月10日に藤末社長が労働組合へ希望退職1,200名の募集と工場閉鎖を含む合理化案の協議を申し入れた
    • [224]七尾・多賀両工場と浜松工場の岩水鉱山を1975年7月31日で閉鎖する案だった
    • [225]七尾工場の労働生産性は全社平均4,113トンに対し1,812トンで、過去10年の累積赤字は27億円だった
    • [226]1975年6月23日から募集を開始し、11月4日現在の退職人員は定年退職者を含め1,196名だった

不採算工場の切り離しは続いた。1976年8月、累積赤字が40億円近い小倉工場[227]を分離して東洋セメントと東洋興産の2社へ移し、1977年9月には累積赤字65億円近い八戸工場を閉鎖して八戸セメントへ移した[229]。八戸の分離では50歳以上の全社員が同時に退職[230]した。従業員は1975年3月末の3,893名から1978年3月末には2,024名まで減った[231]。一方で1976年2月には月産18万トンのNSPキルンを持つ赤穂第二工場が本格操業[232]に入り、1979年からの第二次石油危機を受けて燃料を重油から石炭へ替え[233]、岐阜・赤穂・八戸の各工場に排熱発電を入れた[234]。1978年度には生産・販売とも1,000万トン台に[235]乗せた。 [228]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第9章 合理化と積極経営の展開
    • [227]小倉工場は1966年以来の慢性不採算工場で過去10年の累積赤字が40億円近くに達していた
    • [228]1976年8月10日付で小倉工場を分離し東洋セメント・東洋興産の2社へ移した
    • [229]1977年9月10日付で八戸工場を閉鎖・分離し八戸セメントへ移した。累積赤字は65億円近くだった
    • [230]八戸工場の分離にあわせ50歳以上の全社員が1977年9月10日付で円満退職した
    • [232]赤穂第二工場は1976年2月4日の火入れ式で本格操業に入り、月産能力18万トンのNSPキルンを備えた
    • [233]第二次石油危機を受けて燃料を重油から石炭へ転換し、1980・81年の2年で100%転換を達成した
    • [234]岐阜・赤穂第一・赤穂第二・八戸セメントの各工場に排熱発電設備を導入した
    • [235]1978年度に生産・販売とも1,000万トン台に達した
  • 住友セメント八十年史(1987年)資料編 従業員数の推移
    • [231]従業員数は1975年3月末3,893名から1978年3月末2,024名へ減少した

売上高は1982年3月期の1,595億円が最高だった[236]。1976年3月期に28億円の経常赤字[237]だった住友セメントは、1979年3月期には売上高1,207億円・経常利益92億円[238]まで戻していたが、国内需要が1979年度の8,297万トンを境に3年続けて減り[239]、採算はふたたび崩れた。1983年3月期は経常損失11億円・最終損失24億円[240]、1984年3月期は経常損失20億円・最終損失51億円[241]で、2期続けての赤字である。配当は1982年9月中間期から止まり、1949年度下期の復配以来はじめての無配が1986年3月期まで4期続いた[242]。1982年6月に第七代社長となった今川彦二氏[243]は、1983年1月に自らを本部長とする経営改善推進本部を置き、約2年で106億円のコスト削減[244]を掲げた。

  • 『会社年鑑 1986年版』(日本経済新聞社、1985年)
    • [236]1982年3月期の単体売上高1,595億4,300万円が住友セメントの売上のピークだった
    • [237]1976年3月期の単体経常損益は28億2,600万円の赤字だった
    • [238]1979年3月期の単体売上高は1,207億4,700万円、経常利益は92億1,600万円だった
    • [240]1983年3月期は経常損失10億7,100万円、最終損益は24億300万円の赤字だった
    • [241]1984年3月期は経常損失19億9,200万円、最終損益は50億6,800万円の赤字だった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [239]国内セメント需要は1979年度の8,297万トンをピークに1980〜82年度と3年続けて減少した
    • [242]1982年9月中間決算で1949年度下期の復配以来はじめて無配とし、無配は1983年3月期から1986年3月期までの4期に及んだ
    • [243]1982年6月29日の取締役会で常務の今川彦二が第七代社長に就任した
    • [244]1983年1月に社長を本部長とする経営改善推進本部を設け、1985年3月末までに合計106億円のコスト削減を目標とした
  • 住友セメント八十年史(1987年)第9章 合理化と積極経営の展開
    • [219]1974年5月28日の第110回定時株主総会で住友石炭鉱業社長の藤末尚が第六代社長に就任した
    • [220]1974年度の販売数量は806万トンで前年度より約24万トン減少した
    • [221]税引前利益は前年度の42億6,000万円から1974年度は8億9,000万円へ落ち込んだ
    • [222]住友セメントの労働生産性は大手他社に比べ20%以上低い水準にあった
    • [223]1975年6月10日に藤末社長が労働組合へ希望退職1,200名の募集と工場閉鎖を含む合理化案の協議を申し入れた
    • [224]七尾・多賀両工場と浜松工場の岩水鉱山を1975年7月31日で閉鎖する案だった
    • [225]七尾工場の労働生産性は全社平均4,113トンに対し1,812トンで、過去10年の累積赤字は27億円だった
    • [226]1975年6月23日から募集を開始し、11月4日現在の退職人員は定年退職者を含め1,196名だった
    • [227]小倉工場は1966年以来の慢性不採算工場で過去10年の累積赤字が40億円近くに達していた
    • [228]1976年8月10日付で小倉工場を分離し東洋セメント・東洋興産の2社へ移した
    • [229]1977年9月10日付で八戸工場を閉鎖・分離し八戸セメントへ移した。累積赤字は65億円近くだった
    • [230]八戸工場の分離にあわせ50歳以上の全社員が1977年9月10日付で円満退職した
    • [232]赤穂第二工場は1976年2月4日の火入れ式で本格操業に入り、月産能力18万トンのNSPキルンを備えた
    • [233]第二次石油危機を受けて燃料を重油から石炭へ転換し、1980・81年の2年で100%転換を達成した
    • [234]岐阜・赤穂第一・赤穂第二・八戸セメントの各工場に排熱発電設備を導入した
    • [235]1978年度に生産・販売とも1,000万トン台に達した
  • 住友セメント八十年史(1987年)資料編 従業員数の推移
    • [231]従業員数は1975年3月末3,893名から1978年3月末2,024名へ減少した
  • 『会社年鑑 1986年版』(日本経済新聞社、1985年)
    • [236]1982年3月期の単体売上高1,595億4,300万円が住友セメントの売上のピークだった
    • [237]1976年3月期の単体経常損益は28億2,600万円の赤字だった
    • [238]1979年3月期の単体売上高は1,207億4,700万円、経常利益は92億1,600万円だった
    • [240]1983年3月期は経常損失10億7,100万円、最終損益は24億300万円の赤字だった
    • [241]1984年3月期は経常損失19億9,200万円、最終損益は50億6,800万円の赤字だった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [239]国内セメント需要は1979年度の8,297万トンをピークに1980〜82年度と3年続けて減少した
    • [242]1982年9月中間決算で1949年度下期の復配以来はじめて無配とし、無配は1983年3月期から1986年3月期までの4期に及んだ
    • [243]1982年6月29日の取締役会で常務の今川彦二が第七代社長に就任した
    • [244]1983年1月に社長を本部長とする経営改善推進本部を設け、1985年3月末までに合計106億円のコスト削減を目標とした

1984年〜 事業部制で始めた多角化、大阪セメントとの合併、そして静電チャックが育つまで

住友大阪セメントの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1984年 別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填の承認可決
  2. 1984年 非セメント部門の売上構成比を50%とする10年計画の策定と、「電・光・石・化」4分野への進出 セメントが売上の93%を占める会社が、2期連続赤字と3期連続無配のさなかに、なぜ最も回収の遅い研究開発型の多角化を選んだか
  3. 1984年 浜松工場の閉鎖
  4. 1985年 中期三ヵ年実行計画「RCP作戦」の策定
  5. 1994年 住友セメントと大阪セメントの合併による住友大阪セメントの発足
  6. 2003年 伊吹工場におけるセメント生産の中止
  7. 2022年 石炭高騰下での1トン2,000円級の値上げの反復と、生コン向け取引慣行の見直し 目先の黒字化か、脱炭素投資の原資か——諸橋央典社長はどこまで転嫁を通そうとしたか

セメント92%からの脱出を掲げた新経営基本戦略

赤字の2期を挟んで、住友セメントは自社の診断を外部に委ねた[245]。1983年5月、米マッキンゼーの3名と社内15名でSKチームを組み[246]、約11か月の経営診断を経て1984年3月30日に「新たな事業基盤の確立を目指して」を答申[247]した。現状診断は「視野の限定された保守的な体質」[248]というもので、川下化・国際化・ハイテク化の複合戦略と、事業単位への組織の組み替え[249]を求めた。10年後の姿として置いたのは、売上高2,500億円・うちセメント50%・利益140億円[250]である。1984年6月29日の第121回定時株主総会は定款の営業目的を広げ[251]、別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填を可決[252]し、上村敏夫氏を第四代会長に選んだ[253]

  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [245]1983年3月期・1984年3月期の2期連続赤字のさなかにあたる1983年5月、米マッキンゼーの3名と社内15名でSKチームを組み、外部コンサルタントによる経営診断に着手した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [246]1983年5月に米マッキンゼー3名と住友セメント社内15名でSKチームを設置した
    • [247]約11か月の経営診断を経て1984年3月30日に最終報告「新たな事業基盤の確立を目指して」を答申した
    • [248]SKチームの現状診断は「視野の限定された保守的な体質」というものだった
    • [249]答申は川下化・国際化・ハイテク化の複合戦略と事業単位の組織への転換を求めた
    • [250]SKチーム答申の10年後像は売上高2,500億円(セメント50%)・利益140億円だった
    • [251]1984年6月29日の第121回定時株主総会で定款の営業目的を変更した
    • [252]同総会で別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填を承認可決した
    • [253]1984年6月29日に特別顧問の上村敏夫が第四代会長に選任された

1984年7月16日、今川社長は新しい経営基本戦略と組織改正を発表[254]した。柱はセメント事業での収益基盤の確立と、国際化・ハイテク化・川下化の3戦略による多角化[255]で、10年後に国際的なハイテク企業へ変わることを最終目標[256]に据えた。組織では資源・製品・海外の3事業部を置いて事業部制へ移り、課をチームに替え[257]、中央研究所に基礎・新材料・構造材料・光電子材料の各研究室[258]を設けた。同年10月には事業開発部にOA事業室を置き[259]、生コン品質管理システムを1985年2月に売り出した[260]。1985年4月18日には中期三ヵ年実行計画を決め、変革・創造・躍進の頭文字から「RCP作戦」[261]と名づけた。

  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [254]1984年7月16日に新経営基本戦略・企業体質改善の考え方・組織改正を発表した
    • [255]経営基本戦略はセメント事業の収益基盤確立と国際化・ハイテク化・川下化の三戦略による多角化だった
    • [256]10年後に国際的ハイテクノロジー企業へ脱皮することを最終目標に掲げた
    • [257]資源事業部・製品事業部・海外事業部を置いて事業部制を導入し、課制に代えてチーム制とした
    • [258]中央研究所に基礎・新材料・構造材料・光電子材料の各研究室を設置した
    • [259]1984年10月に事業開発部にOA事業室を設置した
    • [260]生コン品質管理システムを組み込んだXL-Qシリーズを1985年2月に発売した
    • [261]1985年4月18日の全社中期経営計画会議で中期三ヵ年実行計画を決定し、変革・創造・躍進の頭文字からRCP作戦と命名した

当時の単体売上高1,436億円はセメントが92%を占め[262]、子会社を含む多角化部門の比率は1985年4月の計画開始時点で8.7%[263]にすぎない。今川社長はエレクトロニクス・オプトエレクトロニクス・セラミックス・超微粒子の4分野を「電光石化」と呼び[264]、1985年4月から10年で多角化部門の比率を50%へ、子会社を含む総売上高を1,445億円から2,500億円へ[265]引き上げる計画を立てた。1986年7月にプリント配線板のスミセ電子[266]、1987年1月に光部品の応用光電研究室[267]、1988年12月に日本電気との共同出資で住友セメントシステム開発[268]を設けた。経常利益は1985年度の29億円から1988年度に107億円まで戻り[269]、1986年度には5期ぶりに年10%の配当を復活させた[270]

  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [262]中期三ヵ年実行計画のベースとなった1984年度売上高見込は1,436億円で、うちセメントが92%を占めた
    • [266]1986年7月1日に産業用プリント配線板を製造するスミセ電子を出資比率50%で設立した
    • [267]1987年1月にオプトエレクトロニクス応用部品を手掛ける応用光電研究室の全株式を取得した
    • [270]1986年度決算で5年ぶりに年10%の配当を復活した
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」
    • [263]1985年4月に始めた10年計画において、出発点の多角化部門(子会社を含む)の売上比率は8.7%で、これを1995年までに50%へ引き上げる計画だった
    • [264]今川彦二社長はエレクトロニクス・オプトエレクトロニクス・セラミックス・超微粒子の4事業を「電光石化」と名づけた
    • [265]1985年4月から10年で多角化部門の売上比率を50%へ、子会社を含む総売上高を1,445億円から2,500億円へ拡大する計画だった
  • 有価証券報告書
    • [268]1988年12月にOAシステム事業部門を分離し、日本電気との共同出資で住友セメントシステム開発を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」
    • [269]経常利益は1985年度29億円、1986年度70億円、1987年度102億円、1988年度107億円と回復した
  • 住友セメント八十年史(1987年)
    • [245]1983年3月期・1984年3月期の2期連続赤字のさなかにあたる1983年5月、米マッキンゼーの3名と社内15名でSKチームを組み、外部コンサルタントによる経営診断に着手した
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [246]1983年5月に米マッキンゼー3名と住友セメント社内15名でSKチームを設置した
    • [247]約11か月の経営診断を経て1984年3月30日に最終報告「新たな事業基盤の確立を目指して」を答申した
    • [248]SKチームの現状診断は「視野の限定された保守的な体質」というものだった
    • [249]答申は川下化・国際化・ハイテク化の複合戦略と事業単位の組織への転換を求めた
    • [250]SKチーム答申の10年後像は売上高2,500億円(セメント50%)・利益140億円だった
    • [251]1984年6月29日の第121回定時株主総会で定款の営業目的を変更した
    • [252]同総会で別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填を承認可決した
    • [253]1984年6月29日に特別顧問の上村敏夫が第四代会長に選任された
    • [254]1984年7月16日に新経営基本戦略・企業体質改善の考え方・組織改正を発表した
    • [255]経営基本戦略はセメント事業の収益基盤確立と国際化・ハイテク化・川下化の三戦略による多角化だった
    • [256]10年後に国際的ハイテクノロジー企業へ脱皮することを最終目標に掲げた
    • [257]資源事業部・製品事業部・海外事業部を置いて事業部制を導入し、課制に代えてチーム制とした
    • [258]中央研究所に基礎・新材料・構造材料・光電子材料の各研究室を設置した
    • [259]1984年10月に事業開発部にOA事業室を設置した
    • [260]生コン品質管理システムを組み込んだXL-Qシリーズを1985年2月に発売した
    • [261]1985年4月18日の全社中期経営計画会議で中期三ヵ年実行計画を決定し、変革・創造・躍進の頭文字からRCP作戦と命名した
    • [262]中期三ヵ年実行計画のベースとなった1984年度売上高見込は1,436億円で、うちセメントが92%を占めた
    • [266]1986年7月1日に産業用プリント配線板を製造するスミセ電子を出資比率50%で設立した
    • [267]1987年1月にオプトエレクトロニクス応用部品を手掛ける応用光電研究室の全株式を取得した
    • [270]1986年度決算で5年ぶりに年10%の配当を復活した
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」
    • [263]1985年4月に始めた10年計画において、出発点の多角化部門(子会社を含む)の売上比率は8.7%で、これを1995年までに50%へ引き上げる計画だった
    • [264]今川彦二社長はエレクトロニクス・オプトエレクトロニクス・セラミックス・超微粒子の4事業を「電光石化」と名づけた
    • [265]1985年4月から10年で多角化部門の売上比率を50%へ、子会社を含む総売上高を1,445億円から2,500億円へ拡大する計画だった
  • 有価証券報告書
    • [268]1988年12月にOAシステム事業部門を分離し、日本電気との共同出資で住友セメントシステム開発を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」
    • [269]経常利益は1985年度29億円、1986年度70億円、1987年度102億円、1988年度107億円と回復した

拡大から選別へ振れた2年と、大阪セメントとの合併

1990年6月、副社長の立元正一氏が社長に就いた[271]。就任の4か月前にあたる1990年2月15日、立元氏は日本証券アナリスト協会の企業分析部会[272]で講演し、1985年の中期計画を立てた当時セメント以外の売上高は子会社を含めて全体のおよそ9%だった[273]と述べた。これを10年で50%へ引き上げる目標[274]を掲げ、1989年3月期には非セメント比率が15%強まで来ていた[275]。同じ月には住友金属工業でエンジニアリング本部副本部長を務めた山登英臣氏を取締役に迎えた[276]。ところが比率は1990年3月期・1991年3月期と15%台で足踏みし、1991年3月期の新規事業売上高は230億円・15.6%[277]にとどまった。日本セメントの27.9%、小野田セメントの27.8%[278]とは10ポイント以上の開きがあった。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」
    • [271]立元正一は1990年6月に住友セメント社長へ就任した
    • [277]1991年3月期の新規事業売上高は230億円で全体の15.6%を占め、2期続けて15%台にとどまった
    • [278]同時期の多角化比率は日本セメント27.9%、小野田セメント27.8%だった
  • 証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」
    • [272]1990年2月15日に日本証券アナリスト協会企業分析部会で立元正一副社長が講演した
    • [273]立元正一副社長は1985年に中期計画を立てた当時のセメント以外の売上高を総売上高の約9%と説明した(計画の出発点の値は子会社を含むベースで8.7%)
    • [274]非セメント比率を10年程度で50%にすることを目標としてきた
    • [275]1989年3月期の非セメント部門の売上高構成比は15%強となった
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏[住友大阪セメント]登場」
    • [276]山登英臣は住友金属工業のエンジニアリング本部副本部長を経て1990年6月に住友セメント取締役へ就任した

立元社長は「手を広げる時代は終わった」(日経ビジネス 1991/9/16)[279]と社内に告げ、拡大から選別へ方針を変えた。1991年6月には超微粒子・セラミックス・バイオマテリアルの3事業を新材料事業部にまとめ[280]、分散していた要員90人を集約[281]した。研究テーマは研究・開発・事業化の3段階に分け、各段階に2年の猶予を与えて先へ進めない案件を落とす[282]仕組みを本格運用した。研究段階から事業化まで進んだテーマは2〜3割で、バイオセンサーと磁性流体は事業化に届かなかった[283]。柱として残したのは超微粒子とオプトエレクトロニクス[284]である。1994年3月期までの3年間の総投資450億円のうち350億円はセメント事業の合理化に充て、新規事業への投資は100億円[285]に抑えた。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」
    • [279]立元正一社長は「手を広げる時代は終わった。見込みのない事業を切り捨てないと無駄な投資が続く」と述べた
    • [280]1991年6月に超微粒子・セラミックス・バイオマテリアルの3事業を統合した新材料事業部を新設した
    • [281]3事業部門に分散していた要員90人を新材料事業部へ集約した
    • [282]研究テーマを研究・開発・事業化の3ランクに分け、各段階に2年の猶予期間を与えて評価する仕組みを運用した
    • [283]研究段階から事業化まで進んだテーマは2、3割にすぎず、バイオセンサーと磁性流体は事業化に至らなかった
    • [284]新材料部門の超微粒子とオプトエレクトロニクスを柱として強化する方針を採った
    • [285]1994年3月期までの3年間の総投資額450億円のうち350億円をセメント事業の合理化に、100億円を新規事業に配分した

1994年10月1日、住友セメントは大阪セメントと合併し、商号を住友大阪セメントへ[286]改めた。大阪セメントは1917年に大阪窯業のセメント部として発足[287]し、1926年12月に大阪窯業セメントとして独立、1963年7月に大阪セメントへ改めた[288]関西地盤の専業メーカーで、『会社年鑑 1986年版』では売上高556億円・セメント依存度95%と上場6社のうち最小[289]だった。住友セメントの依存度も93%あり[290]、両社は産業構造改善臨時措置法のもとで別々の共販会社に属していた[291]。合併は共販の解消とセットで行われ、同じ時期に小野田セメントと秩父セメントも合併[292]した。合併で業界2位に立ったものの、その後の2年間は連結で赤字[293]が続いた。

  • 有価証券報告書
    • [286]1994年10月に住友セメントと大阪セメントが合併し、商号を住友大阪セメントに変更した
    • [287]大阪セメントは1917年に大阪窯業のセメント部として発足した
    • [288]1926年12月に大阪窯業セメントとして設立され、1963年7月に大阪セメントへ商号変更した
  • 『会社年鑑 1986年版』(日本経済新聞社、1985年)
    • [289]大阪セメントの直近期売上高は556億円、セメント依存度95%で、上場6社のうち最も規模が小さかった
    • [290]住友セメントの1985年3月期のセメント売上構成比は93%だった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [291]産構法によるグループ化で住友セメントはアンデスセメント共同事業、大阪セメントは大日本セメント共同事業に属した
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「事業再構築の試み」
    • [292]住友セメント・大阪セメントは共販を解消して合併に踏み切り、同じ時期に小野田セメントと秩父セメントも合併した
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏[住友大阪セメント]登場」
    • [293]合併により業界2位となったが、合併直後の2年間は連結ベースで赤字が続いた
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」
    • [271]立元正一は1990年6月に住友セメント社長へ就任した
    • [277]1991年3月期の新規事業売上高は230億円で全体の15.6%を占め、2期続けて15%台にとどまった
    • [278]同時期の多角化比率は日本セメント27.9%、小野田セメント27.8%だった
    • [279]立元正一社長は「手を広げる時代は終わった。見込みのない事業を切り捨てないと無駄な投資が続く」と述べた
    • [280]1991年6月に超微粒子・セラミックス・バイオマテリアルの3事業を統合した新材料事業部を新設した
    • [281]3事業部門に分散していた要員90人を新材料事業部へ集約した
    • [282]研究テーマを研究・開発・事業化の3ランクに分け、各段階に2年の猶予期間を与えて評価する仕組みを運用した
    • [283]研究段階から事業化まで進んだテーマは2、3割にすぎず、バイオセンサーと磁性流体は事業化に至らなかった
    • [284]新材料部門の超微粒子とオプトエレクトロニクスを柱として強化する方針を採った
    • [285]1994年3月期までの3年間の総投資額450億円のうち350億円をセメント事業の合理化に、100億円を新規事業に配分した
  • 証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」
    • [272]1990年2月15日に日本証券アナリスト協会企業分析部会で立元正一副社長が講演した
    • [273]立元正一副社長は1985年に中期計画を立てた当時のセメント以外の売上高を総売上高の約9%と説明した(計画の出発点の値は子会社を含むベースで8.7%)
    • [274]非セメント比率を10年程度で50%にすることを目標としてきた
    • [275]1989年3月期の非セメント部門の売上高構成比は15%強となった
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏[住友大阪セメント]登場」
    • [276]山登英臣は住友金属工業のエンジニアリング本部副本部長を経て1990年6月に住友セメント取締役へ就任した
    • [293]合併により業界2位となったが、合併直後の2年間は連結ベースで赤字が続いた
  • 有価証券報告書
    • [286]1994年10月に住友セメントと大阪セメントが合併し、商号を住友大阪セメントに変更した
    • [287]大阪セメントは1917年に大阪窯業のセメント部として発足した
    • [288]1926年12月に大阪窯業セメントとして設立され、1963年7月に大阪セメントへ商号変更した
  • 『会社年鑑 1986年版』(日本経済新聞社、1985年)
    • [289]大阪セメントの直近期売上高は556億円、セメント依存度95%で、上場6社のうち最も規模が小さかった
    • [290]住友セメントの1985年3月期のセメント売上構成比は93%だった
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
    • [291]産構法によるグループ化で住友セメントはアンデスセメント共同事業、大阪セメントは大日本セメント共同事業に属した
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「事業再構築の試み」
    • [292]住友セメント・大阪セメントは共販を解消して合併に踏み切り、同じ時期に小野田セメントと秩父セメントも合併した

需要半減の20年と、セメント以外が営業利益の6割を占めるまで

合併後は重複する設備の整理が続いた。1996年3月に彦根工場を閉じ[294]、2000年3月に田村工場、2003年3月には伊吹工場のセメント生産[295]をやめた。1998年6月、住友金属工業から1990年に移っていた山登氏が社長に就いた[296]。就任直前の5月には電気化学工業とセメント事業で提携[297]し、山登氏は「合併よりも提携という緩やかな連帯で規模を確保し」(日経ビジネス 1998/6/22)[298]たいと語った。同じ1998年に秩父小野田と日本セメントが合併し、三菱マテリアルと宇部興産もセメント事業を統合[299]したため、合併で2位へ上がった住友大阪セメントは3位へ下がった[300]

  • 有価証券報告書
    • [294]1996年3月に彦根工場を閉鎖した
    • [295]2000年3月に田村工場を閉鎖し、2003年3月に伊吹工場のセメント生産を中止した
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏[住友大阪セメント]登場」
    • [296]山登英臣は1998年6月26日に住友大阪セメント社長へ就任した
    • [297]1998年5月26日に電気化学工業とセメント事業での提携を発表し、生産・物流・研究開発で協力することとした
    • [298]山登英臣は合併よりも提携という緩やかな連帯で規模を確保し生き残りを図りたいと述べた
    • [299]1998年10月に秩父小野田と日本セメントが合併し、同年7月に三菱マテリアルと宇部興産がセメント事業を統合した
    • [300]業界再編により住友大阪セメントの順位は2位から3位へ下がることが確実視された

国内のセメント需要は1990年度の8,630万トン[301]から減り続けた。2010年には業界が下限とみていた年5,000万トンを割り、4,000万トン台へ落ちる見込み[302]となった。住友大阪セメントは2010年度上期に他社と歩調を合わせて生産設備の前工程を改造し、能力を25%削って稼働率を90%台へ戻した[303]。渡邊穰社長は当時、産業廃棄物を原燃料として受け入れるリサイクル事業を除けばセメント事業は実質赤字だとし、「内需が伸びることはもはや期待できず」(週刊東洋経済 2010/12/18)[304]と述べた。国内で約70%の施工実績を持つ電気防食工法[305]など、劣化した鉄筋コンクリート構造物を延命させる建材分野[306]が、このころの成長候補に挙がった。

  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」
    • [301]1990年度の国内セメント需要は8,630万トンで、1979年度の記録を上回る過去最高だった
  • 週刊東洋経済 2010年12月18日号「電気防食工法で先行する住友大阪セメントの狙い」
    • [302]2010年の国内セメント需要は業界が下限と想定していた年5,000万トンを割り込み4,000万トンになる見込みだった
    • [303]2010年度上期に大手他社と歩調を合わせてセメント生産設備の前工程を改造し25%の能力削減を実施、稼働率は90%台へ上昇した
    • [304]渡邊穰社長は産業廃棄物処理事業を除くとセメント事業は実質赤字で内需の伸びは期待できないと述べた
    • [305]電気化学的防食工法で住友大阪セメントは国内で約70%の市場占有率(施工実績)を持つ
    • [306]橋梁や埠頭など鉄筋コンクリート構造物の長寿命化事業を建材事業の重点に据えた

連結売上高は2019年3月期の2,511億円から減り、2022年3月期は1,842億円[307]、2023年3月期は石炭の高騰で営業損益が86億円、最終損益が57億円のいずれも赤字[308]となった。2022年4〜6月期だけでセメント事業の営業損益は54億円の赤字[309]だった。値上げと半導体向けの需要増で2026年3月期は売上高2,237億円・営業利益136億5,000万円[310]まで戻し、半導体製造装置に使う静電チャックを持つ高機能品事業が伸び、セメント以外が全社営業利益の6割以上を占めている[311]。諸橋央典社長は2026年5月、2028年度に営業利益270億円[312]、2035年にセメントとそれ以外の売上高を50対50とする計画[313]を示した。2020年12月に公表したカーボンニュートラル戦略[314]では、2035年の化石エネルギー代替率60%とCO2再資源化人工石灰石の社会実装[315]を掲げている。

  • 有価証券報告書
    • [307]連結売上高は2019年3月期の2,510億61百万円がピークで、2022年3月期は1,842億9百万円へ減った
    • [308]2023年3月期の連結営業損益は85億55百万円の赤字、親会社株主に帰属する当期純損益は57億19百万円の赤字だった
  • 週刊東洋経済 2022年10月1日号「石炭高騰でセメント苦境」
    • [309]2022年4〜6月期のセメント事業の営業損益は54億円の赤字だった
  • 住友大阪セメント 2025年度決算・中期経営計画説明会 質疑応答(2026年5月14日)
    • [310]2026年3月期の連結売上高は2,237億円、営業利益は136億5,000万円だった
    • [311]半導体製造装置向け静電チャックを扱う高機能品事業が伸び、セメント以外の事業が全社営業利益の6割以上を占めるに至った
    • [312]諸橋央典社長は2026年5月に新中期経営計画を公表し、2028年度営業利益270億円を目標に置いた
    • [313]2035年にセメント事業とセメント以外の売上高を50対50とし、売上高4,000億円・営業利益400億円以上を目指す
  • 住友大阪セメント カーボンニュートラル戦略説明会 質疑応答(2026年6月10日)
    • [314]カーボンニュートラル戦略SOCN2050を2020年12月に公表した
    • [315]2035年の化石エネルギー代替率60%を目標に掲げ、CO2再資源化人工石灰石の2030年以降の社会実装を目指す
  • 有価証券報告書
    • [294]1996年3月に彦根工場を閉鎖した
    • [295]2000年3月に田村工場を閉鎖し、2003年3月に伊吹工場のセメント生産を中止した
    • [307]連結売上高は2019年3月期の2,510億61百万円がピークで、2022年3月期は1,842億9百万円へ減った
    • [308]2023年3月期の連結営業損益は85億55百万円の赤字、親会社株主に帰属する当期純損益は57億19百万円の赤字だった
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏[住友大阪セメント]登場」
    • [296]山登英臣は1998年6月26日に住友大阪セメント社長へ就任した
    • [297]1998年5月26日に電気化学工業とセメント事業での提携を発表し、生産・物流・研究開発で協力することとした
    • [298]山登英臣は合併よりも提携という緩やかな連帯で規模を確保し生き残りを図りたいと述べた
    • [299]1998年10月に秩父小野田と日本セメントが合併し、同年7月に三菱マテリアルと宇部興産がセメント事業を統合した
    • [300]業界再編により住友大阪セメントの順位は2位から3位へ下がることが確実視された
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」
    • [301]1990年度の国内セメント需要は8,630万トンで、1979年度の記録を上回る過去最高だった
  • 週刊東洋経済 2010年12月18日号「電気防食工法で先行する住友大阪セメントの狙い」
    • [302]2010年の国内セメント需要は業界が下限と想定していた年5,000万トンを割り込み4,000万トンになる見込みだった
    • [303]2010年度上期に大手他社と歩調を合わせてセメント生産設備の前工程を改造し25%の能力削減を実施、稼働率は90%台へ上昇した
    • [304]渡邊穰社長は産業廃棄物処理事業を除くとセメント事業は実質赤字で内需の伸びは期待できないと述べた
    • [305]電気化学的防食工法で住友大阪セメントは国内で約70%の市場占有率(施工実績)を持つ
    • [306]橋梁や埠頭など鉄筋コンクリート構造物の長寿命化事業を建材事業の重点に据えた
  • 週刊東洋経済 2022年10月1日号「石炭高騰でセメント苦境」
    • [309]2022年4〜6月期のセメント事業の営業損益は54億円の赤字だった
  • 住友大阪セメント 2025年度決算・中期経営計画説明会 質疑応答(2026年5月14日)
    • [310]2026年3月期の連結売上高は2,237億円、営業利益は136億5,000万円だった
    • [311]半導体製造装置向け静電チャックを扱う高機能品事業が伸び、セメント以外の事業が全社営業利益の6割以上を占めるに至った
    • [312]諸橋央典社長は2026年5月に新中期経営計画を公表し、2028年度営業利益270億円を目標に置いた
    • [313]2035年にセメント事業とセメント以外の売上高を50対50とし、売上高4,000億円・営業利益400億円以上を目指す
  • 住友大阪セメント カーボンニュートラル戦略説明会 質疑応答(2026年6月10日)
    • [314]カーボンニュートラル戦略SOCN2050を2020年12月に公表した
    • [315]2035年の化石エネルギー代替率60%を目標に掲げ、CO2再資源化人工石灰石の2030年以降の社会実装を目指す

住友大阪セメントの沿革1906〜2022年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
広瀬金七氏・岩崎清七氏らによるセメント製造会社設立の企図
磐城セメントを資本金100万円で設立、本店は横浜市太田町★★★
吉永仁蔵氏が初代社長に就任
四倉工場の新設
資本金85万円への減資と、減資差益金による累積損失の一掃★★
1911年度上期に利益4万518円を計上、年8%の初配当★★
塩釜セメントの合併と、増資による資本金300万円への拡大★★
吉永仁蔵氏の病気辞任を受け岩崎清七氏が第二代社長に就任
日の出セメントの合併による八戸工場の取得
セメント連合会への脱退通告★★
セメント連合会への復帰★★
東京株式取引所への株式上場
鈴木セメントの合併と東京工業所の設置、資本金524万円
大阪窯業セメントの設立
三菱商事との製品一手委託販売契約の締結★★★
七尾セメント七尾工場の竣工、本格的な湿式焼成法の採用
第二次セメント連合会の存続契約への調印★★
昭和恐慌への対策としての全社員の給与切下げ★★
1931年度上期決算からの年4%への復配★★
七尾セメントにおける含ニッケル鉄の試験製錬の開始★★
富国セメントの合併による現・栃木工場の取得
湊・四倉・葛生の各工業所の八戸・四倉・栃木工場への名称変更
七尾セメントの合併による七尾工場の取得
企業整備による豊国セメントの合併、資本金4150万円★★
七尾工場のキルン3基の含ニッケル鉄生産への全面転換★★
岩崎清一郎氏の第三代社長就任と岩崎清七氏の初代会長就任
企業整備による常陸セメントの合併と日立工場の取得
七尾工場の海軍監督工場への指定、4月には軍需会社指定★★
栃木工場のドロマイトクリンカー生産への全面転換★★
終戦にともなう満蒙・台湾などの海外資産の喪失★★
決算無配への転落、1949年度上期まで無配が継続★★
磐城セメント労働組合の結成と岩崎清七会長の死去
制限会社令による制限、8月には特別経理会社に指定★★
過度経済力集中排除法の適用指定、7月に指定取消し★★
敦賀工場・苅田工場の分離
斎藤次郎氏の第四代社長就任
東京証券取引所市場第一部への上場
戦後初の配当の実施★★
東洋セメントの合併
大阪窯業セメントによる伊吹工場の新設
浜松工場の新設
川崎セメントの合併による現・岐阜工場の取得
大阪窯業セメントによる高知工場の新設
福島セメント・住友石灰工業の合併
定時株主総会における商号変更と本社移転の承認可決★★
大阪窯業セメントの大阪セメントへの商号変更
磐城セメントの住友グループ加入と、住友セメントへの商号変更配当30%を続ける会社が、なぜ創業以来の社名を自ら手放したのか 詳細を読む★★★
本社の東京都台東区北稲荷町への移転
住友グループの社長会である白水会への加盟★★
和歌山セメント・西浜開発ほか2社の合併、資本金55億円★★
滋賀興産の合併による多賀工場・彦根工場の取得
赤穂第一工場の新設
古賀進氏の第五代社長就任
経営改善総合対策委員会の設置、12月には要綱を発表★★
住友石炭鉱業社長の藤末尚氏の第六代社長就任★★
工場閉鎖と希望退職を含む合理化案の労働組合への提示★★
七尾工場・多賀工場の閉鎖★★
希望退職の実施による約1200人の退職★★
赤穂第二工場の新設
小倉工場の東洋セメントへの分離
今川彦二氏の第七代社長就任★★
経営改善推進本部の設置と100億円削減対策の実施★★
四倉工場の生産休止とスミセスレート建材の解散
本社機構改正にともなう新素材開発室の設置★★
1982年度決算の無配、1985年度まで無配が継続★★
別途積立金の取崩しによる未処理損失金の補填の承認可決★★
非セメント部門の売上構成比を50%とする10年計画の策定と、「電・光・石・化」4分野への進出セメントが売上の93%を占める会社が、2期連続赤字と3期連続無配のさなかに、なぜ最も回収の遅い研究開発型の多角化を選んだか 詳細を読む★★★
浜松工場の閉鎖
中期三ヵ年実行計画「RCP作戦」の策定★★
出資比率50%によるスミセ電子の設立
四倉工場の閉鎖
応用光電研究室の全株式の取得
赤穂第一工場と赤穂第二工場の統合による赤穂工場の発足
秋芳鉱業の設立
OAシステム事業部門の分離と住友セメントシステム開発の設立
住友金属工業と共同での和歌山高炉セメントの設立
エステックの設立
株式の追加取得による千代田エンジニアリングの子会社化
スミセ建材の設立
青木海運の買収
住友セメントと大阪セメントの合併による住友大阪セメントの発足★★★
彦根工場の閉鎖
スミセ興産の合併
渡邊穰田村工場の閉鎖
渡邊穰泉石灰工業と栃木興産の合併による泉工業の発足
渡邊穰伊吹工場におけるセメント生産の中止★★
渡邊穰株式の追加取得による栗本コンクリート工業の子会社化
関根福一東京エスオーシーによる市川エスオーシー生コンの合併
関根福一エスオーシー建材と新北浦商事の合併
諸橋央典石炭高騰下での1トン2,000円級の値上げの反復と、生コン向け取引慣行の見直し目先の黒字化か、脱炭素投資の原資か——諸橋央典社長はどこまで転嫁を通そうとしたか 詳細を読む★★★
諸橋央典東京証券取引所の市場区分見直しによるプライム市場への移行
出典・参考
  • 住友セメント八十年史(1987年)第1章 磐城セメントの創業
  • 住友セメント八十年史(1987年)
  • 住友セメント八十年史(1987年)第2章 積極経営による不況克服
  • 住友セメント八十年史(1987年)第3章 統制下の業容拡大
  • 住友セメント八十年史(1987年)第4章 太平洋戦争下の経営
  • 住友セメント八十年史(1987年)第5章 戦後復興とともに
  • 有価証券報告書
  • 住友セメント八十年史(1987年)第6章 高度経済成長期の躍進
  • 私の住友昭和史(1988年)第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入
  • 住友セメント八十年史(1987年)第7章 住友グループの一翼を担って
  • 住友セメント八十年史(1987年)第8章 企業体質の強化をめざして
  • 住友セメント八十年史(1987年)第9章 合理化と積極経営の展開
  • 住友セメント八十年史(1987年)資料編 従業員数の推移
  • 『会社年鑑 1986年版』(日本経済新聞社、1985年)
  • 住友セメント八十年史(1987年)第10章 新生住友セメントへ
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」
  • 証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」
  • 日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」
  • 日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏[住友大阪セメント]登場」
  • 日本産業史 第4巻 通史(日本経済新聞社、1994年)「事業再構築の試み」
  • 週刊東洋経済 2010年12月18日号「電気防食工法で先行する住友大阪セメントの狙い」
  • 週刊東洋経済 2022年10月1日号「石炭高騰でセメント苦境」
  • 住友大阪セメント 2025年度決算・中期経営計画説明会 質疑応答(2026年5月14日)
  • 住友大阪セメント カーボンニュートラル戦略説明会 質疑応答(2026年6月10日)

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