{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"5232","company_name":"住友大阪セメント","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/5232/","api_url":"/api/5232/history.json","updated":"2026-08-05","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/5232/","title":"住友大阪セメントの歴史概略","sections":[{"start_year":1907,"end_year":1931,"main_title":"八茎鉱山の残石から起こした後発6社目の船出と、三菱商事に委ねた販売","subsections":[{"title":"日露戦争後の企業熱と、八茎鉱山に積まれた石灰石","text":"磐城セメントの起業は、1906年に横浜で立案された計画に始まる。福島県石城郡大野村の八茎鉱山は和銅年間の発見とも伝えられる古い銅山で、1906年7月からオット・ライメールス商会と鉱山業者の西村準三郎氏の共同出資による八茎鉱山合資会社の経営に移った。鉱区一帯が石灰石山だったため、銅を掘れば大量の石灰石がずり石として出た。この石灰石を使うセメント事業に着目したのが、同商会幹部で八茎鉱山の社長を務めた横浜の事業家広瀬金七氏と、東京の事業家岩崎清七氏である。両氏はドイツ塩や外米の輸入を通じて懇意な間柄にあった。八茎鉱山の豊富な石灰石を活用できること、東北地方にセメント工場が一か所もないこと、1906年4月のサンフランシスコ地震の影響でセメント輸出が盛んなこと。この三つを両氏は事業の根拠に挙げた。\n\nセメント事業を決めた両氏は、交友と取引のあった京浜地区の事業家に呼びかけて発起人を募った。推進役となった創立委員は、横浜在住の安部幸兵衛氏・広瀬金七氏・岡野利兵衛氏・吉永仁蔵氏と、東京在住の岩崎清七氏・佐久間福太郎氏・安部林右衛門氏・西村準三郎氏の8名で、岩崎氏が創立委員長を務めた。発起人は34名、賛成人は東京・横浜・磐城を中心に153名にのぼった。創立委員は安部幸兵衛氏を除く7名で八茎鉱山を視察し、工場用地を福島県石城郡四倉町に決めた。当初は常磐線で一駅北寄りの双葉郡久之浜町を予定していたが、事情により急遽変更した。横浜市太田町三丁目52番地の創立事務所で発起人総会が開かれたのは1907年1月30日で、この席で起業設計書・営業収支予算書・定款を審議し、承認した。資本金は150万円、株式3万株を見込む計画とした。\n\nところが、発起人総会と同じ1907年1月、東京株式相場が突然暴落した。2月から6月にかけて関東・東海地方を中心に40余の中小銀行で支払停止と取付けが続出し、6月の第一回株式払込みでは1株につき12円50銭が集まらず、会社設立そのものが困難になった。創立委員長の岩崎清七氏は、設立を一時打ち切って損勘定を発起人で分担するほかないという見解を述べた。これに反対したのが、創立委員のなかで最年長にあたる安部幸兵衛氏だった。安部氏は、石灰石山まで見に行って有望だと決めた経緯を挙げ、機械もすでに全部注文済みだとして一歩も引かなかった。1907年11月29日、横浜市港町の浜港館で創立総会が開かれ、株主の田原当一氏の動議により資本金は100万円へ減額することを決議した。株式総数も3万株から2万株に減り、取締役会で吉永仁蔵氏が初代社長に、西村準三郎氏が専務に選ばれた。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第1章 磐城セメントの創業（明治40年〜大正12年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第2章 積極経営による不況克服（大正12年〜昭和6年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p157 住友セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"回転窯を選んだ技師長と、日本で最初の原石焼成法","text":"資本金の減額は建設計画を狂わせした。第一回株式払込金は起業設計書の37万5000円から25万円に減り、重役会の大勢は当初計画の回転窯を諦めて、当時の業界で一般的だった竪窯へ切り替える方向に傾いた。これに猛反対したのが、三重セメントから招聘されて1907年12月に技師長となった岡田萬次氏である。岡田氏は、ここで10万円余りの資金を惜しんで竪窯にすれば会社は将来かならず泡沫会社の運命をたどると述べ、当初計画どおりの回転窯導入を主張した。竪窯は連続作業ができず、一窯一回の焼成に4日から7日を要し、焼出量も13トン程度にとどまる。重役陣はこの主張を認めて竪窯案を撤回し、不足する資金は1株につき5円の第二回株式払込みで10万円を調達して建設費に充てた。導入した回転窯はアリス・チャーマー社製で、径7フィート・長さ100フィートの大きさがあった。\n\n四倉工業所は1908年9月19日に完成し、試運転を開始した。試運転には、日本で最初の原石焼成法を用いた。1903年に回転窯を導入した浅野セメント深川工場は、石灰石を焼いてつくった生石灰を機械的に粉末にし、粘土とともに回転窯へ送る生灰焼成法をとっていた。これに対し岡田萬次技師長が考案した原石焼成法は、石灰石を生石灰にせず原石のまま自然乾燥し、乾燥した粘土と混ぜて粉砕して、直接回転窯へ送り込む方法である。仮焼の工程がない分、製造法が簡単で操業管理も品質管理も容易になる。試運転は成功し、第二期事業報告書は、製品の試験成績がきわめて優良で、日本で一、二と称されるものに比べて劣らないと記した。操業を始めたのは1908年10月で、製造関係の従業員は当初15人ほどしかいなかった。原石焼成法はその後、日本のセメント工場の通常の焼成法になった。\n\n創業当初の業績は損失が続いた。初めて純益金2446円を計上した1909年度下期にも期末の累積赤字は2万1319円あり、創業費6236円を含めると2万7555円の欠損だった。そこで1910年6月29日の臨時株主総会で、資本金を100万円から85万円へ減額することを決議した。同年10月30日までに1株につき21円払込済みの株式3000株を4万3082円で買い入れて消却し、払込額6万3000円との差で1万9918円の差益を得た。1910年度下期の決算は、純益金7911円とこの減資差益を合わせた2万7829円から欠損金2万2793円を差し引き、創業以来の累損を一掃したうえで5036円の繰越金を残した。翌1911年度上期には純益金が前期比5.1倍の4万518円に達し、年8%弱にあたる1万7000円を初配当に充てた。この配当水準を1914年度上期まで維持した。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第1章 磐城セメントの創業（明治40年〜大正12年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第2章 積極経営による不況克服（大正12年〜昭和6年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p157 住友セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"震災後のカルテル脱退と、三菱商事へ委ねた一手販売","text":"第一次世界大戦の好況は磐城セメントの財務を厚くした。1914年度下期に1万3278円だった純益金は、1916年度下期に15万3231円、1917年度上期に16万1164円、同年度下期には30万1118円に伸びた。配当は1916年度下期から1920年度下期まで8期にわたり、特別配当を含めて年20%から30%を続けた。1918年に仙台市で設立された塩釜セメントは、工場を着工しないうちに大戦終結を迎え、磐城セメントに合併を申し入れた。1920年3月1日に財産の引継ぎが終わり、資本金は300万円となって22万6286円の合併差益が生じた。1923年9月1日の関東大震災では、震源地から300キロメートル離れた四倉工業所に被害はなく、東京市京橋区の本社事務所が焼失した。健康がすぐれなかった吉永仁蔵社長は同年11月30日に病気静養のため辞任し、12月20日、岩崎清七氏が第二代社長に就いた。\n\n震災の復興需要を見込んだ各社の増産と輸入の増加が重なり、セメント市況はトン当り40円前後から11円台へ急落した。1924年10月5日、全国18社が加盟する第一次セメント連合会が発足し、生産制限と最低価格の協定が始まった。加盟18社には大阪窯業も含まれる。磐城セメントは1925年6月1日に日出セメントを合併して湊工業所を得たが、生産制限を企業規模の大小にかかわらず一律に適用する方式は一社多工場の大会社に有利であり、輸出分を制限の適用外とする扱いも輸出可能な大会社しか恩典を受けないと考えた。そして1926年1月26日、岩崎社長名の文書で連合会へ脱退を通告した。翌27日には高木百行常務が浅野セメントの浅野総一郎社長を訪ねて事情を説明した。\n\n連合会は1926年3月1日の臨時総会で磐城セメントの除名を決めたが、浅野セメントの斡旋で休止中の帝国・鈴木両社から合計1万1515樽の能力融通を受けることがまとまり、4月15日に復帰した。同年6月に東京株式取引所へ株式を上場し、7月10日には鈴木セメントを合併して東京工業所を開いた。1927年3月の金融恐慌でセメント各社の金融難が深まると、岩崎社長は家業の岩崎商店時代から取引のあった三菱商事の三宅川会長を訪ねて製品の販売委託を申し入れ、1928年3月7日に一手販売契約が結ばれた。手数料は売値の2.5%、三菱商事は受渡済み契約品の手取額の70%を立て替えて支払い、その残高総額は100万円を超えないものと定めた。契約期間は5年で、以後5年ごとに更新された。1930年8月には社員15名を解雇して全従業員の給与を切り下げ、無配は1930年度の2期にとどまり、1931年度上期には4%へ復配した。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第1章 磐城セメントの創業（明治40年〜大正12年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第2章 積極経営による不況克服（大正12年〜昭和6年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"企業の歴史：明治百年（1968年）3編 企業の歴史 p157 住友セメント","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1932,"end_year":1963,"main_title":"統制と戦時転換をくぐり、集中排除法の指定を経て住友へ合流するまで","subsections":[{"title":"傘下5社の取得で到達した業界三大会社の地位","text":"1932年以降、満州事変後の軍事費膨張と時局匡救事業でセメント需要は回復した。ところが各社が拡張に走り新会社の設立も相次いで生産能力が需要の伸びを上回り、セメント連合会の生産制限率は年平均で常に50%を超えた。制限下でも既設工場の拡張は続いた。磐城セメントは1932年12月、月産能力4000トンの増強をめざして四倉・湊両工業所の設備拡充を決めた。時局匡救事業は農村恐慌の深刻だった東北地方に多く、この方面を営業基盤とする磐城セメントは工場拡張に踏み切った。1933年2月20日の役員会は、さらに予算125万円をもって湊工業所にキルン1基を新設することを決めた。全国能力比率が1930年12月の7.88%から1932年12月には7.43%へ落ち、このままでは連合会加盟会社中6位に転落しかねないという判断による。工事は1934年10月と11月に完成し、湊工業所の月産能力は4万300トンに増えた。\n\n同じ時期、磐城セメントは同業他社への出資を重ねた。1933年6月、大同電力と東邦電力が資金調達のため手放した豊国セメント株を、競争会社への直接売却をはばかる両社の事情から三菱商事を名義上の買い手として買い取り、1934年4月に譲り受けた株数は3万4500株にのぼった。1935年11月には子会社の七尾セメントに資本金の半額100万円を出資させて敦賀セメントを傍系会社とし、1937年6月に富山セメントの株式2万900株を取得、同年9月には東武鉄道の根津嘉一郎社長が設立した富国セメントの過半数株を取得した。七尾を含む5社を傘下に収めた結果、外地工場を含めた経営規模は浅野・小野田の両社と比べて遜色のないところまで達し、業界三大会社の地位が確立した。1938年5月、岩崎社長は創立30周年の訓示をレコードに吹き込み、六大セメント会社を統制下に置いて月産能力30万トンに達したと従業員に語った。\n\n日中戦争下で国家統制が強まるなか、業容の拡大は合併という形をとった。1940年12月1日、傘下の富国セメントを合併して資本金は2800万円、年産能力は122万2800トンに達した。これを機に1941年1月9日、四倉工業所を四倉工場、湊工業所を八戸工場、富国の葛生工場を栃木工場と改称した。一方、七尾セメントは1939年、休止中のキルンを使って大江山鉱山の含ニッケル鉱土から含ニッケル鉄を試験製錬し、1941年8月に製鉄事業法第三条の許可を得て本格生産に入った。1941年11月26日、磐城セメントは企業整備の形で七尾セメントと豊国セメントを合併し、同日付で敦賀セメントも合併した。資本金は4150万円へ増え、七尾と苅田の2工場が加わった。商工大臣に提出した合併申請書は、含ニッケル鉄の増産が時局下の重要資材として必要であることを合併理由に挙げていた。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第3章 統制下の業容拡大（昭和7〜16年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第4章 太平洋戦争下の経営（昭和16〜20年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第5章 戦後復興とともに（昭和20〜29年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第6章 高度経済成長期の躍進（昭和29〜38年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第7章 住友グループの一翼を担って（昭和38〜45年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞","year":1963,"month":5,"date":23,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"軍需会社指定と、海外資産の全損で迎えた終戦","text":"太平洋戦争下、磐城セメントの工場はセメント以外の軍需物資へ転換した。七尾工場は1942年4月に3号キルンも含ニッケル鉄の生産へ移し、セメント生産を休止した。栃木工場は1943年11月に当局から全面転換の命令を受け、1944年5月からキルン2基をともにドロマイトクリンカーの生産へ切り替えた。ドロマイトクリンカーは製鋼用平炉や電気炉の補修に欠かせない資材で、その工業化は日本では磐城セメントが最初である。1943年5月29日、岩崎清七氏が初代会長に、専務の岩崎清一郎氏が第三代社長に就いた。同年9月30日には政府の企業整備方針に沿って常陸セメントを合併し、日立工場を加えて工場は7か所に広がった。1944年4月、セメント11社はすべて第二次指定で軍需会社となり、政府は岩崎清一郎社長を生産責任者に、各工場長を生産担当者に指名した。\n\n戦争末期に七尾工場長を務めた小湊恒太郎氏は後年、工場名が磐城セメント七尾含ニッケル鉄工場から護国第一四四一工場へ再度改称されたと回想している。1945年8月の終戦で、台湾・満州・中国に広げた事業はすべて失われた。海外の会社に対する有価証券投資や融資金などの損失は合計1647万3741円に達し、これは1946年8月の特別経理会社指定時における総資産の18%を占めた。セメント生産数量も、1942年度の72万8001トンから1945年度には12万3130トンまで落ちた。配当は1945年度上期から止まった。終戦から9日後の1945年8月24日、斎藤次郎常務は部長と工場長に宛てた書簡で、製品ごとの需要見通し、工場ごとの復旧方針、資金と人員の扱い、原価切下げの必要を細かく指示した。1946年4月10日には磐城セメント労働組合が結成され、翌11日、取締役会長の岩崎清七氏が83歳で死去した。\n\n1948年2月、磐城セメントは過度経済力集中排除法の審査対象に指定を受けた。セメント業界では日本・小野田・大阪窯業・宇部の各社も同時に指定を受けた。ただし磐城セメントは、戦時中の企業整備で取得した日立・敦賀・苅田の3工場を、すでに旧所有者へ返還するか、その手続きを進めていた。指定時点の業容は八戸・四倉・栃木・七尾の4工場・月産能力3万8400トン・全国シェア10%で、1948年5月にこの事情と経緯を文書で持株会社整理委員会へ提出したところ、7月に指定は取り消された。同年8月に企業再建整備計画を提出し、9月30日付で認可を得た。1948年4月9日には岩崎清一郎社長が会長に退き、常務の斎藤次郎氏が第四代社長に就いた。同年12月には全額出資で東京コンクリート工業を設立し、1949年11月に日産能力150立方メートルの業平橋工場を完成させて、12月から日本で最初の生コンクリート生産を始めた。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第3章 統制下の業容拡大（昭和7〜16年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第4章 太平洋戦争下の経営（昭和16〜20年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第5章 戦後復興とともに（昭和20〜29年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第6章 高度経済成長期の躍進（昭和29〜38年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第7章 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統制下の業容拡大（昭和7〜16年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第4章 太平洋戦争下の経営（昭和16〜20年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第5章 戦後復興とともに（昭和20〜29年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第6章 高度経済成長期の躍進（昭和29〜38年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第7章 住友グループの一翼を担って（昭和38〜45年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本経済新聞","year":1963,"month":5,"date":23,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1963,"end_year":1983,"main_title":"住友の名を継いだ商号変更と、高度成長の終わりに現れた2期連続の最終赤字","subsections":[{"title":"商号変更が先、白水会加盟は8か月後だった順序","text":"磐城セメントの住友グループ入りは、資本参加の受け入れが先で、社名の変更はそのあとに続いた。1963年5月、同社は福島セメントと住友石灰工業を合併し、両社の株主だった住友系各社が磐城セメント株を相当数握った。同月29日の第95回定時株主総会は、同年10月1日をもって商号を住友セメントへ改めること、翌1964年4月に本社を栃木県葛生町から東京都台東区へ移すことなど4項目を可決した。1964年3月末の大株主は住友石炭鉱業13.92%、住友生命保険11.19%、住友商事6.43%と並び、上位10位のうち6社が住友系で34.88%を占めた。改称にあわせて社章と商標は住友の井桁マークに変わった。\n\nグループ入りの理由を、斎藤社長は1963年5月23日付の日本経済新聞の対談で説明した。1960年ごろ住友石炭鉱業が福島県下にセメント工場を新設する計画を知ったこと、実現すれば三菱・三井・住友の旧三大財閥が競い合って業界が混乱すること、提携すれば有力な競争相手が一つ消えて原料も確保できることを挙げた。当時の業績は不振ではなく、1963年3月期の売上高は319億9,280万円、税引前利益は57億4,100万円、配当は30%だった。社名について住友銀行の堀田庄三頭取は後年、住友側には磐城セメントの名を変えるつもりがなかったと述べ、改称は斎藤社長の主張によるものだったと回想した。\n\n白水会への加盟は、商号変更から8か月後の1964年6月だった。住友側の記録によれば、1963年初めに堀田頭取が白水会の席で、磐城セメントは業界で二、三位を占める優秀企業であり、斜陽化する住友石炭鉱業の救済につながるとして資本参加は考慮に値すると説明し、各社の協力を求めた。同年10月に磐城セメント側から住友セメントと改称して直ちに白水会へ加入したいという申し出があり、少し早過ぎるのではないかという意見も出たうえで承認された。加盟は1964年6月1日で、白水会は16社となった。本社は同年4月1日に東京都台東区北稲荷町へ移り、1950年12月以来14年ぶりに東京へ戻った。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第7章 住友グループの一翼を担って","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第8章 企業体質の強化をめざして","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第9章 合理化と積極経営の展開","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第10章 新生住友セメントへ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の住友昭和史（1988年）第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社年鑑 1986年版』（日本経済新聞社、1985年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"合併で並んだ業界首位と、配当性向80%の代償","text":"住友グループ入り後の設備投資は臨海工場へ向かった。1965年3月、住友セメントは和歌山セメント、西浜開発ほか2社を合併し、資本金を20億円増の55億円とした。和歌山セメントは1963年12月に浦賀重工業・川崎重工業・住友機械工業の出資で設立され、住友セメントの秋芳鉱山から石灰石の供給を受ける計画だったが、1964年の市況悪化で単独運営を断念していた。合併で得た兵庫県赤穂市の旧塩田跡地には1965年2月に着工し、1966年9月から12月にかけてレポールキルン3基が順に稼働した。月産能力12万トンの赤穂工場は11番目の工場で、臨海工場としては初めてである。\n\n原料側の投資も同時に進んだ。1965年6月には秋芳鉱山から仙崎港までを結ぶ全長16.5キロメートルのベルトコンベアが完成し、総建設費は約60億円に達した。秋芳鉱山は可採鉱量40億トン、炭酸カルシウム98%以上の鉱区で、1963年の住友石灰工業の合併によって住友セメントの所有となったものである。1966年には滋賀興産を合併して彦根・多賀の両工場を取得し、資本金は75億円に増えた。彦根工場が備える日産2,600トンのSPキルン2基は、当時の国内他社の1,000〜1,320トン級のほぼ2倍に達する。合併後の月産能力81万9,000トンは業界1位の日本セメントと肩を並べ、1968年度には生産・販売とも業界第1位に立った。\n\n規模の拡大は財務を痛めた。1960年から1966年までの4度の合併で業容は広がったが、高率配当を続けたため資金が社外へ流出し、配当性向は1963年度の29%から1966年度には80%へ上がった。1970年4月に第五代社長となった古賀進氏は、1972年の社内報で就任以来3期続けて減配したと述べた。同年8月、住友セメントは経営改善総合対策委員会を設け、12月1日に「経営改善総合対策要綱」18項目を発表した。余剰員対策と労働生産性の向上、赤字のセメント工場とスレート工場の合理化計画の策定、臨海大型工場の建設促進などが並んだ。1973年度の売上高は742億円と過去最高に達したが、同年10月の第一次石油危機で赤穂工場の増設予算は246億円から330億円へ膨らんだ。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第7章 住友グループの一翼を担って","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第8章 企業体質の強化をめざして","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第9章 合理化と積極経営の展開","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第10章 新生住友セメントへ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の住友昭和史（1988年）第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社年鑑 1986年版』（日本経済新聞社、1985年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"11工場のうち5工場を閉じた10年と、5期にわたる無配","text":"1974年5月、住友セメントは住友石炭鉱業社長の藤末尚氏を第六代社長に迎えた。1974年度の販売数量は前年度より約24万トン少ない806万トン、税引前利益は前年度の42億6,000万円から8億9,000万円へ落ち、労働生産性は大手他社を20%以上下回っていた。1975年6月10日、藤末社長は労働組合に希望退職1,200名の募集と、七尾・多賀の両工場および浜松工場の岩水鉱山を7月31日で閉鎖する案を示した。七尾工場の労働生産性は全社平均4,113トンに対し1,812トンで、過去10年の累積赤字は27億円に達する。交渉の妥結を待たず6月23日から募集に入り、11月4日までの退職者は定年退職を含め1,196名にのぼった。\n\n不採算工場の切り離しは続いた。1976年8月、累積赤字が40億円近い小倉工場を分離して東洋セメントと東洋興産の2社へ移し、1977年9月には累積赤字65億円近い八戸工場を閉鎖して八戸セメントへ移した。八戸の分離では50歳以上の全社員が同時に退職した。従業員は1975年3月末の3,893名から1978年3月末には2,024名まで減った。一方で1976年2月には月産18万トンのNSPキルンを持つ赤穂第二工場が本格操業に入り、1979年からの第二次石油危機を受けて燃料を重油から石炭へ替え、岐阜・赤穂・八戸の各工場に排熱発電を入れた。1978年度には生産・販売とも1,000万トン台に乗せた。\n\n売上高は1982年3月期の1,595億円が最高だった。1976年3月期に28億円の経常赤字だった住友セメントは、1979年3月期には売上高1,207億円・経常利益92億円まで戻していたが、国内需要が1979年度の8,297万トンを境に3年続けて減り、採算はふたたび崩れた。1983年3月期は経常損失11億円・最終損失24億円、1984年3月期は経常損失20億円・最終損失51億円で、2期続けての赤字である。配当は1982年9月中間期から止まり、1949年度下期の復配以来はじめての無配が1986年3月期まで4期続いた。1982年6月に第七代社長となった今川彦二氏は、1983年1月に自らを本部長とする経営改善推進本部を置き、約2年で106億円のコスト削減を掲げた。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第7章 住友グループの一翼を担って","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第8章 企業体質の強化をめざして","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第9章 合理化と積極経営の展開","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第10章 新生住友セメントへ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の住友昭和史（1988年）第6章 住友石炭救済と磐城セメントの加入","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社年鑑 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新生住友セメントへ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏［住友大阪セメント］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 通史（日本経済新聞社、1994年）「事業再構築の試み」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年12月18日号「電気防食工法で先行する住友大阪セメントの狙い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年10月1日号「石炭高騰でセメント苦境」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社年鑑 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1991/9/16）と社内に告げ、拡大から選別へ方針を変えた。1991年6月には超微粒子・セラミックス・バイオマテリアルの3事業を新材料事業部にまとめ、分散していた要員90人を集約した。研究テーマは研究・開発・事業化の3段階に分け、各段階に2年の猶予を与えて先へ進めない案件を落とす仕組みを本格運用した。研究段階から事業化まで進んだテーマは2〜3割で、バイオセンサーと磁性流体は事業化に届かなかった。柱として残したのは超微粒子とオプトエレクトロニクスである。1994年3月期までの3年間の総投資450億円のうち350億円はセメント事業の合理化に充て、新規事業への投資は100億円に抑えた。\n\n1994年10月1日、住友セメントは大阪セメントと合併し、商号を住友大阪セメントへ改めた。大阪セメントは1917年に大阪窯業のセメント部として発足し、1926年12月に大阪窯業セメントとして独立、1963年7月に大阪セメントへ改めた関西地盤の専業メーカーで、『会社年鑑 1986年版』では売上高556億円・セメント依存度95%と上場6社のうち最小だった。住友セメントの依存度も93%あり、両社は産業構造改善臨時措置法のもとで別々の共販会社に属していた。合併は共販の解消とセットで行われ、同じ時期に小野田セメントと秩父セメントも合併した。合併で業界2位に立ったものの、その後の2年間は連結で赤字が続いた。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第10章 新生住友セメントへ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 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2010/12/18）と述べた。国内で約70%の施工実績を持つ電気防食工法など、劣化した鉄筋コンクリート構造物を延命させる建材分野が、このころの成長候補に挙がった。\n\n連結売上高は2019年3月期の2,511億円から減り、2022年3月期は1,842億円、2023年3月期は石炭の高騰で営業損益が86億円、最終損益が57億円のいずれも赤字となった。2022年4〜6月期だけでセメント事業の営業損益は54億円の赤字だった。値上げと半導体向けの需要増で2026年3月期は売上高2,237億円・営業利益136億5,000万円まで戻し、半導体製造装置に使う静電チャックを持つ高機能品事業が伸び、セメント以外が全社営業利益の6割以上を占めている。諸橋央典社長は2026年5月、2028年度に営業利益270億円、2035年にセメントとそれ以外の売上高を50対50とする計画を示した。2020年12月に公表したカーボンニュートラル戦略では、2035年の化石エネルギー代替率60%とCO2再資源化人工石灰石の社会実装を掲げている。","references":[{"title":"住友セメント八十年史（1987年）第10章 新生住友セメントへ","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1990年28巻3号 立元正一「経営多角化で一層の発展めざす」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1990年1月29日号「住友セメント『電光石化』の号令一下、多角化比率を5割に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年9月16日号「住友セメント。拡大から統合、選別へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1998年6月22日号「山登英臣氏［住友大阪セメント］登場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻 通史（日本経済新聞社、1994年）「事業再構築の試み」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2010年12月18日号「電気防食工法で先行する住友大阪セメントの狙い」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2022年10月1日号「石炭高騰でセメント苦境」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『会社年鑑 1986年版』（日本経済新聞社、1985年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友大阪セメント 2025年度決算・中期経営計画説明会 質疑応答（2026年5月14日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"住友大阪セメント カーボンニュートラル戦略説明会 質疑応答（2026年6月10日）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ1963年に、好業績の磐城セメントは創業以来の社名を捨てて住友グループへ入ったのか","a":"磐城セメントは1907年、広瀬金七氏と岩崎清七氏が福島県の八茎鉱山に積まれた石灰石を当てに横浜で設立し、四倉町に最初の工場を建てた会社である。1963年3月期の売上高は319億9,280万円、配当は30%で、月産能力では業界3位にあった。それでも斎藤次郎社長は、住友石炭鉱業のセメント進出で三菱・三井・住友が並び立てば業界が混乱すると読み、自分は磐城セメントを身内に渡すほどの資本家ではないとして、住友銀行の堀田庄三頭取へ自ら提携を申し入れた。商号変更は1963年10月、白水会への加盟はその8か月後だった。"},{"q":"なぜ1985年に、2期連続の赤字を抱えた住友セメントは非セメント50%という10年計画を掲げたのか","a":"1974年からの合理化で11工場中5工場を閉じ、従業員を3,900人から1,900人へ半減させても収益は戻らなかった。需要が縮むかぎり、削減はいずれ底を打つ。売上の93%をセメントが占め、1983年3月期・1984年3月期は最終赤字、配当も1982年9月中間期から止まった。今川彦二社長は1985年4月からの10年で非セメント比率を8.7%から50%へ引き上げる計画を掲げ、遊休地の転用ではなく研究開発型の4分野を選んだ。1984年3月期の非セメント売上126億円に対し目標はその10倍で、到達したのは15%台である。"},{"q":"なぜ2022年からの石炭高騰下で、住友大阪セメントは1トン2,000円級の値上げを重ねたのか","a":"セメントの燃料である石炭の市況が1年強で約4倍になる一方、生コンクリートの価格を着工から完工まで固定する商習慣があり、協同組合との交渉は数百円動かすのも難しかった。原価の上昇と交渉の刻みが桁で食い違えば、赤字のまま売るほかない。住友大阪セメントは2022年4〜6月期にセメント事業で54億円の営業赤字を出しながら、1トン2,000円級の改定を三度重ねた。諸橋央典社長は、脱炭素の設備投資を賄うには最低でも3桁の営業利益が要ると述べた。2025年4月出荷分では、固定ユーザー1,070件余りの半数超から満額の回答を得た。"}]},"auditVersion":2}