非セメント50%という数字は、達成の見込みから逆算されたものではなかった。1984年3月期の非セメント売上126億円に対し、10年後に置いた1,250億円は10倍にあたる。2期連続の赤字と3期に及ぶ無配で身動きの取れない会社が、最も回収の遅い研究開発型の4分野を選び、届きそうにない比率を対外的に掲げた。RCP研修会と組織風土改善運動を同時に走らせたことをあわせれば、この数字は計画であると同時に、セメント単一事業を前提に固まった社内の見方を外から崩す道具でもあったと読める。
掲げた比率は達成されなかった。比率は1990年3月期と1991年3月期に15%台で止まり、27%台の日本セメント・小野田セメントとの差を10ポイント以上広げられた。立元社長は就任の翌年に選別へ切り替え、投資配分も本業の合理化へ戻る。研究テーマの7割から8割は事業化に届かず、バイオセンサーも磁性流体も残っていない。それでも、1987年に取得した応用光電研究室と、新材料事業部が核に据えた超微粒子は残っている。10年計画が回収したのは掲げた比率ではなく、この2つだった。