維新政府は殖産興業の方針のもと、1873年秋に隅田川沿いの旧仙台藩屋敷跡へセメント工場を建て、摂綿篤製造所と名づけた[1]。化学技師の宇都宮三郎氏が前年の欧米視察で得た知識に基づいて設備を英仏流の湿式法へ大改修[2]し、1875年5月にわが国最初の近代的なセメントを製造した[3]。原料の石灰石は栃木県の葛生から運び、粘土は工場前の隅田川底のものを使った[4]。ただし価格を舶来品より低く抑えねばならず、営業成績は赤字の年が多かった[5]。1882年末に太政官から所管事業払下げの承認を得た工部省[6]は、翌1883年3月16日、深川工作分局の工場を確実な営業人へ貸与したいという伺書を太政官へ提出[7]した。伺いは同年4月5日に許可[8]された。
確実な営業人として選ばれたのが浅野総一郎氏[9]である。浅野氏は横浜で薪炭と石炭を商う燃料商[10]で、深川工場へコークスを納めていた縁から、渋沢栄一氏の紹介で工作局長の大鳥圭介氏ら工部省首脳へ払下げをたびたび願い出ていた[11]。工場敷地には倉庫用地として三井が、別荘地として三菱が目をつけていた[12]が、渋沢氏は浅野氏に払い下げれば必ず工場は盛大になると断言して口添え[13]した。1883年4月16日、深川工作分局のセメント工場は浅野氏に貸し下げられ、同日をもって分局は廃止[14]された。構内の耐火煉瓦工場は西村勝三氏が借り受けた[15]。両者とも期限は5年、貸借料は純益金の10分の5[16]という条件だった。西村氏はのちの品川白煉瓦の創設者[17]にあたる。
工場は貸し下げられても所有権は政府に残り、運営は諸般の官規に縛られた[18]。浅野総一郎氏と西村勝三氏は土地を含む工場の一括売却を政府へ要請し、1884年7月に払下げの契約が正式に取り交わされた[19]。払下げ価格は6万1741円62銭4厘、25年の年賦払い[20]という条件である。1885年12月に太政官制度が内閣官制に代わって工部省が廃止[21]されると、納付方法は35年賦へ延長され、年利4分5厘の一時払いも認められた[22]。浅野氏は残額5万6948円15銭1厘に相当する1万2203円98銭9厘を国庫へ納めて完済[23]した。同じ1884年7月、10年余の官営時代を終えた工場は、浅野氏の出資3万円と渋沢栄一氏の出資1万5000円、合計4万5000円で匿名組合浅野工場として発足[24]した。
発足当初の浅野工場は敷地4442坪、建物15棟で総建坪708.25坪[25]、設備はセメント焼窯8基をはじめ官営時代のまま[26]だった。生産能力は月800樽、およそ145トンで、職工は37名[27]である。浅野総一郎氏は総長と呼ばれて販売を担当し、工場は渋沢栄一氏を代表して参画した王子抄紙会社技師の大川平三郎氏が受け持った[28]。浅野氏は横浜寿町から工場構内の旧仙台屋敷の門長屋へ一家をあげて移り住み[29]、毎朝5時に工場の入口で職工を待って一緒に働き、夜は会計監督格の谷敬三氏について簿記を習って自ら帳簿をつけた[30]。勤務時間を定めて厳格に守らせたため、官営時代の悠長な仕事ぶりに慣れた職工の一部は不満を抱き、ストライキを企てる者も出た[31]。
浅野総一郎氏は賃金と賞与の一部を積み立てさせ、10年継続すれば積立額と同額を支給する従業員優遇法を独自に定めた[32]。積立金の金利は当時の郵便貯金の6朱を上回る7朱[33]としたため、他の工場や官庁から調査に訪れる者もいた。1883年に月600〜800樽だった生産高[34]は、操業時間の延長と工場能率の改善によって1885年ごろには1500〜2000樽へ増えた。最初の大口契約は皇居造営工事である。1873年5月に炎上した皇居の造営は1884年4月に起工式を迎え[35]、使用するセメントは約1万5000樽と見込まれていた[36]。浅野氏は工場を借り受けるとすぐ、深川工作分局の少技長へ皇居造営用セメント買上げの願書を提出[37]した。
本格的な買上げが始まったのは1885年6月で、同月27日に第1回分3000樽の納入契約が結ばれ、8月から10月まで毎月1000樽を納める[38]こととなった。売値は400ポンド入り1樽4円50銭[39]である。皇居造営用に納入した浅野工場品は1885年8月から1887年8月までに5373樽、金額にして2万3941円20銭[40]に達した。同じ工事には輸入品7190樽と深川工作分局製品4861樽も使われた[41]。需要は東京湾要塞の築造や各地方鉄道の敷設でさらに増え[42]、浅野工場は1886年に第1次増設へ着工して翌1887年に完成[43]させた。セメント焼窯6基、乾燥場3カ所、石灰窯1基を加え、生産高は月平均3000樽、約544トンとなって規模は倍増[44]した。
1886年、政府は内閣直属の臨時建築局を設け、建築技師や職工を実習生としてドイツへ留学[45]させた。浅野総一郎氏はこの機をとらえ、技師の坂内冬蔵氏と職工の浅野喜三郎氏を一行に加えた[46]。坂内氏は1883年7月に東京大学理学部化学科を卒業し、1886年3月に浅野工場へ技師として入社[47]した人物である。両氏が1888年に相次いで帰国した[48]のち、坂内氏の指導監督による第2次増設が1890年に完了し、生産高は月4000樽以上、職工数は191名となった[49]。西日本への進出も並行した。浅野氏は渋沢栄一氏、大倉喜八郎氏とともに1888年、関門地帯に資本金20万円の門司セメント会社を設立[50]したが、1890年の不況で金融難に陥り工場建設を中止して会社も解散した[51]。計画は1891年に動き直し、大倉氏が門司白木崎で営む日本輸出米商社を買収して精米工場をセメント工場へ改造し、1893年9月に浅野門司分工場が発足[52]した。
次の大口は横浜築港だった。工事は下関事件の賠償金のうちアメリカから返還された78万5000ドルを財源[53]に、1889年9月から4カ年の継続事業として着手[54]された。監督にあたった土木技師パーマー氏は、外国品が為替相場で価格変動を受けやすいこと、国内品の製造技術が進歩して価格も安いことを挙げて国内品の使用を主張[55]した。入札資格は月産400トン以上の業者に限られ[56]、1891年11月の第1回入札で浅野総一郎氏ほか2社が3500トンずつ落札[57]した。工事報告書は浅野氏の供給に遅滞がなく品質も善良で試験成績は頗る好調[58]だったと記した。第2回は指名入札法で浅野氏が落札し、所要6000トンを1893年9月までに完納[59]した。
日清戦争後の活況を受けて浅野工場は資本の充実を図った。1897年6月30日現在の深川・門司両工場の資本金をそれぞれ30万円と20万円に切り捨てて合計50万円と評価[60]し、渋沢栄一氏から20万円、安田善次郎氏から10万円の現金出資を加えて、1898年2月に総資本金80万円の浅野セメント合資会社が発足[61]した。浅野総一郎氏は33万5000円を出資して無限責任を負い、渋沢氏や大川平三郎氏らは有限責任社員[62]となった。技師長の坂内冬蔵氏は1902年3月に社命で渡米して回転窯の実績を確かめ、アリス・チャーマーズ社へ1基を発注[63]した。深川工場が1903年12月に試運転を始めたこの窯がわが国最初の回転窯[64]であり、竪窯と併用した同工場の生産能力は月2万樽へ倍増[65]した。1907年5月には資本金を500万円へ増資し、出資社員は5名から30名[66]になった。
日露戦争後の国力増大は官民の事業を勃興させ[67]、浅野セメント合資会社は組織を改めた。1912年10月7日にまず資本金10万円の浅野セメント株式会社が設立[68]され、同月24日[69]には合資会社の資産、債権および債務のすべてを株式会社へ合併する仮契約が結ばれた[70]。合資会社は11月11日に帝国ホテルで臨時社員総会を開いてこの仮契約を承認し、商法上の手続きを終えて合資会社の名称が消滅したのは1913年2月[71]である。株式会社は資本金500万円、うち払込額275万円の合資会社を合併し、490万円を増資して資本金500万円となった[72]。同時に深川工場と門司工場は組織上それぞれ東京支店、門司支店と改称されて支店制が敷かれた[73]。技術の最高指導者だった坂内冬蔵氏は1913年5月20日に技師長を辞し、技術顧問となった[74]。
1914年7月に始まった第1次世界大戦は翌年から景気を好転させ[75]、セメント需要も大きく伸びた。この時期、浅野セメントは同業の救済を通じて工場を増やした。1890年4月に資本金20万円で発足した北海道セメント[76]は、回転窯の運転開始により年産能力40万樽の大工場となった[77]ものの、社債46万円の返還に窮して整理に直面した[78]。小野田セメント製造との合併交渉が同社相談役の井上馨氏の反対で潰れた[79]のち、1915年2月下旬に浅野セメントへ救済を求め、両社は4月24日に合併契約書へ調印して7月25日に合併[80]した。北海道セメントの名称は消え、のちの上磯工場となる北海道支店が発足[81]した。資本金は1915年上期に200万円を増資して700万円、北海道セメント合併で718万円となり[82]、1917年11月にはさらに782万円を増資して1500万円に達した[83]。
新工場の建設も相次いだ。台湾では基隆と高雄の築港や縦貫鉄道の敷設で需要が伸び[84]、浅野セメントは1913年7月に高雄州寿山の一部190甲について石灰石の払下げ認可を得て、150万円の予算で年産48万樽の工場建設に踏み切った[85]。1915年8月に着工した台湾工場は1917年5月に回転窯の試運転を始め、同年7月に設備を完成[86]させた。神奈川県橘樹郡田島村の10万4052坪に建てた川崎工場[87]も1915年4月に地鎮祭を行い、大戦の影響で機械の到着が遅れて1917年5月にようやく完成し、7月に操業を開始[88]した。回転窯と付属機械はドイツのゲブルダー・ファイファー機械製作所から購入し、鉄骨鉄筋コンクリート建築と煉瓦積工事は清水組が請け負っている[89]。両工場の回転窯はいずれもわが国初の大型窯[90]だった。
深川工場は創業期から降灰の苦情を受けていた。1903年に回転窯が稼働し、生灰焼成法への転換と窯の増設で生産高が急増[91]すると、外部へ飛散する降灰量も増えた。問題は1907年ごろから表面化して工場付近に深川青年団が組織され、当局への陳情と会社への抗議が続き、1910年から翌年にかけて対立は険悪[92]になった。当局の斡旋もあり、浅野セメントは1911年3月、1916年末までに深川工場を撤廃すると区民側へ約束[93]した。川崎工場はその代替として建てたもの[94]である。ところが1916年3月、アメリカ滞在中の高峰譲吉氏らからコットレル式電気集じん装置の情報が届き[95]、同年7月の重役会は特許権と機械設備一切をアメリカから購入すると決めた[96]。1917年12月23日に回転窯4基の装置が機能を発揮[97]し、翌24日、深川青年団と区民代表は工場撤廃の要求を撤回した[98]。
設備の拡張はその後も続いた。川崎第2工場は1918年10月に着工して1920年9月に完成[99]し、門司工場には長さ200フィートの大回転窯が据えられて1922年秋までに4基が揃い、1923年の同工場の生産高は年産223万9821樽に達した[100]。北海道第2工場は1917年9月に着工して1922年3月に竣工[101]し、1925年の北海道工場の生産高は143万7075樽と北日本最大になった[102]。増設資金を賄うため1920年7月の定時株主総会は1800万円の増資を可決し、1921年6月に資本金は3300万円となった[103]。1923年9月1日の関東大震災では深川工場が火災で全設備を焼失し、機械や製品を含む損失額は186万4942円72銭にのぼった[104]。川崎工場も煙突や原料粗砕室が大破し、両工場で工員6名が死亡[105]した。
創業40年にあたる1923年10月[106]、浅野セメントは3つの部門を抱え込んだ。浅野スレートを合併してスレート部とし、日本カーリットを合併してカーリット部[107]とし、浅野同族から鉄筋コンクリート部を継承した。スレートは1914年12月に深川でわが国初の製造試運転にこぎつけた事業で、翌年2月に資本金30万円の浅野スレートとして分離[108]していたが、1920年春からの不況で販売数量が半減し採算が悪化していた[109]。カーリットはスウェーデンの化学者オスカー・カールソン氏が発明した火薬[110]で、大戦により原料の輸入が途絶したことから浅野総一郎社長が国産化に乗り出した[111]ものである。資本金は1923年10月に3575万円[112]、1924年6月には第二浅野セメントと大阪木津川セメントの合併で5631万円となった[113]。初代社長は1930年11月9日に死去し、翌12月に長男で副社長の浅野泰治郎氏が2代目社長に就き[114]、1931年1月に総一郎を襲名した。
関東大震災後の復興需要は見込みはずれに終わり、各社の増産計画だけが予定どおり進んだ結果、業界は生産過剰と在庫増を抱えた[115]。1924年6月ごろから小野田セメント製造社長の笠井真三氏と浅野セメント取締役の金子喜代太氏がカルテル結成の準備にあたり[116]、同年10月5日にセメント連合会が創設された[117]。加盟は当時のセメント会社をほとんど網羅する18社で、全社の年間生産能力1599万6000樽[118]のうち浅野セメントは679万2000樽と42.5%を占めた[119]。ただし生産制限は設備の拡張自体を縛らず、輸出も制限外だったため、各社の拡張競争とダンピングが続いた[120]。1930年1月の金輸出解禁後、第2次連合会は生産制限率を38%から56%へ高めたが市価は回復せず[121]、1934年12月に発足した第3次連合会の下では朝鮮を舞台に空前の乱売戦が起きた[122]。決着は1936年7月の笠井・金子協定による朝鮮向け出荷協定[123]である。
戦時統制は業界の組織を次々に組み替えた。1937年9月施行の臨時資金調整法でセメント製造業は丙種産業に指定され[124]、石炭、紙袋、鋼材や耐火煉瓦といった補修資材の購入で強い制約を受けた。1940年2月には内地の全セメント製造業者26社が株主となってセメント共販株式会社を設立[125]し、3月11日からセメント工業創始以来最初の公定価格による配給統制が始まった[126]。第3次セメント連合会は同年9月に解散して日本セメント工業組合となり[127]、太平洋戦争が始まった1941年12月18日にはセメント統制会が設立された[128]。2代目社長の浅野総一郎氏は社長の職を辞して統制会会長に就任[129]し、1944年2月には会長のまま社長へ復帰した[130]。統制会の指令は公定価格の改訂から企業整備、生産力増強、設備の海外移設[131]まで及んだ。
商工省は1941年7月、当時22社あったセメント企業を10社程度へ整理する案を立てた[132]。資本系列を同じくする各社の間では自発的な合併が先行し、浅野セメントは1939年10月1日に八代・佐伯両工場をもつ旧日本セメントを、1940年5月1日に土佐セメントを、1941年3月1日に日東セメントを、1942年3月に東亜セメントを合併[133]した。旧日本セメントの合併では資本金を1000万円増資して1億1631万円とし[134]、九州の工場は門司、香春を含めて4工場、月産11万8500トンとなった[135]。石炭事情の悪化は本拠にも及び、創業以来56年にわたって操業し、1930年に東京工場と改称していた深川工場[136]は、1939年11月に閉鎖された。設備は1940年10月に華北洋灰へ520万円で売却され[137]、川崎工場も1941年3月28日に日本高炉セメントへ譲渡された[138]。1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾[139]した。
1945年8月15日、浅野セメントの本社は海上ビル新館の会議室で玉音放送を聞いた[140]。ただちに緊急常勤重役会が開かれ、新規事業と新規購入を差し控えること、給料と食糧の手当、幹部の東京待機[141]などが当面の経営方針として決まった。9月7日にはGHQから海上ビル接収のため48時間以内に全館立ち退きせよとの命令が出て[142]、本社は日本鋼管の大手町分室など3カ所に分散した[143]。敗戦により、朝鮮、台湾、満州、北支、南支、スマトラに点在した海外事業および投資事業の資産は一切失われた[144]。海外事業所から引き揚げた社工員は約700名、内外からの復員者は約500名[145]にのぼった。国内工場も戦災と補修不足で荒廃し、石炭統制と補修資材の入手難から生産の再開は進まなかった[146]。
財閥解体は浅野財閥にも及んだ。1945年11月24日に公布された制限会社令[147]に続く指定で、浅野本社、浅野セメント、浅野重工業、浅野物産、関東電気工業、日本鋼管、東亜港湾工業の7社が制限会社となった[148]。指定時、浅野財閥系事業はセメント業で全国シェアの26.5%を占め、小野田セメント製造の製品を販売する三井の20.1%をしのいで第1位[149]にあった。1945年12月には浅野八郎氏が専務取締役を、浅野良三氏が取締役を退き[150]、1946年4月には浅野総一郎氏が取締役社長を辞任して常務取締役の徳根吉郎氏に社長の席を譲った[151]。1947年3月には財閥家族56名の指定が行われ、浅野財閥からは浅野総一郎氏ら4名[152]が該当者となった。創業から63年続いた浅野家との関係[153]は、ここで完全に絶たれた。
財閥にちなむ社名を捨てることになり、社内で募集した結果、新社名は日本セメント株式会社と決まった[154]。1947年3月27日付で許可を得て[155]、営業期初の5月1日から改称した。総司令部担当室が日本の国号を公文書でJAPANと表示していることを理由に英文表示をJAPAN CEMENT CO., LTD.として許可したため、輸出その他の渉外関係先には当初やむなくこの表記を使った[156]。1948年2月には過度経済力集中排除法の第1次指定企業257社に含まれ[157]、小野田セメント製造、磐城セメント、大阪窯業セメント、宇部興産とともにセメント企業から指定された[158]。しかしアメリカ政府の5人委員会が示した4原則により適用は緩和され[159]、1949年6月17日に持株会社整理委員会から指定取消指令を受けた[160]。
労働争議が沈静に向かい企業再建整備計画のめどが立った1949年9月、終戦直後に社長に就いた徳根吉郎氏は井上英煕専務に社長の職を譲った[161]。井上社長は従来の社長・専務・常務制を廃して会長・社長・常務制に改め[162]、東京機械製作所の閉鎖、尼崎工場の閉鎖、秩父鉱業所の分離独立、ブロック事務所の強化、人員整理[163]を実施した。スレート部は1949年11月に独立採算制となり、1951年5月にアサノスレート[164]として独立した。1949年8月にはセメント生産上の最大難関であった石炭統制が解除され[165]、1950年1月にはセメントの配給と価格の統制が全面撤廃された[166]。セメント販売価格は1940年3月に国家統制を受けて以来、10年ぶりに自由販売価格へ復帰した[167]。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争は特需景気を招き[168]、セメント需要を押し上げた。西多摩工場3号窯は1950年12月に着工して翌年11月に竣工し、月産1万トンの能力増[169]となった。このときアメリカのフラー社から購入したエアクエンチングクーラをわが国で最初に設置し、クリンカの冷却温度を下げると同時に2次空気の温度を上げて石炭を節約した[170]。上磯工場では1952年11月に3号窯が完成し、わが国最初の三点支持全溶接回転窯[171]となって同工場の能力は月産3万3000トンに達した。輸送では1950年6月に門司工場へ積込設備を新設し、近海郵船の豊城丸をセメントタンカーに改造して門司と横浜の間を毎月2〜3回往復させ[172]、荷受設備として横浜に最初の包装所を設けた[173]。
需要が最も伸びた関東信越地区で、日本セメントが持つ工場は西多摩工場だけ[174]だった。しかも同工場は早強セメントと中庸熱セメントの生産を主体としており、普通セメントの需要には応じ切れなかった[175]。1952年3月に具体的計画の作成へ着手し、糸魚川付近、国鉄青梅沿線、私鉄西武沿線の3地点を候補とした[176]うえで、武甲と日原の両原料山を背後に控える西武沿線に絞った[177]。1953年10月に工事総予算額29億8767万4000円で新工場を建設すると決めた[178]が、飯能町双柳地区の反対運動が市長不信任決議と議会解散にまで発展したため、1954年5月に協定の白紙還元を通知した[179]。候補地を高麗川村へ移して1955年1月に工場誘致協定を結び[180]、埼玉工場は1955年4月に竣工した[181]。
1965年の不況で業績は急激に悪化した。過当競争に伴う設備投資の行き過ぎと設備過剰で操業率が下がり[182]、原価高に加えて借入金と支払利息の増大が利益を圧迫した[183]。1964年上期から利益は減り続け、1965年上期は辛うじて3億円[184]の利益を出したにとどまった。同年5月、会社は原価の大幅低減と販売力の強化を目標とした体質改善方策を打ち出し[185]、集中生産への移行、サスペンション様式の採用推進、原石自採比率の引上げ、重油焼成への転換、輸送費の引下げ、人事の合理化、関係会社対策の強化、金利と減価償却負担の軽減など8項目を重要施策に定めた[186]。人員は補充採用を行わない要員管理で減らし、従業員数は1965年10月の4,534名から1967年10月には4,111名となった[187]。
1966年12月、40年不況を克服した井上英煕社長は会長に退き、武安千春副社長が社長に就いた[188]。井上前社長は1947年7月以来19年にわたって代表専務取締役と社長の座にあり、対外的にも数期にわたってセメント協会会長を務めた[189]。武安千春社長は量から質への企業体質改善という前社長の基本方針を引き継ぎ[190]、目標管理の推進、要員管理の実行、賃金管理の合理化、新製品と副業品の開発促進、関係会社管理の強化を実行目標に掲げた[191]。1970年3月には第1次体質強化策を提案し[192]、原価の低廉な大型工場に運転を集約して、原価の高い非能率的な小型工場は順次セメント生産を中止し他部門に転換するか閉鎖するとした。1969年度の1人当り労働生産性はセメント全社平均2,866トンに対し日本セメントは2,646トン[193]と低かった。
非セメント部門の育成も1965年の体質改善方策から始まった。同年7月に埼玉、大阪両工場の遊休設備で石粉の生産を始めてアサノフィラーの商品名で発売し[194]、1966年8月には大阪工場で人工軽量骨材アサノライトの生産を開始した[195]。1966年10月には西多摩工場でアサノアルミナセメント[196]、1969年11月には1日強度が普通ポルトランドセメントの4倍に達するアサノスーパーベロセメントを発売した[197]。1938年に香春工場の余剰電力を活用する鋳造所として始まった香春製鋼所[198]は鋳鋼品から産業機械へ製品を広げ、1974年12月25日に機械事業部となった[199]。総売上高に対する非セメント部門の売上比率は1965年度の3%から1973年度には21.8%へ上がり[200]、1977年度の生産シェアは日本セメントが12.5%で首位、小野田セメント12.3%、三菱鉱業セメント11.8%、宇部11.2%、住友セメント11.1%が続いた[201]。
1974年12月25日、原島保氏が第6代社長に選ばれ、武安千春前社長は会長に就いた[202]。第1次石油ショック直後の1974年度は実質経済成長率が戦後初めてマイナスとなり、重油と電力のコスト上昇でセメント産業の採算は悪化した[203]。就任から3か月後、原島保社長は『1年で辞めるわけにいかなくなった』[引用元](日経ビジネス 1975/3/17)[204]と語った。会社は1975年3月から役員報酬と管理職の賃金カットを実施し、1977年12月まで続けた[205]。雇用調整給付金の指定業種となったため一時帰休制度も採り[206]、1975年6月の西多摩工場を皮切りに上磯、埼玉、大阪、八代の各工場へ広げた。1976年1月には50歳以上の従業員を対象とする勇退を労働組合に提案し、同年6月14日に勇退者350名を確認して、管理職を含め約400名[207]が会社を去った。
1977年4月14日、会社はチャレンジ400とチャレンジ自立の2つの目標を労働組合に説明[208]した。チャレンジ400はセメントの原価をトン当り400円切り下げるもので、1977年上期の予算を基準に本社、支店と上磯、埼玉、土佐、香春、佐伯、糸崎の各工場がそれぞれ削減目標を設定した[209]。チャレンジ自立は関連製品部門の各事業所が採算的に自立することを目標[210]とした。1年を経ても好転せず、1979年1月の常務会で門司、八代両工場の基本方針を定め、同年10月に両工場の閉鎖と従業員の配転を労働組合に提案した[211]。130名近くが他工場や日本イトン工業などへ配転・出向し、約40名が退職[212]して、1980年4月に両工場は閉鎖された。門司工場は1893年、八代工場は1890年に建設された約90年の歴史[213]をもつ工場だった。
燃料は重油から石炭へ戻された。2度の石油ショックで熱量当りの重油価格が石炭価格を上回ったため[214]で、1978年10月の佐伯工場5号キルンを最初に、1980年1月に香春工場、2月に土佐工場、3月に埼玉工場、9月に上磯工場が石炭混焼を始めた[215]。四半期ごとの石炭混焼率は1982年第1四半期に98.3%[216]となり、石炭焼成はほぼ上限に達した。1979年4月には西多摩工場にタイヤの投入設備を新設[217]し、ブリヂストンタイヤと共同開発した使用ずみタイヤの燃料利用を実用化して、同年6月に環境庁から環境賞を受けた。1979年には神戸製鋼所と共同開発したDD式NSPキルンが上磯工場6号キルンで稼働し[218]、1982年9月には香春工場7号キルン系統に最大出力1万6200キロワットの排熱発電設備が完成した[219]。
1982年7月22日、7年半にわたり社長を務めた原島保氏は会長に退き、北岡徹氏が社長に就いた[220]。会社年鑑1986年版によれば、単体売上高は1981年4月期の1,884億円を頂点に3年続けて減り、1984年4月期は1,589億円まで落ちた[221]。経常利益は1979年4月期の105億円から1984年4月期には9億円[222]まで縮んでいる。1984年4月期の売上構成はセメントが1,265億円で80%を占め、その他は324億円[223]にとどまった。同じ年鑑に載る他社の直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、住友セメント93%、秩父セメント97%、大阪セメント95%[224]であり、大手6社はいずれも1981年前後に売上高の頂点を打って以後減収に転じた[225]。
需要そのものが減っていた。セメントの国内需要は1979年度の8,297万トンを頂点に年々低減[226]し、1982年度は7,237万トンとなって3年間で1,060万トンを失った。創立100周年を迎えた1983年の年頭、北岡徹社長は全体の6割強を占める官公需が財政難で厳しい抑制を受けていること、民需も不況と産業構造の変化でかつての力を失っていることを挙げ、セメント需要の成熟化を認めざるを得ないと述べた[227]。そのうえで、セメント部門で業界最優位の価格競争力を確立すること、成長の機会を新規分野に求めて研究開発と非セメント部門を強化すること、管理・間接部門を効率化して販売、研究開発、海外事業へ人員を重点配置することの3つを基本的方向に置いた[228]。1983年2月には中央研究所本館を新築[229]している。
1990年10月には小野田セメントが米カリフォルニア・ポルトランド・セメントを買収[230]し、米国西海岸へ進出した。秩父小野田の国内シェアは24%で業界首位となり[231]、1981年前後にそろって売上高の頂点を打った大手6社は、この月に4社となった。
日経ビジネスは同月13日号で、東南アジアへの輸出急減が引き金になった[232]と伝えた。
1883年の創立から115年[233]、1947年に日本セメントと改めた商号はこの日に消えた。
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|---|---|---|---|---|
| 1883〜1912年官営深川工場の払下げを受けた浅野総一郎氏の匿名組合から合資会社まで | 工部省深川工作分局セメント工場の浅野総一郎氏への貸下げ | ★★★ | ||
| 官営工場の払下げと匿名組合浅野工場の発足、資本金4万5000円 | ★★ | |||
| 皇居造営用セメント3000樽の納入契約、創業後最初の大口契約 | ★★ | |||
| 第1次増設の完成による月産3000樽への規模倍増 | ★ | |||
| 横浜築港工事向けセメント3500トンの落札 | ★★ | |||
| 浅野門司分工場の発足による西日本での生産開始 | ★★ | |||
| 匿名組合から浅野セメント合資会社への改組、総資本金80万円 | ★★ | |||
| わが国最初の回転窯の導入と深川工場での試運転開始 | ★★★ | |||
| 竪窯の取りこわしによる深川工場の全回転窯化 | ★★ | |||
| 坂内冬蔵技師長による生灰焼成法の特許取得 | ★★ | |||
| 降灰問題による深川区民への深川工場撤廃の約束 | ★★ | |||
| 浅野セメントの設立、資本金10万円 | ★★★ | |||
| 1912〜1945年株式会社への改組と度重なる合併で全国に工場を広げた浅野財閥のセメント事業 | 合併完了に伴う資本金500万円への増資と支店制の採用 | ★★ | ||
| 北海道セメントの合併と上磯工場の取得 | ★★★ | |||
| 門司工場へのわが国最大の200フィート回転窯の据付 | ★ | |||
| 川崎工場の完成と7月の操業開始 | ★★ | |||
| 台湾工場の完成 | ★ | |||
| 深川工場でのコットレル式電気集じん装置の稼働と工場撤廃要求の撤回 | ★★★ | |||
| 川崎第2工場の完成と試運転開始 | ★ | |||
| 関東大震災による深川工場の全設備焼失 | ★★ | |||
| 浅野スレートと日本カーリットの合併 | ★ | |||
| 大阪木津川セメントの合併と大阪工場の取得 | ★★ | |||
| セメント連合会の創設主導と、生産・販売数量および最低価格の協定 1924年10月5日、浅野セメント取締役の金子喜代太氏が小野田セメント製造の笠井真三氏とともに準備を進め、同業18社が加盟するセメント連合会を創設した。生産量と販売量を需給に応じて能力に比例して調節し、あわせて最低販売価格を協定する全国規模のカルテルで、業界ぐるみの結成はこれが初めてであった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 西多摩工場の新設と高級品アサノベロセメントの誕生 | ★★ | |||
| 創業者である浅野総一郎社長の逝去 | ★★ | |||
| 副社長の浅野泰治郎氏の2代目社長就任 | ★★ | |||
| 満州吉林での大同洋灰の共同出資による設立 | ★ | |||
| わが国初の低熱セメントの製造開始 | ★★ | |||
| 香春工場の完成によるアサノベロセメント全国供給網の整備 | ★★ | |||
| 笠井・金子協定による朝鮮向け出荷協定の成立 | ★ | |||
| 香春工場での鋼塊製造の開始 | ★ | |||
| 旧日本セメントの合併と八代・佐伯両工場の取得 | ★★ | |||
| 石炭事情の悪化による発祥地の東京工場の閉鎖 | ★★ | |||
| セメント共販の設立と公定価格による配給統制への移行 | ★★ | |||
| 土佐セメントの合併と土佐工場の取得 | ★ | |||
| 日本鋼管などとの共同出資による日本高炉セメントの設立 | ★ | |||
| 日東セメントの合併と糸崎工場の取得 | ★ | |||
| 浅野総一郎社長のセメント統制会会長就任に伴う社長辞任 | ★★ | |||
| 東亜セメントの合併と尼崎工場の取得 | ★ | |||
| 軍需省の指令による国営士別工場の完成と委任経営 | ★ | |||
| 敗戦による朝鮮・台湾・満州など全海外資産の喪失 | ★★★ | |||
| 1945〜1980年財閥解体で創業家が去り、業界首位に立つまでの35年 | 浅野一族の浅野セメント役員からの退任 | ★★ | ||
| 浅野総一郎社長の辞任と徳根吉郎常務の社長就任 | ★★★ | |||
| 財閥解体による創業家・浅野一族の役員退任と、浅野セメントから日本セメントへの商号変更 1945年12月から1946年4月にかけて浅野八郎専務・浅野良三取締役・浅野総一郎社長が相次いで役員を退き、1947年5月1日に商号を浅野セメントから日本セメントへ改めた経営判断。GHQの財閥解体と公職追放を受け、初代浅野総一郎氏以来63年続いた創業家との関係を絶ったうえでの改称であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 事業所の改廃と人員整理を含む企業合理化方針の提示 | ★★ | |||
| 井上英煕専務の社長就任と会長・社長・常務制への移行 | ★★ | |||
| 企業再建整備法による整備計画の認可と新旧勘定の併合 | ★★ | |||
| セメントの配給・価格統制の全面撤廃と自由販売への復帰 | ★★ | |||
| 門司・横浜間のセメントタンカー輸送と横浜包装所の開設 | ★★ | |||
| スレート部門のアサノスレートとしての分離独立 | ★ | |||
| 西多摩工場3号窯の完成とわが国初のエアクエンチングクーラの設置 | ★ | |||
| アサノコンクリートの設立による生コンクリート事業への参入 | ★★ | |||
| 上磯工場3号窯の完成、わが国初の全溶接回転窯 | ★ | |||
| 豪雨による門司工場の被災と従業員・家族29名の死亡 | ★★ | |||
| 埼玉工場の竣工 | ★ | |||
| 熊谷工場の竣工 | ★ | |||
| 大阪工場での人工軽量骨材アサノライトの生産開始 | ★ | |||
| 井上英煕社長の会長就任と武安千春副社長の社長就任 | ★★ | |||
| 第一セメントとのセメント受託販売契約の締結 | ★★ | |||
| 超早強のアサノスーパーベロセメントの発売 | ★ | |||
| セメント生産の大型工場への集約と、小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策 1970年3月、日本セメントは第1次体質強化策の基本構想を労働組合に示した。セメントの運転を原価の低い大型工場へ集約し、原価の高い小規模工場はセメント生産を止めて他部門に転換するか閉鎖するという内容で、実際には西多摩・大阪・門司・八代の4工場にセメント以外の関連製品での自立を求めた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| ロックウールのアサノミネラルファイバーの発売 | ★ | |||
| 明星セメントの全株式取得 | ★★ | |||
| 機械事業部の設置と香春製鋼所の産業機械部門への転換 | ★ | |||
| 武安千春社長の会長就任と原島保氏の第6代社長就任 | ★★ | |||
| 1980〜1998年工場閉鎖と業界再編をはさんで被合併側にまわるまでの18年 | 原島保社長の会長就任と北岡徹氏の社長就任 | ★★ | ||
| 創立100周年と中央研究所の新築 | ★★ | |||
| 大日本セメント共同事業の設立 | ★ | |||
| 木村道夫氏の社長就任 | ★★ | |||
| 北岡徹氏の会長就任 | ★ | |||
| 秩父小野田との合併の発表 | ★★ | |||
| 秩父小野田との合併による太平洋セメントの発足 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本セメント)