日本セメントセメント連合会の創設主導と、生産・販売数量および最低価格の協定

自ら生産を縛るか、値崩れに耐えるか——能力の42.5%を握る最大手が主導した業界初の全国カルテル

時期 1924年10月
意思決定者(推定) 金子喜代太 取締役
論点 過剰能力の調整と市価の維持
概要
1924年10月5日、浅野セメント取締役の金子喜代太氏が小野田セメント製造の笠井真三氏とともに準備を進め、同業18社が加盟するセメント連合会を創設した。生産量と販売量を需給に応じて能力に比例して調節し、あわせて最低販売価格を協定する全国規模のカルテルで、業界ぐるみの結成はこれが初めてであった。
背景
関東大震災の復興需要を見込んだ各社の増産計画だけが予定どおり進み、復興事業の遅れで期待された大量需要は見込みはずれに終わった。需要増を当て込んだ一部商社の思惑輸入も1923年の1年間で約2万7000トンにのぼり、業界は生産過剰と在庫増を抱えた。
内容
加盟18社の年間生産能力1599万6000樽のうち、浅野セメントは679万2000樽を占め、比率は42.5%にのぼった。生産制限は当初の一律時間制限から累進率制へ改められ、設備の新増設分には累進率のほかその7割が加算された。販売面の出荷制限と最低価格維持は運用に無理があり、1年余りで中止した。
含意
設備の拡張自体は制限されず、輸出も制限外であったため、拡張競争とアジア市場へのダンピングが続いた。第2次連合会が生産制限率を38%から56%へ高めても市価は回復せず、1934年11月には連合会自身が商工省に重要産業ノ統制ニ関スル法律の発動を仰いだ。
筆者の見解

縛れた量と、縛れなかった動機

679万2000樽、全社能力の42.5%。絶対量として最も多く削られる会社が、削る仕組みを自分で作りに行った。装置産業の固定費は生産量に関係なくかかり、セメントは在庫がきかないため、市価が崩れれば能力を最も多く抱える会社が最も長く安値で売り続けるほかない。金子喜代太氏が笠井真三氏と組んだ背景には、競争を放置した場合に最大の損を負うのが自社だという計算があったとみられる。生産を縛る側に回ったのは譲歩ではなく、最大手の防衛であった。

連合会は生産量を協定しながら、設備の拡張自体は縛らず、輸出も制限外に置いた。制限率を38%から56%へ引き上げても市価は戻らない。10年後には連合会自身が商工省に法の発動を仰ぎ、加盟していない同業者まで国の命令で縛るところまで進んだ。1924年に連合会を組み立てた笠井氏と金子氏が、1936年には乱売戦の後始末としてあらためて協定を結んでいる。作れたのは生産を分け合う枠であって、能力を増やす動機を抑える枠ではなかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

見込みはずれに終わった復興需要

1897年以後のセメント業界では、不況のたびに一部の業者がカルテル運動を唱えたものの、いずれも地方の販売協定の域を出なかった。全国規模の結成は、第1次世界大戦の好況が終わるまで実現していない。1920年の恐慌でセメント需要は急減し、市況も続落する。同年から翌年にかけてはセメント会社の大合同案が持ち上がったが、これも声だけに終わった。統制を求める気運は業界に残り、それを収める枠組みだけが欠けていた[1][2]

1923年9月の関東大震災は、復興関係の需要増を期待させた。セメント各社のなかには、早くも増産計画を立てて需要増に備える者もあった。ところが帝都復興院の構想は財政難から繰り延べになり、期待された大量需要は見込みはずれに終わる。それでいて各社の増産計画は予定どおり進行し、生産量だけが増えた。需要増を当て込んだ一部商社の思惑輸入も1923年の1年間で約2万7000トンにのぼり、業界は生産過剰と在庫増を抱えた[3][4]

能力を増やす側にいた最大手

浅野セメントもまた、能力を増やす側に立っていた。1920年9月に川崎第2工場が完成し、1921年から1922年にかけては門司工場に長さ200ftの大回転窯3基を据え付けている。門司工場の生産高は1923年実績で年産223万9821樽に達した。増設資金は、未払込金との関係を考えて単純増資を避け、別会社を興して合併する方法で調達した。資本金2000万円の第二浅野セメント株式会社の設立を、1923年11月19日の重役会で決めている[5][6]

震災の被害も重なった。深川工場は地震のあとの火災で全設備を焼失し、機械・建物と原料品・製品などの損害は合計186万4942円72銭にのぼる。復旧は1924年7月にずれ込んだ。復興工事の遅れによる販売数量の減少と市況の混乱が加わり、1923年上期に年3割5分だった配当は1924年上期に2割まで下がった。同じ1924年6月には第二浅野セメント社と大阪木津川セメント社を合併し、資本金は5631万円へ増えている[7][8]

決断

両社の実務者が組んだ準備

1924年6月ごろから、小野田セメント製造の笠井真三氏と浅野セメント取締役の金子喜代太氏の2人が中心となり、カルテル結成の準備に取りかかった。同年10月5日の協議会で各社の意見は完全に一致し、セメント連合会が創設される。当時のセメント会社をほとんど網羅する18社が加盟し、初代会長には笠井氏が就いた。大工事の入札前に落札者と価格を決める談合の慣習は以前からあったが、業界ぐるみのカルテルはこれが初めてであった[9][10]

加盟18社の年間生産能力は合計1599万6000樽、約275万トンであった。うち浅野セメントは679万2000樽を占め、比率は42.5%にのぼる。連合会の主たる目的は、加盟各社の生産数量と販売数量をその時の需給状態に応じ、能力に比例して調節し、同時に最低販売価格を協定して市価の崩落を防ぐことにあった。能力に比例させる調節である以上、絶対量として最も多く削られるのは、42.5%を持つ浅野セメント自身であった[11][12]

能力に比例させた制限という設計

セメント産業では、不況になると必ずダンピング競争が起きた。主原料の石灰石と粘土は国内各地で産出し、装置産業であるため生産量に関係なく固定費がかかるので、操業率は高く保つほうが有利になる。しかも、いったん作ったセメントは商品の性質上、在庫がきかない。市価が崩れても、重い固定費を抱えたまま安値で売り続けるほかない。連合会が生産数量とあわせて最低販売価格の協定を掲げたのは、この構造への対抗であった[13]

制限の方法は、運用のなかで改められた。従来の生産制限は工場の能力の大小を無視した一律時間制限であったため、小会社から非難が出る。そこで累進率制へ改め、小会社には低率を課した。会員各社の設備の新増設については、累進率のほかにさらにその7割を加えて、増産分が市場へ流入するのを最小限に食い止めた。他方、販売部門の出荷制限と最低価格維持は運用に無理があり、所期の効果をあげ得ないまま1年余りで中止している[14][15]

結果

縛らなかったもの

連合会は生産量を縛ったが、設備そのものは縛らなかった。生産制限が各社の生産能力を基準としていた反面、設備の拡張自体には制限がなく、各社の間で激しい拡張競争が起きる。輸出も制限外であったため、アジア市場へのダンピングも続いた。加えて、カルテルを結んでもアウトサイダーが必ず一、二社あらわれ、連合会各社と激しく競争した。制限率が上がるほど能力を増やす動機が強まる仕組みが、そのまま残された[16][17]

1929年12月に第2次セメント連合会が設立された。翌1930年1月の金輸出解禁で不況は深刻さを増し、小康を保っていたセメント市価は月を追って低落する。連合会は生産制限率を1930年初めに38%とし、8月からは56%へ高めて工場の操業短縮を強化したが、市価はいっこうに回復しなかった。市価維持の運動はむしろ各社販売担当者の懇親団体から広まり、1931年1月にセメント販売協会が、6月にその連絡機関としてセメント販売協会統制会が設けられた[18][19]

自ら仰いだ法の発動

1932年には満州での需要増大と政府の時局匡救土木事業で各社の業績が好転した。その反面で各社の増産競争が激化し、新会社の設立も相次ぐ。1934年、連合会の中心課題は懸案の増産中止協定の締結へ移ったが、これをめぐって意見が対立し、加盟各社は2派に分かれた。同年11月初め、セメント連合会は商工省に重要産業ノ統制ニ関スル法律の発動を仰ぐ。商工省は申請を受け入れ、12月1日からアウトサイダーを含む全業者に増産中止と生産制限を命じた[20][21]

1934年12月、各地の販売協会と販売統制会をあわせて生産・販売の両面を統制する第3次セメント連合会が発足した。小野田セメント製造社と大分セメント、電気化学工業は加盟しなかった。朝鮮を舞台にした乱売戦は1年半に及び、1936年5月に重要産業統制法の改正案が可決されて外地への適用が決まったのち、同年7月に決着する。協定に臨んだのは、小野田セメント製造社長の笠井氏と、連合会側代表である浅野セメント専務取締役の金子氏であった[22][23]

出典・参考
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第3章第2節 セメント連合会の創設
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第3章第3節 生産能力増強と増資
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第3章第6節 当期間の業績
  • 日本セメント百年史(日本セメント、1983年)第4章第1節 軍需産業優先とセメント業界
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」

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