焼けた店を建て直す金と、新しい街に店を構える金は、同じ財布から出る。1923年10月に1,000万円へ増やした資本金は、上野の建て直しだけに充てることもできた。それを上野の再開と銀座の開店に割り、翌々年には名古屋の本店まで建て替えている。東京の売場2,000坪を失った直後に、東京の売場を震災前より増やす側を選んだ点に、この判断の芯があるだろう。伊藤祐民社長が駆逐艦を借りて名古屋の品を東京へ運んだのも、名古屋と東京を一つの店として動かす感覚の表れであった。
ただ、銀座を選んだことが正しかったと言えるのは、その後の80年を知っているからにすぎない。銀座店は開店から20年で空襲に焼かれ、建て直した後も、2004年の時点でも同じ街の三越や松屋には規模でも効率でも及ばなかった。それでも会社はこの街から退かず、2002年の中期経営計画では、その土地を大規模再開発構想の中心に位置づけた。店として競争優位を保ち続けた場所ではないものを持ち続けたこと——震災直後の出店が残したのは、売場よりも銀座の土地であったといえる。