松坂屋関東大震災で焼失した上野店の復旧と、東京・銀座への新規出店

上野を建て直しながら、なぜ客層の異なる銀座に店を構えたのか

時期 1924年12月
意思決定者(推定) 伊藤祐民 社長
論点 震災復興と店舗網の再編
概要
1924年(大正13年)12月、株式会社いとう呉服店(翌年に商号を松坂屋へ統一)が東京・銀座に銀座店を開いた経営判断。前年9月の関東大震災で上野店の建物一切を焼失し、同年10月に資本金を1,000万円へ増やして復旧に着手した直後の出店であった。
背景
上野店は1916年に木骨れんが四階建てで新築し、翌1917年10月の第二期工事で売場を合計2,000坪としたばかりであった。震災でこれを失い、1923年12月に営業だけは再開したものの、建物の再建は途上にあった。会社は1910年の設立以来、大都市の営業店へ力を集める方針をとっていた。
内容
上野店旧館の完成を1926年に控えたまま、1924年12月に銀座店を開いた。銀座は、寛永寺の僧侶の衣や前田家などの御用に支えられてきた上野とは客層も商圏も異なる街であった。1925年2月の商号統一、同年5月の名古屋本店移転と続く組み替えの一部にあたる。
含意
焼けた場所の復旧と、新しい街への出店を同時に進めた。銀座店は空襲で再び焼け、1952年11月に新館が完成する。2000年代には同じ街の三越・松屋に規模でも効率でも及ばない店とされたが、2002年公表の中期経営計画では銀座地区の大規模再開発構想が掲げられた。
筆者の見解

焼け跡から増やした側

焼けた店を建て直す金と、新しい街に店を構える金は、同じ財布から出る。1923年10月に1,000万円へ増やした資本金は、上野の建て直しだけに充てることもできた。それを上野の再開と銀座の開店に割り、翌々年には名古屋の本店まで建て替えている。東京の売場2,000坪を失った直後に、東京の売場を震災前より増やす側を選んだ点に、この判断の芯があるとみられる。伊藤祐民社長が駆逐艦を借りて名古屋の品を東京へ運んだのも、名古屋と東京を一つの店として動かす感覚の表れであった。

ただ、銀座を選んだことが正しかったと言えるのは、その後の80年を知っているからにすぎない。銀座店は開店から20年で空襲に焼かれ、建て直した後も、2004年には同じ街の三越や松屋に規模でも効率でも及ばない店と評されている。それでも会社はこの街から退かず、2002年の中期経営計画では、その土地を大規模再開発構想の中心に据えた。店として勝ち続けた場所ではないものを持ち続けたこと——震災直後の出店が残したのは、売場よりも銀座の土地であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

焼け落ちた上野店の2,000坪

東京・上野の店は、1768年(明和5年)に上野松坂屋を買収して関東支店としたことに始まる。以来この店は、上野寛永寺の僧侶の衣や前田家などの御用商人として呉服を商ってきた。1910年に名古屋・栄町へ陳列方式の百貨店を開いた後も、上野は東京側の拠点であり続けた。1916年には木骨れんが四階建てとして新築し、翌1917年10月の第二期工事で売場は合計2,000坪に達している[1][2]

その2,000坪は、6年後の1923年9月の関東大震災で失われた。上野支店は建物一切が焼け、東京の拠点は跡形もなくなっている。当時会社を率いていた伊藤祐民社長は、海軍から駆逐艦を借りて名古屋の店の品物を東京へ送り、必需品の供給と市民の救済に当たった。焼け跡の後始末と商いの再開を同時に進める手際は、たびたび火災に遭ってきたこの店に備わっていたものであった[3][4]

震災前からあった大都市への構え

株式会社いとう呉服店は、1910年2月の設立時に本店を名古屋市栄町に置き、支店を東京上野と京都に構えた。翌1911年8月に岡崎支店を、1912年3月に岐阜支店を廃止したのは、大都市の営業店へ主力を注ぐためであった。1921年7月には横浜に野澤屋呉服店を設け、1923年3月には大阪市日本橋筋に大阪店を開いている。震災の半年前まで、店は大都市へ出る動きを続けていた[5][6]

資本金の増やし方にも同じ方向が表れている。1916年9月に100万円、1918年3月に200万円、1920年4月に500万円と引き上げ、震災の翌月にあたる1923年10月には一気に1,000万円とした。増資と同時に上野店の復興へ着手し、同年12月には早くも営業を再開している。焼失から3カ月での再開は、名古屋から東京へ資金と商品を振り向けられる会社になっていたことを示している[7]

決断

復旧と新店を同時に走らせる

上野店の営業再開から1年後の1924年12月、いとう呉服店は東京・銀座に銀座店を開いた。震災からは1年3カ月しか経っていない。焼けた上野の建物はまだ仮の姿のままで、旧館が完成するのは1926年である。復旧の途中で、もう一つの店を別の街に構えた形になる。震災で東京の拠点を失った会社が、元の場所を建て直しながら、東京の売場をもう一つ増やした[8][9]

二つを同時に進めた狙いを、後年の社史記述は「中央発展の足場を固め」と説明している。上野は東京の北の玄関にあたり、山手の客と寺社の御用に支えられた商圏であった。震災は、その商圏そのものを焼いている。同じ場所に同じ規模で建て直すだけでは、東京の商いは震災前の水準へ戻るにとどまる。銀座への出店は、戻すのではなく増やす側を選んだものとみられる[10]

客層の異なる街を選ぶ

銀座は、上野とは客層も商圏も別の街であった。上野の店は寛永寺の僧侶の衣や前田家などの御用を務めてきた呉服店であり、得意先は代々の付き合いに支えられていた。これに対し当時の銀座は、大阪資本が東京へ進出してカフェーが全盛となり、尾張町の角の「カフェーライオン」に学生が通うような街であった。付き合いの蓄積が効かない場所で、店の名前だけで客を集められるかどうかが問われた[11]

銀座店の開店は、一店の増設にとどまらなかった。1925年2月に商号を株式会社松坂屋へ統一し、同年5月には名古屋店舗の新築完成にあわせて本店を栄町から南大津通へ移している。名古屋の呉服屋として名乗ってきた「いとう呉服店」の看板を下ろし、東京に二つの店を構え、名古屋の本店も建て替える。半年ほどの間に、商号と店舗の配置が一度に組み替えられた[12]

結果

二度目の焼失と、早い立ち直り

銀座店は20年ほどで再び焼けた。戦時下の百貨店は建物の強制供出で売場面積を削られ、商品統制による営業不振も重なっていた。そこへ空襲が加わり、名古屋本店・銀座店・静岡店を失う。残ったのは上野店と大阪店だけであった。ただし銀座店は、戦争中に隣接する地所を買って地下室まで造っており、鉄骨の供出で工事が止まったまま終戦を迎えていた。地下が残っていたことが、戦後の建て直しを早めた[13][14]

1952年11月に銀座店の新館が完成し、延べ8,300坪となった。翌1953年には名古屋店と東京銀座店の復興・拡張が相次いで成り、資本金も10億円に達している。1955年2月期には全社の売場面積が2万4,000坪、売上高は103億8,900万円まで戻った。震災の焼け跡に開いた店が、二度目の焼失を経て、戦後の中核の一つに戻った[15][16][17]

密集した銀座のなかでの位置

開店から80年後、銀座の商業集積は半径500メートルに6つの百貨店が並ぶ密度になっていた。ブランド店や老舗も密集し、買い回りのしやすさでは他に例のない一帯である。もっとも各店の入店客数は軒並み減り、2003年度は松屋が3.5%減、阪急数寄屋橋店が6.8%減で、丸ビルや六本木ヒルズなど周辺の再開発地域へ客が流れていた。そのなかで松坂屋の位置は高くない。2004年の週刊東洋経済は、地域の百貨店を比べたうえで、松坂屋を「売り上げ規模でも効率でも劣る」と記している[18][19]

それでも松坂屋は銀座から退かなかった。2002年に公表した中期経営計画で「銀座地区大規模再開発構想の推進」を掲げ、隣接するプラダを含む敷地面積9,075平方メートル、うち自社所有5,529平方メートルを対象に地権者との協議へ入っている。岡田邦彦社長は当時「再開発には最短でも4年はかかる」と述べていた。売場としての順位よりも、街に持つ土地の使い道が問われる段階に入っていた[20]

出典・参考
  • 私の履歴書 経済人3(伊藤次郎左衛門)
  • 会社銀行八十年史(1955年)
  • 有価証券報告書(第161期)【沿革】
  • 週刊東洋経済(2004年6月5日号)「包囲された「世界のGINZA」銀座 再開発地域にOL奪われ客数減」

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