サントリーホールディングス主力が順風のうちに、勝てない市場へ出る

売上300億円の会社が10倍の市場へ挑み、黒字化まで46年を要したビール参入

時期 1963年4月
意思決定者(推定) 佐治敬三 サントリー 社長
論点 洋酒事業が順調な時期におけるビール事業への参入
概要
1963年4月、サントリーはビール事業に参入して「サントリービール」を発売し、同じ年に社名を寿屋からサントリー株式会社へ改めた経営判断。当時の売上高は約300億円で、大手ビール3社の売上高合計はその10倍近くあった。
背景
主力の洋酒事業はオールド・トリスを軸に順調だった。佐治敬三は自伝で「このままでは会社の将来が不安だ。社内の空気をピンと緊張させるためにも、ひそかに暖めてきた最難関のビール事業に敢えて挑戦しようと決意した」と述べている。同社にとってビールは初挑戦ではなく、1934年に麦酒部を東京麦酒として分離し1943年に閉鎖された事業への復帰でもあった。
内容
発売直後、前評判が効きすぎて品切れを起こし、消費者が酒屋へ行っても商品がない状態が生じた。「サントリーは宣伝だけで肝心のビールがない」という評判が立ち、営業担当者は酒屋を回っても返品のほうが多い状況に置かれた。以後40年以上、この事業は黒字にならなかった。
含意
2008年、ビール事業は参入46年目にして初の黒字となりシェアも業界3位に上がった。佐治は1977年の時点で「ビールを売る苦しみがわかるとウイスキーも殿様商売ではいかんということで営業部門全体が原点に帰れた」と述べ、赤字事業が主力事業の規律を保った面を認めている。
筆者の見解

赤字事業が果たした役割をどう見るか

40年以上黒字にならない事業を抱え続けた判断は、通常の投資基準では説明がつかない。佐治自身は損得ではなく効用でこれを説明している。1977年の取材で、ビール参入が経営にもたらしたものを問われ、こう答えた。「結局ビールをやることでウイスキーの商売もバイタライズされたんですね。ビールを売る苦しみがわかるとウイスキーも殿様商売ではいかんということで営業部門全体が原点に帰れたと思うんです」。赤字事業が主力事業の緩みを正した、という見方になる。

この総括をそのまま受け取るには留保が要る。同じ効果を、より安い方法で得られなかったのかという問いは残るし、40年の赤字を許したのは非上場で創業家が9割の株式を握る資本構成でもあった。上場企業であれば、株主がこれほど長く待つ保証はない。もっとも、参入の読み自体は外れていない。洋酒事業は1983年をピークに下げ止まらなくなり、佐治が備えようとした「会社の将来」への不安は現実になった。誤算は事業の必要性ではなく、黒字化に要する年数の見積もりのほうにあった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

戦前に一度手放していたビール

1963年の参入は、同社にとって初めてのビール事業ではなかった。1934年、寿屋は麦酒部を東京麦酒株式会社として分離している。当時のビール業界は整理と統合が進んだあとで、1939年時点の内地のビール会社は大日本麦酒・麒麟麦酒・東京麦酒・桜麦酒の4社にまで絞られていた。寿屋の系譜を引く東京麦酒は、その一角を占めていた[1]

しかし1943年、戦時の企業整備によって東京麦酒は閉鎖される。改組から9年での消滅であり、戦前に築いた製造基盤はここで途切れた。戦後、ビール業界は大日本麦酒が日本麦酒と朝日麦酒に分割され、麒麟を加えた3社が市場を三分する形になっている。1963年のサントリーは、その3社が固めた市場へ20年ぶりに戻った[2]

洋酒が順調だった1960年代初頭

1961年、創業者の次男である佐治敬三が社長に就任した。当時の主力は洋酒で、オールドとトリスを軸に事業は順調だった。参入の動機を、佐治は市場機会ではなく社内の状態に置いている。自伝『へんこつなんこつ』ではこう述べた。「ウイスキー事業は、オールド、トリスを基軸に順風に恵まれていた。しかし、このままでは会社の将来が不安だ。社内の空気をピンと緊張させるためにも、ひそかに暖めてきた最難関のビール事業に敢えて挑戦しようと決意した」[3][4]

決断

10倍の相手がいる市場へ、300億円の会社が出る

1963年4月、サントリーはビール事業に参入して「サントリービール」を発売し、同じ年に社名を寿屋からサントリー株式会社へ改めた。当時の売上高は約300億円で、大手ビール3社の売上高合計はその10倍近くある。鳥井信宏はのちに、この参入を「そんな巨大市場に小さな会社が突撃していった」と表現し、創業者鳥井信治郎の「やってみなはれ」がそこに表れていると述べている。市場規模だけを見れば、シェアを取れる見込みの薄い参入であった[5][6]

参入時の目標は「5年間に1割のシェア確保」だった。佐治は1977年の取材でこの数字を振り返り、大阪や東京の雑踏で10人のうち1人がいつどんな場所でもサントリービールを飲んでくれなければシェア1割にならない、と述べている。「1割という数字はゴッツイ数字やと思うたですなあ」というのが当時の実感であった[7]

品切れから始まった悪循環

失敗は需要不足ではなく供給の失敗として起きた。前評判が効きすぎて発売直後に品切れを起こし、消費者が酒屋へ行っても商品がない。その結果「サントリーは宣伝だけで肝心のビールがない」という評判が立ち、営業担当者は土日を返上して酒屋を回っても返品のほうが多いという状態に置かれた。製造担当者はのちにこれを「デビルズサイクル」と呼んでいる。ビールは鮮度が命であり、店頭で売れ残ると劣化して味が落ち、ますます売れなくなる[8][9]

結果

46年目の黒字まで

ビール事業はその後40年以上、一度も黒字にならなかった。2005年度の売上高は2078億円で、2桁台の営業赤字を出している。同じ年のアサヒビールはビール事業だけで売上高9195億円・営業利益700億円超であり、規模の差は開いたままだった。装置産業であるビールメーカーは工場稼働率を保つために数量を確保する必要があり、上位2社が年間1000億円近い広告販促費を投じる市場で、同じ土俵に立ち続けるには相応の資金が要る[10]

転機は高価格帯にあった。2003年発売の「ザ・プレミアム・モルツ」に資源を集中し、主力の「モルツ」を犠牲にしてでもマーケティングを寄せる。2005年にはプレミアム戦略部を設け、鳥井信宏が指揮を執った。プレミアム価格帯の商品は値引きも販促費も要らず、飲食店向けの生ビールを従来品から置き換えるだけで採算が改善する。2008年、ビール事業は参入46年目にして初の黒字となり、シェアも業界3位に上がった[11]

出典・参考
  • 東洋経済 2006年12月9日号「プレミアムモルツに懸けるビール事業の赤字に終止符? サントリー、44年目の悲願」
  • 日経ビジネス 1977年3月14日号「ニーズの先取りなどできまへん 佐治敬三氏(サントリー社長)が語る“追い討ち”のマーケティング」
  • 東洋経済 2023年5月27日号「サントリー創業家が抱く『酒類日本一』の野望」
  • 東洋経済 2014年7月4日号「巻頭特集 名門はプロ社長に頼った サントリー 創業116年目の決断」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史「14_醸造 概説」

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