三菱鉱業セメント石炭に代わる事業としてのセメント選定と、三菱系各社共同出資による三菱セメントの設立

直営か、別会社か——石炭不況下の資金と労務が、参入の形をどう決めたか

時期 1953年8月
意思決定者(推定) 高木作太(社長)・取締役会
論点 石炭に代わる事業の選定と、参入形態の決定
概要
1953年8月、三菱鉱業がセメント事業への進出を会社方針として正式に決め、直営ではなく三菱系各社の共同出資による別会社で参入する形を選んだ経営判断。翌1954年2月1日に資本金6億円の三菱セメントが設立され、初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治氏が現職のまま就いた。
背景
過度経済力集中排除法により1950年4月に石炭部門と金属部門へ分割され、収益を支えてきた金属を失った。朝鮮戦争の特需による石炭ブームも反動不況と重油転換で終わり、1953年7月には4,000人におよぶ人員整理を提案するところまで追い込まれていた。
内容
1952年2月設置の調査部が肥料・海運・ガス・コークス・セメントを比較し、グループ各社と競合せず保有技術を応用でき、石炭の安定需要先にもなるセメントを選んだ。工場建設に要する10数億円の調達難、炭労傘下の組合、旭硝子との関係から、共同出資の別会社方式を採った。
含意
出資比率は三菱鉱業が51.8%、明治生命が10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%を占めた。社名に「三菱」を冠することには岩崎家が難色を示し、社長会の金曜会の協議で承認された。技術はデンマークのF・L・スミス社から湿式ロングキルンを導入した。
筆者の見解

石炭の窮迫を、新事業へ持ち込まないために

工場建設に要する10数億円は、同じ年に4,000人の人員整理を提案していた三菱鉱業が自力で背負える額ではなかった。セメントを選んだこと以上に、それを自社の一部門にしなかったことが、この決定で効いた点である。三菱系各社に出資を求めれば資金と危険は分かれ、炭労傘下の組合を新事業へ持ち込まずに済み、自らセメント進出を計画していた旭硝子とも衝突しない。石炭の窮迫がそのまま新事業の重荷になる経路を、会社の外へ出すことで断った選択であったとみることができる。

ただ、外へ出したことで手放したものもある。三菱鉱業に残ったのは石炭であり、セメントは51.8%を持つ出資先として社外に置かれた。石田三朝氏が役員会で唱えた慎重論——新規の設備投資で既存の大手と競えるのか——は、この時点で消えたわけではない。社名に「三菱」を冠せるかどうかが金曜会の協議にまで持ち込まれた事実も、この会社が単独では立てなかったことを示している。石炭に代わる事業を、三菱鉱業は自社の外に置くところから始めた。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

収益を支えていた金属部門の喪失

三菱鉱業が過度経済力集中排除法の第1次指定を受けたのは1948年2月で、当時の同社は資本金4億740万円、年間売上高44億1,916万円、従業員6万9,672人を擁していた。石炭の生産は全国比11.8%で第2位、錫は91.9%を占めた。会社は1社のまま存続することを求めて聴聞会でも争ったが、1949年8月28日に石炭と金属の2社へ分割する決定指令を受け、1950年4月、石炭部門の三菱鉱業と金属部門の太平鉱業に分かれた[1][2][3]

分割で切り離されたのは、収益を支えてきた側であった。大槻文平氏は、石炭は10年ごとに起こる戦争で一儲けはしても長続きせず、経営はむしろ金属によって支えられていたと回想している。分離時の職員6,825人のうち1,650人が太平鉱業へ移り、残る三菱鉱業は石炭だけの会社になった。朝鮮戦争の特需で石炭ブームを味わったものの、反動不況と高炭価問題がすぐに続いた[4][5]

調査部が並べた5つの候補

1952年1月4日、本店の年始交歓会の席上で高木作太社長が調査・企画部門の新設を提唱し、2月1日に調査部が置かれた。石炭に代わる事業を探すための部署である。石炭の側の事情は年を追って厳しくなり、1953年7月には4,000人におよぶ人員整理を提案せざるをえないところまで来ていた。九州地区でこの整理を担当した大槻文平氏は、独身者だけでは足らず家族持ちも対象にしたと書き残している[6][7]

調査部は肥料、海運、ガス、コークス、セメントを並べて優劣を検討し、セメントが最も有望との結論に達した。挙げられた理由は4つある。三菱グループ各社と競合しないこと、保有する技術を応用できること、将来の需要増が見込めること、そして石炭の安定した需要先になること。石炭を焚いてセメントを焼く以上、本業の販売先を自ら抱えられる。ほかの候補にこの条件はそろわなかった[8]

決断

役員会で出た反対論

役員会の意見は一つではなかった。大槻文平氏と同時に取締役となった石田三朝氏は、日本セメントに勤める親戚が日ごろからセメント事業は決して有望ではないと語っていたと述べ、慎重論を強く唱えた。需要が伸びるとしても、参入にはまったく新規の設備投資が要り、日本セメントや小野田セメントといった既存の大手と競うことになる。太刀打ちできるかどうかへの不安には根拠があった[9]

それでも会社は進んだ。大槻文平氏は回想録に「石炭だけで食える見通しがない以上、セメントに賭けるしかなく」と書き、役員会は最終的に進出を承認した。1953年8月10日、三菱鉱業はセメント事業計画を進めるため企画部を新設し、調査部を廃止した。企画部長には調査部長の山中正夫氏が就き、調査部員は全員が企画部へ移った。検討する組織が、実行する組織に置き換わった[10][11]

直営か、別会社か

もう一つの論点は、参入の形態にあった。セメントを三菱鉱業の一事業部門として直営するか、別会社に切り出すか。企画部の比較検討は別会社方式を選んだ。工場建設に当面10数億円を要するのに対し、石炭不況下の三菱鉱業には独力での調達が難しく、新会社なら資金の道が開けて危険も分散できる。自社の一部門にすれば炭労傘下の組合が生まれ、新しい労務管理を持ち込みにくくなる[12]

三つ目の理由は立地に関わる。黒崎で操業すれば三菱化成工業や旭硝子と密接な関係が生じ、しかも旭硝子は自らセメント進出の計画を持っていた。三菱系各社の協力を得るには共同出資の新会社が好都合と判断された。高木作太社長と小堀音治副社長は三菱銀行、三菱信託銀行、明治生命などを回って計画を説明し、賛同を得る。1953年11月には、日産500トンのキルン2基で年産34万トンという事業計画書がまとまった[13][14]

結果

「三菱」の社名と資本金6億円

社名は、別会社方式そのものの成否に関わる論点になった。岩崎家は「三菱」を冠することに難色を示したが、企画部は販売のうえで「三菱」が要ると強く進言し、首脳部も三菱電機・三菱地所・三菱銀行のトップに、社名の可否が新会社の興廃を分けると説いた。三菱系各社の出資協力で設立される会社であることを理由に、社長会の金曜会が冠称を承認した。共同出資という形を選んだ以上、名前もまた各社の合意事項になっていた[15][16]

資本金は当初3億円で計画されたが、三菱銀行の宇佐美営業部長の助言と全体の資金計画から6億円に決まった。出資は三菱鉱業が51.8%、明治生命が10%、三菱化成工業と旭硝子が各8%を引き受けた。1954年1月19日の発起人会と第1回取締役会を経て、2月1日に設立登記が完了する。初代社長には三菱鉱業副社長の小堀音治氏が現職のまま就き、常務には山中氏と井上幸一氏が就いた[17][18]

建設地の変更と技術の選択

工場用地は、当初予定した日本アルミニウムの黒崎工場跡地から、洞海湾埋立地C部へ変わった。跡地は三菱化成からの賃借地で、返還時はさら地とする契約があり、同社は拡張用地に充てるつもりでダストの飛来も嫌った。C部は道路も鉄道も港湾も白紙で、既存の設備をそのまま使える跡地より条件は劣る。それでも企画部が地盤と工期・工事費を調べたうえで、首脳部は共同出資者との関係を優先し、変更に踏み切った[19]

技術でも既存の常識から外れた。当時の業界は廃熱ボイラー付ショートキルンが支配していたが、山中部長は、既存の会社に伍するには最新技術の導入が欠かせないとみて、レポールキルンを検討したのちデンマークのF・L・スミス社の湿式ロングキルンへ切り替えた。三菱セメントは総数約30人で発足し、三菱鉱業企画部の職員は全員が同社へ休職派遣された。大槻文平氏は後年、同社が日本セメント、小野田セメントと並ぶ大手に成長したと記している[20][21][22]

出典・参考
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 セメント部門へ進出
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第7章 企業整備に追われる
  • 私の三菱昭和史(大槻文平編著、東洋経済新報社、1987年)第3章 戦後の混乱の中で 大企業の分割相つぐ/二社分割後、私は取締役に
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3編第5章第1節 三菱セメントの設立
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第3章 戦後混乱期 第1節 占領政策と三菱鉱業の再建
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント、1976年)第4章 戦後の三菱鉱業における経営管理 第2節 戦後の職員人事管理

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