創業者の諸井恒平氏は1862年5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町[1]に生まれた。諸井家は繭と蚕糸を商う旧家だったが、父の代に4度の火災に遭い[2]、15歳で父を失った[3]恒平氏が傾いた家業を継いだ。母の佐久は渋沢栄一氏の従姉弟[4]にあたり、22歳年上の渋沢氏は恒平氏を早くから引き立てた。恒平氏が実業界に入ったのは26歳のとき、1887年秋に設立された日本煉瓦製造へ書記として入社した[5]ときである。同社は官庁街を欧米風の建築で整えるという政府の要請を受け、渋沢氏と益田孝氏ら財界人が設立した[6]ものだった。恒平氏は書記から支配人、取締役、専務、会長を歴任[7]し、建設基礎資材の製造を生涯の足場とした。
セメントへ向かう最初の示唆は1907年9月[8]に与えられた。欧米から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六氏を主賓として渋沢栄一氏が王子の自邸で晩餐会を催し、席上で本多氏は水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧である[9]と断定した。本多氏は欧米ではすでに赤煉瓦の時代が去って鉄筋コンクリートの時代を迎え、徳利窯も効率の高い回転窯に替わっている[10]と述べ、秩父地方に武甲山の石灰石と良質の粘土が賦存する[11]点を指摘した。当時は煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦製造も好況にあり[12]、諸井恒平氏はただちに動かなかった。秩父の交通が整うのを待つ必要もあった。1899年に創立された上武鉄道が秩父まで通じたのは1914年[13]、全線電化は1922年初[14]のことである。
起業構想が最初に形をとったのは1919年2月の武蔵電化の設立[15]である。武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者とし、影森村に工場を置いて武甲山の石灰石から炭酸カルシウムや石灰窒素を生産する計画[16]だったが、具現化しないまま1920年12月に解散した[17]。構想は次に製材業との併営へ、さらにセメント製造の専営へと転じ[18]、最後は日本煉瓦製造を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった。1920年3月30日には設立が本決まりとなり[19]定款も発起人も決まっていたが、同年4月17日の創立委員会で財界の混乱を理由に見合わせ[20]となった。それでも諸井恒平氏の決意は固まり、以後2年半にわたって原石山の調査、機械設備の選定、原価計算、需要分布の検討[21]が続けられた。
起業の可否は1922年8月3日[22]に決した。この日、83歳の渋沢栄一氏をはじめ和田豊治氏、小倉常吉氏[23]らが上野から汽車と人力車を乗り継いで工場予定地に立ち、桑畑に覆われた敷地と粘土山の麓を視察した。諸井恒平氏は後年、会社が生まれたのは1923年1月30日だが『懐姙致しましたのが11年の8月3日』[引用元](庶務課彙報 1939/8/15)[24]と述べている。翌月14日には首唱者会議と呼ばれる第1回会合[25]が開かれ、大橋新太郎氏、根津嘉一郎氏ら12人[26]が集まった。10月3日の第2回会合では発起人と賛成人が40余人に達し[27]、社名は『東京セメント』と『秩父セメント』の両案から後者が採られた[28]。公称資本金は500万円と決まり、当面は半額程度の払込みにとどめて残りは借入金で賄う[29]こととした。
後発として参入する以上、勝算は数字で説明されなければならなかった。第1回会合で諸井恒平氏が示した計画書によれば、当時の全国生産1,000万樽のうち九州方面が4割5分を占める[30]のに対し、第1位の消費地である東京はわずか1割5分7厘にすぎず[31]、不足分を九州や大阪から移入するため運賃が1樽1円以上かかり、東京の相場は他地方より常に1円高かった[32]。武甲山の石灰石は品質に定評があり、山麓には全国無比とされる粘土山が連なる[33]。原料山に近接して鉄道本線沿いに工場を建てられるため、生産費は1樽3円7〜80銭と全国最低の4円を下回り[34]、年産70万樽の建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で既設会社の平均6〜7円の半額[35]で済む。この見積りが出資者を動かした。
創立総会は1923年1月30日、東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部[36]で開かれた。株式引受人は100人、総株数10万株、資本金500万円に対し払込資本金は125万円[37]だった。社長には諸井恒平氏、常務取締役には大友幸助氏[38]が就いた。大友氏は東京帝国大学理科大学化学科を卒業して東京高等工業学校教授を務めたのち東京毛織物に移り、1922年12月に同社取締役[39]となっていた技術者である。相談役の和田豊治氏は富士瓦斯紡績社長として繊維業界の重鎮[40]であり、大正9年の起業企画以来つねに主導的な立場にあった。設立から半年後の1923年9月1日、関東大震災が本社事務所を襲う[41]。日本橋区の日本煉瓦製造3階に置かれた事務所は夕刻には火が入り、半年をかけた設計図面のほとんどが灰になった[42]。
工事が頓挫せずに済んだのは、図面の一部を松井清足建築事務所に建築資料として送っていた[43]ためだった。同事務所は第一相互ビルディング4階[44]にあって火災に襲われながら類焼を免れ、図面は無事に残った。本社は日本工業倶楽部へ移り、設計部門は建設現場に近い長瀞の養浩亭[45]に置かれた。当時のセメント工場は海運の便を立地条件に取り入れて臨海部に建てるのが定型[46]であり、関東の奥地とみられていた秩父に大工場を構える構想には、同業から好意的な忠言も悪意的な批判も寄せられた[47]。それでも東京市場とその周辺の潜在需要を見込んだ内陸立地の判断は変えず、地元との用地折衝が妥結した1923年11月[48]を経て、12月5日に地鎮祭が行われた[49]。
主要機械は予算超過を承知で外国一流製品に統一する方針[50]が採られ、原料・焼成・仕上の3部門はいずれも米国アリス・チャーマーズ社の製品で揃えられた[51]。工場の基本設計は同社から浅野セメントへ嘱託として来日していたバンザント技師[52]が担当し、直線配列法による配置は増設条件まで織り込んだものとして関係者の評価を得た。第1号回転窯が試運転に入ったのは1925年6月18日[53]、製品が初出荷されたのは同年8月3日[54]である。会社の設立を決めた日と同じ日付が選ばれ、以後『八三記念日』として営業開始の記念日[55]になった。月末までの出荷は樽詰と袋詰を合わせて556トン[56]だった。同年11月には輸入紙袋での試験出荷を経て国産紙袋の使用に踏み切り、業界の記録ではこれがわが国のセメント容器としての紙袋使用の嚆矢[57]とされる。
諸井恒平氏が工場と同時に建てたのが有恒園[58]である。社宅の東寮が1924年10月に完成[59]し、食堂・浴場・物品供給所などが翌年中に整った。工場建設と機械据付けに資金を集中すべき時期に厚生施設まで建てるのは時期尚早だという役員の批判もあったが、押し切られた[60]。有恒の名は孟子の『無恒産者無恒心』[61]から採られ、一定の生業による収入がなければ心は定まらないという考えによる。1926年5月には各営業期の従業員所得総額に対し、株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てる有恒積立金制度が発足[62]した。この期、すなわち1925年12月から1926年5月までの第7期の売上高は156万7,036円[63]、経常利益は18万9,606円となり、創業以来初の年1割の配当を実現した[64]。
秩父セメントがセメント聯合会に入ったのは1926年9月1日[65]である。営業開始の前後から理事者による勧誘が繰り返されたが、創業早々で経営基盤も固まっていないことを理由に断り続け[66]、営業開始から1年を経てようやく手続きを取った。それも無条件ではない。入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格に関する諸協定の拘束を受けないこと、第2次拡張計画を容認すること[67]の2条件を付し、1年経過後もさらに制限免除の延長を話し合うという了解事項を添えた。他社が脱会した場合には自社の脱会を無条件で認めよという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするという反対を受けて撤回[68]した。1927年8月には了解事項に基づいて免除の延長を申し入れ、紛糾の末に制限率を半減して適用する条件で妥結[69]した。
距離の取り方が最も鋭く出たのが原石山紛争である。武甲山北麓の生川地区をめぐる石灰石採掘の土地使用権の争奪[70]で、1927年10月に秩父セメントはまず敗れた[71]。1年余の小康を経て1929年、相手会社が工場建設の着手をほのめかして紛争は再燃[72]する。地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立し、石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告にまで至った[73]。諸井貫一氏は後年、この争いを『秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていった』[引用元](日本経済新聞 1960/5)[74]と回想している。当時の井上蔵相からも人を介して自制を促され[75]、聯合会への調停一任も満足のいく方向にならず、1929年末から1年間は聯合会への加入を留保[76]した。
決着をつけたのは渋沢栄一氏[77]だった。業界の混乱を憂慮した渋沢氏の斡旋で、紛争当事者が和解協定書に調印したのは1930年10月[78]である。和解条件により、以後15年間は相手会社が横瀬地区に工場を建設しないことが双方で確認[79]された。ここでも諸井恒平氏は自主独立の線を固守して譲らず、恩義のある先輩知友の仲介に心ならずも従わないこともあった[80]。父の頑なさに手を焼いた諸井貫一氏は、渋沢氏の女婿である阪谷芳郎氏に呼ばれ、2〜3時間かけて経緯を説明した[81]うえで『たとえ自分に理があっても、ほどほどにしなければならない場合もある』[引用元](日本経済新聞 1960/5)[82]と諭されている。翌月、秩父セメントは聯合会に再入会[83]した。
販売の設計も同業とは違う道を選んだ。当時の業界では小野田セメントが三井物産を、磐城セメントが三菱商事をそれぞれ総代理店として全国一手販売制[84]を採り、その他の各社もおおむね大手問屋に地域ごとの販売を委ねていた。大手問屋は資力を背景に需要の媒介、信用の供与、情報の収集を担い[85]、傘下に二次店や小売店を抱えていたが、販売実績を積むほどメーカーへの発言力を強め、メーカーの販売方針の徹底を妨げる[86]ことも少なくなかった。秩父セメントは大手問屋制を採らず、流通機構の末端に近い中小販売店と直接取引する方法を打ち出した[87]。販売店の分布密度が高くなることから一駅一店主義とも呼ばれ[88]、手間はかかったが、先発会社が固めた流通機構に食い込む手段として働いた。
残る2本は現金取引主義と直売主義[89]である。前者は販売店との取引を前金または荷為替を原則とし、事情が判明するにつれて1か月分の取引高に相当する担保か保証を差し入れさせ[90]、その範囲内で取引するものだった。諸井恒平氏は営業部長の深谷辰次郎氏に、三井高利が延宝年間に越後屋を開いたとき盆暮決済の商慣行を破って現金取引を掲げた故知にならった[91]のだと語っている。後者は官公庁や大手請負業者などの大口引合を直接受ける方針で、当時も直売を行う同業はあったが、これほど重点を置いた会社はなかった[92]。三原則は営業開始後2年ほどの販売経験を経て諸井貫一支配人によって体系づけられ[93]、1927年7月に発足した出張員制度[94]がその運用を担った。
この方針は昭和初期の乱売期に効いた。1929年から1930年は業界史に残る乱売が行われた時期で、とくに1930年前半は破壊的な様相[95]を呈した。秩父セメントは『造るよりまず売る』を掲げ、有利な注文を充たす程度に生産を任意制限[96]し、採算を無視した投げ売りを避けた。諸井貫一氏は当時の父の態度を、一時しのぎで出血覚悟の入札をしなければならないと言うと『初めから赤字とわかっている入札は背任だ』[引用元](日本経済新聞 1960/5)[97]といってどんなに在庫があっても許さなかった、と書き残している。金融が逼迫して金策を大手問屋に頼る同業が現れ、問屋が換金を急いで売り急いだことが市価の低落に拍車をかけた[98]なかで、中小販売店と直接結ぶ体制は赤字乱売の影響を最小限にとどめた[99]。
不況下でも設備は増やした。1927年に決めた第2次増設計画は回転窯3基を軸とするもので、途中で消極案に傾いた時期もあったが、不況期こそ増設の好機だという判断で当初予算を上回る積極案に決まった[100]。所要資金は未払込株金の徴収によらず、1927年11月に第二秩父セメントを設立して調達[101]し、翌1928年3月にこれを合併して資本金を1,200万円、株主を451人から800人に増やした[102]。1929年10月に第3・4号回転窯、1930年2月に第5号回転窯が完成[103]し、月産能力は4万トンを超えた。生産能力は一挙に4倍を超えたが、投下資本は2倍に達せず、従業員の増加は20%[104]にとどまった。1934年6月に完成した第3次増設で回転窯は6基、月産能力は7万トン[105]となった。
増設と並行して製品を分けた。早強セメントは第2次増設でデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを組み込んだときからの念願[106]で、1931年5月に試製へ着手し、1933年2月に『秩父高級セメント』の名で市場に出た[107]。売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使われ[108]、新製品の評価を高めた。1935年6月に発売した『秩父硅酸セメント』[109]は、セメントの水和で生じる水酸化石灰とシリカ分が結びつくポゾラニック作用を利用したもので、長期強度が大きく水密性に富み、水和熱が低い[110]。1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館は皇居の内堀を隔てた立地で水の浸透が懸念された[111]が、30数年を経ても浸透はみられなかった。
1934年の第3次計画完了を境に、増設から多角化へ方針を切り替えた[112]。1936年8月に本社へスレート部を置いて波形スレートの製造を始め[113]、発足から1年数か月後には抄造機6台・従業員185人、月10万枚を超える生産[114]に達した。1939年8月には石綿パイプ工場が完成し『チチブパイプ』の名で出荷[115]を始めた。1937年6月には定款の事業目的を『各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負』[引用元]と改め[116]、同時に会長制を新設して諸井恒平氏が会長、大友幸助氏が社長、諸井貫一氏が常務に就いた[117]。恒平氏はこの年75歳[118]で、健康を害して重役会を欠くことも多かった。1938年10月からは日本製鉄との共同で回転窯を用いたバッセー法製銑の試験[119]も引き受けた。
製銑試験は採算に乗らなかった。1938年10月から1941年3月までに11回行われ、出銑高はなまこ銑と屑銑を合わせて963トン[120]、生産原価が最も安かった回でも銑鉄1トンあたり370円で、当時の公定価格1トン90円との開き[121]は埋まらなかった。それでも試験を続けたのは、遊休設備の活用による銑鉄増産に対する政府の要請が強硬[122]だったためである。統制はさらに進む。1940年2月に商工省の半ば命令的な慫慂でセメント共販が設立され[123]、製造業者は自家用分を除くほぼ全量を共販会社に売り渡す義務を負った[124]。1943年には共販会社の直売制に改められ[125]、セメント各社は流通面から全面的に撤退して、自由経済時代に築いた販売店網を失った。1937年度に39万2,000トンだった生産高は、1945年度には8万5,000トン[126]まで落ちた。
1946年4月、秩父工場は予告なしに2度の進駐軍ジープの来訪[127]を受けた。数日後、横浜の米第八軍司令部に呼ばれ、米連邦規格によるI型セメント3万トンを同年5月20日から出荷し可及的すみやかに米空軍横田基地へ納入せよ[128]という指令書を受領する。当時の工場は回転窯2基をかろうじて動かす状態で、クリンカーの生産は月1万から1万5,000トンが限界[129]とみられていた。I型セメントには高カロリーの石炭が要る[130]。それでも大友幸助社長は、指令書の履行に責任を負う以上その履行に必要な条件の供与を相手方に要求するのは当然であり、認められれば積極的に引き受けるべきだ[131]という立場を崩さなかった。
米第八軍に申し入れた条件は3つ[132]だった。平均6,000キロカロリー毎キログラム以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油と石灰石・石膏の確保、配車その他輸送条件の確保[133]である。いずれも当然のこととして容認され[134]、受注が決まった。総量3万トンの納入は1946年9月初旬に完了[135]し、その後も基地向けの受注は増えて、進駐軍特需が全出荷高に占める割合は1946年度57%、1947年度76%、1948年度27%[136]に達した。占領軍との接触に消極的な同業が多かったなかで、条件の供与を前提に受注を申し入れた態度はかえって米軍当局の好感を買った[137]。品質と納期に厳しい条件が付いた[138]ため、工場の生産体制もこれによって整備が促された。
経営陣の交代は続いた。創立者の諸井恒平氏は1941年2月13日に78歳9か月で逝去[139]し、日本煉瓦製造・秩父鉄道との3社合同葬[140]が営まれた。戦後の再建を主宰した大友幸助氏も1948年4月9日、不慮の事故で急逝[141]する。同年6月15日の取締役会で諸井貫一氏が社長に就き[142]、大友恒夫氏ら4人の常務による4常務制が会社運営の基本体制[143]となった。労働組合は1946年5月1日の復活メーデーの日に工場と本社でそれぞれ結成[144]され、翌6月から7月にかけて労働協約が結ばれた。諸井貫一氏は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務めており、その後の秩父セメントで労使紛争が起きたことはない[145]。
1949年上期、戦後の復旧がようやく回転窯3基の運転にこぎつけた段階[146]で、次の設備をどうするかが常務会に諮られた。当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶しかなく、実質3基分の容量を共通煙道の操作でやりくりしていた[147]。これ以上の増産には新設に等しい大改造[148]が要る。大改造か新工場建設かで議論は割れ、最後は山内常務が提案した新工場建設案に4常務が賛成して結論は出たものとみられた[149]。ところが翌日、諸井貫一社長が前日の結論への反対を唱えた[150]。骨は折れても大改造を先にやるべきで、新工場は後回しにすべき[151]だという主張である。
社長の理屈は明快だった。ここで新工場に取りかかれば旧工場の再建整備の機会は永久に失われる[152]。いま若返り整備を講じれば生産能力は明らかに倍増し[153]、そのうえで新工場にかかれば資金的にも技術的にも十分な準備をもって当たれる。大友恒夫氏は後年これを『重大なデシジョンの瞬間』[引用元](社報特集号 1968/6)[154]と題して書き残している。工事は第8期にあたる第1・2号ボイラの解体新設が核心だったことから、社内では⑧工事と呼ばれた[155]。1950年6月の朝鮮動乱を機に同業各社が回転窯の増設に走るなかで、秩父セメントは既定方針を守って改造を続けた[156]。所要資金は多額に上ったが、若返り効果が途中から現れ、すべてを社内に留保した利益でまかなったうえ多額の償却も進めた[157]。
結果は数字に出た。工事の主目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と、第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラの取付け[158]が行われた。採用したスミス社のフォーラックスクーラはわが国で初めて使われ、急冷性と熱回収性で焼成能率を高めた[159]。1952年秋には回転窯5基の並列運転が実現[160]し、1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げて月産能力7万トンの国内最大工場となった[161]。回転窯の新設を伴わないため生産高の伸びは同業他社をやや下回ったが、1950年から1954年の生産高は年平均約23%増え、1954年度には70万トンを超えた[162]。工事の完工は1955年上期[163]である。
新工場の意図が公にされたのは1953年5月9日、創立30周年記念式典の式辞[164]である。1954年11月に起工した秩父第二工場では、東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授を委員に加えた第二工場建設委員会が設けられ、最終回までに53回[165]を数えた。敷地は28万500平方メートルと従来のセメント工場の常識を破る広さ[166]で、レイアウトは回転窯4基以上の備付けを前提に決められた[167]。主要機械と基本設計はデンマークのエフ・エル・スミス社に一括して依頼[168]した。1956年4月から5月にかけて第1・2号回転窯が火入れされ[169]、直径3.75メートル・長さ170メートルの湿式ロングキルンは当時のわが国で最新鋭かつ最大のもの[170]だった。谷口教授はこの工場の設計により1956年度の日本建築学会作品賞[171]を受けた。
第二工場が持ち込んだもう一つの新しさは制御である。わが国で初めてセメント工場にオートメーションを採り入れ、必要な計器類をすべてパネルに組み込むグラフィックパネル方式の中央管理を実現[172]した。勘に頼って運転していた回転窯が計器の指示で動くようになり、以後この会社は業界におけるオートメーションのペースメーカー[173]になる。1958年6月には第2期工事が完成して回転窯4基・月産能力10万トンとなり[174]、翌年からは中庸熱セメントと高炉セメントの販売も始めた。1958年11月に納入を開始した建設省二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約で、工場一次出荷における初のバラトラック大量輸送[175]でもあった。
第三の工場は消費地に寄せた。1959年10月、首都圏整備法により三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして熊谷市長が秩父第一工場を訪ね[176]、進出の意志があれば全面的に協力すると申し入れた。秩父の2工場は原料に近い代わりに輸送で制約を受けており、大消費地に近く鉄道と道路の便に恵まれた土地[177]が求められていた。1960年1月末に214人の全地主の承諾を得て41万2,500平方メートルの敷地が確定[178]し、同年11月3日に起工した[179]。1962年7月8日に第1号回転窯が火入れされ、8月3日に製品を初出荷[180]した。1961年10月25日には東京証券取引所市場第二部に株式が上場[181]された。上場当日の株価は770円[182]で、前後の変動はほとんどみられなかった。
熊谷工場では計算機による工程制御に踏み込んだ。1960年夏に米国TRW社が秩父の両工場を予備調査し導入の利点を認めたが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に入れる判断[183]が下された。コンピュータRW-300の通電式は1962年10月[184]に行われ、1963年秋に原料調合制御、1965年初にキルン制御が軌道に乗った。プロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があるだけで、湿式法では前例がなく、この導入は世界に先鞭をつけるもの[185]となった。1965年4月には自社技術陣が開発した『セメント製造工程の計算機制御方式の開発』[引用元]が第11回大河内記念生産賞[186]を受けた。1967年5月の第2期工事完成により、同社の月産能力は55万トンに達した[187]。
1968年3月、諸井貫一氏が会長に退き、大友恒夫氏が社長に就いた[188]。諸井貫一会長は同年5月21日に71歳7か月で逝去[189]する。社長在任は20年に及び[190]、この間に秩父第一工場の復興、秩父第二工場と熊谷工場の建設を完工した。大友社長が就任後まず取り上げたのは販売体制の刷新で、なかでも重点が置かれたのは生コンクリート対策[191]だった。同社の生コン事業は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業に始まるが、業界の生コン転化率がすでに13%に達していた時期であり、発足は出遅れていた[192]。1968年に積極的育成へ方針を転換すると、系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場へ増え[193]、生コン向け販売高は290万トンを超えて全販売高の51.4%を占めた[194]。1972年6月には本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムを業界に先がけて実施[195]した。
技術では焼成法に踏み込んだ。1971年5月から秩父第一工場の第7号回転窯を使い、石川島播磨重工業との共同研究[196]が始まる。目的は気流炉によるセメント焼成法の研究で、共同研究は成功し、1972年7月にSF式セメント焼成法の共同開発をもたらした[197]。この方式はサスペンションプレヒータ付きキルンに改良を加えたもので、プレヒータと回転窯の間に別個の熱源による仮焼装置を組み込み、回転窯の熱負荷を軽減して生産高を高める[198]。ほぼ時を同じくして国内で類似の新焼成法3件が開発され、これらは一括してNSP方式と呼ばれるようになった[199]。同社は新焼成法をただちに大型機へ具現することとし、1972年11月には熊谷工場第6号回転窯のSF化工事に着手[200]した。
1976年に社長となり1986年から会長を務めた諸井虔氏[201]は、社外での発言で知られた。1928年4月に東京で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行[202]し、調査役まで務めたのち1967年に秩父セメントへ移って社長秘書を務めた[203]。1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務め[204]、農業近代化を考える委員会の委員長として、コメの生産コストを5年以内に半減できないかと提言した[205]。中核農家へ農地を集約するには税制が壁になるとして、農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる仕組みを見直すよう求め、『550万ヘクタールを確保していくという現在の農地法の基本的な考え方』[引用元](日経ビジネス 1989/10/16)[206]そのものの再検討まで踏み込んだ。
一方、本業の数字は縮んでいた。会社年鑑1986年版によれば、単体売上高は1981年5月期の862億円を頂点に3年続けて減り、1984年5月期は717億円まで落ちた[207]。同期の売上構成はセメントが694億円で97%を占め、その他は22億円[208]にすぎない。同じ年鑑に載る他の5社の依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%[209]であり、秩父セメントは6社のうち最も規模が小さく、最もセメントに寄りかかっていた。1991年6月には栗原隆専務が社長に就いた[210]。1932年に東京で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して入社し[211]、1979年からは経営不振に陥った系列の敦賀セメントに社長室長として出向した経歴[212]を持つ。
1994年10月、秩父セメントは小野田セメントと合併し、秩父小野田が発足[213]した。合併後の国内シェアは24%で業界首位[214]となる。存続会社は1881年に山口県で創業した小野田セメント[215]側であり、1923年1月の創立総会から71年続いた秩父セメントの商号はここで消えた[216]。会社年鑑1986年版に載る直近期の単体売上高で見ると、小野田セメントの2,027億円に対して秩父セメントは717億円[217]で、規模はおよそ3分の1だった。同じ1994年10月には住友セメントと大阪セメントも共販を解消して合併[218]した。
この合併が業界で注目されたのは規模だけではない。
| 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1907〜1926年渋沢栄一の後押しと武甲山の石灰石を頼りに始まった諸井恒平の起業 | 渋沢栄一氏らによる工場予定地の視察と起業の決定 | ★★ | ||
| 社名を秩父セメントに決定、公称資本金は500万円 | ★ | |||
| 臨海立地の定型を破り、武甲山の麓に建てた内陸のセメント工場 1923年1月30日、諸井恒平氏を発起人総代として秩父セメントが創立された。資本金500万円、株式引受人100人。工場は海運の便を持たない秩父盆地に置かれ、当時のセメント工場立地の定型を外れていた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 関東大震災による本社事務所の焼失と設計図面の大半の喪失 | ★★ | |||
| 秩父工場の地鎮祭 | ★ | |||
| 従業員の生活と修養の場としての有恒園の発足 | ★★ | |||
| 第1号回転窯の試運転開始 | ★ | |||
| 製品の初出荷、8月3日を営業開始記念日に制定 | ★★ | |||
| わが国のセメント容器として初の紙袋使用 | ★★ | |||
| 第2号回転窯の火入れによる第1次計画の完成 | ★ | |||
| 株主配当と同率を従業員に積み立てる有恒積立金制度の発足 | ★ | |||
| 第7期に創業以来初の株主配当(年1割) | ★★ | |||
| 生産制限の適用免除を条件としたセメント聯合会への入会 | ★★ | |||
| 1926〜1940年後発の生き残り方を決めた販売三原則とセメント聯合会との距離 | 高崎・前橋への出張員配置と出張員制度の発足 | ★ | ||
| 第2次増設の資金調達を目的とする第二秩父セメントの設立 | ★ | |||
| 第二秩父セメントの合併による資本金1200万円への増加 | ★★ | |||
| 第2次増設計画による第3・4号回転窯の完成 | ★ | |||
| 第5号回転窯の完成、保有回転窯5基・月産能力4万トン超 | ★★ | |||
| 武甲山生川地区の原石山紛争の和解、渋沢栄一氏が斡旋 | ★★ | |||
| セメント容器の紙袋への統一 | ★ | |||
| 早強セメント「秩父高級セメント」の発売 | ★ | |||
| 第3次増設計画の完成、保有回転窯6基・月産能力7万トン | ★★ | |||
| シリカセメント「秩父硅酸セメント」の発売 | ★★ | |||
| 波形スレートの製造開始による経営多角化の着手 | ★★ | |||
| 会長制の新設と諸井恒平社長の会長就任、大友幸助常務の社長就任 | ★★ | |||
| 事業目的を各種セメント及セメント加工品の製造販売へ改める定款変更 | ★ | |||
| 日本製鉄との共同による回転窯を用いたバッセー法製銑の試験開始 | ★ | |||
| 石綿パイプ工場の完成と「チチブパイプ」の生産開始 | ★ | |||
| セメント共販の設立による一元配給への移行 | ★★ | |||
| 日本セメント工業組合の発足、大友幸助社長が理事長に就任 | ★ | |||
| 1940〜1958年戦時統制からの復旧と、新工場より優先された既設の若返り整備 | 創立者である諸井恒平会長の逝去 | ★★ | ||
| 軍需会社法による軍需会社への指定 | ★ | |||
| 第3号回転窯の日本軽金属への譲渡 | ★ | |||
| 米第八軍からの横田基地向けセメント3万トンの条件付き受注 | ★★ | |||
| 工場労働組合と本社従業員組合の結成 | ★ | |||
| 大友幸助社長の不慮の事故による急逝 | ★★ | |||
| 諸井貫一常務の社長就任と4常務制の発足 | ★★ | |||
| 香港向け5777トンの出荷による12年ぶりの輸出再開 | ★ | |||
| 常務会が決めた新工場建設案を翌日に覆し、既設工場の若返りを選ぶ 1949年上期、戦後復旧が回転窯3基の運転まで進んだ段階で、常務会は新工場建設案で決着した。翌日、諸井貫一社長がこれを覆し、秩父工場の若返り整備計画に着手する。核心工事の期別番号から社内では⑧工事と呼ばれた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| セメントの配給・価格統制の解除と自由販売の復活 | ★★ | |||
| 第一次資産再評価の実施、再評価差額は3億2499万円 | ★ | |||
| 回転窯5基の並列運転の実現 | ★ | |||
| 創立30周年記念式典での新工場建設の意図表明 | ★ | |||
| 秩父第二工場の建設着手 | ★ | |||
| 若返り整備工事の完工、月産能力7万トンの国内最大工場に | ★★ | |||
| 秩父第二工場の第1号回転窯火入れ、全長170mの湿式ロングキルン | ★★ | |||
| 谷口吉郎氏設計の秩父第二工場の日本建築学会作品賞受賞 | ★ | |||
| 秩父第二工場第2期工事の完成、回転窯4基・月産能力10万トン | ★★ | |||
| 二瀬ダム向け高炉セメント8万4000トンの納入開始 | ★ | |||
| 1958〜1994年計算機とSF焼成法に賭けた30年と、系列を跨いだ越境合併 | 熊谷工場の建設着手 | ★ | ||
| 東京証券取引所市場第二部への株式上場 | ★ | |||
| 熊谷工場第1号回転窯の火入れ、設備は重油専焼で設計 | ★★ | |||
| 熊谷工場へのプロセスコントロール用コンピュータの導入 | ★★ | |||
| 熊谷工場第1期工事の完成と回転窯4基の稼働 | ★ | |||
| フライアッシュセメントの生産開始によるJIS全品種の生産体制 | ★ | |||
| 計算機によるセメント製造工程制御の開発での大河内記念生産賞受賞 | ★ | |||
| 熊谷工場第2期工事の完成、月産能力55万トン | ★★ | |||
| 諸井貫一社長の会長就任と大友恒夫専務の社長就任 | ★★ | |||
| 諸井貫一会長の逝去 | ★ | |||
| 埼玉事業所と中央研究所を置く創業以来の組織大改正 | ★★ | |||
| 業界に先がけた営業オンラインシステムの実施 | ★★ | |||
| 小型テスト窯を飛ばし、実用窯で開発したSF式セメント焼成法 1971年4月、秩父セメントは石川島播磨重工業からの申し出を受けて気流炉によるセメント焼成法の共同開発研究を決めた。翌1972年7月にSF式セメント焼成法を両社で発表し、焼成能力は2〜2.5倍に上がった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 創立50周年と第100回定時株主総会 | ★ | |||
| 諸井虔取締役の社長就任 | ★★ | |||
| 諸井虔社長の会長就任と野坂和彦氏の社長就任 | ★★ | |||
| 栗原隆専務の社長就任 | ★ | |||
| 小野田セメントとの合併による秩父小野田の発足 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(秩父セメント)