太平洋セメント秩父小野田と日本セメントの合併による太平洋セメントの発足と、浅野・小野田・秩父の三系譜の統合
明治以来100年首位を競った二つの系譜を、今村一輔氏はなぜ一つの会社にまとめたか
- 概要
- 1998年10月1日、秩父小野田が日本セメントを合併し、太平洋セメントが発足した。存続会社は秩父小野田で、本社を東京都千代田区西神田に置いた。1994年に小野田セメントと秩父セメントが合併して生まれた秩父小野田に、浅野系の日本セメントが加わり、国内シェア約39%の業界首位企業となった。今村一輔会長が主導した業界再編であった。
- 背景
- セメントの国内需要は頭打ちとなり、恒常的な供給過剰が価格を押し下げていた。今村一輔氏は1985年ごろから、会社の数を減らして過剰設備を削るほかに構造問題を解けないと考えていた。国内の停滞に加え、アジア市場では欧州・メキシコの巨大資本が攻勢を強めていた。
- 内容
- 三井・第一勧銀系の秩父小野田と芙蓉系の日本セメントという、属する企業集団を異にする者同士の合併であった。銀行はほとんど関与せず、トップ同士の合意で進んだ。2000年度までに年間300億円の合理化効果を掲げ、約4000人の人員を3000人体制へ1000人減らす計画を立てた。
- 含意
- 明治以来100年にわたって首位を競ってきた日本セメントと小野田の系譜を一つにまとめ、業界を主導する巨大企業を生んだ。ただ発足初年度は赤字に沈み、末端の価格競争も収まらなかった。太平洋セメントは双龍洋灰工業などの買収で海外へ打って出て、欧米勢との競争は次の段階に入った。
100年の競争を畳むということ
この合併を、需要減退期の生き残り策という一言で片づけるのは惜しい。太平洋セメントの発足は、明治以来100年首位を競ってきた日本セメントと小野田の二つの系譜を、一つの会社の中で終わらせる決断でもあった。今村一輔氏が業界再編を思い描いたのは、バブル崩壊のはるか前の1985年である。過剰供給から一社だけでも抜け出そうと、10年以上をかけて秩父小野田、続いて日本セメントとの二段の合併を仕掛けた執念が、この統合の芯にあったとみられる。
もっとも、合併が競争を終わらせたわけではなかった。発足初年度は187億円の赤字に沈み、末端の価格競争も収まらなかった。国内を束ねてなお、太平洋セメントは双龍やグランドセメントの買収で海外へ打って出るほかなく、欧米の巨大資本との競争はむしろこれから本番を迎えるところであった。三つの系譜を一つにまとめる作業は、国内の決着であると同時に、競争の舞台を国内から世界へ移す入り口でもあったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
浅野・小野田・秩父という三つの系譜
太平洋セメントの母体となった三社は、いずれも明治から大正にかけて起こった古い会社であった。日本セメントは1883年、初代浅野総一郎氏が官営のセメント工場を借り受けて始まり、のちに渋沢栄一氏と組んで浅野系の中核へ育った。小野田セメントは1881年に山口県小野田で笠井順八氏らが設立した日本初の民間セメント会社であり、秩父セメントは1923年に埼玉で生まれた。三社は浅野・三井・第一勧銀と、それぞれ異なる企業集団に属していた[1][2]。
三社のうち小野田と秩父は、1994年10月に合併して秩父小野田となった。仕掛けたのは小野田出身の今村一輔氏で、業界再編の必要を意識したのは1985年ごろだったと後年語っている。日本セメントと小野田セメントは、明治以来100年にわたって首位を競ってきた間柄でもあった。異なる系譜を一つの会社にまとめる作業は、経営文化の違う企業をつなぐ難しさを初めから抱えていた[3]。
過剰供給という積年の課題
合併を促した最大の要因は、セメント需要の頭打ちと恒常的な供給過剰であった。今村一輔氏によれば、国内生産量は最盛期の年間8600万トンから6900万トンへ落ち込み、過剰能力を抱えたまま価格が下がり続けていた。会社の数を減らして過剰設備を削るほかに、この構造から抜け出す道はないというのが、氏の一貫した認識であった。秩父セメントの諸井虔氏とも、その点で早くから考えが一致していた[4]。
国内の停滞と並んで、アジア市場での競争激化も差し迫っていた。世界のセメント生産は年間14億トンに達し、中国を除く9億トンをフランスのラファージュ、スイスのホルダーバンク、メキシコのセメックスといった巨大資本が争っていた。上位3社だけで約4億トンを押さえ、アジア各国へも進出を強めていた。国内の需要減退とアジアの競争激化を見込んだことが、合併の決断そのものにつながっていた[5][6]。
決断
異グループ同士の合併
1998年10月1日、秩父小野田は日本セメントを合併し、太平洋セメントが発足した。存続会社は秩父小野田で、本社を東京都千代田区西神田に置いた。三井・第一勧銀系の秩父小野田と芙蓉系の日本セメントという、属する企業集団を異にする者同士の結びつきであり、それぞれのグループ銀行はこの合併にほとんど関与しなかった。事は両社トップの合意によって進み、新会社は特定のグループに深入りも縁切りもしない等距離の構えを取った[7][8]。
今村一輔氏は、この統合を「以前の大蔵省と通産省が合併したようなもの」と振り返っている。浅野財閥の中核として整った体制を築いた日本セメントと、武士が興したと評される小野田とでは、社員の育て方から社風まで大きく異なっていた。それでも文化の違う二社を一気に一社へまとめられた背景には、今村氏と諸井虔氏、そして日本セメントの木村道夫氏という当事者同士の長い信頼があった。合併の最終決定は、電話で10分ほどのうちに固まったという[9][10]。
合併効果の青写真
一社化のねらいは、過剰設備を束ねて業界を主導する存在を作ることにあった。今村一輔氏は、構造改革は一つの大きな会社が全体を引っ張る形でなければ進まないと考えていた。合併によって太平洋セメントの国内シェアは約39%に達し、突出した首位企業が生まれた。持株会社の制度がまだ整わない時期に、経営文化の異なる二社を一挙に統合したところに、この判断の思い切りがあった[11][12]。
発足と同時に、合理化の数値目標も掲げられた。2000年度までの2年半で年間300億円の合理化効果を実現し、そのうち生産と物流の効率化で150億円を削る。あわせて約4000人の人員を、定年退職と新規採用の抑制によって3000人体制へと1000人減らす計画であった。合併効果を早く出すことが、発足直後の太平洋セメントに課された至上命題であった[13]。
結果
首位企業の船出とアジアへの攻勢
合併の効果は、すぐには数字に表れなかった。発足を含む1999年3月期の連結売上高は6097億円へ伸びた一方、6か月分の合算に統合の負担が重なり、経常損益は15億円の赤字、最終損益は187億円の赤字に沈んだ。国内需要の減退と末端の価格競争は簡単には収まらず、掲げた合理化効果をいかに早く発現させるかが、新会社の当面の課題として残った[14][15]。
国内首位を足場に、太平洋セメントはアジアへ攻勢を強めた。2000年9月には韓国最大手の双龍洋灰工業へ350億円を出資して資本参加し、フィリピンのグランドセメントも買収した。国内販売量2800万トンに対し、海外の販売量は一気に倍増する見込みとなった。木村道夫社長は国内と海外の販売比率を五分五分にする構想を描いており、欧米勢との競争は次の段階に入った[16][17]。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 週刊東洋経済 1998年11月28日号「富士銀・芙蓉グループの危機 太平洋セメント 芙蓉には深入りせず縁切りもない合併は自らの判断で決断」
- 週刊東洋経済 2000年10月7日号「激突 日韓大連合で欧米勢を迎撃 アジアでの勝ち残り狙い太平洋セメントがM&A加速」
- 日経ビジネス 2001年5月7日号「編集長インタビュー 今村一輔 太平洋セメント会長 今の企業再編は落第生の『2次試験』」
- 太平洋セメント 有価証券報告書【沿革】
- 太平洋セメント 会社年鑑(連結業績)